第51話 悪役令嬢は、同じ頁をひらく
次にルシアンと顔を合わせることになったのは、それから六日後だった。
正確に言えば、ヴェルシアナが約束したのは「次に会った時は、もう少し普通に話す」ということだけで、六日後に再会するところまで決めた覚えはない。
ところがディルヴァンという少年は、曖昧に残された部分へ自分の都合のいい予定を入れることに関してだけは妙に行動が早かった。
ヴァレンティス家が借りていた資料を王立図書館の分館へ返却するから、一緒に来ないか。
届いた誘いはそんな内容だった。
訓練でもなければ遠出でもない。人の多い図書館へ行き、本を見るだけで、同行者にはディルヴァンもいる。当然それぞれの家の護衛もつくのだから、ルシアンとの接触として考えればかなり穏当な予定だった。
だから断らなかった。
断らなかったのだが。
「お嬢様」
「はい」
出発前の自室で、ヴェルシアナは鏡の前に立っていた。
ミレーヌが後ろから襟元を整え、最後に薄手の手袋を差し出してくる。
「本日は随分と念入りでいらっしゃいますね」
「何がです?」
「先ほどから三度ほど、同じところをご確認なさっています」
言われて初めて、ヴェルシアナはもう一度髪へ手を伸ばしかけていたことに気づいた。
別にルシアンへ良く見られたいわけではない。
そこは断じて違う。
ただ、前回のように自分だけ妙に硬くなってしまえば、また何かを見抜かれる可能性がある。今日は最初から普段通りに接し、必要以上に身構えていると思わせない方がいい。
「初対面ではありませんから、今日はもう少し自然に接しようと思っているだけです」
「なるほど」
ミレーヌはそれだけ答え、手袋の皺を指先で伸ばした。
ヴェルシアナは鏡越しに彼女を見る。
「……何か言いたそうですね」
「いいえ」
「本当に?」
「ただ、お嬢様が『自然にしよう』とお考えになっている時点で、少々難しいのではないかと思っただけでございます」
あまりにもさらりと言われたので、ヴェルシアナは一瞬返す言葉を失った。
「それ、言いましたよね」
「申し上げました」
「ずいぶん遠慮がなくなりましたね」
するとミレーヌは主人の手へ手袋を渡しながら、特に気負う様子もなく答えた。
「お傍におりますので」
それだけだった。
けれど、あまりにも自然に言われたせいで、かえって何も返せなくなる。
ヴェルシアナが手袋を嵌め終えると、ミレーヌは鏡越しに全体を一度だけ確認し、問題がないと判断したように頷いた。
「では、参りましょう」
「……はい」
どうやら今日は、これ以上自分で自分を点検する前に出発した方がよさそうだった。
◇
王立図書館の分館は、王都の中心部から少し外れた場所に建っていた。
本館ほど大きくはないが、王立研究院の関係者や貴族が個人的に資料を閲覧する施設として使われているらしい。外観には目立った装飾がほとんどなく、その代わり壁には縦長の窓が規則正しく並び、昼間は館内の奥まで自然光が届くよう作られている。
馬車を降りると、正面階段の脇でディルヴァンがこちらを見つけた。
その隣にはルシアンもいる。
今日は訓練着ではなく、二人とも外出用の服装だった。
ディルヴァンは濃い色の上着を着ていても、やはりどこか動き出しそうな気配を隠せない。きちんと留められていたはずの襟元も少しだけ崩れていて、本人がそれを気にしている様子もなかった。
一方のルシアンは、深い青灰色の上着を隙なく着こなしている。襟と袖口には細い銀糸の刺繍が入り、装飾そのものは控えめなのに、彼の涼やかな顔立ちにはよく似合っていた。
訓練場で見た時よりも、今日はずっと整った印象を受ける。
その姿を見ていると、前世で画面越しに眺めていたルシアンの面影が、ほんの少しだけ濃くなった気がした。
十五歳になれば、きっとあの立ち絵に近づいていくのだろう。
そこまで考えたところで、ヴェルシアナは自分の思考を止めた。
今ここにいるのは、まだ六歳のルシアンだ。
未来の姿を重ねすぎないと決めたばかりなのだから、会うたびにゲームの記憶へ引き戻していては意味がない。
「こんにちは、ディルヴァン様。ルシアン様」
「こんにちは、アルセリード嬢」
