⭐︎第45話 誰か一人の強さでは守れない
警鐘の余韻が消えるより早く、グランセル侯爵家の別邸は別の顔を見せ始めた。
朝まで花の手入れをしていた使用人が避難人数を数え、廊下を騎士が駆け抜け、扉が開くたびに新しい報告が運び込まれる。昨日まで静かに眺めていた領地図の上にも次々と木片が置かれ、それまで紙の上にしか存在しなかった異変が、まるで地図から染み出してくるように現実の形を取り始めていた。
俺たちは護衛に囲まれたまま屋敷へ戻され、そのまま会議に使われていた部屋の一角へ移された。
当然だと思う。
六歳の俺やオルティアが危険な場所へ出たところで、守らなければならない人数が増えるだけだ。
理解はできる。
理解できることと、落ち着いて座っていられることが同じではないだけで。
「南東側へ追加で八名を回せ。北側の集落は予定を早めて避難させろ。森から出てきた魔獣については追い払うことを優先し、深追いはするな」
「承知いたしました!」
グランセル侯爵の声が地図の上を走る。
焦って声を荒らげているわけではない。それでも一つ言葉が落ちるたびに人が動き、その判断がそのまま領地の形を変えていく。
当主というものは、こういう時に一番はっきり見えるのかもしれない。
「調査隊から次の報告は?」
「まだ届いておりません」
「応援隊との距離は」
「この辺りまで詰めているはずです」
騎士が地図へ木片を置く。
祠から南東へ伸びる道。
その途中に調査隊。
さらに外側に応援隊。
そして、その二つの間へ別の印が置かれた。
「こちらで大型魔獣が一頭確認されております」
俺は地図を覗き込んだ。
「……また祠へ向かっていますね」
アレクシスが先に気づいた。
今まで森の外へ逃げていた低級魔獣とは逆に、強い個体ほど中心へ近づいている。
しかも、その進路が調査隊の帰り道と重なっていた。
「魔力に引かれてる」
ディルヴァンの声が低くなる。
「昨日の大型個体と同じだ」
「その可能性は高そうですね」
俺は地図上の印を見ながら答えた。
森の異変は、全ての生き物を同じように動かしているわけではない。
弱いものは逃げる。
強いものは寄っていく。
まるで中心にある何かが、力のないものを押し退けながら、力のあるものだけを引き寄せているようだった。
嫌な選別だ。
「侯爵様!」
扉が開き、別の騎士が駆け込んできた。
「調査隊より追加報告です。南側の退路の一つが完全に崩落しました」
「もう一本は?」
「現時点では通行可能です。ただ、魔力に反応した魔獣が複数、その周辺へ集まり始めています」
グランセル侯爵の視線が地図へ落ちる。
「負傷者は」
「二名。術師一名が強い魔力酔いを起こしており、移動速度がかなり落ちています」
帰り道は一本。
その一本道へ魔獣が集まり始めている。
物理的に塞がれていなくても、戦えない人間を含む一団が通れなければ、道としては無いのと変わらない。
俺は地図を見つめた。
何かないか。
別の線。
見落としている道。
その時、古い地図の端に残っている細い線へ目が止まった。
「……この道」
「何?」
ディルヴァンがすぐ覗き込む。
「昨日見つけた古い道です」
祠から南へ伸び、現在の果樹園近くへ抜けている。
現行の地図には載っていない。
だから退路にも数えられていなかった。
「通れるか分からないでしょう」
アレクシスが言う。
「はい」
「負傷者がいるなら、なおさら危ない」
「その通りです」
使えると決めつけるわけにはいかない。
ただ。
「使えるかもしれない道があることと、道がないことは違います」
俺はオルティアを見る。
「この古道について、何か知りませんか?」
「わたくしは……」
彼女は地図へ顔を寄せた。
「聞いたことはありません。ただ」
少し黙ってから、灰色の瞳が動く。
「昨日の刺繍」
「刺繍?」
「祠が描かれていた布です。あれにも南へ伸びる模様がありました」
オルティアはすぐ立ち上がった。
「持ってきます」
使用人が動こうとするより早く、グランセル侯爵が娘を見る。
「オルティア」
「はい」
「走るな。場所を伝えれば使用人に取らせる」
「でも、箱の中に似た布が何枚もあります。わたくしが見た方が早いです」
父親と娘の視線がぶつかる。
侯爵は一瞬だけ黙ったあと、使用人を一人つけた。
「なら一緒に行け。ただし、急いで転ぶな」
「はい」
オルティアは今度こそ、速度を抑えて部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は少し意外な気持ちになる。
普段の彼女なら、刺繍について問われれば誇らしげに答える。
けれど今は、自分の得意なものが本当に人を助けるかもしれない。
その可能性に追いつこうとするように、足取りまで変わっていた。
