⭐︎第58話 花を見つけた距離で
古い紙には、不思議な匂いがある。
乾いた木と埃、それから誰にも開かれないまま積み重なった年月そのものを、薄い紙の間へ閉じ込めたような匂い。
アルセリード家の書庫から運び出された写本を前に、ヴェルシアナは机いっぱいに広げられた文字列を眺めていた。
読めないわけではない。
むしろ、読めるからこそ厄介だった。
意味の分かる文章の間へ、用途の分からない記号が石畳の欠けた部分のように入り込み、こちらが何かを掴んだと思うたび、その先で道が途切れる。
「こちらが、図書館で見つけたものと似ているのですよね」
「おそらくは」
隣で資料を確認していたレオルディスが、写本の端を指先で押さえた。
「ただし、形が似ているからといって同じ意味とは限らない。古い記号は時代や用途によって意味が変わることもある」
「何百年も残すのでしたら、もう少し未来の人間へ親切に書いていただきたいものです」
「書いた人間も、六歳の娘に解読されるとは考えていなかっただろう」
「それを言われますと何も返せませんね」
父は僅かに口元を緩めたあと、再び資料へ視線を戻した。
机の中央には、以前ルシアンと王立図書館の分館で見つけた北部の古い資料から書き写した記号が置かれている。
大まかな意味は、おそらく「流れを分ける」。
ただ、アルセリード家に残されていた写本には、よく似た記号が形を少しずつ変えながら複数並んでいた。
一つの線が二つへ分かれるもの。
分かれた片方が再び別の線へ合流するもの。
幾つもの細い線が、最後には一つの場所へ集まるように描かれたものまである。
ヴェルシアナは紙の上を指で辿りながら、ヴィクトルとの訓練を思い返していた。
風を大きな塊として押し出すのではなく、細い一本の流れとして捉える。
必要な場所へだけ通し、周囲を巻き込まない。
自然に存在している流れが利用できるなら、わざわざ自分の力だけで押し切らない。
風糸を覚えてから、魔法を見る目そのものが少し変わった。
力というより、道を見る。
どこから来て、どこへ抜け、途中で何と交わっているのか。
もし古代の施設も同じ思想で作られているのなら、そこに刻まれた線は単なる記号ではなく、もっと直接的な意味を持っているのかもしれない。
「また紙の中へ入りかけているな」
「……分かります?」
「呼びかけても反応しなくなる」
レオルディスがそう言った直後、廊下側から控えめに扉が叩かれた。
「ヴァレンティス辺境公爵家のご子息方がお見えになりました」
使用人の声に、ヴェルシアナは背筋を伸ばした。
本当に入り込んでいたらしい。
「通してくれ」
レオルディスが短く答える。
ほどなく扉が開き、最初に入ってきたのは見慣れた赤茶色の髪だった。
「こんにちは、ヴェルシアナ」
「こんにちは、ディルヴァン様」
ディルヴァンがいつもの調子で片手を上げ、その後ろからもう一人の少年が室内へ入ってくる。
その姿を見た瞬間。
ヴェルシアナは、挨拶を返すのが一拍遅れた。
「お招きいただきありがとうございます、アルセリード嬢」
声は間違いなくルシアンだった。
顔も知っている。
薄い色の髪も、静かな青の瞳も、何度も見ているものだ。
なのに、最初の一瞬だけ、誰が入ってきたのか分からなかった。
淡い灰青色の上着は、少年用としての端正な形を残しながら、肩から袖へかけて柔らかな布が流れている。襟元の銀糸は以前より細く、髪も耳へかけず頬の横へ自然に落とされていた。
元々中性的だった顔立ちから、少年らしい硬さだけを薄布でそっと拭い取ったような姿だった。
色の白い頬。
長い睫毛。
細い顎。
それらを淡い色彩が囲むことで、以前なら「整った少年」というところで止まっていた印象が、まったく別の場所へ滑り込んでいる。
――可愛い。
そう思ってしまった。
いや、待て。
可愛いというより。
これ、普通に女の子に見えないか?
