第31話 ナディア
雨は、昼を少し過ぎた頃から降り始めた。
朝のうちは空を覆う雲もまだ薄く、庭の向こうには淡い明るさが残っていた。このまま降らずに終わるのかもしれないと思っていたのに、昼食を終える頃には景色から少しずつ色が抜け、やがて細かな雨粒が窓硝子を濡らし始めた。
激しい雨ではない。
屋根を強く叩くでもなく、木々を揺らすような風もない。ただ、いつ止むとも知れない雨が庭へ薄い幕を下ろし、白かった石畳を少しずつ濃い灰色へ染めていく。
こういう雨の日は、時間まで水を含んで重くなったように感じる。
午後に予定されていた魔法の稽古では、屋外で風を扱う練習が取りやめになった。
代わりにヴィクトル先生が机の上へ置いたのは、薄い紙片と、小さな金属製の輪だった。
「こちらを、輪の中央へ通してください」
「紙を?」
「紙を」
あまりにも真顔で返され、俺は目の前の輪を見る。
大人の拳ほどの大きさしかない。
「簡単そうですね」
「そうお思いになるのでしたら、まずお試しください」
言われるまま魔力を流す。
淡い紫色を帯びた風が紙片の下へ入り込み、それをふわりと持ち上げた。
ここまではよかった。
輪へ向けて押した瞬間、紙は見事に横へ逸れ、そのまま机の端を越えて床へ落ちた。
ヴィクトル先生が、何も言わず俺を見る。
「……輪が少し小さいのでは?」
「輪は一度も動いておりません」
「そうですね」
「力を加えることばかり考えないように」
先生は紙を拾い、もう一度机へ戻した。
「軽いものほど、強く押せば思わぬ方向へ逃げます。動かすのではなく、行く先を整える程度でよろしい」
妙に耳へ残った。
「行く先を整える」
「何か?」
「いいえ」
最近は、何を聞いても別のことへ繋がってしまう。
力があるからといって、強く押せばいいわけではない。こちらが正しい方向を知っているつもりでも、押しすぎれば相手は狙った場所から外れていく。
紙一枚にまで説教されているような気分だったが、そんなことを口にすれば「魔法と人間関係を混同しないでください」と真顔で返されそうなので黙っておいた。
三度目で、紙片は輪の縁をわずかにかすめながら向こう側へ抜けた。
「今のは悪くありません」
「褒め方が控えめですね」
「過剰に褒めますと、お嬢様は次に余計なことをなさる傾向がございますので」
「信用がありませんね」
「経験に基づく判断です」
以前、上手くいった直後にもう少しできる気がして魔力を強め、紙を壁まで飛ばしたことを先生はまだ覚えているらしい。
こういう失敗だけは、もう少し都合よく忘れてくれてもいいと思う。
稽古を終え、部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると、角の向こうからナディアが現れた。
腕には、小さな木箱を抱えている。
黒に近い濃茶の木で作られた、装飾の少ない箱だった。角は擦れ、金具には細かな曇りがある。大切に磨かれてきたというより、長い間誰にも触れられず、それでも捨てられなかった年月だけが表面へ薄く積もっているように見えた。
「ナディア」
「お嬢様」
彼女は足を止め、一礼する。
俺が箱を見ていることに気づいたらしい。
「こちらが気になりますか?」
「少し」
「わたくしの昔の荷物でございます」
「昔の?」
「こちらへ参った頃に持ってきたものの一部が、まだ倉庫に残っておりましたので」
その言葉で、胸の奥が少し動いた。
先日、俺は彼女へ尋ねた。
何も失ってほしくないという、その言葉の続きをいつか聞かせてほしい、と。
ナディアはあの時、すぐに答えず、「いつか」とだけ言った。
どうやら、その続きを彼女自身が持ってきたらしい。
「見せていただいても?」
そう尋ねてから、少しだけ付け足す。
「見せてもいいものでしたら」
ナディアの口元に、ごく淡い笑みが浮かんだ。
「そのつもりで持ってまいりました」
俺たちは近くの読書室へ移った。
雨の日には普段より少し暗く見える部屋だった。
壁際には背の低い本棚が並び、中央には丸い机が一つある。窓硝子を伝う雨粒の向こうでは庭が輪郭をぼかし、花壇の色さえ水彩絵具を滲ませたように混ざり合っていた。
ナディアが木箱を机へ置く。
蓋を開けると、古い紙と乾いた布が混ざった匂いがした。
中に入っていたのは、思ったよりも普通のものばかりだった。
角の丸くなった小さな本。
古い刺繍枠。
何枚かの手紙。
白い布に包まれた銀の髪留め。
そして、一番端に折り畳まれていた、色の褪せた細いリボン。
宝箱というほど華やかではない。
むしろ、捨てるには理由がありすぎて、残しておくには説明が足りないものばかりを、一つの箱へしまったように見えた。
「これは?」
俺が銀の髪留めを見ると、ナディアもそこへ目を落とした。
「母から贈られたものです」
「大切なものですか?」
当然のように「はい」と返ってくると思った。
けれど、ナディアは少し考えたあと、
「……捨てられないもの、でしょうか」
と答えた。
妙な言い方だった。