◇
「ありました」
戻ってきたオルティアは、息を整えるより先に布を広げた。
生成りの布に刺された古い風景。
中央の祠。
銀糸の川。
そして南へ伸びる、蔓のような模様。
「これです」
オルティアの指が蔓模様を辿る。
「古いグランセル家の刺繍では、道を蔓や枝で表すことがあります」
「地図の古道と重なる?」
ディルヴァンが聞く。
「ほとんど同じです」
「侯爵様」
俺が呼ぶと、グランセル侯爵もすぐこちらへ来た。
地図と刺繍を並べる。
祠。
古樹。
川。
位置関係は合っている。
「この道が現在も残っている可能性があります」
「確証は?」
侯爵の問いに、俺は首を振った。
「ありません。ただ、現地を確認する価値はあると思います」
侯爵は今度は娘を見る。
「オルティア。この刺し方が道を示すというのは確かか」
「はい。少なくとも、この布が作られた頃には道として使われていたはずです」
「今も通れるかは」
「そこまでは分かりません」
「それでいい」
侯爵は迷いなく答えた。
「分からないところまで答える必要はない」
そしてすぐ騎士へ向き直る。
「南の古樹周辺を確認しろ。道が残っているなら、調査隊へ伝令を回せ」
「承知いたしました!」
騎士が部屋を出ていく。
オルティアはしばらくその背中を見ていた。
「……本当に使えるでしょうか」
さっきまでの自信が少しだけ揺れる。
「分かりません」
俺はそのまま答えた。
彼女の顔がこちらへ向く。
「でも、今まで誰も候補に入れていなかった道を見つけたのは、オルティア様です」
「まだ道だと決まったわけでは」
「確かめる場所さえ分からなければ、確かめることもできません」
俺は刺繍へ目を落とした。
「私が地図を何時間見ていても、この模様の意味は分かりませんでした」
「……」
「オルティア様だから気づいたんです」
彼女は何も言わなかった。
ただ、布の端を握っていた指がほんの少し緩む。
勝った。
負けた。
以前の彼女なら、何かが起きるたびにそこへ自分を置いていたのかもしれない。
でも今必要なのは、誰が一番優れているかではない。
その人にしか見えないものを、一つずつ持ち寄ることだ。
◇
古道は残っていた。
「道幅は狭く、ところどころ草木に覆われておりますが、人が通れる状態です!」
報告を聞いた瞬間、部屋の緊張が一段だけ緩んだ。
まだ帰ってきてはいない。
それでも、一本しかなかった退路が二本へ戻った。
「調査隊へ伝えろ。南東側が危険なら古道へ切り替えさせる」
「はい!」
「応援隊は魔獣を引きつけ、古道へ近づけるな。討伐より時間を稼ぐことを優先しろ」
侯爵の指示が飛ぶ。
俺はようやく息を吐いた。
これなら。
そう思った瞬間だった。
地面が揺れた。
今朝までの微かな振動とは違う。
床の下で巨大な獣が寝返りを打ったような重い揺れが走り、窓枠が震え、棚の上で陶器同士が触れ合って甲高い音を立てた。
「魔力濃度、上昇!」
術師が計測器を見る。
「祠周辺だけではありません。流れが領地外縁へ広がっています!」
俺にも分かった。
呼吸をするたび、空気の中へ見えない重さが混ざっていく。
自分の中の魔力が、それに共鳴するようにざわめいた。
普段なら体内に静かに収まっているものが、外側から大きな潮に触れられて揺れている。
「……増えています」
俺は胸元へ手を当てる。
グランセル侯爵がこちらを見た。
「分かりますか」
「はい。昨日の石とは比べものになりません」
術師も険しい顔で頷く。
「このまま上昇すれば、魔力の弱い住民にも酔いや失神が出る可能性がございます」
「避難区域を広げろ」
侯爵が即座に命じる。
「森側だけでは足りない。南側の集落も順次動かせ」
「承知いたしました!」
その時、別の術師が古い領地記録を抱えて入ってきた。
「侯爵様、補助施設について記述がございました!」
「どこだ」
「旧水路跡です。祠を中心とした魔力分散設備の一つと考えられます」
広げられた記録には、今では使われていない水路の位置が記されていた。
別邸から南西。
森の外縁からも離れている。
「これを動かせば、魔力を逃がせる?」
ディルヴァンが聞く。
術師は慎重に頷いた。
「正常に動作するなら、祠へ集中している魔力の一部を外側へ逃がせる可能性はございます」
「だったらすぐ動かせば」
「問題があります」
「何?」
「起動方法が分かりません」
部屋が静かになる。
古い設備。
記録は残っている。
場所も分かった。
でも使い方がない。
あと一歩なのに、目の前で扉が閉じたような感覚だった。
「……待って」
オルティアが小さく言った。
その声に、全員が振り向く。
「補助施設も、刺繍に残っているかもしれません」
彼女はさっきの布を見た。
