第35話 ⭐︎悪役令嬢の侍女
タイトルに「⭐︎」がつく回があります。
⭐︎の意味については、活動報告にて原作ヴェルシアナが作者と一緒に解説してくれています。
今後のちょっとした目印になりますので、よろしければそちらもぜひご覧ください!
それでは、第35話をお楽しみください。
六歳になってから最初に届いた招待状は、王宮からだった。
正確には、王妃主催の小さな茶会である。
大人たちが政治の話をする正式な場ではなく、王家と縁の深い家の子供たちを中心に集めた、比較的気楽な催しらしい。
比較的、という部分が重要だ。
王宮で。
王族がいて。
高位貴族の子供が集まる。
これを気楽と呼べる人間は、おそらく俺とは別の生き物である。
「お嬢様、少し顎を上げてくださいませ」
「このくらいです?」
「もう少しだけ」
鏡の前で、ナディアが俺の襟元を整えている。
今日のドレスは淡い青灰色だった。
六歳の誕生日に母さんからもらったリボンと色を合わせたらしく、袖口と裾にだけ銀糸が使われている。派手ではないが、動くたびに光を拾うので、鏡の中では思ったより存在感があった。
銀髪との相性もいい。
……ということは、母さんは最初からこれを想定してリボンを選んだのかもしれない。
「やっぱり、とてもよく似合うわ」
案の定、少し離れたところで母さんが満足そうに頷いていた。
「ありがとうございます」
「その髪飾りも足しましょうか?」
「今日はリボンだけで十分です」
「そう?」
一瞬だけ惜しそうな顔をしたものの、母さんはそれ以上勧めなかった。
以前なら、ここから「でも絶対に似合うわ」が始まっていた気がする。
最近は、本当に止まる。
少し寂しそうにはする。
でも止まる。
その変化が、俺には分かる。
「ミレーヌは?」
「隣室でお支度中です」
「令嬢として?」
「はい」
今回、ミレーヌにも招待状が届いている。
アルセリード公爵家の侍女見習いとしてではなく、エルヴァート男爵家の令嬢として。
それ自体は不自然ではない。
彼女は今も男爵家の血筋に連なる令嬢であり、家が傾いているからといって身分そのものが消えたわけではない。
ただ、本人はかなり緊張しているらしい。
「お嬢様」
「はい?」
ナディアが最後にリボンの位置を確かめながら、鏡越しにこちらを見た。
「本日は、ミレーヌ様もご令嬢としてお出になります」
「分かっています」
「ですから――」
そこでナディアは一度言葉を止めた。
続きは何となく分かる。
助けすぎるな。
そういうことだろう。
「ミレーヌが困ったら、すぐに口を出さないようにします」
「……私が申し上げる前にお分かりでしたか」
「少しくらいは」
ミレーヌは以前より、ずっと自分で考えて動けるようになった。
知らないことを質問する。
興味のあるものへ手を伸ばす。
俺の後ろではなく、時々横へ来る。
そんな彼女が令嬢として出る場所で、俺が何から何まで先回りしてしまえば、結局やっていることは昔のナディアや父さんと変わらない。
守ることと、代わりに生きることは違う。
第一部であれだけ散々考えてきたのだから、自分でも実践しなければ意味がない。
……とはいえ。
相手によっては話が別だ。
俺は鏡の中の紅紫の瞳を見た。
六歳になっても、やっぱり強い。
便利な時もある。
◇
王宮へ着いた時、最初に思ったのは、人が多い、だった。
正式な舞踏会ほどではない。
けれど「小さな茶会」という言葉から想像していた規模よりはずっと大きい。
王宮の南側にある庭園には、いくつもの円卓が並べられ、その間を子供たちとその付き添いが行き交っている。
色とりどりのドレス。
家ごとに違う紋章。
聞き慣れない姓。
笑い声。
甘い焼き菓子の匂い。
風が吹くたび、花壇から柔らかな香りが流れてくる。
情報量が多い。
ゲームなら立ち絵が数人並ぶだけで済んだのに、現実は背景にまで人がいる。
当たり前だが、時々そこに妙な感慨を覚える。
「お嬢様」
隣から声がした。
ミレーヌだった。
今日は侍女服ではない。
淡い若草色のドレスを着て、髪もいつもより丁寧にまとめられている。
派手な装飾はない。
