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破滅したくない元男の悪役令嬢ですが、なぜか男女問わず好かれていきます ~攻略対象は男友達のつもりなのに、同性の令嬢との距離まで近すぎるようです~  作者: 0JOY
第1部 第一章 悪役令嬢は、今日も誰かの特別に

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第36話 攻略対象ではないので、安心です

灰色の髪の少年は、こちらを見た。


 正確には、最初に俺へ視線を向け、そのあと隣にいるミレーヌへ目を移した。


 ほんの数秒だった。


 けれど、不思議と「見られた」という感覚が強く残る。


 値踏みするような視線ではないし、敵意もない。ただ、気になったものへそのまま目を向ける人間なのだろう。


 人を見る時に遠慮という薄い布を一枚挟むのではなく、窓を開けた途端に風が入り込んでくるような、妙にまっすぐな視線だった。


「ヴェルシアナ」


 訓練場の向こうから、アレクシスがもう一度俺の名を呼ぶ。


 先ほどまで食べていた果実のタルトにわずかな未練を残しながら、皿を近くの給仕へ預けた。


「行ってみます?」


 隣のミレーヌが尋ねる。


「呼ばれてしまいましたからね。それに、少し気になります」


「灰色の髪の方ですか?」


「ええ」


 ゲームで見覚えがないこと自体は、それほど珍しくない。


 俺が遊んだ『リュミエールの天秤』に登場した人物など、この世界に生きる人間のほんの一部にすぎない。


 台詞すらなかった貴族もいれば、名前だけ出てきた騎士もいる。背景として処理されていた屋敷にも人が暮らし、街道の向こうにも生活が続いている。


 現実になったこの世界で、俺の知らない人間がいるのは当然だった。


 ただ、王太子と木剣を持って向かい合い、その王太子へ何の遠慮もなく言葉を投げている少年となれば、少しくらい気になる。


 少なくとも、ただの顔見知りではなさそうだった。


 俺とミレーヌは庭園の奥へ向かった。


 整えられた花壇を抜けるにつれ、甘い焼き菓子の香りが薄れ、代わりに日に温められた土と芝の匂いが濃くなる。


 訓練場の周囲には低い柵が巡らされ、その向こうには木剣や盾、標的用の木柱が並んでいた。


 さっきまでいた茶会の庭とは地続きなのに、空気が違う。


 花びらの代わりに細かな砂埃が舞い、弦楽器の音ではなく、木と木がぶつかる乾いた響きだけがまだ空気の中に残っている。


「来てくれたんだね」


 俺たちが近づくと、アレクシスが手にしていた木剣を下ろした。


 額には薄く汗が浮かんでいる。


 礼装ではなく訓練着を着ているからだろう。王太子として人前に立っている時よりも、今は少しだけ年相応に見えた。


「お稽古中でした?」


「もう終わるところだったんだ」


「終わるって言ったのはアレクシスだけだろ。あと一本くらいできる」


 すぐ隣から声が入る。


 灰髪の少年だった。


「その『あと一本』を、さっきから何度聞けばいいの?」


「じゃあ今度こそ最後」


「信用できないよ」


 アレクシスが呆れたように息を吐く。


 その短いやり取りを聞いただけで、二人の間にある年月が少し見えた気がした。


 王太子と高位貴族の子息。


 そうした肩書きを先に置いて会話しているのではない。


 もっと昔から互いの癖を知り、言葉の角が何度も擦れて丸くなったような関係だ。


 少年は木剣を肩へ預けたまま、今度は俺を正面から見た。


「お前がヴェルシアナ?」


 隣でミレーヌの肩がわずかに動いた。


 俺も、一拍だけ黙る。


 初対面の公爵令嬢に向ける第一声としては、ずいぶん思い切っている。


「……初対面の公爵令嬢へのお声がけとして、それで正しいと思っていらっしゃいます?」


 問い返すと、少年は少し目を丸くした。


 怒られるとは思っていなかったというより、本当に正解を確認しているような顔だった。


「違う?」


「だいぶ違います」


「そうか」


 驚くほどあっさり認めた。


 次の瞬間には、少年は肩に載せていた木剣を脇へ置き、背筋をまっすぐに伸ばしていた。