「祠だけを図案にしたとは限らないのでしょう?」
グランセル侯爵が娘を見る。
「思い当たるものがあるのか」
「あります。もっと古い布です」
「持ってこられるか」
「はい」
「今度は使用人に箱ごと運ばせろ。お前は場所を指示するだけでいい」
「……はい」
少し不満そうだったが、素直に従った。
◇
運ばれてきた箱から、オルティアは三枚の布を選んだ。
そのうち最後の一枚を広げた時、俺には最初、何が重要なのか分からなかった。
中央には大きな樹木。
その周囲に五つの花。
花の間を銀色の糸が繋いでいる。
「この五つ」
オルティアが言った。
「昨日の祠の印と同じ系列の図案です」
「補助施設?」
アレクシスが問う。
「おそらく」
「でも全部同じに見える」
ディルヴァンが眉を寄せた。
「同じではありません」
オルティアの返答は速かった。
彼女の目が変わる。
刺繍会で俺の酷い花を容赦なく直していた時と同じ、得意なものの前で一切迷わなくなる目だ。
「糸の向きが違います」
俺には分からない。
でも彼女は、五つの花を一つずつ指で追った。
「ここは外側から内側へ。この花も同じ。でも、こちらだけ途中で返しています」
「何を表してるの?」
アレクシスが尋ねる。
「順番だと思います」
「順番?」
「昔の図案では、同じ模様を繰り返す時に、始点を変えて意味を持たせることがあります。これは全部、外側から中央へ向かって刺されています」
術師の顔が変わった。
「……先に外側を開く」
俺も同時に理解した。
「出口を作ってから、中心を動かす?」
「そうです」
オルティアが俺を見る。
「たぶん」
たぶん。
確証はない。
それでも、流れとしてはあまりにも自然だった。
水路だって、出口を塞いだまま上流から水を流せば溢れる。
魔力を分散する施設なら、まず逃げ道を作り、そのあと中心を開く。
「侯爵様」
術師が振り返る。
「理に適っております。補助施設を先行して起動できれば、祠周辺の圧力を下げられる可能性がございます」
「危険は」
「設備の状態次第です。ただ、現状を放置する方が危険かと」
グランセル侯爵は数秒だけ黙った。
それから決める。
「現地を確認させろ。周囲の安全確保を最優先にし、設備が残っているなら術師を向かわせる」
「承知いたしました」
「お父様」
オルティアが呼ぶ。
「何だ」
「わたくしも行きます」
侯爵の目が細くなった。
「理由は」
「刺繍を読める者が必要でしょう」
「図案を写して渡せばいい」
「刺し方向まで正確に写すなら時間がかかります。設備の印が布と少し違っていたら、その場で見比べる必要もあります」
「危険がある」
「森の中ではありません」
「危険は森の中だけにあるわけではない」
父親としての声だった。
けれど、オルティアも引かなかった。
「分かっています」
いつもの勝ち気さとは違う。
自分の方が正しいと証明したい顔でもない。
「でも、わたくしに分かることがあります」
その言葉だけで、侯爵の表情がわずかに変わった。
「お父様が、分からないことまで答えなくていいと言ってくださったでしょう」
「言ったな」
「なら、分かることは言わせてください」
一瞬、誰も口を挟めなかった。
侯爵は娘をじっと見つめる。
長く感じたが、実際には数秒だったのだろう。
「……現地の安全が確認されてからだ」
オルティアの顔が上がる。
「護衛を倍につける。私も行く。危険だと判断したら、説明の途中でも戻す。それでもいいな」
「はい」
「無茶はするな」
「分かっています」
「お前はそう言う時ほど信用ならない」
「お父様」
オルティアが少しだけ頬を膨らませる。
こんな状況なのに、その一瞬だけ父娘の空気へ戻った。
俺はわずかに息を緩めた。
◇
旧水路跡の安全確認が済み、現地へ向かう者が決まった。
グランセル侯爵。
オルティア。
術師二名。
護衛騎士。
そして。
「アルセリード嬢にも、可能であれば同行をお願いしたく存じます」
術師にそう言われた時、俺は少し驚いた。
「私ですか?」
「設備を起動した際、魔力の流れが変化するはずです。先ほどの反応を見る限り、アルセリード嬢は我々より広い範囲の魔力変化を感知できております」
グランセル侯爵の眉が寄る。
「危険はありませんか」
「設備そのものへ触れていただく必要はございません。安全な位置から変化を伝えていただければ十分です」
森には入らない。
先に騎士が安全を確認している。
侯爵も同行する。
それでも危険がゼロではない。
俺は少し考えた。
「行きます」
「ヴェルシアナ」
アレクシスがこちらを見る。
「無茶はしません」
「前にも似たこと聞いた気がする」
「今回は本当にしません」
「“今回は”って言った」
「言葉の綾です」
アレクシスは納得していない顔をした。
