第32話 公爵令嬢は、あなたの手を取って歩く
翌朝、昨日まで庭を覆っていた雨雲は、何事もなかったように姿を消していた。
青く晴れた空の下では、濡れた石畳が朝の光を淡く返している。枝先に残った雫は、風が触れるたびに細かな光を散らし、花壇では庭師たちが雨に傾いた花へ一本ずつ支柱を添えていた。
雨が止んだからといって、昨日までとまったく同じ庭へ戻るわけではない。
いくつかの花弁は落ち、柔らかくなった土には靴跡が残っている。それでも、傷んだ場所を隠すのではなく、必要なところへ手を入れながら庭はまた今日を始めていた。
俺は窓辺からその様子をしばらく眺めていた。
ナディアから、昨日の続きを話したいと伝えられたのは、朝食を終えて間もなくのことだった。
俺は了承したうえで、父と母にも同席してほしいと頼んだ。
ナディアとの関係は、俺と彼女だけの問題ではない。
これまで彼女へ多くを任せてきたのは両親であり、その判断を最終的に認めてきたのもこの家だ。何より、俺が「自分で選びたい」と言いながら、大人一人の立場や人生を五歳の自分だけで決めるのは、それこそ別の意味でおかしい。
人に決められたくないからといって、何もかも一人で抱え込む必要はない。
その違いを知れたことも、この数か月で得たものの一つだった。
◇
話をする場所には、父の書斎ではなく家族用の小さな応接室が選ばれた。
客人を迎えるための華やかな部屋ではない。淡い色の絨毯と低い卓があり、窓辺には母の選んだ花が数輪だけ飾られている。
俺がもっと幼かった頃には、この部屋で父の膝に乗せられたり、母に本を読んでもらったりしたこともあったらしい。
その頃の記憶は、俺にはない。
けれど今の俺にも、この部屋が誰かを裁くための場所ではないことくらいは分かる。
父と母が先に腰を下ろし、俺もその近くへ座った。
ほどなくして扉が開く。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
ナディアが一礼した。
その姿を見た瞬間、俺の目は彼女の袖口へ向かった。
ほんの少しだけ、青が覗いている。
昨日のリボンだった。
古く、色褪せ、もう髪へ飾るには心許ない一本の布。それでも彼女は、箱へ戻さず身につけてきたらしい。
俺が気づいたことを察したのか、ナディアはほんの僅かに笑った。
俺も何も言わなかった。
あれを持ってくると決めたのは、彼女なのだから。
「座りなさい」
父に促され、ナディアが腰を下ろす。
誰も急かさなかった。
窓の外では、濡れた葉から時折雫が落ちている。その小さな音が聞こえるほどの静けさの中で、ナディアはしばらく膝の上へ重ねた手を見つめていた。
やがて顔を上げる。
「昨日、お嬢様からいただいた問いについて、お答えしたく存じます」
「はい」
「わたくしがお嬢様に何も失っていただきたくなかったのは、本当にお嬢様のためだけだったのか、と」
俺は頷く。
昨日、その答えを無理に求めなかった。
だから今日は、こちらから言葉を足さない。
ナディアが自分で選んで持ってきた答えを待つ。
「お嬢様のためであったことまで、嘘だったとは思っておりません」
ナディアは静かに言った。
「ですが、それだけではございませんでした」
一度、深く息を吸う。
「わたくしは、自分が正しいと思っていたかったのです」
昨日までとは違う言葉だった。
俺は少しだけ目を細める。
「正しい、と?」
「はい」
ナディアは俺から目を逸らさなかった。
「お嬢様を守ることも、お嬢様には最も良い場所へ進んでいただくべきだと考えたことも、すべてお嬢様を大切にしているからだと思っておりました」
「それは、違わないのでは?」
「違いません」
即座に否定したあと、彼女は少しだけ声を落とした。
「ですが、その言葉だけで、自分の中にあるものをすべて説明できると思っていたことが、間違いでした」
袖口から覗く青へ、指が触れる。
