⭐︎閑話 侍女は、主人が見ていないものを見ている
グランセル侯爵領を発つ朝、ミレーヌは少し離れた場所で荷物の最終確認をしていた。
馬車へ積み込む箱の数を確かめ、預けた荷物と手元に残すものを分け、忘れ物がないか使用人と照合する。特別な仕事ではない。けれど、こういう小さな確認を怠ると、困るのはたいてい移動を始めたあとだ。
「アルセリード公爵令嬢は、まだ六歳でいらっしゃるのですよね」
ふいに聞こえてきた声に、ミレーヌの手がほんのわずかに止まった。
少し離れた場所で、グランセル家の使用人と調査隊に参加していた騎士が話している。
「ええ。そう伺っております」
「とてもそうは見えませんでした。昨日もあれほどの状況で落ち着いておられましたし、異変の原因へ最初に目を向けられたのも、あのお嬢様だったのでしょう?」
「魔力量も相当なものだとか」
「王太子殿下とも親しく、ヴァレンティス辺境公爵家のご子息とも対等に話されていた。お若いのに、随分と完成された方ですな」
完成された方。
その言葉に、ミレーヌは思わず手元の帳面へ視線を落とした。
否定する理由はない。
ヴェルシアナは聡明だ。
人が見落としたものを見つけることがある。
地図や記録を眺めている時の集中力は恐ろしいほどで、今回も魔獣の目撃場所だけではなく、植物の生育や魔力反応まで別々の記録から拾い上げ、それらを一枚の地図へ集めた。
魔力量についても、本人が困るくらい多い。
王太子であるアレクシスと話す時にも必要以上に緊張せず、ディルヴァンに対しても遠慮なく言うべきことを言う。
令嬢たちとの関係も、少しずつ増えていた。
だから、外から見ればきっとそうなのだろう。
隙がなくて。
落ち着いていて。
何でもよく見えている、完成された公爵令嬢。
ミレーヌは静かに瞬きをした。
――でも。
少し違う。
そう思った。
◇
ヴェルシアナ・アルセリードという少女について、ミレーヌは外の人間より少しだけ多く知っている。
たとえば、刺繍は驚くほど得意ではない。
オルティアから針の持ち方を教えられた時など、普段はあれほど落ち着いているのに、布の上で出来上がっていく花らしき何かを前に何度も眉を寄せていた。
それでも投げ出しはしない。
ただ、完成したものを見て、
「……花に見えます?」
と真剣に尋ねてきた。
ミレーヌは返答に少し困った。
「お花を目指されたのは分かります」
「それは、花には見えない時の褒め方では?」
「そのようなことは」
「今、少し考えましたよね」
図星だったので、否定するのに苦労した。
魔法だって、最初から何でもできたわけではない。
魔力量だけなら大人すら驚く。
けれど、細かな制御となると話は別で、ヴィクトルの訓練を終えたあとには本人が誰より悔しそうな顔をしていることもあった。
もっとも、その翌日にはまた試している。
上手くできないことを嫌がりながら、できないまま放っておく方がもっと嫌なのだろう。
本を読んでいる時にも癖がある。
考え込むと頁をめくる手が止まる。
本人は読んでいるつもりなのかもしれないが、十分経っても同じ場所を見ていることがある。
紅茶も同じだ。
地図や資料へ夢中になると、気づいた頃にはすっかり冷めている。
それを新しいものへ替えようとすると、
「まだ飲めます」
と言う。
「冷めています」
「飲めないわけではありません」
「美味しく召し上がっていただくためにお淹れしております」
「……では、お願いします」
妙なところで抵抗する。
褒められれば、普通に嬉しそうにする。
本人は表情へ出していないつもりらしい。
けれどヴィクトルから「今のは悪くありません」と言われた日は、帰りの馬車でいつもより少しだけ機嫌がいい。
ミレーヌには分かる。
そして。
おそらく本人が一番自覚していないこともある。
人の気持ちには、時々とんでもなく鈍い。
◇
「顔が赤いですよ」
少し前の出来事を思い出して、ミレーヌは危うく笑いそうになった。