前世の俺が街中ですれ違ったなら、おそらく一度は女性だと思って振り返っている。声を聞いて初めて少年だと知り、二度見していた可能性すら高い。
ゲーム画面の中では、将来女性人気が高くなる攻略対象として見ていた。
整った顔の少年。
それ以上でも以下でもなかったはずなのに。
現実に呼吸し、服を選び、自分に似合う形を少しずつ見つけたルシアンは、薄い殻を一枚ずつ剥がすたび、中から思いもしなかった色を覗かせている。
「アルセリード嬢?」
ルシアンが僅かに首を傾げた。
その仕草まで妙に様になっている。
「あ……失礼いたしました」
ヴェルシアナはようやく我に返った。
「今日は、ずいぶん印象が違いますね」
ルシアンの目が僅かに揺れる。
「変でしょうか」
「いいえ」
それだけは即答できた。
「とてもお似合いです。それに……」
そこで一度言葉が止まった。
本人へ言っていいものか少しだけ迷ったものの、似合っているものをわざわざ濁す理由もない。
「とても可愛らしいですね」
ルシアンが固まった。
その横でディルヴァンが「ああ」と頷く。
「俺も今日それ思った」
「兄上は家を出るまで何も言わなかったでしょう」
「別に変じゃなかったから」
「それは理由になっていません」
「似合ってるならいいじゃん」
兄の返事はあまりにも平然としていて、ルシアンの方が言葉に困っている。
ヴェルシアナは二人のやり取りを眺めながら、もう一度ルシアンへ視線を向けた。
やっぱり可愛い。
困った。
攻略対象であることは何一つ変わっていないはずなのに、視覚から入ってくる情報がそれを全力で邪魔している。
頭の奥に吊るしていた警戒の鐘へ、誰かが薄い布を一枚被せたようだった。
鳴ってはいる。
ただし、音が遠い。
◇
「お茶をお持ちしました」
資料の説明を始めようとしたところで、ミレーヌが茶器を載せた盆を持って入ってきた。
彼女は机へ近づき、カップを置こうとして――ほんの僅かに動きを止めた。
「ミレーヌ?」
「失礼いたしました」
すぐに手を動かし始めたものの、ヴェルシアナには分かった。
何か見ていた。
「どうされました?」
「いえ」
ミレーヌはカップを置き終えると、ヴェルシアナと、そのすぐ隣に立っていたルシアンを一度見比べた。
「お二人で並ばれますと、一枚の絵のようだと思いまして」
「絵?」
「はい。お二人とも淡いお髪ですし、本日のお召し物もよく調和しておりますので」
言われて、ヴェルシアナはルシアンを見る。
自分はいつもの淡い色のドレスに銀髪。
ルシアンは灰青色に、白に近い髪。
確かに色の系統だけなら近い。
「それでしたら、ルシアン様がお綺麗だからでしょう」
何気なく答えると、ミレーヌが一度だけ瞬きをした。
ルシアンもこちらを見る。
「……僕が?」
「ええ」
「アルセリード嬢も十分――」
「お嬢様はご自分を数に入れないところがございますので」
ミレーヌが静かに挟んだ。
「ミレーヌ?」
「事実を申し上げただけでございます」
さらりと言って茶器を整える。
以前なら、そこで引いていたかもしれない。
けれどミレーヌはもう、必要ならヴェルシアナへも普通に言葉を返す。
そして言いたいことだけ言い終えると、今度はルシアンの袖へ視線を落とした。
「その刺繍も素敵ですね」
ルシアンの表情が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
「近くで見ると、何か模様が入っているのでしょうか」
「……分かりますか?」
「銀糸の間に、少し違う形がございますね」
ミレーヌはそこまで言うと、ヴェルシアナを見るでもなく、ただ小さく微笑んだ。
その時は意味が分からなかった。
後になって考えれば、彼女は最初から気づいていたのだろう。
ヴェルシアナがまだ見つけていないものに。
◇
三人が机を囲むと、資料の話はすぐに始まった。
レオルディスは必要な説明だけを終えると、別室でヴァレンティス辺境公爵と古い北方記録について話すため席を外した。
残された紙の上へ、ディルヴァンが身を乗り出す。