その隣でディルヴァンが口を開く。
「俺も行く」
「なりません」
ヴァレンティス家の騎士が即座に返す。
「でも、もし魔獣が来たら」
「護衛騎士がおります」
「俺も戦える」
「存じております」
騎士は一歩も引かない。
「ですが、今回ディルヴァン様に求められている役割はございません」
その一言で、彼が止まった。
強い。
剣が使える。
だから何かできる。
それは間違っていない。
でも「できる」と「今必要とされている」は同じではない。
ディルヴァンは拳を握り、しばらく黙っていた。
「……分かった」
悔しそうだった。
それでも、押し切らなかった。
俺はその横顔を見ながら、何も言わなかった。
褒める場面ではない気がした。
彼自身が飲み込んだことに意味がある。
◇
旧水路跡は、別邸から馬で十分もかからない草地の先にあった。
昔は川から水を引いていたらしいが、今はほとんど埋まり、石組みの隙間から草が伸びている。
その中央に、不自然なほど大きな円形の石台が残っていた。
五方向へ伸びる溝。
その先に、一つずつ石の窪み。
「図案と同じです」
オルティアが刺繍布を広げる。
風に煽られないよう、使用人が両端を押さえた。
「外側の五つの花が、この石窪だと思います」
術師が一つずつ確認する。
「ただ、三ヶ所で導線が欠損しております」
「壊れているのですか?」
「完全には死んでおりません。ただ、この状態では魔力が途中で抜けます」
俺は石台から少し離れた場所で目を閉じた。
魔力を探る。
昨日までよりずっと濃い。
空気の中だけではない。
足元から押し上げられてくる。
「下にあります」
「何がです?」
術師が聞く。
「魔力です。森から流れてきているというより、地下を通ってここまで来ています」
「設備自体はまだ魔力脈と繋がっている……」
術師が石台へ手を当てる。
淡い光が溝へ走る。
しかし、途中で途切れた。
「やはり駄目です」
もう一度。
同じ。
「魔力が足りない?」
オルティアが尋ねる。
「量ではありません。壊れた部分から逃げています」
俺は途切れた溝を見る。
「そこを魔力で繋げることは?」
術師がこちらを見る。
「一時的になら可能です。ただし、三本同時となるとかなりの魔力量が必要になります」
「どれくらいでしょう」
「成人術師を数名集める程度は」
その答えを聞いた瞬間。
自分の中で、何かが噛み合った。
俺には細かい制御は苦手でも、量だけはある。
「私なら足りますか?」
グランセル侯爵がすぐこちらを見る。
「アルセリード嬢」
「無茶をしたいわけではありません」
「六歳の方がその台詞を仰ると、余計に心配になります」
少しだけ苦笑が混じっていた。
それでも声の奥は真剣だ。
「術師の方に制御していただいて、私は必要な量だけ渡すことはできませんか?」
術師が石台を見る。
「理屈上は可能です」
「危険は」
侯爵が問う。
「我々が流量を管理いたします。アルセリード嬢には、あくまで魔力源になっていただく形です。ただし、負荷が出た場合は即座に中止いたします」
「お父様」
オルティアが言った。
侯爵が娘を見る。
「アルセリード様だけにさせるわけではありません」
俺も彼女を見る。
「わたくしが順番を読みます。術師様が流れを作ります。アルセリード様は、そのための魔力を貸してくださるだけです」
その言い方が、妙に胸へ残った。
貸すだけ。
全部やるわけじゃない。
俺がいなければ難しい。
でも、俺だけでもできない。
「……そうですね」
自然と笑っていた。
「何です?」
「いえ。いい役割分担だと思いまして」
オルティアも、ほんの少しだけ笑った。
グランセル侯爵は長く息を吐いたあと、術師へ目を向けた。
「絶対に無理をさせないでください」
「承知しております」
次に俺を見る。
「アルセリード嬢。少しでも苦しいと感じたら、すぐに手を離してください」
「はい」
「我慢して続けることは、勇敢とは呼びません」
その言葉には重みがあった。
「覚えておきます」
許可が出た。
◇
術師が俺の前に立つ。
「一気に流さないでください。アルセリード嬢は魔力量が非常に大きいため、まずはごく少量から」
「分かりました」
問題はそこだ。
量はある。
ありすぎる。
細くする方が難しい。
ヴィクトル先生との訓練を思い出す。
出せることと、扱えることは違う。
大きな器を持っているからといって、一滴だけ注ぐのが上手いわけではない。
息を吐いた。
石台へ手を向ける。
ほんの少し。
そう意識した瞬間、紫色の魔力が溝へ走った。
「多い!」
「すみません!」
「絞って!」
急いで抑える。
強すぎる水流の栓を、指先だけで閉めようとしているような感覚だった。
「そこです。その量を維持してください」
