第42話 悪役令嬢は、同じ景色を違う場所から見る
「ディルヴァン、それを先に広げたら説明の順番が変わるよ」
「でも地図だぞ。見れば分かるだろ」
「分からないところを聞くために来たんでしょう」
王宮騎士団の資料室へ入った俺が最初に見たのは、大きな地図を挟んで小さく言い合っているアレクシスとディルヴァンだった。
ディルヴァンはすでに半分ほど紙を開いていて、アレクシスはそれ以上広がらないよう端を押さえている。
「何をしているんです?」
声をかけると、二人が同時にこちらを向いた。
「ちょうどいい。ヴェルシアナも見ろよ」
「だから待ってって言ってるんだ」
アレクシスの制止より早く、ディルヴァンは地図を机いっぱいに広げた。
乾いた紙の音が走り、端に置かれていた木製の重しが一つ転がる。
描かれている地名には見覚えがあった。
「黒角獣が討伐された場所ですか?」
「たぶん」
「たぶんで広げたんですか」
「名前が書いてあるから合ってるだろ」
理屈だけなら間違っていないのが困る。
少し遅れて入ってきたミレーヌも地図を覗き込み、それからディルヴァンを見る。
「説明してくださる方は?」
「そこ」
彼が何気なく指した先には、騎士が二人立っていた。
一人は三十代ほど。もう一人はそれより若い。
どうやら最初からいたらしい。
「……ご覧になっていました?」
ディルヴァンが尋ねる。
「はい」
年上の騎士は深く一礼した。
「地図に触れていただくこと自体は問題ございませんので、ご安心くださいませ」
「ほら」
「結果的に問題がなかっただけでしょう」
俺が言うと、ディルヴァンは少し不満そうに口を尖らせた。
アレクシスが肩を揺らして笑う。
そのまま騎士の説明が始まった。
机には三枚の地図が並べられる。
一枚は通常の地形図。
一枚は傾斜や高低差が細かく書き込まれたもの。
そして最後の一枚には、赤と青の線が複雑に走っていた。
「赤色が討伐隊、青色が黒角獣の移動経路でございます」
「結構重なってるな」
ディルヴァンがすぐ身を乗り出した。
青い線は長く、比較的まっすぐに伸びている。
一方の赤は何度も折れ、谷の奥へ入り、また外へ出ていた。
「でも、戦闘は三回だけですよね」
アレクシスが記録をめくる。
「はい」
「では、線が交わっている場所すべてで戦ったわけではない?」
「お考えの通りでございます。通過した時間が異なる箇所も多くございます」
俺は赤い線を目で追った。
随分と遠回りしている。
「こちらは、ずっと追われていたのでしょうか」
「一部はその通りでございますが、すべてではございません」
騎士が高低差の地図へ指を移した。
「黒角獣は突進時、首と前脚へ魔力を集中させます。平地で正面から受け止めれば被害が大きくなりますので、討伐隊は傾斜や岩場へ誘導しております」
「誘導?」
ミレーヌが赤い線を見る。
「でしたら、この曲がり方は逃げていたのではなく……」
「黒角獣の進路を変えていた?」
ディルヴァンが先に言った。
「はい」
同じ線なのに、意味が変わった。
さっきまで追い立てられているように見えた赤い軌跡が、今度は相手を谷へ引き込むための道筋に見える。
紙は一枚も動いていない。
変わったのは、こちらの見方だけだった。
「ここ、二つに分かれてる」
ディルヴァンが一点を指す。
赤い線が途中で二股になっていた。
「二班に?」
「はい」
「挟んだんですか?」
アレクシスが尋ねる。
「いえ。片方は退路の確保でございます」
俺はもう一度、分かれた線を見る。
一方は青へ近づき、もう一方は谷の外へ離れていく。
「確かに、こちらは戦いに行っていませんね」
「負傷者が出た場合、外へ運び出すための班でございます」
ディルヴァンが眉を寄せた。
「でも、その分戦える人数が減るだろ」
「はい」
「全員で行った方が早く倒せそうなのに」
騎士は反論せず、机の端から一枚の記録を取り出した。
「こちらが当日の負傷記録でございます」
ディルヴァンが覗き込む。
「途中で三人下がってる」
「はい。うち一名は歩行が困難となっております」
その横へ、もう一枚の記録が置かれる。
「もし退路を確保していなかった場合、この三名を戦闘区域内へ残すか、討伐自体を中断する必要がございました」
ディルヴァンは何も言わなかった。
分かれた赤い線を少し長く見てから、別の場所へ視線を移す。
「これは何?」
今度は地図の端にある小さな四角を指した。
