第54話 悪役令嬢は、花の輪にいる
ルシアンがアルセリード邸を訪れてから数日後、ヴェルシアナは庭に面した小さなサロンで、珍しく朝から肩の力を抜いていた。
今日集まっているのは、リュネア、エステル、そして王都へ戻ってきたオルティアの三人である。
もともとは、リュネアが新しく考えた刺繍図案を見せに来るだけの予定だった。そこへエステルも誘い、さらにオルティアから王都へ戻ったという手紙が届いたため声をかけた結果、いつの間にか四人で過ごすことになっていた。
正式な茶会というほど堅苦しくもない。
丸机の上には菓子皿よりも刺繍糸や布見本の方が多く、窓から差し込む光を受けて、色とりどりの糸束が細く輝いている。
ヴェルシアナとしては、こういう予定は気が楽だった。
ここには攻略対象はいない。
誰かとの距離が少し縮まったところで、それがゲームで知っている筋書きを大きく揺らし、自分の破滅へ繋がるのではないかと、そのたびに警戒する必要もない。
もちろん貴族令嬢同士なのだから、人間関係そのものへ気を抜きすぎるべきではないだろう。些細な言葉が家同士の関係へ影響することだってあるし、今の年齢だから何を言っても許されるわけではない。
それでも、自分の一言や相手の反応をいちいち未来の破滅と結びつけなくて済むだけで、ずいぶん違った。
「ヴェルシアナ様、こちらはいかがですか?」
リュネアが差し出したのは、淡い青緑色の刺繍糸だった。
ヴェルシアナは受け取り、隣に置かれていた銀糸と見比べる。
「綺麗ですね。ただ、この銀糸と一緒に使われるのでしたら、もう少し青みが薄い方が馴染む気がします」
「やっぱりそう思います?」
「ええ。こちらですと、銀より先に青が目へ入ってしまいそうです」
リュネアは納得したように頷き、机いっぱいに並べた糸の中から別の色を探し始めた。
その向かい側では、エステルが図案をじっと眺めている。
彼女は最初から会話の中心へ入るタイプではない。
けれど以前のように、自分の意見を言う前から引っ込めてしまうことも減っていた。必要だと思った時には口を開き、違うと思えばきちんと指摘する。
しばらく黙っていたエステルが、一つの花模様へ指先を置いた。
「こちら、少し詰まりすぎて見えませんか?」
リュネアがすぐに身を寄せる。
「どのあたりです?」
「この花と、この葉です。どちらかを少し小さくした方が、周りの模様が見やすくなると思います」
「ああ……確かに」
リュネアは図案を少し離して見たあと、何度か頷いた。
「では、葉を減らしてみます」
ヴェルシアナはそのやり取りを眺めながら、あえて口を挟まなかった。
二人だけで話が進んでいるなら、それでいい。
自分が何かを言わなければ場が止まるわけではないし、そもそも全員が自分を中心に話す必要もない。
こうして誰か同士の会話を眺めながら紅茶を飲んでいられることも、今ではずいぶん心地よくなっていた。
その時、扉が開いた。
「遅くなりました」
聞き覚えのある声に、ヴェルシアナはすぐに顔を上げる。
「オルティア様」
薄紫の髪を肩の辺りで綺麗に整え、淡い灰色のドレスを纏ったオルティアが入ってきた。
以前より顔色も良く、歩き方にも無理がない。グランセル領で療養していた頃にあった危うさはかなり薄れていた。
ヴェルシアナは自然と席を立つ。
「もう外出なさって大丈夫なのですか?」
「医師にも許可をいただいております。それに、いつまでも屋敷へ籠もっていては、本当に病人になってしまいますから」
いかにもオルティアらしい返しだった。
その声に以前の張りが戻っていることが、何より嬉しい。
「それならよかったです」
「ご心配をおかけしました」
「それは今さらでしょう」
口から自然に出た言葉に、オルティアが少し目を丸くした。
「ずいぶん軽く仰るようになりましたね」
「友達なのでしょう?」
ヴェルシアナがそう返すと、今度はオルティアの方が言葉に詰まった。
前に自分から認めたことを、思い出したのだろう。
「……そうでしたね」
声が少しだけ小さい。
リュネアとエステルも何も言わなかったが、二人とも一瞬だけこちらを見た。
ヴェルシアナはその視線の意味までは考えず、空いている椅子を示そうとした。
けれど、その前にオルティア自身が机の周囲を見回した。
リュネアの隣にも席はある。
エステルの隣も空いている。
