⭐︎第62話 閉ざされた扉の向こうで、風は眠らない
旧監視所の地下へ降りる許可が出たのは、翌日の昼を少し過ぎた頃だった。
朝早くから現地へ入っていたヴィクトルと術師たちが、階段から石扉までの魔力反応を改めて確認し、少なくとも近づくだけで人体へ害が及ぶ状態ではないと判断したためである。
もっとも、「現時点で危険が確認されていない」という言葉と、「何が起きても安全である」という言葉はまったく違う。
だからこそ、現地へ向かう前にレオルディスから提示された条件は多かった。
隊列を勝手に離れないこと。
目に入ったものへ不用意に触れないこと。
ヴィクトルや技師から止まるよう指示された場合には、その場ですぐ従うこと。
そして異常が起きた際には、自分の力だけで対処しようとせず、まず大人へ任せること。
最後の一つを告げられた時だけ、ヴェルシアナは父を見た。
「何だ」
「いいえ」
「何か言いたい顔をしているな」
「今回はきちんと従いますので、ご安心くださいませ」
レオルディスは娘の顔をしばらく見ていたものの、余計な確認は重ねなかった。
「そこまで言えるなら連れていく」
「ありがとうございます」
ヴェルシアナは素直に頭を下げた。
自分でも、少し不思議だった。
以前なら、自分にもできることがあると先に主張していたかもしれない。護衛を増やせばいい、危険な場所へ近づかなければいい、自分の魔力量なら何かあった時にも役に立てるかもしれないと、行くための理由を積み上げていた可能性は高い。
けれど、行けることと行くべきことは違う。
グランセル領での一件も、古文書の調査も、昨日一日待ったことも、その当たり前を少しずつ身体の方へ落としてくれた。
必要になるまで待つ。
任せた方がいい場所では任せる。
その上で、自分にしかできないことが来たなら、そこで動けばいい。
同行するのは、レオルディス、ヴァレンティス辺境公爵、ヴィクトル、古い建築物に詳しい技師、王立魔術研究所から派遣された二人の術師、それから護衛騎士たちだった。
そこへヴェルシアナ、ディルヴァン、ルシアン、ミレーヌが加わる。
子供を地下へ連れていくには多すぎるほどの大人がいる。
それでも、旧監視所の北側に口を開けた地下階段を前にすると、その人数さえ妙に心許なく感じられた。
監視所そのものは、すでに軍事上の役目を終えた小さな石造建築に過ぎない。外壁には長い年月を受けた風雨の跡が残り、地上だけを見れば、王国のどこにでもありそうな古い施設だった。
問題の階段は、かつて倉庫として使われていた区画の奥にあった。
昨日まで壁だった場所が取り払われ、そこだけが地面の下へ向かって暗い口を開けている。
地上から差し込む光は、ほんの数段下っただけで急速に細くなり、その先にあるものを拒むのではなく、むしろ境界を示すように途中で途切れていた。
「昨日より入口が広くなっていますね」
ヴェルシアナが言うと、技師が頷く。
「周囲の石材を確認し、安全に外せる部分のみ撤去いたしました。元々は壁で完全に塞がれていたようですが、階段自体に大きな損傷はありません」
先頭では護衛騎士が灯りを掲げている。
炎が石壁へ揺れる影を落とし、その向こうに続く階段を細長く照らしていた。
「足元に気をつけろ」
レオルディスが娘へ言う。
「はい、お父様」
ヴェルシアナは頷き、最初の一段へ足を置いた。
◇
地下へ降りていくというのは、単に身体の位置が低くなるだけではないらしい。
十段、二十段と進むうち、地上で聞こえていた鳥の声や人の気配が徐々に薄れ、代わりに自分たちの靴音や灯りの燃える小さな音が、必要以上にはっきり耳へ届くようになる。
石壁には湿り気があり、触れていないのに冷たさまで伝わってきそうだった。
空気も少しずつ冷えていく。
ところが、さらに深く下りたところで、その印象を裏切るものが頬へ触れた。
風だった。
ヴェルシアナは歩幅を僅かに緩める。
「感じた?」
横を歩いていたディルヴァンが、小さな声で尋ねる。
「ええ。下から来ていますね」
ディルヴァンも気づいていたらしい。
ヴェルシアナは手を少しだけ前へ出し、指先へ触れてくる空気へ意識を向けようとした。
「魔法は使うな」
数歩前を歩いていたヴィクトルが、振り返りもせず言った。
「まだ何もしておりません」
「しようとしました」
「……分かるのですね」
「興味を持つと指先へ魔力を集める癖があります」
そんなところまで見られているのか。
