第43話 悪役令嬢は、散らばった印を線にする
第43話 悪役令嬢は、散らばった印を線にする
グランセル侯爵家から届いた招待状には、これまでの茶会や刺繍会とは少し違う予定が記されていた。
王都から半日ほど離れた領地の別邸で、数日間を過ごす小さな滞在会を開くという。
招待状の最後には、オルティア自身の文字で一文だけ添えられていた。
今度は、わたくしの好きな場所を見ていただきたいのです。
その言葉を読んだ時、俺は素直に嬉しいと思った。
以前、俺は彼女に「あなたが好きなものなら、どうして好きなのか聞いてみたい」と伝えた。今回は、その返事をもらったような気がしたのだ。
誰かの好きなものを見せてもらうというのは、その人が普段閉じている部屋の扉を少しだけ開けてもらうことに似ている。すべてを知れるわけではないが、外から眺めているだけでは見えなかったものを一つ知ることができる。
だから、行ってみたかった。
父さんも母さんも反対しなかった。グランセル侯爵家とは以前から家同士の付き合いがあり、滞在には十分な護衛もつくという。
ただ、出発前日になって一つだけ予定外の話が加わった。
「ディルヴァンも来るんですか?」
アレクシスから届いた手紙を読みながら呟くと、向かいで荷物を確認していたミレーヌが顔を上げた。
「ディルヴァン様もですか?」
「はい。ヴァレンティス家の方々が、グランセル領で最近増えている魔獣の様子を確認するそうです」
「では、偶然同じ時期に?」
「そうみたいですね」
アレクシス自身も、王家から状況を確認する者に同行する形で数日滞在するらしい。
とはいえ、手紙に書かれている内容を見る限り、今すぐ大規模な討伐が必要なほどの被害ではなかった。
森の外側で、低級魔獣の目撃が少し増えた。
夜になると家畜が落ち着かない。
森の近くで、見慣れない光を見たという領民もいる。
実害として確認されているのは、家畜が一頭傷ついた程度。本格的な脅威と判断するには材料が足りないため、まず現地を確認するという話だった。
「少し気になりますね」
ミレーヌが言った。
「私たちが森の奥へ入ることはないでしょうし、騎士の方もいます」
「はい。ただ……気になるものは、気になります」
「私もです」
オルティアの領地を見るのは楽しみだったが、そこへ魔獣という言葉が加わった瞬間、明るい景色の端に細い影が一本差したような気分になる。
まだ恐れるほどではない。
けれど、無視していいとも思えなかった。
◇
グランセル侯爵領は、王都よりも空が広かった。
街道を進むほど建物は少なくなり、代わりに畑と林が増えていく。遠くには緩やかな山並みが続き、その手前を一本の川が陽光を弾きながら横切っていた。
「綺麗ですね」
ミレーヌが馬車の窓へ顔を向ける。
「はい」
俺も同じ景色を見る。
ただ、最近は景色を綺麗だと思うだけでは終わらなくなっていた。
道の両側には低い石垣が続き、その向こうへ畑が広がっている。川から引かれた細い水路が土地を縫い、遠くには荷車が通る道も見えた。
父さんの書斎で領地の記録や古い地図を見るようになってから、実際の土地を見る時にも、自然と「どうやってここを維持しているのか」が気になる。
水はどこから来るのか。
人はどこを通るのか。
作物はどこへ運ばれるのか。
地図の上にあった細い線が、土や石や人の足音を持って目の前へ立ち上がる。その感覚が、俺は思っていた以上に好きだった。
別邸へ到着すると、オルティアは玄関前まで迎えに出ていた。
「ごきげんよう、アルセリード様」
「ごきげんよう、グランセル様。お招きいただきありがとうございます」
「来てくださって嬉しいです」
最初に会った頃と比べれば、随分自然に笑うようになった。
「今日は庭園を見ていただきたいと思っていたんです」
「楽しみにしていました」
「本当ですか?」
「もちろんです」
それだけで、オルティアの表情が少し明るくなる。
「刺繍よりは退屈しないと思います」
「刺繍も退屈ではありませんでしたよ」
「『面白いより難しいが勝っています』と仰っていたでしょう」
