↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
破滅したくない元男の悪役令嬢ですが、なぜか男女問わず好かれていきます ~攻略対象は男友達のつもりなのに、同性の令嬢との距離まで近すぎるようです~  作者: 0JOY
エピソード0 悪役令嬢は、まだ五歳

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/128

第27話 大切だからこそ、違うこともある

扉が開くと、ナディアは昔と変わらない姿でそこに立っていた。


 淡い色のドレスは皺ひとつなく、長い髪もきちんとまとめられている。夜も遅いというのに身だしなみに隙がないのは、彼女がこの屋敷で長く俺の教育に関わってきた人だからなのか、それとも単純にそういう性格なのか、今の俺にはまだ分からない。


 ただ、以前なら気にも留めなかったであろう違いが一つだけあった。


 部屋へ入る前、彼女は俺の返事を待った。


 当たり前のことのようでいて、少し前までのナディアなら、俺が不機嫌そうにしていても「お疲れでしょうから」と言いながら自然に中へ入り、必要だと思ったものを先に整えていた気がする。


「遅い時間に申し訳ございません」


「構いません。まだ寝るところではありませんでしたから」


 俺が椅子を勧めると、ナディアは一礼して腰を下ろした。


 向かい合ってみると、妙な感じがする。


 この人とは、ずっと近かったはずだ。


 俺がこの身体で目覚める以前からそばにいて、泣けば慰め、怒れば理由を探し、嫌がるものがあれば遠ざけてくれていた。少なくとも記録と周囲の話を繋ぎ合わせる限り、幼いヴェルシアナにとってナディアは、かなり大きな存在だったのだと思う。


 それなのに今は、数歩離れた椅子へ座っているだけで、以前よりずっと遠く感じた。


「お話とは?」


 俺から尋ねると、ナディアはすぐには答えず、机の端に置かれた地図へ目を向けた。


「本日、北東部の村へ行かれたと伺いました」


「はい」


「随分と歩かれたそうですね」


「誰から聞いたのです?」


「セレフィア様から少しだけ。お帰りになった時のお召し物を見れば、それだけでも十分分かりますけれど」


 口元に浮かんだ笑みは柔らかかった。


 昔から見慣れていたものと、ほとんど変わらない。


「楽しかったですか?」


「楽しかった、だけではないと思います」


「では、お辛かった?」


「そういう意味でもありません」


 答えながら、少し考える。


「分からないことが増えました。それが一番近いかもしれません」


 ナディアは僅かに目を細めた。


「分からないことが増えたのに、嬉しそうになさるのですね」


「以前なら嫌だったかもしれません。でも今は、分からないことがあるなら、その分また調べられると思えるので」


「……そうですか」


 返ってきた声は穏やかだった。


 けれど、その表情に浮かんだものが喜びなのか寂しさなのか、俺には判別できなかった。


「ナディアは、領地へ行ったことがあります?」


「ございます。幼い頃に何度か、それからこちらへ参ってからも数度ほど」


「そうなのですね」


 少し意外だった。


 考えてみれば、ナディアはセレグラン男爵家の娘だ。王都の屋敷だけで暮らしてきたわけではないだろう。


「どんなところでした?」


「アルセリード領とは違いますわ。もっと小さく、土地も豊かとは言えません。わたくしが子供の頃は、冬が近づくと屋敷の者たちまで随分と慌ただしくしておりました」


 彼女が自分の昔話をするのは珍しい。


 俺は少し身を乗り出しかけ、それを自覚して姿勢を戻した。


「何をしていたのです?」


「帳簿を確かめたり、食料の不足する家を調べたり。と申しましても、当時のわたくしは大人たちの邪魔をしないよう言われていただけで、詳しいことまでは分かっておりませんでした」


