第56話 ルシアンは、もう少しだけ違うものを選ぶ
翌朝。
ルシアンは衣装棚の前に立つと、昨日よりも迷わず奥の方へ手を伸ばした。
濃紺の上着を嫌いになったわけではない。深い緑も灰色も、今まで通り落ち着いて見えるし、自分に似合っていないとも思わない。
ただ、一度いつもとは違う色を着てしまうと、それまでほとんど同じように見えていた服の細かな違いが妙に気になるようになっていた。
昨日選んだ青灰色の上着は、すでに手入れのため下げられている。
ならば今日は、別のものを見てみたい。
「ルシアン様」
後ろに控えていた侍女が、彼の視線の先へ気づいた。
「本日はこちらになさいますか?」
取り出されたのは、昨日よりわずかに明るい灰青色の上着だった。
色そのものは大きく変わらないが、襟元には細い銀糸だけでなく、ごく淡い白糸も使われている。遠目ではほとんど分からないものの、近くで見ると小さな葉が連なるように刺繍されていた。
ルシアンは、その模様へ自然と目を留めた。
「昨日のものより、細かいですね」
「はい。こちらは少し装飾を増やしております」
「男子用ですよね?」
尋ねてから、自分でも少し不思議に思った。
昨日までなら、そんなことを確認する必要すら感じなかったはずだ。
侍女は特に気にした様子もなく頷く。
「もちろんでございます。若いご令息のお召し物でしたら、この程度の刺繍は珍しくございません」
「そうですか」
それなら、別に変ではない。
もっとも昨日、ヴェルシアナから似合うと言われた時点で、以前ほど「変ではないか」を気にする必要もなくなっていた。
ルシアンは上着へ手を伸ばした。
布地も、普段着ているものより少し柔らかい。
「これにします」
「かしこまりました」
着替えが始まる。
侍女が髪を整えようとしたところで、ルシアンは鏡越しにその手元を見た。
「昨日と同じにできますか?」
「耳へかけず、自然に流す形でございますね」
「はい」
すぐに答えた自分へ、ほんの少しだけ驚いた。
昨日は勧められたから試した。
今日は、自分から同じ形を頼んでいる。
鏡の中で、淡い髪が頬の横へ自然に流れていく。
最後に細い銀色の留め具を使おうとした侍女が、一度だけ手を止めた。
「こちらではなく、もう少し細いものもございますが」
「違うのですか?」
「こちらは飾りがほとんどございません。もう一つは、小さな石が一つだけ付いております」
「見せてください」
差し出されたのは、小指の爪よりも小さな淡青色の石が付いた留め具だった。
宝石というほど目立つものではなく、光が当たればようやく色が分かる程度だ。
ルシアンは二つを見比べたあと、石の付いた方を指した。
「こちらで」
侍女の口元が、ほんの少しだけ緩む。
「承知いたしました」
何かを言われる前に、ルシアンは鏡へ視線を戻した。
昨日より少しだけ違う。
けれど、大きく変わったようには見えない。
それくらいが、今はちょうどよかった。
◇
「今日は昨日より少し華やかなのね」
朝食の席で最初に気づいたのは、母だった。
ヴァレンティス辺境公爵夫人はティーカップを置き、向かい側に座る次男を見つめる。
「そう見えますか?」
「ええ。昨日の色も似合っていたけれど、今日の方があなたらしい気もするわ」
「僕らしい?」
「静かな色なのに、近くで見ると細かなところが凝っているでしょう?」
母は笑う。
「あなた、そういうものを見るのは好きそうだもの」
言われて初めて、ルシアンも少し納得した。
派手なものが好きなわけではない。
けれど細かな模様や、近くで見なければ分からない違いを見つけるのは嫌いではなかった。
「……そうかもしれません」
母はそれ以上何も言わなかった。
ただ、自分で選んだことを嬉しそうに見ている。
少し遅れて食堂へ入ってきたディルヴァンも、昨日ほど驚かなかった。
「今日も明るい方なんだな」
「昨日と同じではありません」
「分かるよ」
ディルヴァンは席へ座りながら、弟の髪へ視線を向けた。
「髪もそのままにしたんだ」
「何か問題がありますか?」
「別に。そっちも似合ってる」
昨日と同じくらい、あっさりした答えだった。
からかわれるでもなく、理由をしつこく聞かれるでもない。
兄にとっては本当に、それ以上でもそれ以下でもないらしい。
ルシアンは自分の袖口へ目を落とした。
銀糸が朝の光を拾い、細い葉模様が浮かび上がっている。
昨日なら気づかなかったかもしれない違いだった。
◇
数日後。
