第46話 令嬢は、自分の功績を受け取るのが難しい
森の異変がひとまず落ち着いた翌朝、グランセル侯爵家の別邸には、昨日までとは違う静けさが戻っていた。
完全に元通りというわけではない。庭の向こうではまだ騎士が行き来し、森へ向かう道の一部には立ち入りを禁じる杭が打たれている。祠そのものの調査も終わっておらず、魔力を吸着していた黒い石については、王都から専門の術師を呼んで詳しく調べるらしい。
それでも、朝食の席へ湯気の立つ紅茶が並び、使用人たちが昨日ほど慌ただしくなく歩いているのを見ると、ようやく一晩を越えたのだと実感できた。
「腕は大丈夫ですか?」
向かいに座るオルティアが、パンへ手を伸ばすより先に俺へ尋ねた。
「少し重いくらいです。痛みはありません」
「本当に?」
「本当です」
「昨日も途中まで大丈夫だと仰っていました」
「今日は術師の方にも確認していただきましたから」
「……なら、信じます」
そう言いながらも、オルティアの視線は俺の手元からなかなか離れなかった。
昨日、石台へ魔力を流し続けたせいで、指先にはまだわずかな痺れが残っている。見た目には何もないが、細かい作業はしばらく避けるよう言われていた。
「つまり、今日は刺繍ができませんね」
俺が言うと、オルティアの眉がわずかに動いた。
「……残念ですね」
「少し嬉しそうに見えますよ」
「そんなことありません」
「そうですか?」
「ありません」
妙に強く否定する。
たぶん俺が刺した花を直す必要がなくなるので、少しだけ安心しているのだろう。
「次は逃がしませんから」
「休ませてくださる話では?」
「今日は、です」
やはり。
昨日は魔獣の咆哮が聞こえる中でも刺繍布から目を離さなかった少女が、もういつもの調子へ戻りつつある。それだけで、朝の紅茶が少しだけ美味しく感じられた。
朝食が終わる頃、使用人がグランセル侯爵から呼ばれていると告げに来た。
◇
案内されたのは、昨日何度も出入りした会議室だった。
机の上から緊急時の地図や報告書はほとんど片づけられていたが、一枚だけ、例の古い刺繍布が残されている。
グランセル侯爵は窓際に立っていた。
「お呼びいただいたと伺いました」
俺が一礼すると、侯爵は穏やかに頷いた。
「ええ。お二人には、改めて礼を申し上げたく思いまして」
オルティアが少し姿勢を正す。
「昨日の件ですが、調査隊は全員無事に戻りました。負傷した者も回復へ向かっております」
「よかったです」
「また、旧水路跡の補助施設も現在は安定しております。応急処置ではありますが、祠周辺の魔力濃度も昨日よりかなり低下しました」
そこまで聞いて、ようやく胸の奥に残っていた小さな硬さがほどける。
昨日は「全員帰ってきた」という事実だけで精一杯だった。
こうして翌日になって、負傷者も回復していると改めて聞くと、ようやく結果の重さが自分の中へ沈んでくる。
「アルセリード嬢」
「はい」
「あなたが異変を一つずつ繋げてくださらなければ、祠へ目を向けるまでにさらに時間がかかっていたでしょう。また、補助施設へ魔力を貸していただいたことにも感謝いたします」
「私は、できることをしただけです」
「その『できること』が大きかったのです」
声は丁寧だが、必要以上に持ち上げる響きはない。
そのまま侯爵の視線が娘へ移った。
「そして、オルティア」
「はい」
「お前があの刺繍を覚えていなければ、古道は見つからなかった。設備の起動順も同じだ。よく見ていたな」
一瞬。
オルティアの表情が止まった。
「……ありがとうございます」
返事はしっかりしている。
けれど、ドレスの上に置かれた指先だけが小さく動いた。
昨日、彼女はすでに自分の知識が役に立ったことを知っている。
だから今さら「何もしていない」とは思っていないはずだ。
それでも、父親から直接その功績を受け取るのは、どうやら別の難しさがあるらしい。
「お父様」
「何だ」
「昨日のことは……わたくしが見つけた、と皆さまへお伝えになるのですか?」
侯爵の眉がわずかに上がる。
「事実だからな」
「そうですけれど」
「何か困るのか」
オルティアは少し言葉に詰まった。