 そこでナディアは小さく笑った。


「ですから、お嬢様が五歳で領地の帳簿に興味を持たれていると聞いた時には、少々驚きました」


「わたくしより、ミレーヌの方が興味を持っています」


「ミレーヌが?」


「ええ。今日も倉庫や帳簿を見て、随分楽しそうでした」


 そう話すと、ナディアの目がほんの一瞬だけ伏せられた。


「……あの子も、随分変わりましたね」


「良い意味で?」


「もちろんです」


 返事は早かった。


 けれど俺は、その「もちろん」をそのまま受け取ることができなかった。


 昔のナディアなら、ミレーヌが侍女見習いとして俺のそばにいることを何より優先したはずだ。歴史や計算、領地経営まで学ばせることを、果たして本当に歓迎していただろうか。


「ナディア」


「はい」


「ミレーヌが、将来わたくしの侍女にならなくても?」


 問いかけると、彼女は俺を見た。


 ランプの光が瞳の中に小さく揺れている。


「……以前にも、そのお話をなさいましたね」


「ええ。でも、ナディアの答えをちゃんと聞いていなかった気がします」


 しばらく沈黙が落ちた。


 窓の向こうでは、夜風が庭木を揺らしている。


「わたくしは」


 ナディアは、いつものように滑らかに言葉を続けなかった。


「ミレーヌにとって、お嬢様のおそばほど恵まれた場所はないと思っております」


 やはり、そうなるのか。


 でも、以前ほど苛立ちは湧かなかった。


 代わりに、もう一つ聞いてみたくなる。


「それは、ミレーヌにとって?」


 ナディアの睫毛が僅かに動いた。


「それとも、ナディアがそう思っているだけです?」


「……お嬢様」


「責めているのではありません。ただ、今日お父様から、助けることも力を使うことだと教わりました」


 話しながら、昼間の村が頭に浮かぶ。


 怪我をした少年より先に俺へ謝った母親。


 公爵令嬢が「気にしなくていい」と言ったところで、それだけで相手の緊張が消えるわけではなかった。


「誰かにとって良い場所を用意することも、多分似ています。本人が望んでいるか確かめずに決めてしまえば、その人のためのつもりでも、その人の道を狭くすることがあるのでしょう?」


 ナディアはしばらく俺を見つめていた。


 その視線に責める色はない。


 ただ、懐かしいものを見るような、少し不思議な色があった。


「本当に、お変わりになりました」


 その言葉は何度か聞いた。


 でも今回は、少し響きが違った。


「以前のわたくしは、そんなに考えませんでした?」


 俺が尋ねると、ナディアは微笑んだ。


「いいえ。考えていらっしゃいましたよ」


 思っていなかった答えだった。


「ただ、お嬢様は幼かったので、ご自身の嫌なことや嬉しいことを、とてもまっすぐに口になさっていました。わたくしは、それをできるだけ叶えて差し上げたかったのです」


「どうして?」


 今度は、ナディアがほんの少し驚いたようだった。


 俺にとっては単純な疑問だ。


 仕事だったから。


 公爵家に仕える立場だったから。


 兄のためだったから。


 いくつもの可能性がある。


 けれどナディアは、そのどれも口にしなかった。


「大切だったからです」


 声は静かだった。


 あまりにも迷いなく言われて、俺の方が言葉に詰まった。


「お嬢様が泣いていらっしゃれば、泣かなくて済むようにして差し上げたかった。お怒りなら、その原因を取り除きたかった。嫌なことがあるなら、二度と同じ思いをなさらないようにしたかった。それだけです」


 その言葉を聞いた瞬間、薔薇の話を思い出した。


 棘が怖くて泣いた幼いヴェルシアナ。


 ナディアは、庭師を悪人にしたわけではない。


 ただ、ヴェルシアナがもう怖い思いをしないよう、薔薇の棘を取り除かせた。


 読み書きの教師もそうだったのかもしれない。


 髪飾りを壊した少女も。


 一つ一つの始まりに、悪意があったようには見えない。


「……泣かせないことが、大切にすることだと思っていたのですね」


 口にすると、ナディアはわずかに息を止めた。


 責めるつもりではなかった。


 むしろ、今になってようやく、彼女の行動の一部が少しだけ分かったような気がした。


「はい」


 返事は小さかった。


「今でも、そう思います」


 そこで俺は顔を上げた。


 ナディアは微笑んでいた。


 けれど、その笑みにはどこか硬さがある。


「お嬢様は、まだ五歳でいらっしゃいます。領地の問題も、人の思惑も、貴族として背負わなければならないものも、これから嫌というほど知ることになるでしょう。でしたら今くらいは、もっと楽しいことだけを考えていてもよろしいのではありませんか」