「好きではない?」
「嫌いではございません。ただ、好きなものかと問われますと、少し違う気がいたします」
ナディアが白い布を開く。
中から現れた髪留めは、細かな銀細工で花を模した美しい品だった。大きな宝石こそ使われていないが、十三歳の少女へ気軽に与えるようなものではないことくらい、俺にも分かる。
「十三になった年に、母からいただきました」
「十三歳」
「いずれ嫁ぐ時に持っていくように、と」
そこで意味が分かった。
「縁談があったのです?」
「候補がございました」
「どんな方?」
ナディアは一瞬だけ、遠い場所を見るような目をした。
「わたくしより二十歳近く年上の方でした」
思わず顔を上げる。
「二十歳?」
「ええ。地方に領地を持つ子爵家の御当主で、奥方を亡くされて数年経っておられました」
「……では、再婚?」
「はい」
ナディアは静かに頷いた。
「お子様も二人いらっしゃいました。上のお子様は、当時のわたくしと十歳も離れていなかったと記憶しております」
十三歳。
まだ学園へ入り始める年齢の少女が、二十歳近く年上の男の後妻となり、すでにいる子供たちの母親になる。
この世界の貴族社会で珍しいことなのかどうか、俺には分からない。
けれど、珍しくないことと、十三歳の本人が平気でいられることは、まるで別の話だった。
「その方のことは、お好きだった?」
「ほとんど存じ上げませんでした」
ナディアは微かに笑った。
「二度ほど、家族同席の場でお会いした程度です」
「嫌ではなかったのです?」
「相手の方を、という意味でしたら」
彼女は少し言葉を選ぶ。
「嫌う理由はございませんでした」
その答えが、かえって重かった。
相手が分かりやすく酷い男だったなら、もっと簡単だったのかもしれない。
「評判の悪い方ではございませんでした。領地経営も堅実で、亡くなられた奥方を大切にしていたとも聞いております。お子様方のことも可愛がっておられたそうです」
「では、ナディアのご家族も」
「良い縁だと思っておりました」
恨みを含んだ声ではない。
だからこそ、その話は痛々しかった。
「当時のセレグラン家は、今以上に余裕がございませんでした。数年続けて収穫が安定せず、父の代から残っていた負債もあり、屋敷の修繕も後回しになっておりました。兄もまだ若く、家の先行きを皆が心配していた頃です」
以前聞いた、セレグラン領の話と繋がっていく。
「その子爵家と縁ができれば、家にとっても良かった?」
「はい。直接金銭をいただくような話ではございません。ただ、家同士の信用は増します。取引を広げることもできましたし、困った時に相談できる相手も増える。小さな家にとっては、大きな意味がございました」
ナディアは銀の髪留めを見つめた。
「そして何より、父も母も、わたくしが不幸になるとは思っていなかったのです」
「ナディアも?」
「……分かりませんでした」
彼女はそう答えた。
「当時のわたくしには、自分が何を嫌がっているのか、うまく説明できなかったのです」
雨が窓を細く流れていく。
「衣装は何色がよいかと聞かれました。髪飾りも、好きな花も、嫁いだ先で使う部屋も。相手方のお子様とどのように過ごしたいかも尋ねられました」
「随分、聞いてくれたのですね」
「はい」
ナディアは静かに頷く。
「ですから、自分は大切にされているのだと思いました」
そこで声がほんの少し変わった。
「ただ、結婚したいかどうかだけは、誰も聞きませんでした」
胸の奥に、小さく重いものが沈んだ。
細かなものは選べる。
衣装の色も、花も、部屋も。
けれど、一番大きなところだけは最初から選択肢になっていない。
用意された道の上で、どんな靴を履いて歩くかは聞いてもらえる。
けれど、その道を歩くかどうかだけは、もう決まっている。
「ナディアから聞かなかったのです?」
「一度だけ」
俺は顔を上げた。
「父に尋ねました」
「何と?」
「……わたくしは、嫁がなければなりませんか、と」
雨音が、急に近くなったように感じた。
「お父様は?」
「怒りませんでした」
ナディアは小さく首を横に振った。
「むしろ困ったような顔をしておりました」
そして、ゆっくり言葉を続ける。
「『お前を家のために差し出したいわけではない』と」
優しい言葉だった。
だから、その先を聞くのが怖くなる。
「『この縁は、お前にとっても悪いものではないと思っている。家にとっても助けになる。だが、本当に嫌ならそう言っていい』と」
俺は少し眉を寄せた。
「では、断れたのでは?」
「形の上では」
ナディアは俺を見る。
「ですが、その時のわたくしは、もう知っていたのです」
今年の収穫が悪かったこと。
家に負債が残っていること。
兄が夜遅くまで父と帳簿を見ていたこと。
母が新しい衣装を作るのを控えていたこと。
屋敷の一部に雨漏りがあっても修繕を先延ばしにしていたこと。
そして、その縁がまとまれば家の先行きが少しだけ楽になること。
「全部知った上で、『嫌なら断っていい』と言われたのですね」
「はい」