「……自分で聞くと、少し落ち着きません」
「なぜだ」
「自慢しているように思われないでしょうか」
なるほど。
そこか。
昨日までは、役に立てたかどうか。
今日は、役に立てたと認めたあと、その評価をどう受け取ればいいかで戸惑っている。
グランセル侯爵は娘をしばらく見たあと、机の上にある刺繍布へ視線を落とした。
「オルティア。事実を伝えることと、自慢することは違う」
「ですが」
「お前が見つけたものを、私が見つけたことにすれば、それこそ事実と違う」
オルティアが黙る。
「それに、誰が何を知っているのかは家にとって大切な情報だ。今回の件で、古い刺繍図案を読める者が必要だと分かった。それを隠してどうする」
俺は少しだけ目を瞬いた。
考えていたことが、かなり近い。
「……はい」
オルティアは小さく答えた。
「自分の功績を大声で誇れとは言わない。ただ、事実まで小さくする必要はない」
それから侯爵は刺繍布を見た。
「私は、この図案を長く家に伝わる古い装飾品としか見ていなかった。お前や母上ほど刺繍を見てこなかったからな」
「お父様でも、知らなかったんですか?」
「当主だからといって、家にあるすべてを知っているわけではない」
侯爵は淡々と答える。
「知らないこと自体は恥ではない。必要な時に知っている者へ聞こうとしない方が問題だ」
その言葉には、妙な説得力があった。
大人だから全部知っているわけではない。
立場が高いから答えを全部持っているわけでもない。
でも、誰に聞けばいいのかを知り、その答えを受け取れる。
それも一つの強さなのだろう。
「オルティア」
「はい」
「今後、古い図案について整理してみるか?」
「わたくしが?」
「興味があるなら、だ」
彼女は刺繍布を見る。
いつものように即答するかと思ったが、少しだけ考えた。
「……やってみたいです」
「そうか」
侯爵はそれ以上何も言わなかった。
けれど、その短いやり取りだけで十分だった。
これは褒美というより、役目を渡されたのだ。
彼女なら見つけられるものがあると、父親自身が認めたから。
オルティアの背筋がほんの少し伸びたように見えた。
◇
会議室を出たあと、俺たちは別邸の裏手にある回廊を歩いていた。
ミレーヌは少し離れてついてきている。
朝の光が柱の隙間から長く伸び、床へ規則正しい影を落としていた。
「……難しいですね」
オルティアが突然言った。
「何がです?」
「褒められるのが」
少し意外な答えだった。
「嫌なんですか?」
「嫌ではありません。嬉しいです」
そこは迷わない。
「でも、自分から『わたくしが見つけました』と言うのは……どうしても、自慢しているように感じてしまいます」
「分かる気はします」
「アルセリード様も?」
「私も自分で『魔力量が多いです』と何度も言うのは、少し変な気分になります」
「それはもう皆さま知っているでしょう」
「それでもです」
オルティアが少し笑う。
俺も笑ってから、言葉を続けた。
「でも、昨日のことなら、ちゃんとオルティア様が見つけたと伝えた方がいいと思います」
「どうしてです?」
「次に同じようなことが起きた時、誰に聞けばいいのか分かるからです」
彼女がこちらを見る。
「オルティア様が古い図案を読めることを、皆が知らなかったら困るでしょう」
「……」
「私が見つけたことになっていたら、次も私のところへ聞きに来るかもしれません。でも、私は刺繍を見ても分かりません」
「それは、そうですけれど」
「ですから、功績って褒めてもらうためだけにあるものではないのかもしれませんね」
言ってから、少し仕事っぽい考え方だと思った。
前世でも似たようなことはあった。
誰が何をできるのか。
誰が何を知っているのか。
そこを曖昧にすれば、次に必ず困る。
「誰が何をしたのか分かっている方が、次にちゃんとその人を頼れます」
オルティアはしばらく黙っていた。
「……アルセリード様は」
「はい」
「そういうことを平然と言うんですね」
「変でした?」
「変ではありません」
彼女は首を振る。
「ただ、少しずるいです」
「何がです?」
「そうやって言われると、受け取らない方が間違っているみたいになるので」
