⭐︎第38話 同じ答えに、同じ道はいらない
勝負の日は、思っていたより早くやってきた。
王宮騎士団の訓練場は、前回訪れた資料棟よりさらに奥にある。普段は若い騎士たちが魔力操作の基礎を学ぶために使っているらしく、石造りの広い室内には剣や槍よりも、用途の分からない訓練器具の方が多く並んでいた。
細い金属棒や大きさの違う石、魔力を通すための板、紐の先に小さな重りを吊るした器具まであり、どれも初めて見るものばかりだ。
魔法の訓練と聞けば、火球を飛ばしたり、風を巻き起こしたり、もっと派手なものを想像する。
けれど、実際に必要とされるのは、そういう分かりやすい力だけではないのだろう。
強く出すことより、弱く出すこと。
一度だけ成功するより、同じことを何度も繰り返すこと。
目立たない技術ほど、たぶん難しい。
「お嬢様、少し楽しそうですね」
隣に立つミレーヌが、こちらを見て小さく笑った。
「今日は否定しません」
「珍しいですね」
「自覚がありますので」
これは普通に楽しみだった。
ディルヴァンに勝ちたいという気持ちも、もちろんある。
ただ、それ以上に気になっていることがあった。
自分とまるで違う強みを持つ人間が、同じ問題をどう解くのか。そして、自分自身がどこまでできるのか。
六歳になってから、こういう「試してみたい」という感情が少しずつ増えている。
少し前までの俺なら、できないことは破滅へ繋がる穴のように見えていただろう。知らないことが増えるほど不安になり、失敗しそうなものには先回りして道を塞ぎたくなった。
今は少し違う。
できないなら、見てみたい。
分からないなら、確かめてみたい。
それは穴というより、まだ開いていない頁に近かった。何が書かれているか分からないからこそ、めくってみたくなる。
「ヴェルシアナ!」
声のした方を見ると、ディルヴァンが訓練場の奥から歩いてきた。
今日も礼装ではなく訓練用の服を着ていて、灰色の髪は前回より少し乱れている。どうやら俺たちが来る前から、何かしら身体を動かしていたらしい。
「遅い」
「約束の時間より前です」
「俺はもっと早く来てた」
「あなたが勝手に早くいらしただけでしょう?」
「だから待った」
「それを遅刻とは申しません」
出会ってまだそれほど経っていないはずなのに、こういうやり取りには妙に慣れてしまった。
ディルヴァンは何か言い返しかけ、それから俺の後ろへ視線を移した。
「ミレーヌも見る?」
「はい。お邪魔でなければ」
「全然。むしろ見てて。俺が勝ったら証人になって」
「まだ始まってもいないのに、勝つ前提ですか?」
「負けるつもりで来るやつ、いる?」
悪びれもせずに言い切る。
そういうところは、少し好きだった。
「それには同意します」
俺が答えると、ディルヴァンの顔が明るくなった。
「だろ?」
「ですが、私も負けるつもりでは来ておりません」
一瞬、琥珀色の瞳が丸くなる。
次の瞬間には、その口元が楽しそうに上がっていた。
「やっぱ、お前面白いな」
褒められているのかは分からない。
けれど、悪い気はしなかった。
「二人とも、始める前から熱くならないでよ」
少し離れたところから、アレクシスが歩いてくる。
今日は彼も訓練着だった。
「殿下も参加なさるのですか?」
「僕は見学。二人だけだと、途中から別の勝負を始めそうだから」
「俺はしないぞ」
「ディルヴァンが言うと説得力がない」
「ひどくない?」
「長い付き合いだからね」
アレクシスはいつもの穏やかな顔で返した。
ただ、その視線が一度だけ、俺とディルヴァンの間を往復する。
以前にも似たようなことがあった気がしたが、今は考えないことにした。
今日の目的は別だ。
「お待たせいたしました」
奥から落ち着いた声がした。
前回案内してくれた騎士と、もう一人。年齢は五十歳前後だろうか。騎士というより研究者に近い静かな雰囲気を持つ男が歩いてくる。
二人とも俺たちの前で足を止め、丁寧に一礼した。
「本日の訓練を担当いたします、王宮騎士団魔力運用教官のハルバート・レインズと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「ヴェルシアナ・アルセリードです。本日はよろしくお願いいたします」
「ディルヴァン・ヴァレンティスです。よろしくお願いします」
ディルヴァンも、こういう場ではきちんとしている。
やはり礼儀を知らないのではなく、普段まとい続ける気がないだけなのだ。
ハルバートは俺たちを一度見渡してから、ゆっくり口を開いた。
「殿下より、お二人はそれぞれ異なる形で魔力を扱っておられると伺っております。本日は単純な魔力量のみを比べるのではなく、それぞれの特性が現れやすい課題をご用意いたしました」
「得意と言えるほどではありません」
俺が答えると、ディルヴァンがすぐ横から口を挟んだ。