ヴェルシアナは大人しく手を下ろした。
「感じるだけにしなさい。こちらから流れへ触れれば、何と繋がっているか分からない以上、向こう側へ影響を与える可能性があります」
「分かりました」
止められた理由が分かれば、従うことに抵抗はない。
階段を下りながら、ヴェルシアナは魔力を使わず、頬を撫でていく空気だけを意識した。
冷たい。
けれど淀んでいない。
普通なら地面の奥へ進むほど空気は重く、古く、閉じ込められたものになっていくはずなのに、ここでは逆だった。
地下へ潜っているはずなのに、どこか遠い場所から細い風だけがこちらまで届いている。
石の腹の奥深くへ降りているのに、空気だけは地上へ向かう道を忘れていない。
階段そのものも、下へ行くほど明らかに造りが変わっていった。
入口付近では比較的新しい石材だった壁が、途中から継ぎ目の少ない灰色の石へ変わり、さらに深くなると、その表面へ細い溝のような線が現れ始める。
一つの線が途中で二つへ分かれ、また別の線へ入り、ある場所では三本が一つへ重なっている。
「これ」
ルシアンが足を止めかける。
「図書館で見たものに似ています」
「完全に同じではありませんね」
ヴェルシアナも壁を見る。
「はい。ただ、線の増え方が近いです」
ルシアンは触れない距離を保ちながら、その形を視線で追っていた。
そこへミレーヌが少し屈み、壁の端を指す。
「こちらにも印がございます」
細い溝の脇に、小さな数字のようなものが刻まれている。
「帳簿に付いていたものと似ていますね」
「形は少し異なりますが、同じ位置に繰り返されております」
ミレーヌが一段下を示す。
確かに、そこにも同じような小さな印がある。
ヴェルシアナは、胸の奥に静かな興奮が広がっていくのを感じた。
ルシアンが古い頁から覚えていた記号。
ミレーヌが帳簿の端から拾った印。
ディルヴァンが訓練装置の裏側で見た構造。
昨日まで別々の場所で見つけてきた断片が、地下へ進むほど一つの場所へ集まり始めている。
それぞれ違う方角から伸ばしていた糸の先が、地中の暗闇で同じ結び目へ触れようとしているようだった。
◇
石扉へ着いた時、ヴェルシアナが最初に感じたのは、その大きさではなかった。
扉の前だけ、空気の流れが違う。
階段の終点には、昨日図面で見た通りの石扉があった。
高さは大人より少し高い程度だが、蝶番らしいものも取っ手も見当たらない。灰色の石へ一枚の面として埋め込まれ、中央には黒に近い円形の部材がある。
その周囲には、壁面と同じように無数の細い線が刻まれていた。
そして何より、扉へ近づくほど風が強くなる。
髪を煽るほどではない。
けれど確かに、閉じているはずの石の向こう側から空気が届いていた。
「昨日と同じようですね」
ヴィクトルが扉を見ながら言った。
今度の言葉は、傍にいたレオルディスとヴァレンティス辺境公爵へ向けたものだった。
「魔力の流れにも大きな変化はございません。ただし、昨日より内部構造を詳しく確認できそうです」
「進められるか?」
レオルディスが尋ねる。
「現状であれば問題ないかと存じます。ただし、こちらから大量の魔力を流し込むことは避けるべきでしょう」
「分かった」
二人の術師も扉の前へ進む。
王立魔術研究所に所属するだけあり、所作に迷いはない。
一人が小さな魔石を取り出し、扉の前へ掲げた。
内部へ淡い光が灯る。
「昨日と同じです。左右から中央へ入り、その後、下へ流れています」
「内部も確認を」
ヴィクトルが術師へ言う。
「はい」
もう一人が床へ膝をつき、魔力の反応を追う。
しばらくして、その眉が僅かに寄った。
「扉そのものにも反応があります。昨日は石材へ残った魔力だと思ったのですが……違いますね」
「流れていますか」
ヴィクトルが尋ねる。
「はい。内部を通っています」
ヴェルシアナは石扉を見る。
魔力が隙間から漏れているのではない。
扉そのものの中を通っている。
「感じてみなさい」
ヴィクトルに言われ、ヴェルシアナは彼を見た。
「よろしいのですか?」
「触れるなとは言いましたが、見るなとは言っていません」
それなら。
ヴェルシアナは一歩だけ扉へ近づいた。
目を閉じる。
魔力は出さない。
風も作らない。
ただ、自分へ届いている空気の違いだけを拾っていく。
最初は一つの流れに思えた。
けれど意識を細くしていくと、風は一枚の面として来ているわけではないことが分かる。