「昨日、お嬢様に尋ねられて、ようやく考えました。なぜ、わたくしは長い間、お嬢様が何を望まれているのかを尋ねることより、自分が正しいと思うものを差し出すことを選び続けたのかと」
俺は黙って聞いた。
「……怖かったのです」
「何が?」
「お嬢様のお答えが、わたくしの望みと違うことが」
そこでナディアは、初めて目を伏せた。
「もし尋ねてしまえば、違う答えを聞くかもしれません。そうすれば、わたくしは知ってしまいます」
「何を?」
「自分が差し出しているものが、お嬢様の欲しいものではないかもしれないと」
胸の奥に、静かに何かが沈んだ。
ナディアは続ける。
「知らなければ、『お嬢様のため』でいられました」
その声は、自分自身へ告白するように低かった。
「わたくしは、お嬢様を守る者でいられました。正しいものを与える者でいられました。けれど、お嬢様の答えを聞いて、それが違っていたなら……わたくしは、自分がしてきたことを見直さなければならなかった」
「だから、聞かなかった」
「……はい」
ナディアは唇を僅かに噛んだ。
「お嬢様のお答えを聞くことより、自分がお嬢様を幸せにできていると信じることを選んでおりました」
それなら、昨日まで見えていなかった最後の一片だった。
ナディアは俺のために生き方を選ぼうとした。
そこには自分の過去も、必要とされたい気持ちも、俺を失いたくない恐怖もあった。
けれど、それらを認めるよりさらに難しかったのは、自分の愛し方そのものが間違っている可能性だったのだろう。
人を傷つけたい者なら、自分が間違っていると認めることはもっと簡単なのかもしれない。
自分は守っている。
大切にしている。
相手のためにやっている。
そう信じて長く生きてきた人ほど、その善意の中に誤りがあったと認めることは、自分の足元を掘り返すことに近い。
支えてくれていたはずの地面まで、一緒に崩れるからだ。
「……分かりました」
俺が言うと、ナディアが顔を上げた。
「全部ではありません」
そこは付け加える。
「昨日今日で、ナディアの何十年分まで全部分かったとは言えません。でも、少なくとも、どうして聞けなかったのかは分かりました」
「お嬢様」
「だから今度は、わたくしから答えてもいいですか?」
ナディアの瞳が揺れる。
「……はい」
俺は膝の上に置いた手を見た。
五歳の手だ。
前世ではもっと大きかった。
仕事へ行き、電車に乗り、酒を飲み、ゲームの画面を指で動かしていた手とは比べものにならないほど小さい。
それでも、今この世界で何かを選ぶのは、この手なのだ。
「ナディアが怖かったものは、昨日聞きました」
家の事情を知ってしまったからこそ、嫌だと言えなかったこと。
優しい娘だと褒められたことで、拒むことが家族を傷つける行為に思えたこと。
好きだった帳簿まで、丁寧に「必要ないもの」へ変えられていったこと。
同じ話をもう一度なぞる必要はない。
俺の中には、もう残っている。
「それを聞いたからこそ、わたくしからも一つ言わせてください」
「はい」
「ナディアは」
俺は少しだけ笑った。
「一つ、大事なことを忘れています」
彼女が目を瞬く。
「……何をでしょう」
ここまで来て、不思議と迷いはなかった。
「わたくしが、誰なのかを」
父の視線が、僅かにこちらへ向いた。
母も何も言わない。
俺は椅子の背から身体を離し、まっすぐナディアを見る。
「わたくしは――ヴェルシアナ・アルセリード」
自分の名を、はっきり口にする。
これまで、この名前には重いものがついて回った。
美しく、傲慢で、感情のまま周囲を振り回し、最後には誰からも信じられなくなった女。
初めて鏡を見た日からずっと、俺にとってこの名前は、逃げなければならない未来と繋がっていた。
けれど、それだけではない。
今、この名前で父に叱られた。
母に抱きしめられた。
ミレーヌと学び、リュネアと笑い、アレクシスと馬に乗り、領地を自分の足で歩いた。
