第50話 友人の弟は破滅フラグ
三日後。
ヴァレンティス辺境公爵家の王都邸へ向かう馬車の中で、ヴェルシアナは魔術理論書を一冊、膝の上に開いていた。
ただし、読書と呼ぶには少し無理がある。
屋敷を出てからそれなりの時間が経っているにもかかわらず、頁は一度もめくられていない。視線だけは何度も文字列の上を往復していたが、一行読み終える頃には冒頭の内容を忘れ、気づけば頭の中では別のことを考えている。
普通に挨拶をする。
必要な会話にはきちんと答え、初対面の貴族子息へ向ける程度の礼儀を守る。露骨に避ければかえって不自然なのだから、こちらから失礼な態度を取る必要はない。
その一方で、必要以上に親しくなる理由もない。
二人きりになるような状況は避け、前世で覚えているイベントと似た展開があれば慎重に距離を取る。ゲームの知識だけで相手を決めつけない代わりに、知っている危険まで無視しない。
そのくらいなら、自分にもできるはずだ。
「お嬢様」
「はい」
「その頁には、よほど興味深いことが書かれているのでしょうか」
向かい側に座るミレーヌの声に、ヴェルシアナはようやく本へ意識を戻した。
「どうしてです?」
「ご出発から一度も頁をめくっていらっしゃいませんので」
なるほど。
きっちり見られていたらしい。
「少し考え事をしていました」
「でしたら、本は閉じられた方がよろしいかと存じます」
「閉じてしまえば読めませんよ」
「今もお読みになっていらっしゃらないのでは?」
反論できなかった。
最近のミレーヌは、こういうところで以前より容赦がない。
ヴェルシアナは観念して本を閉じると、窓の外へ目を向けた。
王都の街並みが、馬車の進みに合わせて緩やかに後ろへ流れていく。石造りの家々は朝の陽射しを反射し、店先では使用人や商人たちが荷を運び、通りには今日もいくつもの馬車が行き交っている。
見慣れ始めた景色なのに、今日は妙に落ち着かなかった。
原因は分かっている。
ルシアン・ヴァレンティス。
その名前を、ヴェルシアナは前世から知っている。
乙女ゲーム『リュミエールの天秤』に登場する攻略対象の一人。北方防衛を担うヴァレンティス辺境公爵家の次男であり、剣にも魔法にも十分な才を持ちながら、あまりにも目立つ兄と比較され続けたことで、自分自身の価値を素直に受け取れなくなった少年だった。
兄を嫌っているわけではない。
むしろ、尊敬している。
だからこそ厄介なのだ。
周囲から「兄ならもっとできた」と言われるたび傷つくのに、その言葉を嫌がる自分まで醜く思えてしまう。ゲームでは、そんな矛盾をヒロインとの関係の中で少しずつほどいていく人物だった。
設定も覚えているし、印象的だったイベントもいくつかは思い出せる。
けれど、こちらの世界へ来てから、ヴェルシアナは何度も思い知らされていた。
ゲームで知っていることと、人間を知っていることは、同じではない。
アレクシスは王太子という肩書きだけでできた少年ではなかった。静かで、不器用で、こちらが忘れているような細かな言葉を意外なほど覚えている。
ディルヴァンに至っては、そもそも攻略対象ですらない。前世では設定資料の端に名前が出る程度だった少年が、今ではこちらの無茶を止めると言い、自分が無茶をした時にはヴェルシアナに止めろと当然のように言ってくる。
ならば、ルシアンにもゲーム画面の向こうからは見えなかった時間がある。
それを無視してはいけない。
けれど、だからといって無警戒になる理由にもならない。
破滅したくない。
そこだけは、今も何も変わっていなかった。
「……大丈夫です」
気づけば、小さく口にしていた。
ミレーヌがこちらを見る。
「何がでしょうか」
「何でもありません」
答えた瞬間、自分でも少し不安になった。
◇
ヴァレンティス家の王都邸へ到着すると、今日は応接室ではなく、そのまま裏手の訓練場へ案内された。
実にディルヴァンらしい。
弟を紹介するという日でさえ、静かな部屋で紅茶でも飲みながら丁寧に挨拶を済ませる気は最初からないのだろう。
石造りの回廊を抜けるにつれ、乾いた風が少しずつ強くなる。
やがて視界が開き、よく踏み固められた訓練場の向こうから、一人の少年が片手を上げた。
「ヴェルシアナ!」
「聞こえておりますよ」
返しながら歩みを進めると、ディルヴァンは待ちきれなかったようにこちらへ近づいてきた。
「ちゃんと来たな」
「約束していたのですから、当然でしょう」
「昨日まで弟の話すると、ちょっと変だったから」
ヴェルシアナは一瞬だけ返事を止めた。
余計なところだけ、本当によく見ている。
「……それでも、約束を破る理由にはなりません」
ディルヴァンは一度だけこちらを見たものの、それ以上は追及しなかった。
代わりに身体を半歩ずらす。
「まあいいや。紹介する」
その背後に、それまで兄とヴェルシアナのやり取りを黙って見ていた少年が立っていた。