ルシアンが綺麗に一礼する。
ヴェルシアナも同じ温度で返した。
そこへディルヴァンが二人を交互に見る。
「今日は普通だな」
「何のお話でしょう」
「前より」
「お約束しましたから」
「ちゃんと守るんだな」
「私を何だと思っていらっしゃるんです?」
ディルヴァンは答えず笑い、そのまま入口へ向かっていく。
横へ並んだルシアンが、ほんの僅かにこちらを見た。
探るような鋭さはない。
前回交わした約束が本当に守られているのかを、静かに確かめるような目だった。
ヴェルシアナはその視線へ気づきながら、あえて何も触れずに図書館へ入った。
◇
返却する本は、ディルヴァンが両腕に抱えていた。
かなりの冊数だ。
それを見たルシアンが、入館してすぐに足を止める。
「兄上」
「何?」
「僕が持っていた分まで、なぜ持っているのですか」
「まとめた方が早いだろ」
「僕も運べます」
「知ってるけど、もう持ってるし」
ディルヴァンは悪びれもせず、そのまま歩き出そうとした。
ヴェルシアナは彼の腕に積まれた本と、その横顔を見比べる。
少し前なら、特に気に留めなかったかもしれない。
けれど前回、木剣の箱を全部引き受けかけたところで思い直し、少年と半分ずつ運んでいた姿を見ている。
今回も根は同じなのだろう。
本人にとっては相手の役目を奪っているという感覚すら薄く、ただ自分がやった方が早いから、自然に引き受けてしまう。
ヴェルシアナが何も言わずに見ていると、ディルヴァンもその視線に気づいた。
「……何」
「何も申し上げておりませんよ」
「絶対なんか言いたいだろ」
「まだ何も」
「まだって言った」
ディルヴァンは少しだけ眉を寄せ、それから自分の腕の中を見下ろした。
数秒ほど考えたあと、抱えていた本から二冊を抜き、ルシアンへ差し出す。
「……分かったよ。これ」
ルシアンは受け取った。
「最初からそうしてください」
「持ちたいなら言えばいいだろ」
「先ほど申し上げました」
「……あれがそうだったの?」
「他に何だと思ったのです?」
ディルヴァンが本気で考え始めたので、ヴェルシアナは堪えきれず口元を緩めた。
その横で。
「……こうですよね」
ルシアンが、誰に聞かせるでもないように小さく呟いた。
ヴェルシアナはそちらを見る。
「こう、とは?」
ルシアンは兄の背中へ目を向けた。
「自分でできると思えば、全部自分でしてしまうところです」
「ああ」
それならヴェルシアナにも分かる。
「そうですね。ただ――以前より、止まるようにはなったと思いますよ」
「止まる?」
「今のように、一度考え直すことがありますから」
もちろん、癖そのものが消えたわけではない。
今だってヴェルシアナが見ていなければ、そのまま全部運んでいた可能性は高いだろう。
それでも以前のディルヴァンなら、「自分がやった方が早い」という考えに疑問を持つところまでも行かなかった。今は少なくとも、一度立ち止まって相手へ役目を返すことがある。
「全部ご自分でなさる癖がなくなったわけではありませんけれど、気づいた時に戻せるのでしたら、それも変化でしょう」
そう言うと、少し前を歩いていたディルヴァンが振り返った。
「それはヴェルシアナのおかげだな」
あまりにも軽い調子だったので、ヴェルシアナは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……私ですか?」
「だって、お前に言われなきゃ気にしてなかったし」
「私は思ったことを申し上げただけですよ」
「でも俺、今まであれでいいと思ってたから」
ディルヴァンは腕の中に残った本を持ち直した。
照れた様子も、大げさに感謝する様子もない。
ただ、自分の中ではもう答えが出ているという顔で、
「だから、お前のおかげだろ」
と言った。
ヴェルシアナは少しだけ返事に困った。
誰かの考え方を変えようとして言ったわけではない。
ただ、全部一人でやる必要はないと伝えただけで、それをディルヴァンが覚え、自分なりに使っている。
「……では、今後も忘れていらっしゃったら申し上げます」
「うん。頼む」
返事は早かった。
それだけ言うと、ディルヴァンはもう受付の方へ歩いていく。