「これが手紙にあったやつ?」
「ええ。こちらが図書館で見つけたものを書き写した記号です」
「やっぱり、訓練装置の下に似たのがあった気がする」
「下ですか?」
「石の裏側。前に装置を作り直した時、一度全部外しただろ。その時に見た」
ヴェルシアナが紙を近づける。
「こちらと同じでした?」
「完全には違う。たぶん、もう一本横に線があった」
ディルヴァンが記憶を探すように眉を寄せる。
すると、向かい側で静かに写本を見ていたルシアンが、指先を一つの記号へ止めた。
「こちらではありませんか?」
示されたのは、一度分かれた線の片方が、再び別の線へ入り込むように描かれたものだった。
ディルヴァンが顔を近づける。
「……これだ。たぶん」
「本当ですか?」
「絶対とは言えない。でも、こっちの方が近い」
ヴェルシアナは二つの記号を並べた。
一つは流れを分けているように見える。
もう一つは、分けたものを別の場所へ戻している。
「戻しているのでしょうか」
「戻すというより」
ルシアンが白紙を一枚引き寄せた。
「別の流れへ合わせているようにも見えます」
細い指が、紙の上へ三本の線を描く。
一つが途中で分かれ、その片方が隣の線へ合流する。
「図書館の本では、この記号の前後に同じような点がありました。区切りだと思っていましたが、もし点そのものが流れを示しているなら、こういう形かもしれません」
ルシアンの描いた線を見た瞬間、ヴェルシアナの頭の中で、風糸の感覚と紙の上の模様が重なった。
一つを無理に押すのではない。
分ける。
流す。
別の流れへ渡す。
「川みたいですね」
「川?」
ディルヴァンが聞き返す。
「大きな川を力ずくで曲げるのではなく、途中に細い水路を作って別の場所へ流し、必要ならまた大きな流れへ戻すような仕組みです」
紙の上の線が、ただの線ではなくなっていく。
それは山間を縫う水路にも見えたし、木の根が見えない土の下で互いへ触れ合っている姿にも見えた。
一本だけを見れば、ただの細い道に過ぎない。
けれど複数を繋げた瞬間、それまで見えなかった大きな形が浮かび上がる。
「訓練装置も、一つだけ変えると他の石へ影響しましたよね」
「うん」
ディルヴァンが頷く。
「全部繋がってるから」
その言葉に、ヴェルシアナの指先が止まった。
全部、繋がっている。
古代施設も同じだとしたら。
グランセル領で見つかったものも、北部の施設も、単独の仕組みではない可能性がある。
「ルシアン様、図書館の頁に、この記号は一つだけでしたか?」
ルシアンはすぐには答えず、目を伏せた。
記憶を引き出す時の彼は、静かな湖の底へ手を伸ばすように、急がない。
ヴェルシアナも待った。
やがてルシアンが顔を上げる。
「三つありました」
「三つ?」
「完全に同じではありません。最初は線が二本で、次は三本。最後はもう少し多かったと思います」
白紙へ記号を書き足していく。
最後の一つは、幾つもの線が外側へ広がりながら、別の場所でまた交わっていた。
ヴェルシアナは思わず身を乗り出した。
その時。
廊下側から、何か重いものが擦れる音が聞こえた。
「失礼いたします」
扉の外から声がして、使用人二人が大きな木箱を運びながら通り過ぎようとする。
古い地図を収めた箱らしく、横幅がかなりある。
室内へ入るわけではない。
ただ、開いた扉の前を通るには少し狭かった。
ディルヴァンはすぐに椅子を引いた。
ルシアンも避けようとする。
そのはずだった。
けれどヴェルシアナは、考えるより先に動いていた。
「ルシアン様、こちらへ」
彼の手首を取り、自分の側へ引き寄せる。
木箱の端がこちらへ振れないよう、反対側の手では細い風を走らせ、僅かに軌道を外へ押した。
箱は何事もなく通り過ぎていく。
「失礼いたしました」
「お気になさらず」
使用人へそう返してから。
ヴェルシアナは、自分の手元を見た。
ルシアンの手首を掴んでいる。
しかも彼を自分より壁側へ入れ、自分が通路側に立っている。
完全に。
完全に今。
女の子を庇う時の動きをした。
俺、何やってるんだ?