ルシアンは母とともに、王都の仕立て屋を訪れていた。
目的は、新しく作る服の採寸である。
子供の成長は早く、以前仕立てた服が合わなくなる前に、少し余裕を持って準備するのが普通らしい。
これまでなら、採寸を終えた時点でルシアンの役目はほとんど終わっていた。
母と仕立て屋が布や形を相談している間は、本でも読んで待っていればいい。自分で選ばなくても、出来上がった服に不満を感じたことはなかった。
けれど今日は、並べられている布の色が自然と目に入った。
「ルシアン」
母が何種類かの布を前にして振り返る。
「あなたも選んでみる?」
「僕が?」
「着るのはあなたでしょう?」
言われてみれば、その通りだった。
今までは母が選んでも困らなかったから、自分で決めようと思わなかっただけだ。
ルシアンは並べられた布へ近づく。
濃い青。
灰色。
深緑。
その隣に、淡い水色や薄い紫がかった灰色もある。
以前なら、ほとんど目を止めなかった色だった。
「このあたりは?」
ルシアンが一枚の布へ触れると、仕立て屋の女性がすぐに説明する。
「こちらでしたら、ご令息用にもよろしいかと存じます。少し柔らかい生地ですので、装飾を加えても重く見えません」
「装飾」
「例えば、襟元や袖口にこちらを」
見本帳が開かれる。
細い蔓。
小さな葉。
幾何学模様。
花を簡略化したものもあった。
ルシアンは一つずつ目で追った。
「これは女性用ではないのですか?」
指したのは、小さな花を連ねた模様だった。
仕立て屋は首を横に振る。
「いいえ。形を簡略化しておりますので、若いご令息にも使われます。ただ、一般的には葉や直線的な模様を選ばれる方の方が多いですね」
「そうですか」
ルシアンは花の模様をもう一度見る。
先日見たリュネアの袖口ほど華やかではない。
けれど近くで見れば、花だと分かる。
「気になるの?」
母が隣から尋ねた。
「少し」
「なら、試してみればいいでしょう」
あまりにも簡単な答えだった。
「でも、あまり選ばれないのでしょう?」
「選ぶ人が少ないことと、あなたに似合わないことは同じではないわ」
ルシアンは母を見る。
その言葉に、どこか聞き覚えがある気がした。
『違っていても、似合うものは似合いますよ』
ヴェルシアナも、似たことを言っていた。
ルシアンはしばらく見本帳を眺めたあと、小さく頷く。
「では、この花を少しだけ入れたいです」
「どこに?」
「袖口へ。近くで見れば分かるくらいで」
仕立て屋がすぐに候補を並べ始める。
糸を白にするか、銀にするか。布と同じ色へ寄せるか。
ルシアンはそれを一つずつ見比べた。
母は途中から、ほとんど口を挟まなかった。
選ばせてくれているのだと、少し遅れて気づく。
最終的に選んだのは、淡い灰青色の布へ、一段明るい糸で小さな花を縫い、その中心だけ銀糸を使うものだった。
離れて見れば、普通の模様にしか見えない。
近づけば、ようやく花だと分かる。
「これがいいです」
「承知いたしました」
仕立て屋が記録を取る。
ルシアンは選び終えた見本を見ながら、少しだけ満足していた。
ヴェルシアナがこれを見たら、何と言うだろう。
最初に浮かんだのは、やはり彼女の顔だった。
けれどそのすぐ後に、完成した服そのものも早く見てみたいと思った。
その二つの気持ちは、今のところまだ、ほとんど同じ場所に重なっていた。
◇
「ルシアン様?」
採寸を終え、仕立て屋を出ようとしていたところで声をかけられた。
振り返ると、店の奥に薄紫の髪が見える。
「オルティア嬢」
母親らしい女性と一緒に来ているようで、オルティアの前にも何種類かの布が並べられていた。
互いに挨拶を交わす。
母親同士も面識があるらしく、すぐに短い会話が始まった。
ルシアンはその間、少しだけオルティアを見た。
先日から頭の中に残っている疑問がある。
ヴェルシアナは、女性に対して明らかに距離が近かった。
リュネアが袖へ触れても、エステルが髪に触れても、何よりオルティアがあれほど自然に近づいても、身を引こうとはしなかった。
もし男女の違いが、本当に彼女の警戒へ影響しているのなら。
女性と親しくしている本人へ聞くのが、一番早いのではないか。
兄に尋ねても、たぶん深く考えない。
母へ話せば、別のことまで見抜かれそうで落ち着かない。
けれどオルティアなら、少なくともヴェルシアナとの距離については自分より詳しい。
「オルティア嬢」
「はい?」
「少し、伺ってもよろしいですか」
「何でしょう」