「こいつ、こういうこと言うけど、見る方はかなりすごいですよ」
「ヴァレンティス様」
「本当だろ?」
「だからといって、あなたが説明なさらなくても結構です」
ハルバートの口元がほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
「承知いたしました。では本日は、勝敗のみならず、お二人がどのような判断と方法を選ばれるのかについても拝見させていただきます」
「勝ち負け自体はあるんですか?」
ディルヴァンが尋ねる。
「各課題にはございます」
即答だった。
ディルヴァンの顔が明るくなる。
「ただし、すべてを一つの点数へまとめ、総合的な優劣を決める予定はございません」
「どういうことです?」
「最後まで挑戦していただければ、その意味がお分かりになるかと存じます」
うまい。
ディルヴァンも、それ以上聞かなかった。
俺も聞かない。
正解を先に教えられては、面白さが減る。
◇
最初の課題は、微光石だった。
前回見せてもらった白い石が、机の上へ二つ並べられる。
「規定の明るさを三十秒間維持していただきます。明るすぎても暗すぎても失敗となります」
なるほど。
俺にとっては、かなり嫌な課題だ。
ヴィクトルの授業でも似たことをしている。
魔力を出すこと自体は簡単だが、ほんの少しだけ出し、その量を変えずに保つ方が難しい。
「どちらからなさいますか?」
「俺から」
ディルヴァンが即座に前へ出た。
「早いですね」
「俺の方が得意そうだろ? 先にやった方が、お前も基準が分かりやすいじゃん」
なるほど。
単に待てないだけかと思ったが、ちゃんと理由はあるらしい。
ディルヴァンが微光石へ指先を置く。
呼吸が一つ変わる。
次の瞬間、石の内側に淡い光が灯った。
弱すぎず、強すぎない。
白い石の中心から広がる光はほとんど揺れず、水面に置かれた月が風を忘れたように静かだった。
俺は無意識に、彼の魔力の流れへ意識を向けていた。
やはり細い。
必要な量だけが指先へ運ばれ、余ったものが石の周囲へ漏れていない。
身体の中を流れる大きな川から、必要な一筋だけをすくい上げているように見える。
「三十秒。成功でございます」
ハルバートの声とともに、ディルヴァンが石から手を離した。
「よし」
満足そうな顔のまま、すぐ俺を見る。
「次」
「分かっております」
俺も前へ出る。
机の上には、小さな白い石が一つ。
これを三十秒光らせるだけなのに、柱を吹き飛ばすより緊張する。
世の中は理不尽だ。
指先を石へ添え、ヴィクトルの言葉を思い出す。
ただ出すのではなく、必要な分だけを残す。
魔力を流した。
石が光る。
「……明るい」
横からディルヴァンの声がした。
「聞こえております」
「悪い。でも本当にちょっと明るい」
全然悪いと思っていない声だった。
確かに明るい。
少し下げると今度は弱くなり、再び強めれば白さが増しすぎる。
水道の蛇口を数ミリずつ動かしているだけなのに、そのたびに水量だけが勝手に大きく変わるような感覚だった。
「焦られなくても結構でございます」
ハルバートの落ち着いた声が入る。
「三十秒の計測は、規定値へ収まってから開始いたします」
ありがたい。
一度息を整え、今度は自分の魔力ではなく、石の光そのものを見る。
どの程度なら明るすぎないのか。
どこまでなら弱すぎないのか。
ほんのわずかずつ力を動かしているうちに、ようやく光が安定した。
「計測を開始いたします」
そこからの三十秒は、思っていた以上に長かった。
途中で一度、光が強くなりかける。
反射的に抑えるのではなく、少しだけ戻す。
指先が熱くなり、額へじわりと汗が浮かぶ頃。
「三十秒。成功でございます」
石から手を離した。
思ったより疲れている。
「できたじゃん」
ディルヴァンが言う。
「あなたより随分時間がかかりました」
「でも、できた」
「それはそうですが」
「じゃあいいだろ」
簡単な人だ。
けれど、その言葉は思っていたより悪くなかった。
ヴィクトルとの練習が、ちゃんと積み上がっている。
以前の俺なら、途中で光を消していたかもしれない。
「第一課題につきましては、ヴァレンティス様が優勢でございます」
ハルバートが結果を告げる。
ディルヴァンは嬉しそうに笑った。
「一個目」
「まだ一個目です」
「分かってる」
俺も少し笑った。
悔しい。
けれど不快ではない。
むしろ、次を早く試してみたい。
◇
二つ目は、先ほどとは正反対の課題だった。
机の中央へ置かれた黒い石は、一定量以上の魔力を一度に流し込まなければ反応しない。
ハルバートが簡潔に条件を説明し終えると、ディルヴァンが黒い石を見ながら俺へ振り返った。
「今度も俺からでいい?」
「ええ、どうぞ。先ほどとは逆に、今回はあなたがどのように魔力を集めるのか見てみたいです」
「見る気満々だな」
「そのために来ているようなものですから」