それでも、七歳の令嬢として十分に整っていた。
「似合っていますよ」
「……ありがとうございます」
少し照れたらしい。
視線が一瞬だけ下がる。
「緊張しています?」
「少しだけ」
「私もです」
ミレーヌが顔を上げた。
「お嬢様も?」
「王宮ですよ」
「でも、殿下とも何度もお会いしています」
「殿下と会うことと、大勢に見られることは別です」
そう答えると、ミレーヌが小さく笑った。
その笑いで、肩の力が少し抜けたように見える。
これくらいでいい。
励ますために「大丈夫」と決めつける必要はない。
緊張しているなら、一緒に緊張しておけばいい。
庭へ入る。
すぐにいくつか視線が集まった。
やっぱりか。
最近、こういう場所へ出るたびに少しずつ慣れてきたとはいえ、外から見るとアルセリード公爵家の一人娘という立場は重い。
そこへ銀髪と、この目だ。
本人としては普通に歩いているだけでも、周囲が勝手に道を空けることがある。
少し複雑である。
俺が怖がられているのか。
家格に遠慮されているのか。
単純に珍しい顔を見られているのか。
たぶん全部だろう。
今はそこへいちいち答えをつけないことにしている。
「アルセリード公爵令嬢」
最初に声をかけてきたのは、母さんと話していた夫人の娘らしい少女だった。
年齢は俺より一つか二つ上。
名前を名乗られ、こちらも挨拶を返す。
その後も何人かと形式的な会話をする。
天気。
庭の花。
最近読んだ本。
好きな菓子。
子供の茶会だから内容自体は穏やかだ。
ただ、言葉の裏側に家名がついて回る。
前世で会社の懇親会へ出た時とも少し似ている。
雑談なのに、完全な雑談ではない。
そう考えると少し楽になった。
会社員経験が六歳児の社交に役立つ日が来るとは思わなかった。
しばらくして、俺は母さんたちのいる卓へ呼ばれた。
ほんの数分。
戻ればいい。
「ミレーヌ」
「はい」
「少し行ってきます」
「分かりました」
ミレーヌは自分の近くにいた令嬢たちへ視線を向けた。
俺について来ようとはしなかった。
そのことに少しだけ安心して、俺はその場を離れた。
◇
ミレーヌが最初に違和感を覚えたのは、ヴェルシアナが離れてから少ししてのことだった。
「エルヴァート嬢、ですわよね?」
声をかけてきた少女は、紫がかったドレスを着ていた。
名乗られた家名には覚えがある。
子爵家。
エルヴァート男爵家より一つ上。
少女は微笑んでいた。
けれど、その笑みは最初から少しだけ形が整いすぎていた。
「はい。ミレーヌ・エルヴァートと申します」
「存じていますわ」
ならなぜ聞いたのだろう。
そう思ったが、ミレーヌは口にはしなかった。
「アルセリード公爵家でお暮らしなのですよね?」
「はい」
「では今日は……」
少女の視線が、ミレーヌのドレスを上から下へゆっくり撫でた。
「令嬢としていらしたの? それとも、公爵令嬢のお付きなのかしら」
周囲にいた二人の少女が、わずかに黙った。
意味は分かる。
正面から「使用人でしょう」とは言っていない。
でも、ミレーヌがどちら側の人間なのかを問うている。
以前なら。
たぶん胸の奥が冷たくなった。
自分は男爵令嬢なのか。
侍女なのか。
公爵家に置いてもらっている子なのか。
どこに立っていいのか分からなくなって、答えを探したと思う。
今は違う。
ミレーヌは一度だけ息を整えた。
「今日は、エルヴァート男爵家の者としてお招きいただいております」
「まあ」
少女の口元が少しだけ動く。
「では、お付きではないのね」
「はい」
ここで終えてもよかった。
けれどミレーヌは、ほんの少し考えてから続けた。
「ただ、お嬢様のおそばにいたいと思っていることとは、別です」
「……別?」
「はい」
自分でも驚くほど、声は震えなかった。
「令嬢として招かれていることと、お嬢様のおそばで働きたいと思っていることは、わたしの中では両方ございますので」
少女が言葉を失った。
周囲の空気が一瞬だけ止まる。
ミレーヌは、その沈黙が怖くなかった。
どちらか一つを選ばなければ、自分はおかしいと思っていた時期がある。