頭では分かっている。
ルシアンは男だ。
しかも、できれば余計な関係変化を起こしたくない攻略対象である。
それなのに、目から入ってきた姿があまりに少女へ寄っていたせいで、前世から染みついていた妙な反射が先に身体を動かした。
「……失礼いたしました」
ヴェルシアナはそっと手を離した。
「咄嗟でしたので」
「いえ」
ルシアンは自分の手首を見る。
そこに何か残っているはずもないのに、しばらく視線を落としたままだった。
「ルシアン?」
ディルヴァンが呼ぶ。
「何でもありません」
顔を上げたルシアンは落ち着いていた。
ただ、その瞳の奥には、先ほどまでなかった小さな光が灯っていた。
ヴェルシアナには、その意味が分からなかった。
◇
資料へ戻ってからしばらくして、窓から差し込んだ午後の光がルシアンの袖口を掠めた。
銀糸が一瞬だけ輝く。
その奥に、別の形が見えた。
「あら」
ヴェルシアナは思わず声を漏らした。
「どうしました?」
「ルシアン様、少し腕を見せていただいても?」
その瞬間、ルシアンの姿勢が僅かに固くなる。
「腕、ですか?」
「ええ。刺繍です」
差し出された腕へ、ヴェルシアナは自然に身を寄せた。
銀糸だけだと思っていた模様の中には、小さな花が連なっている。
中心だけが銀色で、花弁は生地より一段淡い糸。
遠くからでは、それが花だとほとんど分からない。
「これ、花だったのですね」
「……はい」
「素敵ですね。遠くから見ると普通の模様に見えるのに、近くではちゃんと花だと分かります」
言いながら、さらに少し顔を近づける。
細かな刺繍だった。
ミレーヌが先ほど気づいた理由も分かる。
「触れても?」
「もちろんです」
許可をもらい、ヴェルシアナは袖口の端を軽く持ち上げた。
布越しに触れているだけなのに、ルシアンの肩が僅かに揺れる。
「こちらも、ご自分で選ばれたのですか?」
「はい。仕立て屋で」
「花も?」
「それも僕が」
ヴェルシアナは顔を上げた。
近い。
思っていたより、かなり近い。
少し首を動かせば、ルシアンの淡い髪が視界の端へ触れそうなほどだった。
それでも身体は下がらなかった。
むしろ目の前の顔を見て、別の感想が先に浮かぶ。
……近くで見ると、さらに女の子っぽいな。
睫毛長いし。
肌も綺麗だし。
何より今日の服装と髪型が、全部そちらへ作用している。
頭の中では「攻略対象の少年」と理解しているのに、視覚だけが「可愛い女の子です」と頑として譲らない。
人間の認識というのは、思っていた以上に雑らしい。
「アルセリード嬢?」
「失礼しました」
また見すぎた。
「花が似合っていると思いまして」
「花が?」
「ええ。というより、こういう細かな装飾そのものがよくお似合いですね」
ルシアンがゆっくり瞬きをする。
「オルティア嬢にも、似たことを言われました」
「オルティア様に?」
嫌な予感がした。
「何をお話しになったのです?」
「アルセリード嬢は、女性には甘いと」
「……オルティア様?」
今度会ったら少し詳しく聞く必要がありそうだった。
いったい自分は、本人のいないところで何を言われているのだろう。
ルシアンは少しだけ迷うように視線を伏せる。
「でも、女性らしくすればよいという話ではないとも言われました。僕に似合うものを選んだ方がいい、と」
「それはその通りだと思います」
「アルセリード嬢も?」
「もちろんです」
ヴェルシアナは持っていた袖口をそっと離した。
「誰かに好かれるためだけに、ご自分が嫌いなものを選ぶ必要はないでしょう。今日のお召し物はとてもお似合いですし、ルシアン様ご自身も気に入っていらっしゃるのでしたら、それが一番では?」
ルシアンはしばらく黙っていた。
やがて、小さく口を開く。
「……僕が女性だったら」
「はい?」