俺がこれから何を選ぶとしても、この世界で生きていく名前はこれだ。
「アルセリード公爵家の一人娘です」
ナディアの瞳が大きく揺れる。
「そして――ナディア」
ほんの少しだけ顎を上げた。
こんな顔をすれば、きっと俺の知らないところで「公爵令嬢らしい威厳」だとか勝手なことを言われるのだろう。
今日だけは構わない。
「あなたの主人ですわ」
ナディアが息を呑んだ。
俺は続ける。
「あなたが、そこまで必死になって誰にも何も奪われない人間へ育てなくても、わたくしは最初から随分と大きなものを持っています」
家の名。
財産。
教育。
身分。
そして何より、俺の答えを聞こうとしてくれる人たち。
「誰かに『家のためです』と言われただけで、黙って人生を差し出さなければならないほど、わたくしは弱い立場ではありません」
「ですが、お嬢様」
ナディアが思わず身を乗り出す。
「高いお立場には、その分だけ――」
「責任があることも知っています」
彼女の言葉を強く遮らないよう、ゆっくり返す。
「公爵令嬢なら何をしても許される、なんて思っていません」
むしろ、それがどれほど危険な考えかを、この身体の最初の五年間が証明している。
「領地へ行って、少しだけ分かりました。わたくしは見る側のつもりでも、向こうから見られる側でもある。一言口にしただけで、それが誰かにとっては公爵家の意向に聞こえることもある」
怪我をした子供より先に、母親が俺へ謝った光景を思い出す。
父も教えてくれた。
権力は、使おうとした時だけ存在するものではない。
持っているだけで、周囲へ重さをかけることがある。
「高いところにいるから、誰とも繋がらずに済むわけではありません」
むしろ、逆だ。
「家のこともあります。領地のこともあります。王家と関われば王家の事情もあるでしょうし、誰かと親しくなれば、その人の気持ちだって無視はできません」
人と生きるということは、きっと無数の糸を結ぶことだ。
立場が高くなれば、その糸が消えるのではない。
遠くまで増える。
一方から引かれれば、別のところまで揺れるほどに。
「わたくしだって、周りに左右されます」
ナディアの瞳から逃げずに言う。
「お父様やお母様の言葉に悩むでしょうし、友達に嫌われたくないと思うこともあるでしょう。いつか家の事情と、自分の望みがぶつかることだってあるかもしれません」
ナディアが何か言おうとする。
それより先に、俺は笑った。
「でも、それでいいと思っています」
「……なぜ」
「周りに何も左右されない人間になりたいわけではないからです」
俺は一人で生きたいわけではない。
誰のことも気にせず、自分の望みだけを通す人間になりたいわけでもない。
それでは、以前のヴェルシアナと形が違うだけで、同じところへ戻る。
「人の話は聞きます。事情も考えます。わたくしが間違っていると思ったら、考え直します」
そこで少し息を吸う。
「でも、その全部を聞いたあとで、最後にどちらへ歩くかだけは、自分で決めたいのです」
ナディアの唇が僅かに震えた。
「それでも、間違われたら」
「間違えるでしょうね」
俺があっさり答えると、彼女は言葉を失った。
「お父様?」
横を見る。
「私は何も言っていない」
「顔が『間違える』と言っています」
「実際に間違える」
「ほら」
母が口元を押さえ、小さく笑った。
緊張がほんの少しだけ解ける。
俺も肩の力を抜いた。
「わたくしは、間違えない人になりたいわけではありません」
以前の俺なら、破滅へ繋がる選択肢を全部避ければ、それで生き残れると思っていた。
今は少し違う。
「間違えた時に、そこで終わらない人になりたいです」
父の視線が静かにこちらへ向く。
それは、この人から教わったものでもある。
「ですから、ナディア」
俺は続けた。
「わたくしを、何も失わない人にしなくていいです」
ナディアの顔が歪んだ。
「そんな……」