年齢はヴェルシアナとほとんど変わらない。
兄であるディルヴァンより身体は当然ひと回り以上小さい。それでも立ち姿には妙な落ち着きがあり、ただ幼いというより、すでに自分が他者からどう見られているかを多少なりとも意識している貴族の子供という印象を受ける。
まず目に入ったのは髪だった。
兄弟なのだから色合いそのものには共通するものがある。
けれど、並んで立たれると違いの方がよく分かった。
ディルヴァンの髪は陽射しを拾うたび軽やかに明るさを変え、きちんと整えていても風が一度通ればすぐ何本かが形を崩す。それが妙に本人へ馴染んでいて、端正な顔立ちをしているにもかかわらず、彼を見た時に最初に感じるものは美しさよりも先に、身体の内側から溢れてくるような生命力だった。
何かを見つければ目が輝き、面白いと思えば口元に笑みが浮かび、次の瞬間にはもう一歩踏み出している。
黙って立っていても、どこか風が吹いているような少年だ。
一方で、弟は静かだった。
髪は同じ系統の色を持ちながらも少し深く見え、丁寧に整えられた前髪の一房だけが柔らかく額へ落ちている。鼻筋や目元には確かに兄弟らしい共通点があり、まだ幼さの残る輪郭も、笑えばもっとよく似るのだろう。
けれど、似た造形が作る印象は驚くほど違った。
兄の瞳が興味を持ったものへすぐ光を向けるのに対し、弟の視線は簡単には揺れない。
静かにこちらを見ている。
ただ眺めているというより、言葉を交わす前から何かを確かめようとしているようだった。
綺麗な顔立ちだ。
ディルヴァンのように見る側まで明るくさせる華やかさではなく、少し近寄りがたさを残す静かな美しさ。頬にはまだ子供らしい丸みがあるのに、目元だけには妙に涼やかなものがあり、この輪郭が細くなり、背が伸びれば、前世で見た十五歳の立ち絵へ近づいていくことが容易に想像できた。
前世で『リュミエールの天秤』を遊んでいた頃。
ルシアンの立ち絵を初めて見た自分が何を思ったのかも、何となく覚えている。
――ああ、これは人気が出る顔だな。
そのくらいだった。
当時の自分は男だった。
女性向けゲームの攻略対象へ本気でときめいていたわけでもなければ、彼らを恋愛対象として眺めていたわけでもない。涼しげな目元に、少し影のある表情。普段は感情を大きく見せないくせに、個別ルートへ入ると少しずつ笑うようになる。
なるほど、こういう男が人気なのか。
よく考えられたキャラクターデザインだ。
その程度の距離感だった。
むしろ前世の自分へ、同年代の男としてどちらと友達になりたいかと聞けば、たぶんディルヴァンのようなタイプを選んだと思う。騒がしくて振り回されそうだが、考えていることが分かりやすく、一緒に遊ぶなら気楽そうだ。
ルシアンについては、攻略対象としての完成度は高いと思っても、男友達として隣にいる自分までは想像しなかった。
ところが実物を前にすると、話が少し違った。
画面越しなら「よくできた美少年」で終わったものが、立体になる。
髪が光を拾い、呼吸に合わせて肩がわずかに上下し、こちらを見る瞳がほんの少し細まる。考えている時には視線が一度だけ下がり、その小さな仕草ひとつで、画面の向こうでは止まっていた人物が今ここで生きているのだと嫌でも分かる。
当然だ。
人間なのだから。
それでも、「攻略対象として美形に作られている」という知識と、「目の前に綺麗な顔の少年がいる」という実感は、思っていた以上に別物だった。
――いや、別に見惚れているわけではない。
元男として、そこは強く主張しておきたい。
前世では、画面の向こうにいる限り何も問題はなかった。
なるほど、女性プレイヤーはこういう男が好きなのかと納得していれば済む。
けれど今は、自分が令嬢で、相手は攻略対象だ。
しかもこの世界の関係性だけを見れば、自分の方が攻略される位置へ立つ可能性すらある。
立場が逆になると、急に笑えない。
兄弟を改めて並べて見る。
ディルヴァンが開け放たれた窓から吹き込む風だとすれば、弟はその窓辺に置かれた水のようだった。
簡単には揺れない。
けれど何かが触れれば、その波紋を兄よりも長く残しそうな静けさを持っている。
似た顔と同じ血を持っているからこそ、違いの方が鮮明になる兄弟だった。
「弟のルシアン。ルシアン・ヴァレンティス」
ディルヴァンが、何でもないことのように紹介した。
その名前を耳にした瞬間、前世の記憶と今の景色が完全に重なった。
十五歳の立ち絵。
雪の残る訓練場。
ヒロインへ向ける警戒の混じった瞳。
兄の名前が出た時だけ、ほんのわずかに固くなる口元。
ゲームの台詞も、攻略情報も、断片だったものが一息のうちに繋がり、目の前の幼い少年へ一本の線を伸ばす。
知識としては、ずっと分かっていた。
ディルヴァンではない。
攻略対象は、その弟の方だと。
それでも本人を目の前にした瞬間の感覚は、まるで違った。
