第49話 悪役令嬢は、平穏な予定ほど崩したくない
グランセル侯爵領から戻って一週間も経たないうちに、ヴェルシアナの日常は少しずつ元の形へ戻り始めていた。
朝食を取り、家庭教師の授業を受け、空いた時間には本を読む。ミレーヌが帳簿の勉強をしている横で自分も資料を広げ、午後になれば招待状や手紙へ返事を書く。
事件の前にもしていたことばかりだ。
ただし、まったく同じではない。
窓の外には以前より護衛が多いし、魔法の自主練習をしようとすれば、どこからともなく使用人が現れる。
今日もそうだった。
机の上に一枚の紙を置き、ヴェルシアナは右手の人差し指へほんの少しだけ魔力を集めた。
目的は単純だ。
紙の端を、風で持ち上げる。
それだけ。
グランセル領で大量の魔力を使って以来、ヴィクトルからは勝手な高出力魔法を禁止されている。正式な訓練再開もまだ先だったが、これくらいなら問題ないだろう。
たぶん。
「……少しだけ」
窓から入ってくる自然の風より弱く。
紙の端がわずかに浮く程度。
そう意識して魔力を流す。
ふわり、と。
紙が浮いた。
「お」
思わず声が漏れる。
成功した。
――と思った次の瞬間。
ぱららららっ、と机の上に積んであった紙がまとめて舞い上がった。
「あ」
書類。
栞。
読みかけの本に挟んでいたメモ。
ミレーヌが整理していた帳簿の写しまで、部屋の中へ一斉に飛び散る。
「…………」
ヴェルシアナは指先を下ろした。
数秒後。
扉が開く。
「お嬢様」
ミレーヌだった。
見事なほど穏やかな表情をしている。
「何をなさいました?」
「……風が」
「窓は閉まっております」
「魔法の方です」
「存じ上げております」
逃げ道がなかった。
ミレーヌは床へ落ちた紙を一枚拾い、それからヴェルシアナを見る。
「ヴィクトル様から、自主的な高出力魔法は控えるようにと伺っております」
「高出力ではありません。紙を一枚動かそうとしただけです」
ミレーヌは室内を見回した。
「結果として、十四枚動いております」
「数えたんです?」
「目につきましたので」
「……」
反論できない。
自分としては本当に、ごくわずかな風を起こしたつもりだった。
けれど、必要な量と自分が「少し」と感じる量の間には、どうやらまだかなり大きな川が流れているらしい。
「難しいですね」
「何がでしょう」
「弱くするのが」
ミレーヌは少しだけ考えてから、床に落ちた最後の紙を拾った。
「お嬢様は、増やすことより減らすことの方が苦手なのですね」
「……そうかもしれません」
魔法の話だ。
なのに、なぜか別のところまで刺された気がした。
◇
その日の午後には、リュネアとエステルが遊びに来る予定になっていた。
大きな茶会ではない。
事件続きだったこともあり、母が「今日は同年代の方と普通に過ごしなさい」と半ば強制的に決めたものだ。
普通に。
その言葉が最近やけに重要視されている気がする。
けれど、実際に二人の顔を見れば、悪い予定ではなかった。
「ヴェルシアナ様!」
リュネアは会って早々、こちらを上から下まで確認した。
「本当にお怪我はありませんの?」
「ありません」
「お手紙にはそう書いてありましたけれど、実際に見るまで信用できなくて」
「そこまでです?」
「そこまでです」
隣のエステルも、今日は珍しくすぐ頷いた。
「……私も、少し心配していました」
「ありがとうございます」
心配されることへ、以前より少しだけ素直に礼を言えるようになった気がする。
たぶん。
グランセル領でいろいろあったせいだろう。
三人で庭へ出る。
母が整えた薔薇の一角には、夏の終わりへ向かう花がまだ残っていた。満開の盛りは過ぎているが、少し開ききった花弁が風に揺れる姿には、最盛期とは別の美しさがある。
リュネアは新しく仕上げた刺繍を持ってきていた。
エステルは本。
ヴェルシアナは何も持っていない。
「珍しいですわね」