「……覚えていたんですね」
「それくらい覚えています」
少しだけ視線を逸らす。
その反応が年相応で、俺は小さく笑った。
「何です?」
「何でもありません」
「今、笑いましたよね?」
「気のせいです」
「そういう誤魔化し方をなさるのですね」
以前なら彼女の方がこちらを探るように見ていたのに、今はこうして不満をそのまま言ってくる。それだけ距離が縮まったのだと思えば、悪い気はしなかった。
◇
庭園は想像していたよりずっと広かった。
花を眺めるだけの場所ではなく、染料に使う植物や薬草、香草、果樹まで区画ごとに育てられている。
オルティアは、刺繍と同じくらい植物にも詳しかった。
「こちらの花は、昔は糸を染める時によく使われていたそうです」
小さな紫色の花を指す。
「葉と茎を一緒に煮出すと、少し青みのある色になるんです」
「刺繍糸にも?」
「ええ。今はもっと鮮やかに染める方法がありますけれど、古い図案を再現する時には、当時の染め方を使う方もいらっしゃいます」
「そこまで再現するんですね」
「色が違うと、同じ模様でも印象が変わりますから」
話している時のオルティアは楽しそうだった。
刺繍会でもそうだったが、好きなものについて話す時、人は少しだけ声が変わる。
次に彼女が示したのは、腰ほどの高さしかない低木だった。
「こちらは実を乾燥させて、香り袋に使います」
「食べられます?」
「食べないでください」
「聞いただけです」
「本当に?」
「なぜ疑うんです」
「今の聞き方が、少しディルヴァン様に似ていましたので」
名前が出た直後だった。
「今、俺の話した?」
庭園の向こうから声が飛んできた。
見ると、ディルヴァンとアレクシスが騎士二人を伴って歩いてくる。
「聞こえたんですか?」
「聞こえた」
「どこから?」
「そこ」
指された場所は思ったより遠い。
「耳までいいんですね」
「結構な」
少し得意げだ。
オルティアが姿勢を整え、一礼する。
「ごきげんよう、ヴァレンティス様。アレクシス殿下」
「ごきげんよう、グランセル嬢」
アレクシスが穏やかに返し、ディルヴァンも即座に貴族らしい態度へ切り替えた。
「この度は滞在の機会をいただき、ありがとうございます」
こういう時だけ見ると、本当に非の打ち所がない。
普段を知らない相手なら、九歳にして完成された少年だと思うだろう。
実際には、庭へ出れば真っ先に知らない木の実を触ろうとする方なのだが。
「魔獣の確認はもう終わったのですか?」
俺が尋ねる。
「今日はまだ、領民と騎士から話を聞いただけ」
ディルヴァンはすぐ普段の口調へ戻った。
「森の東と西、両方で見たって人がいるらしい」
「種類は?」
「角兎とか、小型の爪狼。どれもそんなに強くない」
「同じ群れではなさそうですね」
「うん。場所も結構離れてる」
アレクシスが続ける。
「今のところ大きな被害は出ていないみたい。ただ、目撃される場所が少しずつ増えているんだって」
「人里へ近づいている?」
「それもまだ分からないらしい」
情報は少ない。
低級魔獣が森の外へ出る理由なら、餌不足や繁殖、縄張り争いなどいくらでも考えられる。
今の段階で、一つに決めるべきではない。
「じゃあ、まだ事件ってほどじゃないな」
ディルヴァンが言う。
「だから大人たちも、まず見るだけだって」
その言葉を聞いた時、俺もひとまず頷いた。
まだ、何かが起きたと決まったわけではない。
◇
昼食のあと、俺たちは別邸の一室へ案内された。
俺たちが魔獣の話に興味を示したため、グランセル侯爵が「子供が見ても問題のない範囲であれば」と簡略化した領地図と報告書を用意してくれたのだ。
当然ながら、軍事上重要な情報などは含まれていない。
魔獣の目撃地点。
家畜被害。
森の外側で確認された足跡。
川沿いで計測された、ごく小さな魔力反応の変化。
そういった内容が、日付とともにまとめられている。
「これ、触ってもいい?」
ディルヴァンが地図へ手を伸ばす。
「今回は、最初から触れてよいと伺っています」
オルティアが答える。