 空気が変わる。


 ついさっきまで柵へ腰掛けでもしそうだった少年が、一瞬で名門貴族の子息へ姿を戻す。


 顎の角度も、手の位置も、礼の深さも綺麗だった。


「失礼した。ディルヴァン・ヴァレンティスだ。初めまして、ヴェルシアナ・アルセリード公爵令嬢」


 声まで整っている。


 俺は少し意外に思いながら、同じように礼を返した。


「ヴェルシアナ・アルセリードです。よろしくお願いいたします、ヴァレンティス様」


「ディルヴァンでいい」


「初対面でそこまで省略いたしません」


「じゃあ、そのうちでいい」


 言い終えた時には、もう先ほどの気楽な姿勢へ戻っていた。


 礼儀を知らないわけではないらしい。


 むしろ、必要な形はきっちり身についている。


 ただ、それを一日中まとっている気がないだけだ。


 横を見ると、アレクシスがこめかみへ指を当てていた。


「ディルヴァン。最初からその挨拶ができるなら、どうして先に『お前』が出てくるの?」


「そっちの方が早いから」


「何が?」


「本人かどうか確認するのが」


「公爵令嬢相手に、確認の早さを優先しないでくれる?」


 ディルヴァンは少しだけ考えたあと、俺へ視線を戻した。


「でも、間違ってたから直しただろ」


「そこは評価して差し上げます」


「ほら」


「褒めてはいません」


 返すと、ディルヴァンは楽しそうに笑った。


「結構言うな」


「あなたが言わせているのでは?」


 俺たちのやり取りを聞いていたアレクシスが、小さく肩を落とす。


「もう普通に会話してる……」


「成立してはいけません?」


「そういう意味じゃないよ」


「じゃあ何?」


 今度はディルヴァンが割り込んだ。


「君には聞いてない」


「今、俺も入ってただろ」


「入ってないよ」


「絶対入ってた」


 二人の言葉が重なる。


 喧嘩しているようなのに、そこには棘がない。


 会話の扉を叩くというより、互いに最初から開いていると思って勝手に出入りしているような関係だった。


「お二人は、ずいぶん昔からのお知り合いなのですね」


 俺が尋ねると、アレクシスが頷いた。


「うん。かなり前から」


「父親同士も付き合いがあるからな。王都にいる時は昔から会ってる」


 ディルヴァンが気軽に補足する。


「王太子へその話し方が許される程度には、ということですね」


「許されてる?」


 ディルヴァンがアレクシスを見る。


「諦めてるだけだよ」


「似たようなもんだろ」


「全然違う」


 やっぱり仲がいい。


 見ていれば分かる。


 アレクシスも、ディルヴァンの言葉を本気で無礼だとは思っていないのだろう。


 注意はする。


 けれど、距離を置こうとはしない。


 ディルヴァンの方も、王太子という肩書きへ遠慮がないのではなく、アレクシス本人へ話している。


 その違いは案外大きい。


「ヴァレンティス……」


 家名を口の中で転がした時、記憶の奥に小さな引っかかりが生まれた。


 灰色の髪と琥珀色の瞳を持つ、俺より三つほど年上の少年。


 その顔をゲームで見た攻略対象たちへ重ねてみても、どうにも一致しない。


 なのに「ヴァレンティス」という家名だけが、沈んでいた記憶の底へ小石を落としたように、静かに波紋を広げていく。


「もしかして、弟君がいらっしゃいます?」


 尋ねると、ディルヴァンがほんの少しだけ目を細めた。


「いるけど。なんで?」


 やっぱり。


 ばらばらだった記憶が、そこでようやく一つに繋がった。


 ヴァレンティス辺境公爵家。


 王国北部を長く守ってきた、国内でも有数の軍事貴族。


 国境近くには魔物の出現する地域も多く、討伐と防衛の歴史がそのまま家の歴史になっているような家だ。


 そして『リュミエールの天秤』にも、その家の人間は登場する。


 ただし、攻略対象だったのは目の前の少年ではない。


 弟の方だ。


 学園編で登場するヴァレンティス家の次男。


 剣術に秀でているものの、幼い頃から優秀すぎる兄と比べられ続け、その影に強い劣等感を抱えていた。


 個別ルートでも、その兄への感情が大きな軸になっていたはずだ。