ディルヴァンは少し楽しそうに笑い、黒い石へ手を置いた。
最初の魔力では反応しない。
二度目は、先ほどより明らかに多くの魔力を集めている。
それでも石は沈黙したままだった。
「まだ?」
「規定値には達しておりません」
ハルバートが畏まった口調のまま答える。
「……結構いるな」
ディルヴァンが一度手を離す。
深く息を吸い、今度はいつものように魔力を脚や腕へ分けるのではなく、身体の中でできるだけ散らさないよう一つへ集め始めた。
さっきの細い水路とは違う。
何本もの流れを無理に一つの川へ束ねようとしているようで、動きにはわずかな揺れがあった。
得意ではないのだろう。
それでも三度目。
黒い石の中央へ赤い線が浮かぶ。
「成功でございます」
「っしゃ」
ディルヴァンが笑った。
額には薄く汗が浮かんでいる。
「大変そうでしたね」
「お前、ちょっと嬉しそうだな」
「そんなことはございません」
「今、絶対あった」
「次は私ですね」
話を切り、黒い石の前へ立つ。
「お嬢様」
後ろからミレーヌの声がした。
「お気をつけください」
「はい」
これは大事だ。
俺の場合、足りないことより入れすぎることを心配した方がいい。
普段の訓練よりさらに抑えたつもりで魔力を流した。
次の瞬間。
黒い石へ赤い線が走る。
「成功でございます」
俺自身が一番驚いた。
「……もう?」
ディルヴァンも目を丸くしている。
「私もそう思いました」
感覚としては、まだかなり余裕がある。
「どれくらい入れた?」
「正確には分かりません。普段の練習よりは、かなり少ないです」
ディルヴァンが黒い石を見て、それから俺を見る。
「それ、ずるくない?」
「生まれつきです」
「俺の制御だって、結構生まれつきだぞ」
「でしたら、お互い様ですね」
一瞬見つめ合い、先に吹き出したのはディルヴァンだった。
俺もつられて笑う。
「第二課題につきましては、アルセリード様が優勢でございます」
一勝一敗。
ここまでは、ある意味で予想通りだった。
ディルヴァンは制御。
俺は出力。
互いに自分の得意な場所で勝っただけなら、あの日わざわざ公平な条件について話し合った意味は薄い。
見たいのは、その先だ。
ディルヴァンも同じらしく、すでに視線を訓練場の奥へ向けていた。
そこには、前回見せてもらった木箱が二つ置かれている。
今日の本番は、たぶんこれだ。
◇
「第三課題につきましては、少々条件が異なります」
ハルバートが二つの木箱を机へ並べた。
見た目は前回とほぼ同じで、蓋の中央に円形の銀線、その周囲から四隅へ複数の線が伸びている。
「お二人には、それぞれ同一構造の箱を一つずつお渡しいたします。内部には薄いガラス球が収められております」
「ガラス?」
ディルヴァンが身を乗り出す。
「はい。蓋を開き、中の球を破損させず取り出すことができれば成功でございます」
「箱自体を壊した場合は?」
「失敗となります」
「時間制限はございますか?」
俺が尋ねる。
「十分間といたします。また、外部から強い衝撃を加えることもお控えください。内部のガラス球が破損する可能性がございます」
俺は箱へ目を落とした。
前回も見た。
魔力を使わなければ開かない。
けれど、使い方を間違えれば失敗する。
「質問は可能でしょうか」
「安全面に関するご質問にはお答えいたします。ただし、仕掛けの解法へ直接繋がる内容につきましては、お答えいたしかねます」
「承知しました」
ディルヴァンも自分の箱へ視線を落とす。
「開始していい?」
「はい。それでは、始めてください」
ハルバートの言葉が終わるより先に、ディルヴァンの手が箱へ伸びた。
ただし力任せではない。
指先を蓋へ置き、ごく細い魔力を流し始める。
微光石の時より、さらに少ない。
箱を開けようとしているのではないのだろう。
内部に流した魔力の反応を頼りに、仕掛けの位置そのものを探している。
いかにもディルヴァンらしい方法だった。
考えるために止まるのではなく、動きながら情報を集め、その場で次の一手を決めていく。
一方で、俺はまだ箱へ触れなかった。
まず見る。
中央の円。
四隅へ伸びる銀線。
前回と同じように見えるが、近くで見ると細かな違いがある。
右上の線は途中で一度途切れている。
左下の印は、他の三つよりわずかに大きい。
銀線はすべて中央へ繋がっているように見えたが、よく追うと一本だけ道が違う。
装飾ではない。
おそらく、魔力を通すための簡易的な回路だ。
ヴィクトルの授業で見た魔法陣を思い出す。
正式な魔法陣ほど複雑ではないが、魔力は通り道が定められていれば、その形に沿って流れやすくなる。
ならば問題は、どこから入れるかだ。
中央の円が一番大きく、一番目立つ。
誰でも最初にそこへ触れたくなる。
だからこそ、少し怪しい。
横では、ディルヴァンが早くも箱の一角へ指を移していた。