ヴェルシアナも後を追おうとしたところで、隣のルシアンがまだ兄の背中を見ていることに気づいた。
「ルシアン様?」
「いえ」
彼は首を横に振った。
「兄上が、ああいうことを言うのは少し珍しいので」
「そうなのですか?」
「誰かの言うことを聞かない、という意味ではありません。騎士や先生から教わったことは、きちんと覚えます。ただ――」
ルシアンは一度だけ言葉を探した。
「自分のやり方を変えた理由を、あんなふうに他の方へ預けることは、あまりありません」
ヴェルシアナは前を歩くディルヴァンを見る。
本人はもう受付の職員へ何か話しかけていて、こちらの会話など気にしていない。
「それほど大したことではありませんよ」
「兄上にとっては、そうではないのかもしれません」
ルシアンはそれ以上続けなかった。
けれど、その視線がほんの少しだけ兄からヴェルシアナへ移る。
兄が自然に頼る相手。
自分の考え方を変えるきっかけになったと、躊躇なく認められる相手。
前回の訓練場では見えなかったディルヴァンとヴェルシアナの関係が、ルシアンの中で静かに形を持ち始めていた。
◇
本の返却を終えると、三人はそれぞれ興味のある棚を見ることになった。
ディルヴァンは迷うことなく軍事史と魔獣討伐記録の区画へ向かい、ルシアンは王国史や領地記録が並ぶ方角を選んだ。
ヴェルシアナは魔術関連。
自然に三方向へ分かれたことで、ヴェルシアナは内心少しだけ肩の力を抜いた。
同じ場所へ来たからといって、ずっと一緒に行動する必要はない。
古い魔術書の背表紙を順番に眺めながら、今の自分が何をできて何をできないのか、ヴィクトルとの訓練が本格的に再開する前に少しくらい整理しておこうと考える。
特に気になっているのは、魔力そのものの流れだった。
グランセル領では、設備へ吸い込まれていく魔力の偏りを何となく感じ取れた。前回の訓練でも、魔石に残っている僅かな魔力を追えたうえ、最後には自分の台から別の回路へ魔力を分けることまでできている。
どれも完璧に再現できるほどではない。
それでも偶然として片づけるには、少しずつ同じ方向を向き始めている気がした。
一冊を棚から抜き、目次を確認していると。
「アルセリード嬢」
少し離れたところから、静かな声がした。
振り向くと、ルシアンが一冊の古びた本を持って立っている。
「何でしょう」
「こちら、以前お読みになったことはありますか」
差し出された表紙には、王国北部の旧街道と地脈について記された題名があった。
ヴェルシアナの意識が少し変わる。
「いいえ。ですが、興味はあります」
「兄上が、グランセル領で古い魔力設備を見つけたと話していたので」
「ディルヴァン様が?」
「詳しくは聞いていません。話してよい内容か分からないから、と途中でやめていました」
そこはきちんとしているらしい。
「この本にも、そのような設備が?」
「まだ分かりません。ただ、古い地図の中に少し変わった記号がありました」
ルシアンは近くの閲覧机へ本を置いた。
ヴェルシアナも横へ立ち、開かれた頁を覗き込む。
古い街道図に河川、すでに名前の変わった集落。そのいくつかの地点にだけ、見慣れない印が描かれていた。
「こちらです」
ルシアンが指を置く。
ヴェルシアナも身を寄せかけて、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
近い。
前回の自分なら、たぶん少し距離を取っていた。
けれど今見ているのは本であり、ルシアンが何かをしているわけでもない。ここで自分だけ一歩引けば、また必要のない壁を作ることになる。
ヴェルシアナはそのまま頁へ視線を落とした。
「確かに、通常の街道記号とは違いますね」
「後ろに凡例があるかもしれません」
二人で頁を追う。
ルシアンは歴史資料の読み方に慣れているらしく、記述された時代と地名の変化を先に拾っていく。一方のヴェルシアナは魔術に関係しそうな言葉へ意識を向けた。
見ている場所は違うのに、片方が見落としたものをもう一人が拾う。
前回の連携訓練でも似たことがあった。