「よかったですね」
俺が言うと、ディルヴァンがこちらを見る。
「まだ言う?」
「少しだけ」
「地図広げただけなのに」
「先に聞けば済んだ話でしょう」
アレクシスが笑った。
「その話はもういいから、見ようよ」
俺たちは地図を囲む。
最初にミレーヌが記録の日付を確認した。
「最初の目撃はこちらですね」
森の東側。
角兎が三羽。
「次が西」
ディルヴァンが別の記録を見る。
「爪狼が一頭」
「かなり離れていますね」
「うん。少なくとも同じ集団じゃなさそう」
さらに北。
その次は川沿い。
目撃された魔獣の種類も違えば、場所も統一されていない。
「本当に散っていますね」
アレクシスが呟く。
俺は机の端に置かれていた小さな木片を見つけた。
「目撃地点に印を置いても?」
「ええ、どうぞ」
オルティアが頷く。
一つずつ木片を置く。
東。
西。
北。
川沿い。
並べてみても、やはり規則性は見えない。
「何か分かる?」
ディルヴァンが聞く。
「まだ何も」
「俺、足跡の記録見る」
彼はすぐ別の紙を引き寄せた。
アレクシスは日付の書かれた記録を古い順に並べ始める。
「……少し変だね」
「何がです?」
「新しい報告ほど、森から離れてる」
その言葉で、ミレーヌも記録を覗き込んだ。
「本当です。最初は森の縁なのに、そのあとは街道の近く、その次は家畜小屋まで来ています」
俺はもう一度地図を見る。
木片そのものは散っている。
けれど日付を加えると、少し違うものが見え始めた。
森の近くにあった点が、時間とともに外へ押し出されている。
「……森から離れている」
口にすると、ディルヴァンが顔を上げた。
「魔獣が?」
「そう見えます」
「餌探しじゃない?」
「可能性はあります」
俺はすぐに否定しなかった。
「ただ、餌が目的なら、もっと同じ場所へ集まってもよさそうです」
「家畜小屋とか?」
「はい。でも目撃地点は広がっています」
ミレーヌが報告書を指す。
「種類も違います。角兎と爪狼では、食べるものも行動も同じではないですよね?」
「違う」
ディルヴァンが答える。
「じゃあ、何で同じ時期に外へ出るんだ?」
その疑問が残る。
俺は地図を見る。
先日、王宮騎士団で黒角獣の進路を見た時も、最初に見えた意味と実際の意味は違っていた。
追われているように見えた線が、説明を受ければ相手を誘導するための道へ変わった。
目に見える動きだけで、理由まで決めつけるのは危ない。
「……逃げている可能性は?」
俺が言うと、ディルヴァンの表情が変わった。
「何から?」
「まだ分かりません」
「でも、何でそう思う?」
「同じものを求めて集まっているようには見えないからです。だったら逆に、別々の魔獣が同じ場所から離れようとしている可能性もあるのかな、と」
「森の中に、嫌なものがある?」
アレクシスが地図を見る。
「まだ仮定です」
俺は念を押した。
一つの考えに決めてしまうと、その形に合うものだけを拾い始める。それは避けたかった。
「魔獣以外の記録も見られますか?」
オルティアが首を傾げる。
「魔獣以外?」
「動物や植物です」
「どうして?」
「もし魔獣だけの問題なら、魔獣にだけ変化が出るかもしれません。でも森そのものに何か起きているなら、他にも変化があるのではないかと思って」
オルティアは少し考えたあと、何かを思い出したように顔を上げた。
「庭師の記録があります」
「庭師?」
「別邸周辺だけでなく、森の入口にある薬草の状態も定期的に確認しています」
「見せていただけますか?」
「確認してきます」
使用人が動こうとしたが、オルティアは先に立ち上がった。
「保管場所を知っていますので」
そのまま部屋を出ていく。
数分後、彼女は薄い冊子を二冊抱えて戻ってきた。
「こちらです」
中には植物の種類、生育状態、採取量などが細かく記されている。
俺には知らない植物名も多い。
だからこそ、最初に変化を見つけたのはミレーヌだった。
「これ、減っています」
「どれ?」
「魔力草です」
オルティアが記録を覗き込む。