それでもオルティアは、迷う様子もなくヴェルシアナの隣の椅子へ手をかけた。
「こちら、よろしいですか?」
「もちろん」
ヴェルシアナが少しだけ自分の椅子を寄せる。
オルティアは礼を言って腰を下ろした。
その一連の動きをリュネアがちらりと見たが、何も言わなかった。
ただ、口元だけがほんの少し楽しそうに緩んでいた。
◇
しばらくして、話題は刺繍から服飾へ移った。
きっかけは、リュネアが持ってきた細いレースだった。
「これ、袖口に使うと可愛いと思うんです」
エステルが布へ重ねて確認する。
「綺麗ですね」
「でしょう?」
ただ、オルティアは少し離れたところから見て首を傾げた。
「このままだと、少し甘すぎませんか?」
「やっぱりですか?」
「わたくしなら、花だけではなく、もう少し直線的な飾りを入れます。そうすれば全体が締まると思います」
「オルティア様らしいですね」
ヴェルシアナが何気なく言うと、彼女はこちらを見た。
「どういう意味でしょう」
「花だけで柔らかくまとめるより、形を整えて見せる方がお好きでしょう?」
オルティアは少し驚いたように瞬きをする。
「……よく見ていらっしゃいますね」
「以前拝見した刺繍も、そうでしたから」
グランセル領で見た作品を思い出す。
華やかな花を使っているのに、ただ可愛らしいだけではない。配置にはきちんと意図があり、全体が崩れないよう考えられていた。
本人の性格が出ているようで、ヴェルシアナは妙に印象へ残っていた。
オルティアは何か言おうとしてやめ、代わりに自分のドレスの端を小さく整えた。
その口元だけは、隠しきれずに少し緩んでいた。
「では、ヴェルシアナ様は?」
リュネアが今度はこちらへ視線を向けた。
「私ですか?」
「どういう服がお好きなんです?」
ヴェルシアナは少し考えた。
前世なら、服について聞かれても「着られればいい」で終わっていた気がする。
けれど今はそうもいかない。
幼い頃からセレフィアにさまざまな服を着せられ、貴族としてどう見られるかまで含めて、少しずつ覚えてきた。
「動きにくくなければ、わりと何でも好きですよ」
リュネアがすぐ笑った。
「それ、お好きな服の答えになっています?」
「では、色でしたら、黒や深い色は落ち着きますね。淡い色も嫌いではありませんけれど」
「意外です」
「何がです?」
「もっと赤とか、強い色がお好きなのかと思っていました」
「瞳の色でしょうか」
「それもあります」
こういう話なら、何も考えずに答えられる。
ヴェルシアナは机へ身を寄せ、リュネアが次々広げていく布を眺めた。
そのうち、エステルが一枚の布を手に取る。
「これは、ヴェルシアナ様に似合いそうです」
淡い藤色だった。
「私に?」
「はい。髪が明るいので、少し色がある方が綺麗だと思います」
言い終えたエステルが、少しだけ不安そうにこちらを見る。
出過ぎたことを言ったと思ったのかもしれない。
ヴェルシアナは布を受け取り、自分の袖へ重ねてみた。
「確かに悪くありませんね」
「……本当に?」
「ええ。エステル様の方が、私より色を見るのは上手なのかもしれません」
そう返すと、エステルの表情が少しだけ和らいだ。
その様子をオルティアが見ている。
「ヴェルシアナ様は、他人から勧められたものを意外と素直に試されますね」
「似合わないと思えば断りますよ」
「そこははっきりしていらっしゃるのですね」
「無理に合わせる必要もありませんから」
その瞬間、リュネアが何か思いついたように立ち上がった。
「では、実際に合わせてみましょう」
「今ですか?」
「今です」
返事を待たず、淡い藤色の布をヴェルシアナの肩へかける。
「ちょっと、リュネア様」
「動かないでください」
「なぜ私が試着台になっているのです?」
「似合うか確認するためです」
あまりにも楽しそうなので、止める気も失せた。
ヴェルシアナが諦めて座っていると、エステルまで少し近づいて布の端を整え始める。
「やっぱり、こちらが似合います」
「そうですか?」
「はい」
「では、こちらは?」
オルティアが別の布を取った。
今度は少し濃い青だ。
「待ってください。いつの間に私を使う会になったのです?」
「今です」
オルティアが平然と言い切る。
ヴェルシアナは思わず笑った。