 そして、その「優秀すぎる兄」。


 ゲームでは立ち絵すら与えられていなかった。


 若くして王国屈指の剣士となり、北の地で数々の功績を立てたヴァレンティス家の長子。


 文章の中では、それだけで十分に「偉大な兄」だった。


 けれど、実際に目の前へ現れた本人は、その肩書きから想像していた姿とは随分違う。


 まだ九歳ほどの少年が、鍛錬の熱を残した訓練着のまま木剣を肩へ預け、つい先ほど初対面の公爵令嬢へ何の迷いもなく「お前」と声をかけてきたのだ。


 歴史書の中で立派な額縁に収められていた人物が、そこから勝手に抜け出し、泥のついた靴のまま目の前まで歩いてきたような気分だった。


 ゲームの文章だけでは、人間のことなど何も分からないらしい。


 しかも、その少年がいずれ本当に王国屈指の剣士になるというのだから、なおさら面白い。


 今はまだ、未来の英雄という言葉より、育ちのいい悪ガキという呼び方の方がずっとよく似合っていた。


「何だよ。さっきから俺のこと見て」


「いえ。ヴァレンティス家について、少し思い出していただけです」


「俺のこと知ってた?」


「お名前を少しだけ」


 嘘ではない。


 知っていたのは、ずっと先の彼について書かれたわずかな記述だけだ。


 こんな性格だとは一文字も書いていなかった。


 そして、もう一つ。


 俺にとっては、将来の剣士としての名声より重要な情報がある。


 この男は、攻略対象ではない。


 その事実へ辿り着いた途端、無意識に張り詰めていた糸が一本ほどけたように、肩の力が抜けた。


 攻略対象ではない。


 それは俺にとって、思っていた以上に大きな意味を持っていた。


 アレクシス本人のことは、もう嫌いではない。


 むしろ友人としてなら、かなり好ましく思っている。


 けれど、原作ではヴェルシアナの婚約相手になり得る王太子だ。


 どれだけ本人を信頼するようになっても、未来との繋がりを完全には忘れられない。


 これから出会う他の攻略対象も同じだろう。


 俺だけが知っている原作という地図が、どうしても人との間に一枚挟まる。


 ディルヴァンには、それがない。


 ヒロインの攻略対象ではない。


 俺の婚約候補でもない。


 原作ヴェルシアナとの恋愛イベントなど、当然存在しない。


 つまり、かなり安全だ。


 そう考えた瞬間から、目の前の少年との距離をいちいち測ることが、少し馬鹿らしく思えてきた。


「なんか、急に警戒されなくなった気がする」


 ディルヴァンが言った。


 勘がいい。


「ヴァレンティス家の方だと分かりましたので、少し納得しただけです」


「何に?」


「殿下への態度に」


「ああ」


 それだけで納得したらしい。


「うちは昔から王家に言いたいこと言うからな」


「それを九歳のあなたまで忠実に継承しなくてもよいのでは?」


「駄目なの?」


「程度によります」


「じゃあ、今くらいなら?」


 俺はアレクシスへ視線を向けた。


 本人は何とも言えない顔をしている。


「殿下がお許しになっているなら、私が判断することではありませんね」


「ほら、許されてる」


「ヴェルシアナを証人みたいに使わないで」


 アレクシスの声に、珍しく少しだけ子供っぽい不満が混じった。


 ディルヴァンはそれがおかしかったらしく、声を立てて笑った。


 つられて、俺も少し口元が緩む。


 この少年は話しやすい。


 思ったことをそのまま投げてくる。


 こちらが返せば、その言葉を妙に勘ぐることもなく受け取る。


 前世で男同士の雑な会話に慣れていた俺には、その呼吸がどこか懐かしかった。


 もちろん、今の俺は公爵令嬢だ。


 以前とまったく同じ調子では話せない。


 それでも「これは攻略対象への態度としてまずくないか」と一言ごとに未来を確認しなくていいだけで、会話の床が急に平らになったように感じる。


「それより、剣はやる?」


 ディルヴァンが木剣を拾い直した。


「やりません」


「ずいぶん早いな」


「公爵令嬢へ初対面で剣術経験を尋ねる流れの方が早すぎるのでは?」


「訓練場まで来たから、興味あるのかと思った」