「森の入口に多く生える薬草です。周囲の魔力を少し取り込みながら育つので、土地の状態によって生育量が変わります」
「いつから減ってる?」
ディルヴァンが尋ねる。
「二か月ほど前からですね」
魔獣の目撃が増え始めた時期と近い。
「全部の場所で減っているのですか?」
俺が尋ねる。
「いいえ」
オルティアが頁をめくる。
「東側はかなり減っています。北も少し。でも西側は……」
「増えてる」
ディルヴァンが先に見つけた。
「おかしくない? 土地の魔力が減ったなら全部減るだろ」
「一ヶ所から均等に減っているわけではないのかもしれないね」
アレクシスが言う。
「魔力の流れそのものが変わっているとか」
流れ。
その言葉で、地図の木片が少し違って見えた。
「植物の変化も置いてみましょう」
今度は別の形の木片を使う。
東。
北。
西。
さらに、川沿いで魔力反応に変化が出た場所にも置く。
魔獣の目撃地点とは重ならない。
それでも、すべてを一枚の地図へ置いた瞬間、ミレーヌが小さく息を呑んだ。
「……囲んでいます」
俺も同じものを見ていた。
完全な円ではない。
けれど、魔獣の目撃地点も植物の変化も、森の中心部を避けるように外側へ散っている。
偶然だと言われれば、まだ否定はできない。
ただ、ばらばらだった点の間に初めて細い糸が通ったような感覚があった。
「真ん中に何がある?」
ディルヴァンが尋ねる。
「森です」
「それは見れば分かる」
「もっと細かい地図は?」
アレクシスが凡例を確認する。
「古い道が一本あります」
今ではほとんど使われていないらしい細道が、森の奥へ伸びている。
その終点近くに、小さな印が描かれていた。
「この印は?」
俺がオルティアを見る。
彼女も地図へ顔を寄せる。
「……分かりません」
少し意外だった。
オルティアはこの領地の植物や古い習慣まで知っている。それでも見覚えがないらしい。
「古い地図だから、昔だけ使われていた印でしょうか」
ミレーヌが言う。
「あり得ると思います」
俺はその形を眺める。
四角でも、丸でもない。
左右へ細い線が伸び、中央に花びらのような形が重なっている。
その時。
「……待ってください」
オルティアの声が変わった。
灰色の瞳が、地図の印から動かない。
「知っています?」
「完全に同じではありません。でも……似たものを見たことがあります」
「どこで?」
俺が聞く。
オルティアは少し迷ってから答えた。
「刺繍です」
部屋が一瞬静かになった。
「刺繍?」
ディルヴァンが聞き返す。
「はい。古い図案の中に、これに近い模様があります」
「模様が、地図に?」
「昔のグランセル家では、領地の場所や建物を図案にして刺すことがあったそうなんです」
オルティアは立ち上がった。
「少し待っていてください」
今度の足取りは、先ほどより速かった。
◇
戻ってきたオルティアは、使用人と一緒に大きな布張りの箱を運んできた。
「こちらです」
蓋を開くと、中には古い刺繍布が何枚も重ねて保管されていた。
花や鳥、樹木、紋章らしきものまで、どれも装飾にしか見えない。
オルティアは迷わず一枚を取り出した。
「これです」
生成りの布の中央に、大きな樹木が刺されている。
周囲には銀糸や緑の糸で、いくつもの模様が配置されていた。
そして樹木の根元から少し離れた場所に、地図で見たものとよく似た印がある。
「同じ?」
ディルヴァンが身を寄せる。
「形は少し違います。でも、この部分は古い土地の印です」
オルティアは指先で刺繍をなぞる。
「母から聞いたことがあります。昔は、家にとって大切な場所を風景の刺繍に残すことがあったと」
「この木は何ですか?」
「別邸の南にある古樹だと思います」
「今もある?」
「はい」
「では、この銀色の線は?」
ミレーヌが尋ねる。
「川です」
地図を隣へ置く。
縮尺は違う。
形も正確ではない。
けれど、古樹と川の位置関係は似ている。
「だったら」
アレクシスが刺繍の一点を指す。
「地図のこの印と同じ位置には、何がある?」
オルティアは布を見たまま、しばらく動かなかった。
