第33話 その答えは、まだ包みの向こう
六歳の誕生日まで、あと十七日。
最近の俺には、一つ困っていることがあった。
五歳を無事に生き延びたからといって、人生が急に簡単になるわけではないらしい。
むしろ逆だった。
目を覚ましたばかりの頃、俺の世界はもっと狭かった。十五歳で始まるはずの物語、その先に待っている婚約破棄や没落、最悪なら処刑。遠くに吊られた刃ばかり見上げていたから、足元に何があるのかまで気にする余裕がなかったのだと思う。
今は違う。
視線を下ろしてみれば、知りたいものがあちこちに転がっていた。
朝には礼儀作法や読み書きがあり、日によって歴史や計算も学ぶ。午後にはヴィクトル先生との魔法の訓練が待っていて、母さんが用意してくれている刺繍や音楽の時間もある。
最近では父さんやグレンの許可をもらい、領地の記録まで見せてもらうようになった。
リュネアから届く手紙にはきちんと返事を書きたいし、アレクシスとは古い街道や橋についてのやり取りが続いている。最初は王太子との関係を警戒していただけだったはずなのに、今では向こうから届いた資料の話が普通に面白くて、返事を書くために別の本を開くことまである。
こうして並べてみると、一日が足りない原因の半分以上は、自分で増やしたものだった。
もちろん、全部を毎日詰め込んでいるわけではない。
そんな予定を五歳児へ押し込めば、俺が止まるより先に父さんが止める。
以前の俺なら、それでも「十五歳まで時間がない」と無理をしたかもしれない。
けれど最近では、知識は荷物と同じなのだと思うようになった。多く持てば遠くへ行けるものもあるが、何も考えず背負えば、自分の足を鈍らせることもある。
領地へ行けば、紙の上の数字だけでは見えない暮らしがあった。
ナディアと話せば、優しさは使い方を間違えれば柔らかな檻にもなると知った。
魔法では、強い力を持っているからこそ、触れなくてよいものまで動かさないよう何度も注意されている。
知れば知るほど、世界は単純な形を失っていった。
一つ答えを見つけるたび、その脇にもう一つ問いが生まれる。それはまるで、閉じたと思った本の間から別の栞が覗いているようで、気になって仕方がない。
人生というものは、もう少し勉強すれば簡単になるものだと思っていた。
どうやら、とんでもない勘違いだったらしい。
「お嬢様」
呼ばれて顔を上げた。
「はい」
「そちらは、昨日も読んでいらっしゃいませんでしたか?」
ミレーヌの視線は、俺の膝に置かれた薄い資料へ向いている。
午前の勉強はもう終わっていた。
本来なら昼食まで休憩してよい時間で、窓辺には茶まで用意されている。湯気はもう細くなり、陽の光を透かした白い筋になっていた。
それなのに俺の手には、北東部の倉庫についてまとめられた記録が開かれている。
「昨日は途中まででした」
「では、今日はその続きなのですね」
「はい」
ミレーヌは資料を見たあと、今度は俺を見る。
「休憩はなさらないのですか?」
「これくらいでしたら、読みながらでも休めます」
自分ではかなり合理的な返事をしたつもりだった。
ところがミレーヌは納得した顔をせず、しばらく考えたあと、俺の向かい側へ回って椅子を引いた。
「それでしたら、わたしも一緒に見てもよろしいですか?」
「もちろんです」
答えた瞬間、ミレーヌの顔に薄く喜色が浮かんだ。
大げさな笑顔ではない。けれど最近は、そういう小さな変化が前よりよく見える。
以前なら、興味があっても「お嬢様がお読みになるものでございますから」と、自分から一歩後ろへ下がっていたかもしれない。
今は、知りたいなら知りたいと言う。
一緒に見たいなら、そう頼む。
選ぶことというのは、大きな人生の分岐だけを指すのではないのだろう。こうして一冊の資料を覗き込むかどうかのような、小さなところにも宿るらしい。
俺は資料を机の中央へ置き、二人から読める向きへ回した。
「ここです。去年と今年で、保管されている量がかなり違うでしょう?」
「本当ですね」
ミレーヌがすぐに数字へ目を落とす。
七歳の少女が、公爵家の倉庫記録へ真剣な顔を寄せている。
最初に見た頃なら、不思議な光景だと思っただろう。今では俺の中で、ミレーヌと帳簿や記録はずいぶん自然に結びついている。