オルティアの顔が耳まで真っ赤になっているところへ、主人は真正面からそう言った。
よりにもよって。
そこで。
である。
馬車が近づいた瞬間、ヴェルシアナは何の迷いもなくオルティアの手を取り、自分が道側へ入った。
自然すぎて、本人は何をしたのかすらまともに理解していなかったと思う。
オルティアが手を離さない。
ヴェルシアナは首を傾げる。
「離します?」
オルティアはさらに赤くなる。
「離さなくて結構です」
「でも、もう馬車は」
「分かっています!」
見ているこちらがどうしたらいいのか困った。
ミレーヌは黙って少し距離を取った。
侍女としては、たぶん正しい判断だったと思う。
少なくとも、主人の横で笑いを堪えるよりは。
そしてディルヴァンが何も分かっていない顔で、
「暑い?」
などと尋ねた時には、少しだけ安心した。
自分の主人だけが特別鈍いわけではないらしい。
もっとも、同程度の者を見つけたところで何の解決にもならなかったが。
オルティアが最後に、
「わたくしが何も困っていなくても」
と口にした時。
ミレーヌには、その言葉が何を意味しているのか分かった。
おそらく。
ヴェルシアナ以外には。
主人は少し考えてから、
「普通に会えばいいでしょう。友達なんですから」
と言った。
あの瞬間のオルティアの顔を、ミレーヌはたぶんしばらく忘れない。
嬉しいのに。
少しだけ困っていて。
もっと欲しいものがあることへ、自分自身が気づき始めている顔だった。
けれど、その原因を作った本人は何も分かっていない。
――お嬢様。
心の中でだけ、ミレーヌは思った。
――それは、少し酷いです。
もちろん、悪気など一切ない。
だから余計に困るのだ。
◇
「ミレーヌ様」
呼ばれて、意識を現在へ戻す。
グランセル家の若い使用人が、帳面を持って立っていた。
「こちらの荷物で最後でございます」
「ありがとうございます。数も合っています」
確認を終え、帳面を閉じる。
少し離れた場所では、まだヴェルシアナがオルティアと話していた。
その光景を見ながら、先ほどの騎士たちの会話が頭へ戻ってくる。
完成された公爵令嬢。
ミレーヌは、その評価を嫌いではなかった。
主人が褒められるのは嬉しい。
昔は。
ヴェルシアナ・アルセリードという名前を聞いた時に、人々の顔へ浮かぶものは今とは違っていた。
怖い。
気難しい。
公爵家の令嬢だから逆らわない方がいい。
本人とまともに話したことさえない人間が、そんな印象を口にすることもあった。
評判というものは不思議だ。
人より先に部屋へ入り。
人より先に椅子へ座り。
本人が来る頃には、その席に勝手な人格を座らせて待っている。
ヴェルシアナは、その見えない誰かと何度も同じ場所に座らされてきた。
今は逆だ。
聡明。
優しい。
冷静。
人を見る目がある。
それはどれも、以前よりずっと主人に近い。
けれど。
評判が良くなれば、それで全部正しいわけでもない。
今度は「完璧な公爵令嬢」という別の形が、主人より先に歩き始めている。
ミレーヌは、それを少しだけ怖いと思う。
なぜなら。
ヴェルシアナは完璧ではない。
そして。
ミレーヌが敬愛しているのは、その完璧ではない主人の方だった。
◇
最初から今のような関係だったわけではない。
ミレーヌ自身も、昔はヴェルシアナをどう見ればいいのか分からなかった。
公爵令嬢。
自分よりずっと高い家の娘。
自分が仕える相手。
その事実だけを並べれば、ミレーヌがすべきことは単純だった。
言われたことへ従う。
間違えない。
役に立つ。
余計なことはしない。
けれど、ヴェルシアナはそれだけを望まなかった。
それどころか。
「あなたは、どう思います?」
と聞いてくる。
最初は困った。
正解を求められているのだと思った。
主人が望む答えを当てなければならないのだと。
けれど、違った。
本当に聞いているだけだった。
ミレーヌが違う意見を言えば、それをすぐ否定することもなく、
