第63話 オルティアは、知らない花を見つける
ヴェルシアナから届いた手紙を、オルティアは二度読んだ。
一度目は、書かれている内容そのものを確認するために。二度目は、最後の数行を自分が読み違えていないことを確かめるためだった。
『先日の地下施設については、まだ調査が続いておりますので、確かなことをお話しできるようになるまでもう少しかかりそうです。それとは別に、母が小さなお茶会を開くことになりました。リュネア様とエステル様にもお声をかけておりますので、ご都合がよろしければぜひいらしてください』
そこまでは、ごく普通の招待だった。
問題は、その後である。
『ヴァレンティス家のご兄弟もいらっしゃる予定です』
オルティアは手紙を膝の上へ下ろした。
脳裏へ浮かんだのは、赤茶色の髪をした騒がしい兄ではない。
淡い色の髪と、静かな青い瞳を持つ弟の方だった。
仕立て屋で偶然会った時のルシアンを思い出す。
『アルセリード嬢は、女性には警戒が薄いのでしょうか』
あの質問をされた時、オルティアはかなり正直に答えた。
ヴェルシアナは女性には甘い。
ご令嬢相手になると、本人に自覚のないまま距離が近くなることがある。
時には髪へ触れたり、袖を取ったり、こちらの心臓がどうなるのかなど少しも考えずに、ごく自然な顔で人を勘違いさせるようなことまでしてくる。
そのどれも、自分が実際に体験してきたことだったので、嘘を言ったつもりはない。
ただ、話を聞いたルシアンが「ならば女性らしく見えれば、警戒されにくくなるのではないか」と考え始めた時には、さすがに違うと思った。
だからきちんと止めた。
女性らしくすればいいという単純な話ではない。
ヴェルシアナが誰かへ近づくのは、その人自身を知り、信頼を重ねた結果でもある。
本人が嫌いなものを無理に選び、誰かへ合わせることをヴェルシアナが喜ぶとも思えない。
そのうえで、ルシアン自身に似合うものを選べばよいと伝えた。
自分としては、かなり慎重に軌道を戻したつもりである。
「……大丈夫でしょうね」
誰に聞かせるでもなく呟き、オルティアは手紙を丁寧に畳んだ。
別にルシアンがどのような服を選ぼうと構わない。似合うものを着ること自体は良いことであるし、自分から何かを選ぼうとしているのなら、それを否定する理由もない。
ただ、自分が何気なく渡した一言がどの程度育ってしまったのかだけは、少し気になった。
◇
アルセリード邸へ到着すると、ミレーヌが玄関で迎えてくれた。
「ようこそお越しくださいました、オルティア様」
「本日はお招きいただきありがとうございます。ヴェルシアナ様は?」
「中庭にいらっしゃいます。リュネア様とエステル様も、少し前にお着きになりました」
「そうですか」
案内されながら廊下を進む。
窓から差し込む光の向こうで、庭の緑が夏らしく濃く揺れていた。
最近のヴェルシアナの周囲には、地下施設だの古代魔術だの、六歳の令嬢の生活としてはどう考えても穏やかではない話が増えている。
それでも、こうしてアルセリード邸の中を歩けば、磨かれた床も、窓辺へ飾られた花も、静かに行き交う使用人たちも何一つ変わらない。
その変わらなさに、オルティアは少しだけ安心した。
中庭へ続く扉が開く。
最初に目へ入ったのは、陽の光を受けた銀髪だった。
「オルティア様」
ヴェルシアナがこちらへ気づき、立ち上がる。
その隣ではリュネアが大きく手を振り、エステルは穏やかに会釈した。
「お待ちしておりました」
「お招きありがとうございます、ヴェルシアナ様」
近づくと、ヴェルシアナはいつも通りだった。
陽射しを受ける銀髪は白に近く輝き、赤紫の瞳は正面から見ると少し強く見える。それなのに、オルティアへ向けられる表情には、以前感じていたような近寄りがたさはもうない。