拒否する自由はあった。
ただし、その自由を使った先で困る人たちの顔を、十三歳の少女はすでに知っていた。
自由という言葉だけを手渡されても、その先に家族の重さが結びついていれば、それを本当に自由と呼べるのか。
「最後に父は言いました」
ナディアの声が少し低くなる。
「『お前なら、家のことも分かってくれると思っている』と」
胸の奥が冷えた。
責めてはいない。
命じてもいない。
むしろ信頼しているように聞こえる。
けれど十三歳のナディアにとって、その言葉は、閉じかけていた扉へ外側からそっと鍵を掛けられるのと、どれほど違ったのだろう。
「ナディアは、何と?」
答えは予想できていた。
それでも聞いた。
「……はい、と」
彼女は静かに答えた。
「わたくしが望んでいたわけではありません。それでも、自分でそう答えました」
「それを、自分で選んだと思った?」
「当時は」
ナディアは苦く笑う。
「嫌だと言わなかったのですから、自分で選んだのだと思おうとしました」
その夜、母親はナディアを抱きしめたという。
「『ありがとう』と言われました」
彼女の指先が銀細工の花へ触れる。
「『あなたは本当に家族思いの優しい子ね』と」
言葉そのものには、一片の悪意もない。
きっと母親は、本当に娘を愛していた。
だからこそ、その言葉は深く沈んだ。
「嬉しかったですか?」
「……はい」
ナディアは認めた。
「嬉しかったのです。父を安心させられた。母に喜んでもらえた。兄の助けにもなれる。自分はちゃんと家族の役に立てたのだと」
そこで彼女の声が、ほんの少しだけ掠れた。
「だから余計に、嫌だと言えなくなりました」
俺は何も言えなかった。
嫌だと言わないナディアは、優しい娘だった。
ならば、嫌だと言うナディアは何になるのだろう。
家族を困らせる娘。
家の事情を分かろうとしない娘。
せっかくの良縁を我儘で断る娘。
誰もそんなことを口にしなかったのかもしれない。
それでも一度、「優しい子」という形を与えられてしまえば、その輪郭から外へ出るだけで、自分が別の何かへ変わってしまうように感じることはある。
「そのあと、生活も変わったのです?」
ナディアの視線が少し揺れた。
「はい」
「どんなふうに?」
「兄と一緒に受けていた領地経営の勉強を、やめることになりました」
今度は、はっきりと驚いた。
「好きだったのでは?」
「好きでした」
返事は早かった。
「父の書斎で帳簿を見るのが好きでした。数字そのものより、なぜこの村では支出が増えたのか、どうして橋を直すのにこれほど時間がかかるのか、そういうことを尋ねるのが楽しかったのです」
ミレーヌを思い出す。
倉庫の帳簿を覗き込みながら目を輝かせていた、小さな少女。
「でも、嫁ぐなら必要ないと?」
「そう言われました」
ナディアは静かに笑った。
「代わりに、嫁ぎ先の家系、社交、家政、子供の世話について学ぶ時間が増えました。どれも必要なことだったのでしょう」
「嫌だとは?」
「言いませんでした」
もう一度「はい」と答えた後だった。
結婚は受け入れると言っておきながら、この勉強だけは続けたいと口にすることさえ、あの頃のナディアには我儘に思えたのかもしれない。
「一度、父の書斎へ行ったことがございます」
彼女は続けた。
「兄が帳簿を見ていて、以前のように隣へ座ろうとしました」
「それで?」
「母に呼び止められました」
ナディアの目が、箱の中ではなく、もっと遠い場所へ向いていた。
「『もうお兄様と同じことを覚えなくてもいいのよ』と」
その言葉も優しい。
きっと責める意図などなかった。
もう必要のない勉強から娘を解放してあげようとしたのかもしれない。
それでも、その日のナディアには違って聞こえたのだろう。
「その時、初めて思いました」
彼女の声が細くなる。
「嫁ぐということは、知らない方の妻になるだけではないのだと」
俺は黙って聞いた。
「今まで好きだったものまで、一つずつ『もう必要ありません』と言われていくことなのだと」
銀の髪留めが、雨の日の鈍い光を受けている。
美しいものだった。
けれど、その銀の花が一つ増えるたび、ナディアの手元から別の何かが片付けられていったのかもしれない。
帳簿。
父の書斎。
兄と一緒に学ぶ時間。
自分がその先も続いていくはずだった未来。
奪われたというより、丁寧に畳まれ、「あなたにはもう必要ありません」と棚へ戻されていく。
乱暴に取り上げられたのなら、怒れただろう。
誰も怒鳴らなかった。
誰も脅さなかった。
みんな優しかった。
だから、嫌だと言えなかった。
「……辛かったですね」
俺が言うと、ナディアは少しだけ首を振った。
「当時は、辛いと思ってよいのかさえ分かりませんでした」
その答えの方が、胸に残った。
「もっと酷い縁談はいくらでもございます。相手は悪い方ではありませんでした。家族にも愛されていた。食べるものにも困っていなかった。だから、自分が不幸だと言えば、罰が当たりそうな気がしていたのです」
不幸ではない。
