第34話 六歳の誕生日は、思ったより賑やかだ
誕生日の朝というものは、もっと劇的に始まるのだと思っていた。
目を開けた瞬間に何かが変わるとか。
鏡を見れば、昨日までとは違う顔が映っているとか。
あるいは、世界のどこかで「六歳になりました」と鐘でも鳴るとか。
もちろん、そんなことはなかった。
朝の光はいつも通り薄い金色で、窓辺のカーテンを透かしながら床へ長い四角を落としている。
寝台の天蓋も、枕元の小さな棚も、昨日と同じ場所にあった。
俺自身も、たぶん昨日とほとんど変わっていない。
それでも。
「お誕生日、おめでとうございます。お嬢様」
目を覚まして最初に聞いたナディアの声が、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。
俺はまだ半分眠ったまま、瞬きをする。
「……ありがとうございます」
声が少し掠れた。
六歳。
たった一つ数字が増えただけなのに、それを誰かに祝われると、昨日までとは違う場所へ足を置いたような気分になる。
ナディアはカーテンを開けた。
朝の光が一気に室内へ入り込み、銀色の髪へ触れた。鏡の中の俺は、相変わらず目つきが強い。
六歳になっても、顔の圧は減らないらしい。
「お嬢様」
「はい?」
「今日は、少しだけお支度にお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
嫌な予感がした。
「……少しだけ、ですか?」
「はい」
ナディアの返事は整いすぎていた。
母さん案件だ。
俺はそう理解した。
◇
案の定、朝食前に母さんが来た。
「ヴェルシアナ!」
扉が開くなり、春そのものが部屋へ飛び込んできたような勢いだった。
母さんは薄桃色のドレス姿で、両手に箱を抱えている。
後ろには侍女が二人。
さらに箱。
俺は寝台の縁に座ったまま、それを見た。
「お母様」
「お誕生日おめでとう!」
「ありがとうございます」
「六歳ね」
「はい」
「本当に六歳になったのね」
「昨日から一日経っただけですけれど」
母さんは聞かなかったことにしたらしい。
「今日は少しくらい、母親の趣味に付き合ってくれてもいいでしょう?」
そう言って、最初の箱を開ける。
中に入っていたのは、淡い青銀色のリボンだった。
派手ではない。
光を受ける角度によって、青にも銀にも見える。
「これなら、普段にも使えると思ったの」
母さんは少しだけこちらの表情を窺った。
昔なら、もう俺の髪へ当てて「ほら、やっぱり似合う」と言っていたかもしれない。
今は、手に持ったまま待っている。
その違いが分かるから、俺も少し考えた。
「綺麗ですね」
「本当?」
「はい。色も好きです」
母さんの顔が一気に明るくなった。
その笑い方を見ると、贈り物を受け取っているのがどちらなのか分からなくなる。
「では、今日はこれを使ってもいい?」
「お願いします」
「ナディア!」
「はい」
呼ばれたナディアが、すでに櫛を持っている。
準備がよすぎる。
逃げ道は最初からなかったらしい。
髪を整えられながら、俺は鏡越しに母さんを見る。
母さんは満足そうにリボンの位置を確認していた。
その顔は、完成した衣装を見る仕立て屋というより、子供が自分で選んだ花を花瓶へ挿している時のようだった。
嬉しいのだろう。
自分が選んだものを、俺が「使いたい」と言ったことが。
それなら、俺も悪い気はしない。
「よくお似合いです」
ナディアが言った。
「ありがとうございます」
「本当に」
母さんが重ねる。
「今日は特に綺麗ね」
「昨日とほぼ同じ顔ですが」
「昨日より六歳分、綺麗です」
「一日で六年増えていません?」
母さんは笑った。
ナディアも、口元だけ少し緩めた。
誕生日の朝は、思っていたより騒がしい。
でも、それが少し楽しかった。
◇
朝食の席には、父さんが先にいた。
俺が入ると、父さんは新聞代わりの書類から顔を上げた。
視線が一度、髪のリボンへ止まる。
「似合っている」
それだけ。
母さんのように何度も褒めない。
でも父さんからこの一言が出ると、なぜか妙に重い。
「ありがとうございます」
席へ着く。
父さんはしばらく黙っていた。
そして、食事が一段落したところで、隣に置いてあった細長い箱をこちらへ寄せた。
「私からだ」
「ありがとうございます」
箱を開ける。