――こっちだ。こっちが、俺の警戒すべき攻略対象だ。
ルシアンが、わずかに首を傾げた。
そこでようやく、自分が少し長く見すぎていたことに気づく。
「失礼いたしました」
ヴェルシアナはすぐに表情を整えた。
「初めてお目にかかります。ヴェルシアナ・アルセリードと申します。本日はお会いする機会をいただき、ありがとうございます」
姿勢も、言葉遣いも、笑みも、初対面の距離としては問題ない。
これ以上なく無難だ。
そう思ったのだが。
「……なんか固くない?」
横からディルヴァンが言った。
「初対面なのですから、これくらい普通でしょう」
「俺には最初からもっと遠慮なかった気がする」
「あなたの場合は状況が違いました」
「何が?」
「説明すると長くなります」
「絶対そんな長くないだろ」
お願いだから掘らないでほしい。
ルシアンはそんな兄とヴェルシアナを交互に見たあと、きちんとした所作で一礼した。
「ルシアン・ヴァレンティスです。兄上から、アルセリード嬢のお話はよく伺っております」
「私のことを?」
「はい」
嫌な予感がした。
「どのように?」
ルシアンは一度だけ兄を見る。
「変な子だけど面白い、と」
「ディルヴァン様」
「褒めたんだぞ?」
「前半について伺っております」
「そこ?」
「そこです」
相変わらず悪びれない。
その隣で、ルシアンがほんの少しだけ笑った。
礼儀の範囲を出ない小さな笑みだったが、前世で見た十五歳の立ち絵と、今の幼い少年が一瞬だけ重なった。
同じ人間なのだ。
ただし、まだ九年分の時間を生きていない。
兄と比べられ、何度も自分の価値を測るようになった末のルシアンではなく、その途中にいる少年。
そう思うと、警戒すべき相手を目の前にしているはずなのに、別の感情までわずかに混じった。
ゲームでは見えなかった時間を、自分はいま見ている。
◇
「そうだ」
しばらくして、ディルヴァンが両手を打った。
「今日はこれやる」
彼が示した先には、以前はなかった木製の柵と三本の低い柱が組まれていた。三ヶ所に小さな魔力台が置かれ、中央には胸ほどの高さの石柱。その上には銀色の輪が載せられている。
「何です、あれ」
「この前言っただろ。一人じゃ勝てないやつ」
ヴェルシアナは目を瞬いた。
「本当にご用意なさったんですね」
「俺じゃなくて騎士に頼んだ」
奥にいたヴァレンティス家の騎士が軽く一礼する。
「ディルヴァン様よりご相談を受けまして、簡易的な連携訓練をご用意いたしました」
三ヶ所にある魔力台へ同時に魔力を流せば、中央の石柱を覆う封印が一時的に解除され、その間に銀の輪を取れば成功。
ただし、中央へ至る道には魔力へ反応する感知板がいくつも埋め込まれており、三回踏めば失敗となる。
一人ですべてを維持することはできない。
最低三人。
しかも三人とも台へ張りついたままでは、誰も中央へ行けない。
「どう?」
ディルヴァンが得意そうに尋ねる。
「思っていたより、きちんと一人ではどうにもなりませんね」
「だろ?」
「ただ」
ヴェルシアナはルシアンを見る。
視線が合った。
「私は見学でもよろしいのでは?」
「駄目」
ディルヴァンの返事は早かった。
「なぜです?」
「お前が言ったんだろ。一人じゃ勝てないのやろうって。三人いるんだから、ちょうどいい」
ちょうどよくない。
こちらとしては恐ろしく都合が悪い。
初対面の攻略対象と、いきなり共同作業。
前世なら、どう考えてもイベント開始の匂いがする。
しかし、体調は悪くないし、そもそもこの勝負を提案したのは自分だ。ここで断る方がよほど不自然になる。
「……分かりました。参加いたします」
ディルヴァンが満足そうに笑う。
ルシアンは何も言わず、ただそのやり取りを見ていた。
◇
三人で訓練場を一周すると、中央までの距離そのものは大したことがないと分かった。
問題は感知板だ。
地面は一見すると普通の石と土でできているが、よく見れば石の大きさや向きが少しずつ異なっている。
「俺、中央行く」
ディルヴァンが真っ先に言った。
「一番速いし」
いかにも彼らしい。
けれどルシアンはすぐに頷かず、まず訓練場全体へ視線を巡らせた。
「兄上。安全な道が分からない状態で、速さだけを基準に決めても意味がありません」
「踏まなきゃいいだろ」
「どれを踏んではいけないのか分からないから申し上げています」
ディルヴァンが口を閉じた。
兄相手でも遠慮はないらしい。
ただし、言い方に苛立ちはなく、必要だから指摘しているだけだった。
「では、先に感知板の位置を確認した方がよろしいですね」
ヴェルシアナが言うと、ルシアンはすぐに頷いた。
「僕もそう思います。ただ、見た目だけでは判別できないかと」
感知板が魔力で作動するなら、完全に魔力を隠しているわけではないかもしれない。
「少し探ってみます」
ヴェルシアナは指先へ意識を集めた。
大量に出すのではない。
