第57話 ルシアンは、花を袖に隠す
新しく仕立てた服がヴァレンティス邸へ届いたのは、仕立て屋を訪れてから十日ほど経った頃だった。
朝食を終えて自室へ戻ったルシアンは、寝台の上に置かれた細長い箱を見るなり、それが何なのかすぐに分かった。
「届いたのですか?」
「はい。先ほど仕立て屋から」
侍女が答えながら留め紐を解き、箱を覆っていた薄紙を静かに外していく。
ルシアンはその手元を追うように、自然と一歩近づいた。
以前なら、新しい服が届いたと聞いても、着る必要のある日に出してもらえば十分だった。寸法が合い、ヴァレンティス家の子息として不相応でなければ、それ以上に関心を向ける理由などほとんどなかったからだ。
けれど今回は違う。
布も、刺繍も、自分で選んだ。
あの小さな見本が、どんな一着になったのかを見てみたかった。
薄紙の下から現れたのは、淡い灰青色の上着だった。
店で布だけを見た時より、仕立て上がった服は少し落ち着いた色に見える。襟から肩へ流れる線はすっきりとしており、柔らかな生地を使っていても全体の形は崩れていない。
そして袖口には、ルシアン自身が選んだ刺繍が入っていた。
「……思っていたより目立ちませんね」
「お気に召しませんでしたか?」
「いいえ。むしろ、このくらいがいいです」
離れて眺めれば、細い銀糸を使った飾り模様にしか見えない。
けれど近づいて確かめれば、小さな花が連なるように縫われていることが分かり、その中心だけに使われた銀糸が光を拾うたび、輪郭がわずかに浮かび上がる。
リュネアの袖を飾っていた刺繍ほど華やかではなく、オルティアの服に使われていた意匠ほど目を引くものでもない。
それでも、二人の服を見たことをきっかけに、自分で選んだものだった。
ルシアンは指先で袖口に触れる。
思っていた以上に、完成した姿が気に入った。
「お召しになりますか?」
侍女に尋ねられ、ルシアンはほとんど迷わなかった。
「お願いします」
◇
着替えを終えると、ルシアンは鏡の前へ立った。
淡い色の服はすでに何度か着ているし、髪も耳へかけず自然に流す形を選ぶことが増えている。そのため、鏡に映る姿そのものが大きく変わったわけではない。
けれど今日は、自分で選んだ一着だと思うだけで、視線が自然と細かなところへ向かった。
ルシアンは腕を持ち上げ、袖口を少し傾ける。
正面からでは花だと分かりにくいが、角度を変えると銀糸が朝の光を拾い、中心だけが小さく輝いた。
「こちらの方が見えますね」
「はい」
侍女が答える。
ルシアンは反対側へも腕を動かし、どの角度なら模様が分かりやすいのか確かめた。
その動きを何度か繰り返したところで、鏡越しに侍女と目が合う。
「……何ですか?」
「いえ」
侍女の口元が僅かに緩んだ。
「お召し物をよくご覧になるようになったと思いまして」
「そうでしょうか」
「はい。以前でしたら、新しいお召し物でも一度ご覧になれば、それで終わりでございましたので」
言われても、ルシアン自身にはほとんど記憶がなかった。
おそらく、本当にその程度にしか見ていなかったのだろう。
「変ですか?」
「まさか」
侍女はすぐに首を横へ振った。
「ご自分で選ばれたものですもの。気になるのは当然でございます」
自分で選んだ。
その言葉を聞いて、ルシアンは改めて鏡を見る。
最初に服装を変えた理由なら、はっきりしていた。
ヴェルシアナが女性たちには警戒なく接しているように見えたから、自分も少し印象を変えれば、彼女が身構えずに話してくれるのではないかと考えた。
そして実際、彼女は淡い色の上着を褒めてくれた。
『その刺繍も綺麗ですね。近くで見てもよろしいですか?』