中に入っていたのは、細身の銀の筆記具だった。
装飾は控えめ。
けれど、持ち手の部分には細かな彫りがあり、子供の手にも収まりやすい大きさになっている。
持ち上げてみる。
軽い。
今使っているものより少しだけ重心が低く、指に馴染みやすい。
「使いやすそうです」
「ならよかった」
父さんはそれだけ言った。
でも、俺は筆記具をもう一度見る。
たぶん、かなり考えて選んだ。
父さん自身が店を歩き回って選んだのか、誰かに候補を出してもらったのかは分からない。
ただ、この重さ。
この太さ。
今の俺が使うことを前提にしている。
将来何年も使える立派な品ではなく、「今」の俺へ合わせている。
それが少し意外だった。
「お父様」
「何だ」
「大切に使います」
父さんの目が、ほんのわずかに細くなった。
「使いたい間はな」
そう返された。
昨日と同じだ。
使わなくなってもいい。
壊れてもいい。
別のものが好きになってもいい。
贈り物に鎖をつけない。
父さんらしい。
「はい」
俺は笑った。
その瞬間、母さんが満足そうにこちらを見ていた。
たぶん父さんより、母さんの方が喜んでいる。
◇
朝食を終えると、次はミレーヌだった。
廊下へ出たところで、いつもより少し姿勢の硬い彼女が待っていた。
両手の中には、小さな包み。
「お嬢様」
「はい」
「お誕生日、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ミレーヌは包みを差し出した。
けれど、手が少しだけ止まる。
「……あまり立派なものではないのですけれど」
「ミレーヌ」
名前を呼ぶ。
彼女がこちらを見る。
「それは、あなたが選んだものですか?」
「はい」
「でしたら、嬉しいです」
言葉を返すと、ミレーヌの肩から少し力が抜けた。
包みを受け取る。
中には、小さな革の栞が入っていた。
薄い茶色。
端に、控えめな模様が押されている。
「栞?」
「はい」
「これ、あなたが?」
「模様だけ、自分で選びました。革を切ったのは職人の方です」
正直なのがミレーヌらしい。
俺は栞を指で撫でる。
薄くて、柔らかい。
最近、資料や本を何冊も並行して読むせいで、紙切れを挟んだまま忘れることがある。
たぶん、それを見ていたのだろう。
「使います」
「本当ですか?」
「はい。ちょうど欲しかったです」
ミレーヌの顔が、今度ははっきり明るくなった。
大きな笑顔ではない。
でも、その小さな喜びが朝の光の中でよく見えた。
高価なものではない。
けれど、俺の日常を見て選んだものだ。
そう思うと、革の薄さ以上に手の中へ重みが残った。
◇
昼前には、リュネアからの贈り物が届いた。
箱を開けた瞬間、まず目に入ったのは布だった。
淡い白と青。
小さな花の刺繍。
ところどころ糸の揃い方が少し違う。
完璧ではない。
だからこそ、すぐに分かった。
リュネアが自分で縫ったのだ。
中に入っていたのは、小さな布製の本包みだった。
本の表紙を守るためのものらしい。
添えられた手紙には、
『白い花がうまくできなかったので、三回ほどやり直しました』
と書いてあった。
俺は少し笑った。
王宮では白い花が咲いているとアレクシスが書いていた。
リュネアは白い花を縫い直している。
同じ色が、違う場所からまた俺のところへ届く。
人との繋がりというものは、時々こういう偶然を運んでくるらしい。
俺は本包みを開き、近くにあった物語の本を入れてみた。
少しだけ大きい。
でも、使える。
何より可愛い。
「……いいな、これ」
思わず素の声が出た。
ナディアが隣で聞いていたらしく、ほんの少し眉を上げる。
「お気に召しました?」
「はい」
言い直す。
「とても」
返事を書こう。
今日中は無理でも、明日には。
そう思った。
◇
午後。
ナディアが、最後まで残していた小さな包みを持ってきた。
「お嬢様」
「それ、昨日のものですか?」
一瞬だけ、ナディアの目が動いた。
当たりらしい。
「……お気づきでしたか」
「少しだけ」
ナディアは困ったように笑った。
包みを受け取る。
母さんの箱よりずっと小さい。
父さんの筆記具よりも軽い。
開ける。
中には、小さな布製の指当てが入っていた。
「これは?」
「長く字を書かれる時にお使いいただくものです」
指に巻く、柔らかな布の補助具らしい。
ペンを長く握っていると、指の同じところが赤くなる。