右。
左。
下。
異なる位置から、それぞれ微妙に温度の違う空気が漏れている。
その一つを追う。
扉の端。
けれど、石同士の隙間ではない。
もっと内側。
石の内部に、細い道が存在している。
「……扉の中を、風が通っています」
「続けて」
ヴィクトルの声が背後から届く。
「一つではありません。複数あります。空気が通っている場所と、ほとんど動いていない場所が分かれています。それに……温度が違う」
「つまり?」
ヴィクトルは答えを言わない。
ヴェルシアナは自分で考える。
同じ場所から来る空気なら、ここまで差が出るだろうか。
「全部が同じ空間へ繋がっているとは限らない?」
「可能性の一つです」
目を開く。
石扉を見る。
閉じるためだけの板ではない。
内部に風を通す道があり、魔力まで流れている。
「これは、単純な扉ではないのかもしれません」
「どういうこと?」
ディルヴァンがすぐに尋ねた。
「人を通さないためだけのものではない、という意味です」
その言葉を聞き、ディルヴァンが中央の円を見る。
「切り替えるためのものとか?」
ヴェルシアナが彼を見る。
「なぜそう思われたのです?」
「訓練装置も似てたから。外から見ると石を止めるところみたいだけど、本当は中の流れをどっちへ送るか変えてただろ」
ディルヴァンは扉中央の円形部材を指す。
「これも閉じるためじゃなくて、何かをどっちへ流すか決めてるんじゃない?」
壁ではなく、弁。
閉ざすためのものではなく、流すものを選ぶための装置。
「ルシアン様」
「はい」
「図書館で見た記号の中に、一度外へ分かれた線が戻るものがございましたよね」
ルシアンはすぐに扉周囲の溝へ視線を走らせた。
長く見てから、一箇所を示す。
「こちらです」
中央円の少し上。
「図書館の記号は、分かれた線が別の流れへ入りました。でもこちらは、一度外側へ出たものが中央へ戻っています」
「戻す……」
ヴェルシアナが呟く。
その言葉を聞いた時だけ、ヴィクトルの視線がほんの僅かに動いた。
◇
扉を開く方法へ辿り着くまでには、かなりの時間がかかった。
技師が内部構造を調べ、術師たちが魔力反応を比較し、ミレーヌが壁面へ刻まれた小さな印を一つずつ写し取っていく。
ディルヴァンは以前分解した訓練装置との共通点を探し、ルシアンは古い頁の記号を記憶から引き出しながら、配置の意味を考えていた。
ヴェルシアナはその間ずっと、扉の内部を流れる風だけを追った。
誰か一人が答えを見つけたわけではない。
それぞれが拾った小さな違和感を机の上へ置き、重ねていくうちに、ようやく一つの形が浮かび始めた。
「三箇所です」
ヴェルシアナが扉を見る。
「右上、左下、それから中央。そこだけ風の流れ方が違います」
術師の一人が魔石を近づける。
「魔力反応も、その三点だけ僅かに強いですね」
「順序は分かるか?」
レオルディスが尋ねる。
ミレーヌが写し取った記録を確認する。
「壁面に同じ印がございます。ただ、上から順番ではないようです」
「右、左、中央だと思います」
ルシアンが言った。
「図書館の頁でも、似た記号はその順序で並んでいました」
「訓練装置も真ん中が最後だった」
ディルヴァンが続ける。
自然と視線がヴェルシアナへ集まった。
以前なら、そのまま動いていたかもしれない。
けれど今回は、ヴェルシアナの方からヴィクトルを見る。
「先生」
「私を見るのですね」
ヴィクトルの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
「今回は、確認してから動くと決めておりますので」
「結構です」
彼は扉を見た。
「流れを新しく作ろうとしないこと。元からあるものへ、必要な分だけ繋ぎなさい」
「はい」
右上。
最も細い風。
ヴェルシアナは自分の魔力を押し込まず、周囲にある空気の方向だけを少し寄せた。
細い流れが通る。
石の内部で、小さな音がした。
ディルヴァンが右側の部材へ手をかける。
「これ?」
「おそらく」
「じゃあ押す」
両手に力を込める。
重い。
それでも少しずつ沈んでいく。
次は左下。
ルシアンが記号を確認する。
「そこです」
ヴェルシアナが風を通し、ディルヴァンが機構を押し込む。
今度は、先ほどより深い場所で石の噛み合う音がした。
最後。
中央。
「お嬢様、順序に間違いはございません」
ミレーヌが記録を確認する。
「ありがとうございます」