少なくとも、自分にとっては。
「お加減はいかがです?」
「もう問題ございません。お医者様からも普段通りでよいと言われております」
「それなら安心しました」
ヴェルシアナはそう言いながら、自分の隣に置かれた椅子を自然に引いた。
「こちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
オルティアは口元が緩みそうになるのを抑えながら、その席へ腰を下ろした。
こういうところだ。
特別なことをしているつもりなど、本人には欠片もない。
以前なら自分が近くへ座るだけでも、相手が嫌がらないかどこかで様子を窺っていたはずなのに、いつの間にか隣が自然な場所になっている。
その距離は、一日で出来たものではない。
体調を崩した時も、不安だった時も、刺繍の話をした時も、何度も顔を合わせ、そのたび少しずつ重ねてきた。
誰かに教えられて真似したものではなく、自分たちの間だけに出来た距離だと思えば、ほんの少し誇らしかった。
「オルティア様、刺繍を持ってきてくださったんですよね?」
リュネアが待ちきれない様子で尋ねてくる。
「ええ。少しだけ変えてみました」
持参した箱を開く。
薄い布の上には、小さな白い花がいくつも連なっている。花弁には以前より細い糸を使い、中央へ淡い紫を置き、周囲の葉には銀糸で細かな葉脈を入れていた。
「綺麗です!」
リュネアが素直に声を上げる。
「前より柔らかく見えますね」
エステルも近くへ身を寄せた。
そしてヴェルシアナは何も言わず、少しだけ顔を近づける。
赤紫の瞳が、刺繍の上を丁寧に辿っていく。
オルティアは気づけば背筋を伸ばしていた。
「花弁の糸を変えられました?」
ヴェルシアナが言った。
オルティアは一瞬だけ答えを忘れる。
「……分かります?」
「ええ。前のものより輪郭が柔らかく見えます。こちらの方が、花が少し開いているように見えますね」
そこまで気づいてもらえるとは思っていなかった。
自分でもかなり小さな違いだと思っていたのに。
「細い糸へ変えました」
「やはり」
ヴェルシアナが嬉しそうに笑う。
「こちらの方が、オルティア様らしい気がします」
「わたくしらしい、ですか?」
「綺麗なのですけれど、近くで見るほど細かなところまで考えていらっしゃるでしょう? そういうところが」
胸の奥へ、温かいものが静かに沈んでいった。
本当に困る。
こういうことを、ヴェルシアナは簡単に言う。
本人にとっては、刺繍を見たまま口にした感想に過ぎないのかもしれない。それでも言われた側には、その一言が布へ残る刺繍のように、なかなか消えずに残る。
「……ありがとうございます」
できるだけ平静に返した。
向かい側でリュネアが何か言いたそうな顔をしていたが、見なかったことにする。
余計なことを言われる未来が、あまりにもよく見えた。
◇
しばらくして、ヴァレンティス家の馬車が到着した。
先に姿を見せたのはディルヴァンだった。
「こんにちは。遅くなった」
「お時間通りですよ」
ヴェルシアナが答える。
「父上たちが地下の話してたから、出る時ちょっと捕まった」
「でしたら、なおさら急がなくてよろしかったのに」
「俺が早く来たかったから」
いつも通りだ。
その軽いやり取りを聞きながら、オルティアも小さく会釈した。
問題は、その後だった。
ディルヴァンの後ろから、もう一人が中庭へ入ってくる。
オルティアは最初、本気で見間違えた。
見知らぬ令嬢が一緒に来たのかと思ったのだ。
淡い藤色の上着は、少年用の仕立てを土台にしていること自体は分かる。
けれど肩から腰へ落ちる布は柔らかく、裾には僅かな広がりがあり、襟元から胸元へ伸びる銀糸の蔓には、小さな花が隠れることなく咲いている。