「収穫量が違ったからでしょうか」
「それもあると思います。でも、こちらを見ると運び出した量も違います」
「では、ほかの倉庫へ移したのでしょうか」
細い指が一つ下の欄を指した。
俺もそこへ視線を落とす。
「その可能性はあります」
「違う可能性も?」
「はい。これだけでは決められません」
以前の俺なら、入りと出の数字が合っていれば、それで一度は納得していたと思う。
今は、その一行が出来上がるまでに何があったのかを考える。
別の倉庫へ移したのかもしれない。
売却したのかもしれない。
保管中に傷んだものがあったのかもしれないし、最初から正確に測られていなかった可能性もある。
紙の上では、どれもただの数字になる。
黒いインクは、人が迷ったことも、急いだことも、雨が降ったことも、倉庫の屋根が傷んでいたことも黙って同じ形に整えてしまう。
だから数字は便利で、少し怖い。
「あとでグレンに聞いてみましょうか」
「はい。わたしも聞いてみたいです」
「では、一緒に」
ミレーヌが嬉しそうに頷いた、その時だった。
扉が控えめに叩かれる。
「失礼いたします」
入ってきたのはナディアだった。
「お嬢様、お昼のお支度が整っております」
「ありがとうございます。すぐに参ります」
資料を閉じようとして、俺はふと手を止めた。
ナディアはいつも通りに見える。
伸びた背筋も、声の高さも、隙なく整えられた衣服も変わらない。
それでも、部屋へ入ってきた瞬間、ほんのわずかに視線が俺を避けたような気がした。
俺ではなく、机の脇。
いや、その奥か。
「ナディア?」
「はい」
「何かございました?」
「いいえ。特には」
淀みがない。
淀みがなさすぎる。
「本当に?」
「はい」
ナディアの顔には、薄紙一枚ほどの揺れもない。
この人は俺が物心つく前からそばにいたのだから、今さら五歳児の追及くらいで崩れるはずもないのだろう。
諦めかけたところで、ミレーヌが資料を閉じながら、ナディアとほんの一瞬だけ目を合わせた。
目が合った。
そして、二人とも何事もなかったように外した。
なるほど。
これは怪しい。
かなり怪しい。
だが、そこでようやく思い出した。
六歳の誕生日まで、あと十七日。
もし本当にそのための準備をしているのなら、俺が好奇心のまま包み紙を破く必要はない。
知らないことを怖がっていた頃とは違う。
今は、知らないまま待つのも悪くないと思える。
贈り物というものは、中身だけではなく、開けるまでの時間も含めて贈り物なのかもしれない。
……まあ、違ったら少し恥ずかしいので、口にはしないけれど。
「お嬢様?」
「何でもありません」
今度は俺がそう答えた。
ナディアは静かに頷く。
ミレーヌだけが、抱えた資料の向こうで、ほんの少し笑っていた。
◇
昼食の席でも、やはり空気がいつもと微妙に違っていた。
母さんの機嫌がいい。
もちろん、普段から機嫌が悪い人ではない。
ただ今日は、言わずに隠していることそのものを楽しんでいるような顔をしている。
父さんはいつも通りだった。
けれど母さんがこちらを見るたび、静かに紅茶へ視線を落としている。
父さんは隠し事が下手なわけではない。
むしろ、黙ると決めたことはかなり黙れる。
ただし、積極的に何も知らないふりをするのが得意な人でもないので、「私は関係ありません」という顔をしようとすると、逆に関係者らしく見える。
「ヴェルシアナ」
「はい、お母様」
「今年のお誕生日、何か欲しいものはあります?」
やはり来た。
俺は少し姿勢を正す。
「欲しいもの、ですか」
「ええ。何か思いつくものがあれば、聞いておきたいの」
声は柔らかかった。
答えを求めているというより、娘の好きなものを知りたがっている母親の声だった。
「特には……」
そこまで言ったところで、母さんの瞳からほんの少しだけ期待の色が引いた。
まずい。
最近の母さんは、俺へ尋ねるようになった。
服を選ぶ時も、髪飾りを見る時も、最初から「これが一番似合う」と完成した答えを渡すのではなく、俺がどれを好むのかを聞いてくれる。
以前なら、銀髪に似合うもの。
公爵令嬢としてふさわしいもの。
将来も使えるもの。
そういう基準で選んでいたのだと思う。
そこには間違いなく愛情があった。
