閑話 白い頁には、まだ何も決まっていない
レオルディス・アルセリードは、書類の余白を嫌いではなかった。
報告書でも契約書でも、文字が隙間なく並んでいる紙を見ると、むしろ少し警戒する。書くべきことがすべて記されているのなら、それに越したことはない。けれど、人間の暮らしに関わる事柄が、一枚の紙へ寸分の取りこぼしもなく収まることなど滅多にないと、長く領地を預かってきた経験から知っていた。
今年の収穫は、前年より一割少ない。
記録の上では、その一文で済む。
だが、その一割の内側には、長雨に悩まされた畑があり、家族の病で働き手を欠いた家があり、逆に土との相性がよく、前年より実りを増やした土地もある。同じ数字の中へ括られているからといって、そこに暮らす者たちまで同じ事情を抱えているわけではない。
だから数字を見る。そのうえで、数字から零れたものも見る。
書かれていないことが必ず残っていると知ったまま、紙を読む。
仕事についてなら、それができる。
なのに娘のことになると、自分は時折、あまりにも綺麗に頁を閉じようとするらしい。
机の上には、王家から届いた書状が置かれていた。
アレクシス王太子とヴェルシアナの交流について、今後も互いに無理のない範囲で続けていきたいという内容であり、特別に重大な知らせというわけではない。
二人はすでに何度か顔を合わせ、今では手紙も交わしている。
古い街道や橋について書かれた、子供同士の文通にしては随分と変わった内容を、ヴェルシアナが楽しそうに読んでいることもレオルディスは知っていた。資料によって記述が違うと分かれば、別の本を引っ張り出し、その違いが生まれた理由まで自分なりに考える。
そういう娘であることは、もう随分前から知っている。
ヴェルシアナが聡いことを、今さら疑う余地はなかった。
教師から理解が早いと報告を受けるまでもなく、話していれば分かる。魔法の才も、ものを覚える速さも、知らないことを簡単に知ったつもりにならない性質も、父親として何度も見てきた。
ときどき、五歳の子供がなぜそこまで考えるのかと思うことはある。
しかし、娘が人並み以上に考える子だという事実そのものに驚く時期は、もうとうに過ぎていた。
今、レオルディスが考えているのは、その聡さが何へ向けられ始めているのかということだった。
きっかけは、今日のナディアとの話し合いである。
ヴェルシアナは、もし自分が王太子妃になりたくないと言ったらどうするのか、とナディアへ尋ねた。
あれは仮定の話だった。
アレクシスを嫌っているという意味でもなければ、王家との交流を拒もうとしているわけでもない。
そして、ヴェルシアナが自分の意思に反して婚姻を強いられる必要はないということも、父娘の間では今さら確認するような話ではなかった。
王家から最初に話が出た時から、レオルディスは娘の答えを無視して決めるつもりなどなかった。まず本人と会ってから考えたいと言われれば、その通りにしたし、王太子妃という立場について尋ねられた時にも、家にとって都合のよい面だけを語るつもりはなかった。
もし何年も先、ヴェルシアナが本当にその道を望まないと言うのなら、王家との調整は必要になるだろう。公爵家として考えなければならないこともある。
それでも、家のためという理由だけで娘を差し出すつもりはない。
そこに迷いはなかった。
問題は、そのあとだった。
娘が自分の答えを選んだあと、自分なら何をするのか。
考えるまでもなく、いくつもの手順が頭へ浮かんだ。
王家との調整は自分がする。必要な説明も引き受ける。余計な噂が広がりそうなら先に手を打ち、ヴェルシアナ本人へ負担が及ばないようにする。
娘の答えそのものは守る。
その結果として生じる面倒は、できる限り自分のところで止める。
そして最後には、おそらくこう言う。
もう済んだ。心配しなくていい。
そこまで考えて、レオルディスは指を止めた。