ルシアンが石の違いを目で見つけ、ヴェルシアナが魔力で確かめる。今回も、彼は歴史の側から、ヴェルシアナは魔術の側から同じ頁を読んでいる。
「ありました」
少し先の頁で、ルシアンの指が止まった。
「古い表現ですが……『流れを分ける』に近い意味のようです」
「流れを分ける……」
ヴェルシアナは、その一文を目で追う。
地脈。
古い魔力設備。
グランセル領で見つかった施設。
そして父が調べ始めたらしい、アルセリード領内に残る古い記録。
それらを同じものだと決めつけるには材料が足りないが、無関係だと切り捨てるにも一致する言葉が多すぎる。
「この本、借りられるか確認してみます」
「やはり気になりますか」
「ええ。私一人では、この棚まで来なかったと思います」
ヴェルシアナは本から顔を上げた。
「見つけてくださって、ありがとうございます」
ルシアンが少しだけ目を見開く。
「……いえ」
「何か?」
問いかけると、彼はほんの僅かに迷ってから答えた。
「前回より、普通にお話しくださるので」
そういうことか。
「お約束しましたから」
「約束だから、ですか」
「それもあります」
ヴェルシアナは少し考えた。
「それに、ルシアン様がこの本を見つけてくださったことと、私が警戒している理由は別でしょう?」
言ってから、また少し余計なことを口にした気がした。
ルシアンは一度瞬きをしたあと、本へ視線を戻す。
「……そうなのですね」
短い返事だった。
けれど、その横顔からは前回ほどの硬さが消えていた。
◇
昼食は、図書館の中庭で取ることになった。
大きな樹木の下には石造りのテーブルがいくつか置かれ、周囲にも資料を持った研究者や、護衛を連れた貴族の姿がある。ほどよく人目があり、静かすぎもしない環境は、ヴェルシアナにとって実にありがたかった。
ただし一つだけ問題があった。
ディルヴァンが借りてきた討伐記録を開いたまま食事を始めたことである。
「兄上」
「何?」
「お食事中です」
「分かってる」
「でしたら、なぜ本を開いているのですか」
「面白いから」
「答えになっていません」
ルシアンが呆れたように言う。
ディルヴァンは助けを求めるようにヴェルシアナを見た。
「ヴェルシアナも本読むだろ?」
「読みますけれど、食事中には読みませんよ」
「裏切ったな」
「いつ仲間になったんです?」
ディルヴァンが不満そうに本を閉じる。
その様子を、ルシアンは少し面白そうに見ていた。
やがてパンを小さく切り分けながら、何気ない調子で尋ねてくる。
「兄上とアルセリード嬢は、いつからそのようにお話しになるようになったのですか」
「そのように?」
「今のように、です」
ディルヴァンが首を傾げる。
「いつからだっけ」
「私に聞かれましても」
「最初からじゃない?」
「少なくとも初対面からではありません」
「じゃあ途中から」
「それはそうでしょう」
ルシアンの眉が、ごく僅かに寄った。
求めている答えではなかったらしい。
「何かきっかけは?」
今度はヴェルシアナへ向けられる。
ディルヴァンとの関係に、これ一つと指差せるような転機があっただろうか。
思い返してみれば、何度か顔を合わせるうちに意見がぶつかり、時には張り合い、別の場面では同じ目的のために一緒に考えた。森では互いに違う役割を担い、自分だけで何とかしようとせず相手へ任せることも覚えた。
そう考えると、距離を縮めたのは一度の大きな出来事ではなく、そのたびに積み重なった小さな信頼なのだろう。
気づけば、以前よりずっと遠慮なく言葉を交わせるようになっていた。
「一つではないと思います」
「一つではない?」
「何度もお会いして、そのたびに少しずつ、ではないでしょうか」
ルシアンは少し考える。
「では、回数ですか」
「回数だけでもないと思いますよ」
「難しいですね」
「人との距離ですから、計算通りにはいかないでしょう」
ヴェルシアナとしては一般論を言っただけだった。
けれど、ルシアンは思った以上に真剣な顔で、その言葉を受け取っている。
「……そういうものですか」
「たぶん」
何をそんなに考えているのだろう。
ヴェルシアナが疑問を抱くより先に、ディルヴァンが閉じたばかりの本をまた開こうとし、今度はヴェルシアナとルシアンの二人から同時に止められた。