「臨時の補給地点でございます」
「ここ、戦ってないよな」
「戦闘は行われておりません」
「じゃあ何を置いてた?」
「水、簡易食、治療道具などでございます」
ミレーヌが別の記録を開いた。
「移動時間が長いです」
彼女の指が時間欄を辿る。
「戦闘より、こちらの方がずっと」
「およそ三倍でございます」
「そんなに?」
ディルヴァンが顔を上げた。
「魔獣はこちらの都合で待ってはくれません。追跡の間にも体力と魔力は消耗いたしますので」
地図の上では、補給地点はひどく小さい。
赤い線のように目立つわけでもなく、戦闘記録の中心になるわけでもない。
それでも、その小さな印がなければ次の戦いまで辿り着けなかった者がいたのだろう。
「目立たないんですね」
ミレーヌが静かに言った。
「何が?」
「必要な場所なのに、地図では小さな印だけなので」
ディルヴァンはその四角をもう一度見た。
「……確かに」
それ以上は言わなかった。
俺も何も足さなかった。
言葉でまとめるより、今見た地図の方がずっと多くを語っている気がした。
◇
資料を見終えたあと、俺たちは施設の外にある訓練区画へ案内された。
実際の谷ほど大きくはないが、傾斜や視界の違いを確かめられるよう、土手や坂道、木製の柵が組まれているという。
「危険のない範囲でしたら、ご自由にご覧くださいませ」
「行っていいって」
ディルヴァンが言う。
次の瞬間には坂を上り始めていた。
「自由に見ることと、一人で先に行くことは同じじゃないよ」
アレクシスが後を追う。
「聞こえてる!」
「なら少し待って!」
止まる気はなさそうだ。
俺とミレーヌも少し遅れて坂へ向かった。
地図の上では、ただの傾斜だった。
実際に立ってみると、先がほとんど見えない。
上るほど足元に重さが増し、背後の景色が少しずつ沈んでいく。
「ここなら来るのが見えるな」
先に上へ着いたディルヴァンが言った。
「下からはこっちが見えにくい」
アレクシスも隣へ立ち、下を見下ろす。
「待つなら強そうですね」
俺も周囲を見る。
右側には柵。
左側には低い土手。
後ろには一本の細道。
「でも、後ろが狭いですね」
「抜けられるだろ」
「一人なら」
ミレーヌが答えた。
ディルヴァンが振り向く。
「四人だと?」
「急いで戻るなら、少し詰まりそうです」
ディルヴァンは細道を一度見ただけで、すぐ別の場所へ移動した。
「じゃあ、こっち」
今度は少し開けている。
「二方向に抜けられる」
アレクシスが言う。
「でも右が見えません」
ミレーヌが一歩下がった。
柵の陰から奥を覗く。
「ここからなら少し見えます」
「俺は見えない」
ディルヴァンが同じ場所へ立つ。
「身長差では?」
「それはずるいだろ」
「何がですか」
そのやり取りを横目に、俺は二人から少し離れて土手の端へ回った。
そこで、さっきまで隠れていた細い道が見えた。
「こちらにも道があります」
三人が振り返る。
「どこ?」
ディルヴァンがすぐ来る。
「ここです」
「さっき見えなかった」
「立つ場所が違いましたから」
アレクシスは少し離れた場所からこちらを見た。
「僕のところからは、ヴェルシアナの道は見えない」
そのまま視線をずらす。
「でも、ディルヴァンの後ろは見える」
「じゃあ、もし後ろから何か来たら分かるな」
「そうだね」
ミレーヌは地図と足元を何度か見比べていた。
「こちら側には、もう一本坂があります」
「どこ?」
「少し先です。地図では、この土手の向こうに」
「行ってみる」
ディルヴァンがまた動く。
誰も同じ場所を見ていない。
ディルヴァンは自分の足で先へ進み、目の前の地形を確かめる。
アレクシスは少し離れた位置から全体を見渡し、ミレーヌは地図と現場のずれを拾っている。
そして俺は、三人が見ていない方向へ目を向けた時に細い道を見つけた。
最初は、まとまりがないようにも見えた。
けれど、集まってくる景色は一人で歩いていた時よりずっと広い。
「……全員で同じ場所に立つ必要、ないのかもしれませんね」
思ったまま口にした。
ディルヴァンが振り返る。
「どういうこと?」
「今も四人で同じ場所にいたら、この道には気づかなかったでしょう」
足元の細道を示す。
「ミレーヌが地図を見ていなければ、向こうの坂も分からなかったと思います」
「アレクシスは?」
「俺の後ろ見てた」
「そこは僕の役目と決まったわけじゃないけど」
「でも見えてた」