押しつけるのでもない。
グランセル領で感じた魔力の偏りと、つい先日、紙一枚だけを飛ばさず押さえた時の感覚を思い出しながら、そこにあるものへ触れるように意識を広げていく。
しばらくすると、地面の一角にだけ、髪の毛ほど細い引っかかりがあった。
「……こちらです」
一枚の石を指す。
「この下から、ほんの少し魔力を感じます」
奥にいた騎士の眉がわずかに上がった。
正解らしい。
「便利だな、それ」
ディルヴァンが感心する横で、ルシアンがしゃがみ込み、ヴェルシアナの指した石をかなり近い位置から観察した。
「……この石だけ、表面の線の向きが違います」
「線?」
言われて初めて気づいた。
石に走る薄い筋が、他のものと九十度ずれている。
ルシアンは立ち上がると周囲へ目を走らせ、少し離れた場所で同じ特徴を持つ石を見つけた。
「ここもでは?」
ヴェルシアナが魔力を探る。
「反応があります」
それからは早かった。
ルシアンが目で小さな違いを拾い、ヴェルシアナが魔力の反応で確かめる。二人の方法はまったく違うのに、同じ場所へ辿り着くことが多く、調べるたびに安全な道筋が少しずつ地面の上へ浮かび上がっていった。
その様子をしばらく眺めていたディルヴァンが、感心したように言う。
「やっぱお前ら、相性よくない?」
「合っていません」
反射的に否定してしまった。
言った直後、ルシアンの視線がこちらへ向く。
しまったと思った時には遅い。
「……そういう意味ではなく」
「いえ」
ルシアンは穏やかに返したものの、わずかに視線を下げた。
ヴェルシアナは内心で眉を寄せる。
彼本人が嫌いなわけではない。
警戒しているのは、この少年がゲームの攻略対象だからだ。
そんな事情を知らないルシアンからすれば、初対面から理由もなく距離を取られているようにしか見えないだろう。
「まずは課題を終わらせましょう」
ヴェルシアナがそう言うと、ルシアンは短く頷いた。
それ以上、理由を尋ねてこなかったことが、かえって少しだけ胸に残った。
◇
感知板の位置が分かれば、次に考えるべきは中央の銀輪だった。
三ヶ所の魔力台へ同時に魔力を流せば封印は開く。
しかし、三人とも台へ手を置いたままでは誰も中央へ行けない。
「じゃあ俺が、魔力流しながら走れば」
「距離が離れすぎています」
ルシアンがすぐに却下した。
「でも俺なら」
「兄上」
弟の声が少しだけ低くなる。
「また全部なさるおつもりですか」
ディルヴァンの言葉が止まった。
その反応を見て、ヴェルシアナは前回のことを思い出す。
自分ができるなら自分でやる。
速いから。
強いから。
その方が確実だから。
ディルヴァンにとっては長い間、それが善意と同じ場所にあったのだろう。
だから、たった一度気づいたくらいで簡単になくなる癖ではない。
それでも彼は反発しなかった。
「……じゃあ、どうする?」
素直に問い返した兄を見て、ルシアンの目がわずかに揺れた。
兄がこうして誰かへ役目を返すこと自体、彼にとってはまだ少し珍しいのかもしれない。
「中央の封は、三つの台へ魔力が流れていれば開くのですよね」
「左様でございます」
騎士が答える。
「同じ量である必要は?」
「ございません」
ルシアンは魔力台の縁へ手を置き、そこに嵌め込まれた魔石を観察した。
「この石、一度流した魔力を少しだけ保持するのではありませんか」
騎士は答えない。
正解かどうかも含め、自分たちで確かめろということらしい。
「試してみましょう」
ヴェルシアナが言う。
「ルシアン様、一定量を流していただけます?」
「僕が?」
「三人の中では、一番細く安定して流せそうです」
口にしたあとで、自分がずいぶん自然に彼へ役目を任せていることに気づいた。
警戒している相手だからといって、目の前で見た適性まで否定する必要はない。
少なくとも今は、ルシアンが一番向いている。
「分かりました」
彼が台へ手を置く。
流れた魔力は細く、静かだった。
ディルヴァンも制御そのものは上手いが、ルシアンはさらに慎重で、少しずつ量を確かめながら一定に保っている。目立つ大きさではないぶん、揺らぎが少ない。
「離してください」
ルシアンが手を離す。
ヴェルシアナは魔石に残った力が薄れていく様子へ意識を集中させた。
「まだあります。……三秒、四秒……五秒ほどで消えました」
「五秒」
ルシアンが中央までの距離を測る。
「十分じゃん」
ディルヴァンが言った。
「五秒あれば俺が取れる」
「兄上なら」
ルシアンはそう返しながら、中央と三つの台を順に見比べた。
すぐに続ける。
「ただ、兄上が中央へ向かえば、戻るまで一つの台が空きます。輪を取った後にも封印の維持が必要なら、その時点で失敗になるはずです」
三人が同時に騎士を見る。
騎士は穏やかに微笑んだ。
「そこも含めてお考えください」
「先に言えよ!」
「考える訓練でございますので」