 ようやく、彼女が今夜ここへ来た理由が見えた気がした。


「今日、村へ行ったから?」


「それだけではございません」


 ナディアの視線が、机の上の地図や帳面へ移る。


「最近のお嬢様は、何でもご自分で知ろうとなさいます。過去のことも、人の考えも、領地のことも。もちろん学ぶことは立派です。ですが、知らなくてもよい重さまで、わざわざご自身で抱えようとなさっているように見えるのです」


「知らなくてもよい重さ」


「はい」


 ナディアは少し身を乗り出した。


「お嬢様には、守ってくださる方が大勢いらっしゃいます。レオルディス様も、セレフィア様も、グレンも、わたくしも。すべてをご自分で確かめ、ご自分で背負われる必要などございません」


 声は優しい。


 だからこそ、俺の胸の奥に小さな違和感が残る。


 昔なら、この言葉はきっと気持ちよかった。


 難しいことを考えなくていい。


 怖いものは大人が遠ざけてくれる。


 間違っても誰かが直してくれる。


 五歳の子供にとって、それは確かに救いになることもある。


 俺だって、全部を自分でやりたいわけではない。父にも母にも頼るし、グレンにも教えてもらう。魔法ならヴィクトルに聞くし、刺繍ならリュネアにだって教えてもらう。


 問題は、頼ることではない。


「ナディア」


「はい」


「わたくしが『知りたい』と言っても?」


 彼女は口を閉じた。


「それでも、知らなくていいとナディアが決めるのですか?」


 ランプの炎が、わずかに揺れた。


 ナディアの頬に落ちていた影も、それに合わせて形を変える。


「……お嬢様がお辛い思いをなさると分かっていても、ですか?」


「それは、わたくしが決めることではありません?」


「五歳のお嬢様が?」


 初めて、彼女の声にわずかな強さが混じった。


 怒鳴ったわけではない。


 それでも、普段どんな時にも崩れない柔らかさの下から、別の感情が覗いた。


「五歳であることは分かっています」


「いいえ」


 ナディアは静かに首を振った。


「今のお嬢様は、ご自身が幼いことを忘れてしまわれる時がございます」


 予想していなかった言葉に、俺は黙った。


「大人の話を理解なさろうとして、領地の書類を読み、周囲の事情まで考えて。それができるからこそ、皆様もお嬢様へ多くのことをお話しになるのでしょう。ですが、できることと、背負ってよいことは同じではございません」


 その言葉には、一理ある。


 俺の中身が前世の大人だからといって、この身体は五歳だ。


 この世界について知っていることも少ない。


 父たちが俺へすべての責任を負わせているわけではないのも分かっている。


 だからこそ、簡単には反論できなかった。


「……では、どこまでなら知っていいのです?」


 俺は尋ねた。


「それを誰が決めます?」


 ナディアの唇が僅かに開き、しかし声は出なかった。


「お父様?」


 答えはない。


「お母様? ナディア?」


 俺はそこで一度言葉を切った。


「それとも、皆で話して決めます?」


 ナディアの顔に、ほんの少しだけ痛そうな色が浮かんだ。


 なぜそんな顔をするのか、まだ分からない。


「わたくしは、何でも一人で決めたいわけではありません」


 ゆっくり言葉を選ぶ。


「お父様に教えていただくこともありますし、お母様に止められれば考えます。ミレーヌの方が詳しいことだってあります。でも、最後までわたくしに何も聞かれないのは嫌です」