リュネアが言う。
「何がです?」
「ヴェルシアナ様がお茶の席に本も資料も持っていらっしゃらないなんて」
「持ってこようとしたら、ミレーヌに止められました」
「正しいと思います」
エステルが静かに言った。
「エステル様まで」
「今日は遊びに来たので」
「……正論ですね」
最近、味方が少ない。
けれど。
お茶を飲みながら、リュネアの刺繍を見たり、エステルが最近読んだ本の話を聞いたりしているうちに、資料を持ってこなかったことは気にならなくなった。
事件の話は、最初に少しだけ出た。
でも長くは続かなかった。
リュネアが刺繍に使った薔薇色の糸について話し始め、その色を見たエステルが「この本の表紙に似ています」と言い、そこから装丁の話になり、さらに好きな色へ話が移った。
何かを解決する必要のない時間だった。
誰かの命を守る必要もない。
原因を探す必要もない。
ただ、三人で紅茶を飲み、どうでもいい話をする。
その「どうでもよさ」が、思っていた以上に心地よかった。
「そういえば」
リュネアがカップを置いた。
「オルティア様からお手紙をいただきました」
「リュネア様にも?」
「はい。今度、古い刺繍図案を見せてくださるそうです」
嬉しそうだ。
オルティアは本当に整理を始めたらしい。
「ヴェルシアナ様にも届いています?」
「昨日届きました」
「何と?」
「次の刺繍会では前より難しい図案にする、と」
リュネアが目を輝かせた。
エステルは少しだけヴェルシアナを気の毒そうに見た。
「……頑張ってください」
「ありがとうございます。その言葉が一番優しいです」
「わたくしも応援しますわ!」
「リュネア様は楽しんでいますよね」
「少しだけ」
絶対に少しではない。
けれど。
オルティアが次の予定を立てている。
リュネアもそれを楽しみにしている。
エステルも、以前ならこういう集まりの話を聞いても一歩引いていたのに、今は自然に会話へ混ざっている。
関係は、大きな事件だけで変わるわけではない。
こういう何でもない約束が一つずつ増えることで、気づかないうちに生活の中へ根を張っていくのだろう。
ヴェルシアナは紅茶へ口をつけながら、ふとそんなことを思った。
◇
三人で庭を歩いていた時。
風が少し強くなった。
テーブルの上に置いていたリュネアの刺繍図案が、一枚だけ浮き上がる。
「あっ」
リュネアが手を伸ばす。
ヴェルシアナも反射的に指先へ魔力を集めた。
朝の失敗が頭をよぎる。
強くしすぎるな。
一枚だけ。
止めるだけ。
動かす必要すらない。
風を起こすのではなく、今吹いている風へほんの少し逆向きの流れを当てる。
そんなイメージで魔力を放した。
紙が一度だけ揺れた。
そして。
飛ばずにテーブルの端へ落ちる。
「……」
ヴェルシアナ自身が一番驚いた。
「今の、ヴェルシアナ様ですか?」
リュネアが尋ねる。
「たぶん」
「たぶん?」
「成功するとは思っていなかったので」
「ご自分でなさったのに?」
「朝は十四枚飛びました」
エステルが目を瞬く。
リュネアは少し笑った。
「では、すごい進歩ですわね。一枚も飛ばさなかったのでしょう?」
「その基準でいいんでしょうか」
でも。
悪い気はしない。
成功したのは偶然に近い。
次もできる保証はない。
それでも。
大量に出すのではなく、ほんの少しだけ使えた。
ヴィクトルならきっと、
『次も同じようにできれば、ですが』
と言うだろう。
その言葉が頭に浮かび、少しだけ笑った。
「何か嬉しそうですね」
エステルに言われた。
「そう見えます?」
「少し」
どうやら、隠しているつもりでも分かる人には分かるらしい。
◇
夕方。
二人を見送り、ヴェルシアナが自室へ戻ると、机の上に新しい封書が置かれていた。
見覚えのある封蝋。
ヴァレンティス辺境公爵家。
少し嫌な予感がする。
「いつ届きました?」
「先ほどでございます」
ミレーヌが答える。