「なるほど」
と考える。
その上で自分の判断をする。
だから少しずつ、ミレーヌも自分で考えるようになった。
数字を見るようになった。
帳簿を読むようになった。
家や領地のことへ興味を持った。
自分には何ができるのか、考えるようになった。
それは全部。
ヴェルシアナが答えをくれたからではない。
答える場所を、奪わなかったからだ。
◇
以前、茶会でミレーヌ自身が他家の令嬢と言葉を交わした時のことを思い出す。
最初の相手は、自分で対処できた。
少し棘のある言葉を向けられても、自分の立場と話題の範囲で返すことができた。
ヴェルシアナはすぐ横にいた。
けれど、前へは出なかった。
助けてくれなかったのではない。
任せてくれた。
ミレーヌには、それが分かった。
だから自分で立てた。
ところが、相手が話題をアルセリード家やヴェルシアナ自身へ移した瞬間。
主人は静かに隣へ来た。
前ではない。
後ろでもない。
隣だった。
あの日、ミレーヌは初めて分かった気がした。
ヴェルシアナは人を守る時、その人の立っている場所まで奪わない。
自分でできるところは任せる。
その人の手から零れそうになったものだけ、必要な分だけ持つ。
そして、相手の領域ではなく自分の領域へ踏み込まれた時には、自分で前へ出る。
それはたぶん。
とても難しい。
誰かを大切に思えば思うほど、人は代わりに全部してしまいたくなることがある。
失敗させたくない。
傷つかせたくない。
困らせたくない。
その気持ちは優しさだ。
けれど、ときにその優しさは、相手が自分で立つ場所まで覆ってしまう。
ヴェルシアナも、最初から分かっていたわけではない。
ミレーヌは知っている。
ナディアとのこともあった。
守ることと、決めること。
大切にすることと、相手の道を選んでしまうこと。
その境目で、主人自身が何度も迷った。
だから。
今のヴェルシアナの優しさは、何も知らずに最初から持っていた美徳ではない。
失敗して。
傷ついて。
相手の顔を見て。
そのたびに少しずつ覚えてきたものだ。
ミレーヌは、そこを何より尊敬している。
完璧だからではない。
間違えたあとに、間違えたままでいないから。
◇
今回のグランセル領でも同じだった。
地図の上に散らばった異変を繋げたのは、確かにヴェルシアナだった。
けれど。
魔力草の採取量が減っていることへ最初に気づいたのは、ミレーヌだった。
その時、主人は何と言ったか。
特別なことは言わなかった。
ただ、ミレーヌが指した場所を見て、
「いつからです?」
と聞いた。
それだけだった。
でも、その「それだけ」が嬉しかった。
気づいたものを、ちゃんと材料として受け取ってくれた。
自分の発見として持っていかなかった。
オルティアが刺繍の意味を見つけた時も同じ。
ディルヴァンが魔獣の魔力の偏りを見抜いた時も同じ。
術師が流れを整えた時も。
騎士が魔獣を止めた時も。
ヴェルシアナは全部を自分の物語にしなかった。
だから、他の人間がその場に残れる。
自分の役目を持ったまま。
それはきっと。
本人が思っているよりずっと、人を惹きつける。
◇
「アルセリード嬢は、命令する方ではないのですね」
昨日、帰還した騎士の一人が、そんなことを言っていた。
「人が何をできるか見て、それを任せる方なのでしょう」
別の者が答えた。
ミレーヌは、その会話も聞いていた。
少しだけ違うと思った。
主人は、そんな立派な考えを最初から持っていたわけではない。
人を見れば何でも分かるわけでもない。
むしろ。
ヴェルシアナはよく考える。
考えすぎるほど考える。
相手が本当に何を望んでいるのか分からなくて、黙ることもある。
答えを間違えることを怖がって、言葉を選ぶ。
それでも。
分からないから見ようとする。
見たものだけで決めつけない。
自分が正しいと思ったことさえ、一度疑う。
ミレーヌは、その姿を何度も見てきた。