今だって、母さんは俺を飾るのがかなり好きだ。
だからこそ、その愛情に俺の好みまで加えようとしてくれているのだろう。
そこで「何でもいい」と返してしまうのは、差し出された手を握らずに、自由だからと横を通り過ぎるようなものだった。
「……本でしたら嬉しいです」
そう答えると、母さんの表情が春先の花のようにすぐ明るくなった。
「本?」
「はい。歴史でも、領地についてでも。物語でも構いません」
「物語も読むのね」
「読みますよ」
思わず眉を上げる。
「わたくしを何だと思っていらしたのです?」
「最近、領地の記録ばかり気にしているものだから」
母さんが笑う。
まあ、五歳児としては可愛げのある読書風景ではない。
前世の俺は漫画も読んだし、そもそも乙女ゲームを最後まで遊んでいる。物語が嫌いなわけではない。
「では、本は候補にしておきますね」
「候補?」
「ええ」
その一言だけで、他にも何かあると分かった。
俺は母さんを見たあと、静かに父さんへ顔を向けた。
「お父様」
「何だ」
「止めてくださいね」
「何をだ」
「分かっていらっしゃるでしょう?」
「私は何も言っていない」
絶対に知っている。
母さんが肩を揺らして笑った。
「たくさん贈ろうとしているわけではありませんよ。今年は、あなたが欲しいものもちゃんと知っておきたかっただけ」
「でしたら安心しました」
「でもね」
母さんは声をわずかに弾ませた。
「贈り物を何もかも先に聞いてしまったら、包みを開ける楽しみがなくなってしまうでしょう?」
俺は返事に詰まった。
確かに。
最近の俺は「自分で選ぶ」という言葉を、何にでも使える鍵のように思い始めていたのかもしれない。
けれど、鍵を持っているからといって、すべての扉を自分で先に開けなければならないわけではない。
誰かが向こう側から開けてくれるのを楽しみに待つ扉があってもいい。
母さんは俺の顔を見ながら、柔らかく笑った。
「まずは驚いてくれれば、それで十分です。もし気に入らなかったら、その時はちゃんと教えてちょうだい」
「……それでよいのですか?」
「もちろんよ」
答えに迷いはなかった。
「贈ったからといって、必ず好きになってもらえるわけではないもの。でも、あなたが何を喜ぶのか考える時間までなくなってしまったら、私は少し寂しいわ」
言葉の終わりに、母さんは少しだけ照れたように笑った。
そこにあったのは、「正しい母親」であろうとする理屈ではない。
娘に何かを贈りたい。
包みを開ける顔を見たい。
できれば喜んでもらいたい。
そんな当たり前の欲だった。
そして、その当たり前の欲まで消してしまう必要はないのだろう。
相手を尊重することと、自分の気持ちを無くすことは違う。
その人が何を好きか考えて、選んで、差し出す。
気に入るかどうかは、受け取った人へ返す。
その間には、どうしても予想できない余白が残る。
たぶん、人と関わるというのは、その余白ごと相手へ渡すことなのだ。
父さんが静かに紅茶を置いた。
「使いたくなければ、使わなくていい」
「お父様」
「何だ」
「贈る前から、その話をなさるのですね」
「その方が楽だろう」
それだけ言って、父さんは再びカップへ手を伸ばした。
言葉に飾りをつける人ではない。
けれど、余計な装飾がないからこそ、その一言はまっすぐこちらへ届く。
父さんにとって贈り物は、受け取った瞬間に相手を縛る契約書ではないのだろう。渡すところまでが自分の役目で、その先にどう使うかは俺の頁へ残しておく。
以前なら、その頁まで先回りして埋めてしまったかもしれない人が、今は意識して白いまま残そうとしている。
その変化を思うと、胸の内側に薄い灯りがともるような感覚があった。
母さんも同じことを感じたのか、父さんを見つめたあと、頬をわずかに緩めた。
「あなたはもう少し、贈る側の楽しみも味わってよいと思うのですけれど」
「楽しんでいないとは言っていない」
母さんが目を丸くした。
俺も、危うくパンを落としかけた。
父さんは何事もなかったように紅茶を飲んでいる。
母さんの表情が、驚きから笑いへゆっくりほどけていった。
「それなら、安心しました」
今度は俺まで笑った。
父さんは視線だけでこちらを見たが、何も言わなかった。
何かを贈る。