あまりにも自分らしい。
そして、あまりにも今まで通りだった。
ヴェルシアナが何かを嫌がれば、その原因を遠ざけた。問題が起きれば、大人たちの間で処理した。教師が替わったことも、使用人の配置が変わったことも、娘には必要だと思う範囲だけを伝え、それ以上の面倒はなるべく見せないようにしてきた。
子供だったから。
娘だったから。
傷つけたくなかったから。
何より、自分が代わりに処理できたからだ。
そのすべてが間違いだったとは、今でも思っていない。
五歳の子供に、大人と同じ責任を背負わせる必要はない。知らなくてよいことまで見せるのが教育だとも思わない。
ただ、娘が自分の選択によって何かを動かした時、その結果まで父親が綺麗に消してしまったら、本人は次に何を基準として選べばよいのだろう。
選ぶ権利だけを渡して、その選択によって誰が動き、何が変わったのかはすべて見えない場所へ運んでしまう。それでは、娘の手元には「望んだものが得られた」という結果だけが残る。
数字だけを見せ、その数字の向こう側にいる人間を隠すようなものだ。
それは、自分が仕事で最も避けようとしてきたことではなかったか。
レオルディスは、握っていたペンを静かに机へ置いた。
◇
「まだお仕事をなさっていたのですか?」
扉の方から聞こえた声に、レオルディスは顔を上げた。
セレフィアが立っていた。
「仕事は終わっている。考え事だ」
「でしたら、そのお顔は何ですの。書類に何か言われました?」
「紙は喋らない」
「でも、あなたは時々、喋らない紙と随分真剣に向き合っていますわ」
妻はそう言いながら部屋へ入り、机の向かいへ腰を下ろした。王家の封蝋へ視線を落としたあと、すぐに夫を見る。
「今日のことですか?」
「ああ」
詳しく言わなくても伝わったらしい。
「ヴェルシアナが王太子妃を望まないと言えば、私はその答えを受け入れる。それは以前から変わっていない」
「ええ。私もですわ」
セレフィアの返事にも迷いはなかった。
レオルディスはわずかに目を細める。
「惜しくはないのか」
「惜しいとは思うかもしれません。殿下は良い方ですし、あの子が楽しそうにお手紙を読んでいるのを見るのも好きですもの」
そこでセレフィアは、少しだけ声を柔らかくした。
「でも、それと結婚したいかどうかは別でしょう?」
「ああ」
「私が似合うと思う未来と、ヴェルシアナが選びたい未来も、同じでなくてよいと思っています」
その言葉に、レオルディスは頷いた。
「考えていたのは、その先だ」
「その先?」
「娘の答えは認める。その代わり、そこから生じる面倒を全部こちらで片づけるだろうと思ってな」
セレフィアは一度だけ瞬きをしたあと、すぐに納得したようだった。
「……なさいますわね」
「そう思うか」
「王家と何をお話ししたのかも、どんな調整をしたのかも、全部終わってから『もう大丈夫だ』と仰るでしょう?」
「ああ」
「あなたらしいですわ」
からかわれたわけではない。
それがかえって、レオルディスには否定しづらかった。
セレフィアは袖口の刺繍を指先でなぞりながら続ける。
「私も似ています。あの子に選ばせることはできても、その先に痛そうなものが見えたら、柔らかい布を敷きたくなるでしょうから」
「布か」
「私ですもの」
「私なら?」
「道を直しますわね」
レオルディスは黙った。
セレフィアが小さく笑う。
「否定なさらないのですね」
「できない」
「でしょう?」
娘が歩く道に危ない石があれば、先にどけたい。
雨が降りそうなら馬車を用意したい。
困ることが分かっているなら、その困り事が起きる前に片づけておきたい。
全部、思い当たる。
「私たちは、あの子を守りたいのですよね」
「ああ」
「だから、選ぶことまで奪うつもりはなくても、その先の痛みは取り除こうとしてしまう」
レオルディスは机の上の書状へ目を落とした。
