第41話 悪役令嬢は、苦手なものまで隠さない
グランセル侯爵家の刺繍会は、昼を少し過ぎた頃に始まった。
俺は屋敷へ着いた時点で、すでに一つだけ覚悟を決めていた。
今日はたぶん、かなり格好がつかない。
魔法なら、できないなりに原因を考えられる。記録や数字なら、分からないところを一つずつ整理すればいい。
だが刺繍は違う。
細い針を持ち、狙った場所へ糸を通し、布の裏表を行き来しながら形を作る。理屈は分かるのに、指先が思った通りについてこない。
こういう作業に関しては、今の身体になっても前世から劇的な才能が生えてくることはなかったらしい。
「お嬢様」
隣を歩くミレーヌが、俺の顔を覗き込んだ。
「何でしょう」
「少し緊張されています?」
「……分かります?」
「少しだけ」
「刺繍なので」
正直に答えると、ミレーヌの口元が緩んだ。
「笑いました?」
「いいえ」
「今、絶対に笑いましたよね」
「お嬢様にも苦手なものがあるのだと思いまして」
「たくさんあります」
「でも、あまりそう見えません」
それは困る。
「今日で分かりますよ」
そう言うと、ミレーヌはとうとう声を立てずに笑った。
◇
案内されたのは、庭に面した明るい小部屋だった。
大きな窓から柔らかな光が入り、中央には丸いテーブルが二つ並んでいる。その上には布、刺繍枠、色とりどりの糸が整然と置かれていた。
参加者は八人。
その中には、先日の茶会で顔を合わせた令嬢も何人かいる。
そして部屋の奥では、薄紫の髪を揺らしながらオルティアがこちらへ歩いてきた。
「ごきげんよう、アルセリード様」
「ごきげんよう、グランセル様。本日はお招きありがとうございます」
「来てくださってよかったです」
以前より、声が柔らかい。
あの茶会で初めて話した時は、こちらを測るような視線を向けられていた。
今日は違う。
警戒のために閉じていた扉が、指一本分だけ開いたような感じがする。
「刺繍がお得意だと伺いました」
「ええ」
オルティアは迷いなく頷いた。
「かなり得意です」
やはり言い切る。
こういうところは嫌いではない。
「でしたら今日は教えていただけると助かります」
「……教える?」
「私はあまり得意ではないので」
オルティアが止まった。
「アルセリード様が?」
「はい」
「刺繍を?」
「はい」
なぜ二回確認するのだろう。
「……意外です」
「よく言われます」
いや、刺繍について言われたのは初めてだが。
オルティアはまだ少しこちらを見ていた。
「何でもできる方なのだと思っていました」
「そんなことはありませんよ」
「でも先日は……」
そこで彼女は言葉を切った。
何を思い出したのかは分からない。
ただ、耳が少し赤くなった気がする。
「今日は、私の方が助けてもらう側になりそうです」
そう言うと、オルティアの灰色の瞳がわずかに大きくなった。
「……そういうことを、簡単に仰るのですね」
「何か変でしたか?」
「いいえ」
少し間を置いてから、彼女はほんの少しだけ笑った。
「では、容赦なく教えます」
「お手柔らかにお願いします」
「それは無理かもしれません」
思ったより厳しそうだ。
◇
最初の課題は、小さな花だった。
難しい図案ではないらしい。
中心から花びらを五枚広げ、その周囲に葉を二枚つける。
説明だけ聞けば簡単だ。
説明だけなら。
「……違います」
開始から十分も経たないうちに、オルティアの声が飛んできた。
「そこへ針を出すと、花びらの幅が揃いません」
「こちらですか?」
「もう少し右です」
「このあたり?」
「行きすぎです」
「……難しいですね」
「まだ最初の花びらです」
分かっている。
それが一番つらい。
隣ではミレーヌが、俺よりずっと綺麗に糸を通している。
「ミレーヌ、得意でした?」
「得意というほどではありませんが」
十分うまい。
俺の布には、花になる予定だったものが少し歪んだ星のような形で広がっている。
「アルセリード様」
オルティアが再び俺の手元を覗き込む。
「糸を引きすぎです」
「緩いと浮きません?」
「だからといって締めすぎると布が寄ります」
「なるほど」
「さっきも申し上げました」
「覚えてはいるんです」
「では、なぜ?」
「手が覚えてくれません」
答えると、近くにいた令嬢が小さく吹き出した。
すぐ口元を押さえる。
「申し訳ありません」
「大丈夫ですよ」
むしろ笑ってもらった方が助かる。