「……ここか」
小さな声。
右上。
俺が気になった、線の途切れている場所だ。
ディルヴァンがそこへほんの少しだけ魔力を流すと、小さく乾いた音がして、箱の側面から細い金属片が飛び出した。
仕掛けの一つが動いたらしい。
彼はすぐに次へ進む。
速い。
それでも雑ではない。
地面を走りながら、次に踏む石の硬さまで確かめているような動きだった。
俺は逆に、まだ動かない。
中央の円、四隅、側面へ続く線を一つずつ目で追っていく。
違う方法で同じ箱を見ていることが、少し面白かった。
「お嬢様……」
ミレーヌの声が小さく聞こえる。
おそらく、時間を気にしているのだろう。
でも焦らない。
銀線は蓋だけに刻まれているわけではない。
よく見ると右側面にも続いている。
そのまま下へ。
箱の底へ伸びていた。
「持ち上げてもよろしいでしょうか」
ハルバートへ尋ねる。
「はい。強い衝撃を加えられなければ問題ございません」
箱をそっと持ち上げる。
軽い。
底を見ると、蓋の四隅とよく似た小さな印が一つあった。
ただし、中央にはごく小さな穴が開いている。
普通に机へ置いていれば見えない場所だ。
ハルバートは先ほど、どの部分へ魔力を流すかも含めて判断するよう説明した。
蓋だけを使えとは、一度も言っていない。
俺は底の印へ指先を近づけ、ほんの少量だけ魔力を流してみた。
カチ、と音がした。
箱は開かない。
ただ、蓋の中央にあった円形の銀線が、さっきよりほんの少しだけずれている。
回ったのだ。
「……そういうことですか」
少しだけ構造が見えた。
この箱は、一か所へ魔力を入れれば開くものではない。
複数の仕掛けを、決められた順番で動かす必要がある。
次に目を向けたのは、他より少し大きな左下の印だった。
そこへ少量の魔力を流す。
また小さな音。
中央の円がさらに動いた。
「待って」
横からディルヴァンの声がした。
見ると、彼の箱ではすでに二か所ほど仕掛けが動いている。それでも手を止め、俺の箱を見ていた。
「今、底からやった?」
「はい」
「……そこにあると思わなかった」
「あなたはどうしていたのです?」
「上から魔力を流して、中で反応する場所を探してた」
やっぱり。
ディルヴァンは魔力そのものを触覚のように使っている。
箱の内部へ細い糸を伸ばし、見えない仕掛けの形を指先でなぞっているようなものだ。
俺には、それができない。
だから外を見るしかなかった。
苦手なことが、別の道を選ばせた。
「面白いですね」
「今それ言う?」
「だって面白いでしょう?」
ディルヴァンは一度だけ俺を見て、それから少し笑った。
「……まあ、面白い」
すぐに自分の箱へ戻る。
さっきまでの軽さが少し消え、琥珀色の瞳が仕掛けへ集中している。
「でも俺も負けない」
「私も、そのつもりです」
その言葉を返した時、自分でも分かるほど気持ちが前へ傾いた。
勝ちたい。
今度は、はっきりそう思った。
次に選んだのは、右上の途切れた線。
少量の魔力を流すと、中央の円が半回転し、蓋がほんの少しだけ浮いた。
開く。
そう思って指をかけかけたところで、手が止まる。
目的は、箱を開けることではない。
中のガラス球を壊さず取り出すことだ。
もし蓋だけが先に開く仕掛けで、内部に別の罠が残っていたら。
俺は指を離した。
「どうした?」
ディルヴァンも自分の箱の蓋へ手をかける寸前だった。
「少し待った方がよいかもしれません。まだ、すべて解除されたとは限りませんので」
その言葉で、ディルヴァンの手も止まった。
二人で箱を見る。
ハルバートは何も言わない。
表情もほとんど変えない。
こういう時の教師というものは、急に石像になるらしい。
「音、何回した?」
ディルヴァンが尋ねる。
「三回です」
「俺も三回。反応した場所も三つ」
「……ですが、印は四隅にございますよね」
一瞬、二人とも黙った。
蓋の四隅に四つ。
底に一つ。
数えれば五つある。
ならば、全部が鍵ではない。
どこかに別の役割を持つ印が混ざっている。
俺はもう一度、銀線を目で追った。
右上。
左下。
底。
中央。
そして、右下。
右下だけ、銀線が中央へ向かっていない。
側面へ抜け、そのまま箱の内部へ続いている。
ガラス球があるはずの場所へ。
「……こちらは、罠では?」
思わず声に出た。
ハルバートの眉が、ほんのわずかに動いた。
たぶん、当たっている。
「右下には、魔力を流さない方がよいかもしれません」
「理由は?」
ディルヴァンがすぐに聞く。
「線が中央の仕掛けではなく、箱の内部へ直接続いているように見えます。もし魔力がそのまま内部へ流れるのでしたら、ガラス球へ届く可能性があります」
ディルヴァンは自分の箱へ目を凝らしたあと、ごく微量の魔力を流した。
空気がわずかに張る。
「……本当だ。中へ続いてる」
彼は魔力を流して確認した。
