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破滅したくない元男の悪役令嬢ですが、なぜか男女問わず好かれていきます ~攻略対象は男友達のつもりなのに、同性の令嬢との距離まで近すぎるようです~  作者: 0JOY
エピソード0 悪役令嬢は、まだ五歳

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第30話 あなたが望まない答えを、わたくしが選んだら

セレグラン男爵が帰った翌朝、目を覚まして最初に思い出したのは、彼が自分の打算を認めたことではなく、ナディアについて語った一言だった。


 ――家のために動くつもりはない。


 兄から、王家との縁を前向きに考えるよう俺を支えてほしいと頼まれながら、ナディアはそう断っていたという。


 それでも彼女自身は、俺が王太子妃になる未来を望んでいる。


 向いている方向は同じなのに、そこへ進もうとする理由は違う。そのことは、もう父からも男爵本人からも聞き、俺なりに理解しているつもりだった。


 だから今さら、どうして王太子妃にしたいのかと同じ問いを繰り返したいわけではない。


 俺に相応しいから。


 高い立場が俺を守るから。


 将来の選択肢が増えるから。


 ナディアがそう考えていることは、これまでの会話から十分に伝わっているし、それが単なる方便ではなく、本気で信じていることも今なら分かる。


 問題は、その先だった。


 ナディアが俺自身の選択を本当に尊重できるかどうかは、彼女の願いと俺の答えが同じ方向を向いている間には分からない。


 人は、相手が自分の期待に沿って歩いているうちは、「好きな道を選べばいい」と穏やかに言える。けれど、その言葉が本当に試されるのは、相手が自分の望んでいなかった方角へ足を向けた時なのではないか。


 そこまで考えてから、俺は枕元へ背を預けた。


 朝くらい、もっとどうでもいいことを考えていたかった。


 今日の菓子は何だろうとか、午後の魔法では昨日より少し上手くできるだろうかとか、その程度のことで頭を使っていれば済むはずなのに、目が覚めた途端に考えているのが人の自由と幸福についてなのだから、我ながら随分と面倒な五歳児である。


 もっとも、考え始めたものを途中で棚へ戻せるほど器用でもない。


 窓から差し込む朝の光は、部屋の中へ静かに広がっていた。机の上に置いた領地の地図にも、リュネアからもらった色とりどりの敷物にも、閉じたままのノートにも、何の区別もなく淡い金色を落としている。


 光くらい、人間の事情など知らない顔でまっすぐなら楽なのに。


 そんなことを思ったところで、扉が控えめに叩かれた。


「お嬢様、お目覚めでしょうか」


 ミレーヌの声だった。


「起きています」


 返事をすると、少しして扉が開く。


 朝の支度を手伝うために入ってきたミレーヌは、寝台を離れた俺の顔を見るなり、ほんの少し首を傾げた。


「何です?」


「いえ。今日は、随分考え事をしていらっしゃるお顔だと思いまして」


「そこまで分かるようになりました?」


「おそばにおりますので」


 あまりにも自然に言われて、こちらが返事に困る。


 鏡の前へ座ると、寝起きの銀髪はところどころ妙な方向へ跳ねていた。深い赤紫の目も眠気を少し残しているのに、考え込んでいたせいか眉間には僅かに力が入り、鏡の中の少女は朝から随分と機嫌が悪そうに見える。


「……これ、やっぱり怖く見えます?」


 後ろに立ったミレーヌが鏡越しに俺を見る。


「少しだけ」


「正直ですね」


「聞かれましたので」


 ミレーヌは何でもないことのように答え、櫛を髪へ通した。


 以前なら、こんな答えを彼女から引き出すことすら難しかったのかもしれない。俺が不機嫌そうに見えれば、それだけで何を言っていいか分からなくなり、こちらの望みを先に推測して合わせようとしていたはずだ。