ディルヴァンが露骨に不満そうな顔をし、ヴェルシアナが少し笑いそうになった、その時だった。
「僕が中央へ行きます」
ルシアンが言った。
「お前が?」
ディルヴァンが弟を見る。
「でも、お前は俺より遅いだろ」
ほんの一瞬。
ルシアンの表情から、柔らかさが消えた。
俯いたわけでもない。
傷ついたと訴えたわけでもない。
ただ、少し前まで銀輪までの距離を測っていた瞳が、ほんのわずかに遠くなった。
それだけだった。
それでもヴェルシアナには分かった。
きっと、同じような言葉を何度も聞いてきたのだ。
ディルヴァン自身に悪意はない。
今だって、弟を貶したいわけではなく、単純に自分の方が足が速いという事実を口にしただけなのだろう。
けれど、比べられる側にとって、言った側の悪意の有無は傷の深さを決めてはくれない。
ヴェルシアナの中に、ゲームで見たルシアンの表情が一瞬だけ蘇った。
兄上なら。
兄上の方が。
兄上もその歳には。
あの少年が十五歳になって突然そういう言葉を嫌い始めたわけではないのだろう。
幼い頃から少しずつ積もったものが、ゲーム本編の彼を形作っていた。
「速さだけなら、そうでしょうね」
気づけばヴェルシアナは口を挟んでいた。
兄弟二人の視線がこちらへ向く。
「ですが、中央へ行くのはルシアン様の方がよろしいと思います」
「なんで?」
ディルヴァンが尋ねる。
「感知板の位置を一番正確に覚えているのは、ルシアン様でしょう?」
ルシアンは石の並びを最初から最後まで丁寧に見ていた。
どこに板が埋め込まれ、その間へどれほどの幅があり、どの順番で避ければ中央まで行けるのか。おそらく彼の中には、もう一本の道として繋がっている。
「ディルヴァン様の方が走る速度そのものは上です。ですが、今は感知板を踏まずに中央へ辿り着かなければならないのでしょう?」
「まあ、そうだけど」
「でしたら、必要なのは一番速い方ではありません。道を一番正確に覚えている方です」
ヴェルシアナはルシアンを見る。
「今の役目に最も向いているのは、ルシアン様だと思います」
ルシアンはしばらく答えなかった。
驚いたというより、聞いた言葉をそのまま受け取っていいのか確かめているような顔だった。
「……僕で、いいんですか」
「ええ」
「兄上ではなく?」
その問いを聞いて、ヴェルシアナは少しだけ眉を寄せた。
「なぜそこで、ディルヴァン様と比べる必要があるんです?」
口にした瞬間、前世の記憶が胸の奥でわずかにざわめいた。
ゲームのルシアンが、ずっと欲しがっていたもの。
兄より上だと言われることではない。
兄に勝つことでもない。
比較という秤そのものから降ろして、自分自身を見てもらうこと。
けれどヴェルシアナは、彼を救おうとしてその言葉を選んだわけではなかった。
今しているのは、三人でどうやって銀輪を取るかという話だ。
それなのに、ディルヴァンの方が速いからという理由だけでルシアンを外す方がおかしい。
ただ、それだけだった。
だからこそ、その言葉はルシアンの中へ深く入った。
彼の瞳が、ほんのわずかに揺れる。
「……いえ」
少し遅れて首を振った。
「分かりました。僕が行きます」
声の調子そのものは変わらない。
けれど、先ほどよりほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
◇
三人が、それぞれの魔力台へ立った。
「準備は?」
ディルヴァンの声が飛ぶ。
「大丈夫です」
「僕も」
三人同時に魔力を流す。
淡い光が三ヶ所から伸び、地面に刻まれた溝を伝って中央へ集まると、銀の輪を覆っていた薄い膜が静かに消えた。
「今です!」
ルシアンが手を離し、走り出した。
兄ほど速くはない。
けれど、その足に迷いはなかった。
一つ目の感知板を避け、二つ目の手前では歩幅を少し縮める。三つ目は端に残された細い安全地帯へ正確に足を置き、そのまま中央へ向かう。
ヴェルシアナは、彼の台へ残っている魔力を追った。
薄くなっていく。
まるで水面へ落とした色が少しずつほどけていくように、魔石に残っていた力が減っていくのが分かる。
「残り三秒ほどです!」
ルシアンが中央へ近づく。
もう少し。
指先が銀輪へ伸びたところで、封印が戻り始めた。
「ルシアン!」
ディルヴァンが叫ぶ。
届かないわけではない。
ただ、このままではほんの一瞬だけ足りない。
ヴェルシアナは、自分の魔力台へ流している力へ意識を向けた。
ここでさらに大量に流しても意味がない。
必要なのは強さではなく、時間だ。
グランセル領で感じた魔力の偏りと、さきほど感知板の下から拾った細い反応。紙一枚を飛ばさず押さえた時の、力を足すのではなく必要なところだけへ届ける感覚が、不意に同じ場所で重なった。
自分の台から中央へ伸びる回路を意識する。
その途中から、ルシアン側の魔石へ続く細い道へ、ほんの少しだけ魔力を分ける。
