⭐︎第60話 淡い花は、隠れずに咲く
ルシアンが三着の服を前にして考え込んでいる姿を、ヴァレンティス辺境公爵夫人は口を挟まずに眺めていた。
窓から入る朝の光が、寝台の上へ並べられた布を順番に照らしている。
一着目は、これまでルシアンが好んでいた濃紺。銀の縁取りだけが入った、見慣れた仕立てだった。
二着目は、最近よく選ぶようになった淡い灰青色で、袖口には小さな葉の刺繍がある。
そして三着目は、そのどちらとも少し違っていた。
薄く青を含んだ藤色の上着は、肩こそ少年用らしい端正な形を保っているものの、腰から下へ落ちる布が柔らかく、歩けば裾が僅かに揺れるよう仕立てられている。襟元には細い銀糸で蔓と花が描かれ、その中心には白に近い小さな石がいくつか縫い込まれていた。
華美ではない。
けれど、これまでのルシアンなら自分から選ばなかった一着であることは、本人が一番よく分かっていた。
「こちらは?」
ルシアンが三着目へ触れた。
「先日、あなたが『もう少し柔らかな形も見てみたい』と言っていたでしょう?」
母が答える。
「仕立て屋へ相談したら、試しに作ってくれたの。ご令息用の型から大きく外してはいないけれど、裾と襟元を少しだけ変えてあるそうよ」
ルシアンは布を持ち上げた。
柔らかい。
袖口にも花がある。
前に選んだものは、近くへ寄らなければ花だと分からないほど小さかったが、こちらは少し違う。離れたところからでも、蔓の先に花が咲いていることくらいは見て取れる。
隠れていない。
その違いに気づいた瞬間、ルシアンの指先がわずかに止まった。
『次は、もう少しだけ。隠さなくてもいいものを選んでみよう』
馬車の中でそう考えたことを思い出す。
考えるだけなら簡単だった。
けれど実際に目の前へ置かれると、布一枚の向こうに、それを着て人前へ出る自分まで見える。
「今日はアルセリード家の皆様がお見えになるものね」
母の言葉に、ルシアンが顔を上げた。
「……はい」
「ヴェルシアナ様に見てもらいたい?」
答えはすぐに浮かんだ。
見てほしい。
似合うと言ってもらえたら嬉しいし、可愛いともう一度言われれば、おそらく今日一日その言葉を忘れない。
けれど、それだけなら濃紺へ戻すという選択肢を見ても、これほど迷わなかったはずだった。
ルシアンは藤色の上着を鏡の前へ持っていき、自分の身体へ重ねてみる。
淡い髪。
青い瞳。
柔らかな藤色。
思っていたより、よく馴染んでいた。
「見てもらいたいです」
鏡から目を逸らさずに答える。
それから少し考え、言葉を続けた。
「でも、それだけではありません」
母の表情が僅かに和らいだ。
「そう」
それ以上は聞かなかった。
ルシアンは三着をもう一度見比べると、藤色の上着へ手を置いた。
「これを着ます」
口にしてしまえば、不思議なくらい迷いは残らなかった。
◇
髪も少し変えた。
普段のようにすべてを整えて流すのではなく、耳の上だけを細く取り、後ろで小さな銀飾りに留める。
飾りには淡い青の石が一つだけ付いていた。
額から頬へ落ちる髪はそのまま残されているため、正面から見ると柔らかな輪郭がさらに際立つ。
鏡の中には、自分がいる。
それは分かる。
けれど、初めて淡い服を着た朝よりも明らかに印象が違った。
女性に見えるだろうか。
そう考えてから、ルシアンは自分自身の顔をしばらく眺めた。
嫌ではなかった。
「とてもよくお似合いでございます」
髪を整えた侍女が言った。
「……女性のようには見えますか?」
侍女は少し考えた。
「お顔立ちが元々お綺麗ですので、そう思われる方はいらっしゃるかもしれません」
「そうですか」
「お嫌でしたら、髪を戻しますが」
「いいえ」
ルシアンは首を横へ振った。
「このままでお願いします」
その答えだけは、迷わなかった。
◇
朝食室へ入ると、最初にこちらを見たディルヴァンが持っていたパンを口へ運ぶ途中で止まった。
「……おお」
「何ですか」
「思ったより変わったな」
ルシアンは一瞬身構えたが、兄の顔に嘲るようなものはなかった。
むしろ面白い剣でも見つけた時に近い、純粋な驚きだった。
「変ですか?」
「いや」
ディルヴァンは少し離れて弟を見る。
「似合ってる。ただ、今日は本当に女の子みたいだな」
真正面から言われると、胸の奥が少しだけざわついた。