「それ、リュネア様と同じことをなさっていますよ」
「よい案は採用するべきでしょう?」
「そういうところだけ妙に気が合いますね」
オルティアは返事をせず、ヴェルシアナの肩へ青い布を合わせようとした。
しかし、肩へ流れていた銀髪が少し邪魔になったらしい。
「少し失礼します」
「はい?」
ヴェルシアナが返事をするより先に、オルティアの指が銀髪をそっと掬った。
肩にかかっていた髪を一つにまとめ、そのまま反対側へ避ける。
首筋へ、少しだけ冷たい空気が触れた。
「こちらの方が綺麗です」
「布が?」
何気なく尋ねると、オルティアの指が僅かに止まった。
「……色のお話です」
「そうでしたか」
「そうです」
返事が妙に早い。
ヴェルシアナは特に気にせず、肩へ当てられた青い布を鏡越しに見る。
「確かに、こちらも悪くありませんね」
「でしょう?」
オルティアはそう答えながらも、避けた銀髪をすぐには戻さなかった。
指の間を滑らせるように一度整え、毛先まで乱れがないことを確かめてから、ようやく元の肩へ流す。
「やはり、こちらも似合います」
声はいつも通りだった。
けれど、向かい側のリュネアがその様子を見て、意味ありげにエステルへ目を向ける。
エステルも気づいたらしく、ほんの少しだけ口元を緩めた。
オルティアはすぐに二人の視線へ気づいた。
「……何かございます?」
「いえ。青もよくお似合いだと思いまして」
リュネアが何食わぬ顔で答える。
「でしたら、ヴェルシアナ様をご覧になればよろしいでしょう」
「見ていますよ」
「なら結構です」
少しだけ言葉が早い。
ヴェルシアナは三人を順番に見たが、何が起きているのか分からなかった。
まあ、楽しそうなので問題はないだろう。
そう判断し、もう一度鏡へ目を戻した。
◇
午後になると、四人は庭へ出た。
ずっとサロンに座り続けるより、少し歩いた方がよいだろうという話になったのだ。
庭には季節の花が咲き始めており、春先よりも色が増えている。
リュネアは花を見るたびに刺繍の参考になると言い、エステルはそれを横で聞きながら、ときどき花弁の形や葉の違いを指摘していた。
オルティアは、ほんの少しだけ歩く速度が遅い。
体調自体は戻っていても、長く療養していた分まで一度に取り返せるわけではないのだろう。
ヴェルシアナはそのことに気づき、何も言わずに自分の歩幅を少し狭くした。
すぐ横にいたオルティアも気づいたらしい。
「ヴェルシアナ様」
「はい?」
「お気遣いなさらなくても大丈夫ですよ」
「何のお話でしょう」
「歩く速度を落とされたでしょう」
ばれていた。
ヴェルシアナは少しだけ考えてから答える。
「皆で歩いているのですから、同じくらいでよいでしょう?」
「……そういう言い方をなさいますよね」
「どのような?」
「こちらが気を遣わずに済むような言い方です」
ヴェルシアナには、そこまで考えた自覚はなかった。
「単に、本当にそう思っているだけですよ」
「分かっています」
オルティアはそこで一度言葉を切り、小さく付け加えた。
「だから困るのです」
ヴェルシアナは聞こえなかったふりをした。
その方が、今はよさそうだった。
少し先では、リュネアが花壇の端でしゃがみ込んでいる。
「見てください、この花」
三人も近づく。
小さな白い花が、いくつもまとまって咲いていた。
「刺繍にすると可愛いと思いません?」
「少し小さすぎませんか?」
「そこを簡略化するんです」
リュネアは楽しそうに話し始める。
ヴェルシアナは花そのものより、話している彼女の顔の方を見る。
好きなものについて話している時のリュネアは、とても分かりやすい。
視線が花とこちらを何度も往復し、言葉もいつもより少し速くなる。
「リュネア様」
「はい?」
「その花、少し持って帰られますか?」
「え?」
「庭師に確認すれば、少しくらいなら分けていただけると思います」
リュネアの顔が目に見えて明るくなった。
「いいんですか?」
「もちろん。確認してみましょう」
ヴェルシアナは少し離れた場所に控えていた使用人へ声をかけた。
「この花を少し分けていただけるか、庭師へ確認をお願いできますか?」
「かしこまりました」
使用人はすぐに一礼し、庭の奥へ向かっていった。
嬉しそうに花を眺めているリュネアを見て、ヴェルシアナも少しだけ笑う。
