第61話 悪役令嬢は、閉ざされた階段を待つ
人を待つ時間というものは、何もしていない時ほど長く感じる。
ましてや、その相手が自分たちの見つけた手掛かりを追い、何百年も記録から抜け落ちていた地下へ向かっているとなれば、なおさらだった。
ヴェルシアナは机の上へ広げた紙を眺めながら、同じ行を三度ほど読み返したところで、ようやく内容がほとんど頭へ入っていないことに気づいた。
「……駄目ですね」
思わず漏らすと、向かい側で帳簿を整理していたミレーヌが顔を上げる。
「何がでございますか?」
「読んでいるつもりだったのですが、全然読めていませんでした」
ヴェルシアナが紙を持ち上げて見せると、ミレーヌは一度だけ頁へ目を落とし、少しだけ口元を緩めた。
「先ほどから同じところをご覧になっておりましたので、その可能性はあるかと思っておりました」
「気づいていたのでしたら教えてください」
「お嬢様がご自分でお気づきになるかと思いまして」
そう返されると、強くは言えない。
ヴェルシアナは紙を置き、窓の外へ視線を移した。
朝から曇っていた空は、昼を過ぎても白い雲を広げたままだった。雨が落ちてくるほど暗くはないが、青空が覗くほど明るくもなく、庭の木々も風が止まっているせいかほとんど揺れていない。
屋敷全体が、何かの知らせを待つために呼吸を浅くしているようだった。
レオルディスたちがヴァレンティス旧境界監視所へ向かったのは、朝早くだった。
同行したのはヴァレンティス辺境公爵、古い建築物に詳しい技師、魔術研究所から派遣された術師、それから護衛の騎士たち。
当然ながら、ヴェルシアナは留守番である。
『大人が先に確認する』
父にそう言われた時、今回は素直に頷いた。
危険性すら分からない地下へ、六歳の自分が最初に入るべきではないことくらい理解している。護衛を増やせばいいとか、入口だけなら危なくないとか、自分の魔力量があれば何かあっても対処できるかもしれないとか、以前なら並べていたかもしれない理由も、今回は口にしなかった。
グランセル領での一件以来、自分一人で前へ出ることと、物事を前へ進めることは同じではないと少しずつ分かってきた。
行けるかどうかではなく、誰が行くべきなのか。
自分が知りたいからという理由だけで、役割まで奪っていいわけではない。
そう理解している。
それでも、気になるものは気になる。
「行きたかったですか?」
ミレーヌが尋ねた。
「もちろん」
返事はすぐに出た。
ミレーヌが僅かに目を丸くする。
「ですが、行きたいことと、行くべきことは別でしょう?」
口にしてから、ヴェルシアナ自身も少しだけ可笑しくなった。
以前なら、そこを分けて考えるより先に、どうすれば同行できるかを考えていただろう。
「それで、同じ頁を三度読むのですね」
ミレーヌが淡々と付け加える。
「……待つのは、まだ得意ではないようです」
「お嬢様にも苦手なことがあると分かって安心いたしました」
「どういう意味です?」
「そのままの意味でございます」
最近のミレーヌは、こういう時に引かない。
だからこそ、傍にいることが以前より自然になったのだろう。
ヴェルシアナはもう一度紙へ向き直る。
自分がやるべきことは、地下へ潜ることではない。
戻ってきた情報を受け取れる状態で待つことだ。
そのために、まずは目の前の資料へ集中しようとした。
少なくとも、次に同じ行を読むのは四度目にならないように。
◇
午後からは、予定通りヴィクトルとの訓練を行うことにした。
気持ちを切り替えるには、考える暇をなくすのが一番早い。
庭へ出ると、机の上には細長い紙片が五枚、等間隔に並べられていた。
「今日は羽根ではないのですね」
「羽根だけ動かせるようになって満足されても困りますので」
ヴィクトルは薄い眼鏡越しに紙を見下ろし、その中の中央を指した。
「五枚のうち、中央の一枚だけを右へ移動させてください。他の四枚は動かさず、距離は指一本分です」
「ずいぶん少ないですね」
「あなたにとっては、その方が難しいでしょう」
否定できない。
大きく飛ばせと言われた方が、よほど楽だ。
ヴェルシアナは机へ向き直り、紙の周囲を流れる空気へ意識を広げた。
風は弱い。
庭の木々もほとんど揺れていない。
自然の流れだけでは足りないなら、自分でごく細い道を作る必要がある。
中央の紙だけを横から押すのではなく、その脇へ細い空気の通り道を作り、紙そのものがそこへ滑り込むようにする。
魔力を絞り、幅を広げず、必要なところだけへ流す。