けれど、不快ではなかった。
「そう見えるなら、それでも構いません」
答えてから、自分自身が一番驚いた。
ディルヴァンも一度瞬きをしたあと、すぐに笑う。
「そっか」
それだけだった。
そのやり取りを聞いていた母は楽しそうに紅茶を飲んでいる。
ただ、一人だけ何も言わない人物がいた。
ヴァレンティス辺境公爵だった。
父の視線は、ルシアンの服から髪へ、それから袖口の花へゆっくり移っていく。
怒っているわけではない。
それでも、剣を抜く前の静けさに似た沈黙が、ルシアンの胸を少しだけ締めつけた。
「それは自分で選んだのか」
やがて父が尋ねた。
「はい」
「母親に選ばれたから着たのではなく?」
「違います」
ルシアンは膝の上で指を組む。
逃げたくはなかった。
「僕が、着たいと思いました」
父は息子を見た。
長い沈黙ではなかったはずなのに、ルシアンには妙に長く感じられた。
やがて辺境公爵は一度頷く。
「ならば構わん」
それだけだった。
張っていたものが少し緩む。
しかし父は、そこで話を終えなかった。
「ルシアン」
「はい」
「家の中で似合うと言われることと、外でも同じ反応をされることは別だ」
母の表情から笑みが少し消えた。
ディルヴァンも口を挟まない。
「珍しいものを見れば笑う人間もいる。男らしくないと口にする者もいるだろう。お前が何を選んだところで、それを面白がる者までこちらで消すことはできん」
ルシアンの指先が、袖の花へ触れた。
分かっていなかったわけではない。
仕立て屋でも、花模様を選ぶ男性は多くないと聞いた。
女性のように見えるなら、なおさら何かを言う者はいるだろう。
それでも。
鏡の中にいた自分を思い出す。
藤色の布も、髪を留めた小さな石も、自分で選んで身につけた。
「それでも、着たいです」
声は、自分が思っていたより真っ直ぐに出た。
父の目が僅かに細くなる。
「そうか」
叱責は来なかった。
「ならば、下を向くな」
ルシアンは顔を上げる。
「お前が選ぶこと自体を止めるつもりはない。ただし、その選択を笑う者がいることは知っておけ。そのうえで選んだのなら、他人の顔色を見て自分から恥じる必要もない」
胸の奥へ、重いものが落ちた。
けれどそれは沈ませるための重さではなく、風に煽られた時にも足を地面へ繋ぎ止めてくれる錨のようだった。
「はい」
ルシアンは、もう一度答えた。
向かい側からディルヴァンが笑う。
「まあ、何か言われたら俺が――」
「ディルヴァン」
父の声が飛ぶ。
「何?」
「お前が先に殴る話ではない」
「まだ殴るって言ってないけど」
「顔に書いてある」
ルシアンは思わず息を漏らした。
母も肩を揺らす。
張りつめていた朝食室の空気が、細い亀裂から一気にほどけていった。
◇
アルセリード家の馬車が到着したのは、それから少し後だった。
玄関広間で待っていたルシアンは、遠くから聞こえてくる足音だけで妙に緊張している自分に気づいていた。
父には答えられた。
兄にも見せた。
母や侍女にも似合うと言ってもらった。
それでも、ヴェルシアナがどう見るのかは別だった。
扉が開く。
先に入ってきたレオルディスとヴァレンティス辺境公爵が挨拶を交わし、その後ろからセレフィアとヴェルシアナ、さらにミレーヌが続いた。
ヴェルシアナがこちらを見る。
その目が。
止まった。
完全に止まった。
「……」
「……アルセリード嬢?」
ルシアンが呼ぶ。
返事がない。
ヴェルシアナは、まるで目の前へ知らない生き物でも現れたかのように、こちらを上から下まで見ていた。
◇
まずい。
ヴェルシアナの頭の中では、かなり深刻なことが起きていた。
前回も可愛いと思った。
女の子に見えるとも思った。
だから多少変わっていても、驚くほどではないはずだった。
その認識が甘かった。
ルシアンは淡い藤色の上着を着ていた。
襟元には細い花の刺繍があり、袖から腰へ落ちる布は柔らかい。髪は半分だけ銀飾りで留められ、残った淡い髪が頬の横へ流れている。
少年らしさが消えたわけではない。
それなのに、少年と少女を隔てているはずの輪郭が、朝靄に包まれた川岸のように曖昧になっている。
水面の向こうにいるのが少年なのか少女なのか、目を凝らしても判別できない。
いや。
俺の目には、ほぼ女の子なんだが?