 今日、村で見たものを思い出した。


 相手のために道を空ける。


 相手のために先回りする。


 それが続けば、いつか本人が何を望んでいるのかを確かめる必要すらないと思ってしまうのかもしれない。


「守っていただけるのは嬉しいです」


 これは本心だった。


「でも、守られているから何も知らなくていいとは思いません」


 ナディアは俯かなかった。


 俺をまっすぐ見ている。


 その目が、少しずつ昔の柔らかな笑みから遠ざかっていく。


「……お嬢様は」


 彼女はそこで一度呼吸を整えた。


「わたくしが、お嬢様から何かを奪ってきたと思っていらっしゃいますか?」


 難しい質問だった。


 すぐに「はい」と言うことも、「いいえ」と言うこともできない。


 薔薇の棘。


 教師。


 使用人。


 俺が知らないところで変わっていった環境。


 その全部を考えても、ナディア一人に責任を押しつけるのは違う。


「分かりません」


 俺はそう答えた。


 ナディアの瞳が揺れた。


「だから、知りたいのです」


「……何をでしょう」


「ナディアが、どうしてそうしてきたのか」


 今夜すべてを聞き出すつもりはない。


 むしろ、今の俺には聞ける材料が足りない。


「わたくしのためだった、ということは分かりました」


 それを言うと、ナディアは僅かに安堵したように見えた。


 でも、その次の言葉を続ける。


「ただ、それだけでは分からないのです」


 何を守ろうとしていたのか。


 何から守ろうとしていたのか。


 なぜ「王太子妃になること」が俺の幸せだと、あれほど自然に信じられたのか。


 そして、なぜ俺が違う道を考えるたびに、彼女はこんなにも不安そうな顔をするのか。


 聞きたいことはいくらでもある。


 でも今夜、全部を一度に尋ねれば、きっと俺は答えを急ぐ。


 それは、村を一日見ただけで全部知った気になるのと同じだ。


「今日は、それを伝えたかっただけです」


 俺が言うと、ナディアは少し意外そうだった。


「もう、お尋ねにならないのですか?」


「聞きたいです。でも、今すぐ全部ではありません」


「なぜ?」


「急いで答えてもらったら、それが本当にナディアの答えなのか分からなくなりそうなので」


 自分で言いながら、随分面倒な五歳児になったものだと思う。


 しかしナディアは笑わなかった。


 しばらく俺を見つめたあと、ゆっくりと目を伏せた。


「……本当に、お変わりになりましたね」


 またその言葉だ。


 けれど今回は、どこか寂しそうだった。


「嫌ですか?」


 思わず尋ねる。


 ナディアの顔が上がる。


「何がでしょう」


「わたくしが変わったこと」


 ほんの一瞬、彼女の表情からすべての作法が消えたように見えた。


 困惑なのか、痛みなのか、それとももっと別のものなのか。


 すぐにいつもの柔らかな微笑みへ戻ったので、見間違いだったと言われれば自信はない。


「……いいえ」


 ナディアは答えた。


「お嬢様がお健やかで、幸せでいてくださるなら」


 それは、きっと嘘ではない。


 だからこそ俺は、続けて尋ねることができなかった。


 ――その幸せを、誰が決めるのですか。


 今ここで聞けば、さっきと同じ問いを形を変えて繰り返すだけになる。


 俺は黙って頷いた。


「今日はもう休みます」


「はい。長くお時間をいただいてしまい、申し訳ございません」


 ナディアが立ち上がる。


 扉へ向かう背中を見ながら、俺はふと思った。


「ナディア」


 呼び止めると、彼女が振り返った。


「昔のセレグラン領のお話、また聞かせてください」


 驚いた顔をしたのは、本当に一瞬だった。


「……よろしいのですか?」


「知りたいですから」


 俺が答えると、ナディアは今度こそ、少しだけ自然に笑った。


「はい。いつでも」


 扉が静かに閉じる。


 一人になった部屋には、夜の静けさが戻ってきた。