俺は外から線を見て気づいた。
また違う。
「じゃあ最後は?」
「中央ではないでしょうか」
「でも、最初に中央へ流したら?」
「おそらく失敗すると思います。中央の円は、先ほどまで線が繋がっていませんでしたから」
今は違う。
三つの仕掛けを動かすたびに回転した円は、ようやく外側の銀線と一つの道を作っている。
順番が整った。
ここだ。
俺は中央へ、ほんの少しだけ魔力を流した。
今までとは違う、小さく澄んだ音がした。
蓋が静かに浮き上がる。
中から何かが割れる音はしない。
「開いた……」
ミレーヌの声が、少しだけ弾んだ。
俺は慎重に蓋を持ち上げる。
中には、小さな透明のガラス球が一つ。
傷一つない。
「成功でございます」
ハルバートの声が訓練場へ響いた。
その言葉を聞いてからも、俺は数秒ほど箱の中を見つめたまま動けなかった。
先に開けた。
しかも今回は、魔力量が多かったから勝てたわけではない。
自分で見て、考えて、疑って、選んだ。
その結果が、先に答えへ届いた。
「……勝ちました」
口にした途端、自分でも分かるほど声が弾んだ。
思っていたより嬉しい。
胸の奥で、小さな火花が弾けたようだった。
これまで俺にとって「できること」は、どこか破滅を避けるための道具だった。
魔法を学ぶのも、人を見るのも、考えるのも、間違えないためであり、失わないためであり、未来を少しでも安全な方向へ寄せるためだった。
もちろん、それが消えたわけではない。
今でも俺には、十年ほど先に待っている原作の記憶がある。
けれど、この瞬間だけは違った。
自分で考えた答えが当たったことが、ただ嬉しい。
誰かより先に辿り着けたことが、思っていた以上に気持ちいい。
そんな感情が自分にもあることを、今さら知った。
「……そんな顔するんだな」
ディルヴァンの声がした。
見ると、彼はまだ自分の箱へ片手を置いたまま、俺を見ている。
「どのようなお顔です?」
「すげえ嬉しそう」
からかう声ではなかった。
少し意外そうで、何か初めて見たものを眺めているような声音だった。
いつもなら反射的に誤魔化していたかもしれない。
でも今回は、その言葉を飲み込んだ。
「……嬉しいですよ。勝負でしたから」
「そっか」
ディルヴァンはそれだけ答えると、自分の箱へ視線を戻した。
先ほどまでなら、すぐ何か言い返してきただろう。
けれど今は違う。
指先を蓋の縁へ置いたまま、少し考えている。
悔しいのだろう。
それが何となく分かったから、俺は何も言わずに待った。
やがてディルヴァンは、もう一度箱へ魔力を流し始めた。
俺と同じ順番を真似するつもりはないらしい。
箱を裏返して印を見ることもしない。
ごく細い魔力を内部へ通し、見えない仕掛けの反応を一つずつ拾っていく。
ほんのわずかな魔力が、暗い部屋の中を探る指先のように箱の内側を進んでいく。
俺が外から何度も眺めなければ気づけなかった仕掛けを、ディルヴァンは触れることで形にしていく。
俺には真似できない。
もし同じことをしようとすれば、細く伸ばすつもりの魔力が途中で膨らみ、たぶん何か一つ余計に作動させてしまう。
逆に、ディルヴァンが俺と同じだけ立ち止まり、すべてを目で読もうとすれば、彼の持っている速さや感覚の良さを自分で殺すことになるのだろう。
やがて、彼の指先が一度止まった。
「……ここ、繋がった」
独り言のように呟き、別の位置へ魔力を移す。
もう一度。
さらに一度。
最後に中央へ魔力を流した瞬間、俺の時と同じ澄んだ音がした。
蓋が持ち上がる。
中のガラス球は無傷だった。
「成功でございます」
ハルバートが告げる。
ディルヴァンは、すぐには笑わなかった。
開いた箱の中をしばらく見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……負けた」
言い方はあっさりしていたが、声まで軽いわけではない。
「悔しいですか?」
尋ねると、少しだけ間が空いた。
「悔しい」
答えは思っていたより素直だった。
けれど、声に濁りはなく、負けた事実を小さく見せようとする気配もない。むしろ自分がどこまで先へ進み、どこで追い越されたのかを確かめるように、彼は開いた箱の内部へ視線を落としていた。
「俺の方が魔力の制御は上手いと思ってたし、途中までは中の仕掛けも先に二つ見つけてた。だから、普通に勝つと思ってた」
それは言い訳ではなく、敗因を自分の手の中へ拾い直している言葉だった。
転んだことそのものより、次はどこへ足を置けば転ばないのかを先に考える。以前、門を抜けようとして止められた時、危険なら次は護衛を連れていけばいいと言った少年らしい。
「ですが、あなたの方法でなければ分からなかったこともありました」
「うん」
「内部へあれほど細く魔力を流して、仕掛けだけを探るなんて、私はできません」
ディルヴァンが少しだけ顔を上げる。