髪も仕立て屋で会った時より柔らかく整えられ、耳の上だけを銀の飾りで留めていた。そこから頬へ落ちる淡い髪が、元々中性的だった輪郭をさらに曖昧にし、少年と少女の間にあるはずの境目を、薄い霧のようにぼかしている。
仕立て屋で会った時点では、柔らかな色がよく似合う美少年だった。
今日の姿は、もう「美少年」という言葉だけでは収まりが悪い。
遠目からなら、どこかの令嬢だと紹介されても一度は信じてしまうだろう。
オルティアは挨拶を忘れそうになった。
自分は確かに、細かな刺繍が似合うとも、淡い色がよいとも言った。
しかし。
ここまでいくとは言っていない。
仕立て屋での自分の言葉が、嫌になるほど鮮明に蘇る。
『少なくとも、女性らしくすればよいという話ではありません』
間違いなく、そう言った。
それなのに目の前には、その言葉を聞いたはずの少年が、下手をすれば令嬢より令嬢らしく見える姿で立っている。
「……オルティア嬢?」
本人に呼ばれて、ようやく我に返った。
「失礼いたしました」
オルティアは一度姿勢を整える。
「こんにちは、ルシアン様」
「こんにちは」
「その……随分、雰囲気が変わられましたのね」
「はい」
ルシアンが袖口へ視線を落とす。
「少し違うものを選んでみました」
少し。
オルティアは危うく、その言葉だけを聞き返しそうになった。
本人にとっては少しなのかもしれない。
だが、こちらから見ればかなりの変化である。
「変でしょうか」
ルシアンが僅かに不安そうな顔をした。
「いいえ」
そこだけは、すぐに否定した。
似合っていないわけではない。
むしろ、その逆だから困っている。
長い睫毛も、柔らかな髪も、淡い花の装飾も、一つとして浮いていない。本人の静かな雰囲気とまで綺麗に馴染んでいるから、無理に誰かを演じているようにも見えなかった。
正直に言えば、可愛い。
かなり。
「……とても、お似合いです」
最終的に、オルティアはそのまま口にした。
ルシアンの顔が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
「本当に。驚いただけですので、悪い意味ではございません」
「そんなに変わりましたか?」
「最初、どちらのご令嬢がいらしたのかと思いました」
言うと、ルシアンが目を瞬いた。
「それは……褒め言葉でしょうか」
「少なくとも、嫌味ではございません」
オルティアも少しだけ笑う。
「可愛らしいと思いましたから」
「……ありがとうございます」
少し照れたらしい。
その反応まで含めると、さらに可愛らしく見える。
認めるしかない。
しかしオルティアの視線は、その直後には自然とヴェルシアナへ移っていた。
銀髪の少女は、ルシアンの姿を目を丸くして見ている。
その横顔を見た瞬間、オルティアの中で妙なところにあった緊張が、すっとほどけた。
大丈夫。
ルシアンは確かに可愛い。
普通に令嬢たちの中へ混ざっても目を引くだろうし、今日の装いが似合っていることも認める。
けれど、可愛いという言葉をどれほど重ねても、綺麗という言葉をどれだけ並べても、自分の視線が最初に向かう場所は変わらなかった。
陽の下で淡く光る銀髪も。
深い赤紫の瞳も。
何かを考えている時に少しだけ眉が寄る癖も。
刺繍の小さな違いを見つけた時、宝物でも発見したように嬉しそうに笑うところも。
外見だけではない。
知ったものが重なれば重なるほど、オルティアにとってヴェルシアナという人間の輪郭は鮮やかになっていく。
だから、自分の中で一番綺麗なのは誰かと問われれば、答えは最初から決まっていた。
そこは、比べる場所ですらない。
「……ルシアン様」
ヴェルシアナがようやく口を開いた。
「はい」
「とても可愛らしいですね」
オルティアの思考が、今度は別の意味で止まった。
随分、素直に仰いますわね?