「だって」
袖口の青を見る。
「あなただって、何も失わなかったからそのリボンを大切にしているわけではないでしょう?」
ナディアが、自分の袖へ目を落とした。
「銀の髪留めより安くて、色も褪せて、もう髪へ飾ることも難しい。それでも好きなのでしょう?」
「……はい」
「自分で選んだから」
ナディアは答えなかった。
答える代わりに、青い布へそっと指を添えた。
「わたくしも、そういうものが欲しいです」
「お嬢様?」
「一番高価なものばかり残る人生ではなくて、自分で選んだものを大切にできる人生がいい」
思った以上に、素直な言葉になった。
「失うものもあると思います。後悔だってするでしょう。でも、何も失わないことだけを考えて、最初から誰かに道を選んでもらうより、わたくしはそちらがいいです」
ナディアの瞳に、薄く涙が浮かぶ。
「あなたが怖かったことは、分かります」
十三歳の少女が、自分の意思より家の事情を重くされたこと。
その痛みを、俺には絶対に味わわせたくなかったこと。
「でも、ナディアがわたくしに与えたかったものは、もうあります」
「……何をでしょう」
「嫌だと言ってもいいと思えるだけの立場があります」
父と母を見る。
「それでも困った時に帰ってこられる家があります」
もう一度ナディアを見る。
「それに、止めてくれる人もいます」
ナディアの目から、一滴だけ涙が落ちた。
「だから、もう少しくらい信じてください」
「何を……」
「わたくしを」
ナディアは何も言えなくなった。
俺はその沈黙を待つ。
やがて彼女が、掠れた声で言った。
「……お嬢様には、何も奪われてほしくありませんでした」
「はい」
「わたくしから奪われたものも、わたくしが手放してしまったものも、何一つ」
「分かっています」
その気持ちを、もう疑っていない。
だからこそ。
「それが、少し悲しいです」
ナディアが顔を上げた。
「……悲しい?」
「はい」
胸の奥にあったものを、ゆっくり言葉にする。
「あなたは、ご自分から奪われたものを、わたくしには全部与えようとしてくださった」
嫌だと言える力。
誰にも軽んじられない立場。
選ばれるのではなく、選ぶ側でいること。
「それなのに」
喉の奥が、少し熱くなった。
「ナディアが一番欲しかったものを、わたくしからだけは奪っていたから」
彼女の顔から色が引く。
「……何を、でしょう」
俺はナディアをまっすぐ見た。
「選ぶことです」
静かな部屋に、その言葉だけが残った。
父も母も動かない。
「誰にも人生を決められない人になってほしいと願いながら、ナディアは、わたくしが歩く道を先に決めようとした」
王太子妃という未来だけではない。
嫌がったものを遠ざけること。
失敗すれば周囲へ原因を探すこと。
泣かなくて済むよう、世界の方を変えてしまうこと。
「ナディアから奪われたものを、わたくしには全部持たせたかったのでしょう?」
「……はい」
「なのに、一番大切だったものだけは、ナディアが代わりに使ってしまった」
ナディアの唇が震えた。
昨日聞いた話を責めるためではなかった。
むしろ、あの話を聞いたからこそ痛かった。
自分で選ぶことがどれだけ大切だったか、この人は誰より知っていたはずなのに。
「……ナディア」
「はい」
声が細い。
俺は、ずっと胸の中に残っていた一つの答えを、ようやく口にした。
「わたくしを、お好きだったのですね」
問いというより、確認に近かった。
ナディアの目が大きく揺れた。
頬へ、もう一粒涙が落ちる。
「はい」
それだけを言うまでに、随分時間がかかった。
「今でも、誰よりも大切に思っております」
胸の奥が痛んだ。
不思議な痛みだった。
嫌われていたなら、もっと簡単だったはずなのに。
俺の知らない五年間を生きた少女。
雷に怯え、薔薇の棘に泣き、怒れば世界の方が変わることを少しずつ覚えていったヴェルシアナ。