自分では気にしていなかった。
でもナディアは見ていたのだろう。
「以前、少し赤くなっていらしたことがございましたので」
言い切ったあと、ナディアがわずかに視線を伏せた。
「ただ、必要なければ――」
「使います」
俺は先に言った。
ナディアが顔を上げる。
「今すぐ」
「今すぐ、でございますか?」
「せっかくですから」
指へ巻いてみる。
柔らかい。
少し慣れは必要そうだが、確かに負担は減りそうだ。
「どうです?」
ナディアの声には、いつもより少しだけ緊張が混じっていた。
たぶん本人は隠している。
でも、分かる。
「いいと思います」
「……そうですか」
それだけ。
けれど、ナディアの肩がほんの少し下がった。
張っていた糸が緩んだようだった。
俺は指当てを見た。
公爵令嬢に贈る品としては、確かに地味だ。
人前で自慢するようなものでもない。
でも、俺が手紙を書いている時間を見ていなければ、選ばないものだ。
「ありがとうございます、ナディア」
「こちらこそ」
「こちらこそ?」
言った本人も気づいたらしい。
ナディアが一瞬だけ困った顔をした。
「……お受け取りいただき、ありがとうございます」
少し可笑しくなって、笑う。
ナディアも、最後には小さく笑った。
◇
夕方。
今日届いた贈り物を並べると、机の上が少し賑やかになった。
母さんのリボン。
父さんの筆記具。
ミレーヌの栞。
リュネアの本包み。
ナディアの指当て。
どれも全然違う。
値段も。
使い方も。
選んだ理由も。
なのに、不思議と一つだけ共通している。
俺を見て選んでいる。
銀髪に何が似合うか。
どんな本を読むか。
何冊も同時に開くこと。
どれだけ手紙を書くか。
指が赤くなること。
自分では大して意識していなかった小さな部分が、別の人の目にはちゃんと映っていたらしい。
人に見られるというのは、昔は少し怖かった。
悪役令嬢としての振る舞いを見られる。
失敗を見られる。
噂になる。
そういうものばかり考えていた。
でも、見られるということは、それだけではない。
好きなものを見つけてもらうこともある。
困っていることを拾ってもらうこともある。
本人が気づかない変化を、誰かが先に見つけることもある。
見られることと、決められることは違う。
その違いを、今日の机の上に並ぶ物たちが教えているようだった。
その時。
扉が叩かれた。
「お嬢様」
ナディアが入ってくる。
手には、細長い箱。
包装に見覚えはない。
けれど、その上に置かれた封筒の印を見た瞬間、誰からなのか分かった。
「王宮からです」
アレクシス。
俺は少しだけ姿勢を正した。
「開けても?」
「もちろんでございます」
まず手紙を取る。
短い。
『六歳のお誕生日、おめでとうございます。』
その下に、少し間を空けて文章が続いていた。
『何にするか迷いましたが、以前の手紙を読んで、自分で決めました。』
俺は箱へ視線を移す。
何だろう。
母さんの本と被るかもしれない。
王家らしい装飾品かもしれない。
あるいは、歴史関係。
箱を開ける。
中に入っていたのは――小さな卓上用の地図立てだった。
「……地図立て?」
木製。
かなり丁寧に作られている。
折りたたみ式で、机の上へ地図や大きめの紙を立てかけられるようになっている。
装飾はほとんどない。
でも、角度を変えられる。
俺は一度、箱の中を確認した。
横に小さな紙が入っている。
『本を読む時より、地図を見る時の方が机が狭そうだったので、これにしました。』
声が出なかった。
そう来たか。
本じゃない。
装飾品でもない。
俺自身なら、誕生日プレゼントとして欲しいものを聞かれて、絶対に最初には挙げない。
でも。
使う。
間違いなく使う。
領地の地図や街道図を机に広げると、紙の上に本や別の資料を置けなくなることがある。
壁へ貼るほどではないものは、そのまま机へ置いていた。
これなら立てられる。
「……よくこんなものを思いついたな」
小さく漏れる。
手紙へ戻る。
『使わなければ、別のものにしてください。』
一瞬。
父さんの顔が頭をよぎった。
今日、似たようなことを聞いたばかりだ。
ただ、アレクシスはその下へもう一行書いている。
『僕は便利だと思いました。』
思わず笑った。
そこは言うのか。
自分で選んだものに自信はある。
でも、使うかどうかはこちらへ任せる。