「殿下に呼ばれたから来ただけです。ただ、見ること自体は嫌いではありません」


 するとディルヴァンの目が、すぐに面白そうな光を宿した。


「なら、さっきの続き見てく? アレクシスともう一本やるところだったんだ」


 すぐにアレクシスが遮った。


「やらないよ。今日はもう終わり」


「だから最後に一本だけ」


「その最後が増えてるって言ってるんだ」


「今度こそ本当に最後」


「君の『本当に最後』は、今日だけで何回目?」


 俺は思わず小さく笑った。


「ヴァレンティス様、殿下がお止めになっているのでしたら、今日はやめた方がよろしいのでは?」


「だからディルヴァンでいいって」


「そこはまだ変わりません」


「頑固だな」


「初対面から距離を詰めてくる方にだけは言われたくありません」


 そう返すと、ディルヴァンは怒るどころか、むしろ楽しそうに笑った。


「じゃあアレクシスとはやらない。その代わり、一つ見せる」


 そう言って訓練場の端へ歩き、並べられた木剣の中から少し長いものを選び取る。


 アレクシスの目つきがわずかに変わった。


「ディルヴァン。無茶はしないでよ」


「しないって。今日は加減する」


「君の加減は信用してない」


「ちゃんと危なくなる前に止めるから」


 アレクシスは額へ手を当てた。


「それを無茶って言うんだよ」


 会話だけ聞けば、少し不安になる。


「何をなさるおつもりです?」


「魔力を使った剣の動き。ちょっとだけな」


 その言葉で、俺の興味は一段上がった。


「魔力を?」


「見たことない?」


「身体強化については授業で聞いていますが、剣術と合わせたものはありません」


「じゃあ、ちょうどいい」


 ディルヴァンは訓練場の中央へ進んだ。


 歩いている間に、さっきまで身体の周りで跳ねていた軽さが少しずつ消えていく。


 木剣を強く握り込むわけでもない。


 足を自然に開き、剣先をわずかに下げる。


 構えそのものは驚くほど静かだった。


 なのに、その瞬間。


 さっきまでどこへでも飛び出していきそうだった少年の身体から余計な動きが消え、風に揺れていた枝が一瞬だけ止まったように見えた。


 今までの軽さがなくなったのではない。


 全部が、次の一歩へ集められている。


「ヴェルシアナ」


 視線を標的へ向けたまま、ディルヴァンが呼ぶ。


「魔力、見える?」


「正確には分かりません。でも、少しなら」


 ヴィクトルとの訓練で、他人の魔力の流れを意識して見る練習も始めている。


 俺は魔力量だけならかなり多いらしい。


 けれど、細かな制御はまだ粗い。


 だからこそ、他人がどう力を流しているのかを見ることには強く興味があった。


 目を凝らす。


 最初は、ただ身体の周囲に薄く何かがまとわりついているようにしか感じない。


 けれど呼吸が変わった瞬間、その流れに偏りが生まれた。


 全身へ同じように広げてはいない。


 脚から腰へ、肩を通り、やがて右腕へ。


 必要な場所へ必要な分だけ、細い水路を切り替えるように魔力が移っていく。


「……右腕と、脚」


 思わず呟いた。


 ディルヴァンの目が、標的を見たまま少しだけ細くなる。


「分かるんだ」


「何となくです。全身を強くしているわけではありませんよね?」


「うん」


 次の瞬間。


 土が鳴った。


 身体が前へ出る直前、脚へ寄った魔力が弾ける。


 踏み込みから腰、肩、腕へと流れた力が、そのまま一本の線になって木剣の先まで抜けていく。


 動きが繋がっているのは分かる。


 分かるのに、目で追いつく頃にはもう終わっていた。


 木剣が風を切る。


 標的用の木柱。


 その表面に結ばれていた細い紐だけが、一拍遅れて地面へ落ちた。


 柱そのものには、大きな傷さえついていない。


 俺はしばらく、その紐を見つめた。


 壊そうと思えば、もっと壊せるのだろう。


 けれど、そうしなかった。


 必要なのは柱を砕くことではなく、細い紐だけを落とすこと。


 力の大きさではなく、力を置く場所の正確さ。


 俺の魔法とは正反対だった。