紙が僅かに震えた。
ゆっくり右へ動く。
しかし同時に、隣の一枚の端がほんの少し浮いた。
「止めてください」
ヴィクトルの声に、ヴェルシアナはすぐ魔力を切った。
「中央は動きましたけれど」
「隣も動きました」
「失敗ですね」
「ええ」
容赦がない。
もっとも、そのくらい明確な方が分かりやすい。
ヴェルシアナは紙を元の位置へ戻し、もう一度構えた。
今度は横から押すのではなく、紙の下へごく薄い空気を滑り込ませる。
浮かせるほどではない。
机との摩擦を僅かに減らし、その瞬間だけ右へ細い流れを作る。
紙が動く。
一枚だけ。
指一本分。
そこで流れを切る。
隣の紙は揺れていない。
ヴェルシアナは慎重に息を吐いた。
「できました?」
ヴィクトルは答えず、五枚の紙を順番に確認したあと、中央の一枚を元へ戻した。
「もう一度」
「評価はその後ですか」
「一度だけなら偶然でもできます」
予想通りだった。
二度目は少し行きすぎた。
三度目はほぼ同じ位置で止まり、四度目は途中で流れを細くしすぎて紙が止まった。
五度目。
成功。
六度目も、ほとんど同じ位置で止めることができた。
そこでようやくヴィクトルが紙を片づけ始める。
「何となく分かってきた気がします」
「その言葉を口にした時が、一番危険です」
「なぜです?」
「分かったつもりになって、余計に力を足すからです」
あまりにも心当たりがありすぎて、ヴェルシアナは黙った。
ヴィクトルは新しい紙を用意しながら、何気ない声音で続ける。
「旧監視所のことが気になっているのでしょう」
ヴェルシアナの指先が止まった。
「分かります?」
「一度目の失敗で、普段より流れの幅が広かった」
「そこからですか」
「訓練中に別のことを考えている人間は、魔力の癖が出やすくなります」
顔を見るより、魔力を見た方がヴィクトルには分かりやすいらしい。
「先生は現地へ行かなくてよかったのですか?」
「私は古代建築の専門家ではありません」
ヴィクトルは紙の位置を整えた。
「先に構造を確認する者が行き、魔力の反応が見つかれば私が呼ばれる。その方が効率的です」
「役割分担ですね」
「そういうことです」
簡潔だった。
自分が行った方が早いからと、何でも抱え込む人ではない。
必要な場面で、自分の専門を使う。
最近のヴェルシアナには、その考え方が以前よりずっと自然に入ってくる。
「では、戻ってきた資料を見てからですね」
「ええ。その時にあなたが疲れていては困りますので、訓練へ集中してください」
「結局そこへ戻るのですね」
「当然です」
やはり容赦がない。
けれど、おかげでその後は地下のことを考える余裕もほとんどなくなった。
◇
夕方近く。
訓練を終えて屋敷へ戻り、ミレーヌに髪を整えてもらっていると、廊下の向こうから普段より速い足音が聞こえてきた。
ヴェルシアナとミレーヌがほとんど同時に顔を上げる。
すぐに扉が叩かれた。
「お嬢様。旦那様がお戻りになりました」
その一言だけで、身体が先に立ち上がった。
「どちらに?」
「小会議室でございます」
「行きます」
答えながら扉へ向かうと、ミレーヌもすぐ後ろについた。
「走らないでくださいませ」
「走っていません」
「歩幅が普段の倍でございます」
「急いで歩いているだけです」
「名前を変えても速さは変わりません」
そう返されても、歩幅を戻す気にはなれなかった。
小会議室へ着くと、中にはすでに何人か集まっている。
レオルディス。
セレフィア。
ヴァレンティス辺境公爵。
そして朝同行した技師と術師。
最初に見たのは、誰かが怪我をしていないかだった。
全員が普通に座っていることを確認してから、ヴェルシアナはようやく胸の奥に入っていた力を少し抜いた。
「お帰りなさいませ、お父様」
「ああ」
レオルディスが娘を見る。
「待てたようだな」
「そこは褒めていただいてもよいところだと思います」
「そうだな」
珍しく素直に返された。
たったそれだけなのに、一日きちんと待ったことまで認めてもらえたようで、少しだけ嬉しい。
「見つかったのですか?」
ヴェルシアナが席へ着くのを待ち、レオルディスが一枚の写し図を机へ広げた。
「地下階段は確認した」
古い監視所の簡略図だった。
現在使われている一階の北端に、後から石壁で塞がれた区画がある。
「帳簿上は倉庫として扱われていたが、壁の裏に階段が残っていた。封鎖された時期はまだ特定できていない」
ヴェルシアナは図へ顔を寄せた。
