第37話 悪役令嬢は、魔獣の角を前に目を輝かせる
ディルヴァンと初めて会ってから、十二日。
俺の机の上には、一通の手紙が置かれていた。
封蝋に刻まれているのは王家の紋章。差出人はアレクシスである。
最近は、この紋章を見ても以前ほど胃が重くならなくなった。
慣れというものは恐ろしい。
少し前までなら、王宮から手紙が届くだけで「何かやったか?」と身構えていたのに、今では封を切る前から、古い橋の続きだろうか、それとも先日話していた魔獣についてだろうかと考えている。
人間は案外、環境に適応する生き物らしい。
「お嬢様、殿下からのお手紙ですか?」
向かいで帳簿を見ていたミレーヌが顔を上げた。
「ええ。おそらく」
ペーパーナイフを差し込み、封を開く。
便箋を広げると、以前より少しずつ整ってきたアレクシスの文字が並んでいた。
『先日話していた魔獣の素材が、北部から王宮騎士団へ届きました』
やっぱり。
視線が自然と、その先へ滑る。
『騎士団長に確認したところ、保管前であれば一部を見学してもよいそうです。父上からも許可をいただきました』
そして、その下。
『ディルヴァンが「約束しただろう」と朝からうるさいので、彼もいます』
その一文で、光景があまりにも簡単に浮かんだ。
王太子の執務机か何かに寄りかかりながら、まだか、いつだ、忘れてないだろうな、とせっついている姿まで想像できる。
口元が緩みそうになったところで、向かいから声が飛んできた。
「楽しそうですね」
俺は便箋から顔を上げる。
「まだ何も言っていませんよ」
「はい」
ミレーヌはそれ以上何も言わず、ほんの少しだけ笑った。
……以前なら、ここで自分の表情について聞き返していた気がする。
やめよう。
最近それをやりすぎている。
何でも言葉にして確かめればいいというものでもない。
俺は何事もなかったように手紙へ戻った。
最後には日程と、もう一つ気になる文章があった。
『それから、ディルヴァンとの勝負について騎士団の方に話したところ、使えそうな訓練具があるそうです。もし本当にやるなら、見学の日に一度見せてもらえることになりました』
なるほど。
話が思っていた以上の速度で進んでいる。
あの日は、半分以上ディルヴァンの思いつきだったはずだ。
それが十二日後には騎士団まで巻き込み、訓練具の候補まで用意されている。
あいつの行動力は、どうやら自分の身体だけを前へ運ぶものではないらしい。
小石を一つ投げれば、自分までその波紋を追いかけて水へ飛び込み、周囲まで濡らしていくようなところがある。
「行かれるのですか?」
ミレーヌが尋ねた。
「行きたいです」
これは迷わなかった。
魔獣の実物。
正確にはその一部だが、本や図でしか知らなかったものを直接見られる機会は今までなかった。
しかも、ただ珍しいものを眺めるだけではない。
討伐された魔獣から何を調べ、何を記録し、それを次の戦いへどう繋げるのか。
そちらの方が、むしろ気になる。
「ミレーヌも興味があります?」
「あります」
返事が早かった。
「可能でしたら、記録も拝見してみたいです」
「そちらですか」
「お嬢様も同じことをお考えではありませんでした?」
否定できない。
俺たちは少しだけ顔を見合わせた。
最近、こういうところで妙に気が合う。
「では、同行できるか確認してみましょう」
「はい」
嬉しそうに頷くミレーヌを見てから、俺はもう一度便箋へ視線を戻した。
魔獣。
騎士団。
知らない訓練具。
それに、ディルヴァン。
六歳になってから、俺の周囲には知らないものが少しずつ増えている。
以前なら、知らないものが増えるほど不安になった。
未来を変えるためには、できるだけ多くを知り、できるだけ多くを把握しておかなければならないと思っていたからだ。
今は少し違う。
知らないから、見たい。
破滅を避けるためでもなく、未来を変えるためでもなく、ただ面白そうだから。
そんな理由で何かを知りたいと思えることが、自分の中では思っていた以上に新しかった。
◇
数日後。
王宮騎士団の資料棟へ案内された俺は、中へ入った瞬間、自分の想像が随分と偏っていたことを知った。
騎士団の施設と聞いて、もっと武器が並び、鎧を着た騎士が行き交う場所を思い描いていたのだ。