ルシアンは少し考えたあと、正面から聞くことにした。
「アルセリード嬢は、女性には警戒が薄いのでしょうか」
オルティアが完全に動きを止めた。
「……はい?」
「先日、皆様といらした時です。僕や兄上と話している時より、ずっと距離が近かったので」
オルティアはすぐには答えなかった。
その代わり、視線が少しだけ横へ流れた。
思い出したのは、おそらく同じ日のことなのだろう。
ヴェルシアナの隣へ座った。
髪へ触れた。
袖を摘んで、自分の方へ引いた。
別れ際には髪飾りまで直した。
そして、そのどれもヴェルシアナは嫌がらなかった。
「……薄い、というより」
「はい」
オルティアは一度だけ咳払いした。
「ヴェルシアナ様は、ご令嬢相手になると少々距離感がおかしくなることがございます」
ルシアンは瞬きをする。
「距離感が?」
「ご本人には、まったく自覚がございませんけれど」
オルティアの声が、ほんの少しだけ強くなった。
「困っていれば当然のように手を差し出されますし、こちらが本当に嫌がることはなさらないのに、欲しい言葉だけは妙に正確に仰います。そのうえ、自分では何も特別なことをしていないと思っていらっしゃるのです」
「……」
「先日など、わたくしが髪へ触れても、何もお気になさらなかったでしょう?」
「見ていました」
「それどころか、『好きなら構いません』とまで仰いました」
確かに言っていた。
ルシアンが素直に頷くと、オルティアは少しだけ遠い目をした。
「本当に、あの方は……」
「アルセリード嬢は?」
数秒ほど考え込んだあと、オルティアは妙に真面目な顔で言った。
「女性を勘違いさせる才能は、かなりお持ちだと思います」
ルシアンは今度こそ言葉を失った。
「勘違い?」
「あれだけ自然に特別なことをなさっておいて、ご本人は『普通でしょう』という顔をなさるのです」
オルティアの眉がわずかに寄る。
「好きなものは覚えていらっしゃいますし、困っている時には気づくのが早い。そのくせ、相手がそれをどう受け取るのかについては驚くほど無頓着で……」
そこで一度言葉を止めたが、どうやら思い出したことがまだあったらしい。
「それに、全部代わりにしてしまうのではなく、必要なところだけ手を貸されるでしょう?」
「必要なところだけ?」
「ええ。こちらが自分でできることは残してくださるのに、本当に困っている時だけは隣にいてくださるのです」
グランセル領での出来事が、その声音にまだ残っているようだった。
「そのあとで『友達ですから』などと、何でもないことのように仰るのですから……大変たちが悪いです」
言葉だけを聞けば批判しているようなのに、不思議と嫌っているようにはまったく聞こえない。
むしろ逆だった。
「オルティア嬢は、アルセリード嬢のことがかなりお好きなのですね」
オルティアが黙った。
ルシアンは少し待つ。
「違いましたか?」
「今はヴェルシアナ様のお話をしているのでしょう?」
「しています」
「でしたら、わたくしのことは関係ございません」
「そうですか」
「そうです」
返事が妙に早かった。
頬まで僅かに赤くなっている。
けれどオルティアは、何もなかったように続けた。
「ともかく、ヴェルシアナ様は女性には甘いです」
「甘い?」
「少なくとも、男性に対する時よりは警戒がありません。近づかれても平然としていらっしゃいますし、困っているご令嬢がいれば放っておけないようですし、そのうえ相手が何を喜ぶかまでよく覚えていらっしゃいます」
リュネアへ花を分けていた姿を、ルシアンも見ている。
オルティアの話と、自分が先日感じた違和感が、少しずつ繋がっていった。
「では、僕が感じていた違いは間違いではなかったのですね」
「違い?」
「僕や兄上が近づいた時と、皆様が近づいた時で、アルセリード嬢の反応が違うことです」
「ああ……」
「それで、男性であることが警戒される理由の一つなのではないかと考えました」
そこまで聞いて、オルティアの表情が変わった。
ルシアンが何を確かめようとしているのか、ようやく全部繋がったのだろう。
女性らしい印象へ寄せれば、ヴェルシアナの警戒が薄くなるのではないか。
そう考えている。
――いや。
そんな単純な話ではない。
ヴェルシアナが自分たちへ気を許しているのは、女だからという一事だけではないはずだ。これまで一緒に過ごした時間もあれば、互いに知ったこともあり、その中で少しずつ縮まった距離がある。
オルティアはそう説明しようとして、ふと先ほどまでの自分の言葉を思い返した。