ヴェルシアナは息を整えた。
中央へ。
風を押さない。
ただ、左右から来る流れが重なる場所を整える。
その瞬間。
何百年も動いていなかった石の奥で、何かが噛み合った。
最初は、一つだけだった。
続いて、そのさらに奥で別の機構が動き、低い振動が足元を伝う。
眠り続けていた巨大な獣が、肺へ最初の空気を取り込むように、石の中で音が少しずつ広がっていく。
中央の円へ淡い光が宿った。
ヴェルシアナは息を呑む。
石扉は左右へ開かなかった。
中央から細かな部材へ分かれ、それぞれが壁の中へ滑り込んでいく。
固く閉じていた石の面が、夜明けの光を受けた花のように一枚ずつ形をほどき、最後にはそこに扉があったことすら分からないほど綺麗に壁の奥へ消えていった。
その直後。
冷たい風が、一気に流れ込んできた。
ルシアンの淡い髪が大きく揺れ、ミレーヌのスカートの裾が風を孕む。
灯りの炎も激しく傾いた。
風が抜けた先には、これまで石に塞がれていた暗闇が広がっていた。
◇
扉の向こうへ足を踏み入れたヴェルシアナは、最初に見えた景色をすぐには理解できなかった。
広い。
地下であることを忘れそうなほど天井が高い。
地上の大広間をそのまま石の下へ沈めたような空間が続き、壁から床、柱に至るまで、無数の細い溝が走っていた。
その一部には淡い青白い光が流れている。
光は一本の道を進み、途中で二つへ分かれ、別の線と交わり、そこからまた別の場所へ向かっていく。
地図の上でしか見たことのなかった「流れ」が、目の前で実際に動いていた。
「……すごいな」
ディルヴァンが、子供らしい素直な声を漏らす。
誰も咎めなかった。
ヴェルシアナも、同じ言葉しか浮かばなかったからだ。
地下施設というより、巨大な生き物の身体の中へ入り込んだように見える。
石の血管を魔力の光が静かに巡り、人がその存在を忘れた後も、地中の奥で細い呼吸だけを絶やさず続けてきた。
記録から名前が消えても。
入口が塞がれても。
誰にも見られなくなっても。
仕組みそのものは完全には死んでいなかった。
「不用意に触れないように」
ヴィクトルの声で、ヴェルシアナは我に返った。
護衛と術師たちが先へ進み、安全を確認する。
さらに奥には円形の広間があり、その中央へ巨大な石板が立っていた。
表面へ刻まれているのは、文字だけではない。
「地図……?」
ルシアンが呟く。
ヴェルシアナも近づいた。
アルヴェネア王国の古い地形に似ている。
山。
川。
現在とは僅かに違う地域の区切り。
そして、その上へ何本もの細い線が走っていた。
「昨日の地図と」
「繋がってる」
ディルヴァンが先に言った。
黒い点。
旧道。
グランセル領。
旧ヴァレンティス境界。
自分たちが紙の上で結んだものが、最初からこの石板には刻まれている。
ただし、こちらの方が遥かに大きい。
「北だけではありません」
ミレーヌが気づいた。
線はヴァレンティス領より先へ伸びているだけではなかった。
南へ。
東へ。
細い支流のように何本も分かれながら、国土の広い範囲へ伸びている。
そのうち一本は、古い地図上の中央部へ続いていた。
レオルディスが位置を確認する。
「王都方面だ」
ヴェルシアナは思わず石板全体を見上げた。
地方に残った小さな施設ではない。
北方だけの仕組みですらなかった。
古代の人間は、国土そのものへ何かを巡らせていた。
自分が最近ようやく一本の風糸を作り、その中へ必要なだけ魔力を流せるようになったところで、目の前にあるのは、その思想を山や川の向こうまで広げたような巨大な仕組みだった。
一本の糸を針へ通せるようになったと思っていたら、突然、地平線の向こうまで続く織物を広げて見せられたような感覚だった。
自分の小ささを思い知らされる。
けれど不思議と、悔しいとは思わなかった。
分からないものが、こんなにも大きい。
それだけで胸の奥が熱くなる。
「これを作った方々は、何を考えていたのでしょうね」
ヴェルシアナが漏らすと、レオルディスが娘へ目を向ける。
「少なくとも、六歳で再現しようとは考えるな」
「考えておりません」
「ならいい」
信頼されているのか、されていないのか。
たぶん両方なのだろう。
◇
異変は、その直後だった。
石板の右端。
それまで淡く光っていた細い線が、一瞬だけ強く明滅した。
ヴェルシアナは、たまたまそこを見ていた。
次に、その隣の線が光る。
さらに一つ。