大量に流せば壊す。
だから必要な分だけ。
一本の糸を通すように。
魔石が淡く光った。
消えかけていたルシアン側の回路へ、わずかな光が戻る。
封印の閉じる速度が、ほんの一瞬だけ鈍った。
それで十分だった。
ルシアンの手が銀輪を掴む。
「取った!」
ディルヴァンの声が訓練場へ響き渡った。
次の瞬間には三ヶ所の光が消え、中央の膜も元へ戻っていた。
けれど銀の輪は、ルシアンの手の中に残っている。
「……成功でございます」
騎士がそう告げるより早く、ディルヴァンが台から飛び出した。
「やったじゃん!」
そのまま弟のところまで走っていき、勢いよく肩へ腕を回す。
「兄上、近いです」
「いいだろ!」
「汗がつきます」
「細かいな!」
押し返されながらも、ディルヴァンは嬉しそうだった。
ルシアンも本気で嫌がっているようには見えない。兄の腕を外そうとしながら、その口元には小さな笑みが浮かんでいる。
その光景を見ていると、ゲームで知っていた「兄への劣等感」という一言だけでは、この兄弟のことをほとんど説明できていなかったのだと思い知らされる。
嫌いなのではない。
むしろ、たぶん好きなのだ。
尊敬している。
だからこそ、比較されるたびに、その大切な感情まで少しずつ傷つけられてしまう。
「アルセリード嬢」
騎士に呼ばれ、ヴェルシアナは振り返った。
「最後に、隣の回路へ魔力をお流しになりましたか?」
「……はい。おそらく」
「おそらく?」
「意識して行いました。ただ、同じように再現できるかは分かりません」
騎士は少し考えたあと、静かに頷いた。
「ヴィクトル殿へ共有しておかれるとよろしいでしょう」
嫌な予感がする。
確実に訓練項目が増える。
「何?」
ディルヴァンがルシアンを連れて戻ってきた。
「最後、そっちの台だけ光り方変だっただろ」
「私自身も、まだ説明できません」
「じゃあ今度またやろうぜ」
「ヴィクトル先生へご報告する前提で、勝手に予定を増やさないでくださいませ」
ディルヴァンが笑う。
その隣でルシアンは何も言わず、二人のやり取りを静かに見ていた。
◇
訓練が終わる頃には、初対面の時にあった緊張も少しだけ形を変えていた。
今日という時間だけを取り出して考えれば、大きな問題は何も起きていない。
ルシアンとは普通に言葉を交わし、三人で一つの課題へ挑み、それぞれが得意な部分を使って銀の輪へ辿り着いた。ゲームで覚えているような特別なイベントが起きたわけでもなければ、二人きりになったわけでもない。
攻略対象と実際に会っても、それだけで何かが始まるわけではなかった。
そう考えると、必要以上に身構えていた自分の方が少し大げさだったのかもしれない。
ヴェルシアナがようやく肩から力を抜きかけた、その時だった。
「ヴェルシアナ」
ディルヴァンに呼ばれて顔を上げる。
「はい?」
「やっぱ変だよな」
「何がです?」
ディルヴァンは答える代わりに、こちらとルシアンを交互に見比べた。
「俺とかアレクシスには普通なのに、ルシアンにだけずっと距離あるじゃん」
先ほど緩みかけていた警戒心が、静かに戻ってくる。
「初対面ですから、多少慎重になるのは普通でしょう」
「でも、俺の時より固い」
「人によって距離感は違うものです」
「じゃあルシアンのこと嫌い?」
「違います」
そこだけは、考える必要もなく答えられた。
嫌いなわけではない。
今日会ったばかりの少年を、嫌うほど知ってすらいない。
自分が警戒しているのは彼自身ではなく、未来における彼の立場と、その未来へ結びついた自分の破滅だ。
けれど、そんな説明を本人へできるはずもない。
「兄上」
それまで黙っていたルシアンが静かに口を開いた。
「もう少し直接伺った方が早いと思います」
「直接?」
「僕がお聞きします」
兄よりずっと落ち着いた声音だった。
だからこそ、ヴェルシアナは無意識に姿勢を整える。
ルシアンは正面からこちらを見た。
「アルセリード嬢。僕は、何かお気に障ることをしましたか?」
「いいえ」
「でしたら、どうして僕にだけ、そのように丁寧なのです?」
「丁寧であることに問題が?」
「ありません。ただ、兄上とは随分気軽にお話しになっておりますので」
「それはディルヴァン様が――」
「俺が何?」
「今は黙っていてくださいませ」
「ほら!」
言った瞬間、自分で違いを証明してしまったことに気づいた。
ディルヴァンは勝ち誇ったような顔をしているし、ルシアンもほんの少し目を細めている。
「……ディルヴァン様とは、以前から何度もお会いしておりますので」
ルシアンはすぐに言葉を重ねなかった。
少し考えるように間を置いてから、確かめるように尋ねてくる。
「では、僕とも何度かお会いすれば、同じようにお話しいただけるのでしょうか」
困る。
非常に困る質問だった。
こちらとしては、会う回数そのものを必要以上に増やしたくない。