「……はい」
難しい。
でも、できる。
術師が俺の魔力を細い導線へ分け、壊れた溝の隙間を繋いでいく。
「オルティア嬢、順番を」
オルティアは刺繍を見た。
「左下からです」
一つ目。
術師が魔力を通す。
石窪の紋様が淡く光った。
「次は右上」
二つ目。
「その次は下です」
三つ目。
石台の中で、長い間眠っていた何かが一つずつ目を覚ます。
光は強くない。
それでも、足元の魔力が明らかに動き始めた。
地下に溜まっていた大きな流れが、錆びついた扉を一枚ずつ押し開けていくようだった。
「あと二つです」
オルティアの声が聞こえる。
その瞬間。
森の方角から、獣の咆哮が響いた。
近い。
さっきまで遠くに聞こえていたものとは違う。
腹の底へ直接落ちてくるような低い声だった。
護衛騎士が一斉に剣を抜く。
「魔獣を確認!」
反射的に振り向きそうになった。
「アルセリード嬢!」
術師の声が飛ぶ。
「今、魔力を切らないでください!」
俺は前へ向き直る。
そうだ。
俺の役目は戦うことじゃない。
「オルティア様!」
「次は右下です!」
彼女の声も震えていた。
でも、目は刺繍から逸れない。
金属がぶつかる音が響く。
騎士の怒声。
獣の唸り。
怖い。
見えない方が、むしろ怖かった。
背中側で何が起きているのか分からないまま、自分の役目だけを続ける。
「最後、左上!」
五つ目。
光が走った。
次の瞬間、石台全体へ古い紋様が浮かび上がる。
地面の奥から、今までとは違う振動が伝わった。
一瞬、失敗したのかと思った。
けれど。
「流れました!」
術師が叫ぶ。
「魔力が外側へ分散し始めています!」
胸の奥が跳ねる。
成功した。
少なくとも第一段階は。
その時だった。
今度は二つ、続けて咆哮が響いた。
「追加二頭!」
「右から来るぞ!」
騎士たちの声が重なる。
術師の顔色が変わった。
「侯爵様、このまま安定するまで魔力供給を切れません!」
「どれくらいです」
「数分。途中で切れば流れが戻ります!」
数分。
今なら短い時間に聞こえる。
けれど、魔獣を前にした数分は別だ。
剣戟の音が近づく。
地面を蹴る音。
何か重いものが倒れる音。
「一頭抜けた!」
騎士の声。
「お嬢様!」
ミレーヌが叫ぶ。
俺は石台へ魔力を流したまま動けない。
オルティアも刺繍から目を離せない。
グランセル侯爵が俺たちの前へ出る。
「二人とも下がれるか」
「今は無理です!」
術師が答える。
「魔力が安定するまでは!」
黒い影が視界の端を走った。
大きい。
爪狼に似ているが、肩の高さが成人の腰近くまであり、黒い毛の隙間を青白い魔力が血管のように走っている。
騎士が間へ入る。
魔獣が前脚を振る。
剣で受けた騎士の身体が大きく後ろへ押された。
「っ……!」
もう一人が横から斬り込む。
だが、刃が魔力に弾かれた。
魔獣が向きを変える。
石台。
こちらだ。
違う。
俺たちを狙っているんじゃない。
ここに流れ始めた魔力へ引かれている。
「施設に寄ってきています!」
術師が叫ぶ。
つまり、補助施設を動かしたことで、今度はこちらが魔獣を呼ぶ灯火になった。
嫌な理屈だけは綺麗に通っている。
「止められますか!」
俺が聞く。
「今止めれば祠へ戻ります!」
それでは意味がない。
調査隊が帰れない。
森の魔力も下がらない。
「なら続けます!」
自分でも驚くほど、声ははっきり出た。
「ヴェルシアナ!」
遠くから聞き慣れた声がした。
まさか。
振り向く余裕もない。
次の瞬間、金属音がひときわ近くで弾けた。
魔獣の身体が横へ逸れる。
「ディルヴァン!?」
そこにいた。
剣を両手で構えた九歳の少年が、騎士の横へ立っている。
ヴァレンティス家の騎士も一緒だった。
「どうしてここに!」
「後で怒られる!」
「そういう問題では――」
「分かってる!」
ディルヴァンの目は俺を見ていなかった。
魔獣だけを見ている。
「補助施設の方へ魔獣が抜けたって報告が来たから、護衛と一緒に来た!」
単独で飛び出したわけではない。
それでも絶対怒られる。
たぶん相当怒られる。
でも、それは今じゃない。
「ディルヴァン様、下がってください!」
護衛騎士が言う。
「一頭だけなら俺も見られる!」
「訓練ではございません!」
「分かってるって!」
魔獣が踏み込む。
その瞬間、ディルヴァンの表情が変わった。
「右前脚」
「何?」
騎士が聞き返す。
「踏み込む時だけ魔力が右前脚に集まってる!」
俺には分からない。
でも、動く魔力を見るのは彼の得意分野だ。
「右を潰せば動き落ちる!」
「承知!」
騎士がすぐ応じる。
子供の言葉だからと無視しない。
使える情報なら使う。
次の突進。
騎士が正面から受けず、左へ誘導する。