青白い光が、一本ずつ強くなっていく。
「ヴィクトル先生」
呼びかけた瞬間。
彼の表情が変わった。
大きくではない。
普段から感情を表へ出す人ではないからこそ、目の奥から僅かな緩みが消えただけで、ヴェルシアナには十分だった。
「全員、石板から離れなさい」
声は大きくない。
けれど、その一言を聞いた大人たちは迷わず動いた。
「下がれ!」
騎士たちが子供たちの前へ入る。
術師の一人が魔石を確認する。
「魔力反応が上昇しています!」
「流量は?」
ヴィクトルが尋ねる。
「急激に増えています。これは……」
答えが終わる前に、壁を走る光が一気に増えた。
最初の一本から隣へ。
そこから床へ。
床から柱へ。
長く眠っていた血管へ突然血が戻ったように、広間全体が次々と青白く染め上げられていく。
光そのものが走っているのではない。
何かが流れている。
しかも、速い。
空気が細かく震え始めた。
ヴェルシアナは反射的に自分の魔力を集める。
「触るな」
ヴィクトルの声が飛んだ。
普段の訓練より明確に強い。
その一言で、ヴェルシアナは指先へ集まりかけた魔力を止めた。
直後。
奥の通路から、白い光が押し寄せた。
光と呼ぶには、あまりにも重い。
魔力そのものが濁流となり、古い流路から溢れ出しながらこちらへ迫ってくる。
近くにいた術師二人が即座に杖を構えた。
「防壁を展開します!」
透明な魔法障壁が広間を横切る。
速い。
形も綺麗だった。
王立魔術研究所へ所属する術師だけあって、ヴェルシアナの目から見ても十分に熟練している。
だからこそ。
白い奔流が防壁へ触れた瞬間、その表面が大きく歪んだことが恐ろしかった。
「な……!」
術師の顔色が変わる。
防壁へ亀裂のような光が走った。
「出力を上げます!」
「お待ちなさい、押し返してはいけません」
ヴィクトルが言ったが、術師たちは目前の崩壊を支えることへ意識を取られていた。
二人が追加の魔力を流し込む。
防壁が一瞬だけ持ち直す。
しかし、そこで受け止められた古代の魔力は行き場を失った。
逃げられなくなった流れが、左右へ膨らむ。
壁の溝が激しく明滅し、石そのものが軋み始める。
「制御できません!」
術師の一人が叫んだ。
その声には、専門家としての体裁を保つ余裕がなくなっていた。
「流量が多すぎます。このままでは防壁が持ちません!」
ヴェルシアナの背中に冷たいものが走る。
大人の術師が二人いても、止められない。
いや、止めようとするほど流れが詰まり、かえって危険が増している。
自分ならどうだ。
魔力量だけなら多い。
だから何だというのだ。
ここへ力を叩きつければ、術師たちが防壁へ魔力を足したのと同じことになる。
その時。
頭上から小さな石片が落ちた。
ヴェルシアナは反射的に顔を上げる。
天井の一部に亀裂が走っている。
「ルシアン!」
ディルヴァンが弟へ動こうとした。
その頭上で、細長い石材が外れた。
落ちる。
ヴェルシアナの視界に、石そのものより先に周囲の空気が見えた。
細かな破片が左側から先に落ちている。
本体の重心が崩れ、右へ傾く。
「ディルヴァン様、右です!」
説明する時間はない。
ディルヴァンは一瞬も迷わなかった。
右へ踏み込み、そのままルシアンの前へ身体を入れる。
同時に、ヴェルシアナも風を流した。
落下する大きな石を止めようとはしない。
止められない。
それならば、通る場所だけを少し変えればいい。
石の側面へごく短い風を当てる。
軌道が僅かにずれた。
大きな塊がディルヴァンの肩を外れて床へ落ち、小さな破片だけが彼の方へ飛ぶ。
そこで剣が抜かれた。
一閃。
鋭い音とともに石片が弾かれ、壁際へ転がっていく。
「ルシアン、大丈夫?」
「はい」
ディルヴァンは弟を一度だけ確認すると、すぐヴェルシアナを見る。
「助かった」
「こちらこそ」
それ以上の言葉は要らなかった。
なぜ右なのかを聞かなかった。
ヴェルシアナが言ったから動き、ヴェルシアナもディルヴァンなら間に合うと疑わず風を通した。
森で一緒に動き、互いに違うものが見えていることを知り、任せることを覚えた積み重ねが、考えるより先に二人の身体へ出たのだろう。
けれど、そのことを考える余裕はすぐに失われた。
防壁が大きく軋んだ。
「もう持ちません!」
術師の声が響く。
透明な壁の中央は、今にも破裂しそうなほど膨らんでいる。
ルシアンの顔から血の気が引き、ミレーヌもヴェルシアナのすぐ後ろへ寄った。