 俺なら、あの木柱ごと吹き飛ばす方がたぶん簡単だ。


 だからこそ分かる。


 大きな川を作るより、一滴だけを狙った場所へ落とす方が難しいこともある。


「……すごいですね」


 自然と声が出た。


 ディルヴァンが構えを解き、こちらへ振り返った。


「もっと威力の方に驚くかと思った」


「むしろ、壊さなかったことの方が驚きました。力を出すだけなら、もっと簡単なのでしょう?」


「まあな」


「でも紐だけを落とした。魔力も全身へ無駄に流さず、踏み込む直前には脚へ寄せて、そのあと腕へ移したように見えました」


 話しながら、自分でも少し熱が入っているのが分かる。


 面白い。


 ヴィクトルの授業で俺が苦戦しているものを、目の前の少年は剣というまったく別の形で扱っている。


 魔法と剣術。


 見た目は違っても、力をどう使うかという根の部分では繋がっている。


「最後だけ、剣の方へ魔力を流したのですか?」


 ディルヴァンが完全にこちらへ身体を向けた。


 今度の目には、さっきまでの悪戯っぽさではなく、はっきりとした興味が浮かんでいる。


「……そこまで分かった?」


「確信はありません。木剣の周りだけ、最後に流れが変わった気がしたので」


「合ってる」


 返事は短かったが、声には先ほどまでと違う熱があった。


「すげえな、お前。あれを一回見ただけで、そこまで拾うやつはあんまりいないぞ」


 まっすぐ言われる。


 俺は少し困った。


「見えただけです。私は同じことをできませんよ。理解できたことと、自分で再現できることは別でしょう?」


「それでも十分すごいじゃん。できないなら、これからできるようにすればいいだけだし」


 あまりにも簡単に言われて、少し言葉に詰まる。


 ヴィクトルなら、ここで「分かったつもりにならないように」と釘を刺すだろう。


 もちろん、それは正しい。


 けれどディルヴァンは、できていない部分より先に、今できたことをそのまま拾う。


 開け放たれた窓から風が入るように、評価の仕方までまっすぐだった。


「今度は、お前の魔法も見せてくれよ。さっきから俺ばっかり見られてるの、なんか不公平だろ」


「どうしてそうなりますの。初対面の令嬢へ、いきなり魔法を披露してくださいと頼む方はいませんでしょう?」


「俺は剣を見せただろ」


「それはあなたが勝手に始めたのです」


「じゃあ、俺だけ見せ損じゃん」


「勝手に損をしたことにしないでくださいませ」


 呆れて返すと、ディルヴァンは木剣の柄を軽く指で叩いた。


「じゃあ、次に会った時は何か勝負しようぜ」


「ずいぶん急に話が大きくなりましたね」


「ただ見せてもらうより、その方が面白いだろ。剣でも魔法でもいいし」


 俺は少し考え、それから目の前の少年を見る。


「剣でしたら私が不利です」


「じゃあ魔法」


「魔力量だけを比べるのでしたら、今度は私の方が有利かもしれません」


「じゃあ制御は?」


 そこまで聞いて、俺は思わず眉を上げた。


「……それ、あなたの得意分野では?」


 ディルヴァンが一瞬だけ黙る。


「あ」


「今しがた、あれほど見事な制御を披露した方が、制御で勝負を申し込むのは、随分とご自分に都合がよろしいですこと」


「でも、お前は魔力量多いんだろ?」


「ですから、量を競えば今度は私に都合がよすぎると言っているのです」


 そこで、二人して少し黙った。


 剣ならディルヴァン。


 魔力量なら俺。


 制御でも、おそらく今はディルヴァン。


 得意分野を一つずつ持ち出して競っても、それは勝負というより答え合わせに近い。


 どちらが優れているかではなく、何が得意かを確認するだけになってしまう。


「だったらさ」


 先に口を開いたのはディルヴァンだった。


「同じことをやればいいんじゃないか?」


「同じこと?」


「一個の能力だけじゃなくて、両方いるやつ」


 木剣を肩へ戻しながら、ディルヴァンは言葉を探すように続ける。


「少ない魔力をぴったり入れないと駄目な課題と、逆にある程度の量を出さないと動かない課題を両方やる。そうすれば、俺は制御だけじゃ勝てないし、お前も量だけじゃ勝てないだろ?」