「俺は逆に、箱をひっくり返すまで考えなかった」
「見る必要がなかったのでしょう?」
「たぶん。中を探れば分かると思ったから」
そこで一度、開いた箱へ目を落とす。
「お前、魔力が多いのに最初に魔力使わなかったな」
「使う必要があるか分かりませんでしたので」
「普通、強いやつって得意なもので押すだろ」
「そうなのですか?」
「少なくとも俺なら、剣で切れるなら先に切る」
いかにもディルヴァンらしい。
けれど、言い終えた本人はいつものように笑って終わらなかった。
箱の内部へ視線を残したまま、少し考えている。
「でも今日のは、それだけじゃ駄目だったんだな」
声にはまだ悔しさが残っていた。
それでも、その奥から別の感情が少しずつ顔を出している。
負けたことを誤魔化そうとしているのではない。
自分の知らなかったものを一つ拾い上げ、掌の中で何度も向きを変えながら眺めているような顔だった。
その姿を見ていると、不思議と勝った喜びが薄れることはなかったのに、その隣へ別の面白さが増えていった。
「私も、あなたを見て同じことを思いました」
「何が?」
「考えてから動くのではなく、動きながら確かめることです。私は一度立ち止まって、見えるものを整理してからでないと動けません。でも、あなたは動いた先で得たものを、次の判断へすぐ繋げている」
ディルヴァンが少し眉を上げる。
「それ、褒めてる?」
「褒めています」
今度は即答した。
すると、ほんの一瞬だけ彼の表情が止まった。
「……珍しいな」
「失礼ですね」
「だって、お前いつも一個余計に返すだろ」
「あなたが一個余計なことを仰るからです」
そこでようやく、ディルヴァンの口元に笑いが戻った。
いつもの笑い方。
ただ、先ほどまでとは少し違って見える。
軽口を交わしているだけではない。
互いの手の内を一つ見せ合ったあとだからだろうか。
先に答えへ辿り着いたのは俺だったが、それでディルヴァンより上へ立ったような感覚は不思議となかった。
むしろ、まったく違う道を走っていた二本の線が、たまたま同じ一点で交わり、そこで初めて互いの走り方を知ったような気分に近い。
俺がディルヴァンと同じになろうとしても、意味はない。
ディルヴァンが俺と同じになっても、たぶん同じだ。
同じにならなくていい。
その当たり前のことが、今日は妙に鮮明に見えた。
「次は」
ディルヴァンが口を開く。
けれど、今度はすぐ続きを言わなかった。
一度自分の箱を見て、それから俺を見る。
「……次は、俺が先に見つける」
さっきまでの「絶対勝つ」とは少し違う。
静かな声だった。
何を、と聞く必要はない気がした。
答えだけではない。
俺が気づかなかったもの。
俺とは違う道。
そういうもの全部を含んでいるのだろう。
なら。
「でしたら、私はあなたが見つけなかったものを探します」
一瞬。
ディルヴァンが黙った。
そのあと、ゆっくり笑う。
「それ、いいな」
派手な約束ではない。
握手もしない。
次の勝負が何かさえ決まっていない。
それでも今日初めて、この少年とはまた何かを競うのだろうと思った。
勝ちたいからだけではない。
彼が何を見るのかを知りたい。
自分が何を見落とすのかも知りたい。
次に同じ問題を前にした時、今日より少し先へ進めるのか確かめたい。
そういう相手がいることは、思っていたより悪くなかった。
◇
「では、本日の結果についてご説明いたします」
ハルバートの声で、俺たちはそちらへ向き直った。
「第一課題はヴァレンティス様が優勢。第二課題はアルセリード様が優勢。第三課題につきましては、成功までの時間のみを見ればアルセリード様が先でございました」
ディルヴァンが頷く。
ハルバートはそのまま続けた。
「ただし、最初に申し上げました通り、本日はお二人を一つの点数へまとめ、総合的な優劣を定めることを目的としておりません」
「同じ課題をどう解くかを見るため、ですか?」
俺が尋ねる。
「お考えの通りでございます」
ハルバートはまず、ディルヴァンの箱へ視線を向けた。
「ヴァレンティス様は、魔力制御において同年代では極めて高い水準にいらっしゃいます。特に第三課題では、外部から構造を読み取るより先に、ご自身の魔力を内部へ極少量ずつ通し、その反応から仕掛けを把握しておられました」
ディルヴァンは黙って聞いている。
「本来、あの方法は誤った箇所へ流した際に仕掛けを作動させる危険がございます。しかしヴァレンティス様は、反応を確認できる最低限に近い量まで魔力を絞っておられたため、安全域を保ったまま内部を探ることができておりました」
なるほど。
やはり、俺にはできない方法だ。
「一方、アルセリード様は魔力を流されるまでの観察時間がかなり長うございました。しかし、その時間によって、魔力を用いる前に外部構造から複数の仕掛けの役割を推測されております」
「はい」
