第39話 悪役令嬢は、見られていないところで評判を変える
王宮騎士団での訓練から数日後。
俺は、母さんに連れられて小規模な茶会へ参加していた。
主催は、王都でも古くから社交界に名を持つ侯爵夫人。参加者の多くは母さんと同世代の貴婦人たちで、その子供として招かれた令嬢や令息が庭園の一角に集められている。
俺にとっては、こういう場も少しずつ珍しいものではなくなってきた。
以前なら、知らない貴族が何人いるかを数え、その中に原作で覚えのある家名がないかを探し、誰にどこまで近づいていいのかを考えていたと思う。
今でも警戒がなくなったわけではない。
ただ、目の前にいる全員を未来の危険人物候補として見るほどではなくなった。
それだけでも、随分と楽だ。
「ヴェルシアナ」
隣から母さんの声がした。
「はい、お母様」
「そんなに難しいお顔をしなくても大丈夫よ。今日は本当に小さな茶会ですもの」
「考えごとをしていただけです」
「それならいいけれど」
母さんはそう言って、俺の銀色の髪を耳の後ろへそっと整えた。
今日の髪には、六歳の誕生日にもらった淡い青銀色のリボンが結ばれている。
俺自身は、そこまで深く考えずに選んだ。
けれど母さんは朝からかなり機嫌がよかった。
贈ったものを実際に使っている姿が嬉しいのだろう。
「とても似合っているわ」
「ありがとうございます」
「もう少し大きな飾りでもよかったのだけれど」
「これくらいが使いやすいです」
「……そうね」
ほんの一瞬だけ残念そうな顔をしたあと、母さんはすぐ微笑んだ。
以前なら、もっと大きな飾りを勧められていたかもしれない。
今は俺の「使いやすい」をそのまま受け取ってくれる。
そういう小さな変化が、最近は少し嬉しい。
「お嬢様」
後ろからミレーヌが声をかけた。
今日は彼女も、侍女としてではなくエルヴァート男爵家の令嬢として招かれている。
薄い若草色のドレスは以前よりずっと馴染んでいて、本人ももう裾を気にして歩幅を小さくしすぎることはなくなった。
「そろそろ皆さまが庭園へ移動されるようです」
「分かりました」
子供たち用の席は、大人たちのいるテラスから少し離れた場所に用意されていた。
俺とミレーヌが歩き出すと、少し先で蜂蜜色の髪が揺れる。
「ヴェルシアナ様!」
リュネアだ。
こちらに気づいた途端、ぱっと顔を明るくして駆け寄ってくる。
「ごきげんよう、リュネア様」
「ごきげんよう! 今日いらっしゃると聞いて、ずっと楽しみにしていたの」
「それは光栄です」
「またそんな言い方をするのね」
「どのような言い方でしょう?」
「少し大人みたい」
そう言ってリュネアが笑う。
その笑顔を見ていると、こちらまで少し肩の力が抜ける。
以前の彼女は、俺の顔色を気にしながら話すことがあった。
今はほとんどない。
それだけでも、友人というものはちゃんと積み重なるらしい。
「今日は何をなさるのでしょう」
ミレーヌが尋ねる。
「さっき聞いたのだけれど、庭園の奥で花を見たあと、刺繍の見本を見せていただけるそうよ」
「刺繍……」
俺の反応を見て、リュネアがすぐ笑った。
「ヴェルシアナ様は、あまり得意ではなかったものね」
「嫌いではありません。ただ、得意でもありません」
「私は楽しみ」
「リュネア様はお上手ですものね」
そんな話をしながら、三人で庭園へ向かう。
その途中。
視線を感じた。
一人ではない。
何人かの令嬢たちが、少し離れたところからこちらを見ている。
露骨ではない。
でも、ちらちらと視線が来る。
前にもあった。
俺の顔が強いからだろうか。
それとも、先日の茶会で何か余計なことをしただろうか。
考えていると、リュネアが声を潜めた。
「最近ね、ヴェルシアナ様のお話をする方が少し増えたの」
「私の?」
「ええ」
嫌な予感がする。
「どのようなお話でしょう」
「怖い方だと思っていたけれど、違うのかもしれないって」
「……以前はやはり怖いと思われていたのですね」
「お顔が、とても綺麗だから」
「それは理由になります?」
「なるの」
即答された。
よく分からない。
「あと、ミレーヌ様のこと」
リュネアが続ける。
俺は隣を見る。
ミレーヌも少し不思議そうな顔をしていた。
「先日の茶会で、ミレーヌ様がご自分でお答えになっていたでしょう? そのあとヴェルシアナ様が隣に立って……」
「ああ」
あの時か。
ミレーヌへ向けられた質問が、途中からアルセリード家の教育や管理へ話を広げたので、俺が答えただけだ。
「それが何か?」
「皆さま、少し驚いていたみたい。てっきり、ヴェルシアナ様が最初から全部お答えになると思っていたのですって」