ディルヴァンが斜めから踏み込み、剣へ薄く魔力を纏わせた。
切る。
いや。
違う。
刃を深く入れるのではなく、右前脚へ集まった魔力の流れだけを崩している。
魔獣の踏み込みがずれた。
巨体が土を削りながら横へ滑る。
「今!」
騎士が一斉に動いた。
魔獣の進路が石台から外れる。
ディルヴァンは追わない。
俺はそこに気づいた。
以前なら、倒せると思えばそのまま前へ出ていたかもしれない。
今は違う。
「倒さなくていいです!」
俺が叫ぶ。
「分かってる!」
ディルヴァンが返す。
「ここから離せばいいんだろ!」
胸の奥が、強く鳴った。
彼は理解している。
自分が一番強いところを見せる必要はない。
勝つ必要すらない。
必要なのは、俺たちがやるべきことを続けられるよう時間を作ることだけ。
「じゃあ、お願いします!」
「任せろ!」
それだけでよかった。
俺は前へ向き直る。
紫色の魔力を石台へ流す。
オルティアは刺繍を読む。
術師は流れを整える。
後ろではディルヴァンと騎士たちが魔獣を止めている。
誰も同じことをしていない。
なのに、全員が同じ結果へ向かっている。
以前、地図の上で見た赤い線が頭をよぎった。
前へ出る者。
退路を作る者。
補給を支える者。
地図の上では小さな印にしかならない役目まで含めて、一つの任務になる。
あの時は分かったつもりだった。
今ようやく、それが身体に落ちた。
「アルセリード嬢、流量が上がっています!」
「すみません!」
集中が乱れた。
すぐ絞る。
腕が熱い。
魔力はまだ十分にある。
むしろ多すぎるくらいだ。
問題は、細い流れを維持すること。
巨大な湖から針の穴へ水を通し続けるような感覚で、少しでも気を抜けば紫色の魔力が一気に溢れそうになる。
「まだですか!」
俺が聞く。
「もう少し!」
術師が答える。
その「もう少し」が遠い。
汗が頬を伝う。
指先が震える。
「ヴェルシアナ」
隣から声がした。
オルティアだった。
「何です?」
「手、震えています」
「少しだけです」
「嘘です」
刺繍から目を離さないまま言う。
「かなり震えています」
「でもまだできます」
「できることと、全部やることは違うのでしょう?」
息が止まりそうになった。
俺が以前、誰かへ言ったようなことを。
今度は自分が返されている。
「……そうでしたね」
少し笑う。
「術師様、もう少しそちらへ負担を回せますか」
「可能です。アルセリード嬢は量を維持することだけ意識してください」
「お願いします」
流れの形が変わる。
俺が細かく制御しようとしていた部分を術師が引き取る。
急に楽になった。
一人でやろうとした方が、むしろ効率が悪かった。
そんな当たり前のことが、今は妙に可笑しい。
「オルティア様」
「何でしょう」
「ありがとうございます」
「あとで言ってください」
彼女の声は少し震えている。
「今は、こっちに集中してください」
「はい」
◇
魔獣の咆哮が再び響いた。
「二頭目、来ます!」
騎士の声が飛ぶ。
ディルヴァンが振り向いた。
森側から、もう一つ大きな影が現れる。
「そっちは俺が――」
言いかけたところで、彼の言葉が止まった。
少し前までなら、そのまま「俺が行く」と飛び込んでいただろう。
けれど。
「……いや」
ディルヴァンはすぐ近くの騎士を見る。
「二人で右を止めて! 俺は今のやつをこっちへ行かせない!」
騎士が頷いた。
「承知しました!」
一人で全部やらない。
たったそれだけ。
でも、それは彼にとって剣技より難しいことなのかもしれない。
俺はその姿を見ている余裕などないはずなのに、なぜか目の奥へ焼きついた。
強い人間が誰かを信じて役目を渡すことは、弱くなることではない。
むしろ、自分一人では届かない場所まで手を伸ばすための方法なのだろう。
「安定します!」
術師が叫んだ。
石台の五つの窪みが同時に光る。
地下で何かが大きく動いた。
今度の振動は怖くなかった。
詰まっていた水が一気に通り始めるような、重いながらも方向を持った動きだった。
俺の感覚の中で、森の中心へ集まっていた巨大な魔力の塊が少しずつほどけていく。
「……下がってる」
「分かりますか?」
「はい!」
はっきり分かる。
「祠の方の圧が弱くなっています!」
術師が計測器を見る。
「こちらでも確認! 濃度低下!」
その声が広がった瞬間。
戦っていた魔獣の動きが変わった。
身体を覆っていた青白い魔力が一度大きく揺らぎ、踏み込みが鈍る。
「今!」
ディルヴァンが叫ぶ。
騎士たちが一斉に前へ出た。
一頭を横へ追い込み、もう一頭の進路を塞ぐ。
魔獣はなおも祠の方角を見たが、さっきまでのような狂った勢いはない。
魔力に引かれる力が弱くなっている。
「追わなくていい!」