女性には甘い。
男性より警戒が薄い。
近づかれても平然としている。
欲しい言葉まで妙に正確に渡してくる。
しかも、自分はその具体例として、髪へ触れたことまでわざわざ説明した。
……待ってほしい。
これでは、訂正するどころか丁寧に答え合わせをしてしまったようなものではないか。
しかも困ったことに、今まで話した内容そのものは嘘ではなかった。
「それで最近、少し柔らかい印象の服を選んでいます」
ルシアンはオルティアの内心を知るはずもなく、さらに続けた。
「昨日、アルセリード嬢から似合うと言っていただきました。それに、以前より近くで話してくださいました」
オルティアの目が僅かに見開かれる。
昨日より近かった。
確かに、先日見たヴェルシアナはルシアンへ以前ほど身構えていなかった。
けれど、それは服を変えたからとは限らない。
これまで何度か会い、一緒に本を読み、温室では彼の判断を信じた。その積み重ねによって警戒が薄れた可能性の方がずっと高い。
そう言えば済む。
済むはずなのだが。
その直前まで、自分自身がヴェルシアナの女性への甘さを熱弁していた。
オルティアは一瞬だけ目を閉じた。
これは訂正しなければならない。
ただし。
どこから訂正すればよいのだろう。
「では、もっと女性らしく見えるようにすれば――」
「お待ちください」
今度は考えるより早く、言葉が出た。
ルシアンが口を閉じる。
「そこは違います」
「違う?」
「少なくとも、女性らしくすればよいという話ではありません」
オルティアは今度こそ、慎重に言葉を選んだ。
「ヴェルシアナ様が女性に対して警戒なさらないところがあるのは、わたくしも事実だと思います。ですが、それだけを理由にご令嬢の服装を真似しても、同じように距離が縮まるとは限らないでしょう」
「では、何が違うのでしょう」
オルティアはルシアンの服へ目を向けた。
淡い色。
細い刺繍。
少し柔らかく整えた髪。
以前と比べれば印象は確かに変わっている。
けれど、それは無理に誰かへ似せたようには見えない。
「今のお召し物は、よくお似合いです」
「ありがとうございます」
「昨日より柔らかな印象ですし、ルシアン様のお顔立ちにも合っています。ただ、例えばリュネア様のお召し物をそのまま真似しても、同じようにはならないでしょう?」
「それは……そうだと思います」
「でしたら、ヴェルシアナ様がお好きそうなものを集めるより、まず自分に似合うものを選ばれた方がよいです」
「僕に似合うものを?」
「ええ」
オルティアの声音は、先ほどまでよりずっと落ち着いていた。
「ヴェルシアナ様は、似合っていないものを無理に褒める方ではありません。それに、自分が好きでもないものを無理に身につけている方を見て、喜ばれるとも思いません」
それには、ルシアンもすぐには返さなかった。
実際のヴェルシアナを思い浮かべているのだろう。
やがて、小さく頷く。
「自分に似合うもの……」
「そうです」
「オルティア嬢なら、何を選びますか」
「わたくしが?」
「僕に似合うものです」
今度はオルティアの方が少し驚いた。
けれど聞かれた以上、曖昧に答えるつもりはないらしい。
ルシアンの髪、瞳、肌の色を順番に見てから、今日の上着へ視線を落とす。
「淡い色は、そのままでよいと思います」
「はい」
「ただ、柔らかなものを増やしすぎる必要はありません。ルシアン様は元々お顔立ちが整っていらっしゃるので、服まで全て柔らかくすると、少し印象がぼやけるかもしれません」
「なるほど」
「細い刺繍や、小さな飾りを足す程度でしたら、むしろ合うと思います」
「先ほど、袖へ小さな花を入れることにしました」
オルティアの眉が僅かに上がる。
「花を?」
「目立たない程度です」
「見せてください」
ルシアンが見本帳を開き、先ほど選んだ模様を示す。
オルティアはしばらく眺めたあと、静かに頷いた。
「よいと思います」
ルシアンの表情が少しだけ明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただし」
「まだございます?」
「ございます」
オルティアは少しだけ目を細めた。
「ヴェルシアナ様に見せるためだけに、何でも変えないことです」
今度はルシアンが黙った。
「なぜです?」
「……その方が」
オルティアは一度言葉を止める。
ヴェルシアナの好みを知っているわけではない。
けれど、自分が知っている彼女なら。