「ミレーヌへの質問でしたから」
「だからよ」
リュネアは、どうして分からないのかという顔をした。
「それに、ミレーヌ様を後ろへ下げなかったでしょう?」
言われて、少し考える。
そういえば。
俺はミレーヌの前には立たなかった。
隣に立った。
でも、そこまで意識していたわけではない。
ミレーヌ自身が答えられることを俺が奪う理由はないし、アルセリード家に関する部分だけ俺が答えるなら、隣に立つのが自然だった。
「普通では?」
「たぶん、ヴェルシアナ様にとっては」
リュネアはそう言って笑った。
その言い方が、少しだけ引っかかった。
けれど、深く考える前に、庭園の奥から別の声が聞こえてきた。
「リュネア様」
呼ばれて振り返る。
そこにいたのは、俺と同じくらいか、少し年上に見える少女だった。
薄い紫色の髪を肩のあたりで揃え、淡い灰色の瞳をしている。
身につけているドレスは上品だが、飾りは少ない。
整った顔立ちの中でも、特に目元がはっきりしていた。
柔らかいというより、気の強そうな印象だ。
「オルティア様」
リュネアが笑顔になる。
聞き覚えのない名前。
少なくとも、ゲームで強く印象に残っている人物ではない。
「こちらは?」
少女――オルティアが俺を見る。
視線に怯えはない。
かといって、好意的すぎるわけでもない。
真っ直ぐだ。
「ヴェルシアナ・アルセリード様です」
「存じております」
即答だった。
俺は少しだけ眉を上げる。
オルティアは俺の前で綺麗に一礼した。
「オルティア・グランセルと申します。グランセル侯爵家の次女にございます。お初にお目にかかります、アルセリード公爵令嬢」
「ヴェルシアナ・アルセリードです。よろしくお願いいたします、グランセル様」
「こちらこそ」
礼儀は完璧。
でも、少しだけ距離がある。
嫌われている、というほどではない。
警戒されているのだろうか。
「オルティア様は、お花より刺繍の方を楽しみにしていらっしゃるの」
リュネアが言う。
「ええ。こちらのお屋敷では古い図案を多く所蔵していると伺いましたので」
「お好きなのですね」
「好きというより、得意です」
さらっと言い切った。
自信があるらしい。
嫌いではない。
こういう人の方が話しやすい。
「素晴らしいですね」
俺が言うと、オルティアは一瞬だけ目を細めた。
「……素直に褒めてくださるのですね」
「褒めるべきことだと思いましたので」
「そうですか」
短い返事。
やっぱり、少し警戒されている。
まあ、初対面ならこんなものだろう。
無理に距離を縮める必要はない。
◇
庭園の奥には、季節の花が一面に植えられていた。
白、黄色、淡い青。
色の違う花が細い石畳を挟んで並び、風が吹くたびに香りが少しずつ混ざる。
令嬢たちは数人ずつに分かれ、付き添いの女性たちから花の名前や由来を聞いている。
俺はリュネアとミレーヌ、それからなぜかオルティアと同じ組になった。
他にも二人ほど令嬢がいる。
そのうちの一人が、花壇を見ながら何気なく言った。
「アルセリード様は、お花もお詳しいのでしょうか」
「いいえ。人並みだと思います」
「意外です」
「どうして?」
「何でもご存じなのかと」
何だそれは。
「そのようなことはありません。知らないことの方が多いです」
答えると、相手は少し驚いた顔をした。
隣でオルティアがこちらを見る。
「ご自分でそう仰るのですね」
「事実ですので」
「……そうですか」
また同じ返事。
この子は何を考えているのだろう。
けれど、聞くほどでもない。
そのまましばらく歩いていると、少し前の方から小さな悲鳴が上がった。
「きゃっ」
何かが倒れる音。
見る。
庭園の端に置かれていた装飾用の鉢が、風か何かで傾いていた。
大きなものではない。
けれど、その近くにいた幼い令嬢が驚いて足を引き、後ろの石段に気づかないままバランスを崩した。
考えるより先に身体が動いた。
「危ない」
手を伸ばす。
細い腕を掴み、そのままこちらへ引いた。
少女の身体が前へ倒れ込み、俺の肩へ軽く触れる。
同時に鉢が地面へ落ち、乾いた音を立てた。
中の土が少しだけ散る。
「大丈夫ですか?」
腕の中に入った少女へ聞く。
「……え」
固まっている。
怖かったのだろう。
無理もない。
俺はしゃがみ、足元を見る。
「足は捻っていません?」
「だ、大丈夫……です」
「手は?」
「はい」
「そうですか。よかった」
立ち上がろうとした少女の肩が、まだ少し震えていた。
視線が落ちた鉢へ向いている。
割れてはいない。
でも、さっきの音が残っているのかもしれない。