可愛い。
前回より明確に可愛い。
顔が整っているという感想を、完全に飛び越えている。
もし知らない場所でこの姿を見せられて「ヴァレンティス家のご令嬢です」と紹介されたなら、疑問すら持たず信じていただろう。
しかも一番困るのは、無理に女の子へ寄せたように見えないことだった。
服に着られていない。
装飾に顔が負けてもいない。
ルシアン本人の静かな雰囲気と柔らかな色が、最初からそこにあったもの同士のように馴染んでいる。
どうしてそうなった。
俺は少し前まで、こいつを「原作の攻略対象だから近づきすぎないようにしよう」と考えていたはずなんだが。
攻略対象という札を首へ掛けたまま、見た目だけが全力で「女の子です」「可愛いです」「丁寧に扱ってください」と訴えてくる。
反則では?
「ヴェルシアナ?」
隣からセレフィアに呼ばれ、ようやく意識が戻った。
「あ……失礼いたしました」
ルシアンが少し不安そうにしている。
「やはり、変でしょうか」
「違います」
反射的に否定した。
「逆です」
「逆?」
ヴェルシアナは一度息を整えた。
貴族令嬢として言葉を選ぶ。
選ぼうとした。
しかし、口から出たのは結局かなり率直な感想だった。
「似合いすぎていて、驚きました」
ルシアンの瞳が揺れた。
「……本当ですか?」
「ええ。本当に」
もう一度見る。
何度見ても同じだった。
「とても可愛らしいです」
胸の奥で、何かが小さく弾けたようにルシアンの表情が明るくなる。
その反応まで可愛い。
まずい。
前世の俺が完全に混乱している。
「まあ」
横からセレフィアが楽しそうに声を上げた。
「本当にお似合いね。ヴェルシアナと並ぶと、まるで姉妹のようだわ」
「お母様」
そこまで言わなくてもいい。
ヴェルシアナは止めようとしたが、すでに遅かった。
ミレーヌまで二人を見比べている。
「先日は一枚の絵のようだと思いましたが」
「ミレーヌ?」
「本日は、肖像画の題名を変えた方がよさそうですね」
「何の話です?」
「姉妹、と申し上げても違和感がございませんので」
ヴェルシアナは言葉を失った。
ルシアンは耳まで少し赤くなっている。
それでも嫌そうには見えなかった。
「……アルセリード嬢は」
「はい?」
「嫌ではありませんか?」
「何がです?」
「僕が、その……女性のように見えることです」
以前にも似たことを聞かれた。
けれど今日の問いは、少し重さが違った。
ルシアンが着ているのは、誰かから渡された服ではない。
自分で選び、家族へ見せ、その姿でヴェルシアナの前へ立っている。
ならば答える側も、軽く扱うべきではない。
「嫌ではありません」
ヴェルシアナは彼の目を見て答えた。
「それどころか、よくお似合いだと思っています」
そこで一度、藤色の袖へ目を落とす。
「先日の服も素敵でしたけれど、こちらはもっとルシアン様らしいですね」
「僕らしい?」
「ええ」
自分でも、なぜそう思ったのか考える。
淡いからではない。
女性的だからでもない。
「よく見なければ分からない細かなところを、大切になさっている感じがします」
ルシアンが黙った。
「色もそうですし、刺繍もそうです。華やかに見せたいというより、ご自分が綺麗だと思われたものを一つずつ選んだように見えますので」
「……」
「違いました?」
しばらくして、ルシアンが小さく首を横へ振った。
「いいえ」
そして笑った。
「合っています」
その笑顔を見た瞬間、ヴェルシアナの胸の奥にも不思議な暖かさが広がった。
服が似合っていたからではない。
自分が言い当てたからでもない。
目の前の相手が、自分で選んだものを「これが好きだ」と認め始めていることが、なぜか嬉しかった。
◇
両家の大人たちが旧境界の記録を確認している間、子供たちは庭へ移った。