学びたい。
でもお嬢様のそばにもいたい。
男爵家の娘。
でも侍女の仕事も好き。
どれか一つに決めなければ、自分の答えとして認められない気がしていた。
ヴェルシアナは、そうではないと言った。
前と同じものを選んでも、自分で選んだなら同じではない。
その意味を、今のミレーヌは少しだけ分かる。
「……そう」
少女はそれ以上言えなかった。
ミレーヌの胸の中へ、小さな熱が生まれた。
勝った、と思ったわけではない。
ただ。
自分で答えられた。
それが嬉しかった。
◇
少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた俺は、手にしていた果実水を一口飲んだ。
よく言った。
助けに入る必要はなかった。
俺が横から「ミレーヌは令嬢です」と言えば簡単だった。
アルセリード家の名前を出せば、相手もすぐ引いただろう。
でもそれでは、ミレーヌ自身の答えにならない。
七歳の少女に全部やらせる必要もないが、答えられることまで奪う理由もない。
少し離れた場所にいる母さんと目が合った。
母さんも状況には気づいていたらしい。
俺が動かないのを確認して、何も言わなかった。
ありがたい。
さて。
このまま終わればいいのだが。
そう思ったところで、別の少女がミレーヌへ近づいていくのが見えた。
年齢は九歳くらいだろうか。
先ほどの子より明らかに年上。
ドレスも、身につけている装飾品も一段上だった。
その少女を見た瞬間、近くにいた子供たちの空気が少し変わった。
家格が高い。
名前を聞く。
侯爵家。
なるほど。
今度は少し面倒そうだ。
◇
「エルヴァート嬢は、とてもお勉強熱心なのね」
侯爵令嬢は、先ほどの子爵令嬢とは違っていた。
声も笑顔も柔らかい。
露骨な棘はない。
だからこそ、ミレーヌは少し身構えた。
「ありがとうございます」
「アルセリード公爵家では、領地についてのお勉強までされているのでしょう?」
「少しだけです」
「まあ」
少女は楽しそうに手を合わせた。
「では、領地の管理についてもお詳しいのね」
「詳しい、と言えるほどではございません」
「ご謙遜を」
軽く笑われる。
その笑顔の裏で、何かが一段深いところへ潜った。
「ちょうど先ほど父から聞いたのですけれど、北東部では今年、倉庫に保管されている穀物が去年より増えたそうですわね」
ミレーヌの目がわずかに動いた。
知っている。
つい最近、ヴェルシアナと見ていた記録だ。
「はい」
「でしたら、今年は収穫がとてもよかったのでしょう?」
問いは簡単だった。
簡単だからこそ、危ない。
ミレーヌはすぐには答えなかった。
記録を思い出す。
保管量。
運び出した量。
修繕の記録。
ヴェルシアナが言っていた。
これだけでは決められない。
「……分かりません」
周囲がわずかにざわついた。
侯爵令嬢の笑みが深くなる。
「分からない?」
「はい」
「でも、増えているのでしょう?」
「増えています」
「なら、収穫も増えたのではなくて?」
逃げ道を狭めるような聞き方だった。
けれど、ミレーヌはもう一度記録を頭の中で開いた。
「それだけでは決められないと思います」
「どうして?」
今度は少しだけ声が強くなる。
ミレーヌは指先を握りそうになり、やめた。
分からないことを、分かったことにしない。
それはヴェルシアナだけの言葉ではなく、今は自分でも大切だと思っている。
「倉庫を直した記録がございました」
侯爵令嬢の眉がほんの少し動いた。
「修繕?」
「はい。それに、運び出した量も去年と違います」
周囲の少女たちが黙って聞いている。
「ですので、収穫が増えたのかもしれませんが、倉庫が使いやすくなって残せる量が増えたのかもしれませんし、ほかの場所から移したのかもしれません」
一度言葉を切る。
「わたしは、まだ全部を知りません」
それを口にするのは、以前なら恥ずかしかったかもしれない。
今は違った。
「ですから、グレン様にも確認してみたいと思っています」
「……グレン様?」
「公爵家の領地の記録について教えてくださっている方です」