あの子は、誰にも愛されていなかったわけではない。
こんなにも愛されていた。
ただ、その愛され方が少しずつ間違っていった。
それが、どうしようもなく悲しかった。
「でしたら」
声を出すと、思っていたより喉が熱かった。
「どうして一度も、わたくしが何を望んでいるのか聞いてくださらなかったのです?」
ナディアの顔が崩れた。
昨日までなら、どれほど苦しくても人前へ出す顔を整えられた人だった。
今はもう、その形を保てていない。
「……怖かったのです」
涙で声が掠れる。
「先ほど申し上げたように、お嬢様の答えが、わたくしの望みと違うことが」
「はい」
「聞いてしまえば、知らなかったことにはできません」
ナディアは涙を拭った。
けれど、拭ったそばからまた次が落ちる。
「わたくしは、お嬢様を守っているつもりでした。けれど、本当は、お嬢様の答えを聞くことから逃げていたのです」
俺はしばらく、何も言わなかった。
愛情がなかったから聞かなかったのではない。
愛情が強すぎて、自分の望まない答えを聞けなかった。
それなら、この人を嫌いになることだけは簡単ではない。
でも、だからといって何もなかったことにもできない。
「ナディア」
「……はい」
「わたくしは、あなたを嫌いになりたくありません」
ナディアの目が大きく開いた。
「お嬢様……」
「追い出したいわけでもありません」
俺は続ける。
「全部忘れて、以前と同じに戻りたいわけでもないです」
以前と同じには戻れない。
戻るべきでもない。
知ってしまったものを、知らなかったことにはできないのだから。
「ですから」
俺は少しだけ身体を前へ傾けた。
「もう二度と、わたくしの代わりに、わたくしの人生を決めないでください」
ナディアの唇が震えた。
「反対してください」
彼女が俺を見る。
「危ないと思ったら止めてください。間違っていると思ったら、ちゃんとそう言ってください」
「……よろしいのですか」
「むしろ言ってください。わたくし、本当にまだ五歳ですもの」
父を見る。
「変なことも言うでしょうし」
「ああ」
「返事が早すぎません?」
「事実だからな」
「お父様は、もう少し娘に夢を持ってください」
母が小さく笑う。
ナディアも涙の向こうで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その表情を見てから、俺は続ける。
「でも、最後には、わたくしにも選ばせてください」
ナディアの笑みが消えた。
今度は真剣に俺を見る。
「ナディアが嫌だと思う答えを、わたくしが選ぶこともあるでしょう」
「はい」
「その時は、どうして反対なのか聞きます。わたくしも、どうしてそうしたいのか話します」
これは、どちらかが黙るための約束ではない。
「それでも意見が違ったら?」
俺が尋ねる。
ナディアはしばらく考えた。
以前なら、最も正しい答えを探したのかもしれない。
今は、その問いを自分の中へ落とし込むように目を閉じる。
「……もう一度、お話しいたします」
「何度でも?」
「必要であれば」
「それでも、わたくしが選んだら?」
ナディアが息を吸う。
長い沈黙のあと、今度は俺から目を逸らさなかった。
「その先で、わたくしに何ができるのかを考えます」
胸の奥に、小さな熱が灯った。
「選び直させるのではなく?」
ナディアは、涙の跡を残したまま笑った。
「はい」
「本当に?」
「……努力いたします」
完璧な答えではない。
だからこそ、いい。
「それで十分です」
俺が言うと、ナディアは深く息を吐いた。
守るという言葉は、たぶんこれからも消えない。
この人は俺を守りたいだろうし、俺だって困った時には守ってほしい。
ただ、その意味は変えられる。
進む道を先に囲うことから、選んだ道で転んだ時に手を差し出すことへ。
同じ言葉でも、その中身を選び直すことはできる。
◇
「ナディア」
それまで黙っていた母が、静かに呼んだ。