実際には、匂いからして違った。
乾いた革。
木箱。
薬草にも似た少し刺激のある香り。
古い紙。
金属。
それらが長い年月をかけて一つの建物へ染み込んだような匂いがする。
壁際には剣や槍ではなく、番号札のついた箱が規則正しく並び、棚には瓶詰めされた小さな素材や、巻かれた地図らしきものまで収められていた。
「倉庫みたいですね」
ミレーヌが声を潜める。
「私も同じことを思いました」
「二人とも最初にそこ見るんだな」
前を歩いていたディルヴァンが振り返った。
今日は訓練着ではなく、濃い灰色を基調にした簡素な礼装を身につけている。
さすがに王宮内を歩く時まで、前回のような格好ではないらしい。
ただし、歩き方は変わらない。
案内役の騎士より半歩前へ出そうになるたび、隣を歩くアレクシスが袖を軽く引いている。
「ディルヴァン、案内される側が先へ行かないで」
「まだ行ってないだろ」
「行こうとしてたよ」
「一歩だけ」
「その一歩を止めてるんだよ」
十二日前と何も変わっていない。
妙なところで安心した。
「こちらでございます」
案内役の騎士が足を止めた。
年齢は三十代ほどだろうか。
落ち着いた物腰の男性で、胸元には騎士団の紋章が入っている。
彼は重い扉へ手をかけると、俺たちへ一度向き直った。
「この先は素材保管前の確認室となっております。保存処理前の品もございますので、恐れ入りますが、展示物にはお手を触れになりませんようお願いいたします」
「分かりました」
アレクシスが代表して答え、俺たちも頷く。
扉が開いた。
中は先ほどの廊下よりさらに涼しい。
窓は小さく、直射日光が入らないようになっているらしい。
中央には大きな作業台があり、その上に厚い布をかけられたものが三つ置かれていた。
「今回、北部より届きました素材のうち、比較的状態の良いものをこちらへ用意しております」
騎士が作業台の横へ立つ。
「魔獣そのものではございませんが、種類によっては外見にかなり特徴がございます。驚かれることもあるかと存じますので、その点だけご了承ください」
布が取り払われた。
「……」
最初に目へ入ったのは、角だった。
黒い。
ただの黒ではない。
根元は煤のように光を吸い込む色をしているのに、先端へ近づくほど表面へ青紫の光沢が浮かび、角度によって薄く色を変える。
長さは俺の腕よりもある。
真っ直ぐではなく、根元から少しずつ後方へ湾曲していた。
隣には掌より大きな鱗。
さらにその横には、獣の爪にも鳥の鉤爪にも見える黒灰色の爪が並んでいる。
「これが……」
気づけば、一歩近づいていた。
見たい。
表面の質感も。
根元の構造も。
図鑑では一本の線で描かれていた部分が、実物では細かく層になっている。
さらに覗き込もうとしたところで、目の前に一本の腕が出た。
「近い」
ディルヴァンだった。
「触るなって言われただろ」
「触るつもりはございません」
「そのまま行ったら鼻が触れそうだったぞ」
「そこまで近づいておりません」
「いや、近かったよ」
今度はアレクシスまで加わった。
俺は二人を見て、それから自分と作業台との距離を見る。
……少しだけ近かったかもしれない。
一歩下がる。
「ヴェルシアナがディルヴァンに止められる側になるの、ちょっと珍しいね」
アレクシスが静かに笑う。
「私を何だと思っていらっしゃるのです?」
「今は、魔獣の角に夢中な人かな」
否定しづらい。
視線だけを横へ動かすと、ミレーヌは角そのものではなく、その脇へ置かれている紙束を見ていた。
やっぱりそちらか。
「恐れ入ります」
ミレーヌが案内役の騎士へ丁寧に声をかけた。
「こちらの素材に関する記録も、拝見することはできますでしょうか」
「はい。一部でございましたらご覧いただけます」
騎士はすぐに頷き、紙束の中から数枚を抜き出した。
「討伐に関する詳細には騎士団内部の情報も含まれておりますので、今回は公開可能な箇所のみを抜粋しております。こちらでよろしければ、どうぞご覧ください」
「ありがとうございます」
ミレーヌが両手で受け取り、俺も横から覗き込む。
魔獣名。
出現場所。
推定年齢。
体長。
外皮の特徴。
確認された魔力の性質。
討伐に参加した人数。
負傷者。
周辺被害。
想像していたよりずっと細かい。
