第53話 悪役令嬢は、その目を信じる
風糸の訓練を始めてから四日後、ヴェルシアナはアルセリード邸の西庭にある古い温室の前で、思っていた以上に機嫌の良さそうなディルヴァンを見上げていた。
「入れるんだろ?」
「見学だけですよ。勝手に触らないでくださいね」
「分かってるって」
「その返事で安心できたことが一度もないのですが」
「ひどくない?」
「日頃の積み重ねかと」
ヴェルシアナが答えると、少し後ろを歩いていたルシアンが小さく笑った。
今日はヴァレンティス兄弟がアルセリード家を訪れていた。
父たちは北部に残る古い魔力設備について話があるらしく、到着して早々に書斎へ入っている。母も途中までは同席していたものの、子供三人まで大人の会議へ放り込む必要はないと判断したらしい。
そこで、少し前から修復が始まっていた西庭の温室を見に行ってはどうかと提案された。
建てられたのは何十年も前で、今の屋敷が整備される以前から残っている施設らしい。長く使われていなかったが、最近になって古い植物記録と一緒に再整備されることになり、内部の安全確認もほぼ終わっている。
もちろん、完全に自由に歩き回れるわけではない。
護衛の騎士が二人、修復担当の職人が一人、それにミレーヌも同行している。
ディルヴァンには少し物足りないかもしれないが、ヴェルシアナとしてはそのくらいでちょうどいい。
「古い温室って、もっとぼろぼろかと思ってた」
扉が開くなり、ディルヴァンは中を見回した。
細い鉄骨と木枠で組まれた建物には、大小さまざまな硝子板が嵌め込まれている。新しく交換された部分は透明度が高く、古い硝子にはわずかな歪みが残っていた。
そこを通った午後の光が、床へ不揃いな形を落としている。
中にはまだ植物がほとんど入っておらず、壁際に空の植木鉢や木箱が積まれているだけだった。
「これから植え直すそうです」
「何を?」
「以前ここで育てていた品種を中心にすると聞いております。昔の記録が一部残っているそうなので」
「昔の記録」
その言葉に反応したのは、ディルヴァンではなくルシアンだった。
「昨日の本と関係がありますか?」
「直接は分かりません。ただ、父が古い資料を探しているので、屋敷の古い施設も一緒に確認しているようです」
図書館で見つけた北部の地脈記録は、その日のうちに父へ渡してある。
レオルディスは一通り目を通したあと、珍しくすぐに複写を頼んでいた。
詳しい話を子供の自分へすべて伝えることはなかったが、無関係とは判断しなかったらしい。
「この辺にも、あの印があったりしてな」
ディルヴァンが床を覗き込む。
「ございましたら、まず大人を呼んでくださいね」
「まだ何もしてないだろ」
「先に申し上げております」
「信用ないなあ」
「行動力に信用がありすぎるのです」
それを横で聞いていたルシアンが、兄へ少しだけ同情するような目を向けた。
「兄上、諦めた方がよいと思います」
「ルシアンまでそっち?」
「アルセリード嬢の言っていることは間違っていませんので」
「お前ら、会うの三回目だよな?」
ディルヴァンが本気で不思議そうな顔をしたので、ヴェルシアナは思わず笑いかけた。
その途中で、ルシアンと目が合う。
前回なら、そこで少しだけ意識していたかもしれない。
今日は違った。
自然に笑ったまま、視線を逸らさない。
ルシアンの方が先に、わずかに目を細めた。
それだけのやり取りだった。
けれど、彼はどうやら覚えているらしい。
前回より、また少しだけ。
◇
温室の奥には、小さな区画がいくつも作られていた。
昔は植物の種類ごとに分けていたらしく、石造りの低い仕切りや、水を通すための細い溝が床へ残っている。
修復担当の職人が先頭に立ち、どこまで歩いてよいのかを説明してくれた。
「中央と東側は問題ございません。ただ、西奥の通路はまだ床板を確認している途中ですので、手前からご覧ください」
「入っちゃ駄目?」
ディルヴァンが確認する。
「はい」
「分かった」
あっさり引いた。
ヴェルシアナは少し意外に思って彼を見たが、本人はもう別の場所へ興味を移している。