だから苦しんではいけない。
愛されている。
だから拒んではいけない。
善意というものは、ときどき悪意より逃げ道を見つけにくい。
悪意なら、それを悪いと呼べる。
けれど優しさの形をして差し出されたものを拒むには、ときとして相手ではなく、自分自身を悪者にする覚悟がいる。
「その縁談は、どうなったのです?」
「先方の御当主が急病で倒れられました」
ナディアの視線が銀の髪留めへ落ちる。
「家の状況が大きく変わり、婚姻どころではなくなりました。話は、そのまま立ち消えになりました」
俺は少し迷ってから尋ねた。
「安心しました?」
ナディアは一度だけ目を伏せた。
「はい」
小さな声だった。
「とても」
その答えには、年月を経ても乾ききらない罪悪感が滲んでいた。
「先方が大変な時に、わたくしは、自分が助かったと思ってしまいました」
誰かの不幸によって、自分の未来が戻ってきた。
それは十三歳の少女には、あまりにも扱いづらい感情だっただろう。
「最初に、何を思いました?」
俺が尋ねると、ナディアの目がわずかに揺れた。
「何を、と?」
「縁談がなくなったと聞いた時」
ナディアは長く黙った。
やがて、少し恥じるように答える。
「……もう、帳簿を捨てなくていいと思いました」
胸の奥を、何かが静かに掴んだ。
結婚相手への嫌悪でもない。
自由という大げさな言葉ですらない。
少女が最初に取り戻したかったのは、好きだった勉強だった。
父の書斎で兄の隣に座り、数字の向こうにある村や道について尋ねる時間。
そんな小さなものまで、彼女にとっては失われるはずの未来だったのだ。
それからしばらくして、アルセリード家で学ぶ話が来た。
高位貴族の家で礼儀や社交を学ぶため、数年間だけ外へ出る。
家族にとっては教育だったのだろう。
けれどナディアにとっては、それ以上の意味があった。
「こちらへ来た時、嬉しかった?」
「怖かったです」
「アルセリード家だから?」
「ええ」
ナディアはわずかに笑う。
「セレグラン家から見れば、あまりにも大きなお家でしたから。失敗すれば家へ迷惑をかけますし、数年後には戻る予定でしたので、その頃にはまた別の縁談があるかもしれないとも思っておりました」
「それでも、来たかった?」
「はい」
今度は迷わなかった。
「少なくとも、その数年間だけは、昨日まで決められていた未来から少し離れられると思いました」
逃げた、とは言わない。
けれど、時間をもらったのだ。
自分の人生が再び誰かの手で整えられるまでの、わずかな猶予を。
ナディアは箱へ手を伸ばす。
今度は銀の髪留めではなく、一番端にあった色の褪せたリボンを取り出した。
元は淡い青だったのだろう。
今では、雨雲の切れ間に残った薄い空のような色になっている。
「これは?」
「初めて、自分のお給金で買ったものです」
「自分で?」
「はい」
ナディアはその細い布を指先へ乗せた。
「高価なものではございません。銀の髪留めと比べれば、値段などないに等しいものです」
それでも、その触れ方は先ほどよりずっと優しかった。
「どうして買ったのです?」
「色が好きだったからです」
あまりにも簡単な答えだった。
「それだけ?」
「それだけです」
ナディアは少し笑った。
「誰かに似合うと言われたわけでもありません。家に必要だったわけでもない。母が勧めた色でも、嫁ぎ先の方が好む色でもありませんでした」
その声が、ほんの少しだけ若返ったように聞こえた。
「店に並んでいて、わたくしが見て、欲しいと思ったので、『これをください』と言いました」
たったそれだけ。
それだけなのに。
「店員は?」
「値段を教えてくださいました」
「それだけ?」
「ええ」
ナディアは笑った。
「誰も、理由を聞かなかったのです」
その一言で、青いリボンの価値が変わった。
家のためでもない。
誰かを安心させるためでもない。
良い娘でいるためでもない。
何かに相応しいからでもない。
ただ、欲しいと思ったから選んだ。
そして、「これ」と言えば、その通りになった。
人生で初めて、自分の好みだけで世界のほんの一部が決まった。
銀の髪留めより安い一本の布が、何年経っても捨てられない理由としては、それで十分すぎる気がした。
「嬉しかったのですね」
「ええ」
ナディアの返事には迷いがない。
「帰り道で、何度も袋を開けました。なくなっていないか確かめる必要などないのに」
俺はリボンを見る。
色は褪せている。
端にも少しほつれがある。
それでも、その青だけが箱の中でまだ息をしているように思えた。
「ナディア」
「はい」
「本当に欲しかったのは、高いものではなかったのですね」
彼女が俺を見る。
「自分で選んだものだったのでは?」
ナディアの視線が、リボンへ落ちた。
長い沈黙のあと、静かに頷く。
「……そうなのでしょうね」
「だから、わたくしには選べる人になってほしかった?」
「はい」
今度は答えが早かった。
そこまで聞けば、彼女の考えの根はかなり見える。