「こちらを見ていてください」
俺は言った。
「え?」
「片づけは大人の方がしてくださいます。怖いものを、無理に見続ける必要はありません」
少女が俺を見る。
灰色の瞳。
さっきまで一緒に歩いていたオルティアだった。
一瞬、分からなかった。
転びそうになったのが彼女だったとは。
近くにいた使用人がすぐ駆け寄ってくる。
「オルティア様、お怪我はございませんか?」
「……ええ」
「お召し物に土が」
裾を見る。
鉢の土が少しだけ跳ねていた。
薄い紫の布に、茶色い点がいくつかついている。
大した汚れではない。
でも。
周囲には令嬢たちがいる。
何人か、こちらを見ている。
オルティアの顔がわずかに強張った。
たぶん、転びかけたことより、そちらの方が嫌なのだろう。
前世でも、こういうのは分かる。
本人が一番気にしているものを、周りが善意で大きく扱うと余計につらい。
俺は自分の肩にかけていた薄手のショールを外した。
「こちらを」
「……何を?」
「少し冷えてきましたので」
そう言いながら、オルティアの肩へ掛ける。
長さは十分。
前を閉じれば、汚れた裾の一部も目立ちにくくなる。
「でも、これはアルセリード様の」
「私は今、暑いくらいです」
嘘ではない。
少し動いたから、むしろ暑い。
オルティアは何か言おうとして、口を閉じた。
周囲の令嬢たちへ目を向ける。
俺も自然にそちらを見た。
「皆さま、先へ参りませんか? こちらは使用人の方が対応してくださるそうですので」
何でもないことのように言う。
何人かは、少し戸惑ったあと頷いた。
「そうですわね」
「次の花壇も見たいです」
視線が散る。
大げさな騒ぎにはならなかった。
よし。
その方がいい。
「オルティア様は、少し休まれます?」
「……いいえ」
返事はすぐだった。
でも声は、さっきより小さい。
「一緒に参ります」
「分かりました」
俺はそれ以上聞かなかった。
転びそうになったことも。
怖かったかどうかも。
裾の汚れも。
本人が話したくないなら、わざわざ確認する必要はない。
◇
少し歩いたあと。
リュネアとミレーヌが、別の花の説明を聞くために前へ出た。
俺とオルティアだけが、少し後ろになった。
ショールを肩に掛けたまま、オルティアは何も言わない。
さっきまでより静かだ。
怖さが残っているのだろうか。
「本当に、お怪我はございません?」
念のため聞く。
「ありません」
「でしたらよかったです」
「……どうして」
オルティアが言った。
「はい?」
「どうして、何も聞かないのです?」
何のことだろう。
「何をでしょう」
「わたくしが転びそうになったことも、怖かったかどうかも、ドレスが汚れたことも」
俺は少し考えた。
「聞いてほしいのですか?」
オルティアが止まった。
「……いいえ」
「でしたら、聞きません」
それ以外に答えようがない。
オルティアは俺を見ている。
さっきまでの警戒するような目ではなかった。
何かを確かめているような。
そんな視線だった。
「アルセリード様は」
「はい」
「いつも、そうなのですか?」
「何がでしょう?」
「……いえ」
オルティアは一度だけ視線を外した。
その頬が、ほんの少し赤い。
転びかけて驚いたせいだろうか。
「ショールは、後ほど必ずお返しいたします」
「急がなくて大丈夫です」
「でも」
「汚れても構いません。使うためのものですから」
「……そういうことを、平然と仰るのですね」
「おかしいですか?」
「少し」
そう言って。
オルティアは初めて、小さく笑った。
笑うと、思っていたより柔らかい顔になる。
気の強そうな印象が少し薄れ、年相応に見えた。
「では、次から気をつけます」
「そこを直してほしいわけではありません」
よく分からない。
でも、さっきよりは話しやすくなった気がする。
それなら十分だ。
◇
刺繍の見本が置かれた部屋へ移る頃には、さっきの出来事はもう誰も口にしていなかった。
少なくとも、俺の前では。
オルティアも普通に参加している。
ショールはまだ肩に掛けたままだ。
「この図案、かなり古いものですね」
彼女が一枚の見本を覗き込む。
白い布に、細い銀糸で植物の模様が縫われている。
「分かるのですか?」
「糸の留め方が今と違います。あと、この花は現在あまり使われません」
「すごいですね」
俺が素直に言うと、オルティアが少しだけこちらを見る。
「また、すぐ褒めるのですね」
「本当に分からなかったので」
「……そうですか」
前と同じ言葉。
でも、響きは少し違った。
「ヴェルシアナ様」
リュネアがこちらへ寄ってくる。
「こちらの図案、とても綺麗です」