最近はこういうところでも、一度言われたことをそのまま受け取るようになってきたらしい。
少し前なら「俺が先に確認する」と言いかねなかったことを考えれば、十分な変化だ。
「どうした?」
「いいえ」
「またなんか言いたそう」
「今回は本当に何も」
「本当?」
「疑いすぎでは?」
そんな話をしながら中央区画へ進んだところで、ルシアンだけが足を止めた。
ヴェルシアナは数歩進んでから気づき、振り返る。
「ルシアン様?」
彼は返事をせず、頭上を見ていた。
視線の先には、古い硝子板を支えている細い金属枠がある。
新しく補強された場所ではない。
少し曇りの残る硝子の端。
何か気になるものでもあるのだろうか。
「どうしました?」
今度はディルヴァンも戻ってきた。
ルシアンは少し迷ってから、指を上へ向ける。
「兄上。あそこ、少し変ではありませんか」
「どこ?」
「右から三枚目の硝子です」
ディルヴァンが目を細めた。
「……別に普通に見えるけど」
「枠が少し下がっています」
「そう?」
ヴェルシアナも見上げる。
言われて初めて気づいた。
確かに、隣の硝子と比べてほんの少しだけ角度が違う。
ただ、危険と言われなければ気づかない程度だ。
職人もすぐに視線を上げた。
「どちらでございますか?」
「こちらです」
ルシアンが位置を示す。
職人は近くへ寄り、しばらく確認した。
「……少々お待ちください」
声の調子が変わった。
護衛の一人がすぐに子供たちの前へ出る。
「皆様、一度こちらへ」
ディルヴァンは何も言わず、素直に数歩下がった。
ヴェルシアナも従う。
その時。
上から、かすかな音がした。
硬いもの同士が擦れるような、小さな音だった。
次の瞬間、硝子を押さえていた金属片の一部が外れ、床へ落ちる。
乾いた音が温室の中へ響いた。
硝子板そのものは落ちなかった。
だが、一角がわずかにずれたのが分かる。
「外へ出ましょう」
護衛の声に、今度は誰も反論しなかった。
◇
温室から出たあと、職人はすぐに他の作業員を呼びに行った。
幸い怪我人はいない。
落ちたのも小さな金具だけで、硝子板そのものが外れたわけではなかった。
それでも、もし何も気づかず真下を歩いていたらと思うと、気分のいい話ではない。
「よく気づいたな」
ディルヴァンが最初に言った。
ルシアンは温室の屋根を見上げたまま答える。
「たまたまです」
「いや、俺ぜんぜん分からなかった」
「僕も最初は、光の加減かと思いました」
「でも止まっただろ」
「少し気になったので」
ディルヴァンはそれで十分らしく、弟の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、お前のおかげだな」
何の躊躇もない。
ルシアンが少しだけ目を見開いた。
以前なら、こういう時に兄から褒められても、その言葉を素直に受け取れなかったのかもしれない。
けれど今日のディルヴァンは、自分が気づかなかったことを弟が気づいたと、そのまま認めている。
そこに悔しさも、兄としての面子もない。
ヴェルシアナがそれを見ていると、ディルヴァンがこちらへ顔を向けた。
「な?」
「なぜ私へ確認するのです?」
「こういう時、前のお前なら何か言うかなって」
「何もございませんよ。今のはとてもよかったと思います」
「俺が?」
「ルシアン様が、です」
「そっちかよ」
「もちろんディルヴァン様も、すぐ下がられたのは大変よろしかったですよ」
「子供扱いされてない?」
「九歳ですよね?」
ディルヴァンが不服そうな顔をする。
その横で、ルシアンが少し笑った。
ただ、その笑みはすぐに薄れた。
彼の視線が温室へ戻る。
「僕が間違っていた可能性もありました」
ヴェルシアナは、何気なく言われたその言葉へ目を向けた。
「それがどうかしました?」
「もし何もなかったら、皆さんを止めただけになります」
「それでも止まればよいのでは?」
ルシアンがこちらを見る。
「ですが」
「危険かもしれないと思ったのでしょう?」