「その方が、ヴェルシアナ様も喜ばれると思います」
「そうでしょうか」
「少なくとも、自分の好きでもないものを無理に選んでいる方を、あの方が喜ぶとは思いません」
それには、ルシアンも反論できなかった。
ヴェルシアナなら。
本当にそう言いそうだった。
「覚えておきます」
「そうしてください」
そこで母親たちの会話が終わったらしい。
オルティアも呼ばれる。
「では、失礼いたします」
「ありがとうございました。とても参考になりました」
「……そうですか」
ルシアンは素直に礼を言って離れていく。
オルティアは、その背中をしばらく見送った。
淡い色の上着。
柔らかく流した髪。
本人が選んだ、小さな花の刺繍。
そして先ほどの言葉。
『昨日、アルセリード嬢から似合うと言っていただきました』
胸の奥へ、じわりと落ち着かないものが広がった。
自分がヴェルシアナの隣へ行きすぎたせいで、ルシアンは女性との距離の違いに気づいた。
そのうえ今日、自分は彼の推測が単純すぎると理解していたはずなのに、ヴェルシアナが女性へどれほど甘いかを散々語り、最後には服装の助言までしてしまった。
訂正した。
少なくとも、訂正しようとはした。
それなのに、ルシアンの背中を見ていると、何かを止めたというより、別の方向へ丁寧に背中を押してしまったような気がする。
「オルティア?」
母に呼ばれ、ようやく我に返った。
「今参ります」
返事をしてから、もう一度だけルシアンの消えた方を見る。
「……わたくし」
誰にも聞こえない声で呟いた。
「余計なことまで教えたのでは?」
少し遅すぎる疑問だった。
しかも。
それだけならまだよかった。
ルシアンがヴェルシアナへ近づこうとしていると分かった時、胸の奥に生まれた感情は、純粋な反省だけではなかった。
ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
面白くない。
そう思っている自分まで、オルティアはもう誤魔化せなかった。
◇
帰りの馬車。
ルシアンは膝の上に置いた見本帳を開いていた。
小さな花の模様が並んでいる。
最初にそれを選んだ時は、先日見たリュネアやオルティアの服が頭にあった。
その先には当然、ヴェルシアナもいる。
けれど今は、それだけではなかった。
『ヴェルシアナ様は、ご令嬢相手になると少々距離感がおかしくなることがございます』
『女性を勘違いさせる才能は、かなりお持ちだと思います』
オルティアの言葉を思い返す。
やはり、自分が感じていた違いそのものは間違っていなかったらしい。
兄と話す時。
自分と話す時。
そして女性の友人たちと話す時。
そこには確かに、わずかな違いがある。
ならば、男性らしい印象を少し和らげることに意味がある可能性も残っている。
一方で。
『女性らしくすればよい、という話ではありません』
『自分に似合うものを選ばれた方がよいです』
こちらの言葉も、同じくらい残っていた。
ルシアンは見本帳の花を指先でなぞる。
どの形なら自分に似合うのか。
どこまでなら自分でも綺麗だと思えるのか。
そんなことを考えながら眺めていると、今まで服へ向けたことのない種類の興味が生まれてくる。
「随分気に入ったのね」
向かいに座る母が言った。
「何がです?」
「その見本帳」
ルシアンは自分の手元を見る。
「……少し面白いです」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。
ルシアンはもう一度、花の模様へ目を落とす。
ヴェルシアナがこれを見たら、また似合うと言ってくれるだろうか。
その想像をすれば、やはり嬉しい。
けれど、もし完成した日に彼女がその場へいなかったとしても、この服を一度着てみたいと思う気持ちは、もう消えそうになかった。
最初は、彼女から警戒されたくなくて服を変えた。
次は、似合うと言ってもらえたことが嬉しくて、もう少し違うものを選んだ。
そして今日は、自分に何が似合うのかを知りたいと思っている。
その三つはまだ綺麗に分かれてはいない。
ヴェルシアナを思い浮かべることと、自分が綺麗だと思うものを選ぶことは、今も同じ場所で重なっている。
それでも以前のように、服なら何でも同じだとはもう思わなかった。
ルシアンは小さな花の模様を眺めながら、完成した袖口を想像する。
その想像の中には、ヴェルシアナの反応だけではなく、鏡の前に立つ自分の姿も自然と含まれていた。