しかし、理由を説明できない以上、露骨に拒めば、まだ何もしていない相手を一方的に遠ざけるだけになる。
「……それは」
珍しく返答に詰まったヴェルシアナを、ルシアンはじっと見ていた。
この兄弟は、似ていないようで、人を見る時だけは少し似ている。
ただし方法が違う。
ディルヴァンは今この瞬間を見る。視線や迷い、身体の動きを拾い、相手が現在どう感じているかへすぐ反応する。
ルシアンはもう少し待つ。
一つの反応だけで決めつけず、いくつかの情報を自分の中で繋ぎ、それから必要な問いを選ぶ。
「最初に僕を見た時も、少し不思議でした」
その言葉に、ヴェルシアナの胸の奥で小さく警鐘が鳴った。
「不思議?」
「驚いていらっしゃるようには見えました。でも、初めて会った方を見る顔とは少し違ったので」
「……どういう意味でしょう」
ルシアンは、自分の考えが正しいか確かめるようにヴェルシアナを見た。
「知らない方を見たというより、知っているものが本当にそこにあるのか、確かめているように見えました」
心臓が、はっきり強く打った。
鋭い。
六歳の少年へ向ける感想としては少しおかしいのかもしれない。
けれど、それ以外に言いようがなかった。
名前を聞いた瞬間、確かにヴェルシアナは目の前のルシアンそのものを見ていなかった。
十五歳の立ち絵。
ゲームの台詞。
攻略情報。
兄への劣等感。
それらを少年へ重ね、一致する部分を無意識に探していた。
「……よく見ていらっしゃるのですね」
誤魔化す代わりに、ヴェルシアナはそう返した。
ルシアンがわずかに目を見開く。
「そうでしょうか」
「少なくとも、私はそこまで見抜かれるとは思っておりませんでした」
完全な答えではない。
けれど、嘘でもない。
ルシアンはしばらくヴェルシアナを見たあと、静かに息を吐いた。
「理由まで今すぐ教えていただこうとは思いません。ただ、僕が何かする前から警戒されているのでしたら……少し悔しいです」
声は大きくなかった。
責める響きもない。
それでも、その一言はヴェルシアナの中へまっすぐ入ってきた。
ルシアンは今日、まだ何もしていない。
感知板の法則を見つけ、三人の役割を考え、自分に与えられた役目を果たして銀輪を取った。兄と比べられた時にはほんの一瞬だけ表情を失ったものの、それを理由に拗ねることもなかった。
それが、今日ヴェルシアナ自身の目で見たルシアン・ヴァレンティスだ。
未来を知っているから警戒すること自体は、間違いではない。
自分の破滅へ繋がる可能性を知りながら、何も考えず近づく必要もない。
けれど、未来を知っていることと、目の前の人間をもう知っていると思い込むことは、同じではない。
その境目を、自分は少しだけ踏み越えていたのかもしれなかった。
「……申し訳ありません」
ディルヴァンが目を丸くし、ルシアンもわずかに瞳を見開いた。
ヴェルシアナは少年から目を逸らさない。
「確かに、少し失礼でした。ただ、どうしてそうしていたのかについては、今すぐお話しすることができません」
「はい」
「それでもよろしければ、次にお会いした時は、もう少し普通にお話しいたします」
口にした直後、自分が何を約束したのかに気づいた。
攻略対象へ、自分から次を作った。
破滅を避けたい人間の行動として、本当に正しいのだろうか。
けれど。
ルシアンは、その小さな矛盾を逃さなかった。
「では、次にお会いする理由ができましたね」
「……え?」
先ほどまで慎重にこちらを観察していた少年の口元へ、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
「そういう意味では」
「兄上」
「何?」
「次はいつですか?」
「来週なら空いてる」
「ディルヴァン様」
「何?」
「勝手に予定を決めないでくださいませ」
「でも今、次会うって言っただろ」
「言いましたけれど、それとこれとは別です」
「何が別なんだよ」
「そこまで説明する必要はありません」
ディルヴァンが本気で納得できないという顔をする。
その隣で、ルシアンが笑った。
初対面の礼儀正しい微笑みとは違う。
堪えようとして、それでも零れてしまったような、年齢相応の柔らかな笑いだった。
その顔を見た瞬間。
ヴェルシアナは少しだけ困った。
前世のゲームで見た攻略対象と、目の前にいる少年が、また少し離れていく。
知っていると思っていたのに、こんな笑い方は知らない。
ディルヴァンに肩を抱かれた時の顔も、銀輪を取った時の小さな誇らしさも、自分の適性を見て役目を渡された時に瞳が揺れたことも。
全部、知らなかった。
「アルセリード嬢」
「……何でしょう」
「次は、今日より普通にお話しいただけるのでしたよね」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「今お約束したばかりですから」