 今は少なくとも、「少し怖い」と本人の口から言える。


 その違いを考えていた時、ふと一つ確かめてみたくなった。


「ミレーヌ」


「はい」


「例えばのお話をしても?」


「もちろんです」


 櫛が銀色の髪をゆっくり滑っていく。


「わたくしが、ミレーヌには将来、侍女ではない別の道へ進んだ方がいいと思ったとします」


 櫛の動きが、ほんの僅かにゆるんだ。


「別の道、ですか?」


「ええ。最近は帳簿や領地のことにも興味があるでしょう? だから、そちらを学んで別の仕事をした方がミレーヌのためになる、とわたくしが考えたとして」


 鏡の中で、ミレーヌの目が俺と合う。


「その方が良いから、侍女になるのはやめた方がいいと言ったら?」


 ミレーヌは少し考えるかと思った。


 けれど、返事は思っていたより早かった。


「……嫌だと申し上げると思います」


「どうして?」


「学ぶことは好きです。帳簿を見るのも、領地のお話を聞くのも楽しいです」


 そこまで言ってから、彼女は一度だけ視線を落とした。


「でも、それと、お嬢様のおそばにいたいことは別ですから」


 胸の奥に、思ったより柔らかなものが落ちた。


 今のミレーヌは、学ぶことを知った。


 自分が何を面白いと思うのかも、以前より言葉にできるようになった。


 それでも、今の彼女が望んでいるのは俺のそばにいることなのだ。


 ならば俺が勝手に、「あなたは優秀だから別の道の方が幸せだ」と決めてしまえば、それは結局ナディアと同じことをする。


「では、わたくしが『その方がミレーヌのためです』と言っても?」


 彼女は少し困ったように眉を寄せた。


「それでも、わたしがどうしたいかは聞いていただきたいです」


 静かな声だった。


 けれど、そこには以前なら見つけにくかった芯がある。


「……そうですね」


 俺は鏡の中の彼女を見ながら頷いた。


「それを聞きたかったのだと思います」


「何かございましたか?」


「少しだけ」


 これ以上は今話すことでもない。


 ミレーヌも無理に聞こうとはせず、再び櫛を動かした。


 細い銀糸のような髪が朝の光を拾い、肩の上へ静かに流れていく。


 自分の意思を持つことと、それを口にできることは、どうやら別らしい。


 そして、口にされた意思を受け取る側にも、相応の覚悟が要る。


 俺がミレーヌへ「自由に選んでいい」と言うなら、いつか彼女が俺の望まないものを選んだ時にも、その言葉を忘れてはいけない。


 ナディアに求めていることは、俺自身にも返ってくる。


 ◇


 ナディアと話す時間は、その日の午後に設けられた。


 父と母も同席していたが、二人とも最初から会話を導くつもりはないらしい。父は窓際の椅子へ腰を下ろし、母はその隣で静かに手を重ねている。


 場所は、庭に面した小さな談話室だった。


 午後の陽射しはすでに僅かに傾き、薄いカーテンを透かした光が床の上へ淡い水面のように広がっている。窓辺には季節の花が数輪だけ活けられていて、開け放していない窓の向こうで木々が揺れるたび、その影だけが室内を緩やかに移動していた。


 予定の時刻になると、ナディアが入ってきた。


「お呼びでしょうか」


「ええ。座ってください」


 母が促す。


 ナディアは一礼し、俺の斜め向かいへ腰を下ろした。


 俺はまず、セレグラン男爵との面会について話した。


 男爵が家の利益を考えていたことを認めたこと。


 以前、ナディアへ王家との縁を勧めるよう頼んだこと。


 そしてナディアが、それを家の利益のためにはしないと拒んでいたこと。


 彼女は途中で一度も遮らなかった。


「……兄らしいと思います」


 全部聞き終えてから、最初に出たのはそんな言葉だった。


「怒らないのですか?」


「何に対してでしょう」


「ナディアが断ったことまで、わたくしたちへ話したことに」


 彼女は少し考え、珍しく小さく息を吐いた。


「勝手だとは思います」


 思ったよりはっきりした答えだった。


「兄妹であっても、何でも話してよいわけではございませんから」


「そこは男爵本人にも言ってください」


「機会がございましたら」


 ほんの僅かだが、部屋にあった緊張が和らぐ。


 ナディアは兄へ何も言えない従順な妹ではないし、家に対して何の感情も持たない人でもない。俺が知らなかっただけで、彼女の中には俺と関係のない場所にもちゃんと感情がある。