「はい」
「なら、確かめるまで進まない方が安全です。何もなければ、それで終わりでしょう」
ヴェルシアナとしては、それほど難しい話をしているつもりはなかった。
間違っていたら恥ずかしい。
気にしすぎだと思われるかもしれない。
そういう理由で違和感を黙って、あとから何か起きる方がよほど困る。
「それに」
ヴェルシアナは温室を見た。
「ルシアン様が何の根拠もなく、あそこで立ち止まる方だとは思っておりませんでした」
今度こそ、ルシアンの表情が止まった。
「……僕を?」
「はい」
「信用したのですか?」
問い方が少しだけ変だった。
まるで、その言葉が予想していなかった場所から飛んできたような顔をしている。
ヴェルシアナは首を傾げた。
「そうなりますね」
「ですが、僕のことを警戒しているのでしょう?」
「ああ」
そこが引っかかったのか。
ヴェルシアナは少し考えてから、なるべく誤解のないように言葉を選んだ。
「警戒していることと、ルシアン様のお話を信用しないことは別ですよ」
「別なのですか」
「別でしょう」
ヴェルシアナにとっては当然だった。
未来について知っているから警戒している。
だが、それは今ここにいるルシアンが嘘をつく人間だという意味ではない。
むしろ会うたびに、彼は自分が見たものを慎重に確かめている。
訓練装置でも。
図書館の本でも。
今日の硝子でも。
気づいたものをすぐ大げさに騒ぎ立てるのではなく、自分の中で一度確かめてから口にする。
「ルシアン様は、分からないものを分かったふりして仰る方ではないと思っていますから」
ルシアンは黙った。
ヴェルシアナは続ける。
「ですから、あなたが本当に気になると言うのでしたら、私は一度止まります。それから皆で確かめればよいだけです」
そこまで話して、少しだけ不思議に思った。
自分は、いつからこんなにルシアンの性格を判断できるほど見ていたのだろう。
会った回数は、まだ多くない。
警戒しているから観察していた。
最初は、それだけだったはずだ。
けれど実際に見ていれば、ゲームの知識とは関係のない部分まで少しずつ分かってくる。
ルシアンは考えてから話す。
よく見ている。
人の言葉を覚えている。
分からないことを無理に誤魔化さない。
そういうことを。
「私は、ルシアン様が見つけたものを、最初から無かったことにはしたくありません」
口にしたあと、ヴェルシアナ自身が少しだけ驚いた。
言おうと決めていたわけではない。
けれど、今の自分の考えとして一番近かった。
ルシアンはしばらく何も言わなかった。
「……そうですか」
ようやく返ってきた声は、とても静かだった。
その顔に大きな変化はない。
ただ。
いつもより少しだけ、目元が柔らかくなっていた。
◇
温室の点検には時間がかかるらしく、その日の見学はそこで中止になった。
代わりに三人は庭の東側へ移動し、小さな池の周囲を歩くことになった。
「温室より何もないな」
ディルヴァンが言った。
「危険も少なくてよいでしょう」
「それ楽しい?」
「私は安心できます」
「ヴェルシアナってたまに六歳っぽくないよな」
「ディルヴァン様は九歳らしいと思いますよ」
「それ褒めてる?」
「ご想像にお任せします」
少し前を歩く二人の後ろで、ルシアンは静かに歩いていた。
先ほどから、いつもより口数が少ない。
何か考えているのだろう。
ヴェルシアナは一度だけ気になって振り返ったが、目が合うとルシアンはいつも通り微笑んだ。
「どうされました?」
「いいえ。少し静かでしたので」
「考え事をしていました」
「また私の警戒理由について?」
冗談半分で言ったつもりだった。
するとルシアンは、少しだけ考えてから首を横に振った。
「今は、それとは別のことです」
珍しい。
「何を?」
「まだまとまっていません」
「そうですか」
なら、無理に聞く必要はない。
ヴェルシアナはそのまま前へ向き直る。
後ろで、ルシアンがほんの少しだけ足を速めた。
やがて横へ並ぶ。
「アルセリード嬢」
「はい?」
「先ほどのことですが」