完璧にできないものを、完璧に見せようとする方が疲れる。
俺は歪んだ花を見下ろした。
「……これはこれで、別の花ということにできませんか?」
「できません」
オルティアが即答した。
「厳しい」
「刺繍に関しては妥協しません」
「分かりました」
そのやり取りに、今度は何人かが笑った。
不思議なものだった。
以前なら、自分がうまくできない姿を人前に晒すことに、もっと抵抗があったかもしれない。
今は、そこまで気にならない。
できないなら、できない。
それだけだ。
誰かの得意な場所へ入った時、自分まで得意である必要はない。
むしろ教わる側に立ってみると、その人が何を大切にしているのかがよく見える。
オルティアは、糸の色を選ぶ時にほとんど迷わない。
針を刺す位置も、布の裏側まで頭に入っているようだった。
動きが速いわけではない。
けれど一つ一つが正確で、糸が布の上へ落ちていくたび、何もなかった場所から少しずつ花が浮かび上がっていく。
「綺麗ですね」
思わず言う。
オルティアの手が止まった。
「何がです?」
「刺し方です。迷いがないので」
「……普通です」
「私にはできません」
「練習すればできます」
「それでも、今はあなたの方がずっと上手です」
オルティアが黙る。
俺は単純に感心していた。
剣も魔法も刺繍も、得意な人の手元を見るのは面白い。
頭の中にある形と、実際の動きの間に余計な引っかかりがない。
「どうして、そんなに素直に認められるのです?」
オルティアが突然聞いた。
「何を?」
「自分より誰かが得意だということを」
質問の意味がすぐには分からなかった。
「事実だからです」
「……それだけ?」
「それだけです」
オルティアは少し考えるように視線を落とした。
「わたくしは、少し苦手です」
初めて聞く声だった。
さっきまでの自信に満ちた調子ではない。
「何がでしょう」
「負けることが」
彼女は自分の刺繍枠を見た。
「刺繍なら負けません。礼儀作法も、勉強も、できるだけ負けたくないです」
「それは悪いことではないと思います」
「でも、負けると嫌になります」
「相手が?」
「……自分が」
なるほど。
少し分かる気がする。
負けることそのものより、できなかった自分を見せつけられるのが嫌なのだろう。
ディルヴァンは負けた時、悔しいとそのまま言っていた。
あれは、案外簡単なことではないのかもしれない。
「私も、負けるのは好きではありませんよ」
「そうなのですか?」
「この前も、勝てた時はかなり嬉しかったです」
思い出すと、今でも少し気分がいい。
オルティアは意外そうにこちらを見る。
「では、どうしてそんなに平気そうなのです?」
「今は勝負ではないからでは?」
「……え?」
「刺繍は、あなたの方が上手です。それで私が何か失うわけではありません」
むしろ教えてもらえる。
「それに、できないものが分かれば、次に何を練習すればいいかも分かります」
俺は歪んだ花を見る。
「少なくとも、糸を引きすぎる癖は直した方がよさそうです」
オルティアの口元が、少しだけ動いた。
「そこは本当に直してください」
「はい」
「布が可哀想です」
「そこまでですか」
また笑いが起きる。
今度はオルティアも笑っていた。
◇
しばらくして、休憩になった。
紅茶と小さな焼き菓子が運ばれ、令嬢たちはそれぞれ席を離れて話し始める。
俺は窓際で紅茶を飲んでいた。
指先が少し痛い。
針を持つだけでこんなに疲れるとは思わなかった。
「アルセリード様」
オルティアが隣へ来る。
「はい」
「少し聞いても?」
「どうぞ」
彼女はすぐには口を開かなかった。
「先日のお手紙で」
「ああ」
「あなたが好きなものについて聞かせてほしいと書きました」
「はい」
「何がお好きなのです?」
そういえば、その話をする約束だった。
「本は好きです」
「どんな?」
「記録や地図を見るのは面白いです。物語も読みます」
「意外です」
「またですか」
「もっと難しい本だけ読むのかと思っていました」
「そんなことはありません」
「他には?」
少し考える。
好きなもの。
以前なら、こういう質問に答えるのは少し難しかった。
破滅を避けるために必要なものはたくさん考えた。
でも、自分が好きなものをわざわざ整理する余裕は少なかった。
「馬に乗るのも好きですね」
「乗馬を?」
「はい」