「ナディアとは違う」
「ええ。でも、何も似ていないわけでもありませんわ」
その言い方が、ちょうどよかった。
ナディアがしたことを、自分たちと同じにして薄めるつもりはない。
彼女は危険だと思う道を、娘自身が選ぶ前に閉じようとした。
自分たちは、そこまではしない。
ただ、ヴェルシアナが選んだあとに現れる凸凹を、本人が気づく前に平らにしようとする。
「最近のあの子は、自分の選択の先まで見ようとしている」
レオルディスが言うと、セレフィアは静かに頷いた。
「領地へ行ってから、特にそうですわね」
「助けることも力を使うことだと考えていた。善意で始めたことでも、続けられなければ誰かを傷つけるかもしれないとも」
「五歳の子供が考えるには、大きなお話ですけれど」
「私もそう思う」
「でも、考えること自体を止めるおつもりはないのでしょう?」
「ああ。ただ、その重さまで全部持たせるつもりもない」
セレフィアは少し考えてから、静かに息をついた。
「でしたら、私たちが考えるのはそこですわね。どこまで知らせて、どこからはまだ私たちが持つのか」
簡単そうに聞こえて、最も難しい。
五歳だから何も知らなくてよい、ではない。
五歳でも考えられるからすべて話す、でもない。
その間にある境目は、帳簿の罫線ほど明瞭ではなかった。
「分からないな」
レオルディスが言うと、セレフィアが少し目を丸くした。
「珍しいですわね」
「何がだ」
「あなたが、自分から分からないと仰ることが」
「分からないことはある」
「知っています。でも、そういう時ほど黙って考える方でしょう?」
図星だった。
セレフィアは、どこか可笑しそうに続ける。
「分からなくてもよいのではありません? ヴェルシアナが五歳なら、私たちも五歳の娘を育てる父親と母親になって、まだ五年なのですもの」
「都合のいい計算だな」
「間違ってはいないでしょう?」
言われてみれば、その通りだった。
公爵として積んだ年数と、父親として積んだ年数は同じではない。経験が多いからといって、親としてまで完成しているわけではなかった。
「なら、間違えたらどうする」
レオルディスが尋ねると、セレフィアは少しだけ考えた。
「謝ります。それから、あの子に聞きますわ」
「何を」
「何が嫌だったのか。次はどうしてほしいのかを」
レオルディスは妻を見る。
「簡単ではないぞ」
「ええ。でも、間違えない母親でいるよりは、間違えた時に話を聞ける母親でいる方が、まだできそうです」
その答えに、レオルディスは少し黙ったあと、僅かに笑った。
「なるほど」
「あら。今日は素直ですのね」
「毎日こうだ」
「それは信じません」
二人の間に、静かな笑いが落ちた。
娘について話しているのに、以前よりも少しだけ呼吸がしやすい。
かつては、ヴェルシアナのために何をしてやるかという話ばかりしていた気がする。
誰を教師につけるか。
何を学ばせるか。
誰と会わせるか。
何を遠ざけるか。
最近は、そこへ別の問いが増えた。
娘は何を考えているのか。
なぜそう思ったのか。
自分たちがしたことを、娘はどう受け取ったのか。
親が答えを渡す時間より、娘から持ち帰った問いを夫婦で眺める時間が増えている。
手間は増えた。
けれど、その手間をレオルディスは嫌いではなかった。
◇
セレフィアが部屋を出てから、レオルディスは引き出しの奥にあった薄い記録帳を取り出した。
ヴェルシアナについて、幼い頃から必要なことを残してきたものだった。
医師の診察、教師の変更、習い事、王家とのやり取り。頁を遡れば、三歳、四歳、五歳と、娘の数年間が文字になって積み重なっている。
ある箇所で、レオルディスの指が止まった。
以前の記録には、ヴェルシアナ本人の言葉が少ない。
何を嫌がったのか。
何に怒ったのか。
誰との間で問題が起き、その後に誰がどう処理したのか。
記録はある。