あの時、ヴェルシアナは自分から一歩近づいてきた。
その距離まで思い出したところで、ルシアンの視線は自然と袖口へ戻る。
この花にも気づくだろうか。
近づいて見なければ、花だとは分からない。
そんなことを考えている自分に気づき、ルシアンは少しだけ口元を緩めた。
結局、彼女に見てほしいという気持ちは変わっていない。
ただし、それだけなら鏡の前で何度も袖を傾ける必要はなかったはずだ。
銀糸が光る角度も、小さな花がどの程度見えるのかも、自分自身が確かめたくて眺めている。
ヴェルシアナにどう見えるかと、自分がどう感じるか。
その二つを、わざわざ一つに決める必要はなかった。
◇
「それ、花?」
昼前。
廊下で顔を合わせたディルヴァンは、ルシアンの袖口を見るなりそう言った。
ルシアンは少し驚く。
「よく分かりましたね」
「近くで見れば分かるだろ」
ディルヴァンが何の遠慮もなく袖を覗き込む。
その距離を見た瞬間、ルシアンの頭にはヴェルシアナの姿が浮かんだ。
兄が同じように彼女へ近づけば、少なくとも以前は少しだけ距離を取っていた。
そこまで考えてから、ルシアンは小さく息を吐く。
服を見ても。
兄を見ても。
最近は何でも彼女へ繋がってしまう。
「自分で選んだのか?」
「はい」
「へえ」
ディルヴァンは刺繍をもう一度眺めたあと、特に驚きもせず頷いた。
「いいじゃん」
「それだけですか?」
「他に何があるんだ?」
むしろ不思議そうに聞き返され、ルシアンは一瞬考えてから首を横へ振った。
「いえ。何でもありません」
「お前が気に入ってるなら、それでいいだろ」
ディルヴァンはそれだけ言うと、もう関心を次へ移している。
「そうだ。午後、訓練場来る?」
「何かあるのですか?」
「新しい訓練用の剣が届いた。重さが何種類か増えたらしい」
「見たいのですか?」
「使いたい」
「最初からそちらでしょう」
ディルヴァンは笑いながら歩き始め、ルシアンもその隣へ並んだ。
剣や馬の話をしている時の兄は分かりやすい。
何が好きなのかを隠そうともしないし、それを他人にも同じように好きになれとは言わない。
少し前までのルシアンは、兄が得意なものを見るたび、自分に足りないものとして数えてしまうことがあった。
けれど兄が剣を好きだからといって、自分まで同じものを選ぶ必要はない。
同じ家で育った兄弟でも、好きなものまで同じである必要などないのだ。
歩くたび、袖口の銀糸が小さく光る。
ルシアンはそれを横目で見て、ほんの僅かに指先を動かした。
兄が剣を選ぶように、自分にも自分で選べるものがある。
そう考えると、袖口の小さな花が先ほどより少しだけ特別なものに見えた。
◇
その日の午後。
訓練場から戻ったルシアンは、自室の机に一通の手紙が置かれていることに気づいた。
「これは?」
「先ほどアルセリード公爵家から届きました」
侍女が答える。
ルシアンの手が、一瞬だけ止まった。
「僕に?」
「ディルヴァン様とルシアン様、お二人へとのことでございます」
兄と一緒。
それでも、アルセリード家から自分の名を含めて手紙が届くことは多くない。
封を確認して開くと、中に入っていたのはヴェルシアナ本人の筆跡だった。
以前、図書館で見つけた北部の古い資料について、アルセリード家に残されていた別の写本から似た記号が見つかったらしい。
ディルヴァンには、以前使った訓練装置に刻まれていた印と共通するものがなかったか確認したいと書かれている。
そしてルシアンには。
『先日ご一緒に読んだ頁について、ルシアン様が覚えていらっしゃる範囲で一度伺えればと思っております』
そこで視線が止まった。