ミレーヌもヴェルシアナの少し後ろを歩いている。
ディルヴァンは庭へ出るなり、昨日届いたという新しい訓練剣の話を始めた。
「あとで見せる。重心がちょっと違うんだ」
「昨日もそれを仰っていましたね」
「今日実物あるから」
「分かりましたから、そんなに急がなくても剣は逃げません」
そんな会話をしながら歩いていると、前方から数人の使用人が大きな布を運んできた。
庭で使う日除けらしい。
道幅は十分ある。
避ける必要もない。
それなのにヴェルシアナは、無意識にルシアンの側へ寄っていた。
風で布が膨らみ、彼の髪飾りへ引っかからないよう、自分が風上側へ立つ。
動いてから気づく。
……まただ。
危険ですらない。
前回は大きな木箱だったので、まだ言い訳ができた。
今回は布が通るだけである。
なのに身体は、女の子の髪や服が乱れそうになった時と同じように先回りしている。
俺の認識、完全に引っ張られてないか?
「アルセリード嬢?」
ルシアンがこちらを見た。
「どうされました?」
「いえ」
ヴェルシアナは通り過ぎた布を見る。
「風が強かったので」
「僕の髪が乱れないように?」
「……まあ」
そういうことになる。
「ありがとうございます」
ルシアンは嬉しそうに髪飾りへ触れた。
しまった。
この反応を見せると、また何か勘違いされる気がする。
いや、そもそも前回の時点で何か大きく勘違いされている可能性が高い。
しかし、自分から「さっき女の子に見えたので反射的に庇いました」と説明するわけにもいかない。
説明したところで、それはそれで誤解を強めるだけではないだろうか。
どちらへ転んでも駄目な気がする。
「ヴェルシアナ」
前を歩いていたディルヴァンが振り返った。
「何?」
「最近ルシアンにだけ妙に優しくない?」
「そのようなことはありません」
「そう?」
「そうです」
ディルヴァンは少し考えたあと、ルシアンを見る。
「まあ、確かに今日のルシアン、俺でもちょっと守らなきゃって感じするけど」
「兄上まで何を言っているのですか」
「だってお前、剣持たせたら絶対似合わないぞ今日」
「服と剣の相性で人を守るか決めないでください」
ルシアンが珍しく少し強めに返す。
ヴェルシアナはそれを聞きながら、内心で深く頷いた。
そうだ。
見た目が可愛いからといって、本人まで別人になったわけではない。
静かに観察し、細かな違いに気づき、必要なら兄へも普通に言い返す。
それでいい。
むしろ、そこがいいのだろう。
◇
庭の東屋へ着くと、少し遅れてヴァレンティス辺境公爵夫妻もやって来た。
大人たちの話が一段落したらしい。
紅茶が用意され、セレフィアも加わると、話題は自然とルシアンの服へ移った。
「ルシアンが自分から仕立てへ意見を出したのは初めてなのですよ」
辺境公爵夫人が嬉しそうに言う。
「お母様」
「よいではないですか。ヴェルシアナ様にも見ていただきたかったのでしょう?」
ルシアンが言葉に詰まる。
ヴェルシアナも少しだけ視線を逸らした。
どうして母親という生き物は、子供が隠したいことをこうも軽々と表へ出すのだろう。
前世でもそういう場面は見た覚えがある。
世界が違っても母親は強いらしい。
「最初は、そうでした」
意外にも、ルシアンは否定しなかった。
皆の視線が集まる。
「最初?」
セレフィアが柔らかく聞く。
ルシアンは自分の袖口へ触れた。
「アルセリード嬢に警戒されたくなくて、少し柔らかな服を選んでみたのが最初です」
ヴェルシアナは紅茶を飲みかけて止まった。
本人の口から聞くと、思っていた以上に重い。
つまり。
やっぱり俺が原因だったのか。
「でも」
ルシアンが続ける。
「選んでみたら、思っていたより好きでした。色を見るのも、刺繍を選ぶのも。それで今日は、もう少し違うものを着てみたくなりました」