ディルヴァンは剣を構えたままだが、いくら彼でも魔力の濁流を斬れるわけではない。
そこで。
ヴィクトルが前へ出た。
石は軋み、光は暴れ、二人の術師が必死に支える防壁さえ崩れかけている。それでも彼の歩みには、焦りというものが存在しなかった。
荒れ狂う川へ向かって歩いているようには見えない。
まるで、自分がそこへ立てば流れの方が静まると、最初から知っている人間の歩き方だった。
「防壁を解きなさい」
術師たちが振り返る。
「しかし、この状態で解けば――」
「受け止めるから詰まるのです」
ヴィクトルは彼らを責めるでもなく、目の前で暴れる魔力を見たまま続けた。
「流れを塞いではいけません。解きなさい」
二度目の言葉には、それ以上反論させない確かさがあった。
二人の術師が防壁を解く。
行き場を失っていた白い奔流が、一気に解放された。
押し潰されていた川が堰を失ったように、光が広間へ雪崩れ込んでくる。
その正面へ立ったヴィクトルは、杖すら抜かなかった。
ただ片手を上げる。
何かを必死に防ごうとしている仕草には見えない。
騒がしくなった教室へ静粛を求める教師のような、ごく自然な動作だった。
「――静まれ」
世界から、音が消えた。
少なくとも、ヴェルシアナにはそう感じられた。
石が震える音も、押し寄せる魔力が空気を裂く音も、誰かの息遣いさえも、一瞬だけ遠くへ置き去りにされたようだった。
ヴィクトルを中心に、目には見えない何かが広がっていく。
防壁ではない。
ヴェルシアナには分かった。
彼は、止めていない。
白い奔流へ真正面から力をぶつけているのでもない。
流れそのものを解いている。
一本に見えていた魔力の濁流から、右へ抜けられるものを拾い、床下へ戻せるものを分け、壁面の古い流路へ入るものだけを導いていく。
互いに衝突して膨れ上がっている二つの流れは切り離し、それぞれ別の道へ送る。
一つを押さえている間にも、その隣では別の流れを細くし、さらにその向こうでは溢れた魔力を既存の流路へ戻している。
ヴェルシアナには、何をしているのかだけは分かった。
だからこそ、理解できなかった。
紙一枚を右へ動かすだけでも、少し意識が揺れれば隣の紙まで動く。
一本の風糸を細く保つだけで、何度も失敗した。
それをヴィクトルは、視界を埋め尽くすほど複雑に絡み合った魔力の奔流から、必要な流れだけを選び、分け、繋ぎ直し、それぞれを異なる方向へ同時に導いている。
自分がようやく一本の糸を針の穴へ通す練習をしている横で、巨大な織機を一人で動かし、何百本もの糸を一度も絡ませることなく織り上げられているようなものだった。
これは魔力量の差ではない。
見えている世界の細かさが違う。
自分が一つの流れだと思っているものを、ヴィクトルはその内側にある無数の動きへ分けて見ている。
そして、ただ見えるだけではない。
どこへ戻せば最も自然に収まるのかまで、一瞬ごとに選び続けている。
白い濁流が少しずつ細くなる。
暴れていた光が壁の溝へ戻り、床へ沈み、柱を走っていた光も徐々に穏やかになっていく。
最後まで残った一本だけが、白い蛇のように空間を走った。
ヴィクトルの指先が僅かに動く。
その一本も、まるで最初からそこが自分の道だったとでもいうように、壁面の流路へ吸い込まれて消えた。
静けさが戻る。
今度の静けさは、恐怖によって生まれたものではない。
本当に、すべてが収まった後の静けさだった。
ヴィクトルは上げていた手を下ろす。
「アルセリード公爵、そちらに負傷された方はいらっしゃいますか」
「いない」
レオルディスは自分の周囲を確認して答える。
ヴィクトルは次にヴァレンティス辺境公爵へ視線を移した。
「ヴァレンティス公爵、そちらはいかがでしょう」
「問題ない」
「承知いたしました」
ヴィクトルは短く頷き、それから術師たちを見る。
「お二人は?」
「……怪我はありません」
一人の術師が、まだ青い顔のまま答える。
もう一人は杖を握った自分の手を見ていた。
二人が全力で張った防壁を崩しかけた魔力を、目の前の男が杖すら抜かず整えてしまった。
同じ「術師」という括りに入れてよいものなのか、本人たちですら迷っているような顔だった。
ヴェルシアナも、似たようなものだった。
隣でディルヴァンが父を見る。
「……父上」
「何だ」
「今の見た?」
「見ていた」
「何でそんな普通なの?」