だが、娘がその結果をどこまで知ったのかは、ほとんど残されていない。
教師が替わった。
使用人が配置を変えられた。
問題は収まった。
そこで頁が閉じる。
娘の目の前から問題が消えた場所で、大人の記録も終わっていた。
当時は、それでよいと思っていた。
ヴェルシアナがまた穏やかに過ごせるなら、それで一件落着なのだと。
けれど、石につまずくたび父親がその石を拾い、次に歩く時には最初から道を平らにしていたら、子供はいつ足元を見るようになるのだろう。
もちろん、大きな石ならどける。
崖へ向かって歩いているなら止める。
そこまで「自分で学べ」と放っておくのは、親ではない。
ただ、小さな段差まで世界から消してしまえば、いつか親の手が届かない道へ出た時、その子は初めて転び方を知ることになる。
自分たちは、どこまでを娘の前から消してきたのだろう。
そう考えると、胸の内側に鈍い重さが残った。
ヴェルシアナが以前したことを、親のせいにするつもりはない。
誰かを傷つけたなら、その行動については娘自身も向き合わなければならない。
だが、その後に何が起きたのかを大人が隠し続けたことで、本人が行動と結果を結びつける機会を奪ったのなら、そこには確かに自分たちの責任もある。
娘には娘の分があり、ナディアにはナディアの分がある。セレフィアにも、自分にも、それぞれ引き受けるべきものが残っている。
誰か一人へすべてを押しつければ、帳尻だけは合って見える。
だが、それで中身まで正しくなるわけではない。
レオルディスは記録帳を閉じた。
その隣に、アレクシスから届いた手紙についての書き留めが置かれている。
古い街道について、資料ごとの食い違いが記されていた。
ヴェルシアナは最近、一つの答えそのものより、答え同士の違いを気にするようになった。
一冊にこう書いてあるから、それが全部だとは考えない。
別の記録を見て、実際の土地も見て、それでも分からなければ、分からないものとして残す。
その姿勢は、父親である自分にも向けるべきなのだろう。
今のヴェルシアナがこう考えているから、将来も同じ答えを出すと決めない。
アレクシスと楽しそうに手紙を交わしているから、いつか結婚したいに違いないと書き足さない。
王太子妃という立場がよく似合うから、それこそが娘にとって最も幸福な未来だと結論づけない。
今あるものは、今のものとして見る。
続きは、続きが来てから読む。
聡い娘であることを知っているからこそ、親が勝手に完成させてはいけないのかもしれない。
本人なら、自分で考えられる。
その事実を、父親である自分はもう知っているのだから。
◇
夜も深くなった頃、自室へ戻る途中で、レオルディスはヴェルシアナの部屋からまだ灯りが漏れていることに気づいた。
時間を確認してから、扉を軽く叩く。
「ヴェルシアナ。まだ起きているのか」
「はい、お父様」
「入ってもいいか」
「もちろんです」
返事を受けて中へ入ると、娘は小さな机に向かっていた。
寝支度は終えている。
昼間は綺麗に整えられている銀髪が、今はそのまま肩へ流れ、灯りを受けて柔らかく光っている。人前では五歳と思えないほど凛として見えることのある娘も、夜着のまま椅子に座っていれば、頬にも指先にもまだ幼さが残っていた。
「何をしている」
「殿下へのお返事を書いていました。もう一つ資料を見つけたので、それも書こうと思いまして」
「今日中でなくてもいいだろう」
「はい。でも、途中まで書いてしまったので」
「明日にしなさい。眠い頭で書いた文章は、あとで直したくなる」
ヴェルシアナはペン先を見つめ、それから父を見上げた。
「お父様にも、ご経験が?」
「ある」
「何度くらいです?」
「そこまで聞く必要はない」
「では、結構多いのですね」
レオルディスは口を閉じた。
娘は少し笑っている。
「……最近、私への遠慮が減ったな」
「悪いことでしょうか」
「いや」