ディルヴァンが笑う。
「じゃあ俺は?」
「先に行って、道があるか確かめるのは得意そうです」
「勝手に走る役って言おうとしただろ」
「言っていません」
「顔に出てた」
「出ていません」
アレクシスが笑い、ミレーヌも口元を押さえた。
俺は少しだけ息を吐く。
「とにかく、見えるものが違うなら、その方が便利です」
「じゃあ危ない場所があったら、俺が先に見ればいいな」
「それは合っていそうです」
「危なかったら、そのまま俺が片づける」
「それは少し違う気がします」
ディルヴァンが振り向く。
「なんで?」
「皆が見る前に、あなたが全部終わらせたら」
言いながら、さっきの地図を思い出す。
黒角獣へ向かった者だけではなく、離れた場所で退路を作った者がいて、補給地点を守った者もいた。
誰か一人が全部を担っていたわけではない。
「……次にあなたがいなかった時、困りません?」
ディルヴァンの動きが止まった。
「俺がいない時?」
「あるでしょう」
「まあ……あるけど」
「だったら、危ない場所があることくらいは皆が知っていた方がいいと思います」
「でも俺がやった方が早い」
迷いのない返事だった。
その言葉は、ひどく彼らしかった。
ディルヴァンは誰かの役目を奪いたくて前へ出るわけではない。ただ、自分ならできると分かっているからこそ、誰かが迷っている間にもう身体が動いてしまうのだろう。
彼の強さと危うさは、たぶん同じ場所から伸びている。
「早いでしょうね」
俺は否定しなかった。
「でも、さっきの討伐隊も、一番強い人だけで全部はやっていませんでした」
ディルヴァンの目が少し動く。
「……退路とか?」
「補給も」
ミレーヌが続ける。
「戦っていない方もいました」
ディルヴァンは少し黙った。
アレクシスも急かさない。
「じゃあ、俺が全部やるのは駄目?」
「駄目とは言っていません」
俺は少し考えた。
ここで綺麗な答えを出せるほど、俺だって分かっているわけではない。
「ただ……あなた一人が強ければ全部解決する、という地図には見えませんでした」
言葉にしてみると、それが一番近かった。
ディルヴァンは返事をせず、さっき歩いた坂へ視線を向けた。
「……難しいな」
「難しいですね」
「でも、危なかったら助けるぞ」
「それは止めていません」
「じゃあいいだろ」
「毎回“危ないから”で全部やらないでください」
「そんなことしないって」
その返事は、あまり信用できなかった。
けれど、一度話しただけで考え方が全部変わる方が不自然だ。
さっきまで逃げ道に見えていた赤い線が、説明を聞いた途端に相手を誘導する道へ変わったように、見え方は何か一つ知っただけで変わることがある。
「で、次どこ見る?」
ディルヴァンはもう前を向いていた。
切り替えが早い。
「俺、向こうの坂見たい」
「僕は少し高いところから全体を見る」
アレクシスが別の場所へ移る。
「ミレーヌは?」
「地図と比べます」
「じゃあヴェルシアナは?」
「私ですか?」
急に振られて、少し考える。
「……皆が見ていないところを見ます」
「それ、何見るか決まってないじゃん」
「決まっていたら、見落としにはならないでしょう」
一瞬、ディルヴァンが目を丸くした。
それから、楽しそうに笑う。
「それ、いいな」
次の瞬間には、また坂の向こうへ走っていった。
俺はその背中を見送り、少しだけ視線を横へずらす。
アレクシスが高い場所から区画全体を見ている。
ミレーヌは地図へ目を落としながら、時々実際の坂を確かめている。
同じ景色を見ているのに、拾っているものはそれぞれ違う。
それは足りないというより、最初から一人分の視界だけでは届かない場所があるということなのかもしれない。
坂の上へ立てば、下が見える。
下から見れば、上が隠れる。
ほんの少し横へずれるだけで、それまで存在しなかったように見えた道が現れる。
景色そのものは何も変わっていない。
変わるのは、立つ場所だ。
「ヴェルシアナ!」
遠くからディルヴァンが呼ぶ。
「こっち、変な道ある!」
「今行きます」
俺も歩き出す。
誰かが見つけたものを、別の誰かが違う角度から見る。
その繰り返しで、最初はただの線に見えていたものが少しずつ意味を持ち始める。
今はまだ、それが何に繋がるのかなんて知らない。
けれど俺は、地図の端に残された細い道を見つめながら、その感覚だけは忘れないようにしておこうと思った。