 俺はすぐには机へ戻らなかった。


 今の会話で何かが解決したわけではない。


 むしろ、分からないことはまた増えた。


 それでも、少なくとも一つだけ以前と違う。


 ナディアが俺を大切に思っていたということを、今夜は彼女自身の言葉で聞いた。


 それは免罪符にはならない。


 誰かを愛していれば、その人の代わりに人生を決めていいわけではないし、善意があれば結果を問われなくなるわけでもない。


 それでも、彼女の行動をただ「怪しい」で切り捨てることも、もうできなくなった。


 人を理解するというのは、もしかすると、味方か敵かを決めることとは正反対なのかもしれない。


 知れば知るほど、簡単な名前をつけにくくなる。


 俺は閉じたノートへ手を伸ばしかけて、やめた。


 今日はもう十分書いた。


 何でもその日のうちに言葉へ変えなくてもいい。


 少しくらい、答えのないまま眠ってもいいだろう。


 ◇


 翌日の午後、そんな重たい考えは、リュネアが持ってきた大きな布包みによって一旦どこかへ追いやられた。


「ヴェルシアナ様、見てください!」


 応接室へ入ってきた彼女は、挨拶を終えるなり目を輝かせている。


「何ですの、それ」


「まだ秘密です」


「今から見せるのに?」


「見せるまでは秘密です」


 理屈は分からないが、本人が楽しそうなので突っ込まないことにした。


 今日は母同士も一緒だが、少し離れたところでお茶を飲みながら話している。俺の隣にはミレーヌもいて、リュネアが机の上へ置いた包みを興味深そうに見ていた。


「では、開けますね」


 丁寧に結び目がほどかれる。


 中から出てきたのは、小さな布地が何枚も縫い合わされたものだった。


 最初は何なのか分からなかったが、広げられてようやく気づく。


「敷物?」


「はい!」


 小さなテーブルに使うくらいの大きさだ。


 淡い青、薄桃色、白、緑と、いくつもの布が組み合わされていて、それぞれの端に小さな刺繍が施されている。


 近づいて見ると、花や葉、鳥のようなものまであった。


「これ、全部リュネアが?」


「お母様と先生にも少し手伝っていただきました。でも、ここからここまではわたくしです」


 指差された範囲には、以前より明らかに細かい刺繍が並んでいる。


「上手になりましたね」


「本当ですか?」


「前よりずっと」


 褒めた途端、彼女の顔がぱっと明るくなった。


 分かりやすい。


 こういうところは素直に可愛いと思う。


「ミレーヌも見てください」


 リュネアが布をそちらへ向ける。


 ミレーヌは少し身を寄せ、刺繍を一つずつ眺めた。


「この白い花、綺麗ですね」


「そこは一番時間がかかったの」


「糸がほとんど揃っています」


「でしょう?」


 褒められたリュネアがますます嬉しそうになる。


 俺はそのやり取りを見ながら、昨日まで帳簿と倉庫の話で目を輝かせていたミレーヌを思い出した。


 同じ年頃の女の子でも、好きなものは随分違う。


 リュネアは布や花を見れば目を輝かせるし、ミレーヌは帳簿の数字を見ている時の方が明らかに楽しそうだ。


 俺はと言えば、刺繍より魔法や古い街道の方が面白い。


 それでいて、三人で同じテーブルを囲める。


「ヴェルシアナ様?」


 リュネアに呼ばれ、意識を戻す。


「ごめんなさい。少し考え事をしていました」


「何を?」


「二人は全然違うなと思って」


 リュネアとミレーヌが揃ってこちらを見る。


 言い方が悪かったかもしれない。


「嫌な意味ではありません。リュネアは刺繍が好きで、ミレーヌは数字や帳簿が好きでしょう?」


「ヴェルシアナ様は?」


「魔法と歴史ですかね」


「刺繍は?」


「聞かなくても分かるでしょう?」


 リュネアが吹き出した。


 ミレーヌまで口元を隠している。


「そこまで笑います?」


「ご、ごめんなさい。でもヴェルシアナ様が仰ったので」


「事実ですけれど」


 俺の刺繍技術については、もう無理に名誉を守る必要もない。