何だか、あいつらしい。
「お気に召しましたか?」
ナディアの声が、少し離れたところから届いた。
俺は地図立てを手に取る。
「はい」
軽い。
折りたたみ部分も滑らかだ。
「かなり」
その二文字は、自分で思っていたより素直に出た。
◇
さっそく使った。
今日だけで増えた物を全部眺めて終わるつもりだったのに、気づけば北東部の簡易地図を取り出し、アレクシスにもらった地図立てへ載せている。
ちょうどいい。
角度も見やすい。
その横には父さんの筆記具。
頁にはミレーヌの栞。
指にはナディアの指当て。
読みかけの物語は、リュネアの本包みに入っている。
髪には母さんのリボン。
俺は途中で手を止めた。
……なんだこれ。
今日一日で、俺の日常が周囲の人間からの贈り物に侵食されている。
言い方が悪いな。
でも、本当にそんな感じだ。
自分一人で作っていた机の上へ、別の人間が少しずつ色を置いていく。
それぞれ勝手な色なのに、並べてみると不思議と喧嘩しない。
むしろ、昨日までより少しだけ使いやすくなっている。
少しだけ、賑やかになっている。
俺はアレクシスの地図立てへ載せた紙を眺める。
これを選ぶまでに、あいつは何を考えたのだろう。
本人には聞かなかった。
驚かせたいと言っていた。
その答えが、これ。
確かに驚いた。
しかも、かなり嬉しい。
手紙を書く時に一言、そう伝えよう。
ただし。
調子に乗らせるのも何なので、豆の件にはきっと何か返してくるだろうから、その時にまとめて書けばいい。
窓の外は、もう夕暮れだった。
昼間の光が消え、庭の輪郭が少しずつ青く沈んでいく。
六歳になった。
昨日と何かが大きく変わったわけではない。
十五歳までは、まだ九年ある。
原作の物語がなくなったわけでもない。
俺が悪役令嬢の立場から完全に逃げ切れたわけでもない。
でも。
机の上には、昨日までなかったものがいくつも並んでいる。
一つ一つは、ただの物だ。
リボン。
筆記具。
栞。
本包み。
指当て。
地図立て。
それでも、その向こう側には、それぞれ誰かの時間がある。
何がいいか考えた時間。
迷った時間。
作った時間。
選び直した時間。
俺の知らないところで、俺のことを少しだけ考えていた時間。
五歳になったばかりの頃の俺なら、その重さに警戒したかもしれない。
何を期待されている。
何を返さなければいけない。
この贈り物の先には、どんな未来が決められている。
そんなことを考えたかもしれない。
今は、少し違う。
嬉しいなら、嬉しいでいい。
使いたいなら、使えばいい。
必要なくなったら、その時に考えればいい。
誰かが自分を思った時間を受け取ることと、その人に人生を預けることは同じではない。
そんな当たり前のことを、六歳になってようやく少し分かってきた。
俺は新しい筆記具を手に取る。
アレクシスへの返事を書こう。
リュネアにも。
ミレーヌには明日、栞を使っているところを見せれば喜ぶかもしれない。
ナディアには、指当てが慣れるまで少し時間がかかりそうだと言っておこう。
母さんには、リボンを明日も使いたいと伝える。
父さんには――。
たぶん、何も言わなくても今日の「大切に使います」で十分だろう。
やることが増えた。
六歳になった初日から、また忙しい。
けれど、以前の忙しさとは少し違う。
破滅から逃げるためだけに走っていた頃は、一日が減るたび焦っていた。
今は、一日が足りないことを少し惜しいと思う。
もっと読みたい。
もっと知りたい。
もっと話したい。
明日やりたいことが、すでにいくつもある。
遠くに吊られていた刃は、まだ消えていない。
それでも、そこばかりを見上げている必要はなくなった。
足元には道がある。
隣には人がいる。
そして時々、誰かがその道の途中へ、小さな贈り物を置いていく。
全部拾う必要はない。
全部を好きになる必要もない。
けれど、気に入ったものくらいは、持って歩いてもいいだろう。
六歳の俺は、そんなことを思いながら、真新しい筆記具の先をインクへ浸した。
最初に書いたのは、たった一行だった。
『贈り物、ありがとうございました。とても気に入りました。』
書き終えてから、少し考える。
それから、もう一行。
『豆でなくて安心いたしました。』
今度こそ、声を出して笑った。
六歳最初の手紙としては、悪くない気がした。