◇
昼食を終え、借りる本の手続きを済ませて外へ出たところで、小さな騒ぎが起きた。
正面階段を降りようとしていた一人の少年が、抱えていた本を崩したのだ。
年齢はルシアンたちと同じくらいだろう。服装からすると、下級貴族の子息らしい。
重ねていた本が腕から滑り、何冊かが石段を跳ねながら下へ落ちていく。
ディルヴァンが真っ先に動いた。
階段を数段飛ばしで降り、下へ転がった本を拾う。
ルシアンも別方向へ落ちた本へ向かった。
ヴェルシアナは少し遅れて、開いたまま風に煽られた一冊に気づいた。
紙面が大きくめくれ、そのまま階段脇の細い水路へ落ちそうになる。
手を伸ばしても間に合わない。
その瞬間、指先へ魔力が集まった。
以前なら、強い風でこちらへ吹き戻そうとしたかもしれない。
けれど今必要なのは、本そのものを大きく動かす力ではない。
落ちる場所を、ほんの少し変えればいい。
ヴェルシアナは水路へ向かっていた風の横から、ごく僅かな流れを差し込んだ。
本が空中で一度だけ傾く。
大きく舞い上がることもなく、そのまま水路の手前の石畳へ落ちた。
ヴェルシアナは思わず、その場所を見つめた。
今までなら力を抑えたつもりでも余計に動かしていたのに、今回は本をこちらへ戻そうとせず、落下する道筋だけを僅かにずらすことができた。
小さな変化ではある。
それでも、指先に残った手応えには、前回の魔力回路を横へ分けた時とどこか似たものがあった。
「アルセリード嬢」
ルシアンの声で我に返る。
彼が石畳の上へ落ちた本を拾っていた。
「今のは、風魔法ですか」
「ええ。たぶん、少しだけ上手くいきました」
「前回の訓練で、回路へ魔力を流した時と似ていますね」
ヴェルシアナは少し驚いた。
「覚えていらっしゃったのですか」
「目の前で見ましたから」
ルシアンは本の表紙についた埃を軽く払い、濡れていないことを確認する。
そこへ本を落とした少年が慌てて駆け寄ってきた。
「ありがとうございます!」
まずディルヴァンへ深く頭を下げ、それからルシアンとヴェルシアナにも礼をする。
ルシアンが持っている一冊を見ると、少年の顔が目に見えて安堵した。
「それ、大切な本だったんです。拾ってくださって、本当にありがとうございます」
「いえ。濡れなくてよかったです」
ルシアンが本を渡そうとする。
少年はそれを受け取りながら、感心したように笑った。
「さすがディルヴァン様の弟君ですね。兄弟揃ってお優しいんですね」
善意だけでできた言葉だった。
だからこそ、ルシアンも笑みを崩さない。
「お気になさらず」
それだけ返して本を渡した。
けれどヴェルシアナの目には、離れた直後の彼の指がほんの僅かに止まったように見えた。
前世の知識がなければ、気にも留めなかったかもしれないほど小さな変化だった。
兄が嫌いなのではない。
だから「兄弟揃って」と言われること自体に腹を立てるわけでもないのだろう。
ただ、自分が何かをした時にも、そこへ必ず兄の名前が添えられる。
褒められているはずなのに、自分一人を見てもらったわけではない感覚だけが残る。
それが幼い頃から何度も続いてきたのなら、こうした一言へ敏感になるのも不思議ではなかった。
「ルシアン様」
ヴェルシアナが呼ぶと、本人がこちらを見る。
「先ほど、その本へ一番早く気づかれましたよね」
「……はい」
「私が風で落ちる場所を変えても、そのままでは表紙が石へ強く当たっていたと思います。拾ってくださって助かりました」
ルシアンが僅かに目を見開く。
「いえ。僕は、近くにいたので」
「近くにいても、気づかなければ拾えませんよ」
ヴェルシアナは特別なことを言ったつもりはなかった。
落ちそうになった本を見つけたのは自分で、風によって落ちる位置をずらしたのも自分だった。そして、その先で本を拾い上げたのはルシアンだ。
それぞれがやったことを、そのまま言っただけである。
けれど本を落とした少年は、ヴェルシアナの言葉を聞いて改めてルシアンへ向き直った。
「ありがとうございます、ルシアン様」
今度は兄の名前が付かなかった。
「……はい」