ディルヴァンが声を飛ばした。
「森と反対へ逃がせ!」
自分が仕留めることより、目的を優先している。
その判断が少し嬉しくて。
でも、それを本人へ言うのは後にしようと思った。
絶対に調子に乗る。
◇
石台の光が安定した。
「アルセリード嬢、もう手を離して大丈夫です」
術師の言葉に、俺はゆっくり魔力を切った。
指先が軽く痺れている。
足元も少し頼りない。
でも、倒れるほどではない。
「ヴェルシアナ!」
ミレーヌがすぐ支えてくれた。
「大丈夫です」
「座ってください」
「はい」
ここで「まだ平気です」と言ったら、たぶん怒られる。
素直に座る。
オルティアも隣へ膝をついた。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「今度は本当です?」
「今度は本当です」
彼女は疑わしそうだった。
けれど、やがて息を吐く。
その時。
遠くから馬の蹄の音が聞こえた。
一頭ではない。
何頭も。
全員がそちらを見る。
古道側。
木立の向こうから最初の騎士が姿を現した。
「調査隊です!」
誰かが叫ぶ。
次々と人影が出てくる。
負傷者を支える者。
馬へ乗せられた術師。
泥だらけになった騎士たち。
人数を数える。
一人。
二人。
三人。
俺には誰が誰なのか分からない。
でも。
「全員おります!」
迎えに出た騎士の声が響いた。
その一言で。
身体の奥に張っていたものが、一気にほどけた。
「……よかった」
ようやく、それだけ言えた。
オルティアも隣で大きく息を吐いた。
彼女は刺繍布を胸元へ抱えている。
その布がなければ。
古道を見つけられなかった。
設備の起動順も分からなかった。
俺の魔力だけあっても、何もできなかった。
「オルティア様」
「はい?」
「ありがとうございました」
「さっきも聞きました」
「今度は、ちゃんと言っておきたくて」
彼女がこちらを見る。
「古道を見つけたのも、起動順を見つけたのもオルティア様です。私一人では、場所すら分かりませんでした」
「でも、アルセリード様の魔力がなければ動きませんでした」
「それは私の役目です」
「……」
「オルティア様の役目を、私が取ることはできません」
灰色の瞳が揺れた。
「私はずっと」
オルティアが小さく言った。
「誰かが自分より上手だと、負けたような気がしていました」
俺は黙って聞く。
「今日も、アルセリード様の方が魔力が多くて、ディルヴァン様の方が戦えて……最初は、わたくしがここにいて何になるのだろうと思ったんです」
彼女の腕の中で、古い刺繍布が少しだけ揺れる。
「でも、刺繍なら分かりました」
「はい」
「わたくしにしか、分からないことがありました」
「ありました」
「……それって」
オルティアは少し困ったように笑った。
「思っていたより、嬉しいんですね」
その顔を見た時。
最初に会った頃の彼女を思い出した。
転びそうになっても、誰かに弱いところを見せる方を嫌がった少女。
負けることより、負けた自分を許せなかった少女。
今は、自分が一番でなくても笑っている。
自分にしかできないことを、一つ見つけたから。
「でしたら、よかったです」
「それだけですか?」
「他に何を?」
「……もう少し何かあるでしょう」
「とても格好よかったですよ」
言った瞬間。
オルティアが固まった。
「……え?」
「刺繍を見ている時。誰より迷っていなかったので」
「格好……」
「はい」
「わたくしが?」
「そうですよ」
彼女の頬が、分かりやすく赤くなった。
何だ。
褒められるのには弱いらしい。
「顔、赤いですよ」
「言わないでください!」
珍しく強い声が返ってきた。
その反応が少し可愛くて、俺は笑いそうになる。
今度は気のせいでは誤魔化せなさそうなので、やめておいた。
◇
「お前」
後ろから声がした。
振り返る。
ディルヴァンが立っていた。
髪は乱れ、袖には土がついている。
頬にも細い擦り傷があった。
「怪我していますよ」
「これくらい平気」
「さっき侯爵様に『我慢して続けることは勇敢ではない』と言われました」
「俺は聞いてない」
「今聞きましたね」
「……」
ディルヴァンが黙る。
「治療してください」
「後で」
「今」
「分かったよ」
少し不満そうに返してから、彼は俺の手元を見る。
「お前も震えてるじゃん」
「これは魔力を使ったからです」
「じゃあお前も治療」
「それは治療するものでは」
「休めってこと」
言い返せない。
「分かりました」
素直に答えると、なぜかディルヴァンが少し驚いた。
「何です?」
「いや。普通に言うこと聞くんだなと思って」
「私を何だと思っているんです」
「結構頑固」
「あなたにだけは言われたくありません」
彼が笑う。