「……祠です」
「祠?」
「古いものです。今はもう使われていないと聞いています」
「どこに?」
「森の奥です」
空気が変わった。
さっきまで別々の紙に書かれていた情報が、古い刺繍一枚を挟んで同じ場所へ寄り始める。
「最近、誰かが行った記録は?」
俺が尋ねる。
「分かりません。わたくしも実際に見たことはありません」
「なら、大人に伝えよう」
ディルヴァンがすぐに立ち上がった。
俺は思わず彼を見る。
「何?」
「いえ」
「何だよ」
「先に見に行こう、と言うかと思いました」
「俺だってそれくらい分かる」
少しむっとする。
「何か起きてるかもしれない場所なんだろ。知らないところに子供だけで行ったら怒られる」
「怒られることが基準なんです?」
「危ないから怒られるんだろ」
以前なら、興味が先に足を動かしていたかもしれない。
それでも今のディルヴァンは、不満そうな顔をするより先に大人へ知らせるという選択をした。
先日見た討伐記録で、前へ出る者だけでは任務が成り立たず、退路を確保する者や補給を支える者まで必要だと知ったことが、彼の中にも小さく残っているのかもしれない。
「それなら行きましょう」
俺たちは、地図と刺繍をそのまま持ってグランセル侯爵へ報告することにした。
◇
グランセル侯爵は、俺たちの話を途中で遮らなかった。
まず地図を確認し、そのあと魔獣の目撃記録、植物の生育記録、刺繍の順に目を通す。ヴァレンティス家から同行していた騎士も加わり、テーブルの上には先ほどまで子供たちが囲んでいた資料が改めて広げられた。
「魔獣の目撃だけであれば、偶然の可能性もございます」
侯爵は地図上の木片を一つ動かしながら言った。
「植物の変化についても、気候や水分量で説明できる場合はあるでしょう。川沿いの魔力反応も、それだけで異常と断じるには弱い」
声は丁寧だが、言葉に迷いはない。
俺は頷いた。
同じことを考えていた。
「ただし、それぞれ別の現象が同じ時期に重なり、その中心に古い施設があるとなれば、話は変わります」
侯爵の指が、森の中央にある印で止まった。
「一度、確認する価値は十分にございます」
隣に立っていた騎士も頷く。
「祠についての記録を確認なさるのがよろしいかと存じます」
侯爵はすぐ使用人へ視線を向けた。
「古い領地記録を持ってきてくれ。祠や魔力脈に関するものを優先して探せ」
「承知いたしました」
家臣に対する言葉は短く、余計な飾りがない。
しばらくして、分厚い領地記録が数冊運び込まれた。
大人たちが手分けして頁を探し、やがて一人の使用人が声を上げる。
「侯爵様、こちらかと」
開かれた頁には、祠の名称と建造年代が記されていた。
さらに下へ視線を動かした侯爵の表情が、わずかに険しくなる。
「……地下魔力脈の安定化を目的とした施設、とあります」
「魔力脈?」
ディルヴァンが尋ねる。
侯爵は彼へ目を向けた。
「土地の地下を流れる魔力のことでございます。この付近は昔から魔力が集まりやすかったようで、特定の場所へ偏りすぎないよう、流れを分散させるために造られた施設と記されております」
アレクシスが地図を見る。
「では、もし祠に異常が起きているなら、森の魔力の流れそのものが変わっている可能性もある?」
「その可能性はございます」
侯爵は即座に頷いたが、そのまま断定はしなかった。
「ただし、まだ仮定に過ぎません。現地を確認せずに結論を出すべきではないでしょう」
声を荒らげなくても、判断を預かる者の重さが伝わってくる。
「まずは現地を調べる必要がございますね」
俺が言うと、侯爵は一度だけ頷いた。
「ええ。ここまで材料が揃った以上、放置する方が危険です」
それから家臣たちへ視線を移す。
「明朝、調査隊を出す。祠の確認を最優先とし、魔力異常を前提に術師も加えてくれ」
「承知いたしました」
話はそこでまとまるはずだった。
「俺も行く」
ディルヴァンが言う。
「なりません」
ヴァレンティス家の騎士の返事は即座だった。
「でも、俺なら魔力の変化もある程度――」