侯爵令嬢の笑みが、ほんの少し硬くなった。
想像していた答えではなかったのだろう。
分からないと言わせれば終わると思っていた。
でもミレーヌの「分からない」は、何も知らないという意味ではない。
分かっているところと、分かっていないところを分けているだけだ。
そこに気づいたのか、少女は次の場所へ言葉を移した。
「公爵家では、ずいぶん熱心に使用人を教育なさるのね」
空気が変わった。
今度の言葉は、ミレーヌだけへ向けられていない。
ヴェルシアナへ向いている。
公爵家へも。
ミレーヌはすぐに答えなかった。
自分のことなら言える。
自分が何を学びたいか。
何をしたいか。
でも、アルセリード家が自分をどう扱っているかを、主人の代わりに決めて語るのは違う気がした。
その一瞬の迷いを、侯爵令嬢は見逃さなかった。
「もちろん、悪い意味ではありませんのよ」
笑顔のまま続ける。
「ただ、領地の記録までお見せになるなんて、少し珍しいと思っただけですわ」
ミレーヌが口を開こうとした、その時だった。
「教育、という言葉は少し違いますわ」
声が落ちた。
大きくない。
それでも、周囲の会話が一枚ずつ閉じられていくように静かになった。
人の隙間を抜けて、銀色が近づいてくる。
ヴェルシアナ・アルセリード。
侯爵令嬢は、初めてその少女を正面から見た。
噂では知っている。
銀色の髪。
強い紅紫の瞳。
幼い頃から美しく、その分だけ気位も高い。
少し前までは、そんな話も聞いた。
けれど。
目の前にいる六歳の公爵令嬢は、怒っているようには見えなかった。
歩幅は一定。
背筋も崩れない。
唇には、ごく薄い微笑みすらある。
だからこそ、余計に視線を外しにくい。
銀髪は春の光を細い糸のように拾い、強い色の瞳だけが静かにこちらを捉えている。
綺麗だ。
そう思ったあとで、侯爵令嬢は自分が少しだけ息を浅くしたことに気づいた。
「アルセリード公爵令嬢」
ヴェルシアナはミレーヌの前には立たなかった。
隣へ立った。
「ミレーヌが知りたいと言ったので、一緒に資料を見ています」
「……一緒に?」
「はい」
まるで、それが特別なことではないように言う。
侯爵令嬢は笑みを崩さないようにした。
「ですが、エルヴァート嬢は公爵家にお仕えしていると伺っておりますわ」
「ええ」
そこでヴェルシアナが少しだけ首を傾けた。
「それが何か?」
その場にいた誰かが、小さく息を呑んだ。
言葉自体は穏やかだ。
なのに、その質問には妙な逃げ道のなさがあった。
「いえ……ですから、その……」
「仕えることと、学ぶことは両立しないのでしょうか」
「そのような意味では――」
「でしたら、よかったです」
ヴェルシアナはそこで一度微笑んだ。
笑えば、年相応に見える。
ほんの一瞬だけ。
それまでの強い印象がほどけ、六歳の少女らしい柔らかさが顔を出す。
けれど次の瞬間には、その紅紫の瞳が机の上の資料でも見るように、こちらの言葉を静かに確かめていた。
「先ほど、北東部の倉庫のお話をなさっていました?」
「……はい」
「ミレーヌの答えで合っていますわ」
侯爵令嬢の頬が少し熱くなる。
「でも、保管量が増えたのでしょう?」
「増えています」
「でしたら――」
「箱の中身が去年より多いからといって、畑から多く採れたとは限りませんでしょう?」
言葉を挟まれた。
けれど、声は強くない。
ヴェルシアナは近くの卓に置かれていた焼き菓子の箱へ目を向けた。
「去年より大きな箱を使ったのかもしれません」
子供たちの視線が、箱へ集まる。
「あるいは去年は途中でいくつか傷んでしまい、今年は上手に残せたのかもしれない。ほかの卓から移しただけかもしれません」
侯爵令嬢が黙る。
「中にある数だけを見ても、そこまで来た道は一つとは限りませんわ」
その説明は、驚くほど簡単だった。
領地管理の話など知らない少女でも理解できる。
だからこそ周囲の子供たちの顔が変わった。
「……本当だ」
どこかで、小さな声がした。
少し離れた場所にいた夫人まで、会話へ耳を向けている。
ヴェルシアナ本人は、それに気づいていないようだった。
いや。