ルシアンの頬が僅かに赤くなる。
「ありがとうございます」
しかも、ものすごく嬉しそうである。
オルティアは二人を交互に見そうになり、寸前で堪えた。
ヴェルシアナは元々、令嬢の服装や髪飾りを褒めることにはあまり躊躇がない。
リュネアにもエステルにも、そして自分にも、似合っているものなら素直に言葉へする。
だから本人の中では、女の子にしか見えないルシアンへ「可愛い」と言うことも、そこまで特別ではないのだろう。
問題は。
ルシアンが、それをまったく同じ意味では受け取っていないことだった。
表情を見れば分かる。
嬉しいのだ。
非常に。
「オルティア嬢」
ルシアンがこちらを見る。
「先日はありがとうございました」
何についての礼かは、聞くまでもなかった。
「……わたくしは、似合うものを選ばれた方がよいと申し上げただけです」
「はい」
ルシアンは素直に頷く。
「なので、そうしました」
オルティアはもう一度彼を見る。
言い返せない。
本当に似合っているのだから。
「まさか、ここまでとは思っておりませんでしたけれど」
思わず本音が漏れた。
「僕も、最初はここまで変えるつもりではありませんでした」
「では、どうして?」
問いかけてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
しかしルシアンは嫌そうな顔をせず、自分の袖へ目を落とした。
「着てみたら、思っていたより好きだったので」
オルティアは、その言葉を聞いて少しだけ目を細めた。
仕立て屋で会った時、自分が一番気にしていたのはそこだった。
ヴェルシアナへ近づくためだけに、本人が好まないものまで選び始めるのではないか。
誰かに好かれることだけを理由に、自分自身を別の形へ押し込めてしまうのではないか。
けれど、目の前のルシアンはそうではないらしい。
「アルセリード嬢に似合うと言ってもらえたのも嬉しかったです。でも、自分で色や刺繍を選ぶのも楽しいと思うようになりました」
静かな声だった。
誰かへ言い聞かせるためではなく、自分が感じたことをそのまま言葉へしているのが分かる。
それを聞いているうちに、オルティアの中で彼へ向けて残っていた心配は、春先の薄氷が陽射しを受けてゆっくりほどけていくように形を失っていった。
「それでしたら、よろしいのではありません?」
オルティアは素直に答えた。
「似合っておりますし、それにルシアン様ご自身がお好きなのでしたら、わたくしが止める理由もございません」
少し間を置いてから、改めて彼を見る。
「本当に可愛らしいですもの」
ルシアンが少し照れたように目を伏せる。
不思議な感覚だった。
まさか自分が、ヴァレンティス家の令息へここまで自然に「可愛い」と言う日が来るとは思っていなかった。
もっとも。
オルティアの視線は、ほどなくしてまたヴェルシアナへ戻っている。
彼女はリュネアに何かを聞かれ、刺繍箱を覗き込みながら笑っていた。
その姿を見た瞬間、胸の内側で先ほどとは別の確信が、何の迷いもなく定位置へ収まった。
ルシアンは可愛い。
それは認める。
けれどヴェルシアナ様が一番なのは、やはり何も変わりませんわね。
誰に聞かれたわけでもないのに、心の中で妙に強く確認してしまった。
◇
茶会が進むにつれて、オルティアはもう一つの変化へ気づいた。
ルシアンの服だけではない。
ヴェルシアナの接し方まで、明らかに以前とは違っている。
「ルシアン様」
「はい?」
「髪飾りが少し傾いています」
ヴェルシアナが言った。
ルシアンが自分で触れようとする。
「こちらでしょうか」
「反対です。少し失礼しますね」
そう言うなり、ヴェルシアナは席を立ってルシアンの横へ回った。
オルティアの手が、カップを持ったまま止まる。
ヴェルシアナは何の躊躇もなく、ルシアンの髪へ指を近づけた。
「動かないでくださいね」
「……はい」
銀の髪飾りを軽く押さえ、そこへ絡んでいた一房を指先で抜く。
距離が近い。
かなり近い。
少なくとも、以前のヴェルシアナが男性相手へ自分から取っていた距離ではない。
オルティアは、紅茶を飲むことさえ忘れて目の前の光景を見ていた。
ルシアンの頬が薄く赤い。
ヴェルシアナはまったく気づいていない。
髪を整えることへ意識が向きすぎているらしい。
その姿を見た瞬間、仕立て屋で自分が語った言葉が鮮明に蘇った。
『ヴェルシアナ様は、ご令嬢相手になると少々距離感がおかしくなることがございます』
『女性を勘違いさせる才能は、かなりお持ちだと思います』
『ともかく、ヴェルシアナ様は女性には甘いです』
オルティアは静かにカップを置いた。
誰ですの。
そんなものを、まるで攻略法のように詳しく教えたのは。
自分である。
しかもかなり具体的に。
「できました」
ヴェルシアナが満足そうに髪から手を離す。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ルシアンは嬉しそうだった。
当然だろう。
オルティアは小さく息を吐き、頭の中で必死に状況を整理した。
これを全部、自分の助言のせいだと思うのは違う。
温室で何かがあったことも聞いている。
図書館で一緒に頁を読んだことも、古代施設の調査でルシアンの記憶が役立ったことも知っている。
そこまで積み重なったものがあるから、ヴェルシアナの警戒が薄れているのだ。
服装は、おそらくその上へ重なった最後の一滴に過ぎない。
……過ぎないはずなのだが。
髪まで直します?