ヴァレンティス辺境公爵は、息子の問いを特に不思議とも思わなかったらしい。
「ヴィクトルだからだ」
「いや、ヴィクトルだからって……」
ディルヴァンが珍しく言葉に詰まる。
レオルディスも袖へ付いた石粉を払いながら、当然のように言った。
「だから彼を呼んだ」
ヴェルシアナとディルヴァン、それからルシアンの視線が同時にヴィクトルへ向いた。
本人はすでに床の流路を確認している。
つい先ほど地下広間を呑み込みかけた魔力を鎮めた人間とは思えないほど、普段の授業中と何も変わらない。
「先生」
ヴェルシアナが呼ぶ。
「何です?」
「……先ほどの魔術は?」
「魔力の流れを整えただけです」
ヴェルシアナは目を細めた。
「だけ、ですか?」
「他に何と説明すればよいのです」
その横で、ディルヴァンが何度も頷いている。
「先生、それ絶対『だけ』じゃないと思う」
「そうですか」
ヴィクトルは本当に興味がなさそうだった。
そこで、先ほど防壁を展開していた術師が小さく苦笑する。
「お嬢様方は、ご存じなかったのですね」
「何をでしょう」
術師は一度ヴィクトルを見た。
「《静界》」
聞き慣れない響きだった。
「……せいかい?」
ディルヴァンが眉を上げる。
「ヴィクトル殿が以前そう呼ばれていたのです。大規模な魔力災害の現場で、暴走した魔力を一定範囲ごと制御し、周囲への被害をほとんど出さず鎮めていたことから」
ヴェルシアナはヴィクトルを見る。
本人は露骨にどうでもよさそうな顔をしていた。
「昔の呼び名です。気にしなくて結構です」
いや。
気にするだろ。
内心では、ほとんど反射的にそう思った。
紙一枚の移動ですら「再現できなければ成功ではない」と言い続けていた教師が、古代施設の地下広間を満たす魔力を相手に、桁違いの制御を見せたのである。
「お父様はご存じだったのですか?」
「当然だ」
「なぜ教えてくださらなかったのです?」
「聞かれなかったからだ」
ヴェルシアナは返す言葉を失う。
横でルシアンが、珍しく小さく笑った。
◇
異常が完全に収まったあと、調査は一度中断された。
普通の術師二人では支え切れなかった規模の魔力が流れ込んだ直後なのだから、当然の判断だった。
ヴィクトルと術師たちが流路を確認している間、子供たちは少し離れた場所で待つことになる。
ディルヴァンは先ほど落ちてきた石片を見ながら、ヴェルシアナへ声をかけた。
「さっきの右ってやつ」
「はい」
「なんで分かった?」
ヴェルシアナは天井を見上げる。
「石そのものではなく、その周囲の空気を見ていました。左側の小さな破片が先に落ちたので、本体は右へ傾くと思ったのです」
「なるほど」
「それより、よくすぐ動かれましたね」
聞き返すと、ディルヴァンは逆に不思議そうな顔をした。
「ヴェルシアナが言うなら、何かあると思ったから」
あまりにも自然に返され、ヴェルシアナの方が一瞬黙った。
「理由を聞いてからでは遅いだろ」
「それは、そうですけれど」
「それに、風で破片をずらしただろ?」
「全部を止めるほどの力は使えませんでしたので」
「だから俺が弾いた」
ディルヴァンは、それだけで話が終わったという顔をする。
実際、それだけなのだろう。
ヴェルシアナが落下位置を読み、ディルヴァンが即座に動き、互いに一人では処理しきれない部分だけを補った。
事前に役割を決めていたわけではない。
森で一緒に動いたこと。
意見をぶつけたこと。
相手が何をできるのかを何度も見てきたこと。
その積み重ねが、理由を言葉へするより先に身体を動かした。
「次も頼む」
ディルヴァンが軽く言う。
「次がない方がよろしいのですけれど」
「それはそう」
二人で小さく笑った。
◇
しばらくして、再び中央石板へ近づく許可が出た。
異常の原因についても、ある程度の推測が立っているらしい。
「アルセリード公爵」
ヴィクトルがレオルディスへ向き直る。
「おそらく、扉を開けたことで停止していた流路の一部が再接続されたものと思われます。別区画へ長期間溜まっていた魔力が、新しく開いた流路へ一気に流れ込んだのでしょう」
「再発の可能性は?」
「先ほどの規模の流れは確認されておりません。ただし、施設全体の状態を把握できていない以上、ないとは申し上げられません」
「なら、深入りはしない」
「その方がよろしいかと存じます」
ヴィクトルはヴァレンティス辺境公爵にも視線を向ける。
「本日のところは、石板と現在確認できる範囲の流路記録だけを持ち帰られるのが安全でしょう」