「ナディア」


「はい」


「男爵から頼まれたから、わたくしと王太子殿下との縁を勧めていたわけではないのですね」


「はい。それは以前にも申し上げた通りでございます」


「分かっています」


 俺は頷いた。


 ここを何度も確かめるつもりはない。


「ですから、今日はその理由をもう一度聞くために呼んだのではありません」


 ナディアが少し意外そうに俺を見る。


「では、何を?」


「一つだけ、想像していただきたいのです」


 膝の上で組んでいた指へ、僅かに力が入る。


 まだ本当にそう決めたわけではない。


 それでも、これを口にすればナディアがどう感じるのかは分かっていた。


「もし、わたくしが王太子妃になりたくないと言ったら、ナディアはどうします?」


 彼女の表情が止まった。


 外では鳥が鳴いている。


 遠くの廊下を誰かが歩く音もした。


 それなのに、その瞬間だけ部屋の中から音が薄く引いて、ナディアの呼吸が僅かに途切れたことだけが鮮明に感じられた。


「……今、そうお考えなのですか?」


「いいえ。まだ決めていません」


 そこは曖昧にしない。


「王太子殿下を嫌っているわけでもありませんし、婚約そのものについて答えを出したわけでもないです。ただ、もしわたくしがそう決めたとしたら、というお話です」


 アレクシスのことは嫌いではない。


 むしろ、王太子という肩書きを抜きにしても、話していて楽しい相手だと思う。馬に乗った時の少し得意そうな顔も、古い街道について俺が尋ねたことを覚えていて本を探してくれたことも、好ましく感じている。


 ただ、それと結婚はまるで別の話だった。


 前世では男として生きてきた俺にとって、男と結婚する未来は、少なくとも今のところ自分から望みたいものではない。


 この身体で目覚めてから、少しずつできるようになったことは多い。長い髪を扱うことにも慣れたし、ドレスで歩く時に裾を踏まないようにするのも、今ではいちいち意識しなくなった。鏡に映る少女を見て、自分ではない誰かが立っているような違和感に毎朝驚くことも、もうない。


 けれど、身体に馴染むことと、前世から持ってきた感覚まで都合よく塗り替わることは同じではなかった。


 だからといって、十年後の自分まで同じように考えていると断言するつもりもない。


 五歳の今から未来の自分へ、「お前は絶対にこう感じる」と答えを押しつけるのは、ナディアにされたくないことを自分自身へするようで、それも違う気がする。


 少なくとも、今の俺はそうだ。


 アレクシスを好ましく思うことと、彼の妻になりたいと思うことの間には、まだ随分と大きな距離がある。


 だからこそ、その二つを同じ箱へ入れたくなかった。


 ナディアはしばらく俺を見つめたあと、ゆっくり答えた。


「……お話しすると思います」


「何を?」


「なぜ、王太子妃というお立場がお嬢様にとって良いものになり得るのかを」


 予想していた答えだった。


「それを聞いても、わたくしが嫌だと言ったら?」


 ナディアの指が、膝の上で僅かに動く。


「もう一度、お考えいただけないかと申し上げます」


「それでも嫌だと言ったら?」


 今度こそ、返事がなかった。


 俺は待った。


 ナディアの顔から、普段の整った微笑みは消えている。


 困っているというより、自分の中にある答えを探しているように見えた。


 こういう時に口にすべき正しい言葉なら、彼女はきっと知っている。


 本人の意思を尊重いたします。


 そう言えば、この場は綺麗に収まる。


 けれど、長い沈黙のあとに出てきたのは、もっと不格好な答えだった。


「……分かりません」


 俺は少し目を瞬いた。


「分からない?」


「はい」


 ナディアは視線を落とした。


「頭では、お嬢様がお決めになるべきことだと理解しております。わたくしの望みと、お嬢様がお選びになる未来は別なのだということも」


 そこまで言って、彼女は一度息を吸う。


「それでも、本当にお嬢様がその道を選ばれた時、何もせず受け入れられるかと問われますと……今は、自信がございません」


 俺はしばらく何も言えなかった。


 もっと綺麗な答えをされると思っていた。


 だからこそ、少しだけ嬉しかった。


「ありがとうございます」


 ナディアが顔を上げる。


「なぜ、お礼を?」


「正しい答えだけを言わなかったからです」


 ナディアの目に、小さな戸惑いが浮かぶ。


 正解なら、もう何度も話してきた。


 本人の人生なのだから本人が選ぶ。


 誰かのためという言葉で、その人の答えまで決めない。


 それを頭で理解することと、実際に大切な相手が自分の望まない道へ行こうとした時に手を離せることは、やはり別なのだ。


「では、少し質問を変えます」


 俺は続けた。


「わたくしが王太子妃にならなかった未来を考えた時、ナディアは何が一番怖いのです?」


 彼女の瞳が揺れた。


「怖い、と?」


「ええ。セレグラン家が困るからではないことは、もう分かっています。ナディア自身の利益のためでもない。それでも受け入れられるか分からないほど、その未来を嫌だと思うのでしょう?」