「ここまで記録されるのですね」
俺が言うと、騎士は穏やかに答えた。
「はい。同種の魔獣が再び出現した際、過去とまったく同じ方法が通用するとは限りません。しかし、以前どのような状況で、どのような対応を行ったのかが残されているのといないのとでは、初動に大きな差が生じます」
「魔獣には、それほど個体差があるのですか?」
「ございます。大きさや外皮の硬さはもちろん、個体によっては魔力の使い方にも違いが見られます。そのため、名称だけで危険度を判断しないよう、可能な限り詳細を残しております」
「だから、素材そのものも?」
「お考えの通りでございます」
騎士は黒い角へ視線を向けた。
「記録された内容と現物を照合することで、討伐時の報告を後から検証することも可能でございます。特に魔力の痕跡や外傷については、現物が残っているからこそ確認できることも少なくありません」
俺は黒い角を見る。
紙に残された文字。
目の前に置かれた現物。
どちらも同じ魔獣について語っている。
けれど、一方だけでは足りない。
少し前まで見ていた領地の記録と似ている。
数字は便利だ。
時間も、迷いも、雨も、人の疲れも、すべて同じ黒い文字へ整えてくれる。
だから比べられる。
その代わり、整えた時にこぼれるものもある。
現物だけを見ても過去の状況は分からないし、記録だけを見ても角の重さや表面までは伝わらない。
二つを並べて、初めて輪郭が少し立ち上がる。
「こちらの角を持つ魔獣は、どのような種類なのでしょう?」
「こちらは黒角獣と呼ばれる魔獣でございます」
騎士は一枚の記録を開いた。
「北部では比較的よく確認されており、突進力に優れた種類でございます。突進の直前には、前脚、首、そして角へ魔力を集中させる性質が確認されております」
俺の視線が自然とディルヴァンへ向いた。
向こうも同じことを思ったらしい。
「俺とちょっと似てるな」
「少しだけですね」
「そこは普通に似てるでいいだろ」
「あなたは角を使って突進なさらないでしょう?」
「しないよ」
「でしたら、少しだけです」
ディルヴァンは納得していないようだが、俺の興味はすでに角へ戻っていた。
「魔力を集中させていたことは、どのように確認されるのでしょう?」
「討伐時の観察に加え、素材内部へ残る魔力残滓から判断いたします」
「残滓……」
「はい。魔力を大量に、あるいは繰り返し流した部位には、討伐直後であればごく薄く痕跡が残ることがございます。時間の経過とともに失われていきますので、保存前の確認が重要となります」
騎士は角の根元へ触れない程度に手を寄せた。
「今回の個体では、特に根元から中ほどへかけて、強い残滓が確認されております」
見えるだろうか。
俺は少し意識を集中した。
ヴィクトルからは、素性の分からない物へ勝手に魔力を伸ばすなと言われている。
だからこちらから触れようとはしない。
ただ、そこに残っているものを感じ取ろうとする。
黒い角。
表面は静かだ。
石とそれほど変わらない。
けれど、じっと見ていると、根元の辺りだけ空気がほんの少し重く感じる。
光があるわけでもない。
色が見えるわけでもない。
ただ、そこだけ水の底が少し深いような感覚があった。
「……根元でしょうか」
口から漏れた。
案内役の騎士の表情がわずかに動いた。
「お分かりになりますか?」
「分かる、と言えるほどではありません。ただ、先端よりも根元の方が……少し重く感じます」
「左様でございますか」
騎士は角を確認し、それから俺へ視線を戻した。
「実際、最も強い残滓が確認されているのは根元付近でございます。これほど時間が経った状態で感知されるのでしたら、かなり感覚がお鋭いのかもしれません」
「偶然かもしれません」
「その可能性もございます。ただ、実際の位置とは一致しております」
断定しすぎない。
でも、観察したことはそのまま伝える。
そういう話し方なのだろう。
隣でディルヴァンも角へ意識を向けていたが、しばらくして肩を竦めた。
「俺は全然分からない」
「ヴァレンティス様でもですか?」
「残ってる魔力を探すのはあんまり得意じゃない。動いてるやつなら、どこに集めたか分かりやすいけど」
なるほど。
また違う。
ディルヴァンは生きて動いている魔力を、身体の動きと一緒に捉えるのが得意なのだろう。