「異論はない」
大人同士のやり取りを聞きながら、ヴェルシアナは壁へ残った光を見る。
完全に壊れているなら、先ほどのような反応は起きない。
つまり、この施設は部分的に生きている。
「こちらをご覧ください」
ルシアンの声がした。
中央石板の一箇所を見ている。
「グランセル領に近くありませんか?」
ヴェルシアナも隣へ寄った。
地図と照合する。
位置は、ほぼ重なる。
他の線には薄い光が流れている。
けれどグランセル領付近だけは、途中で線の光が途切れていた。
「ここだけ流れていない……」
「壊れているのでしょうか」
「可能性はある」
レオルディスが答える。
「ただし、これがあの異常の原因なのか、異常の結果として壊れたのかはまだ分からない」
「はい」
決めつけない。
そこは忘れない。
けれど偶然だと片づけるには、あまりにも多くのものが重なっている。
グランセル領で起きた魔力の乱れ。
途切れた古代流路。
国土へ伸びる線。
その先にある王都。
「こちらにも文字があります」
ルシアンが石板の下側を見ていた。
地図の下へ、かなり摩耗した古い文字列が刻まれている。
ヴェルシアナも横へ並んだ。
「図書館で見た古語と似ていますね」
「はい」
ルシアンは文字へ触れないよう注意しながら、一つずつ追う。
「こちらは『流れ』に近いと思います」
「その隣は……戻る?」
二人で文字を比べる。
完全な文章として読むことはできない。
けれど、一つだけ意味を掴める語があった。
「還流」
ルシアンが静かに読んだ。
その言葉は大きく響いたわけではない。
それでも、長く閉ざされてきた地下空間へ落ちると、何百年も前からそこにあった意味へ再び名前を与えたように感じられた。
ヴェルシアナは石板を見上げる。
国土を覆う線。
流れを分ける。
別の道へ渡す。
繋げる。
そして、還す。
何を還していたのだろう。
魔力なのか。
空気なのか。
それとも、この二つすらもっと大きな仕組みの一部に過ぎないのか。
まだ答えはない。
けれど、ここが単なる地下施設ではないことだけは分かる。
山や川を越えて何かを受け取り、必要な場所へ分け、別の場所で集め、再びどこかへ返す。
国そのものを一つの身体として見た時の、血管にも似た巨大な網。
ヴェルシアナは自分の指先を見る。
自分が扱えるようになったのは、ようやく一本の風糸だ。
その一本を細く保つだけでも集中が要る。
ところが、目の前にいるヴィクトルは何百という流れを同時に捌き、さらにこの古代施設を作った人間たちは、その思想を国土の規模へまで広げた。
自分が立っている場所。
その遥か先。
さらに、その向こう。
成長するほど世界が狭くなるのではなく、むしろ知らなかった広さばかりが見えてくる。
それが、不思議なくらい楽しかった。
「先生」
ヴェルシアナがヴィクトルを見る。
「何です?」
「帰ったら、先ほどの魔術について教えてください」
「何を知りたいのです」
「先生が何本の流れを同時に見ていらしたのか。それと、どのように行き先を選んでいたのかを」
ヴィクトルが僅かに目を細めた。
「真似をしようとは?」
「さすがにいたしません」
「それなら結構です」
少し間を置いてから、彼は続ける。
「理解するところから始めなさい」
「はい」
ヴェルシアナは笑った。
今日一日で、知っていた世界は何度も形を変えた。
地下には国土へ繋がる巨大な仕組みが眠っていた。
ディルヴァンとは、言葉を交わすより先に動きが噛み合った。
普通の熟練術師が止められない魔力を、ヴィクトルは流れへ戻すだけで鎮めてみせた。
そして石板には、「還流」という新しい言葉が残されている。
地下へ降りたはずなのに、見える世界の方はどこまでも広くなっていた。
ヴェルシアナは、最後にもう一度だけ石板を振り返った。
閉ざされていた扉の向こうで、風は眠っていたのではない。
誰にも見つからないほど細くなりながら、それでも止まることなく道を渡り続けていた。
そして、長い年月の末に一本の道が繋がったことで、忘れられていた流れは再びこちらへ姿を見せた。
もし、流れというものが進んだ先で終わるのではなく、分かれ、交わり、巡った末にどこかへ還っていくのだとしたら。
この地下で目を覚ましたものが、最終的に何処へ辿り着くのか。
それを知るには、自分たちはまだ、巨大な流れのほんの一端へ指先を触れたばかりだった。