「かなり深いのですか?」
答えたのはヴァレンティス辺境公爵だった。
「階段自体は長い。途中までは監視所と同じ石造だが、下へ進むほど壁の加工が変わっている」
「古くなっている?」
「その可能性が高い。最下部付近は、監視所が建てられるより前から存在していたように見える」
技師が別の紙を広げる。
階段の壁面を写したものらしい。
ヴェルシアナはその線を見た瞬間、視線を止めた。
一つの線が二つへ分かれ、その先でさらに細い道へ枝分かれしている。
図書館で見た記号と完全に同じではない。
だが、構造はよく似ている。
「ルシアン様が覚えていらした記号に近いですね」
「ああ」
レオルディスが頷いた。
「ヴァレンティス側に残る古い記録とも照合する」
紙の上だけで想像していたものが、地下の壁へ刻まれていた。
それだけで、胸の奥が僅かに高鳴る。
「では、施設同士が繋がっている可能性は上がったと考えてよいのでしょうか」
「可能性は上がった。ただし、それだけで断定はしない」
「分かっています」
以前なら、その先を急いだかもしれない。
けれど今回は、父が慎重になる理由も理解できた。
「最下部には何が?」
ヴェルシアナが尋ねると、レオルディスはもう一枚紙を取り出した。
そこには石造りの扉が描かれている。
大人の背丈より少し高く、継ぎ目はほとんど見えない。中央には細い円形の部材が埋め込まれており、図では黒く塗られていた。
グランセル領で見た黒い石が脳裏を掠める。
だがレオルディスは、娘の視線に気づいたのか先に答えた。
「黒い石とは別物だ」
「反応も?」
「少なくとも、魔力を吸収する様子は確認されなかった」
ヴェルシアナは僅かに息を吐く。
「扉は開かなかったのですか?」
「開けていない」
レオルディスの返答に、ヴェルシアナは術師を見る。
安全確認の途中で止めたのだろうと考えたが、術師の表情は思っていたより硬かった。
「扉の周囲に、弱い魔力の流れがございました」
術師が図の左右を指す。
「非常に微弱ですが、両側から中央付近へ入り、そのまま床下へ抜けております。周辺の自然な魔力分布とは、流れ方が異なって見えました」
ヴェルシアナは図を見つめた。
分かれる線。
合流する線。
必要な場所へ流す。
昨日まで紙の上で追っていたものが、地下では本当に魔力として残っている。
「人工的に作られた流路かもしれない?」
「その可能性はございます」
何百年も人の手が入っていないかもしれない施設。
記録から消え、階段まで封鎖され、それでも魔力だけは細く流れ続けている。
完全に死んだ仕組みではない。
その事実だけで、古い施設の見え方が一段変わった。
「ヴィクトル先生にも見ていただく必要がありますね」
「すでに明朝来てもらうよう連絡した」
レオルディスが当然のように答える。
「早いですね」
「必要になると思っていた」
「さすがお父様です」
「褒めても同行条件は変わらないぞ」
まだ何も言っていない。
けれど、考えたのは事実だった。
「安全が確認されてから、ですね」
「ああ」
ヴァレンティス辺境公爵が僅かに笑う。
「聞いていたより話が早いな」
「何を聞いていらしたのです?」
嫌な予感を覚えながら尋ねると、辺境公爵はレオルディスを見た。
「娘が地下へ入りたがるので止めるのが大変だと」
「お父様」
「事実だ」
「過去形にしていただけます?」
「一日待てただけで判断するのは早い」
そこまで言われると反論しにくい。
隣でセレフィアが楽しそうに笑っている。
少しだけ緊張が解けた、その直後だった。
「もう一つある」
レオルディスの声が、先ほどまでより少し低くなった。
ヴェルシアナは自然と姿勢を正した。
「扉そのものより、気になったものだ」
技師が先ほどの石扉の図へ指を置く。
「階段を下りていく途中、上部にはほとんど空気の動きがありませんでした。ですが最下部へ近づくにつれて、僅かに冷たい空気が流れていることに気づきました」
「地下で風が?」
セレフィアも眉を寄せる。
ヴェルシアナはすぐに尋ねた。
「どちらから流れていたのです?」
技師の指が、扉の中央へ移る。
「扉の向こう側からです」
その答えを聞いた瞬間、部屋の空気が一段静かになったように感じた。
ヴェルシアナは図から目を離せなかった。
人が入った記録も残っていない。
階段そのものが石壁の裏へ隠され、その先には何百年も開けられていない可能性のある扉がある。
それなのに、その向こうから空気が流れてくる。
「隙間がある可能性は?」