また温室の話だろうか。
「僕が見つけたものを、無かったことにしたくないと仰いましたよね」
「ええ」
「それは、僕だからですか?」
難しい質問だ。
ヴェルシアナは池の水面を眺めながら考えた。
「誰であっても、危険かもしれないと真剣に仰るなら確認はしますよ」
ルシアンの表情が、ごく僅かに変わる。
そこでヴェルシアナは続けた。
「ただ、すぐに信用したのはルシアン様だからでしょうね」
今度は、完全に足が止まった。
ヴェルシアナも数歩進んでから振り返る。
「どうされました?」
「……いえ」
「でしたら行きますよ」
「はい」
ルシアンが追いつく。
けれど今度は先ほどより近い位置を歩いていた。
ヴェルシアナは特に気にしなかった。
その程度の距離なら、もう下がる理由もなかった。
◇
帰る前。
ヴァレンティス家の馬車が玄関前へ回されるまでの短い間、ルシアンは一人で窓際に立っていた。
少し離れたところでは、ディルヴァンがヴェルシアナへ次に来る時の話をしている。
「温室、直ったらまた見たい」
「その時は勝手に奥へ行かないと約束してください」
「分かったって」
「今日も同じことを聞いたような気がします」
「今日は行かなかっただろ?」
「ですから、そこは偉かったと思っておりますよ」
「やっぱり子供扱いしてるだろ」
二人の会話は、ずいぶん自然だった。
最初に見た時からそうだった。
兄は彼女の前で、あまり考えて話していない。
言いたいことを言い、止められれば言い返し、時には素直に聞く。
そしてヴェルシアナも、それを受け止めている。
どうすれば、あの距離まで行けるのだろう。
少し前まで、ルシアンが知りたかったのはそれだった。
けれど今日。
別のものが一つ増えた。
『警戒していることと、ルシアン様のお話を信用しないことは別ですよ』
あの言葉が、ずっと残っている。
自分でも不思議だった。
アルセリード嬢に警戒されていることは、今までと変わっていない。
理由もまだ聞けていない。
なのに以前ほど、その壁ばかりが気にならなくなっていた。
彼女は自分を警戒している。
それでも、自分の言葉を信じた。
自分が見つけたものを、見る価値があると思ってくれた。
何かが起こってから褒められたのではない。
結果が出る前に、立ち止まってくれた。
それが、妙に嬉しかった。
「ルシアン」
兄の声で我に返る。
「帰るぞ」
「はい」
歩き出そうとしたところで、ヴェルシアナがこちらを見る。
「ルシアン様」
「はい?」
「今日はありがとうございました」
「僕は何も」
「温室のことです」
まただ。
ルシアンは少しだけ笑った。
「偶然気づいただけですよ」
「では、その偶然に助けていただきました」
ヴェルシアナはそう言って、いつものように丁寧に頭を下げる。
でも。
もう最初に会った時と同じには見えなかった。
礼儀として向けられているだけだった赤紫の瞳が、今日は確かに自分を見ていた。
「……次も」
言ってから、ルシアンは少し考える。
「何か見つけたら、申し上げてもよろしいですか?」
ヴェルシアナが首を傾げた。
「もちろん。どうして確認を取るのです?」
その答えに、胸の奥がわずかに軽くなる。
「分かりました」
馬車へ向かう兄の後を追いながら、ルシアンは一度だけ振り返った。
玄関前に立つヴェルシアナが、こちらへ手を振っている。
警戒されなくなりたい。
それは今も変わらない。
けれど今日初めて、それだけではないと思った。
もっと話してみたい。
自分が見つけたものを、また彼女に見てほしい。
何かに気づいた時、最初に伝えたいと思える相手になってほしい。
そしてできるなら、自分の言葉を聞いた時に向けられるあの眼差しを、もう少しだけ長く自分へ留めてほしい。
理由を説明できるほど、ルシアンはまだ自分の感情を知らない。
それでも一つだけ分かる。
アルセリード嬢にどう思われているのかが気になるのではなく。
アルセリード嬢に、どう見てもらえるのかが気になっている。
その違いは、幼いルシアン自身が思っているよりも、ずっと大きかった。