ルシアンは、その一文だけをもう一度読む。
服のことではない。
温室で危険へ気づいた時のことでもない。
図書館で一緒に開いた頁について、ヴェルシアナは自分が覚えていることを聞きたいと書いている。
ディルヴァンの弟だから呼ばれたわけではなく、そこにたまたま居合わせたからでもない。
ルシアン自身が覚えているものを必要としている。
胸の奥に生まれた嬉しさは、服を褒められた時とは少し違っていた。
どちらが上というわけではない。
ただ、自分の見たものや覚えているものを彼女が頼ってくれたことが、静かに残った。
手紙の下には、都合がよければ三日後の午後にアルセリード邸へ来ないかと記されている。
「三日後……」
その日付を確認した直後、視線が自分の袖へ落ちた。
今日届いたばかりの服。
近くで見なければ分からない、小さな花。
三日後にこれを着ていけば、彼女は気づくだろうか。
考えるより早く、その期待が浮かんだ。
けれど袖口を見つめているうちに、別の感覚も自然と重なる。
今日、鏡の前で何度も光の当たり方を確かめたこと。
ディルヴァンに花だと気づかれた時、少し嬉しかったこと。
訓練場でも、腕を動かすたび銀糸が光るのを何度か目で追っていたこと。
ヴェルシアナに見せる予定などなかった時間にも、この服を楽しんでいた。
それなら、三日後に着たいと思った理由を彼女だけに預けなくてもいい。
彼女に見てほしいのも本当で、自分がこの一着を気に入っているのも本当だった。
ルシアンは手紙を机へ置き、もう一度袖口へ触れた。
三日後が、少し遠く感じた。
◇
「三日後?」
夕食前、手紙を見せるとディルヴァンはすぐに頷いた。
「行く」
「まだ僕の予定を確認していません」
「空いてるだろ」
「なぜ兄上が知っているのです?」
「昨日、母上が今週は家庭教師だけって言ってた」
剣や訓練以外には無頓着そうに見えるのに、家族の予定だけは意外なほど覚えている。
「でしたら、行けます」
「じゃあ決まり」
ディルヴァンは満足そうに頷き、それからルシアンの袖へ視線を落とした。
「それ着てくの?」
「なぜそう思うのです?」
「気に入ってるだろ、それ」
あっさりした答えだった。
ルシアンは一度だけ袖口を見る。
「決めてはいません」
「そう?」
「そうです」
「じゃあ三日後に分かるな」
ディルヴァンはそれ以上追及しなかった。
ルシアンも何も言い返さず、その場では話を終えた。
けれど夜、自室へ戻って着替える前、足は自然と鏡の前へ向かった。
淡い灰青色の上着に、柔らかく流した髪。
袖口には、遠目ではただの銀糸にしか見えない小さな花が隠れている。
三日後、ヴェルシアナは何を見るのだろう。
新しい色に気づくかもしれない。
袖口の花まで見つけるかもしれない。
あるいは服ではなく、図書館で読んだ頁について話す自分の言葉を真っ直ぐ聞いてくれるのかもしれない。
どれでも構わないとは、思えなかった。
できれば全部、見てほしい。
その願いを自覚しても、もう恥ずかしいとは思わなかった。
ヴェルシアナの視線が欲しい。
けれど、彼女が見ていないところでも、この服を選んだ自分を嫌いではない。
二つの気持ちは矛盾せず、胸の中で並んでいた。
ルシアンは袖口を指先でなぞり、花の中心に使われた銀糸を見つめる。
遠くからでは、きっと気づかれない。
近づかなければ分からない。
ならば三日後。
ヴェルシアナがこの花を見つけた時、自分たちの間にはどれほどの距離が残っているのだろう。
鏡の中で、ルシアンの口元が静かに緩んだ。
三日後が、待ち遠しかった。
これなら⭐︎58の直前としてかなり強い。