「もっと、アルセリード嬢は警戒しなかったのでしょうか」
ヴェルシアナの思考が止まった。
ルシアンは冗談を言っている様子ではない。
青い瞳が、静かにこちらを見ている。
「先ほども、僕をこちらへ引いてくださいました」
「あれは危なかったので」
「兄上にはしませんでした」
「ディルヴァン様は先に避けていらっしゃいましたから」
「それだけでしょうか」
返事に詰まる。
痛いところを突かれた。
完全にそれだけかと言われれば、怪しい。
目の前にいるルシアンを一瞬でも少女のように認識したからこそ、身体が先に動いた自覚がある。
「僕がもっと女性のように見えたら」
ルシアンは袖口の花へ視線を落とした。
「アルセリード嬢は、もっと自然に近くへ来てくださるのでしょうか」
ヴェルシアナは答えられなかった。
なぜなら、それはたぶん半分くらい当たっている。
自分にとって令嬢たちは、ゲーム上の攻略対象ではない。
誰かと親しくなったせいで原作の人間関係が思わぬ方向へ揺れ、自分の破滅回避の計算まで崩れるのではないかと、そのたびに身構える必要もない。
さらに前世では男だったせいなのか、女の子が困っていれば自然と手を貸したくなるし、距離が近くても男性相手ほど警戒しない。
つまりルシアンの観察は、根本原因こそ知らないものの、完全な的外れではないのだ。
だからこそ困る。
「……僕」
ルシアンが、僅かに笑った。
それは楽しそうというより、自分でも少しおかしいと思っているような笑い方だった。
「女性だったらよかったのに、と思うことがあります」
胸の奥で、何かが跳ねた。
「女性に?」
「はい」
「本当に?」
「もし簡単になれるものなら」
そこで彼は少し考え、それから小さく付け足した。
「……なってみたいと思うくらいには」
性別はそんな簡単に変えるものではない。
そう言いかけて。
ヴェルシアナは、完全に口を閉じた。
待て。
俺がそれを言うのか?
前世で男だった人間が、現在は銀髪赤紫眼の公爵令嬢としてドレスを着ている。
しかも五歳の頃からこの身体で暮らし、今では外へ出る時にスカートの裾を踏まない歩き方まで自然に身についている。
性別なんて簡単に変わるものではありません、と説教した瞬間、この世で一番説得力のない人間になる自信がある。
ヴェルシアナは内心で頭を抱えながら、目の前のルシアンを見た。
「……少なくとも」
慎重に言葉を選ぶ。
「お召し物や髪型でしたら、試してみてもよろしいのではありませんか?」
「女性のようなものでも?」
「ご本人がお嫌でなければ」
「アルセリード嬢は嫌ではありませんか?」
「私が?」
なぜ自分の許可が必要なのだろう。
「まったく嫌ではありませんよ」
正直に答えた。
「むしろ今日のお姿は、とても可愛らしいと思っています」
ルシアンの目が、大きく開いた。
ヴェルシアナはその反応を見て、余計なことを言っただろうかと少し不安になる。
しかし、嘘を言ったわけではない。
「本当に、女性のようでも?」
「似合っていらっしゃるなら、よろしいのでは?」
「……そうですか」
「それに」
ヴェルシアナは、少しだけ笑った。
「ルシアン様のお召し物は、ルシアン様がお決めになることでしょう。私が好きか嫌いかだけで決めてしまう方が、おかしいと思います」
ルシアンは何も言わなかった。
その沈黙は重くなかった。
春先の雪が音もなく解け、見えなかった土の色だけがゆっくり現れていくような、静かな時間だった。
やがて彼の指が、自分で選んだ袖口の花へ触れる。
「では」
声が少しだけ柔らかい。
「もう少し、試してみたいです」
「ええ」
「似合うものを」
「それがよろしいと思います」
ヴェルシアナは素直に頷いた。
その瞬間、ルシアンの表情が明るくなる。
今日何度目か分からない。
けれど、やはり思う。
この子、笑うとものすごく可愛いな。