気づいていても、気にしていないのかもしれない。
「ですから、私たちもまだ調べている途中です」
私たち。
その一言で、ミレーヌの胸が少し熱くなった。
自分だけが教わっているのではない。
一緒に見ている。
さっきヴェルシアナが言った通りだった。
侯爵令嬢は、もう一度笑みを作った。
「わたくしはただ、エルヴァート嬢のお立場が少し心配でしたの。公爵家の大切な記録でしょうから」
最後の逃げ道。
自分は心配しただけ。
そう言えば、悪意はなかったことにできる。
ヴェルシアナは、それを否定しなかった。
「でしたら、ご心配には及びません」
静かに返す。
「ミレーヌがどの資料を見ているかは、お父様もご存じです」
終わった。
侯爵令嬢はそう思った。
アルセリード公爵本人が承知している。
それ以上、自分が口を出せることではない。
「……そうでしたの」
「はい」
「失礼いたしました」
頭を下げる。
ヴェルシアナも礼を返した。
「いいえ。お気遣いありがとうございます」
勝ち誇らない。
責めない。
追いかけない。
それが、さらに居心地を悪くさせた。
もし怒られたなら、自分は失礼をしたのだと整理できる。
でもこの少女は、本当にただ説明しただけの顔をしている。
その方が、ずっと恐ろしい。
◇
相手が離れたあと、俺はミレーヌを見る。
「大丈夫でした?」
「はい」
少し緊張は残っている。
でも、顔色は悪くない。
「最初の方は、よく答えていましたね」
ミレーヌの目が少し丸くなる。
「聞いていらしたのですか?」
「少し離れたところから」
「……助けに来てくださらなかったので」
責めている声ではない。
むしろ、少し嬉しそうだ。
「必要なさそうでしたから」
そう答えると、ミレーヌは一度だけ唇を結んだ。
そのあと、ゆっくり笑った。
「はい」
その一文字が、妙にしっかりして聞こえた。
俺も少し嬉しくなる。
「でも、途中から私の名前が出ていましたので」
「はい」
「そこは私が答える方がいいでしょう?」
「……はい」
また返事。
今度はさっきより柔らかかった。
俺たちがそんな話をしていると、背後から別の少女の声がした。
「エルヴァート嬢」
振り返る。
先ほど、最初にミレーヌへ声をかけていた子爵令嬢だった。
さっきより明らかに勢いがない。
「先ほどは……少し、失礼な聞き方をしてしまいましたわ」
ミレーヌは驚いた顔をした。
俺も少し意外だった。
「いいえ」
ミレーヌは一度だけ俺を見る。
こちらが何も言わないのを確認してから、少女へ向き直った。
「わたしも、自分がどういう立場なのか上手く説明できなかった時期がございましたので」
俺は内心で少し驚く。
そんな返しをするのか。
「ですが、今は自分で決めています」
ミレーヌは続けた。
「ですから、大丈夫です」
子爵令嬢が黙る。
それから、ほんの少し頭を下げた。
「……そう」
今度は棘のない声だった。
去っていく。
俺はミレーヌを見る。
「すごいですね」
「え?」
「今の返しです」
「お嬢様に言われると、少し変な感じがします」
「なぜです?」
「先ほどの方を、一言ずつ全部止めていらしたので」
「止めてはいません」
「止まっていました」
そうだっただろうか。
俺としては、条件が足りない話に条件を足し、自分の名前が出たから自分で答えただけだ。
それ以上ではない。
「普通に説明しただけですよ」
ミレーヌが何とも言えない顔をした。
最近、こういう顔をされることが増えた気がする。
◇
少し離れた場所で、その主従を見ていた侯爵令嬢は、まだ完全には呼吸を戻せていなかった。
「……何なの、あの方たち」
隣にいた少女が小さく呟く。
その声には、もう嘲りはなかった。
半分は驚き。
半分は警戒。
先ほどまで、エルヴァート男爵令嬢は公爵家に拾われた貧しい少女だと思っていた。
主人の後ろへ隠れる子。
少し身分の話をすれば黙ると思っていた。
違った。
自分の立場を自分の言葉で話す。
分からないことを誤魔化さない。
領地の数字を見て、その裏側まで考える。
それだけでも十分に変だった。
七歳だ。
まだ七歳なのだ。