「はい、奥様」
「あなた一人の間違いにはしないでちょうだい」
ナディアが驚いたように母を見る。
「この子を大切にしてくれるあなたに、私たちも甘えていたのだと思うわ」
「ですが」
「違わない」
父が続けた。
「教師の変更も、人員の配置も、最終的に認めたものがある。娘の意思を尊重しているつもりで、その意思がどう作られているのかまで見ていなかった」
父は俺へ視線を向けた。
「任せることと、見なくていいことを混同した」
「お父様も、間違えたのですね」
「ああ」
迷いのない返事だった。
「私も間違えた」
以前なら、父親というものはもっと正しい答えを知っている存在だと思っていたかもしれない。
今は、この人が自分の間違いを認められることの方が、ずっと頼もしく思える。
「だが、私が間違えたからナディアのしたことが正しくなるわけではない」
「はい」
「逆も同じだ。誰か一人に全部を負わせて終わる話ではない」
俺もそう思う。
ナディア一人を悪者にすれば、簡単だ。
この家から追い出し、すべて彼女のせいだったことにしてしまえば、物語としてもずっと分かりやすい。
けれど、人の人生はそんなに綺麗に犯人を一人選べるものではない。
「役目については、これまで決めた通りだ」
父がナディアへ言う。
「セレグラン家との連絡は正式な経路を通す。ヴェルシアナの教育や人員について、一人で決める権限も持たせない」
「承知しております」
「だが、この家を去れとも言わない」
ナディアの目が揺れた。
「それを望むなら別だが」
「……いいえ」
返事はすぐだった。
「許されるのであれば、ここにいたいと存じます」
父はそれ以上答えず、俺を見る。
母も同じだった。
その意味が分かって、俺は少しだけ笑った。
ここまで「選ぶこと」について話した日に、最後の答えだけ父が代わりに言ったら、確かに格好がつかない。
「ナディア」
「はい」
「わたくしも、いてほしいです」
彼女の目から、また涙が溢れた。
「ただし」
「……はい」
「以前と同じでは困ります」
「承知しております」
「本当に?」
「努力いたします」
「それ、今日は便利ですね」
思わず言うと、ナディアが少し困ったように笑った。
「できない約束を申し上げるよりは、よろしいかと」
「それはそうですね」
そこは認めるしかない。
「では、約束してください」
「何をでしょう」
「わたくしの答えがナディアの望みと違った時ほど、先に聞いてください」
彼女の表情が静かになる。
「……はい」
「聞いてから、反対してください」
「はい」
「それなら、何度でも喧嘩できます」
「できれば、穏便にお願いしたいところでございます」
「ナディア次第です」
「お嬢様にも半分ほど責任があるかと」
前なら、こんなふうに返されただろうか。
分からない。
でも今の言葉は、どちらかが上から答えを与える会話ではなかった。
それが少しだけ嬉しかった。
◇
話が終わると、父と母は先に部屋を出た。
二人が意図して残してくれた時間なのかもしれないが、そこは聞かないことにする。
俺とナディアだけが部屋に残った。
窓の外では、雨上がりの庭が朝の光を受けている。
「お嬢様」
「はい」
「一つだけ、よろしいでしょうか」
「何です?」
ナディアは少し迷ったあと、尋ねた。
「本当に、ご自分でお選びになることが怖くはないのですか」
「怖いです」
答えは変わらない。
「間違えるかもしれませんし、後悔するかもしれません。何かを選んだせいで、別のものを失うことだってあるでしょう」
「それでも?」
「それでもです」
俺は袖口の青へ目を向ける。
「そのリボン、今見ても好きです?」
ナディアが目を瞬いた。
それから、小さく笑う。
「はい」
「色、随分褪せていますけど」
「存じております」
「新しいものの方が綺麗ですよ」
「それでも、こちらが好きです」
「なら、たぶんそういうことです」