「花に気づくには近づく必要がある」=物理的距離と関係性の距離を重ねた引きになってるから、58話でヴェルシアナが実際にそこへ踏み込んだ瞬間に気持ちよく回収できる。
新しく仕立てた服がヴァレンティス邸へ届いたのは、仕立て屋を訪れてから十日ほど経った頃だった。
朝食を終えて自室へ戻ったルシアンは、寝台の上に置かれた細長い箱を見るなり、それが何なのかすぐに分かった。
「届いたのですか?」
「はい。先ほど仕立て屋から」
侍女が答えながら留め紐を解き、箱を覆っていた薄紙を静かに外していく。
ルシアンはその手元を追うように、自然と一歩近づいた。
以前なら、新しい服が届いたと聞いても、着る必要のある日に出してもらえば十分だった。寸法が合い、ヴァレンティス家の子息として不相応でなければ、それ以上に関心を向ける理由などほとんどなかったからだ。
けれど今回は違う。
布も、刺繍も、自分で選んだ。
あの小さな見本が、どんな一着になったのかを見てみたかった。
薄紙の下から現れたのは、淡い灰青色の上着だった。
店で布だけを見た時より、仕立て上がった服は少し落ち着いた色に見える。襟から肩へ流れる線はすっきりとしており、柔らかな生地を使っていても全体の形は崩れていない。
そして袖口には、ルシアン自身が選んだ刺繍が入っていた。
「……思っていたより目立ちませんね」
「お気に召しませんでしたか?」
「いいえ。むしろ、このくらいがいいです」
離れて眺めれば、細い銀糸を使った飾り模様にしか見えない。
けれど近づいて確かめれば、小さな花が連なるように縫われていることが分かり、その中心だけに使われた銀糸が光を拾うたび、輪郭がわずかに浮かび上がる。
リュネアの袖を飾っていた刺繍ほど華やかではなく、オルティアの服に使われていた意匠ほど目を引くものでもない。
それでも、二人の服を見たことをきっかけに、自分で選んだものだった。
ルシアンは指先で袖口に触れる。
思っていた以上に、完成した姿が気に入った。
「お召しになりますか?」
侍女に尋ねられ、ルシアンはほとんど迷わなかった。
「お願いします」
◇
着替えを終えると、ルシアンは鏡の前へ立った。
淡い色の服はすでに何度か着ているし、髪も耳へかけず自然に流す形を選ぶことが増えている。そのため、鏡に映る姿そのものが大きく変わったわけではない。
けれど今日は、自分で選んだ一着だと思うだけで、視線が自然と細かなところへ向かった。
ルシアンは腕を持ち上げ、袖口を少し傾ける。
正面からでは花だと分かりにくいが、角度を変えると銀糸が朝の光を拾い、中心だけが小さく輝いた。
「こちらの方が見えますね」
「はい」
侍女が答える。
ルシアンは反対側へも腕を動かし、どの角度なら模様が分かりやすいのか確かめた。
その動きを何度か繰り返したところで、鏡越しに侍女と目が合う。
「……何ですか?」
「いえ」
侍女の口元が僅かに緩んだ。
「お召し物をよくご覧になるようになったと思いまして」
「そうでしょうか」
「はい。以前でしたら、新しいお召し物でも一度ご覧になれば、それで終わりでございましたので」
言われても、ルシアン自身にはほとんど記憶がなかった。
おそらく、本当にその程度にしか見ていなかったのだろう。
「変ですか?」
「まさか」
侍女はすぐに首を横へ振った。
「ご自分で選ばれたものですもの。気になるのは当然でございます」
自分で選んだ。
その言葉を聞いて、ルシアンは改めて鏡を見る。
最初に服装を変えた理由なら、はっきりしていた。
ヴェルシアナが女性たちには警戒なく接しているように見えたから、自分も少し印象を変えれば、彼女が身構えずに話してくれるのではないかと考えた。