声は大きくない。
けれど、その場にいる全員へ届いていた。
「アルセリード嬢に似合うと言っていただきたい気持ちもあります」
ルシアンがヴェルシアナを見る。
まっすぐだった。
「でも、それだけではありません」
朝、鏡の前で母へ言った言葉を、今度はヴェルシアナの前でも口にする。
「僕も、これが好きです」
胸が大きく揺れた。
ヴェルシアナは何も言えなかった。
たった一着の服の話だ。
けれどルシアンにとっては、兄と違うものを選んでもいいと知り、自分の目で綺麗だと思うものを探し始め、その選択を家族や他人へ見せるところまで来た。
最初のきっかけが自分だったとしても、その先を歩いているのは彼自身だ。
小さな花の種を偶然落としただけなのに、気づけば本人が土を選び、水をやり、自分の手で育て始めている。
そこへ「俺のせいで原作と違う方向へ行ってしまった」などと慌てて蓋をする方が、よほど乱暴なのかもしれない。
ふと、視線の端で辺境公爵が息子を見ていることに気づいた。
表情は大きく変わらない。
けれど、その目は厳しくなかった。
「今朝も同じことを話した」
公爵が静かに言う。
「この先、その姿を笑う者はいるかもしれん」
ルシアンが父を見る。
「はい」
「それでも選ぶのかと聞いた」
セレフィアも、ヴェルシアナも黙って聞く。
「ルシアンは着たいと答えた。それなら、私は止めん」
辺境公爵はカップを置いた。
「自分で決めたことなら、その結果も含めて覚えていけばいい。家名に泥を塗るような行いでもないものを、珍しいというだけで禁止する理由はない」
声に派手な温度はなかった。
だからこそ、その言葉は真っ直ぐだった。
ルシアンの母が微笑む。
ディルヴァンは特に感動した様子もなく菓子を食べながら、「似合ってるしな」と付け足した。
「ディルヴァン様」
ヴェルシアナは思わず呼んだ。
「何?」
「いえ……」
あまりにも普通すぎた。
けれど、その普通さこそが一番優しいのかもしれない。
珍しい。
でも、それで何が悪い。
家族全員が同じ形ではないにせよ、結局はそこへ辿り着いている。
ヴェルシアナの胸の奥へ、暖かなものが静かに満ちていった。
◇
その日の後半。
旧境界の記録について、新しい情報が一つ見つかった。
かつて使われていたヴァレンティス側の監視所に、現在は封鎖されている地下階段が残っているらしい。
古い図面には存在しない。
けれど、監視所を管理する古参の家系に「地下の扉は開けるな」という口伝だけが残っていた。
グランセル領で見つかった施設。
アルセリードの帳簿に残された地下灯油。
そして、ヴァレンティス旧境界の封鎖された階段。
点だったものが線へ変わり、その線の先で、本当に何かが待っている。
「大人が先に確認する」
資料を閉じながらレオルディスが言った。
ヴェルシアナは何も言わなかった。
「今日は素直だな」
「私も学習します」
「それならいい」
父はそれ以上何も言わない。
昨日なら、調査へ行きたい気持ちが先に立ったかもしれない。
けれど今日は、不思議とそれだけではなかった。
見つける人がいる。
確認する人がいる。
必要なら自分が呼ばれる。
全部を自分の手でやらなければ物事が進まないわけではない。
そう思えるようになったのは、一人では決して見つけられなかった線を何度も見てきたからだろう。
オルティアが見つけたもの。
ルシアンが覚えていたもの。
ディルヴァンが裏側で見た記号。
ミレーヌが帳簿の端から拾った数字。
自分の魔力だけでは作れないものが、確かにある。
◇
帰る時間が近づき、ヴェルシアナたちは玄関へ向かった。
外では、夕方の光が庭の木々を淡い金色へ変えている。
「アルセリード嬢」
馬車へ乗る前、ルシアンに呼び止められた。
「はい?」