「ディルヴァン様から?」
「はい」
開けたくない。
理由は分かっている。
昨日聞いたばかりなのだから。
それでも、開けないわけにはいかない。
封を切る。
ディルヴァンらしく、文章は短かった。
次の訓練日について。
前回話していた「一人では勝てない勝負」を何にするか、まだ思いついていないこと。
そして最後。
弟が予定より早く王都へ来ることになった。
次に会う時、一緒に連れていく。
そこまで読んで。
ヴェルシアナは静かに手紙を机へ置いた。
「お嬢様?」
「……ミレーヌ」
「はい」
「次の予定、いつでした?」
「三日後でございます」
三日。
思っていたより早い。
ゲームの知識としては知っている。
ヴァレンティス辺境公爵家の次男。
攻略対象の一人。
兄への複雑な感情を抱え、学園でヒロインと関係を深めていく少年。
名前も。
設定も。
いくつかのイベントも。
覚えている。
けれど、それは全部画面の中の話だった。
ディルヴァンもそうだった。
アレクシスもそうだった。
実際に会えば、ゲームの立ち絵よりずっとよく笑い、怒り、迷い、こちらの知らない顔を持っている。
攻略対象という言葉だけで、人間一人を測れるわけではない。
もう分かっている。
分かっているのだが。
「……できれば、もう少し先がよかったですね」
「何かご都合でも?」
「いえ」
都合はない。
あるのは、前世から持ってきた警戒心だけだ。
破滅したくない。
そのために攻略対象へ近づきすぎない。
この原則そのものは、今でも間違っていないと思っている。
問題は。
すでにその攻略対象の兄と、普通に友達になってしまったことだった。
しかも向こうは善意で弟を紹介しようとしている。
避ける理由を説明できない。
「ミレーヌ」
「はい」
「三日後、予定を変更することは」
「ディルヴァン様とのお約束でしょうか」
「……はい」
ミレーヌは少し考えた。
「体調がお悪いのであれば、もちろん」
「元気です」
「では、何か別のご予定が?」
「ありません」
「でしたら、変更なさる理由はないかと」
正しい。
正しすぎる。
「そうですよね」
逃げ道がない。
◇
その夜。
ベッドへ入ったあとも、ヴェルシアナはしばらく眠れなかった。
別に恐ろしい相手が来るわけではない。
まだ子供だ。
今のディルヴァンより年下。
ゲーム本編が始まる頃とは、人格だって大きく違うはずだ。
普通に挨拶する。
必要以上に近づかない。
二人きりにならない。
ゲーム内で覚えているイベントに似た状況が起きても、自分から踏み込まない。
それだけ。
簡単だ。
非常に簡単。
そう思いながら、頭の中で条件を並べている時点で、簡単ではない気もする。
枕へ顔を埋める。
ディルヴァンは言っていた。
『たぶん、お前とは合うと思う』
できれば合わないでほしい。
少なくとも、攻略対象と相性がいいと言われて喜ぶほど、ヴェルシアナは自分の未来へ楽観的ではなかった。
ただ。
今日、リュネアやエステルと過ごした時間を思い出す。
最初は。
彼女たちとの関係だって、破滅を避けるためのものだった。
敵を増やさない。
嫌われない。
原作と違う道を作る。
それが目的だった。
今はもう。
次の刺繍会を少し楽しみにしている。
エステルが持ってきた本の続きを聞きたい。
リュネアの新しい刺繍も見たい。
目的から始まったものが、いつの間にか目的以外の理由で続いている。
なら。
攻略対象だからという理由だけで、会う前から全部決めつけるのも違うのだろう。
――だからといって、警戒を解くつもりはないけれど。
そこは別問題だ。
ヴェルシアナは毛布を引き上げた。
三日後。
知識の中にしかいなかった少年が、現実の人間として目の前へ来る。
その時。
自分が何を見るのか。
ゲームの攻略対象か。
ディルヴァンの弟か。
それとも。
まだ何も知らない、一人の少年か。
答えは、会ってみなければ分からなかった。