 責めるためではなく、できるだけその感情の形を壊さないように問いかける。


「その時、最初に思い浮かぶものは何です?」


 長い沈黙だった。


 窓辺の花瓶へ差した茎が、水の中で僅かに揺れている。


 やがて、ナディアの唇がゆっくり開いた。


「……失っていただきたくないのです」


 声は小さかった。


 それでも、部屋のどこにいる誰よりはっきり聞こえた。


「何を?」


 俺が尋ねる。


 ナディアは答えようとして、一度口を閉じた。


 そのまま少し苦しそうに息を吐く。


「何も」


 たった二文字なのに、今まで彼女が並べてきたどんな綺麗な説明よりも重かった。


「何も、ですか?」


「はい」


「それは……難しくありません?」


「ええ」


 ナディアは否定しなかった。


「分かっております。分かっているつもりでした」


 言葉の最後に、僅かな揺らぎが残る。


「それでも、お嬢様には、できるだけ多くのものを失わずにいていただきたいのです。御身分も、御名誉も、選べる未来も、人から軽んじられないだけの力も……お持ちになっているものを、わざわざ手放していただきたくない」


 俺はその一つ一つを聞きながら、ようやく問いの形が少し変わったことに気づいた。


 ナディアは何を与えたいのかではなく、何を失わせたくないのかを語っている。


「王太子妃になれば、それを失わないと思っているのですね」


 ナディアはすぐには答えなかった。


 その沈黙へ、俺は無理に言葉を重ねなかった。


 少ししてから、静かに続ける。


「でも、王太子妃になったら、今度は別のものを手放すこともありますよね」


 ナディアの表情が僅かに固まる。


「住む場所も、公務も、自分だけで決められることばかりではないでしょうし、結婚相手だって、その時点で王太子殿下に決まります」


 俺はアレクシスのことを嫌っているわけではない。


 それでも、今の自分にとって「仲良くなりたい相手」と「結婚したい相手」はまったく同じ意味ではない。


 まして俺には、前世で男だったという感覚が今も残っている。


 その部分だけを切り離して、今の身体に合わせて考えればいい、と簡単に割り切れるほど、人間の中身は便利にできていない。


 今の俺は、男と結婚したいとは思わない。


 少なくとも、それが自然に自分の未来として思い浮かぶ状態ではなかった。


 ただし、それを一生変わらない結論として石に刻む気もない。


 未来の俺が何を感じるのかは、未来の俺にしか分からない。


 その答えまで今ここで奪わないことも、自分で選ぶということの一部なのだと思う。


「何かを選ぶということは、選ばなかったものを手放すことでもあるのでしょう?」


 俺がそう言うと、ナディアは視線を落とした。


「……そうですね」


「だったら、何も失わない場所は、多分ありません」


 口にしてから、その言葉は俺自身にも返ってきた。


 何も失わない。


 それは、俺だって欲しかったものだ。


 死にたくない。


 家族も失いたくない。


 ミレーヌやリュネアと離れたくもない。


 今の生活が壊れるのだって怖い。


 そもそも、この世界で最初に決めた目標は、何よりも破滅を避けることだった。


「では」


 ナディアが、不意に俺へ問い返した。


「お嬢様は、失うことが怖くないのですか?」


 今度は俺が黙る番だった。


「怖いです」


 そこだけは、迷わなかった。


「とても」


 父も母も何も言わない。


 俺は自分の手元を見ながら、ゆっくり言葉を探した。


「だから最初は、何も起こらないようにしたかったです」


 王太子へ近づかない。


 攻略対象たちと必要以上に関わらない。


 ヒロインへ敵意を向けない。


 原作ヴェルシアナが踏んだ地雷を一つずつ避け、その外側を静かに歩けば、いつか安全な場所へ辿り着けると思っていた。


「でも、最近は少し違います」


 リュネアと友達になった。


 ミレーヌへ、自分の未来を選べばいいと言った。


 父と領地のことを学び、地図の上の村へ実際に足を運んだ。


 アレクシスとは、避けるつもりだったのに馬へ乗り、今では歴史について手紙を交わしている。


 どれも、何も持たずに生きていたら起こらなかった。


「リュネアと友達でいれば、いつか喧嘩するかもしれません。ミレーヌに自分で未来を選んでほしいと言ったなら、いつかわたくしのそばを離れるかもしれない。領地のことを知れば、知らなかった頃には見えなかった嫌なことまで知るでしょう」