低い立場にいるほど、自分の意思より家の事情の方が重くなる。
嫌だと言うことができても、その言葉によって困る誰かの姿を見せられれば、選択肢は形だけになってしまうことがある。
ならば俺を、もっと高いところへ。
誰かに「分かってくれるでしょう」と言われても、その一言に人生ごと押されずに済む場所へ。
嫌だと言っただけで、家族を壊す側にならなくてもいい場所へ。
「だから、王太子妃なのですね」
ナディアはゆっくり俺を見る。
「一番高いところへ行けば、誰にも人生を決められないと思った?」
「……そう思っておりました」
ようやく、納得できた。
正しいかどうかは別として。
ナディアにとって身分とは、豪華な衣装や大きな屋敷の話ではなかった。
発言する力だった。
嫌だと言う力だった。
誰かの事情より、自分の答えを重くできる力だった。
自分が持てなかったものを、俺には最初から持たせたかった。
「でも」
俺は銀の髪留めと、青いリボンを見比べる。
「少し変ですね」
ナディアの指先が止まった。
「何がでしょう」
「ナディアは、自分で選べることが欲しかったのでしょう?」
「はい」
「なのに、わたくしには、選ぶ前から王太子妃という場所を用意した」
雨が、窓を細く叩いている。
「わたくしのために良い場所を選んで、そこへ行けば幸せだと言う。でも、一番大きな道だけは、もう『ここが一番です』と決めている」
言葉にするほど、その形がはっきり見えてくる。
「ナディアのお父様たちも、ナディアを不幸にしたかったわけではなかったのでしょう?」
「……はい」
「ナディアも、わたくしを不幸にしたいわけではない」
「もちろんです」
そこだけは彼女の声が強くなった。
「分かっています」
俺は頷く。
「だから、似ているのだと思います」
ナディアは何も言わなかった。
誰も悪人ではなかった。
娘の将来を考えた父。
家族思いだと褒めた母。
良縁だと思った周囲。
そして、俺を誰より大切にしようとしたナディア。
優しい手だけが重なって、一人の人間が歩ける道を少しずつ狭くしていく。
その形を一番嫌っていたはずの人が、今度は別の誰かへ繰り返していた。
それは責めるより、ずっと悲しいことのように思えた。
「わたくしは……」
ナディアが、ようやく口を開いた。
「お嬢様には、わたくしのようになっていただきたくなかったのです」
その声は、雨音よりも静かだった。
「誰かの事情を理解できてしまったせいで、ご自分の望みを後へ回すような方には」
俺は黙って聞く。
「嫌だと言うために、誰かを困らせる覚悟が必要な方にもなっていただきたくなかった。誰かの家へ選ばれて入るのではなく、お嬢様ご自身が選ぶ側でいていただきたかった」
「だから、高い立場へ」
「はい」
「誰にも頭を下げなくていいように?」
ナディアは少し迷ったあと、頷いた。
「できる限り」
そこには、危ういほど切実な願いがあった。
「でも、王太子妃でも何もかも自由にはできませんよね」
「分かっております」
「王家の都合もある。国の事情もある。王太子殿下の考えだってある」
「はい」
「なら、どうしてそこまで?」
ナディアは青いリボンを見た。
「……少なくとも、わたくしよりは選べると思ったのです」
その一言で、最後の線が繋がった。
彼女は王太子妃という立場を、すべての生き方と比べていたわけではない。
自分の人生と比べていた。
十三歳の頃の自分。
形式上は断ることができたのに、家族を困らせたくなくて「はい」と言った少女。
好きだった勉強を「もう必要ない」と片付けられ、誰も悪くないからこそ怒ることすらできなかった少女。
その少女から見れば、王国でもっとも高い場所に近い女性は、きっと眩しかったのだ。
誰にも人生を決められないように見えた。
「……ナディア」
「はい」
「それなら、やっぱり、わたくしだけを見ていたわけではなかったのですね」
責めるための言葉ではなかった。
ナディアも、そう受け取ったらしい。
「そうなのでしょうね」
彼女は否定しなかった。
「お嬢様を見ながら、わたくしは、十三歳の自分に欲しかったものまで見ていたのだと思います」
胸の奥が微かに痛んだ。
でも、それだけではまだ足りない。
「もう一つ、ありますよね」
ナディアが俺を見る。
「何でしょう」
「わたくしに、何も失ってほしくなかった理由」
青いリボンだけでは説明しきれない。
自分が選べなかったから、俺には選ばせたい。
そこまでは分かった。
けれどナディアは、俺が一人で考えることが増えた時、それを喜びながらも寂しいと言った。
その感情は、昔の縁談だけでは説明できない。
「雷の日のお話を覚えています」
俺は言った。
「以前、聞きましたから」
「はい」
「わたくしが怖がって、ナディアがいれば平気と言ったのでしょう?」
「……ええ」
「それが嬉しかった、とも」
「はい」
そこまではもう知っている。
「今日は、その先を聞きたいです」
ナディアの瞳がわずかに揺れた。
「どうして、そんなに嬉しかったのです?」