「特に、右下の印だけが他とは異なる位置へ接続されていることへ事前にお気づきになった点は、非常に興味深うございました」
周囲が少し静かになった。
「この訓練具を初めて扱う者の多くは、まず最も目立つ中央部へ魔力を流します。また、同じ形の印はすべて同じ役割であると判断し、四隅へ順番に魔力を流す傾向がございます」
「右下へ流した場合は?」
アレクシスが尋ねる。
「内部の球へ直接魔力が伝わり、一定量を超えた時点で破損いたします」
やっぱり罠だった。
「では、お嬢様は……」
ミレーヌが俺を見る。
「線が違っていたので、気になっただけです」
「そこへお気づきになること自体が、評価すべき点でございます」
前回案内してくれた騎士が、思わずというように口を開いた。
すぐに姿勢を正し、丁寧な口調へ戻す。
「失礼いたしました。しかし、あの線の差は訓練を受けている者でも見落とすことがございます。少なくとも初見でございましたら、珍しいことではございません」
そうなのか。
俺としては、他と違ったから気になっただけだ。
けれど。
今回は、素直に受け取ってもいい気がした。
「ありがとうございます」
そう返すと、騎士が一瞬だけ意外そうに目を瞬いた。
なぜだ。
「つまり」
ディルヴァンが俺と木箱を交互に見た。
「俺は中を触って調べて、ヴェルシアナは外から見て調べたってこと?」
「大まかには、そのご理解で問題ございません」
「同じ箱なのに?」
「はい」
ディルヴァンが少し笑った。
「やっぱ面白いな」
今度は、その言葉の意味がよく分かった。
同じ課題へ挑んでも、同じ戦い方をする必要はない。
むしろ違うからこそ、自分にはなかった答え方が見える。
今日知ったのは、勝った負けただけではない。
自分の得意なもの。
苦手なもの。
そのどちらも、相手がいることで輪郭が濃くなった。
「それにいたしましても」
ハルバートが今度は少し考えるような顔をした。
「お二人とも、ご年齢を考慮いたしますと、些か……」
そこで言葉が止まる。
「何か問題がございました?」
俺が尋ねると、ハルバートはすぐに首を振った。
「いいえ。むしろ逆でございます」
少し離れて立っていた案内役の騎士が、どこか遠い目をしている。
「通常、九歳の方へこの仕掛け箱を用いること自体、あまりございません」
「え?」
ディルヴァンが止まった。
「何歳くらいが使うものなんです?」
「個人差はございますが、魔力操作の基礎訓練をある程度終えた十二歳から十五歳ほどの騎士候補生が中心でございます」
俺はディルヴァンを見る。
九歳。
向こうも俺を見る。
六歳。
少しだけ妙な沈黙が落ちたあと、先に口を開いたのはディルヴァンだった。
「じゃあ俺、結構すごい?」
「そこをご自分で聞きます?」
「気になるだろ」
ハルバートは少し困ったように微笑んだ。
「少なくとも、魔力操作につきましては、非常に優れていらっしゃると申し上げて差し支えございません」
ディルヴァンは満足そうに俺を見る。
「ほら」
「私に向かって誇らないでください」
「じゃあヴェルシアナは?」
今度は俺の方を指した。
やめろ。
「アルセリード様につきましては……」
ハルバートが少し考える。
なぜ考える。
「魔力操作そのものは、まだ発展の途中でいらっしゃいます」
ですよね。
少し安心した。
「ただし、観察と仮説の立て方につきましては、ご年齢を基準として評価することが難しいかと存じます」
安心が消えた。
「……どういう意味でしょう?」
「六歳の方へ申し上げる評価として適切か、私自身少々迷っております」
「先生、それ褒めてる?」
ディルヴァンが尋ねる。
「非常に」
即答だった。
今度は全員の視線が俺へ集まった。
やめてほしい。
俺は普通に線を見ただけだ。
「お嬢様」
ミレーヌまでこちらを見ている。
その目が、さっきより少し輝いていた。
「何です?」
「やっぱり、お嬢様はすごいです」
真正面から言われると、非常に困る。
「ミレーヌも先日、討伐記録から場所の違いに気づいていたでしょう」
「でも今日は、お嬢様のお話です」
「逃げ道を塞がないでください」
ミレーヌが楽しそうに笑った。
その横でディルヴァンが、何か新しい性質でも見つけたような顔をしている。
「ヴェルシアナって、褒められるの苦手なんだな」
「苦手ではございません」
「じゃあ、もっと褒めようか?」
「必要ありません」
「ほら」
「そういう問題ではありません」
ディルヴァンが笑う。
アレクシスも、少し離れたところで静かに笑っていた。
ただ、その笑みは少しだけ違う。
自分だけが知っていたものを、他の誰かにも見つけてもらった時のような。
ほんの少し、誇らしそうにも見えた。
「殿下?」
俺が呼ぶと、アレクシスは首を振った。
「ううん。ただ、僕は前から、ヴェルシアナはそういうところを見ると思ってたから」