自分にとっては大したことではない。
ただ、相手が何を好きなのかを覚えていて、それが少し役に立つなら悪い気はしなかった。
「ヴェルシアナ様は」
隣にいたエステルが声をかけてくる。
「人が好きなもの、よく覚えていらっしゃいますね」
「そうでしょうか」
「はい」
「たまたまですよ」
答えながら、ヴェルシアナは少しだけ考えた。
前世では、人間関係を必要以上に深くしない方が楽だと思っていた。
こちらへ来てから誰かを観察するようになったのも、最初は自分が生き残るためだった。
誰が何を考えているのかを知り、どこで何が起こりそうなのかを予測し、自分が破滅へ近づかない選択をする。
相手を知ることは、自分を守るための手段だった。
けれど、いつからだろう。
誰かの好きなものを覚えていることが、その人を喜ばせるために役立つなら、それ自体を嬉しいと思うようになった。
自分を守るために始めたはずの観察が、少しずつ別のものへ変わっている。
しばらくすると、先ほどの使用人が戻ってきた。
「お嬢様。庭師より、少量でしたら問題ないとのことでございます」
「ありがとうございます」
ヴェルシアナはリュネアへ顔を向ける。
「よかったですね」
「ありがとうございます、ヴェルシアナ様!」
あまりに嬉しそうなので、ヴェルシアナもつられて笑った。
庭師が花を分ける準備をしている間、四人はそのまま別の小道へ進む。
少し狭い石畳へ入ったところで、後ろから使用人が大きな籠を抱えてやってきた。
ヴェルシアナが端へ寄ろうとした時、袖口へごく軽い感触があった。
「こちらです」
オルティアの指が、ヴェルシアナの袖を摘まんでいた。
ほんの少しだけ、自分の方へ引く。
ヴェルシアナもその動きに合わせて隣へ寄った。
「ありがとうございます」
「……いえ」
使用人が前を通り過ぎる。
それでもオルティアの指は、すぐには離れなかった。
二歩ほど進んだところで、ようやく袖から手が離れる。
本人は何事もなかったように花壇へ視線を向けていた。
ヴェルシアナも、特に気にしなかった。
後ろではリュネアが何か言いたそうにしていたが、オルティアが振り返った瞬間、素早くエステルの方へ顔を向ける。
エステルは困ったように笑っていた。
◇
その日の帰り際。
予定にはなかった客がアルセリード邸へ到着した。
「ディルヴァン様と、ルシアン様がお見えです」
使用人から告げられ、ヴェルシアナは少し驚いた。
「今日でした?」
「いいえ。レオルディス様へお届け物があるとのことで、ヴァレンティス家の方がお寄りになったそうです」
なるほど。
父への用事なら、自分には関係ない。
そう思っていたのだが、ちょうどリュネアたちを見送るため玄関近くまで来ていたので、結局顔を合わせることになった。
「ヴェルシアナ」
先にこちらへ気づいたディルヴァンが手を上げる。
「こんにちは。今日はどうされたのです?」
「父上から預かったものを届けに来た」
そう答えながら、ディルヴァンの視線がヴェルシアナの腕へ向いた。
そこにはサロンから持ってきた布見本が数枚重ねてある。
「それ何?」
「今日、皆様と見ていた布です」
「見せて」
興味を持ったらしく、そのまま覗き込むように一歩近づく。
ヴェルシアナは嫌がるほどではないが、ごく自然に半歩だけ横へずれ、彼からも見えるように布を持ち上げた。
「こちらからでも見えますよ」
「別にそれくらい近くてもいいだろ」
「見えるのでしたら、この距離で十分でしょう?」
「細かいなあ」
「ディルヴァン様が近いのです」
いつものやり取りだった。
だからディルヴァンもまったく気にせず、今度は少し離れたところから布の色を眺めている。
そのすぐ後ろで。
ルシアンが、二人の距離を見ていた。
「ヴェルシアナ様、こちら」
リュネアが袖へ手を伸ばした。
いつの間にか付いていた小さな糸くずを摘まんで取る。
「ありがとうございます」
ヴェルシアナは動かない。
さらにオルティアが横からこちらを見る。
「ヴェルシアナ様、髪も少し乱れていますよ」
「本当ですか?」
「ええ」
オルティアの指が自然に伸び、頬へかかっていた銀髪を耳の後ろへ流した。
それでもヴェルシアナは身を引かなかった。
「ありがとうございます」
「……どういたしまして」
オルティアはそう答えたが、直し終えたあとも一瞬だけ髪へ触れた指を残していた。