自分で選んだからといって、必ず正しいわけではない。
選んだものが一番綺麗とも限らない。
時間が経てば、色褪せる。
傷む。
もっと良いものがあったと、あとで気づくこともあるだろう。
それでも、自分で選んだからこそ大切にできるものがある。
「わたくしも、そういうものを増やしたいです」
ナディアは、しばらく青いリボンへ指を添えていた。
やがて、小さく頷く。
「……でしたら」
「はい」
「わたくしは、お嬢様がお選びになったものを守れる人にならなければなりませんね」
俺は少しだけ笑った。
「選ぶ前に守るのではなく?」
「はい」
ナディアも笑う。
「お選びになったあとに、帰ってこられる場所を残せるように」
それならいい。
それなら、またこの人と歩いていける。
「お願いします」
俺は椅子から降りようとした。
大人用の椅子は五歳の身体にはまだ少し高く、床へ足をつけるには軽く身体を滑らせなければならない。
その瞬間、ナディアの手が動いた。
長年の癖なのだろう。
俺を支えようとして伸びてくる。
けれど、その手は途中で止まった。
ナディアは何も言わない。
ただ、俺を見る。
助けていいのか。
それとも自分で降りたいのか。
俺が決めるのを待っている。
俺はその手を見た。
そして自分で椅子から床へ降りる。
小さな靴底が絨毯へ触れた。
ナディアの手は、まだ宙に残っていた。
だから。
今度はこちらから、その手を取った。
「……お嬢様?」
驚いた声が落ちてくる。
「勘違いしないでくださいね」
「何をでしょう」
「自分で歩きたいと言っただけです」
俺は彼女の手を握る。
「一人で歩きたいとは、言っていません」
ナディアの瞳が大きく揺れた。
また泣きそうな顔になったので、少しだけ困る。
「ですから」
俺は扉へ向かって歩き出す。
「今度は、引っ張らないでください」
「……はい」
「でも」
一度立ち止まる。
握った手には、まだほとんど力が返ってきていない。
「離さなくてもいいです」
ナディアが息を呑んだ。
返事は、すぐにはなかった。
代わりに、俺の手を包む指へほんの少しだけ力が戻る。
強く引くほどではない。
俺の歩幅を決めるほどでもない。
ただ、そこにいると分かるくらいの力だった。
「……はい」
今度の返事は、ちゃんと聞こえた。
俺たちは扉を開ける。
廊下には、朝の光が長く差し込んでいた。
この先がどこへ続くのか、まだ分からない。
王太子妃になるのかもしれないし、ならないのかもしれない。
アレクシスとの関係がどう変わるのかも、ミレーヌやリュネアがどんな大人になるのかも、この国が俺の知っていた姿からどこまで離れていくのかも、今の俺には分からない。
以前より、未来は見えなくなった。
なのに不思議と、以前より怖くない。
決められていた未来を知っていることより、自分で選び直せる余地があることの方が、今はずっと心強かった。
俺は隣を歩くナディアを見る。
袖口には古い青が残っている。
その向こうには、雨に洗われた新しい空が広がっていた。
俺は、ヴェルシアナ・アルセリード。
アルセリード公爵家の一人娘。
この名前も、この立場も、俺が望んで手に入れたものではない。
それでも、与えられたものをどう使うかまでは、俺が決められる。
誰かを従わせるためではなく。
誰の言葉も聞かずに済むためでもなく。
多くの声を聞き、自分が間違う可能性も受け入れたうえで、それでも最後の一歩だけは自分の足で踏み出すために。
そして、必要なら誰かの手を取るために。
ナディアはもう、俺の前を歩いていない。
俺も彼女を置いていかない。
同じ歩幅になるまで、少しくらい時間がかかってもいい。
昨日の雨で濡れた庭が、元通りになるのではなく、その傷跡ごと新しい朝を迎えたように。
俺たちも、以前へ戻るのではなく、ここから別の関係を選んでいけばいい。
繋いだ手は、どちらからも引いていなかった。
それで今は、十分だった。