喜んでほしいと思う。
けれど、その喜び方まで相手の代わりに決めない。
以前の俺たちは、そういう境目をきっと何度も踏み越えていた。
最近の我が家は、何をするにも考えることが増えた。
昔より面倒になったと言えば、確かにそうだ。
でも、その面倒さの中には、以前より人の顔がよく見える。
それなら悪くないと思った。
◇
午後の魔法の授業では、今日も細かな制御を延々とやらされた。
「大きく動かす方が簡単なのは、相変わらずですね」
「はい」
「褒めてはいません」
「分かっています」
俺の前には、小さな木片が三つ並べられている。
中央の一つだけを浮かせ、両隣には触れない。
言葉にすれば、それだけだ。
俺の場合は少し意識を広げるだけで三つ全部へ力が染み出してしまい、一つだけに集中しようとすると、今度はそこへ力を集めすぎて飛ばしてしまう。
以前よりはかなりましになった。
ただし、ヴィクトル先生の基準がこちらの成長に合わせて後ろへ下がっていくので、「できるようになった」という実感はなかなか長続きしない。
「もう一度」
「はい」
呼吸を整える。
持ち上げようと押すのではなく、木片の底へ必要な分だけ指を差し込むような感覚で、魔力を細く伸ばす。
中央の木片が静かに浮いた。
左右は動かない。
「そのまま」
さらに少しだけ上げる。
揺れた。
反射的に強く支えたくなる。
けれど、そこで押さえ込めばまた飛ぶ。
落ちるなら落ちる直前まで待つくらいのつもりで、力の形だけを整えた。
揺れが止まる。
それから、ゆっくり机へ戻した。
木片が触れた時、音はほとんどしなかった。
「今のは悪くありません」
「ありがとうございます」
胸の中で、成功した時にだけ鳴る小さな鈴のような喜びが響いた。
「次も同じようにできれば、ですが」
鈴はすぐに止まった。
「……はい」
相変わらずである。
次の木片へ意識を移そうとした、その時だった。
廊下から軽い足音が近づいてくる。
扉の前で止まった。
ヴィクトル先生も気づいたらしく、視線だけをそちらへ向ける。
「どうぞ」
扉が開き、ミレーヌが顔を出した。
「失礼いたします」
「何かございました?」
俺が尋ねると、ミレーヌは一度だけヴィクトル先生を見てから答えた。
「お嬢様に、お手紙が届いております」
「手紙?」
「はい」
「リュネアですか?」
「いえ」
ミレーヌの両手には、厚手の白い封筒が載っていた。
端へ押された紋章を見れば、誰からなのかはすぐに分かる。
王家。
「殿下からです」
視線が吸い寄せられた。
何を書いてきたのだろう。
前回はこちらから古い街道についていくつか資料を挙げて返した。その続きを調べたのかもしれない。
「授業中です」
ヴィクトル先生の声が、視線だけ先に手紙へ行っていた俺を引き戻す。
「分かっています」
「読むのはあとに」
「分かっています」
「先ほどより返事が速いですね」
「先生が仰ると思いましたので」
ミレーヌが顔を伏せた。
肩がわずかに揺れている。
「ミレーヌ」
「失礼いたしました」
申し訳なさそうな声だけは完璧だった。
手紙は机の端へ置いてもらった。
そこから先が問題だった。
白い封筒はただ置かれているだけなのに、視界の隅で妙な存在感を放っている。机の上へ小さな窓が一つ開き、その向こうにまだ知らない文章が待っているようで気になる。
「集中してください」
「しています」
「手紙を見ています」
「……今から集中します」
ヴィクトル先生は、今日も正しかった。
◇
授業が終わると、自室へ戻った。
さすがに廊下で封を切るほど落ち着きがないわけではない。
椅子へ座り、ナディアが茶を置き終えるのを待ってから、封蝋を傷つけないよう丁寧に外した。
便箋には、見慣れ始めた整った文字が並んでいる。
アレクシスの字は、以前よりわずかに安定していた。
線の迷いが減り、一文字ごとの高さも揃ってきている。
練習しているのだろう。
あいつは努力したところを褒めると、思ったより素直に嬉しそうな顔をする。次の返事で少し触れてもいいかもしれない。
手紙の始まりは、最近読んだ歴史書についてだった。
古い街道沿いにある橋が、二つの資料で別の名前を使われていたらしい。