「間違いとは言っていませんよ」
「分かっています」
なのに、なぜか不満そうだ。
「でも」
オルティアは自分の胸元へ軽く手を置いた。
「少しだけ、ちゃんと受け取ってみようと思います」
「それがいいと思います」
「……そう簡単に言わないでください」
「難しいです?」
「難しいです」
でも、その声はさっきより軽かった。
◇
昼過ぎ。
別邸の前庭には、森の調査に参加した騎士や術師、領内の管理を任されている者たちが集まっていた。
大げさな式典ではない。
グランセル侯爵から状況説明と労いの言葉があり、それぞれの報告をまとめるための簡単な集まりだった。
俺たちは少し離れた位置から見ていた。
「オルティア」
侯爵に呼ばれ、彼女が顔を上げる。
「こちらへ」
「わたくしもですか?」
「古道について説明してくれ」
オルティアの顔が固まった。
「……わたくしが?」
「お前が見つけたのだろう」
当然のように返される。
「ですが、お父様が説明された方が」
「私が刺繍を読めると思うか?」
「それは……」
「なら、お前が話した方が正確だ」
理屈が強い。
オルティアは一瞬だけ俺を見る。
助けを求めているというより、「本当にやるのですか」という確認に近かった。
俺は少しだけ近づく。
「一緒に行きましょう」
「え?」
「私も横にいます」
「でも、説明するのはわたくしですよね」
「はい」
「では、アルセリード様は何を?」
「何もしません」
「何もしない?」
「横にいるだけです」
俺が代わりに話せば、彼女が功績を受け取る機会まで奪ってしまう。
だから、今は何もしなくていい。
俺たちは侯爵の近くへ進んだ。
集まっている大人たちの視線がこちらへ向く。
オルティアの歩幅が、ほんの少しだけ小さくなった。
俺は彼女より半歩後ろに立つ。
前へ出ない。
隠れもしない。
振り返れば視界に入る場所だけを選んだ。
「オルティア」
侯爵が促す。
彼女は一度だけ息を吸った。
「昨日、調査隊の退路として使用された古道について、ご説明いたします」
最初の声は少し硬かった。
けれど、一文を話し終える頃には、その硬さがゆっくりほどけていく。
「古道の存在は、現在使用されている領地図では確認できませんでした。ただ、グランセル家に残されていた古い刺繍に、祠から南へ伸びる蔓模様がございました」
何人かが頷く。
「この模様は、古い領地刺繍において道を示す形式の一つです。そのため、過去には通路として利用されていた可能性があると考えました」
もう大丈夫だ。
刺繍の話になれば、彼女の声には自然と芯が戻る。
「実際に騎士の方々に確認していただいたところ、草木に覆われてはいるものの、人が通行できる状態で残っていました」
「おかげで助かりました」
調査隊に参加していた騎士の一人が言った。
「南東側だけを使っていれば、負傷者を連れての帰還にはさらに時間がかかっていたでしょう」
別の術師も頷く。
「魔力酔いを起こした者もおりました。あの古道が使えたのは大きかったです」
オルティアの瞳が、ほんの少し揺れた。
でも今度は、視線を下げなかった。
「……ありがとうございます」
きちんと受け取る。
誰かの「助かった」を、否定せずに。
頭を下げたあと、彼女が一瞬だけこちらを見た。
俺は何も言わず、小さく頷く。
オルティアも、ほんの少しだけ笑った。
◇
「疲れました」
報告が終わって回廊へ戻った途端、オルティアは珍しく大きく息を吐いた。
「上手でしたよ」
「途中で帰りたくなりました」
「まったくそう見えませんでした」
「見せなかったんです」
「それなら大成功ですね」
「そういう問題でしょうか」
「少なくとも皆さんには伝わっていました」
並んで歩く。
少し先には階段がある。
昨日の騒ぎで一部の手すりが外されており、脇には修繕用の資材が置かれていた。
「こちら、少し狭いですね」
ミレーヌが先に確認する。
普通に通れないほどではない。
ただ、オルティアのドレスは裾が少し長い。
「お気をつけください」
「大丈夫です」
彼女が一段下りた、その瞬間。
裾の端が資材へ軽く引っかかった。
「あ」
身体が前へ傾く。
考えるより先に手が出た。