ルシアンの返事は短かったが、先ほどより表情の奥にあった硬さが少しだけ薄れたように見えた。
◇
帰り際。
ディルヴァンが少し離れた場所で護衛の騎士と話している間、ヴェルシアナとルシアンは図書館前の木陰で待つことになった。
前回なら、この程度の沈黙にも少し気を遣っていたかもしれない。
今日は、不思議とそこまで気にならなかった。
図書館から出てくる人々を眺めていると、ルシアンが静かに口を開いた。
「アルセリード嬢」
「はい?」
「先ほどのことなのですが」
「本ですか?」
「はい」
少し間が空く。
「どうして、わざわざ僕が拾ったことを言ったのですか」
ヴェルシアナは質問の意味が分からず、彼を見る。
「わざわざ?」
「兄上の弟だからという話を、分けてくださいました」
そこまで言われて、ようやく意味が分かった。
「ああ」
ヴェルシアナは少し考える。
けれど、考えても答えは変わらない。
「ルシアン様が拾われたのですから、ルシアン様のお話になるのは普通では?」
ルシアンは何も言わなかった。
「ディルヴァン様が拾われた本についてなら、ディルヴァン様のお話をします。それと同じでしょう」
「……そうですか」
「ええ」
あまりにも当たり前のこととして返され、ルシアンは一度視線を落とした。
その横顔を見ながら、ヴェルシアナはふと思う。
ゲームの中では、ルシアンが兄と比較されることへ傷ついているのを知っていた。
だから今も、多少意識している部分はある。
けれど今の言葉は、ゲーム知識があったから出たものではない。
ディルヴァンとルシアンは別人なのだから、別々に見る。
ヴェルシアナにとっては、本当にそれだけの話だった。
「アルセリード嬢は」
ルシアンが再び顔を上げた。
「僕が兄上の弟だから、警戒しているわけではないのですよね」
その問いにはすぐ答えられた。
「それは違います」
「では、僕自身に何か理由がある」
やはり鋭い。
問いを重ねるたびに不要な可能性を一つずつ消し、答えの形だけを残そうとしている。
「今は、お答えできません」
「分かりました」
意外にも、それ以上追及しなかった。
けれど諦めたようにも見えない。
「ただ」
ルシアンは少しだけ口元を緩めた。
「今日は、前回より近かったですね」
「……距離のお話ですか?」
「はい」
ヴェルシアナは一瞬だけ考えてから頷く。
「お約束しましたから」
「では、次はもう少し近くなりますか」
「段階制なのです?」
「違うのですか」
あまりにも真面目な顔で聞かれ、ヴェルシアナは困った。
「人との距離に、決められた段階などありませんよ」
「先ほども似たことを仰っていましたね」
「そうでした?」
「回数だけでは決まらない、と」
覚えていたらしい。
「でしたら」
ルシアンは少し考え、続ける。
「何をすれば、近くなるのでしょう」
ヴェルシアナは今度こそ答えに詰まった。
それは、自分にも分からない。
人との関係を何かの条件で管理できるなら、前世でもこちらの世界でももっと楽だっただろう。
「何かをすれば必ず、というものではないと思います」
「では、どうするのです?」
「一緒に過ごしていれば、そのうち分かるのではないでしょうか」
そこまで言って、しまったと思った。
これでは、また会うことを前提にしているように聞こえる。
案の定、ルシアンの目が少しだけ明るくなった。
「では、またお会いしないと分かりませんね」
「……そういう結論になります?」
「先ほど、アルセリード嬢が仰いました」
逃げ道を綺麗に塞がれた。
前回も思ったが、この少年はディルヴァンとは別の意味でやりにくい。
兄は正面から走ってきて、こちらが考える前に距離を縮める。
一方の弟は、こちらが自分で置いた言葉を一つずつ拾い、それを静かに並べ直して、気づいた時には逃げ道を一本だけ残している。
「ルシアン様」
「はい」
「意外と負けず嫌いですよね」
聞くと、ほんの少しだけ考えたあと、彼は静かに笑った。
「兄上ほどではありません」
「そこで比較するのですね」
ルシアンの表情が止まる。
ヴェルシアナも、言ってから気づいた。
けれど今回は、彼の顔に傷ついた色は浮かばなかった。