アレクシスと乗った時のことを思い出す。
風を受けながら進む感覚は、今でも好きだ。
「魔法も、最近は好きになってきました」
「最近?」
「最初は、失敗するのが怖かったので」
オルティアが少し驚く。
「アルセリード様でも?」
「もちろんです」
むしろ魔力量が多い分、失敗した時に何が起こるか分からない怖さがあった。
「でも、できなかったことができるようになるのは面白いです」
「……それなら刺繍も?」
俺は手元を見る。
「今のところ、面白いより難しいが勝っています」
「ふふ」
オルティアが笑った。
今回は隠さなかった。
「でも、あなたが楽しそうにしている理由は少し分かりました」
「本当ですか?」
「はい」
俺が言うと、彼女は目を細めた。
「では、今度はもう少し簡単な図案を用意します」
「今日より簡単なものが?」
「あります」
「助かります」
「でも」
オルティアの目に、少しだけ勝ち気な色が戻る。
「次は、今日より綺麗に仕上げてください」
「急に課題になりましたね」
「教えるなら、上達してもらわないと困ります」
「分かりました」
嫌ではなかった。
こういう約束も。
◇
帰り支度をしている時だった。
部屋の反対側で、小さな声が上がった。
「痛っ」
見ると、一人の令嬢が指先を押さえている。
針で刺したらしい。
ほんの小さな傷だ。
けれど、白い指先に赤い血が一滴浮かんでいる。
その子は周囲の視線に気づき、慌てて手を隠した。
「大丈夫ですか?」
近くにいた俺は、自然に声をかけた。
「だ、大丈夫です」
「見せても?」
「え?」
手を差し出す。
相手は少し迷ってから、恐る恐る指をこちらへ向けた。
傷は浅い。
「これならすぐ止まりそうです」
近くにあった清潔な布を取り、指先へそっと当てる。
「少し押さえてください」
「……はい」
「痛いですか?」
「少しだけ」
「無理に続けなくて大丈夫ですよ」
「でも、皆さまがまだ」
「皆が続けていることと、あなたの指は関係ありません」
口にしてから、自分でも少し強い言い方だったかと思った。
けれど令嬢は、俺を見たまま瞬きをした。
「今日はここまででも、誰も困りません」
俺は布を押さえる彼女の手を軽く包むように支えた。
「痛い時くらい、休んでください」
「……はい」
小さな返事だった。
その頬が、なぜか少し赤い。
後ろから使用人が来たので、その子を任せる。
大したことではない。
針で指を刺したなら、休む。
それだけだ。
なのに。
振り返ると、オルティアを含め何人かの令嬢がこちらを見ていた。
「……何でしょう」
「別に」
オルティアが先に視線を外す。
「何かありますよね?」
「ありません」
「本当に?」
「本当に」
絶対に何かある。
でも、誰も教えてくれない。
◇
帰りの馬車。
隣に座ったミレーヌが、今日作った刺繍を見ていた。
「お嬢様」
「はい」
「最初より綺麗になっています」
「本当ですか?」
「少し」
「少しですか」
「でも、花には見えます」
「最初は?」
ミレーヌが黙る。
「最初は何に見えたんです?」
「……星でしょうか」
「やっぱり」
思わず笑った。
窓の外では、王都の街並みがゆっくり流れている。
今日一日で、刺繍が急に得意になったわけではない。
オルティアのことを全部知ったわけでもない。
ただ、前より少しだけ分かった。
彼女は負けることが嫌いで、自分の得意なものには強い自信を持っている。
その一方で、できない自分を認めることには少し不器用だ。
たぶん、その不器用さごと彼女なのだろう。
俺は膝の上に置いた刺繍枠を見る。
少し歪んだ花。
でも、最初の一針よりは確実にましになっている。
人との距離も、似ているのかもしれない。
一度で綺麗な形にはならない。
近づきすぎれば布が寄るし、緩すぎれば糸が浮く。
少しずつ確かめながら、形にしていく。
「次も行かれます?」
ミレーヌが聞いた。
「招かれたら」
「オルティア様、きっと招かれると思います」
「そうですか?」
「はい」
ずいぶん確信がある。
「なぜ?」
聞くと。
ミレーヌは窓の外へ視線を向けたまま、少しだけ笑った。
「お嬢様には、まだ分からなくていいと思います」
「またそれですか」
「はい」
納得できない。
けれど。
次の刺繍会で、今日より少しだけましな花を作ってみたい。
そう思っている時点で、また会う理由としては十分なのかもしれなかった。