「でしたら、安心しました」
ヴェルシアナは素直にペンを置いた。
紙には何行か文字が並び、その先にまだ広い白い場所が残っている。
「お父様?」
「何だ」
「手紙が気になります?」
「内容ではない」
「では?」
問いかけられ、レオルディスは少し考えた。
「今日の話で、一つ考えたことがある」
「ナディアのことですか?」
「ああ。だが、ナディアだけではない」
娘の向かいへ椅子を引く。
「お前が王太子妃を望まないと言えば、私はその答えを受け入れる。それは以前から変わっていない」
「はい」
ヴェルシアナも、そこには迷いなく頷いた。
「その先の話だ」
紅紫の瞳が父を見つめる。
「お前が何かを選んだあと、そのことで何が起きたのかを、私はどこまで話すべきだと思う?」
ヴェルシアナはすぐには答えなかった。
手紙の上に置いた指を少し動かし、考える。
「……お父様が全部片づけて、わたくしにはあまりお話ししないかもしれない、ということですか?」
「そうだ」
「やはり」
短い返事だったが、妙に納得している。
レオルディスはわずかに眉を上げた。
「分かっていたのか」
「何となくです。お父様は、終わったことをわざわざ心配させる必要はない、とお考えになりそうですから」
よく見ている。
少し前なら、そのことを誇らしいと思うだけだったかもしれない。
今は、自分がそこまで読まれている事実に、わずかな居心地の悪さも覚える。
「王家との交渉までお前に任せるつもりはない」
「それは困ります」
「当然だ」
「でも、何があったかは少し知りたいです」
「少し?」
「全部を聞けば、たぶん何も選べなくなることもありますから」
ヴェルシアナは考えながら、言葉を選んでいる。
「領地へ行った時、何か一つ変えるだけでも、思っていたよりたくさんの方が関わるのだと知りました。全部を一度に考えたら、どの答えも怖くなると思います」
そこまで言ってから、娘は父を見る。
「でも、何も知らずに『大丈夫でした』と言われるのも嫌です」
「なぜだ」
「わたくしが大丈夫だっただけかもしれませんもの」
その一言は、静かだった。
それなのに、レオルディスの中では思った以上に深く響いた。
「わたくしが困らなかった分を、別の方が引き受けていたとしても、知らなければ次も同じように選ぶと思います。だから、次に考えるために必要なことは知りたいです」
レオルディスはすぐには返事をしなかった。
ヴェルシアナが聡いことなら、とうに知っている。
今さら、娘の頭の良さに驚いたわけではない。
だが、その聡さの向かう先が変わってきたことには、改めて目を引かれた。
以前のヴェルシアナも、理解は早かった。
欲しいものを見つけるのも、嫌なものを察するのも早い。幼い子供としては、自分の感情を掴む力が強い方だった。
今の娘は、その賢さを自分の内側だけで使わなくなっている。
自分がどう感じたかだけではなく、自分の見えないところで誰が動いたのかを考える。
誰かが負担を引き受けた可能性まで想像し、それを次の選択へ持っていこうとしている。
知識が増えただけではない。
目を向ける範囲が広がっている。
それが、レオルディスには何より誇らしかった。
才能そのものなら、以前から知っている。
魔法も、学問も、考える速さも。
だが、持っている力をどこへ向けるかは、才能とは別の話だ。
賢いからといって、自分に都合のよい答えだけを選ばないとは限らない。
立場が高いからといって、その立場によって動かされる人間へ目を向けられるとも限らない。
その点で、目の前の娘は少しずつ、父親が望んでいた以上の方向へ育ち始めている。
公爵として見ても頼もしいと思う。
父親としてなら、なおさらだった。
いつかこの子が自分の立場を本当の意味で理解する頃、今の問いを忘れずにいてくれたなら、そのことは大きな力になるだろう。
「お父様?」
黙っていた父を、ヴェルシアナが不思議そうに見上げた。