「調査地点では、未確認の魔力異常が発生している可能性がございます。通常の訓練とは条件が異なりますので、今回はお控えくださいませ」
ディルヴァンの口が閉じた。
不満がないわけではないだろう。
それでも、すぐに「大丈夫だから」と押し切ろうとはしなかった。
「……分かった」
小さな返事だった。
グランセル侯爵は、そのやり取りを見てから静かに言った。
「状況を知ろうとなさること自体は悪いことではありません。ただ、知らない危険へ自ら踏み込むことと、調べることは同じではございません」
ディルヴァンが侯爵を見る。
「……はい」
「戻った者から報告を聞けばよいのです。現地へ行かなければ得られないこともあれば、行かずに得られることもございますから」
叱責ではない。
けれど、九歳の少年に合わせて言葉を曖昧にすることもなかった。
ディルヴァンは少しだけ唇を結んだあと、今度は素直に頷いた。
その時。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
扉が開く。
一人の使用人が、息を切らせながら入ってくる。
「侯爵様!」
「何があった」
侯爵の声から、それまでの柔らかさが消えた。
「北側の家畜小屋付近に魔獣が出ました!」
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
「種類は」
「爪狼が二頭、それと……見たことのない、大きな個体が一頭おります!」
「負傷者は?」
「確認中です。近くにいた者は避難を始めています!」
侯爵はすぐに家臣へ向き直った。
「北側へ騎士を回せ。住民の避難を最優先にしろ。魔獣は集落から引き離せるなら、無理に仕留める必要はない」
「はっ!」
騎士たちが動き出す。
さっきまで資料を読んでいた人物とは別人のようだった。
判断が速い。
必要なことだけを切り分け、言葉にする。
俺は地図へ視線を落とした。
北側の家畜小屋。
数日前から、目撃地点が少しずつ森の外へ伸びていた方向の一つだ。
アレクシスが記録を掴む。
「前の目撃はいつ?」
「二日前です」
ミレーヌが答えた。
「その前は?」
「四日前」
俺の中で日付が並ぶ。
最初はもっと間が空いていた。
間隔が狭くなっている。
「……早くなっています」
口から漏れた。
「何が?」
アレクシスがこちらを見る。
「森から魔獣が出てくる間隔です。最初より短くなっています」
グランセル侯爵もこちらへ視線を向けた。
「どういう意味でしょう、アルセリード嬢」
問い方は穏やかだが、子供の言葉だからと軽く扱っている感じはない。
俺は地図を指した。
「まだ偶然かもしれません。ただ、もし魔獣が何かから逃げて外へ出ているのなら、出てくる間隔が短くなっているのは、その原因が強くなっているということも考えられるかと」
侯爵はすぐには答えず、地図と日付を見比べた。
「……確かに、無視はできませんね」
それから騎士へ向く。
「北側の対応と並行して、森の監視も増やせ。特に鳥や小動物の動きも見ておいてくれ」
「承知いたしました」
俺は地図の中心を見る。
古い祠。
そこから離れるように、魔獣の目撃地点と植物の変化が散っている。
「何かが悪化しているとしたら」
自分でも、少し慎重に言葉を選んだ。
「明日まで同じ状態とは限らないかもしれません」
誰もすぐには返事をしなかった。
その時。
窓の外で突然、大量の鳥が飛び立った。
森の上から黒い影が一斉に空へ押し上げられ、群れは形を崩しながら外側へ広がっていく。
ただ羽ばたいているというより、背後から追い立てられているように見えた。
侯爵が窓へ目を向ける。
騎士たちも同じ方向を見た。
俺はその景色と、机の上の地図を交互に見る。
最初は意味もなく散らばっていた印が、もう同じようには見えない。
魔獣も、植物も、今空へ逃げていく鳥も、それぞれ別のものだったはずなのに、どれも同じ中心から距離を取ろうとしているように見える。
その中心にあるのは、今では誰も使っていないはずの古い祠だった。