「確認いたしましたが、目視できる範囲にはございません」
技師は慎重に答えた。
「扉周辺の石組みも比較的密です。もちろん、目に見えないほど細い通気路や別の坑道が存在する可能性は否定できません」
ヴァレンティス辺境公爵も腕を組む。
「地下施設なら換気用の道があっても不思議ではない。そこまでなら、説明はつく」
もっともな話だ。
古代の施設であっても、人が使うなら空気を通す仕組みは必要になる。
けれどヴェルシアナの頭に浮かんだのは、ヴィクトルとの訓練で何度も意識してきたことだった。
風は、道がなければ流れない。
どこかから入り、どこかへ抜ける。
目に見えなくても、流れそのものは必ず何かを示している。
しかも扉の周囲には魔力まで残っている。
魔力と空気という二つの流れが、同じ場所へ重なっていることが、どうしても気になった。
「風の向きや強さも、明日確認できますか?」
「ヴィクトルにも同じことを聞かれた」
レオルディスが答える。
「……先を越されました」
「専門家だからな」
悔しいが、その通りだ。
ヴェルシアナはもう一度扉の図を見る。
最初は、古い記号が一つあっただけだった。
そこから帳簿の数字へ辿り着き、忘れられた旧道が浮かび、封鎖された階段が見つかり、その先には石扉があった。
そして扉の向こうから、風が来ている。
一つの手掛かりを掴むたびに、それまで見えなかった次の輪郭が現れる。
大きな布を一枚ずつめくっているようだった。
下に何があるのか見たいと思って手を伸ばせば、また別の布が現れる。
けれど、そのたび確実に近づいている。
「明日、ですね」
ヴェルシアナが言うと、レオルディスは小さく頷いた。
「ああ。まずヴィクトルと資料を確認する。それから次を決める」
急がない。
それでも止まってはいない。
その進み方が、以前より少し心地よく感じられた。
◇
夜。
自室の窓を少しだけ開けると、昼間までほとんど動かなかった空気が、ようやく夜風となって庭を渡っていた。
木々の葉が暗闇の中で静かに揺れている。
ヴェルシアナは窓辺に立ち、頬へ触れる風へ意識を向けた。
庭の方から入ってきた空気は、カーテンを僅かに持ち上げ、室内を横切ってから奥へ抜けていく。
どこから来て、どこへ進んでいるのかが分かる。
少なくとも、この風なら。
「地下のことを考えていらっしゃるのですか?」
後ろで寝支度を整えていたミレーヌが尋ねた。
「ええ」
ヴェルシアナは窓の外を見たまま答える。
「何百年も閉ざされていたかもしれない場所なのに、扉の向こうから空気が流れているそうです」
口にすると、改めて奇妙だった。
完全に密閉された空間なら、風は生まれない。
もし別の道があるのなら、扉の向こうには思っていたより広い空間が続いている可能性がある。
さらに、そこには微弱ながら魔力まで残っている。
人の記録から消えた場所で、二つの流れだけが途切れず残っている。
それは、誰も住んでいないと思っていた家の奥で、閉め切った扉の隙間から僅かな灯りが漏れているのを見つけたような感覚に近かった。
中に何があるのかは分からない。
ただ、完全に終わった場所ではない。
「風があるなら、その先に道がございますね」
ミレーヌが静かに言う。
「私も、そう思います」
ヴェルシアナは窓辺へ手を置いた。
道がどこへ続くのか。
誰が作ったのか。
なぜ閉ざされたのか。
そして、何百年もの時間を越えてなお、どうして魔力が流れ続けているのか。
疑問は増えている。
けれど、不思議と以前のように全部を自分で確かめなければ落ち着かないとは思わなかった。
明日にはヴィクトルが来る。
父たちが集めた資料がある。
必要なら、現地を確認した専門家の話も聞ける。
そうして一つずつ流れを追えばいい。
風糸を作る時と同じだった。
最初から大きな形を掴もうとすれば、余計なところまで巻き込んでしまう。
細い一本を見つけ、その行き先を追い、途切れそうなら必要な分だけ先へ繋ぐ。
そうしていけば、いつか全体の形へ辿り着く。
ヴェルシアナは窓を閉じた。
室内へ入っていた風は静かに途切れたが、頭の中には旧監視所の地下から伸びる見えない流れが残っている。
石壁の裏へ隠された階段の先で、誰にも見つからないまま何百年も続いてきた風がある。
その流れがどこから来て、何へ繋がっているのかを想像すると、閉ざされた扉の向こうにあるものが、眠っているというより、長い時間をかけてこちらが辿り着くのを待っているように思えた。