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。お招きいただきありがとうございました」
「そうではなくて」
ルシアンは少しだけ迷い、自分の袖へ視線を落とした。
藤色の布。
隠れていない花。
「これを、似合うと言ってくださったことです」
「本当に似合っていましたから」
「可愛いとも」
「……ええ」
改めて言われると少し気恥ずかしい。
ルシアンは微笑んだ。
「嬉しかったです」
それから、視線を上げる。
「でも、たぶん次に何かを選ぶ時は、アルセリード嬢が好きかどうかだけでは決めません」
ヴェルシアナは黙って続きを待った。
「僕が好きかどうかも、ちゃんと考えたいです」
夕暮れの光が、ルシアンの髪飾りへ触れる。
淡い青の石が一瞬だけ光った。
前回、袖口へ隠していた花は、近づかなければ見えなかった。
けれど今日は違う。
花は最初から見えていた。
本人が隠そうとしていなかった。
その違いが、たった数日の間に生まれたものだとは思えないほど大きく見えた。
「それがよろしいと思います」
ヴェルシアナは答えた。
「似合うかどうかは、私も喜んで申し上げますけれど」
「では、また見てくださいますか?」
ルシアンの目が、わずかに期待を含む。
断る理由を探してみた。
攻略対象。
原作。
破滅回避。
頭の中には、いくらでも警戒すべき単語が並ぶ。
それでも目の前に立っているのは、ゲームの一枚絵ではない。
自分の好きなものを見つけ始めた、六歳のルシアン・ヴァレンティスだ。
「もちろん」
そう答えた。
言ったあとで、しまったと思うより先に、ルシアンの顔が明るくなった。
また一つ。
原作にはなかった約束が増えた。
破滅したくない自分にとって、それは本来なら慎重になるべきことなのだろう。
それでも、後悔は浮かばなかった。
馬車へ乗り込む直前、ヴェルシアナはもう一度だけ振り返る。
玄関前に立つルシアンの藤色の裾が、夕方の風に柔らかく揺れていた。
隣にはディルヴァンがいる。
少し離れた場所には両親もいる。
誰も彼を隠していない。
本人も、隠れていない。
最初は近くへ来なければ見えなかった小さな花が、少しずつ光の当たる場所へ出てきたようだった。
それを綺麗だと思った自分の感覚を、ヴェルシアナも否定しなかった。
◇
馬車がアルセリード邸へ向かって走り始めてから、しばらくして。
向かい側に座るミレーヌが窓の外を見ながら口を開いた。
「お嬢様」
「何でしょう」
「ルシアン様、本当にお似合いでしたね」
「ええ」
ヴェルシアナは素直に頷いた。
「可愛らしかったです」
「随分すんなり仰るようになりましたね」
「事実ですから」
ミレーヌはそれ以上からかわなかった。
代わりに、少しだけ柔らかい声で言う。
「ルシアン様も、とても嬉しそうでございました」
ヴェルシアナは窓の向こうへ流れていく景色を見た。
人は、遠くから見ているだけでは分からない。
近づいて初めて見える花がある。
けれど、その花が自分のものだと分かれば、いつまでも袖の奥へ隠しておく必要はないのかもしれない。
ふと、前世の自分を思い出す。
男として生きていた頃、自分が何を好きだったのかと聞かれて、胸を張って答えられるものがどれほどあっただろう。
周囲に合わせて。
面倒を避けて。
選ばなくても生きていけるものは、わざわざ選ばないまま過ごしていた。
そう考えると、六歳のルシアンが自分で好きな色を選び、それを人前へ着て出ることは、自分が思っていたよりずっと勇気の要ることなのかもしれない。
だから。
あの姿を可愛いと思っただけではなく。
少し、格好いいとも思った。
その感想だけは、次に会った時まで胸の内へしまっておくことにした。
袖口へ隠れていた花とは違い、いつか本人へ伝えるために。