窓を伝っていた雨粒が、途中で別の雫と重なり、一つの大きな筋になって落ちていく。
「……あの頃のお嬢様には、わたくしにしか見せないお顔があるように思っていました」
ナディアはゆっくり答えた。
「ナディアにしか?」
「本当にそうだったかは分かりません。ただ、当時のわたくしにはそう感じられたのです」
彼女の声に、遠い懐かしさが滲む。
「昼間は誰より堂々としていらっしゃるのに、雷の夜には眠れなくなり、わたくしが部屋へ入れば手を伸ばしてくださる。翌朝には何事もなかったように庭へ出てしまわれるのに、その夜のお嬢様を知っているのは自分なのだと」
俺には、その場面の記憶はない。
それでも何度か話を聞いたせいか、今では少しだけ想像できる。
雷の音に怯えた銀髪の幼い少女。
暗がりへ伸ばした小さな手。
それを握ったナディア。
「必要とされることが、嬉しかった?」
「……はい」
彼女は頷いた。
「わたくしにも、ここにいてよい理由があるように思えました」
その言葉で、もう一つ見えた。
セレグラン家では、いずれ別の家へ嫁ぐ娘だった。
アルセリード家へ来た時も、最初は数年で戻る予定だった。
どこにいても、いつか別の場所へ移されるかもしれない。
そんなナディアへ、幼いヴェルシアナは「あなたがいれば平気」と言った。
それはきっと、
ここにいていい。
あなたでなければ駄目だ。
そんな言葉に聞こえたのだ。
「だから、わたくしを守った?」
「はい」
「守れば、また必要としてもらえた?」
少し鋭い問いだった。
けれどナディアは逃げなかった。
「……そういう部分も、あったのだと思います」
声は静かだった。
「お嬢様を守りたかったことは本当です。泣いてほしくなかった。傷ついてほしくなかった。それでも、その結果としてお嬢様がわたくしを頼ってくださることを、わたくし自身が喜んでいたことまで否定すれば、それは嘘になります」
守ることと、必要とされること。
最初は別々だったはずの二つが、いつの間にか同じ糸へ撚り合わされていたのだろう。
どちらか片方だけを引こうとしても、もう一方まで一緒に動いてしまうほどに。
「では」
俺はゆっくり尋ねた。
「わたくしが一人で平気になったら、ナディアは何を失うと思っていたのです?」
彼女の顔が止まった。
「寂しいというお話は、もう聞きました」
以前、ナディアは認めていた。
俺が一人で考え、父やミレーヌへ相談するようになったことを、少し寂しく感じていると。
「今日は、その先を聞きたいです」
ナディアは口を開きかけ、閉じた。
雨音が部屋へ満ちる。
「……分からなくなるのが、怖かったのかもしれません」
「何が?」
「わたくしが、お嬢様のおそばにいる理由が」
その答えは、思っていたよりずっと弱々しかった。
弱いからこそ、胸に刺さった。
「お仕事でしょう?」
あえてそう言うと、ナディアはほんの少し笑った。
「そうですね」
「お父様もお母様もナディアを信頼しています。仕事もできる。わたくしが雷を怖がらなくなっても、それだけでいなくなる理由にはならないでしょう?」
「頭では、分かっております」
「でも?」
「お嬢様が一人で考え、一人で選び、わたくしを呼ばなくても何でもできるようになった時」
ナディアはそこで、初めて言葉を探すためではなく、口にすることそのものを恐れるように黙った。
「わたくしは、何のためにここにいるのだろうと」
声は、ほとんど雨へ溶けそうなほど小さかった。
俺はすぐには何も言えなかった。
ナディアは、俺に何も失わせたくなかった。
同時に、自分も失いたくなかったのだ。
俺に必要とされる場所を。
守る人でいられる自分を。
雷の夜、暗闇の中から伸ばされた小さな手を。
「ナディア」
「はい」
「わたくしが一人でできることが増えても、ナディアがいなくてもいいという意味ではありません」
彼女の瞳が揺れた。
「でも」
そこだけは曖昧にしたくなかった。
「ナディアを必要とするために、わたくしがずっと何もできない子供でいることもできません」
「……はい」
「そこは、分けなければいけないのでしょうね」
言いながら、少し胸が痛かった。
もし前世の俺に、ここまで強く自分を必要としてくれる誰かがいたなら、その人が一人で歩けるようになることを、何の寂しさもなく喜べただろうか。
分からない。
たぶん、少しくらいは寂しかった。
だからナディアの感情そのものを責める気にはなれない。
ただ、その寂しさを理由に相手の足を弱いままにしてしまえば、それはもう守ることとは違う。
◇
雨は、少しずつ弱くなっていた。
机の上には、銀の髪留めと、色褪せた青いリボンが並んでいる。
誰かに用意された未来と一緒に渡された、美しい銀。
誰の許可もなく、自分の好みだけで選んだ、小さな青。
値段なら比べるまでもない。
それでも、ナディアの指が何度も触れるのは青い方だった。
「ナディア」
「はい」
「わたくしに、何になってほしいのです?」
彼女の表情がわずかに変わった。
「何に、とは」
「幸せになってほしい、ではなくて」