彼女の手のひらを下から受け、そのまま引き寄せながら、もう片方の手で肘を支える。
軽い。
そのことを意識するより先に、身体は止まった。
「危ない」
オルティアの顔が近い。
灰色の瞳が大きく開いている。
「怪我は?」
「……ありません」
「よかった」
足元を確認する。
立てている。
ならもう大丈夫だろうと、俺は手を離そうとした。
離れなかった。
「オルティア様?」
「……」
彼女の指が、俺の手をわずかに強く握っている。
「まだ怖いですか?」
「違います」
即答だった。
「では」
「少しだけ」
今度は声が小さくなる。
「このままでも、いいですか」
「え?」
「階段を下りるまでです」
なるほど。
転びかけた直後なのだから、念のためということだろう。
「もちろんです」
手を握ったまま、一段ずつ下りる。
普段のオルティアなら何かしら話すのに、今日は妙に静かだった。
「足元、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「裾、踏みそうなら言ってください」
「……はい」
階段を下りきる。
俺は自然に手を離した。
その瞬間。
オルティアの指先が、ほんのわずかに追いかけるように動いた気がした。
気のせいだろうか。
「アルセリード様」
「はい?」
「先ほどの話ですけれど」
「功績の?」
「はい」
彼女は少し前を向いたまま言った。
「皆さまに『助かった』と言われた時、少し嬉しかったです」
「よかったですね」
「はい」
今度は素直だった。
「自慢しているようには思いませんでした」
「なら、ちゃんと受け取れましたね」
「……たぶん」
「十分でしょう」
オルティアが少し笑う。
そのあと、何かを思い出したようにこちらを見る。
「でも、アルセリード様が横にいてくださったから話せたところもあります」
「私は何もしていませんよ」
「いました」
「いただけです」
「それがよかったんです」
俺は少し首を傾げた。
「違いが?」
「あります」
はっきり言われた。
「前に出て代わりに話されていたら、たぶん嫌でした」
「それはしませんよ」
「でも、いなくても嫌だったと思います」
「……難しいですね」
「はい」
オルティアは楽しそうに笑った。
「でも、アルセリード様なら分かってくださると思っていました」
その言葉が、少しだけ胸に残った。
彼女が欲しかったのは、代わりに背負ってくれる人ではなく、自分が前へ出る時に隣へいてくれる人だったらしい。
守ることにも、いろいろな形がある。
前へ出ることだけが助けではない。
最近、それを教えられることが多い。
「アルセリード様」
「何でしょう」
「昨日、わたくしがいてよかったと仰いましたよね」
「はい」
「今日も?」
「もちろんです」
「昨日役に立ったから、ではなく?」
「それは違いますよ」
俺は少し笑った。
「役に立つかどうかで友達を選んだら、疲れるでしょう」
オルティアが足を止めた。
「……友達」
「違いました?」
「違いません」
返事が速い。
「ならよかったです」
「……本当に」
彼女は小さく呟いた。
「ずるい方ですね」
「またですか?」
「はい」
「理由を聞いても?」
「教えません」
そのまま先へ歩き出した彼女の耳が、髪の隙間から見えるほど赤くなっていた。
俺は少し首を傾げる。
人前で話した緊張が、まだ残っているのだろうか。
後ろから来ていたミレーヌと目が合った。
彼女は何か言いたそうにこちらを見たあと、結局何も言わずに小さく笑った。
「何です?」
「いえ。何でもありません」
「本当に?」
「はい」
どうやら今日は、分からないままにしておくことが多い日らしい。
それでも不思議と、悪い気はしなかった。
昨日、オルティアは自分にしかできないことがあると知った。
今日、その功績を自分のものとして受け取った。
誰かに勝ったからでも、一番だったからでもなく、自分が見つけたものを「自分が見つけた」と言えるようになる。
それは刺繍の一針より小さな変化に見えて、きっと布全体の模様を変えていく。
次に彼女がどんな顔で「得意です」と言うのか。
俺はそれを、少し楽しみにしていた。