以前、俺が「一つの記録だけで決めない方がいい」と書いたことを受けて、さらに年代の違う資料まで探し、それぞれの呼び名がいつ使われていたのかを自分なりに並べている。
相変わらず真面目だ。
しかも、こちらが何気なく書いた言葉を、思っていた以上に丁寧に扱っている。
文字を追っているうちに、自然と口元が緩んだ。
「楽しそうですね」
ナディアの声が、湯気の向こうから静かに届いた。
「そう見えます?」
「はい」
それだけだった。
以前なら、その一言の後ろへ将来の話が連なっていたかもしれない。
殿下とのご縁は大切です。
将来のためにも。
王太子妃として。
今のナディアは、俺が一通の手紙を楽しんでいるという、目の前にある事実だけを受け取った。
言葉を足さずに残された空白が、以前よりずっと広く感じる。
そこへ何を書くかは、俺のものだった。
再び便箋へ目を落とす。
古い橋について几帳面に並んでいた文字は、やがて王宮の日常へと柔らかく流れを変えていく。
庭では最近、白い花が咲き始めたらしい。
その一文を目にした時、つい先日届いたリュネアの手紙に、白い花の刺繍がうまくいかなかったと書いてあったことを思い出した。
同じ白でも、片方は糸の中に咲き、片方は王宮の風に揺れている。
別々の場所で暮らす二人から、たまたま同じ色の話が届いたことが何となく可笑しくて、そのまま文字を追っていく。
そして、不意に。
一行だけ、その流れから俺の指を掬い上げるような言葉が現れた。
『もうすぐ六歳のお誕生日だと聞きました。』
王家なら、俺の誕生日を知っていても不思議ではない。
そう思いながら、その下へ視線を滑らせる。
『何を贈ればよいのか考えていますが、まだ決められていません。』
アレクシスからの誕生日の贈り物。
それ自体はおかしくない。
王太子と公爵家の一人娘で、婚約候補という話も完全になくなったわけではない。家同士の関係だけで考えても、贈答があって自然な立場だろう。
けれど、その次の文章を読んだ瞬間、便箋を支えていた指が止まった。
『以前、あなたは自分で選ぶことが大切だと言っていました。ですが、贈り物まで本人に聞いてしまうと驚かせられないので、今回は聞かないことにします。』
午後の光が、窓から机へ斜めに差し込んでいる。
白い紙の端だけが淡く明るくなり、その中に並んだ文字が、さっきまでより少しだけ近く感じられた。
いつ書いた言葉だったかは分かる。
相手に覚えていてほしくて選んだ言葉ではない。
格好をつけるために書いたわけでもない。
その時、自分がそう思ったから、ただ渡しただけだ。
こちらでは何気なく手放したものを、向こうは拾い上げ、まだ手の中に置いていたらしい。
「……そこを覚えているのか」
気づけば声になっていた。
「何かございました?」
「いえ」
便箋から目を離さずに答える。
こういうところだぞ、アレクシス。
王太子だとか、顔が整っているとか、そういう分かりやすい札より厄介なのは、たぶんこういうところだ。
一度受け取った言葉を、ただ保存して終わらせない。
相手ならどう感じるかを考え、別の場面で自分なりの答えに作り替えて返してくる。
王太子としての教育なのか。
本人の性格なのか。
おそらく両方なのだろう。
どちらにしても、六歳になるかどうかの子供としてはかなり出来すぎている。
前世の俺が同じくらいの年齢だった時、友達への誕生日プレゼントにここまで頭を使った記憶はない。好きそうなものを聞くか、自分が欲しいものを渡すか、その程度だった気がする。
しかも、あの顔がこのまま順当に育つ。
王太子で。
真面目で。
努力家で。
人の話をちゃんと受け取る。
おそらく本人には、自分が相手の心へどんな痕跡を残しているのか、まだ大して分かっていない。
……将来、絶対にモテるな。
むしろ、これでモテなかったら何かがおかしい。
俺が普通にこの世界の令嬢として育っていて、こんなことを何度も無自覚にやられていたなら、一度くらいは「もしかして自分には特別な意味があるのでは」と期待したかもしれない。
危険な男である。
本人がたぶん何も分かっていないのが、なお悪い。
とはいえ。
それと、俺自身がその列へ並びたいかどうかは別だった。
アレクシス本人は嫌いではない。
むしろ、かなり好感を持っている。