俺は静かに続ける。
「王太子妃が相応しい。高いところなら守られる。何も失ってほしくない。それは、もう聞きました」
だから同じ答えはいらない。
「全部を合わせた時、ナディアは、わたくしをどんな人にしたかったのです?」
読書室に、雨の残響だけが漂った。
ナディアは長い時間、何も言わなかった。
そして、ようやく唇を開く。
「……誰にも、奪われない方に」
「何を?」
「居場所も。御名誉も。選ぶ権利も」
声が少しずつ低くなる。
「誰かの事情を理解したからといって、ご自分の望みを諦めなくてよい方に。嫌だと仰った時、その言葉より重いものを誰にも置かれない方に」
俺は黙って聞いていた。
「誰かに選ばれるのを待つのではなく、お嬢様が選ぶ側でいていただきたかった」
そこまで聞いて、俺は静かに息を吐いた。
「だったら」
ナディアが俺を見る。
「どうして、わたくしが選ぶ前に、ナディアがわたくしの道を決めたのです?」
彼女の顔から、わずかに色が引いた。
「ナディアは、自分の人生を他の人に決められるのが嫌だったのでしょう?」
「……はい」
「家族に愛されていても。良い縁だと言われても。嫌なら嫌だと言える人になりたかった」
「はい」
「なのに、わたくしには『これがあなたのためです』と王太子妃になる未来を勧めた」
俺は銀の髪留めを見る。
「ナディアのお父様も、ナディアを不幸にしようとしていたわけではなかった」
青いリボンを見る。
「ナディアも、わたくしを不幸にしたいわけではない」
「もちろんです」
強い返事だった。
「分かっています」
俺は彼女を見る。
「だからこそ、似ているのだと思います」
ナディアは何も言わなかった。
「ナディアは、自分がされたことをそのまま繰り返したわけではありません。でも、自分が一番嫌だったことを避けさせようとして、別の形で同じ場所へわたくしを連れていこうとした」
雨上がりの光が、窓の向こうから薄く差し始めていた。
「自分で選べる人になってほしいのに、その人が選ぶ前に、傷つかない場所をナディアが選んだ」
彼女の指先が、ごくわずかに震えた。
「……はい」
その返事は、雨よりも静かだった。
「そう、なのでしょうね」
俺は少し迷ってから、もう一歩だけ踏み込んだ。
「ナディア」
「はい」
「本当に欲しかったのは、自分で選べるわたくしではなくて」
言葉を選ぶ。
「ナディアが安心できるほど、誰にも傷つけられないわたくしだったのではありません?」
彼女の瞳が揺れた。
「誰にも奪われない。誰にも軽んじられない。ナディアが手を伸ばさなくても、何も失わずに済むわたくし」
それならナディアは安心できる。
もう雷の夜に駆けつけなくてもいい。
誰かを遠ざけなくてもいい。
何かを取り除かなくてもいい。
守り切れなかったと、自分を責める必要もない。
「……そうかもしれません」
長い時間のあと、ナディアが認めた。
「お嬢様が御自身で選べることを願っていたつもりでした」
「はい」
「けれど、その選択で傷つかれることは、受け入れられなかった」
彼女の声が、少しずつほどけていく。
「だから、最初から傷つく可能性の少ない場所へお連れすればよいと思ったのです」
「王太子妃へ?」
「はい」
「そこが本当に傷つかない場所かどうかも、分からないのに」
ナディアは目を伏せた。
「……はい」
勝ったような気持ちは、少しもなかった。
ただ、悲しかった。
ナディアは、自分の人生から選択を奪った優しい人たちを嫌えなかった。
そして自分もまた、俺を愛するあまり、優しい言葉で俺の未来を囲おうとしていた。
悪意なら、もっと簡単だった。
切ればいい。
離れればいい。
けれど愛情は、そんなに綺麗には切れない。
柔らかな布で包まれた刃物のように、触れた時には温かくても、抱え続ければいつか傷を残す。
「ナディア」
「はい」
「わたくしに何も失ってほしくなかったのは」
そこで一度、息を整えた。
「本当に、わたくしのためだけですか?」
ナディアが俺を見る。
その顔に浮かんだものを、すぐに一つの感情へ決めることはできなかった。
驚き。
痛み。
理解。
そして、長いあいだ自分でも見ないようにしていた場所へ、とうとう光が届いてしまったような戸惑い。
返事はなかった。
ただ、その沈黙は「分からない」というものではなかった。
答えは、もう彼女の中にある。
けれど、それを口にした瞬間、これまで「お嬢様のため」と呼んできたものへ、別の名前をつけなければならなくなる。
そんな沈黙だった。
「……お嬢様」
「はい」
「今日は」
ナディアは一度、目を伏せた。
「今日は、そこまでをお話しするつもりではございませんでした」
「そうでしょうね」
木箱一つから、随分遠くまで来た。
ナディアの口元に、ごく僅かな苦笑が浮かぶ。
「もう少しだけ、お時間をいただけますか」
俺は彼女を見る。
「答えたくない?」
「いいえ」
ナディアは首を横に振った。
「きちんと答えたいのです」
その言葉なら、待てると思った。