以前なら絶対になさらなかったでしょう?
理屈の上では整理できても、感情の方が簡単には納得してくれなかった。
◇
「オルティア様?」
ヴェルシアナに呼ばれて顔を上げる。
「先ほどから少し静かですけれど、どうされました?」
「いえ」
オルティアは姿勢を整えた。
「自分の発言というものには、もう少し責任を持つべきだと反省していただけです」
「……何のお話です?」
「こちらのお話でございます」
ルシアンだけが意味を理解したように、ほんの少し視線を逸らした。
やはり覚えている。
当然だ。
「ルシアン様」
オルティアは彼へ顔を向けた。
「以前のお話の続きとして、一つだけ申し上げても?」
「もちろんです」
「ヴェルシアナ様が以前より近く接してくださるようになったことを、すべてそのお召し物のおかげだとは思わない方がよろしいですわ」
ヴェルシアナが瞬きをする。
「私のお話です?」
「少々お待ちくださいませ」
本人が入ってくると話がややこしくなるので、一度制する。
ルシアンは怒るでも反論するでもなく、静かにこちらを見ていた。
「ご自分でも、もうお分かりなのでしょう?」
少し間を置き、ルシアンが頷く。
「はい。最初は、服を変えたから近づいてくださるようになったのかと思いました。でも、それだけではないと思っています」
「なぜ?」
「服を変えるより前に、信用していただいたことがあったので」
温室のことだろう。
オルティア自身はその場にいなかったが、ルシアンにとってかなり大きな出来事だったことは、その言い方だけで伝わった。
「それに、資料について僕へ手紙を送ってくださいました。服を見る前から、僕が覚えていたことを頼ってくださったので」
そこには以前より静かな自信があった。
自分がヴェルシアナとの間へ積み上げてきたものを、きちんと自分のものとして受け取っている。
それが分かれば、オルティアがこれ以上強く言う必要はなかった。
「でしたら結構です」
「でも」
ルシアンはヴェルシアナを見る。
「服装がまったく関係ないとも思っていません」
オルティアは反射的に否定しかけた。
しかし、つい先ほどルシアンの髪を整えていたヴェルシアナを思い出し、言葉を飲み込む。
そこだけは否定しきれない。
自分こそ、一番よく知っている。
「……そこについては、わたくしも強くは申し上げられません」
「オルティア様?」
ヴェルシアナがますます不思議そうな顔をする。
「本当に、先ほどから何のお話をなさっているのです?」
オルティアは彼女を見る。
ここまで本人だけが何も知らないのも、ある意味ではすごい。
ならば少しくらい、自分の行動を振り返ってもらってもいいだろう。
「ヴェルシアナ様」
「はい」
「ご自分が、男性と女性で少し接し方を変えていらっしゃる自覚はございます?」
真正面から聞いた。
ヴェルシアナの表情が固まる。
「……多少は?」
「多少」
「男性の方が、少し警戒する必要があると申しますか」
「なぜです?」
ルシアンまで自然に加わった。
ヴェルシアナの赤紫の瞳が、ほんの僅かに泳ぐ。
オルティアは見逃さなかった。
「それは……」
答えが出てこない。
オルティアには当然、ヴェルシアナが何を隠しているのかまでは分からない。
ただ、理由を説明できない何かがあることだけは分かる。
「……なんとなくです」
最終的に出てきた答えは、かなり苦しかった。
オルティアは追及しなかった。
誰にでも、口にできないことくらいある。
「ルシアン様」
「はい」
「少なくとも、ヴェルシアナ様がお近くにいらっしゃる理由が、お召し物だけではないことは忘れないでくださいませ」
ルシアンはまっすぐ頷いた。
「忘れません」
その返事を聞き、オルティアもそれ以上は言わなかった。
本人が好きなものを選び、それが似合っていて、ヴェルシアナとの間にもきちんと信頼が積み重なっている。
理屈の上では、何一つ問題ない。