歴史の話は面白いし、木剣の練習も真面目に続けている。努力を認められれば嬉しそうにするし、豆を嫌いなことは妙に分かりやすい。
王太子という肩書きの奥にある、そういう普通の部分を知るほど、本人とのやり取りは気楽になってきた。
ただし、それと結婚したいかどうかは別だ。
今の俺は、男と結婚する未来を自然に望めない。
何年も先の自分まで同じだと決めつけるつもりはないし、未来の感情を今の俺が勝手に代弁する気もない。
けれど、今はそうだ。
ならば、婚姻相手として警戒することと、アレクシス本人を遠ざけることまで同じにする必要はない。
歴史の話ができる。
手紙を送り合える。
困った時には意見を聞ける。
こちらが王太子扱いばかりしなくても、向こうもそれなりに言葉を返してくれる。
そんな友人なら、むしろかなり当たりではないだろうか。
攻略対象として避け続けるより、頼れる友人として付き合う。
その方がずっと自然だ。
俺としても歓迎できる。
相手が王太子なので、「普通の友人」という言葉がどこまで成立するのかは怪しいけれど。
それでも、自分の中に置く場所は少し見えた気がした。
婚約者ではなく。
将来を決める相手でもなく。
今のところは、話していて楽しい、頼れそうな友人。
それくらいがちょうどいい。
その先の文字には、アレクシスらしい慎重さがそのまま続いていた。
『ただ、嫌いなものを贈るのも困るので、もう少し考えます。』
俺は思わず笑った。
やっぱり真面目すぎる。
そして、やっぱり将来モテる。
危うく机へ頬杖をつきそうになり、ナディアがいることを思い出して姿勢を戻した。
「お返事を書かれますか?」
ナディアは便箋ではなく、俺の手元へ新しい紙を置いた。
「はい。できれば今日中に」
「夕食まで、あまりお時間はございません」
「短くします」
それ以上は止められなかった。
インクと便箋がこちらへ寄せられる。
橋の話は面白かったと書こう。
別の年代の記録も、こちらで探してみたい。
王宮の白い花についても、少し触れたい。
問題は誕生日の部分だった。
気にしなくていい、と返すのは簡単だ。
けれど、あれだけ考えてくれているものを最初から断るのも違うように思えた。
昼食の席で母さんが話していたことが、今になって別の角度から戻ってくる。
贈る側には、相手のことを考える時間がある。
受け取る側には、それをどう思うか決める自由がある。
どちらか一方だけでは、贈り物にはならないのかもしれない。
俺は紙の上へペン先を下ろした。
『お祝いのお言葉だけでも嬉しいです。ただ、殿下が何か選んでくださるのでしたら、楽しみにしております。』
書き終えたあと、その一文だけ妙に目立って見えた。
素直すぎないか。
そう思う。
けれど、嘘でもなかった。
何を選ぶのかは、本当に少し楽しみだ。
なら、これでいい。
そのまま橋の話を書き進め、最後まで来たところで、ふと思いついて一文を足した。
『ちなみに、豆でなければ大抵のものは大丈夫です。』
書いた瞬間、自分で笑いそうになった。
豆が嫌いなのはアレクシスの方だ。
俺がもらって困るわけではない。
でも、あいつなら分かる。
誰にでも通じる言葉ではなくても、二人の間だけで意味が通じる言葉がある。
そういうものが増えていることに、その時初めて気づいた。
「お嬢様?」
「何でもありません」
俺は手紙を閉じた。
窓の外では、傾き始めた光が庭木の葉を淡い金色へ変え、揺れるたび床へ落ちる光の形も静かに変わっている。
何か大きなものが変わったわけではない。
アレクシスは今も王太子だ。
俺は今も、将来の婚姻を望んでいない。
ただ、まだ来てもいない未来を警戒するために、今ある関係まで捨てる必要はないのだろう。
友人なら。
それも、困った時に頼れるような友人なら。
そのくらいの場所なら、俺はむしろ残しておきたい。
「お願いいたします」
「かしこまりました」
ナディアへ封をした手紙を渡す。
彼女は両手で受け取り、封筒へ一度だけ視線を落とした。
内容を尋ねることはなかった。
アレクシスをどう思っているのかも、その先にどんな未来を考えているのかも聞かない。
ただ、俺が自分で選んだ言葉を、その形のまま届けるために受け取る。
以前なら、彼女の手に渡った瞬間、その封筒の向こう側へ「あるべき未来」まで一本の線を引いていたかもしれない。