 なるほど。


 思ったより、ちゃんと考えている。


「それでしたら、先ほどよりは公平ですね」


「だろ?」


「ただし、課題の内容は私たち以外の方に決めていただきましょう」


「なんで?」


「あなたに任せましたら、気づかないうちにご自分の得意な方向へ寄せそうですので」


「信用ないなあ」


「出会ってまだ半刻も経っておりませんので」


 ディルヴァンは少し目を丸くして、それから笑った。


「じゃあ、これから増やせばいいだろ」


 返事が妙に早い。


 俺は一瞬だけ黙った。


「……何をです?」


「信用」


 あまりにも当然のように言う。


 こちらは「まだ会ったばかり」という事実を指摘しただけなのに、ディルヴァンの中では、もう次も、その次もあるらしい。


 開いた窓から入ってくる風は、やはりこちらの予定表など見ていない。


「勝手に先の予定まで決めないでくださいませ」


「でも勝負は面白そうだろ?」


 否定しにくいところを突いてくる。


 実際、少し興味がある。


 微量の魔力を正確に扱う課題なら俺の訓練になるし、大きな出力が必要な課題ならディルヴァンにとっても未知の部分が出るだろう。


 さらに第三者が条件を決めるなら、互いに自分へ都合のいい勝負にはできない。


「……内容次第では、考えます」


「よし」


「まだ決まっておりません」


「最初よりだいぶ進んだだろ」


 勝ち誇るわけでもなく、ただ楽しそうに笑う。


 この少年は、押しつけるというより、相手が自分から足を出したくなる場所まで道を作ってしまうらしい。


 危なっかしい。


 少し面倒。


 でも、たぶん嫌いではない。


 隣を見ると、ミレーヌがこちらを見ていた。


 口元には小さな笑みがある。


「どうしました?」


「お嬢様、楽しそうだと思いまして」


 その言葉に、俺は少し考えた。


 そう見えるのだろうか。


 けれど、否定するほどでもない。


「……そうかもしれません」


 実際、面白かった。


 新しい魔力の使い方も。


 ゲームでは名前しか知らなかった人物が、想像とはまるで違うことも。


 こちらが条件を返せば、すぐ別の案を出してくることも。


 会話のたびに未来の意味を探さなくていいことも。


 その時、ふとアレクシスの方を見る。


 彼は黙ってこちらを見ていた。


 表情はいつも通り穏やかだったが、手にした木剣の柄を親指で一度だけゆっくり撫でている。


 静かな水面へ小石が落ち、目立たない波紋だけが残っているような仕草だった。


「殿下?」


 俺が呼ぶと、アレクシスはすぐ顔を上げた。


「何?」


「いえ。少し静かでしたので」


「二人がずっと話してたからね」


 言われてみれば、確かにそうだ。


「すみません」


「謝らなくていいよ。それより、その勝負をするなら僕も見たい」


「殿下もです?」


「うん。二人だと、たぶんディルヴァンが都合のいいルールを作るから」


「お前まで信用してないのかよ」


「長く知っているからこそだよ」


 アレクシスの返答があまりにも滑らかで、俺は思わず笑った。


 第三者。


 むしろ一人、もう見つかったかもしれない。


「でしたら殿下に課題を考えていただきます?」


「僕だけだと公平か分からないし、騎士か魔術師の先生にも聞いた方がいいと思う」


 その一言で、勝負が少しだけ現実味を帯びた。


 ディルヴァンの思いつきだったものが、形を持ち始める。


「それなら面白そうだな」


「ディルヴァンが最初に言い出したんだろ」


「でも今の方が面白そう」


 思いつきを抱え込まず、より良い形になればあっさりそちらへ乗り換える。


 そういうところも、この少年らしいのかもしれない。


「そういえば、ヴァレンティス領では魔物が多いのですよね?」


 話が一区切りしたところで尋ねると、ディルヴァンの表情はすぐに変わった。


「多いよ。王都の近くとは全然違う。森の奥に入れば普通の獣と見分けにくいやつもいるし、冬は北側から降りてくる魔物も増える」


「実際に見たことが?」


「ある。ただ、父上たちがいる時だけな。さすがに勝手に近づいたら危ない」


「そこは理解していらっしゃるのですね」


「俺だって何でも突っ込むわけじゃない」


 するとアレクシスが、いかにも納得していない顔をした。


「去年、一人で馬に乗って外へ出ようとした人が言っても説得力がないよ」


「一人じゃない。馬がいた」


「そういう意味じゃない」


 俺は笑いを堪えきれなかった。


「何をしようとなさったのです?」


「少し遠くまで行こうと思っただけだよ。北の街道がどこまで見えるか、確かめたくなって」


「おいくつの時に?」


「八歳」


「それを門で止められた、と」


「計画ではもっと上手くいくはずだった」


「計画が最初の門すら越えられていないのですが」


 本人はいたって真剣らしい。