攻略対象という文字が、頭の片隅で必死に存在を主張している。
しかし視界の中では、淡い髪の美少女にしか見えない少年が、小さな花を袖へ咲かせながら嬉しそうに笑っている。
勝てるわけがなかった。
少なくとも、この瞬間だけは。
◇
「お戻りになられましたか」
ミレーヌの声に振り返る。
彼女はディルヴァンとともに、別の古地図を持って戻ってきていた。
「こっちにも似た印あった」
ディルヴァンが地図を机へ広げる。
「ただ、場所がちょっと違う」
ルシアンもすぐに表情を切り替え、机へ向かった。
さっきまで女性になってみたいと話していた少年と、古代記号を正確に記憶している少年が同じ人物なのだと思うと、不思議な感覚がある。
けれど本来、人間とはそういうものなのだろう。
一つの特徴だけで出来ているわけではない。
剣が強いからディルヴァンなのではない。
服が可愛いからルシアンなのでもない。
人を一つの札へ押し込めて見れば簡単だが、近づけば近づくほど、その札からはみ出した部分の方が増えていく。
「ヴェルシアナ」
ディルヴァンに呼ばれ、意識を地図へ戻す。
「これ重ねられない?」
二枚の古地図は大きさが僅かに違う。
しかも原本は乾燥しており、乱暴に動かすわけにはいかない。
「原本同士を重ねるのは避けたいですね」
「じゃあ写す?」
「その方が――」
言いながら、ヴェルシアナは机の端に置かれていた薄い写し紙へ目を向けた。
紙そのものを持ち上げて重ねなくてもいい。
流れを変えれば。
「少し試します」
指先へ意識を集める。
窓から入る空気は弱い。
以前なら自分の魔力で新しい風を作っていただろう。
けれど、必要なのは力ではない。
そこにある流れの向きを、ほんの少し変えるだけでいい。
写し紙の端を撫でるように、細い風を通す。
紙が音もなく滑り始めた。
隣に置かれた古文書はほとんど揺れない。
一枚の紙だけが、水面に落ちた花びらのように静かに進み、必要な位置へ来たところでゆっくり止まった。
「……すご」
ディルヴァンが呟く。
「前より、音がしませんね」
ルシアンが言った。
ヴェルシアナは彼を見る。
「分かりました?」
「はい。以前は魔力を移した時、周りのものにも少し動きがありました。今日は紙が進み始めるまで、魔法を使ったこと自体に気づきませんでした」
胸の奥に、小さな灯りが点いた。
ただ「すごい」と言われるより、こうして変わった部分そのものを見つけてもらえる方が嬉しい。
「最近は、流れを大きくするより、必要なところだけ動かす練習をしているのです」
「似合っています」
「……魔法が?」
「はい」
ルシアンは自然に頷いた。
「大きな力で押すより、誰も気づかないくらい小さな違いを見つけて動かす方が、アルセリード嬢らしい気がします」
ヴェルシアナは一瞬、言葉を失った。
自分がルシアンの服を「似合う」と思ったのと同じように。
彼は、魔法の使い方を自分に似合うと言った。
「ありがとうございます」
素直に返すと、ルシアンも僅かに笑った。
その横でミレーヌが、二人を見比べている。
「ミレーヌ?」
「いえ」
彼女は写し紙を押さえながら、静かに答えた。
「やはり、お二人が並んで何かを見ていらっしゃると絵になりますね」
「またですか?」
「先ほどより、さらに」
何が違うのか分からない。
ヴェルシアナが首を傾げている間に、ルシアンはほんの少し嬉しそうに視線を落としていた。
◇
写し取った記号を古地図へ合わせていくうちに、最初はばらばらに見えていた黒い印へ規則が生まれ始めた。
アルセリード家の古い記録には三つの施設。
現在確認されているものは一つ。
それなら二つが失われたのだと考えていた。
だが、古地図の黒い印は五つある。
「二つ足りないのではなく」
ヴェルシアナは地図の上で指を止めた。