ルシアンの視線が、その手元へ留まる。
兄が近づいた時、アルセリード嬢はほんの半歩だけ距離を取った。
嫌がっていたわけではない。
あれほど遠慮なく話せる相手なのだから、兄を嫌っているはずもない。
それでも、近づかれれば距離を調整した。
なのに今は、リュネアが袖へ触れても、オルティアが髪へ触れても、一度も身を引いていない。
「ルシアン様?」
名前を呼ばれて、ようやく彼の視線が戻った。
「……こんにちは、アルセリード嬢」
「こんにちは」
ヴェルシアナはいつも通り返した。
その後、改めてリュネアたちを紹介する。
もちろん互いに家名程度は知っているので、形式的な挨拶だ。
ディルヴァンはすぐに普通に話し始めたが、ルシアンだけはどこか考え込んでいるように見えた。
「どうされました?」
ヴェルシアナが聞く。
「いえ」
「何か気になることが?」
「少しだけ」
正直だ。
「何でしょう」
ルシアンはすぐには答えなかった。
その視線が、ヴェルシアナと三人の令嬢の間を一度だけ往復する。
「アルセリード嬢は、皆様とはとても近くお話しになるのですね」
「近く?」
「距離が、です」
言われて初めて、ヴェルシアナは周囲を見る。
確かに近い。
さっきまで同じ机を囲み、布を肩へ当てられたり、髪へ触れられたりしていた。その空気のまま玄関まで来ていたので、自分ではほとんど意識していなかった。
「友人ですから」
何の疑問もなく答える。
ルシアンはその言葉を受け取るように、一度だけ小さく頷いた。
「……そうなのですね」
「何か?」
「いえ。少し分かった気がしただけです」
「何がです?」
「まだ、うまくまとまっていません」
答えになっていない。
ただ、本人も本当に整理できていないらしい。
ヴェルシアナはそれ以上追及しなかった。
「では、分かったら教えてください」
「はい」
ルシアンは静かに答えた。
そこへリュネアが声をかける。
「ヴェルシアナ様、また図案ができたら持ってきてもいいですか?」
「もちろん」
「今度は、本当にヴェルシアナ様用に作ってもいいです?」
「私用ですか?」
「今日、似合う色も分かりましたから」
「いつの間に決定事項になったのでしょう」
「さっきです」
ヴェルシアナは笑いながら肩をすくめた。
「では、楽しみにしております」
リュネアの顔がまた明るくなる。
その隣から、オルティアも口を挟んだ。
「次はわたくしも布を持ってきます」
「オルティア様まで?」
「リュネア様だけに任せると、甘くなりすぎますので」
「ちゃんと調整します!」
「では競争ですね」
「なぜ競争になるのです?」
エステルまで小さく笑う。
気づけばヴェルシアナ自身も、完全にその輪の中へ戻っていた。
やがて別れの時間になり、三人が玄関の外へ向かう。
「では、また」
オルティアも一度離れかけた。
けれど数歩進んだところで、ふと思い出したように振り返る。
「ヴェルシアナ様」
「はい?」
戻ってきたオルティアが、また彼女のすぐ近くへ立った。
「こちら、少し曲がっております」
髪に留めていた小さな飾りへ指を伸ばし、角度を直す。
「ありがとうございます」
「……どういたしまして」
飾りはもう真っ直ぐになっている。
それなのにオルティアは、ほんの一瞬だけそのまま指先を残してから、ようやく手を下ろした。
「では」
「お気をつけて」
オルティアが離れたところで、リュネアが隣から小さな声を落とした。
「オルティア様、本当にヴェルシアナ様のお髪がお好きですね」
「そうなのですか?」
ヴェルシアナが素直に聞き返す。
少し離れたところまで歩いていたオルティアが、ぴたりと足を止めた。
「リュネア様」
「はい?」
「余計なことを仰らないでください」
声はいつも通りだった。
ただ、耳だけが分かりやすく赤い。
ヴェルシアナは首を傾げる。
「髪がお好きなら、別に構いませんけれど」
その一言で、オルティアの耳がもう少し赤くなった。
「……そういうことではありません」
「では?」
「もう帰ります」
今度こそ振り返らずに歩いていく。
リュネアは堪えきれないように肩を震わせ、エステルも口元へ手を添えていた。
ヴェルシアナだけが、何がそんなに面白いのか分からない。
そして少し離れた場所で、ルシアンはその一部始終を見ていた。
◇
帰りの馬車の中。