「どうかなさいました?」
「よく考えていると思ってな」
「それは……褒めてくださっているのですか?」
「ああ」
レオルディスは少しだけ間を置いた。
「かなり」
すると、ヴェルシアナはわずかに視線を逸らした。
紅紫の瞳が手紙へ落ち、口元には隠しきれない喜びが残っている。
それを見て、レオルディスは僅かに笑った。
「何ですの?」
「いや」
「今、笑いました?」
「少しな」
「なぜです?」
「褒められると、まだ分かりやすい」
ヴェルシアナは一瞬、言葉に詰まった。
「……そういうことは、言わなくてもよいと思います」
「そうか」
「はい」
「覚えておこう」
淡々と返すと、娘が少しだけ頬を膨らませた。
その表情を見ていると、やはりまだ五歳なのだと思う。
年齢以上に考えられることと、年齢以上の重さを背負わせてよいことは、決して同じではない。
誇らしいからこそ、そこを間違えたくなかった。
「全部を話すとは約束しない」
レオルディスは会話を戻した。
「お前がまだ知らなくてよいこともある。だが、何もなかったように隠すのもやめようと思う」
「では、どこまで教えてくださるのです?」
「迷ったら、お前にも聞く」
「わたくしに?」
「どこまで知りたいかを」
ヴェルシアナは少し考えたあと、素直に頷いた。
「それがよいと思います」
「ああ」
父親だけが決めない。
だからといって、子供だけにも背負わせない。
その都度、話す。
曖昧ではあるが、家族のことに帳簿のような明快さを求める方が間違っているのかもしれなかった。
レオルディスが立ち上がろうとした時、ヴェルシアナが机の上の手紙へ目を向けた。
「お父様」
「何だ」
「明日、続きを書いていて分からなくなったら、相談してもよろしいですか?」
「もちろんだ」
「でも、答えそのものは教えないでくださいね」
レオルディスは少し眉を上げる。
「では何を聞くんだ」
「どの資料を見ればよいかとか、考え方におかしなところがないか、とかです」
ヴェルシアナは白い余白へ視線を落とした。
「最後に何を書くかは、自分で決めたいです。わたくしのお返事ですから」
「分かった」
レオルディスは頷いた。
「必要なものを探すところまでは手伝おう。その先はお前が書きなさい」
「はい」
満足そうな返事だった。
そこでレオルディスは置き時計を見る。
「続きは明日だ。もう寝なさい」
ヴェルシアナがわずかに眉を寄せた。
「……急に現実的ですね」
「もう遅い」
「そこは譲ってくださらないのですね」
「ああ」
娘は少しだけ不満そうに父を見る。
「父親だから、ですか?」
レオルディスは一瞬黙った。
それから、わずかに目を細める。
「今日は、その言葉を使わないでおこう」
「賢明だと思います」
「誰に似たんだろうな」
「お父様では?」
レオルディスは娘を見た。
ヴェルシアナも真顔で見返してくる。
「……寝なさい」
今度は娘が笑った。
昼間、人前で見せる公爵令嬢としての微笑みではなく、父親の前だからこそ出る、少し無防備な笑顔だった。
その表情を見ると、やはり急いで大人になる必要などないと思う。
考えることを止める必要もない。
けれど、すべてを今すぐ背負う必要もない。
その二つを同時に守ることが、自分たち大人の役目なのだろう。
◇
部屋を出る直前、レオルディスは一度だけ机を振り返った。
途中まで書かれた手紙には、アレクシスへ向けた文字が何行か並び、その先にまだ広い白い場所が残っている。
父親なら、その続きをいくらでも想像できる。
こう書けば礼儀正しい。
こう答えれば相手は喜ぶ。
この表現なら誤解も少ない。
経験がある分、娘より多くの無難な答えを知っている。
けれど、答えを知っていることと、その答えを書く権利があることは同じではない。
娘が聡いことを、レオルディスは以前から知っていた。
だからこそ、自分が先に完成させてはいけない。