しまった。
「でしたら、僕も次までに兄上からアルセリード嬢のお話をもう少し伺っておきます」
「それはやめてください」
「なんで?」
「なぜです?」
兄弟から、ほとんど同時に返ってきた。
静かな弟と、騒がしい兄。
似ていないと思っていたのに、こういうところだけは妙に似ている。
「とにかく、本人がいないところで妙な情報を増やさないでくださいませ」
「妙な情報って何だよ」
「兄上がお話しになると、だいたい妙な方向へ行くという意味では?」
「ルシアンまで!?」
思いがけない弟からの追撃に、ディルヴァンが声を上げる。
ヴェルシアナも、今度ばかりは笑ってしまった。
ほんの短い笑いだった。
けれど、その瞬間だけルシアンの視線がわずかに止まる。
先ほどまでのように何かを測るための目ではなく、たまたま見つけたものをもう一度確かめるような、静かな視線だった。
ヴェルシアナは気づかなかった。
けれどルシアンの中には、その小さな笑みが意外なほど鮮明に残った。
◇
帰りの馬車へ向かう頃。
背後では、ディルヴァンとルシアンがまだ何かを話していた。
兄が勝手にヴェルシアナの昔の話をしようとすれば、弟が「本人が嫌がっていたでしょう」と止める。止めたかと思えば「では別のお話を」と聞き直しているので、結局こちらの逃げ道を塞いでいることには変わりない。
ヴェルシアナは少し前を歩きながら、その声を聞いていた。
未来を知っているはずだった。
ルシアン・ヴァレンティスがどのような少年になり、何に傷つき、どんな場面でヒロインへ心を開き、どのような結末へ辿り着く可能性があるのかも知っている。
それでも、目の前のルシアンが明日何を言うのかは知らない。
ディルヴァンが弟の傷へいつ気づくのかも、この兄弟がこれからどんな関係になっていくのかも、自分がその二人の隣でどんな景色を見ることになるのかも、何一つ分からない。
知らない未来は怖い。
破滅を避けたい自分にとって、予定通りに進まないことは本来なら歓迎すべきものではない。
それでもヴェルシアナは、一度だけ振り返った。
少し後ろを歩く兄弟がいる。
ディルヴァンが何かを言い、ルシアンが呆れたように返し、それでも最後には二人とも笑っている。
前世のゲームでは、長く並んで見ることのなかった光景だった。
画面の中では、ルシアンの苦しみを説明するために「優秀な兄」という設定が置かれていた。
けれど、ここではディルヴァンにも人生がある。
ルシアンにもある。
二人の間には、設定文の数行では到底収まらない時間が流れている。
ならば、自分が知っている未来だけを見て、今ここにいる人間を見ない方が、きっとおかしい。
警戒を解くつもりはない。
攻略対象は、今も攻略対象だ。
自分の破滅へ近づくような真似をする気もない。
ただ、目の前にいる人間を、自分の目で見てから決める。
そのくらいの余白なら、残してもいいのかもしれない。
ヴェルシアナはそう考えながら馬車へ乗り込んだ。
◇
一方。
ヴェルシアナを乗せた馬車が門の向こうへ消えたあとも、ルシアンはしばらくその方向を見ていた。
「どうした?」
隣から兄に声をかけられ、ようやく視線を戻す。
「いえ。少し考えていただけです」
「何を?」
「兄上には関係ありません」
「なんでだよ」
「何でも兄上に話す必要はないでしょう」
「さっきまで俺からヴェルシアナの話聞こうとしてたくせに」
「それとこれは別です」
先ほどヴェルシアナが使った言葉をそのまま返すと、ディルヴァンが妙な顔をした。
「お前、もう影響されてない?」
「何のことでしょう」
ルシアンはそれ以上答えず、手の中に残っていた銀輪へ目を落とした。
今日、初めて会った少女。
自分を見た瞬間から、明らかに何かを警戒していた人。
理由は教えてくれなかった。
嫌いではないとも言った。
けれど兄に向ける気安さと、自分へ向ける丁寧さの間には、誰が見ても分かる程度の壁がある。
それだけなら、少し不愉快に思って終わっていたかもしれない。
けれど。
『なぜそこで、ディルヴァン様と比べる必要があるんです?』
あの言葉が、まだ胸の奥に残っていた。
慰めるような声ではなかった。
兄より優れていると言われたわけでもない。
ただ、ルシアンが見つけた道と、ルシアンが覚えていた配置を見て、その役目は自分に向いていると言われた。
兄と比べる必要すらないという顔で。
あまりにも自然に。
だからこそ、何度思い返しても、その時の声が薄れなかった。
自分を警戒しているくせに。
自分のことを見ていないわけではない。
その矛盾が、妙に気になる。
「……次は」
小さく呟く。
兄が振り返る。
「何?」
「何でもありません」
今度会った時は、もう少し普通に話すと言っていた。
それなら、その「もう少し」がどこまで近づくのか。
そして、どうすればその壁がなくなるのか。
少し確かめてみたいと思った。