 そこが余計におかしい。


「父上にはかなり怒られた。危険だから駄目だっていうのは分かるけど、だったら次は護衛を連れて行けばいいだろ?」


「反省の方向が、少し独特ですね」


「行きたいこと自体は変わらないからな」


 なるほど。


 ただ言うことを聞かないのではない。


 禁止された理由を理解して、その条件だけ変えようとする。


 面倒な子供だが、頭は回るらしい。


「アレクシスと同じ顔するなよ」


「今のお話で、あなたの味方をできる要素が見つかりません」


 ディルヴァンが声を上げて笑う。


 さっき剣を構えた時の静けさとは、まるで別人だった。


 風の強さがころころ変わる。


 けれど、どちらも本人なのだろう。


「じゃあ、もっとまともな話をする。今度、北から魔獣の素材が騎士団へ届くはずなんだ」


「魔獣の素材?」


 今度は俺の方がすぐ食いついた。


「角とか皮とか。討伐記録と一緒に送られてくる。傷のつき方を見れば、どんなふうに魔力を使うやつだったか分かることもあるらしいぞ」


「そこまで調べるのですか?」


「次に同じ種類が出た時、知らないより知ってた方がいいだろ」


 その一言で、俺の中にあった「魔物の素材」という言葉の形が少し変わった。


 珍しいものを並べるためではない。


 次に同じものと遭遇した人間を、生きて帰すための記録なのだ。


「見たことはありません。本や図ではありますが」


「なら、実物見た方がいい。絵じゃ分からないことも多いから」


「見学できるものなのですか?」


「騎士団の研究用なら、許可があればいけると思う。なあ、アレクシス」


「僕を許可証みたいに使わないでくれる?」


「王宮のことはお前に聞いた方が早いだろ」


 アレクシスは少し考えた。


「子供だけで勝手に、は無理だと思う。でも、見学の許可を取ること自体はできるかもしれない。僕も北部の報告書で読むことはあるけど、実物はほとんど見たことがないから」


「殿下もご興味があるのですね」


「うん。書類の中だけだと分からないこともあるしね」


 それなら、話は早い。


 魔物。


 魔獣。


 騎士団。


 辺境。


 どれも今までの俺の生活では、ほとんど触れてこなかったものだ。


 ゲームにも設定として存在していた。


 けれど『リュミエールの天秤』は学園と恋愛が中心の物語だったから、その外側にある世界は背景の色に近かった。


 王国には魔法があり、魔物がいる。


 なら当然、それらは生活だけでなく、国を守る仕組みにまで繋がっている。


 分かっていたはずなのに、破滅という遠くの刃ばかり見上げていた頃の俺には、そこまで視線を向ける余裕がなかった。


「興味があります」


 今回は素直に答えた。


 ディルヴァンが笑う。


「だと思った」


「なぜです?」


「さっき俺の魔力見てる時、楽しそうだったから。ああいう顔するやつ、だいたい実物見るの好きだろ」


 少しだけ気まずくなる。


 そんなに分かりやすかっただろうか。


 けれど、今回は誤魔化さなかった。


「珍しかったので。私は魔力量ばかり多くて、細かい制御はまだ苦手ですから」


「じゃあ余計に見た方がいいな。騎士と魔術師じゃ、魔力の使い方がかなり違うぞ。俺も魔術師のやり方はよく知らないし」


「あなたは騎士なのですか?」


「まだ違う」


 ディルヴァンは木剣を肩へ戻し、それから当然の未来を口にするように続けた。


「でも、なる」


 そこには一切の迷いがなかった。


 子供が夢を語る時の「なりたい」とは少し違う。


 自分の前に伸びている道を、もう見つけている声だった。


 俺は知っている。


 この少年は、本当になる。


 それどころか、その道をずっと先まで進んでいく。


 今はまだ九歳。


 木剣を肩へ載せ、さっきまで馬で門を抜けようとして失敗した話を笑っていた少年だ。


 その姿と、ゲームの文章で読んだ「王国屈指の剣士」という未来は、まだ一枚の絵としては重ならない。


 だからこそ。


「では、楽しみにしております」


「何を?」


「あなたが、これからどれくらい強くなるのかを」


 言ったあと、ディルヴァンが初めてすぐには返事をしなかった。


 いつもなら、こちらの言葉が着地する前に次の言葉を投げてきそうな少年が、一瞬だけ黙る。


 風が急に止まったような、短い静けさだった。


「……それ、普通に言うんだな」


「何がです?」


「いや。別に」


 今度はアレクシスがディルヴァンを見る。


 その目には、俺には分からない何かを見つけた気配があった。


「ディルヴァン、珍しく静かだね」


「うるさい」


「僕にはそういう返しをするんだ」


「今はお前に説明することじゃない」


 何なのだろう。


 幼馴染同士には、やはり俺には読めない文脈があるらしい。


 ◇


 そのあとも、しばらく話は続いた。


 ディルヴァンは北部のことをいくつか話してくれた。