 それを考えれば、怖くないはずがない。


「それでも、失うのが怖いから最初から何も選ばないよりは、今はそちらの方がいいと思います」


 ナディアの唇が僅かに開いた。


「……なぜです?」


「分かりません」


 俺は少しだけ笑った。


「まだ五歳ですから」


 父が小さく息を吐いた。


 隣では母の口元にも僅かな笑みが浮かんでいる。


「ただ、失わないために何も選ばないまま生きるのも、何かを失っているのと同じ気がするのです」


 そこまで言って、やめた。


 これ以上続ければ、自分でもまだ分かっていないことまで、分かったような言葉にしてしまいそうだった。


 俺はまだ、本当に大切なものを失いそうになった時にどうするか知らない。


 今なら選ぶと言えても、その時になれば必死に手放さないかもしれない。


 だから、今はこの程度でいい。


「ナディア」


「はい」


「もう一度だけ聞きます」


 彼女の視線が俺へ戻る。


「もし将来、わたくしがナディアの望まない答えを選んだら、その時はどうします?」


 同じ問いだ。


 けれど、最初に聞いた時とは、もう同じ場所に立っていなかった。


 ナディアは長く考えた。


 今度は「分かりません」だけでは終わらなかった。


「……反対すると思います」


 俺は少し意外に思った。


「反対するのですね」


「はい」


 ナディアは俺から目を逸らさない。


「お嬢様がお選びになるものが危険だと思えば、わたくしは反対いたします。間違っていると思えば、それも申し上げたいです。何でも頷くことが、お嬢様を大切にすることだとは……今は、思っておりません」