「最初から、三つだけではなかった?」
ルシアンも隣から覗き込む。
「こちらの記録には、施設全体ではなく管理対象だけが書かれていた可能性がありますね」
「どういう意味?」
ディルヴァンが問う。
「例えば五つ全部が同じ役割ではなく、そのうち三つだけをアルセリード側で管理していたとか」
「じゃあ残り二つは別の家?」
「あるいは、別の地域です」
ヴェルシアナが写し紙へ線を引く。
分岐。
合流。
別の流れへの接続。
ルシアンが記憶していた記号の順序を当てはめると、黒い点の間へ一本ずつ道が生まれていく。
最初はただの点だった。
けれど点と点の間へ線が引かれるたび、古い国土の下で長く眠っていた何かが、少しずつ輪郭を取り戻していく。
山を避け。
川へ寄り添い。
谷を抜け。
線は北へ伸びていた。
「……これ」
ディルヴァンの声が低くなる。
「ヴァレンティス領まで来てる」
地図の端。
旧境界に近い場所へ、一つの黒点がある。
ルシアンがそこへ指を置く。
「その先にも線があります」
「地図が切れているから見えないだけ?」
「可能性はあります」
三人の間から声が消えた。
紙の上に浮かんだのは、施設の配置というより、巨大な一つの流れだった。
それは国土を縫う川にも見えた。
地中へ張り巡らされた血管のようにも見えた。
あるいは。
ヴェルシアナには、一本一本の細い糸が互いへ絡まりながら、途方もなく大きな布を織り上げているように見えた。
自分が覚えた風糸など、その端から零れた一本にも満たない。
けれど発想は似ている。
一つの場所で全てを支えない。
分ける。
渡す。
繋ぐ。
流れそのものを使う。
もし古代の人間が国土規模でそれを行っていたのなら、グランセル領で見つかった異常は、一つの施設だけの問題ではなくなる。
一箇所で詰まった流れが、遠く離れた場所へ歪みを押し出していた可能性すらある。
「お父様を呼びます」
ヴェルシアナが立ち上がる。
「俺も父上呼んでくる」
ディルヴァンも続いた。
「僕は、この線をもう一枚写しておきます」
ルシアンが残る。
誰に指示されるでもなく、それぞれが自分にできることを選んでいた。
ヴェルシアナは扉へ向かいかけて、一度だけ振り返る。
机へ向かうルシアンの淡い髪が、窓から入る光に透けていた。
袖口では、小さな花が銀色に咲いている。
少し前までなら。
攻略対象だからという理由だけで、なるべく遠くへ置いておきたい相手だった。
けれど彼の記憶がなければ、今日この線には辿り着かなかった。
自分が彼を警戒していたことと。
彼が信頼できる人間であること。
その二つは、本当は最初から両立できたのかもしれない。
「ルシアン様」
呼ぶと、彼が顔を上げた。
「はい?」
「来てくださって、ありがとうございました」
「まだ何も終わっていませんよ」
「それでもです」
ヴェルシアナは笑った。
「お手紙をお送りして、正解でした」
その瞬間。
ルシアンの瞳へ光が差した。
静かな湖面の底まで届いた朝日のように、ゆっくりと、それでも確かに。
ヴェルシアナはそれ以上何も言わず、部屋を出た。
扉が閉じる直前。
ルシアンの指が、自分の袖口の花へそっと触れたことには気づかなかった。
◇
帰りの馬車では、ディルヴァンが途中から眠っていた。
大人たちに訓練装置の構造を何度も聞かれ、さすがに疲れたらしい。
ルシアンは向かい側で眠る兄を一度見てから、窓へ視線を移した。
夕暮れの光が斜めに差し込み、袖口の銀糸を淡く染めている。
三日前。
鏡の前で考えた。
この花にヴェルシアナは気づくだろうか。
近づかなければ分からない。
もし見つけてもらえたなら、その時、自分たちの間にはどれほどの距離が残っているのだろう。
今日。
彼女は自分から近づいてきた。
袖口へ顔を寄せ、花を見つけ、それを自分で選んだと知った時には「なおさら素敵だ」と言ってくれた。