 冬になると城壁の向こうが一面白く染まること。


 雪の下へ潜る小型の魔物がいること。


 騎士たちは魔物と戦うだけでなく、街道の雪を退けることもあること。


 春先には雪解け水で橋が危険になるため、剣より先に縄を持って出る日もあること。


 俺が持っていた「軍事の名門」という言葉より、ずっと生活に近い話だった。


「……面白いですね」


「魔物の話が?」


「それもです。でも、辺境を守るというのは、もっと戦うことばかりだと思っていました」


「戦って終わりなら楽なんだけどな。魔物を倒しても道が壊れたままなら荷物が来ないし、冬に食い物が足りなくなったら、剣が強くてもどうにもならないだろ」


 九歳の口から出るには妙に現実的な言葉だった。


 きっと、家で何度も聞いてきたのだろう。


 将来の剣士。


 それだけではないのかもしれない。


 弟のルートでは、兄について「強い」という輪郭ばかりが描かれていた。


 でも本人には、本人の世界がある。


 アレクシスと初めて会った時にも感じたことだ。


 攻略対象。


 偉大な兄。


 王太子。


 そうした言葉は、人間を整理するための札にはなっても、その人そのものではない。


 ディルヴァンも同じなのだろう。


 ゲームの設定ではなく、この世界ですでに九年を生きてきた一人の人間だ。


 それでも。


 攻略対象ではない。


 この一点だけは、俺にとってやはり大きかった。


 俺は、アレクシスとまた何か言い合っているディルヴァンを見る。


 気楽に話せる。


 将来の婚約を考えなくていい。


 ヒロインとのルートを気にしなくていい。


 原作ヴェルシアナの破滅へ直結する人物でもない。


 男友達。


 そんな場所へ置けるなら、ずいぶんありがたい。


「お嬢様」


 ミレーヌがそっと声をかけた。


「そろそろお戻りにならないと、セレフィア様がお探しになるかもしれません」


「あ」


 そうだった。


 俺たちは茶会の途中である。


 すっかり忘れていた。


 訓練場から庭園へ視線を戻す。


 色とりどりのドレス。


 白い卓。


 焼き菓子。


 さっきまで自分がいた場所が、少し遠く感じた。


「戻ります」


「もう?」


「もともと茶会へ来ているのです」


「じゃあ次はもっと時間ある時な。勝負と、魔獣の素材を見るのと、それから――」


「増やさないでください」


「まだ二つしかないだろ」


「初対面で次回の予定が二つ決まりかけている時点で十分です」


 俺が止めると、ディルヴァンは楽しそうに笑った。


 アレクシスも小さく笑う。


「僕も戻るよ。父上に、途中で抜けすぎるなって言われてるから」


「王太子も大変ですね」


「他人事みたいに言うね」


「他人事ですので」


「ヴェルシアナ」


「冗談です」


 そう返すと、アレクシスの表情が少しだけほどけた。


 俺たちは訓練場を離れる。


 途中で、一度だけ振り返った。


 ディルヴァンはまだそこに立っていた。


 木剣を肩へ戻し、こちらへ片手を上げている。


 礼儀正しい別れの挨拶とは到底言えない。


 でも妙に、あいつらしい。


 俺も手を上げかけて、途中で思い直した。


 今の姿は公爵令嬢である。


 さすがに同じ返しは雑すぎる。


 代わりに軽く会釈すると、ディルヴァンはまた笑った。


 それで十分だった。


 ◇


 庭園へ戻る道すがら、ミレーヌが隣でぽつりと言った。


「ディルヴァン様とは、ずいぶん早くお話しされていましたね」


「そうでした?」


「はい。初めてお会いした方とは思えないくらいです」


 言われてみれば、確かにそうかもしれない。


 アレクシスと初めて会った時は、もっと慎重だった。


 一言交わすたびに、それが未来へどう繋がるのかを考えていた。


 今は違う。


「話しやすい方でしたから」


「そうなのですね」


 ミレーヌはそれ以上何も言わなかった。


 ただ、少しだけ不思議そうな顔をしている。


 俺には、その理由が分からない。


 だって。


 攻略対象ではないのだ。


 ディルヴァン・ヴァレンティス。


 原作では攻略対象の兄。


 ヴェルシアナとの恋愛ルートなど存在しない。


 なら、少しくらい気を抜いてもいいだろう。


 男同士に近い感覚で話しても。


 友人になっても。


 剣や魔法や魔獣の話をしても。


 そこから婚約だの破滅だのへ繋がる心配はない。


 ようやく一人。


 面倒な未来を考えずに付き合えそうな男子と出会えた。


 そんなふうに思っていた。


 この時の俺は、本気で、心の底から安心していたのだ。


 攻略対象ではないので、安全です。


 少なくとも。


 原作に描かれていた道だけを、道だと思っているうちは。

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