一方で俺は、止まったものに残っている小さな差を拾いやすいのかもしれない。
どちらが優れているという話ではない。
見えているものが違う。
「面白いですね」
思わず呟いた。
「何が?」
アレクシスが尋ねる。
「同じ魔力でも、人によって拾いやすいものが違うことです。私はヴァレンティス様ほど、自分の身体の中で魔力を細かく動かせません。でも、今のようなものなら、私の方が気づきやすい場合もある」
言葉にするうち、自分の中でも少し整理されていく。
「得意というものは、一つの物差しだけでは測れないのですね」
するとディルヴァンが、少し呆れたように笑った。
「お前、角一個見ながらそこまで考えるんだな」
「では、ヴァレンティス様は何を?」
「角、でかいなって」
「……なるほど」
「今、絶対ちょっと馬鹿だと思っただろ」
「口には出しておりません」
「それ、否定になってない」
横でアレクシスが笑いを噛み殺している。
俺は何事もなかったように記録へ視線を落とした。
そこに、一つ気になる数字があった。
「この負傷者数……」
ほとんど同時に、ミレーヌの指も同じ場所で止まった。
「三名、ですね」
「ええ。でも、討伐に参加した方は十二名です」
隣に置かれている別の討伐記録を見る。
似た種類の魔獣。
討伐人数は八名。
負傷者は一名。
「人数が多い方が、負傷者も多いのですね」
アレクシスも覗き込む。
「こちらの個体の方が大きかったからでしょうか」
「それもあるかもしれません」
俺は体長の欄を見る。
確かに、十二名で討伐した個体の方が大きい。
ただ、それだけだろうか。
別の欄へ視線を移す。
出現場所。
一方は渓谷。
もう一方は平地。
「場所も違います」
言った瞬間、ミレーヌも気づいた。
「渓谷……。では、人数が多くても全員が同時には動けなかったのでしょうか」
「可能性はありますね」
俺たちが顔を上げると、案内役の騎士がゆっくり頷いた。
「はい。お二人のお考えの通りでございます」
騎士は記録の該当箇所を示した。
「この討伐では谷幅が狭く、前衛へ出られる人数が限られておりました。後方に配置された騎士が十分に動けず、結果として前衛へ負担が集中しております」
俺とミレーヌは顔を見合わせた。
少し前に見た倉庫の記録と同じだ。
数が多いから有利。
数が増えたから成果が増えた。
そんなふうに、一つの数字だけで答えを決めることはできない。
同じ十二人でも、どこに立ち、どう動けたかで意味が変わる。
「やっぱり、記録だけを見ても全部は分かりませんね」
ミレーヌが呟く。
「ええ。でも現場だけでは、あとから比べることができません」
「だから、両方残すのですね」
「そういうことだと思います」
俺たちの会話を聞いていた騎士が、少しだけ目を細めた。
「失礼ながら、お二人は普段からこのような記録をご覧になっているのでしょうか」
「領地の記録を少しだけです」
俺が答える。
「倉庫や収穫量について、お嬢様と一緒に拝見しております」
ミレーヌも続けた。
騎士は俺とミレーヌを順に見る。
「……六歳と七歳でございますよね」
一応、敬語ではある。
でも、その声の奥に純粋な疑問が透けていた。
俺たちは同時に少し黙った。
そう言われると、確かに一般的ではないのかもしれない。
「興味がございましたので」
結局、それしか答えようがなかった。
騎士は一瞬だけ何とも言えない表情を浮かべたあと、すぐに姿勢を戻した。
「左様でございましたか」
最近、こういう顔をされる機会が増えている。
◇
「それで、勝負の話なんだけど」
標本を一通り見終えたところで、ディルヴァンが待ってましたとばかりに口を開いた。
「急に元気になりましたね」
「忘れてないからな」
「忘れてくださっても構わなかったのですが」
「俺が嫌だ」
案内役の騎士がわずかに笑みを浮かべる。
「その件につきましては、殿下より伺っております」
「本当に話したんだな」
「君がうるさかったからね」
「約束しただろ」
「まだ約束まではしてないって、ヴェルシアナも言ってたよ」
二人のやり取りを聞いた騎士は、笑いを表へ出さないよう一度だけ口元を整えた。
「ちょうど基礎訓練に使用しております器具がございます。実際に競技として用いるには調整が必要となりますが、本日はご覧いただくだけでしたら問題ございません」