教えることと、代わりに考えること。
守ることと、結果まで隠すこと。
助けることと、本人が歩いた跡まで消すこと。
その境目について、これから何度でも迷うのだろう。
領地の帳簿なら数字を照合できるし、契約なら条件を読み直せる。王家との交渉なら、相手の意図とこちらの条件を並べ、どこへ線を引くべきかを考えられる。
だが親子の間には、最後に押せば正解になる印章などない。
ならば、間違えないことだけを目指すより、間違えた時に頁を開き直せることの方が大切なのかもしれない。
娘が何かを選んだなら、その選択を守る。
その結果に、大人として自分が担うべきものがあるなら引き受ける。
ただし、娘自身が次に考えるために必要なものまで、善意の名の下へ隠してしまわない。
それは、娘を守ることをやめるという意味ではない。
むしろ、これからも守り続けるために、守り方を変えていくということなのだろう。
「お父様?」
まだ扉のところにいたせいか、ヴェルシアナが振り返った。
「まだ何かございました?」
「明日の手紙を少し楽しみにしていただけだ」
「見せましょうか?」
「お前がよければ」
ヴェルシアナは少し考えたあと、頷いた。
「では、書けたらお見せします」
「そうしてくれ」
「ただし、全部直してしまってはいけませんよ」
「しない」
「本当です?」
「そこまで信用がないのか」
ヴェルシアナは少し首を傾げた。
「信用しているからお願いしているのです」
思いがけない返しに、レオルディスは言葉を止めた。
娘は何でもないことのように続ける。
「お父様なら、間違っているところは教えてくださるでしょう。でも、最後はわたくしに書かせてくださると思っています」
レオルディスは、しばらく娘を見た。
自分はこの子を守らなければならないと思っている。
それは昔から変わらない。
だがどうやら、娘の方も父親をただ何でも決める人間として見ているわけではないらしい。
教えてくれる。
困った時には助けてくれる。
けれど、最後には自分へ返してくれる。
そう信じている。
その信用は、公爵家のどんな書状より軽く扱ってはいけないものに思えた。
「分かった」
レオルディスは静かに答えた。
「なら、そのつもりで読もう」
ヴェルシアナが笑う。
「お願いします」
今度こそ、レオルディスは扉を閉めた。
廊下へ出ると、屋敷はすでに夜の静けさに沈んでいる。
窓の向こうでは、月の光が庭の一部だけを淡く照らしていた。道は途中から木々の影へ消え、その先がどこへ続いているのかまでは見えない。
それでいいのだろう。
先まで見えないからといって、父親が勝手に行き先を決める必要はない。
危険な場所があるなら教える。
暗ければ灯りを持つ。
転んだ時には手を差し出す。
それでも、歩く人間そのものを抱き上げて目的地まで運んでしまえば、その子が自分で歩いた道にはならない。
レオルディスは、先ほどの手紙の余白を思い出した。
何も書かれていない白い場所は、欠けているのではない。
これから書けるから、空いている。
新しく知ったことがあれば一行を足し、考えが変われば言葉を書き直す。その繰り返しで、手紙はようやくその人自身のものになる。
娘の未来も、きっと同じだ。
今のヴェルシアナがどれほど聡くても、十年先の答えまで今から決める必要はない。
むしろ、聡い娘だからこそ、自分で見て、自分で迷い、自分で続きを書く時間を残してやりたい。
父親が守るべきなのは、何も起こらないよう未来を先に完成させて渡すことではない。
娘が何かを知るたび、迷うたび、それでもまた自分の手で次の一行を書けるようにしておくことなのだろう。
その手が止まった時には、隣へ座ればいい。
答えを書くためにペンを奪うのではなく、彼女が自分で文字を選べるよう、必要な時だけ灯りを少し近づける。
今の自分には、そのくらいの距離がちょうどよいように思えた。