今は、そこで止まる。
俺が書いた。
アレクシスへ届く。
あとは、向こうが読む。
それだけでいい。
扉が閉じたあとも、机の上にはアレクシスから届いた便箋が残っていた。
何でもない白い紙だ。
けれど、手紙になるまでには、向こう側にも時間があったのだろう。
何を書くか考えて。
言葉を選んで。
わざわざ一通の形にして送る。
それを思えば、贈り物というものも似ているのかもしれない。
物そのものより先に、誰かが自分のために迷った時間がある。
気に入るかもしれない。
気に入らないかもしれない。
その答えが分からないままでも、手を伸ばす。
不確かな部分まで一緒に包んで渡すから、開ける瞬間に少しだけ心が動くのだろう。
◇
その夜。
ヴェルシアナが眠りについた頃、公爵邸の別室では三人の大人が一つの机を囲んでいた。
卓上には、銀細工の小箱、小ぶりな髪飾り、淡い色合いの布、細身の筆記具などが並んでいる。
どれも六歳になる公爵令嬢へ贈るものとして不足はない。
それどころか、どれを選んでも十分すぎるほどだった。
セレフィアはその中から、銀の髪飾りを手に取った。
小さな石が灯りを受けて淡く輝き、蔓草を模した銀細工が指先の間で繊細な影を落とす。
娘の髪に挿した姿は、考えるまでもなく似合うだろう。
月明かりをそのまま梳いたような銀髪に、この細工が映えないはずがない。
以前の自分なら、迷わず選んでいた。
銀色の髪によく似合う。
紅紫の瞳も引き立つ。
公爵令嬢として人前へ出る時にも申し分ない。
何より、身につけた娘が美しい。
今も、その姿を見たい気持ちは変わっていない。
むしろ母親としては、とても見たい。
セレフィアは髪飾りを明かりへ少し傾けた。
石が煌めく。
けれど、その光の中に娘の喜ぶ顔を想像しようとすると、どうにも輪郭がぼやける。
似合う姿は、簡単に浮かぶ。
喜ぶ姿は、まだ分からない。
そこに気づいて、彼女は髪飾りを元の場所へ戻した。
「これは、今回は違う気がします」
「理由は?」
レオルディスの短い問いが、机の上へ静かに置かれる。
「きっと似合います」
セレフィアは名残惜しそうに銀細工を見た。
「でも、今のあの子が欲しがっているものとは、少し違うでしょう?」
「本と言っていたな」
「ええ」
セレフィアは小さく笑う。
「本一冊でも、あの子は本気で喜んでしまいそうなのが悩ましいのです。母親としては、もう少し包みを開けた瞬間の顔を楽しみたいのですけれど」
「喜ぶならいいだろう」
「あなたは、そう言うと思いました」
レオルディスは否定しなかった。
机の灯りが、彼の横顔へ静かな影を落としている。
彼にとっては、華やかさより娘が本当に欲しいかどうかの方がずっと重要なのだろう。
その潔さを、セレフィアは時々羨ましいと思う。
自分には自分で、美しいものを娘へ着せたい欲がある。
似合う色を見つければ試したくなるし、髪飾りを見れば銀髪へ挿した姿を想像する。
以前は、その欲と「娘のため」という気持ちの境目を、ほとんど考えたことがなかった。
今は、考える。
だからといって、全部捨てなくてもいいのだとも知り始めている。
好きな人へ何かをしてあげたいと思うことまで消してしまえば、愛情は透明になりすぎて、触れたことさえ分からなくなってしまう。
「ナディアはどう思います?」
問いかけられ、ナディアはすぐには答えなかった。
机の上に並んだ品々を一つずつ見ていく。
以前の彼女なら、もう答えを持っていたかもしれない。
最もふさわしいもの。
最も長く使えるもの。
最も将来の役に立つもの。
そうした基準の先にある一つの品を、迷いなく差し出していただろう。
今は、その答えへ飛びつかない。
「以前でしたら、長くお使いいただけるものを選んだと思います」
「今は?」
「……お嬢様が、日頃から自然に手へ取られるものがよろしいかと存じます」
セレフィアの目が細くなる。
「たとえば?」
「最近は、お手紙を書かれる機会も増えておりますので」
その言葉を受けて、レオルディスの視線が机の上を移動し、一本の筆記具で止まった。
「これか」
「はい」
細身の筆記具だった。
銀を基調としているものの、装飾は控えめで、まだ幼い手でも扱いやすいよう重さが抑えられている。