それから、戻ってきた調査隊を見た。
「全員帰れたな」
「はい」
「俺、結局一匹も倒してない」
「倒す必要ありませんでしたから」
「うん」
返事が早かった。
俺は少しだけ彼を見る。
「悔しくないんですか?」
「ちょっとは」
やっぱり。
「でも」
ディルヴァンは剣の柄に手を置いた。
「お前らがあれ動かしてる間、近づけなかった。それでいいんだろ」
「……はい」
「じゃあいい」
以前なら、そう簡単には言えなかったかもしれない。
強いこと。
早いこと。
自分で終わらせること。
それが彼の中では、たぶんずっと同じ場所にあった。
でも今日は。
倒さなくても役に立てた。
自分一人で全部やらなくても、必要とされた。
彼はまだそれを言葉にしないだろう。
それでも、もう知ってしまった。
誰かに任せることは、自分の役目がなくなることではない。
「ディルヴァン」
「何?」
「ありがとうございました」
「何が?」
「止めてくださったことです」
「俺だけじゃないけど」
一瞬、俺は言葉を失った。
それから笑った。
「そうですね」
「騎士の人たちもいたし」
「はい」
「お前らが魔力流してなかったら、たぶんもっと増えてたし」
「はい」
「オルティアがあれ見つけなかったら、そもそも動かなかったし」
「はい」
「……何?」
「いえ」
「笑ってるだろ」
「少しだけ」
「なんで?」
たぶん。
嬉しかったからだ。
「内緒です」
「またそれかよ」
ディルヴァンが不満そうに眉を寄せる。
けれど俺は答えなかった。
今まで一人で全部やった方が早いと言っていた少年が、自然に他人の役目を数えている。
それを説明してしまうより、本人がいつか自分で気づいた方がいい気がした。
◇
夕方。
グランセル侯爵家の別邸へ戻る頃には、森を覆っていた異常な魔力濃度もかなり下がっていた。
祠そのものの修復には、これから専門の術師を呼ぶ必要があるらしい。
魔力を吸着していた黒い石についても、原因はまだ分からない。
全部が解決したわけではない。
それでも、今日失われるはずだったものは守れた。
調査隊は戻った。
集落にも大きな被害はない。
補助施設も再び動き始めた。
そして何より。
誰か一人が全部をやった結果ではなかった。
俺が魔力を出したからでも。
ディルヴァンが剣を振ったからでも。
オルティアが刺繍を読んだからでもない。
ミレーヌが記録の違いを拾い、アレクシスが時間の流れを見つけ、大人たちが判断し、騎士が走り、術師が制御した。
どれか一つが欠けていたら、同じ結末にはならなかっただろう。
地図を見ていた時、俺たちはそれぞれ違う場所から同じ景色を見ていた。
今日、その意味をようやく理解した気がする。
一人の視界では届かない場所がある。
一人の手では持ちきれないものがある。
それは弱さではない。
最初から世界の方が、一人で抱えるには広すぎるだけなのだ。
馬車へ乗る前。
オルティアが俺の袖を小さく引いた。
「アルセリード様」
「はい?」
「次に刺繍をする時」
少しだけ視線を逸らす。
「もう少し難しいものを教えても、よろしいですか」
「簡単なものではなく?」
「今日、わたくしが役に立ったのを見たでしょう?」
さっきまで赤かった頬は、もういつもの誇らしさを取り戻している。
「でしたら、刺繍については少しくらい信用してください」
俺は思わず笑った。
「元々、信用していますよ」
「本当ですか?」
「はい」
「では次は逃げないでください」
「逃げてはいません」
「花一つで三回ため息をついていました」
「……よく覚えていますね」
「得意なことなので」
胸を張る。
その姿は、最初に会った頃と同じようでいて、少し違って見えた。
自信がある。
負けず嫌いでもある。
でも今は、その強さが誰かより上へ立つためだけのものではない。
誰かの隣へ立つためにも使えることを、彼女自身が知り始めている。
「では」
俺は手を差し出した。
「次もお願いします、オルティア先生」
「……先生?」
「刺繍については私よりずっと上ですから」
「またそういうことを平然と言う……」
呆れたように言いながら。
オルティアは俺の手を取った。
指先が触れた瞬間、なぜか少しだけ力が強くなる。
「次は、もっと綺麗に刺していただきますから」
「努力します」
「努力ではなく、上達してください」
「厳しいですね」
「得意ですので」
その答えが妙に彼女らしくて。
俺は今度こそ、声を出して笑った。
今日一日、ずっと張り詰めていた糸がようやく緩む。
森の向こうでは、夕陽が雲の切れ間から差し込み、古い木々の輪郭を金色に染めていた。
同じ景色でも、朝とは違って見える。
きっと景色が変わったわけではない。
俺たちの立つ場所が、少しだけ変わったのだ。