「分かりました」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいです」
俺は机の上の青いリボンへ視線を落とした。
「これだって、すぐには選べなかったのでしょう?」
ナディアが少し目を瞬く。
「お店で」
「……ええ」
「かなり?」
「三本の前を、随分行ったり来たりいたしました」
思わず笑った。
「それなら、もっと大きなお話なら時間がかかって当然でしょう」
ナディアも、ほんの少しだけ笑った。
◇
彼女が木箱の蓋を閉じる前、俺はもう一度だけ青いリボンを見た。
「それ、また箱へ戻すのです?」
ナディアが手を止める。
「そのつもりでしたが」
「好きなのでしょう?」
「……はい」
「なら、部屋に置いておけばいいのに」
彼女は少し困ったようにリボンを見る。
「もう使えるものでもございません」
「使わなくても、好きなものを持っていてはいけないのですか?」
言ってから、少し妙な気持ちになった。
ナディアも同じだったらしい。
しばらくリボンを眺め、それから箱へ戻さず、自分の手元へ残した。
「では、こちらだけ持ち帰ります」
「どこへ?」
「自室へ」
「誰かに許可を?」
俺が尋ねると、ナディアは一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「必要ございませんね」
「そうですね」
たった一本の古いリボンだ。
それでもその瞬間だけは、十三歳の少女がずっと昔に選んだ青を、今のナディアがもう一度自分の手で選び直したように見えた。
◇
夕方には、雨はほとんど止んでいた。
雲の切れ間から落ちてきた淡い光が、濡れた庭を照らしている。
雨上がりの葉は、晴れた日の葉とは違う光り方をする。表面に残った水滴が光を拾うたび、一瞬だけ宝石のように明るくなり、次の瞬間には何事もなかったように静かな緑へ戻っていく。
俺は窓辺に立ったまま、今日聞いた話を思い返していた。
ナディアは、人生を誰か一人に奪われたわけではなかった。
家族には愛されていた。
嫌なら断っていいとさえ言われた。
それでも、断った時に困る人たちの顔を知っていた。
家の事情を理解できてしまった。
その上で「お前なら分かってくれる」と信頼され、「ありがとう、優しい子」と抱きしめられた。
だから、自分から「はい」と言った。
誰にも無理やり奪われなかったからこそ、自分が何を失ったのかを、長い間うまく憎むこともできなかったのだろう。
そして、好きだったものが一つずつ「もう必要ないもの」へ変わっていった。
乱暴に取り上げられるのではない。
綺麗に畳まれ、丁寧に片付けられる。
その方が、きっとずっと怖い。
怒る相手がいないからだ。
ナディアが俺に高い立場を望んだ理由も、今なら以前より分かる。
彼女にとって高い地位とは、豪華な暮らしのことではなかった。
自分の意思より重い「事情」を、誰にも置かせないための力だった。
嫌だと言えるだけでは足りない。
嫌だと言っても、その後ろにいる誰かを壊した罪悪感に押し潰されずに済むほど強い立場。
ナディアは、それを俺に与えたかった。
その願いがどこから来たのかを知れば、簡単に間違いだとは切り捨てられない。
それでも、間違っていないことにはならない。
ナディアは、自分が一番欲しかった「選ぶこと」を俺へ与えようとして、その方法を自分で選んでしまった。
自分の手で道を決められなかった少女が、大切な子供だけは誰にも道を決められない人にしたいと願って。
その子供が歩く道だけは、自分で決めた。
皮肉という言葉では、少し軽すぎる気がした。
人は時々、自分が受けた傷を誰かへ渡さないよう必死になるあまり、その傷を裏返した形で、同じ場所へそっと置いてしまうのかもしれない。
そして、ナディアにはもう一つある。
俺を守ることが、彼女自身の居場所でもあった。
必要とされたい。
そばにいたい。
自分だけが知っている弱さを、守っていたい。
それはきっと、醜い感情ではない。
俺だって、大切な人から必要とされれば嬉しいと思う。
ただ、その願いが強くなりすぎれば、相手が自分なしでも歩けるようになることを、心から喜べなくなる時がある。
だから次に聞くことは、もう決まっていた。
ナディアが俺を大切に思っていることは、もう疑っていない。
むしろ、そこが一番難しい。
嫌っていたなら簡単だった。
利用するだけなら、もっと簡単だった。
けれど違う。
この人は、本当にヴェルシアナを大切にしていた。
何も失わせたくないと思うほどに。
だからこそ、次は遠回りをしてはいけない。
大切だったのなら。
守りたかったのなら。
そこまで失わせたくなかったのなら。
どうして一度も、その本人が何を望んでいるのかを聞かなかったのか。
窓硝子に残っていた最後の雨粒が、細い筋を描きながらゆっくりと落ちていく。
雲の切れ間から覗いた空には、ほんの少しだけ青が戻っていた。
その色は、今日ナディアが自分の手で箱から取り出し、今度は戻さなかった、古いリボンによく似ていた。