そして実際、彼女は淡い色の上着を褒めてくれた。
『その刺繍も綺麗ですね。近くで見てもよろしいですか?』
あの時、ヴェルシアナは自分から一歩近づいてきた。
その距離まで思い出したところで、ルシアンの視線は自然と袖口へ戻る。
この花にも気づくだろうか。
近づいて見なければ、花だとは分からない。
そんなことを考えている自分に気づき、ルシアンは少しだけ口元を緩めた。
結局、彼女に見てほしいという気持ちは変わっていない。
ただし、それだけなら鏡の前で何度も袖を傾ける必要はなかったはずだ。
銀糸が光る角度も、小さな花がどの程度見えるのかも、自分自身が確かめたくて眺めている。
ヴェルシアナにどう見えるかと、自分がどう感じるか。
その二つを、わざわざ一つに決める必要はなかった。
◇
「それ、花?」
昼前。
廊下で顔を合わせたディルヴァンは、ルシアンの袖口を見るなりそう言った。
ルシアンは少し驚く。
「よく分かりましたね」
「近くで見れば分かるだろ」
ディルヴァンが何の遠慮もなく袖を覗き込む。
その距離を見た瞬間、ルシアンの頭にはヴェルシアナの姿が浮かんだ。
兄が同じように彼女へ近づけば、少なくとも以前は少しだけ距離を取っていた。
そこまで考えてから、ルシアンは小さく息を吐く。
服を見ても。
兄を見ても。
最近は何でも彼女へ繋がってしまう。
「自分で選んだのか?」
「はい」
「へえ」
ディルヴァンは刺繍をもう一度眺めたあと、特に驚きもせず頷いた。
「いいじゃん」
「それだけですか?」
「他に何があるんだ?」
むしろ不思議そうに聞き返され、ルシアンは一瞬考えてから首を横へ振った。
「いえ。何でもありません」
「お前が気に入ってるなら、それでいいだろ」
ディルヴァンはそれだけ言うと、もう関心を次へ移している。
「そうだ。午後、訓練場来る?」
「何かあるのですか?」
「新しい訓練用の剣が届いた。重さが何種類か増えたらしい」
「見たいのですか?」
「使いたい」
「最初からそちらでしょう」
ディルヴァンは笑いながら歩き始め、ルシアンもその隣へ並んだ。
剣や馬の話をしている時の兄は分かりやすい。
何が好きなのかを隠そうともしないし、それを他人にも同じように好きになれとは言わない。
少し前までのルシアンは、兄が得意なものを見るたび、自分に足りないものとして数えてしまうことがあった。
けれど兄が剣を好きだからといって、自分まで同じものを選ぶ必要はない。
同じ家で育った兄弟でも、好きなものまで同じである必要などないのだ。
歩くたび、袖口の銀糸が小さく光る。
ルシアンはそれを横目で見て、ほんの僅かに指先を動かした。
兄が剣を選ぶように、自分にも自分で選べるものがある。
そう考えると、袖口の小さな花が先ほどより少しだけ特別なものに見えた。
◇
その日の午後。
訓練場から戻ったルシアンは、自室の机に一通の手紙が置かれていることに気づいた。
「これは?」
「先ほどアルセリード公爵家から届きました」
侍女が答える。
ルシアンの手が、一瞬だけ止まった。
「僕に?」
「ディルヴァン様とルシアン様、お二人へとのことでございます」
兄と一緒。
それでも、アルセリード家から自分の名を含めて手紙が届くことは多くない。
封を確認して開くと、中に入っていたのはヴェルシアナ本人の筆跡だった。
以前、図書館で見つけた北部の古い資料について、アルセリード家に残されていた別の写本から似た記号が見つかったらしい。
ディルヴァンには、以前使った訓練装置に刻まれていた印と共通するものがなかったか確認したいと書かれている。
そしてルシアンには。
『先日ご一緒に読んだ頁について、ルシアン様が覚えていらっしゃる範囲で一度伺えればと思っております』