なのに、その少女が「お嬢様」と呼ぶ相手は、さらにその上を行った。
ミレーヌの答えを奪わない。
でも自分の家へ話が向いた瞬間だけ、静かに前へ出る。
そして、難しい話を子供でも分かる箱の話に変えてしまった。
家柄だけではない。
頭がいい。
それも、知識を並べて相手を黙らせる種類ではない。
相手に分かる形へ変えて差し出す。
その方が厄介だった。
「アルセリード公爵令嬢って……」
別の少女が声を潜める。
「もっと怖い方だと思っていました」
侯爵令嬢は、返事をしなかった。
怖くない。
そう言っていいのか、まだ分からなかった。
少なくとも、怒鳴る人ではなかった。
高圧的でもない。
笑うと、むしろ驚くほど年相応で、綺麗というより一瞬だけ可愛らしく見える。
なのに。
あの紅紫の瞳に正面から見られると、適当に言ったことまで全部拾われる気がする。
「……エルヴァート嬢も」
最初にミレーヌへ絡んだ少女が、少し遠くを見ながら呟く。
「侍女なのに、変ですわ」
「侍女だから、ではないでしょう」
侯爵令嬢は反射的に返していた。
言ってから、自分でも驚く。
少し前まで自分も同じように見ていたはずなのに。
「では、何なの?」
聞かれる。
侯爵令嬢は答えられなかった。
庭の向こうでは、ミレーヌがヴェルシアナと並んで歩いている。
後ろではない。
隣。
ヴェルシアナが何かを言う。
ミレーヌが笑う。
銀髪の少女も少し笑う。
どこにでもいる友人同士のようにも見える。
けれど、さっきのやり取りを見たあとでは、とてもそう簡単には思えなかった。
「……アルセリード家では」
少女が再び呟く。
「おそばにいる方まで、あのようになるのかしら」
「知らないわよ」
今度こそ、侯爵令嬢は即答した。
ただ一つだけ。
もう、あの二人を軽く見る気にはなれなかった。
◇
俺はその頃、そんな評価が生まれているとは夢にも思わず、ミレーヌと菓子の前で悩んでいた。
「こちら、美味しそうですね」
「さっきから見ていますね」
「お嬢様も見ていらしたでしょう?」
「……見ていました」
小さな果実のタルト。
一つだけ残っている。
ミレーヌと目が合う。
「半分にします?」
「はい」
結局、給仕に頼んで綺麗に二つへ分けてもらった。
さっきまで家格だの領地だのと面倒な話をしていたのに、今はタルトの大きさで少し悩んでいる。
六歳と七歳なのだから、本来はこちらの方が自然なのかもしれない。
「美味しいです」
「ですね」
ミレーヌが笑う。
俺も食べる。
酸味が強くて、思ったより好きな味だった。
その時、庭の奥から乾いた音が響いた。
木と木がぶつかる音。
一度。
二度。
一定の間隔。
誰かが訓練しているらしい。
「剣でしょうか」
ミレーヌも気づいた。
「多分」
王宮なら、騎士の訓練場が近くにあっても不思議ではない。
大して気にせずタルトへ戻ろうとして――。
「殿下!」
少し離れたところで、誰かがアレクシスを呼ぶ声が聞こえた。
反射的に顔を上げる。
庭のさらに奥。
開けた訓練場の近くに、アレクシスがいた。
その向かいに、もう一人。
見覚えのない少年。
黒に近い灰色の髪。
年齢はアレクシスより少し上だろうか。
訓練用の木剣を肩へ乗せ、王太子を相手にしているとは思えないほど気楽な姿勢で立っている。
そして、何か言った。
遠くて内容までは聞き取れない。
ただ。
アレクシスが、少しだけむっとした顔をした。
珍しい。
「……誰でしょう」
ミレーヌが呟く。
「さあ」
俺も知らない。
少なくとも、ゲームで頻繁に見た顔ではなかった。
少年がこちらを向く。
ほとんど同時に、アレクシスも俺たちに気づいた。
青い瞳が少し見開かれる。
「ヴェルシアナ」
声が届く。
灰髪の少年の視線が、今度は完全にこちらへ向いた。
俺は手にしていた小さなフォークを皿へ戻した。
なぜだろう。
まだ一言も交わしていないのに。
あの少年が、これから俺の平穏な予定表へ遠慮なく書き込みを増やしてくるような気がした。
もちろん、その時の俺には。
それが本来、警戒する必要すらないはずの相手だとは、まだ分かっていなかった。