だから主人が誰かの望む助け方を選べた時、それは偶然に見えて偶然ではない。
積み重ねたものがある。
ずっと見てきたから。
ずっと間違えないように考えてきたから。
たぶん。
そこが主人の一番強いところなのだと、ミレーヌは思う。
大きな魔力より。
頭の良さより。
公爵家の名前より。
ずっと。
◇
出発の準備が終わり、ミレーヌは馬車へ乗り込んだ。
少し遅れてヴェルシアナも入ってくる。
「お疲れ様でした」
「ミレーヌも」
主人は座席へ腰を下ろすと、当然のように鞄から一冊の本を取り出した。
ミレーヌは黙って見ていた。
本を開く。
一頁目。
二頁目。
そこまではよかった。
「お嬢様」
「何です?」
「本日は、馬車でお休みになると仰っていませんでしたか?」
ヴェルシアナが顔を上げる。
「馬車では休む、と言いました」
「はい」
「眠るとは言っていません」
「同じ意味です」
「違います」
「違いません」
「本を読むくらいなら休んでいるのと同じでは?」
「指がまだ痺れている方が、頁をめくる作業を増やしてどうするのです」
「……そこまで?」
「そこまでです」
しばらく見つめ合う。
先に負けたのはヴェルシアナだった。
「少しだけ読んだら寝ます」
「最初からお休みください」
「ミレーヌ」
「駄目です」
主人が小さく息を吐いた。
でも、本は閉じない。
頑固だ。
ミレーヌはもう一度言おうとしたが。
やめた。
たぶん。
もうすぐ勝手に寝る。
予想は当たった。
馬車が領都を離れ、車輪の音が一定になった頃には、ヴェルシアナの頁をめくる速度が目に見えて落ちていた。
一枚。
長い間。
また一枚。
さらに長い。
「お嬢様」
「起きています」
「まだ何も言っておりません」
「……」
返事がない。
ミレーヌは少し待った。
やがて本の端が膝へ落ちる。
銀色の髪が頬へかかり、規則正しい呼吸が聞こえ始めた。
眠った。
やっぱり。
ミレーヌは小さく笑った。
そっと本を取る。
栞を挟み、鞄へ戻す。
それから用意していた薄い毛布を主人の身体へ掛けた。
眠っているヴェルシアナは、外の人々が話していた「完成された公爵令嬢」には見えなかった。
昨日、大量の魔力を流した少女。
魔獣を前にしても自分の役目を続けた少女。
地図から異変を見つけた少女。
王太子と話し、辺境公爵家の少年と並び、侯爵へ意見を述べた少女。
そんなものを全部取り除けば。
今ここにいるのは、読みかけの本を手放せないまま眠ってしまった六歳の少女だった。
ミレーヌは、その寝顔を静かに見つめた。
完璧ではない。
もちろんだ。
失敗もする。
頑固だ。
無理をする。
自分のことになると、他人へ言うほど上手に休めない。
刺繍は下手だし。
紅茶を冷ますし。
妙なところで子供っぽく負けず嫌いだし。
人の好意には驚くほど鈍い。
ミレーヌが見ていなければ、きっとこれからもいくつか見落とす。
それでいいと思った。
もし主人が本当に何もかも見えて。
何もかもできて。
誰の手も必要としない人だったなら。
自分が隣にいる意味など、きっとなかった。
けれど。
ヴェルシアナは違う。
前を見ることに夢中になれば、足元を忘れることがある。
遠くの異変を見つけるのに、自分の紅茶が冷めたことには気づかない。
誰かが困っている時にはすぐ手を伸ばすのに、自分の疲れは後回しにする。
それなら。
自分が見ればいい。
主人が前を見ている時には、その横を見る。
主人が遠くを見ているなら、足元を見る。
主人が誰かの気持ちを考えすぎて迷う時には、今ここにある事実を拾う。
主人が「大丈夫です」と言った時には、本当に大丈夫なのか確認する。
それは。
守られるだけだった自分が、今ようやく見つけ始めた役目でもあった。
ヴェルシアナの隣に立つということは、ヴェルシアナだけを見ることではない。
彼女が見ていない方を見ることだ。
ミレーヌは、眠っている主人の肩から少しずれた毛布を掛け直した。
「……お嬢様」
返事はない。
当然だ。