そこで視線が止まった。
ルシアンは、その一文だけをもう一度読む。
服のことではない。
温室で危険へ気づいた時のことでもない。
図書館で一緒に開いた頁について、ヴェルシアナは自分が覚えていることを聞きたいと書いている。
ディルヴァンの弟だから呼ばれたわけではなく、そこにたまたま居合わせたからでもない。
ルシアン自身が覚えているものを必要としている。
胸の奥に生まれた嬉しさは、服を褒められた時とは少し違っていた。
どちらが上というわけではない。
ただ、自分の見たものや覚えているものを彼女が頼ってくれたことが、静かに残った。
手紙の下には、都合がよければ三日後の午後にアルセリード邸へ来ないかと記されている。
「三日後……」
その日付を確認した直後、視線が自分の袖へ落ちた。
今日届いたばかりの服。
近くで見なければ分からない、小さな花。
三日後にこれを着ていけば、彼女は気づくだろうか。
考えるより早く、その期待が浮かんだ。
けれど袖口を見つめているうちに、別の感覚も自然と重なる。
今日、鏡の前で何度も光の当たり方を確かめたこと。
ディルヴァンに花だと気づかれた時、少し嬉しかったこと。
訓練場でも、腕を動かすたび銀糸が光るのを何度か目で追っていたこと。
ヴェルシアナに見せる予定などなかった時間にも、この服を楽しんでいた。
それなら、三日後に着たいと思った理由を彼女だけに預けなくてもいい。
彼女に見てほしいのも本当で、自分がこの一着を気に入っているのも本当だった。
ルシアンは手紙を机へ置き、もう一度袖口へ触れた。
三日後が、少し遠く感じた。
◇
「三日後?」
夕食前、手紙を見せるとディルヴァンはすぐに頷いた。
「行く」
「まだ僕の予定を確認していません」
「空いてるだろ」
「なぜ兄上が知っているのです?」
「昨日、母上が今週は家庭教師だけって言ってた」
剣や訓練以外には無頓着そうに見えるのに、家族の予定だけは意外なほど覚えている。
「でしたら、行けます」
「じゃあ決まり」
ディルヴァンは満足そうに頷き、それからルシアンの袖へ視線を落とした。
「それ着てくの?」
「なぜそう思うのです?」
「気に入ってるだろ、それ」
あっさりした答えだった。
ルシアンは一度だけ袖口を見る。
「決めてはいません」
「そう?」
「そうです」
「じゃあ三日後に分かるな」
ディルヴァンはそれ以上追及しなかった。
ルシアンも何も言い返さず、その場では話を終えた。
けれど夜、自室へ戻って着替える前、足は自然と鏡の前へ向かった。
淡い灰青色の上着に、柔らかく流した髪。
袖口には、遠目ではただの銀糸にしか見えない小さな花が隠れている。
三日後、ヴェルシアナは何を見るのだろう。
新しい色に気づくかもしれない。
袖口の花まで見つけるかもしれない。
あるいは服ではなく、図書館で読んだ頁について話す自分の言葉を真っ直ぐ聞いてくれるのかもしれない。
どれでも構わないとは、思えなかった。
できれば全部、見てほしい。
その願いを自覚しても、もう恥ずかしいとは思わなかった。
ヴェルシアナの視線が欲しい。
けれど、彼女が見ていないところでも、この服を選んだ自分を嫌いではない。
二つの気持ちは矛盾せず、胸の中で並んでいた。
ルシアンは袖口を指先でなぞり、花の中心に使われた銀糸を見つめる。
遠くからでは、きっと気づかれない。
近づかなければ分からない。
ならば三日後。
ヴェルシアナがこの花を見つけた時、自分たちの間にはどれほどの距離が残っているのだろう。
鏡の中で、ルシアンの口元が静かに緩んだ。
三日後が、待ち遠しかった。