ただ、自分の胸の奥に、ごく小さな棘のようなものが残っていることまで無視する必要はないだろう。
ルシアンが可愛いことは認める。
似合っているのも認める。
本人が楽しんでいるのなら、それも良い。
けれど。
ヴェルシアナ様の隣だけは、少し話が違いますからね。
そこまで考えてから、オルティアは自分自身へ呆れた。
何を張り合っているのだろう。
それでも先ほどの光景を思い返すと、その小さな棘は簡単には抜けてくれなかった。
◇
午後の後半。
リュネアとエステルがセレフィアに呼ばれ、一度席を外した。
ディルヴァンも庭の端でミレーヌと話している。
結果として東屋には、ヴェルシアナ、オルティア、ルシアンの三人が残った。
ヴェルシアナが刺繍箱をもう一度見る。
「そういえば」
「何でしょう」
「オルティア様の刺繍と、ルシアン様のお袖のお花、少し雰囲気が似ていますね」
二人が同時に自分のものを見る。
オルティアの刺繍は白い花。
ルシアンのものは淡い青紫。
形は違うが、どちらも細い銀糸を使っている。
「偶然でございます」
オルティアが答えた。
「僕の方は、オルティア嬢のお話を少し参考にしました」
「ルシアン様」
余計なことを言わなくてもよい。
ヴェルシアナが目を丸くする。
「オルティア様がお選びになったのです?」
「違います」
即座に否定した。
「似合いそうな方向を少しお話ししただけです」
「そうだったのですね」
なぜかヴェルシアナが嬉しそうに二人を見る。
「お二人も仲良くなられたのですね」
オルティアとルシアンは、ほとんど同時に黙った。
仲良くなった。
そう言われると、妙な感じがする。
敵対してはいない。
むしろ今日の会話で、以前よりルシアンという人間を理解した。
ただ、互いにヴェルシアナを見ていることまで、かなり分かってしまう。
そこだけが、普通の友人とは少し違った。
「違いました?」
ヴェルシアナが首を傾げる。
「いえ」
ルシアンが先に答えた。
「オルティア嬢には、とても参考になることを教えていただきました」
「そうですか」
ヴェルシアナは自然に笑った。
「それならよかったです」
その笑顔を見た瞬間、オルティアは、さっきまでルシアンの服がどれほど似合っているか考えていた自分が少し可笑しくなった。
やはり違う。
ルシアンは可愛い。
今日の姿なら、初対面の令嬢たちからも十分に目を引くだろう。
けれど、自分が見たいのは、その隣にある笑顔の方だった。
人を好きになるということは、顔の造りだけを比べることではないらしい。
何度も見てきた表情ほど特別になり、知っている癖が増えるほど、その人だけを見つけやすくなる。
オルティアにとってヴェルシアナは、そうやって他の誰とも比べられない場所へ入ってしまったのだろう。
だから、ルシアンがどれほど可愛らしくなろうと、そこだけは少しも揺らがなかった。
◇
帰り際。
玄関で馬車を待っていると、ルシアンが隣へ来た。
「オルティア嬢」
「何でしょう」
「ありがとうございました」
「今日は、わたくし何度お礼を言われるのでしょう」
「今日の分です」
「何もしておりませんけれど」
「していただきました」
ルシアンは自分の袖口へ目を落とす。
「最初に相談した時、女性らしくすればいいという話ではないと止めてくださったことも、今日、服だけが理由ではないと言ってくださったことも」
オルティアは彼を見た。
この少年は、思っていたより素直だ。
静かな分、言葉へした時には妙にまっすぐ届く。
「勘違いしていただきたくなかっただけです」
「はい」
「ヴェルシアナ様は、確かに女性へ甘いところがございます。でも、それだけで誰とでも同じ距離まで近づかれる方ではありません」
「分かっています」
「なら」
オルティアは少しだけ表情を和らげた。
「ご自分で積み重ねたものまで、お召し物のせいにしないことです」
ルシアンの青い瞳が僅かに大きくなり、それから静かに頷いた。
「はい」
その返事を見れば、もう十分だった。