持ち手に施された彫りも、ごく細い。
華やかさでは髪飾りに遠く及ばない。
けれど、少し眉を寄せながら手紙を書き、考えがまとまらなくなるとペン先を止めるヴェルシアナの姿を思い浮かべれば、こちらの方がずっと自然に彼女の日常へ収まった。
セレフィアは筆記具を手に取り、掌の上で重さを確かめる。
「これなら、使ってくれるかしら」
「使わなければ、別のものを使えばいい」
レオルディスが言った。
セレフィアは夫へ目を向ける。
「まだ贈ってもいないのに、もう使わなかった時のことを考えているのですか?」
「使わせるために贈るわけではない」
ほんの一言だった。
けれど、短く切られた言葉のあとには、書類の末尾に残された空欄のような静けさがあった。
贈るところまでは自分の意思。
使うかどうかは娘の意思。
以前なら、その最後の欄まで先回りして記入してしまったかもしれない人が、今は意識して白く残そうとしている。
問題が起こる前に道を均し、転ぶ前に石をどかしてきた父親にとって、その余白を残すことは、何もしないよりずっと難しいのだろう。
セレフィアは夫の横顔をしばらく見たあと、ふっと笑った。
「そうですね。気に入ってくれたら嬉しい。それくらいが、ちょうどよいのかもしれません」
レオルディスは静かに頷いた。
その少し後ろで、ナディアの視線が机の端へ向かう。
そこには、小さな包みが一つ置かれていた。
豪華な品々に囲まれると、飾り棚の隅に置かれた忘れ物のように目立たない。
中身を知っているのは、ナディアだけだった。
高価なものではない。
公爵令嬢へ贈る品として、誰かに褒められるようなものでもない。
ただ、日々のヴェルシアナを見ているうちに、これなら使うかもしれないと思った。
もしかすると、喜んでくれるかもしれないとも思った。
その「かもしれない」を、以前のナディアなら嫌っただろう。
長く使えるもの。
将来に役立つもの。
公爵令嬢にふさわしいもの。
本人にとって一番よいものを、自分が間違えずに選ぶ。
その方が安全だった。
相手の答えを先に決めておけば、外れることがないからだ。
けれど、本来、人へ何かを渡すということは、そんなに安全な行為ではないのかもしれない。
自分は好きだと思って選ぶ。
相手は違うかもしれない。
喜ぶかもしれない。
困るかもしれない。
それでも渡す。
贈る側の手と、受け取る側の手の間には、必ずわずかな距離が残る。
以前のナディアは、その隙間を怖がって、先に埋めようとしていた。
今は、そのままでよいと思い始めている。
相手が手を伸ばすなら、そこで初めて届けばいい。
伸ばさないなら、無理に握らせなくていい。
セレフィアの視線が、その小さな包みへ落ちた。
「それは?」
ナディアは一度だけ包みを見る。
「私から、お嬢様へ」
「まあ」
セレフィアの表情が柔らかくほどける。
「何を選んだの?」
ナディアはほんの少し目を伏せた。
それから、以前なら選ばなかったであろう答えを口にした。
「それは……当日まで秘密にさせてくださいませ」
セレフィアが楽しそうに笑った。
レオルディスは何も尋ねなかった。
ナディアも、それ以上説明しない。
分からないままでいいことを、そのまま置いておける。
その夜、机の上に並んでいたのは贈り物だけではなかった。
誰かのために選びながら、それでも最後の答えまでは奪わないという、小さな余白がいくつも残されていた。
窓の外では、夜風が庭木の葉を揺らしている。
姿は見えなくても、葉と葉が触れ合う音だけが薄く部屋まで届いていた。
六歳の誕生日まで、あと十七日。
当の本人は、自分の日々が忙しくなった理由を、知りたいことが増えたせいだと思っている。
それは、間違いではない。
けれど、その知らないところでも。
どんな本なら喜ぶだろう。
何を差し出せば、あの強い紅紫の瞳に、ほんの少し嬉しそうな光が宿るだろう。
どんな形なら、自分の気持ちを重くせずに渡せるだろう。
そんなことを考えながら、それぞれの手の中で何度も答えを選び直す人間が、いつの間にかずいぶん増えていた。
ヴェルシアナだけが、それをまだ知らない。
包みの中身も。
それを選ぶために費やされた時間も。
その答えは、まだ包みの向こうにある。