見ると、小さな青い花が連なっている。
「本当ですね」
「今度、これに似たものを刺してみたいの」
「では、完成したら見せてください」
「もちろん!」
リュネアが嬉しそうに笑う。
その横でミレーヌも別の見本を見ている。
少し離れたところには、先ほどまで遠巻きにこちらを見ていた令嬢たち。
目が合う。
今度は逸らされなかった。
一人が、少し迷ったあとこちらへ近づいてくる。
「アルセリード様」
「はい?」
「こちらの刺繍について、少しご意見を伺ってもよろしいでしょうか」
「私で分かることでしたら」
「ありがとうございます」
その後ろから、もう一人。
「わたくしも、あとで少しお話ししても?」
「もちろんです」
何だろう。
今日は妙に話しかけられる。
さっきまで遠くから見ていたのに。
俺が不思議に思っていると、隣でリュネアが小さく笑った。
「ほら」
「何がです?」
「何でもありません」
ミレーヌまで少し笑っている。
何なのだろう。
◇
その頃。
少し離れた場所では、俺の知らない会話が交わされていた。
「……本当に、思っていた方と違うのね」
一人の令嬢が、小さな声で言った。
「だから言ったでしょう」
「でも、もっと……」
「怖い?」
「少し」
「私も前はそう思っていたわ」
別の少女が、刺繍見本の向こうから銀色の髪を見る。
光を受けた髪は淡く白く見え、赤紫の瞳は離れた場所からでもはっきり分かる。
黙っていれば、確かに近寄りがたい。
公爵令嬢。
美しい。
姿勢が崩れない。
何を考えているか分からない。
それだけ並べれば、六歳の少女へ持つ印象としては強すぎる。
「でも、オルティア様の時」
「見た?」
「ええ」
鉢が倒れた瞬間。
周囲が声を上げるより先に、銀髪の少女が手を伸ばした。
引き寄せる動きに迷いがなかった。
そして転びそうになった相手を叱るでもなく、大騒ぎするでもなく、最初に足と手の怪我を確認した。
「『こちらを見ていてください』って……」
「聞こえたの?」
「近かったもの」
言った令嬢の頬が、なぜか少し赤い。
「それからショールでしょう?」
「ええ」
「ドレスが汚れたこと、誰にも言わなかったわ」
「むしろ、皆を先へ行かせた」
「……ああいうの、ずるくない?」
「何が?」
「分からないけど、ずるいわ」
話していた二人が、小さく笑う。
その近くで。
オルティアは何も言わず、手元の刺繍見本を見ていた。
肩には、まだヴェルシアナのショールが掛かっている。
「オルティア様?」
「何?」
「そのショール」
「あとで返します」
「そうではなくて」
「……何ですの」
「お気に召したのかと思って」
オルティアは一瞬だけ黙った。
「借りているだけです」
「そう」
「それだけです」
少し強い声だった。
だから。
その場にいた二人は、それ以上何も言わなかった。
ただ、オルティア本人だけが知らなかった。
さっきから無意識に、ショールの端を指先で何度も撫でていることを。
◇
茶会の終わり。
馬車へ戻る途中で、オルティアが俺を呼び止めた。
「アルセリード様」
「はい」
振り返る。
彼女の手には、綺麗に畳まれたショールがあった。
「ありがとうございました」
「もう大丈夫なのですか?」
「ええ。ドレスの方も、目立たないよう整えていただきましたので」
「それならよかったです」
ショールを受け取る。
オルティアは、そのまま帰るのかと思った。
けれど、まだ動かない。
「どうしました?」
「……次の茶会にも、いらっしゃいます?」
少し意外な質問だった。
「予定が合えば、参加すると思います」
「そうですか」
オルティアは一度だけ頷いた。
そして、ほんの少し迷ったあと。
「でしたら、その時に刺繍のお話をしても?」
「もちろんです」
「……ありがとうございます」
今度は、ちゃんと笑った。
最初に会った時よりずっと柔らかい。
その笑顔を見ながら、俺は単純に思った。
少し仲良くなれたのかもしれない。
それなら嬉しい。
友人が増えるのは、悪いことではない。
しかも女の子同士なら、余計な未来を警戒する必要もない。
そう考えたところで。
少し前を歩いていたミレーヌが、なぜかこちらを振り返っていた。
リュネアも、その隣で笑っている。
「どうしました?」
「何でもありません」
ミレーヌが答える。
「本当に?」
「はい」
何となく納得できない。
けれど、追及するほどでもない。
俺は母さんの待つ馬車へ向かって歩き出した。
その背後で。
今日初めて会った一人の令嬢が、こちらの姿が見えなくなるまで立っていたことを。
俺は、もちろん知らなかった。