だからこそ、口にできた。
「わたしは、お嬢様に助けていただいたから、お傍にいるのではありません」
昔なら。
そうだったかもしれない。
居場所をもらった。
選択肢をもらった。
自分で歩いていいと教えてもらった。
感謝している。
それは、これからも変わらない。
でも。
それだけなら、いつか恩を返し終えれば離れてもいいことになる。
ミレーヌが今ここにいる理由は、もう少し違っていた。
「お嬢様だから、お傍にいたいんです」
眠っている少女は知らない。
たぶん、起きている時には言えない。
言えばきっと、
「そんな大げさな」
と困った顔をする。
だから今だけ。
胸の奥にずっと置いていたものを、少しだけ言葉へする。
「誰かを見てくださるところも」
毛布の端を整える。
「間違えたら考え直せるところも」
銀髪が揺れる。
「できないことを、できないままにしておけないところも」
少し笑う。
「ご自分が思っているより、ずっと優しいところも」
そこで一度、言葉を止めた。
優しい。
それだけでは少し足りない。
主人は、ただ優しい人ではない。
必要なら厳しいことも言う。
嫌われる可能性があっても、相手に必要だと思えば言葉を選ぶ。
何でも許すことを、優しさだとは思っていない。
だから。
「尊敬しています」
声は小さかった。
でも。
自分の中では、驚くほどはっきり聞こえた。
「……本当に」
敬愛。
そんな言葉を、自分から使う日は来ないだろうと思っていた。
仕える者が主人へ向けるには、あまりにも綺麗に整いすぎた言葉だと思っていたから。
けれど。
今なら少し分かる。
敬うことと、遠くから見上げることは同じではない。
尊敬しているからこそ。
隣に立ちたい。
主人が間違えば、違うと思ったことを言える人でいたい。
無理をすれば止めたい。
見落とせば拾いたい。
何でも言うことを聞く侍女ではなく。
主人が自分で選んだ道を、少しでも歩きやすくできる人でいたい。
たぶん。
ヴェルシアナ自身が、ミレーヌへそういう場所をくれたから。
◇
馬車が小さく揺れた。
ヴェルシアナの頭が窓側へ傾く。
ミレーヌはすぐ手を伸ばし、ぶつかる前にそっと支えた。
そのまま小さな枕を挟む。
「……ん」
主人が少しだけ眉を動かした。
起きるかと思ったが、また眠りへ戻る。
ミレーヌは安堵して手を離した。
外では、グランセル侯爵領の景色が少しずつ後ろへ流れていく。
畑。
水路。
森。
今回の異変を知る前なら、ただ綺麗だと思っていたかもしれない。
今は違う。
あの森の中には古い祠があり。
見えない地下には魔力が流れ。
使われなくなった道が草木の下に残っていた。
見えている景色だけが、世界の全部ではない。
それは、人も同じなのだろう。
外から見えるヴェルシアナは。
聡明で。
冷静で。
高い魔力を持ち。
人々から少しずつ慕われ始めている公爵令嬢。
それは間違っていない。
でも。
ミレーヌが知っている主人は、もっとたくさん失敗する。
もっと迷う。
もっと普通に笑う。
時々、とんでもなく鈍い。
それらを知っているから。
外からの称賛を聞くたびに、ミレーヌは少しだけ誇らしくなる。
――皆さまが思っているより、もっと素敵な方ですよ。
口には出さない。
出す必要もない。
全員に知ってもらいたいわけではなかった。
自分だけが知っている主人の姿があることを、少しだけ嬉しいと思ってしまうくらいは許されるだろう。
ミレーヌは窓の外へ目を向けた。
主人は眠っている。
だから。
今くらいは、自分が見ていよう。
前も。
横も。
足元も。
もし何かを見落としたなら、拾って渡せばいい。
主人がすべてを見る必要なんて、最初からないのだから。
ヴェルシアナ・アルセリードが進む先を決めるのなら。
ミレーヌは、その隣で彼女の視界から零れたものを見る。
それが今の自分にできる。
彼女の侍女としてではなく。
彼女の隣にいる一人の人間として選んだ、歩き方だった。