そして。
『とても可愛らしいですね』
その言葉を思い出すと、胸の内側へ再び熱が広がった。
服装を変えたから、すべてが変わったわけではない。
それくらいはルシアンにも分かっている。
温室で自分の言葉を信じてもらった。
図書館では同じ頁を読み、覚えていたことを頼ってもらった。
今日も資料について自分へ直接手紙が届いた。
積み重なったものがある。
それでも。
オルティアの言葉も、やはり完全な間違いではなかった。
柔らかな服を着るようになってから、ヴェルシアナは以前ほど自分から距離を取らなくなった。
今日は花を見るために自分から近づいた。
廊下では手首を掴み、自分を内側へ引いた。
そして、女性のような服を着てみたいと言っても嫌ではないと答えた。
『むしろ今日のお姿は、とても可愛らしいと思っています』
ルシアンは窓へ映る自分を見る。
淡い髪。
柔らかな色の服。
袖口に隠した、小さな花。
十日前なら、自分から選ぶことのなかった姿だった。
けれど鏡に映るそれを見ても、もう誰か別の人間には見えない。
ヴェルシアナに近づきたくて選んだことは間違いない。
彼女が褒めてくれることが嬉しくて、もう少し変えてみたいとも思った。
ただ、それだけではなくなっている。
自分で選んだ花が綺麗だと思った。
淡い色が自分に似合うと知って嬉しかった。
髪を柔らかく流した姿も、嫌いではない。
ヴェルシアナのために開けた小さな扉の向こう側に、自分でも知らなかった部屋があったようなものだった。
最初は彼女だけを見ながら足を踏み入れた。
けれど中へ入ってみれば、そこには自分が好きかもしれない色や形が、思っていた以上にたくさん並んでいる。
『僕が女性だったらよかったのに』
自分で口にした言葉を思い返す。
完全に冗談だったわけではない。
もし女性なら、ヴェルシアナはもっと自然に近づいてくれるかもしれない。
自分を警戒しなくなるかもしれない。
その期待は確かにある。
けれど彼女から、
『ルシアン様のお召し物は、ルシアン様がお決めになることでしょう』
そう言われた時。
胸の奥に生まれたものは、それとは少し違った。
女性になれなくても。
女性のようなものを選んでもいい。
自分に似合うと思うなら、誰かに許されるためではなく、自分で選んでいい。
その考えは、思った以上に心地よかった。
馬車が石畳の継ぎ目を越え、僅かに揺れる。
袖口の花が光った。
ルシアンは指先で、その小さな刺繍へ触れた。
今日は隠れるような花を選んだ。
近くまで来なければ、誰にも分からないものを。
けれど次は。
もう少しだけ、見えるものでもいいのかもしれない。
小さな飾りでも。
髪に使う何かでも。
あるいは、今日よりほんの少しだけ柔らかな形の服でも。
それを着た自分をヴェルシアナがどう見るのか、知りたい。
同時に。
それを着た自分自身が何を思うのかも、確かめてみたかった。
窓の外では、夕日の色が街の屋根をゆっくりと染めていた。
昼と夜の境目は、空のどこかに一本の線を引いて分かれるわけではない。
青が薄れ、赤が混じり、紫へ溶けていくうちに、気づけば別の時間へ変わっている。
ルシアンの中で起きていることも、きっとそれに似ていた。
ヴェルシアナに近づきたいという願いと、自分が好きなものを見つけ始めた気持ちは、どこからどこまでが別のものなのか、もう簡単には切り分けられない。
それでも、無理に分ける必要はないのだと思えた。
彼女に見てほしいから選ぶ。
自分でも綺麗だと思うから選ぶ。
その二つが同じ一着の中にあってもいい。
ルシアンは夕暮れの窓に映る自分へ、ほんの少しだけ笑った。
袖口へ隠した花は、ヴェルシアナに見つけてもらえた。
ならば次は、もう少しだけ。
隠さなくてもいいものを選んでみよう。