 その言葉に、胸の奥が微かに動いた。


「それで?」


「それでもお嬢様がお選びになった時に、わたくしがどうするのかは」


 ナディアは一度言葉を止めた。


「まだ、分かりません」


 完成した答えではなかった。


 けれど、俺はそれでよかった。


 俺が欲しいのは、何を選んでも笑って賛成してくれる人ではない。


 意見が違った時に、その違いを隠さず口にして、それでも最後まで俺の言葉を聞いてくれる人だ。


 ナディアがそこまで辿り着けるかは、まだ分からない。


 でも少なくとも今は、反対することと、相手の人生を奪うことが同じではないと考え始めている。


「それでいいと思います」


「よろしいのですか?」


「全部賛成されたら、それはそれで困ります」


 俺は父の方を見た。


「お父様なんて、結構反対しますし」


「必要ならな」


 当然のように返ってきた。


 母が小さく笑い、張り詰めていた部屋の空気が少しだけほどける。


 ナディアも薄く笑った。


 その目にはまだ迷いが残っていたけれど、俺はそれを消してほしいとは思わなかった。


 今すぐ消えてしまう迷いなら、たぶんここまで長く絡まることもなかったのだから。


 ◇


 話が終わったあと、父と母は先に部屋を出た。


 ナディアも立ち上がったが、扉へ向かう前に一度だけ足を止める。


「お嬢様」


「はい?」


「一つ、よろしいでしょうか」


「どうぞ」


 彼女は少し迷ってから尋ねた。


「先ほど王太子妃になりたくないと仰ったのは、本当に仮のお話なのですね?」


 俺は一瞬黙り、それから思わず笑ってしまった。


「はい。本当にまだ決めていません」


「そうですか」


 ナディアの肩から、見て分かるほどではないにしても、僅かに力が抜けた。


 安心したらしい。


 本人もそれに気づいたのか、少し気まずそうに目を伏せる。


「今、安心しました?」


「……少しだけ」


「謝らなくていいですよ」


「ですが」


「そう思ったこと自体は、ナディアの気持ちでしょう?」


 彼女が顔を上げる。


「わたくしが違う道を選んだら寂しいとか、嫌だとか、そう思うことまでやめてほしいわけではありません」


 感情は、命令して消せるものではない。


 俺だってミレーヌがいつか遠くへ行きたいと言えば寂しいだろうし、リュネアが別の友人とばかり遊ぶようになれば、多少は面白くないと思うかもしれない。


 大切なら、なおさらだ。


「でも、その気持ちを理由にわたくしの答えを変えようとするなら、その時は多分喧嘩します」


 ナディアの口元が、今度ははっきり緩んだ。


「それは困りましたね」


「避けたいなら、先にわたくしの話を聞いてください」


「肝に銘じます」


 以前なら出てこなかったような会話だった。


 何かが解決したわけではない。


 それでも、ナディアが自分の感情を「お嬢様のため」という綺麗な布で包み直すのではなく、少しずつ自分自身のものとして見始めている。


 そのことだけでも、以前とは違う。


「では、失礼いたします」


「はい」


 ナディアが扉へ向かう。


 俺はその背中を見送りながら、最後に一つだけ、どうしても引っかかっている言葉を思い出した。


「ナディア」


 彼女が振り返る。


「何でしょう」


「さっき、『何も失ってほしくない』と言いましたよね」


 ナディアの表情から、さっきまでの柔らかさが少しだけ消えた。


「……はい」


「そのお話を、いつかもう少し聞かせてください」


 すぐには返事がなかった。


 拒絶ではない。


 ただ、まだ誰にも触れさせたくない場所へ、こちらの指先が偶然届いてしまったような顔だった。


 やがてナディアは、ほんの僅かに目を伏せる。


「……いつか」


 それだけを残して、今度こそ部屋を出ていった。


 ◇


 夕暮れになると、窓の外の庭は昼間とはまるで違う場所に見えた。


 明るい時間には競うように色を見せていた花々が、今は少しずつ輪郭を闇へ溶かし始めている。遠くの木々はひと続きの影になり、その向こうでは沈みかけた陽が空の端だけを薄く朱に染めていた。


 俺は窓辺に座ったまま、ナディアの言葉を何度も思い返していた。


 ――何も失っていただきたくない。


 「幸せになってほしい」ではなかったことが、妙に心へ残っている。


 よく似ているようで、その二つには少し違う響きがある。


 幸せという言葉は、まだ手の中にないものへ伸ばす願いにも聞こえる。これから何かを得てほしいと望む、未来へ向いた言葉だ。


 けれど「失ってほしくない」という願いには、すでに持っているものが指の隙間から零れ落ちていく痛みを、どこかで知っている人間の匂いがする。


 ナディアは、何を失ったのだろう。


 幼い頃、自分だけ家の事情を知らされなかったこと。


 家のために婚姻を求められる立場だったこと。


 自分で選べるものが少なかったこと。


 それだけなのかもしれない。


 あるいは、俺がまだ知らない何かがあるのかもしれない。


 そこから先へ考えそうになって、俺は思考を止めた。


 まだ推測だ。


 本人が話していない過去を、今見えている欠片だけで綺麗な形へ組み上げれば、結局また同じことになる。


 分からないものは、分からないまま残しておく。


 以前なら、その空白が気持ち悪かった。


 今は少しだけ、その余白を急いで埋めなくてもいいと思える。


 ただ、いつかは聞きたい。


 ナディアが何を失ったのか。


 なぜ俺にだけは、何一つ失ってほしくないと願うのか。


 そしてその答えを知った時、それでも俺は自分の未来を自分で選ぶと言えるのか。


 窓の外では、最後まで空に残っていた朱色が、ゆっくりと夜へ溶けていく。


 昼と夜の境目には、どちらとも言い切れない色がある。


 明るさを失いながら、それでもまだ闇ではない時間を、空は急ぐことなく渡っていく。


 俺とナディアも、今はそれでいいのかもしれない。


 以前の関係へ戻ったわけではない。


 かといって、すべてを切り離したわけでもない。


 何が正しく、どこまで間違っていたのかさえ、まだ全部には名前をつけられない。


 長い間きつく結ばれていた糸をほどく時、無理に引けば切れてしまう。だから絡まりを一つ見つけるたびに指を止め、どちらから緩めれば傷つけずに済むのかを探している。


 時間はかかる。


 きっと、この先も一度や二度では済まない。


 それでも俺は、もうその糸を切ってしまいたいとは思っていなかった。


 ほどいた先で、今までとは違う結び方ができるのなら。


 それがどんな形になるのかを、少しだけ見てみたいと思っていた。

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