少し考えたあと、自分でも可笑しくなったように笑みを深める。
「確かに」
その返しが妙に素直だったので、ヴェルシアナもそれ以上何も言わなかった。
◇
その夜。
ヴァレンティス家の自室で、ルシアンは机に向かっていた。
開かれた本の上へ灯りが落ちているが、頁はしばらく同じ場所で止まっている。
読もうとはしていた。
けれど、目で文章を追うたび、別の言葉が何度も頭へ戻ってきた。
『ルシアン様が拾われたのですから、ルシアン様のお話になるのは普通では?』
あまりにも自然な言い方だった。
兄より優れていると褒められたわけではない。
兄に劣っていないと慰められたわけでもない。
そもそも彼女の中には、比較するという発想そのものがなかったように見えた。
ルシアンがしたことだから、ルシアンを見る。
ただそれだけのことを、あの少女は本当に普通のことだと思っている。
昔から、褒められること自体は珍しくなかった。
剣が上手いと言われたこともあるし、魔力制御の細かさや物覚えの良さを評価されたこともある。
けれど、その言葉の後ろにはしばしば兄の名前が続いた。
さすがディルヴァンの弟。
兄ほどではないが十分優秀だ。
兄とは違う才能を持っている。
悪意がないことくらい、ルシアンにも分かっている。
むしろ褒めようとしてくれているのだと理解しているからこそ、嫌だと言いにくかった。
気づけば、何かを認められるたびに自分の横へ兄の姿が置かれる。
その兄をルシアン自身も好きで、尊敬しているから余計に厄介だった。
兄が嫌いなら、もっと簡単だったのかもしれない。
比べないでほしいと言ってしまえば済んだ。
けれど自分が比較を嫌がることまで、兄を否定することのように感じてしまう。
今日会った少女は、その秤を最初から持っていなかった。
そして、もう一つ。
兄が図書館で口にした言葉も、妙に残っている。
『それはヴェルシアナのおかげだな』
兄は人から教わることを嫌うわけではない。
騎士にも教師にも学ぶし、自分より優れたものがあれば素直に認める。
けれど、自分の癖や考え方そのものを変えるきっかけになった相手を、あんなふうに何の躊躇もなく口にすることは多くない。
しかもヴェルシアナの方も、それを大げさには受け取らなかった。
『では、今後も忘れていらっしゃったら申し上げます』
そして兄は、
『うん。頼む』
と返した。
たったそれだけのやり取りだったのに、ルシアンには二人の間にあるものが少しだけ見えた気がした。
兄は、ヴェルシアナに自分の間違いを指摘されることを嫌がらない。
むしろ、これからも言ってほしいと思っている。
ヴェルシアナも、兄を変えたことを誇るのではなく、必要ならまた言うつもりでいる。
そういう関係が、何度も会い、言葉を交わした先にあるのだとしたら。
自分にも、いつかあそこまで近づけるのだろうか。
そこまで考えたところで、ルシアンはようやく、自分が開いていた本をまったく読めていないことに気づいた。
指先で頁の端へ触れたまま、少しだけ眉を寄せる。
なぜ、自分はここまで気にしているのだろう。
最初は、警戒されている理由を知りたかっただけだった。
何もしていないのに避けられるのが納得できなかったから、理由を尋ねた。それなら本来、教えてもらえないと分かった時点で、一度引いてもよかったはずだ。
ところが今は、理由そのものよりも、次に会った時に今日より自然に話してもらえるのかが気になっている。
自分が何かをした時、また兄ではなく、自分の方を見てもらえるのか。
前回は役目を。
今日は拾った本を。
彼女は、自分がしたことを自分のものとして見てくれた。
その時に向けられた赤紫の瞳を、もう一度自分へ向けてほしいと思っている。
ルシアンはしばらく本の上へ視線を落としていたが、やがて静かに頁を閉じた。
まだ、その感情へ名前をつけることはできない。
ただ、アルセリード嬢が自分との間に引いている線を無理に越えたいわけではないのに、その線のすぐ向こう側までなら、もう少し近づいてみたい。
そしていつか、兄に向けるのと同じくらい自然な声で、自分の名前を呼んでもらえたら。
そんなことを考えている自分を、もう見ないふりはできなかった。