「それと」
「はい?」
「今日のお召し物は、本当にお似合いでした」
「ありがとうございます」
「わたくしもかなり驚きましたけれど」
「そんなにですか?」
「最初、どちらのご令嬢がいらしたのかと思いました」
ルシアンが目を瞬く。
それから、少しだけ笑った。
「それは、褒め言葉でしょうか」
「悪い意味では申し上げておりません」
オルティアも僅かに笑う。
「本当に可愛らしいと思いましたから」
「……ありがとうございます」
少し照れたらしい。
そんなところまで含めれば、やはり可愛い。
だからこそ、オルティアは一つだけ言っておきたくなった。
「ただし」
「はい?」
「ヴェルシアナ様が一番お綺麗だと思っておりますので、そこについては譲るつもりはございません」
ルシアンが完全に固まった。
言ってから、オルティア自身も少しだけ頬が熱くなる。
何を宣言しているのだろう。
しかし、もう口から出た。
取り消すつもりもない。
ルシアンはしばらく何も言わなかったが、やがて口元を僅かに緩めた。
「僕も、アルセリード嬢はとても綺麗だと思います」
「……そうですか」
「はい」
二人の間へ、少し妙な沈黙が落ちる。
オルティアは彼を見る。
ルシアンもこちらを見ている。
敵ではない。
それどころか、相手の選択そのものは尊重できる。
けれど、何を大切に見ているのかだけは、今の一言で以前よりずっと分かりやすくなってしまった。
「それから」
オルティアは少し声を落とす。
「ヴェルシアナ様に髪を直していただいた時、あまり嬉しそうなお顔をなさらない方がよろしいですわ」
ルシアンの耳が一気に赤くなった。
「……見ていたのですか」
「目の前でなさっていたでしょう?」
「それは、そうですが」
「大変分かりやすかったです」
ルシアンが困ったように視線を逸らす。
けれど少しして、こちらへ戻した。
「オルティア嬢も」
「何でしょう」
「アルセリード嬢に刺繍を褒められた時、かなり嬉しそうでした」
オルティアの笑顔が止まった。
ルシアンは逃げなかった。
しばらく二人は、互いの顔を見たまま何も言わなかった。
否定しようと思えばできたかもしれない。
ただ、それを口にしたところで、目の前の相手には通じないだろう。
自分が見抜いたのと同じように、向こうにも見抜かれている。
先に口を開いたのはルシアンだった。
「……お互い様、でしょうか」
オルティアは僅かに目を細めた。
「そういうことにしておきましょう」
敵ではない。
味方と言い切るには少し妙で、それでも互いの視線がどこへ向かっているのかは、他の誰より分かりやすい。
何とも不思議な位置だった。
「オルティア様」
少し離れた場所から、ヴェルシアナに呼ばれる。
「馬車が来ましたよ」
「はい。参ります」
振り返る。
夕方の光の中で、ヴェルシアナがこちらを待っている。
銀髪が陽を受け、その周囲だけ空気まで淡く明るく見えた。
オルティアはその姿を見た瞬間、先ほどルシアンへ言った言葉を改めて思い返し、今度は心の中で小さく笑った。
やはり。
ルシアンがどれほど可愛らしくなっても、自分が一番見ていたいのはこちらだ。
その確信を胸へ置いたまま歩き出し、途中で一度だけ後ろを振り返る。
ルシアンの藤色の袖には、仕立て屋で見た時にはなかった花が、隠れることなく咲いていた。
自分が教えたのは、似合うものを選ぶことだけだった。
けれど、そこから芽を出したものは思っていた以上に大きく育ち、その花を本人まで気に入っているらしい。
それなら、自分も否定するつもりはない。
むしろ似合うものなら、可愛いと言うくらいはしてもいい。
ただ、ヴェルシアナの隣へ並んだ時だけは、胸の奥に落ち着かないものが一つ増える。
それが何なのかを、オルティアはまだわざわざ言葉にしなかった。
けれど次に三人で顔を合わせる時、自分がどこへ座りたいのかだけは、もう考えるまでもなく決まっていた。