「お願いします」
アレクシスが言う。
「承知いたしました。では、こちらへどうぞ」
案内された別室は、先ほどの確認室より明るかった。
広い机の上には、様々な石や金属製の器具が並べられている。
どれも武器というより、研究室の道具に近い。
騎士はまず、手のひらほどの白い石を一つ取り上げた。
「こちらは『微光石』と呼ばれる訓練具でございます」
机の上へ置き、騎士が指先を近づける。
「一定量の魔力を流し込みますと、このように光を発します」
淡い光が、石の内側から静かに滲んだ。
月明かりを小さな石へ閉じ込めたような柔らかい光だ。
「ただし、定められた量を大きく超えますと――」
騎士が流す魔力を強める。
石の光が一瞬だけ白く膨らみ、その直後、何事もなかったように消えた。
「このように反応が停止いたします」
「入れすぎても駄目なのですね」
「はい。主に魔力制御の基礎訓練に用いられております。一定の明るさを保ったまま、規定時間維持することが目標となります」
ディルヴァンが明らかに楽しそうな顔をした。
俺はその横顔を見る。
「あなた向きですね」
「まあ、これは得意かも」
「やはり」
「まだ一個目だろ」
次に騎士が取り出したのは、先ほどよりずっと大きな黒い石だった。
「こちらは逆の性質を持っております」
「逆?」
「はい。一定量以上の魔力を一度に流し込まなければ、反応いたしません」
騎士が手を添える。
少量の魔力を流しているのだろう。
しかし石は何も起こさない。
次の瞬間、魔力を強めると、石の中央へ細い赤い線が浮かび上がった。
「このように、規定量を超えた時点で反応いたします。瞬間的な出力を確認する際などに使用しております」
今度はディルヴァンが俺を見た。
「お前向き」
「おそらくは」
「ほら。一個ずつ得意なのあるじゃん」
「それだけでしたら、一勝一敗になって終わるのでは?」
俺が返すと、ディルヴァンが少し止まった。
「……確かに」
騎士の口元に、今度ははっきり小さな笑みが浮かんだ。
「そのため、通常はこの二種のみで優劣を決めることはいたしません」
そして、机の奥から三つ目の道具が置かれた。
小さな木箱だった。
見た目そのものは、特別華美ではない。
正方形。
掌二つ分ほどの大きさ。
蓋の中央には銀色の細い線で円が描かれ、その円から四隅へ向かって複数の線が伸びている。
宝箱というより、精密な箱だ。
「こちらは?」
「複合訓練用の仕掛け箱でございます」
騎士は箱の横へ手を添えた。
「内部に小さな標的物が収められております。それを損なうことなく取り出すことができれば成功となります」
「開ければいい?」
ディルヴァンが身を乗り出す。
「はい。ただし、単純に蓋を開くことはできません」
騎士は穏やかな声のまま続けた。
「仕掛けを起動させるためには魔力が必要となります。しかし、流し方を誤った場合にも失敗となりますので、力任せでは開きません」
「必要な魔力量は?」
俺が尋ねる。
「そちらも含めて、ご自身で判断していただく形式でございます」
「制御と出力の両方を使う可能性がある?」
「その可能性はございます」
「可能性?」
ディルヴァンが眉を上げた。
騎士はあくまで静かに頷く。
「はい。どの程度の魔力を、どの部分へ、どの順番で使用するか。それ自体を考えるところから訓練となっておりますので、開始前に詳しい正解をお伝えすることはできません」
なるほど。
面白い。
そう思った瞬間、自分の中で何かが一段深く動いた。
微光石なら、ディルヴァンが有利。
黒い石なら、おそらく俺。
でも、この箱は分からない。
必要なのが制御なのか。
魔力量なのか。
観察力なのか。
それとも、全部なのか。
「これなら、先ほど話していた条件に近いね」
アレクシスが箱を見ながら言った。
「うん。これいいな」
ディルヴァンもすぐ頷いた。
俺は答えず、蓋の模様を見ていた。
中央の円。
そこから伸びる銀線。
四隅に配置された、ごく小さな印。
装飾にしては、線の太さが微妙に違う。
右上だけ、中央から伸びる線が一度途切れている。
左下の印は、他の三つよりほんの少し大きい。
ただの意匠だろうか。
それとも意味がある?