ディルヴァンは届け物を終えた気楽さからか、窓の外を眺めながら足先を小さく揺らしていた。
向かいの席に座るルシアンは、先ほど見た光景を何度も思い返している。
アルセリード嬢は、友人たちと随分近かった。
単に話し方が柔らかいというだけではない。
髪へ触れられても身を引かず、袖へ手を伸ばされても警戒する様子がなく、相手がすぐ隣へ寄ってきても距離を測ろうとしない。
特にオルティア嬢は、何度も彼女へ触れていた。
髪を整え、飾りを直し、別れ際には顔が近づくほどの距離まで寄っている。
それでもヴェルシアナは、一度も下がらなかった。
むしろ髪へ触れられること自体を、何でもないこととして受け入れていた。
一方で、兄が布を覗き込もうと一歩近づいた時には、自然に半歩だけ離れている。
嫌っているわけではない。
兄とアルセリード嬢が親しいことくらい、ルシアンにももう分かっていた。
兄は彼女へ遠慮がないし、彼女も兄を止めたり、言い返したり、時には楽しそうに笑ったりする。
それでも、物理的な距離だけは令嬢たちとは違っていた。
「何考えてんの?」
突然ディルヴァンが聞いてきた。
ルシアンは顔を上げる。
「兄上には関係ありません」
「それ言う時、大体なんか考えてるだろ」
「誰でも考え事くらいします」
「ヴェルシアナのこと?」
ルシアンの視線が止まった。
ディルヴァンが楽しそうに笑う。
「当たり?」
「……どうしてそう思ったのですか」
「さっき、ずっと見てたから」
この兄は、こういうところだけ妙に鋭い。
ルシアンは少し迷ったあと、窓の外へ視線を移した。
「アルセリード嬢は、女性には警戒が薄いのでしょうか」
「女?」
「リュネア嬢たちとは、とても近かったので」
ディルヴァンは少し考える。
「まあ、仲いいからじゃない?」
「それだけでしょうか」
「それ以外ある?」
最初は、ルシアンもそう思った。
友人だから。
親しいから。
それなら距離が近いのも不思議ではない。
けれど兄だって、十分に親しい。
少なくとも自分よりずっと以前からヴェルシアナを知っていて、彼女の方も兄には遠慮なく話している。
それでも違った。
兄が近づけば、彼女は自然に距離を調整する。
自分が近づいた時にも、以前ほどではなくなったとはいえ、まだ僅かにこちらを意識する瞬間がある。
けれど、リュネア嬢たちにはそれがなかった。
とりわけオルティア嬢があれほど近くへ寄っても、ヴェルシアナは警戒するどころか、触れられることを自然に受け入れている。
自分と兄にはあって。
彼女たちにはないもの。
考えを重ねるほど、可能性は一つの場所へ集まっていった。
「……男性だから?」
口から漏れた言葉は、自分で思っていたよりもはっきりしていた。
「何が?」
ディルヴァンが聞く。
「いえ」
ルシアンは首を横に振った。
まだ仮説にすぎない。
それに、相手が女性だからという理由だけで説明できるのかも分からない。
ただ、一度気づいてしまえば、違いはあまりにも目についた。
今日見たヴェルシアナは、自分が普段知っている彼女よりずっと近く、柔らかく、相手が距離を縮めることそのものを警戒していなかった。
もし本当に、自分が男性であることが、彼女の警戒へ繋がっているのだとしたら。
どうすれば、その警戒を少しでも薄くできるのだろう。
そこまで考え、ルシアンは窓へ映った自分の姿へ目を向けた。
整えられた髪。
濃い色の上着。
兄ほど動きやすさを優先してはいないが、それでもヴァレンティス家の男子として選ばれた服装。
その向こうへ、先ほど見た色が重なる。
オルティアが纏っていた淡い灰色。
リュネアの袖口を飾っていた細い刺繍。
ヴェルシアナの肩へ当てられていた柔らかな藤色。
もちろん、今すぐ何か具体的な考えに結びついたわけではない。
ただ、それまでなら気にも留めなかったものが、不思議と記憶へ残った。
「ルシアン?」
兄の声で我に返る。
「何でもありません」
窓から視線を外す。
今はまだ、本当に何でもない。
けれど今日、ルシアンの中に生まれた問いは、以前までとは少し違っていた。
アルセリード嬢がなぜ自分を警戒しているのか。
その理由を知りたいだけではない。
どうすれば、自分もあの輪の中にいる時のような目で見てもらえるのか。
その答えを知りたいと、ルシアンは思い始めていた。