何気なく言われた。
けれど、その言葉は胸の奥へ静かに落ちた。
大きな音はしない。
それでも、深い水へ落ちた一滴のように、ゆっくりと輪を広げていく。
「……ありがとうございます」
そう返すと、今度はアレクシスの方が少しだけ目を丸くした。
◇
訓練が終わり、帰り支度を始める頃。
ディルヴァンがもう一度、俺の隣へやってきた。
さっきまでの興奮は少し落ち着いている。
けれど、目だけはまだ次の何かを探しているようだった。
「次、何やる?」
「もう次のお話ですか?」
「今日ので終わりじゃないだろ」
「誰が決めたのです?」
「俺」
「却下いたします」
「早いな」
ディルヴァンは少し笑ったあと、今度はすぐに食い下がらなかった。
訓練場の奥へ並ぶ器具を見ながら、しばらく考えている。
「でも、今日みたいなのがいい」
「今日みたいな?」
「同じもの見て、やり方が変わるやつ」
その言葉には、俺も少しだけ意外だった。
「勝ちたいのでは?」
「勝ちたいよ。でも、それだけなら俺が得意なやつを選べばいい」
ディルヴァンは自分の手を見て、それから軽く握る。
「今日みたいに、お前が俺と違うところ見つける方が面白い」
少しだけ、胸の奥が動いた。
その感覚が何なのかは、まだよく分からない。
ただ。
自分も同じことを思っていた。
「……それは、私もそう思います」
「じゃあ決まり」
「何も決まっておりません」
「またそれ言う」
「大切なことです」
ディルヴァンは笑う。
でも、以前のように一方的にこちらの予定を決めてしまう感じではなかった。
「じゃあ、お前がやりたいって言うやつ探す」
「どうしてそうなるのです?」
「その方がちゃんと乗ってくるだろ」
そう言われると否定しづらい。
今日の勝負も、結局かなり楽しんでしまった。
「勝手に危険なものを持ってこないでくださいませね」
「危険じゃなきゃいい?」
「今の返答から嫌な予感しかしません」
「大丈夫。ちゃんと先生に聞く」
「そこまで含めてお願いいたします」
「分かった」
返事だけは素直だ。
少し後ろから見ていたミレーヌが、また何か言いたそうな顔をしている。
アレクシスはもっと静かだった。
そして。
俺たちは知らなかった。
少し離れたところで、この一連の訓練を見ていた若い騎士たちが、すでに別の意味でざわつき始めていたことを。
◇
「……あれ、六歳ですよね?」
最初に口を開いたのは、訓練場の端で片づけをしていた若い騎士だった。
「アルセリード公爵令嬢か」
「はい。ヴァレンティス様も九歳ですよね」
「そちらは聞いていた。辺境公爵家の長子は、剣も魔力操作も相当だとな」
「では、公爵令嬢の方は?」
「知らん」
視線の先では、銀色の髪の少女が灰髪の少年へ何か言い返している。
その隣では王太子が穏やかに笑い、少し後ろを若草色のドレスを着た少女が歩いていた。
遠目に見れば、どこにでもいるとは言えないまでも、まだ幼い貴族の子供たちにしか見えない。
だからこそ。
先ほどまで目の前で起きていたこととの落差が大きい。
「仕掛け箱、初見ですよね?」
「そのはずだ」
「俺、最初に右下へ流しましたけど」
「俺もだ」
「球、割りました?」
「割った」
二人とも、そこで黙った。
しばらくして、少し離れたところにいた別の騎士が困ったように笑う。
「お前たち、比べる相手を間違えているぞ」
「でも六歳ですよ?」
「だから余計に比べるな」
冗談のような言葉だったが、笑いきれる者はいなかった。
ヴァレンティス家の少年が異常なほど優れた魔力制御を見せたことは、まだ理解できる。
名門の嫡男。
幼い頃から訓練を受け、将来を期待されている。
そういう前情報がある。
だが、アルセリード公爵令嬢については違った。
魔力量が多い。
それだけなら、才能のある子供という言葉で片づけられる。
ところが、その大きな力を持つ本人は、最後の課題で真っ先に力へ頼らなかった。
箱を持ち上げ、線の違いを拾い、目立つ場所ほど疑い、仕掛けそのものを外側から読んだ。
一方の少年は、針穴へ糸を通すような魔力操作で内部を直接探った。
方法は真逆だった。
だからこそ。
同じ答えへ辿り着いた時、その違いが余計に鮮明になった。
「……あの二人」
若い騎士の一人が、遠ざかっていく背中を見ながら呟く。
「将来、同じ場所にいたら大変じゃないですか?」
誰もすぐには答えなかった。
ただ一人。
今日ずっと彼らを案内していた騎士だけが、少し考えたあとで静かに口を開いた。
「将来のことは存じません」
畏まった口調は崩さない。
けれど、その口元にはほんの少しだけ笑みがあった。
「ただ、今の時点でも十分に大変かと存じます」
その日から。
王宮騎士団のごく一部で、
ヴァレンティス家の神童と、その隣で平然と別解を出したアルセリード公爵令嬢。
二人の名前が、本人たちより少しだけ先を歩き始めることになった。