「ヴェルシアナ?」
アレクシスに呼ばれ、顔を上げる。
「失礼しました。少し気になるところがありまして」
「何か分かった?」
「まだ何も。ただ……」
もう一度、箱を見る。
案内役の騎士は言った。
仕掛けを起動させるには魔力が必要。
流し方を誤れば失敗。
どの程度の魔力を、どの部分へ、どの順番で使うかを考える。
それだけだ。
大量の魔力が必要とは、一言も言っていない。
制御が最重要とも言っていない。
そもそも。
最初からすべての場所へ魔力を流す必要があるとも、言っていない。
「……面白そうですね」
口にすると、ディルヴァンの顔が一気に明るくなった。
「じゃあ決まり?」
「課題の内容を正式に決めていただいてからです」
「ここまで来てまだ言う?」
「条件も知らずに参加を決める方が問題でしょう?」
「でも、やる気はあるだろ」
俺は箱を見る。
否定する理由が、少しずつなくなっていた。
「……かなり」
「ほら」
「嬉しそうですね」
「だって面白そうじゃん」
それは、俺も同じだった。
自分とまるで違う強みを持つ相手と、同じ問題を前にする。
同じ剣を持つ必要はない。
同じ魔力量である必要もない。
同じ方法を使う必要すらない。
ただ、同じ答えを目指す。
そう考えた瞬間、単なる勝ち負けよりずっと面白く思えた。
「お嬢様」
ミレーヌが箱を見たまま、そっと俺を呼んだ。
「何です?」
「とても楽しそうです」
今度は、否定しなかった。
「ええ」
たぶん今は、本当にそう見えるのだろう。
それでいい。
「でも、お嬢様」
「はい?」
「少しだけ……獲物を見つけた時のようなお顔でもあります」
「私はどのような顔をしているのです?」
「上手く説明できません」
ミレーヌは困ったように笑った。
その横でディルヴァンが箱と俺を交互に見る。
「分かる気がする」
「ヴァレンティス様まで何なのです?」
「俺も今、同じ顔してるかも」
そう言われて、彼を見る。
確かに。
琥珀色の瞳が、いつもより少し鋭い。
さっき魔力を剣へ通した時ほど静かではない。
でも、遊びを見つけた悪ガキの顔だけでもない。
あいつも考えている。
ただし、おそらく俺とは違う場所を見ている。
それが、少し楽しみだった。
案内役の騎士が箱を片づけながら、丁寧に言った。
「実施される場合は、殿下を通じて日程をご相談ください。安全面を含め、こちらでも改めて条件を整えさせていただきます」
「ありがとうございます」
「こちらこそ、興味をお持ちいただき光栄に存じます」
騎士は一礼した。
「ただし、実際に挑戦される際には、どうか無理をなさらぬようお願いいたします」
その言葉の途中で、騎士の視線がほんのわずかにディルヴァンへ寄った気がした。
「なんで今、俺見た?」
「気のせいではない?」
アレクシスが返す。
「絶対見た」
「日頃の行いでしょう」
「ヴェルシアナまで?」
ディルヴァンの抗議を聞きながら、俺はもう一度、片づけられていく木箱へ目を向けた。
まだ答えは分からない。
だから面白い。
微量の魔力を寸分違わず操うディルヴァン。
大きな魔力を持ちながら、細かな制御にはまだ苦戦している俺。
一見すれば、同じ土俵へ立つことさえ難しい。
けれど、本当に同じ土俵というものは、同じ武器を持たされることではないのかもしれない。
同じ問題を前にして、それぞれが自分の持っているものをどう使うか。
その先にある答えを比べる方が、きっとずっと面白い。
そして俺は、その時まだ知らなかった。
次にあの木箱を前にした時。
俺とディルヴァンが、互いにまったく違う意味で周囲を困らせることになるとは。