 ただ、不思議だった。


 以前の俺なら、友達とは共通の趣味や話題が多い方が自然だと思っていた気がする。


 今はむしろ、違うものを好きな人が近くにいる方が、自分一人では見ないものを持ってきてくれる。


 ミレーヌがいなければ、共同倉庫をあれほど詳しく見ようとは思わなかった。


 リュネアがいなければ、刺繍の一針にどれだけ時間がかかるのかも知らなかっただろう。


「そういえば、領地へ行かれたのでしょう?」


 リュネアが思い出したように尋ねる。


「お母様から聞きました」


「ええ。昨日です」


「どんなところでした?」


 答えようとして、少し迷う。


 以前なら「古い街道が残っていて」「倉庫があって」と順番に説明したと思う。


 でも、今は最初にそれが浮かばなかった。


「思っていたより、普通に人が暮らしている場所でした」


 リュネアが首を傾げる。


「普通?」


「変な言い方ですね」


 自分でもそう思う。


「地図で見ていた時は、村って場所としてしか考えていなかったのです。でも行ってみたら、畑で働いている人がいて、子供が歩いていて、壊れた柵を直す人がいて……当たり前なのですけれど、それが少し不思議でした」


「行ってみないと分からないものなのですね」


「行っても、全部は分かりませんでしたけど」


 俺がそう付け加えると、リュネアはしばらく考えた。


「わたくし、領地へ行ったことがありません」


「フィオルネ領へ?」


「はい。王都の近くのお屋敷には行きますけれど、もっと遠いところはまだ」


 伯爵令嬢だからといって、当然すべてを見ているわけではないらしい。


「行ってみたいです?」


「少し」


 リュネアはそう答えたあと、刺繍の敷物へ目を落とした。


「でも、何を見ればいいのか分かりません」


 昨日までの俺と似ている。


「分からないまま行ってもいいと思いますよ」


 口にしたあと、少しだけ笑う。


「わたくしも、結局分からないことを増やして帰ってきましたから」


「それでも行ってよかった?」


「はい」


 今度は迷わなかった。


 リュネアは何か考えているようだったが、やがて小さく頷いた。


「では、お父様に聞いてみます」


「行けるといいですね」


「はい」


 それだけの会話だった。


 俺が領地について何か教えたわけでもないし、リュネアの家のことへ口を出したわけでもない。


 ただ、彼女が自分で興味を持った。


 それで十分なのだと思う。


 昨夜ナディアと話したばかりだからか、そのことが妙に心へ残った。


 誰かを大切にするなら、その人が向かう場所を先に決めるのではなく、こうして本人の「行ってみたい」を待つ方がいいのかもしれない。


 もちろん、それだけで全部上手くいくほど簡単でもないのだろうけれど。


 ◇


 リュネアが帰る頃、彼女は持ってきた敷物を置いていった。


「完成したら、ヴェルシアナ様のお部屋で使っていただきたかったのです」


「わたくしに?」


「はい。前に押し花を一緒に作ったでしょう? あの時みたいに、違うものを一つにしたかったので」


 改めて布を見る。


 色も柄も揃っていない。


 それなのに、全体として見ると不思議とまとまっている。


「ありがとうございます。大切にします」


 俺が答えると、リュネアは満足そうに笑った。


 玄関まで見送り、馬車が門の向こうへ消えてから部屋へ戻る。


 ミレーヌが敷物を机の上へ広げていた。


「ここでよろしいですか?」


「ええ」


 淡い色の布が、いつも地図や本ばかり置いている机に少し似合わない。


 でも、悪くなかった。


「リュネアは、本当に器用ですね」


「はい」


「ミレーヌも数字のことを話している時は、同じくらい楽しそうですけれど」


「……またそれを仰るのですか?」


「事実ですから」


 少し困ったように笑う顔を見て、俺も笑った。


 リュネアもミレーヌも、俺とは違う。


 だからといって、自分と同じものを好きになってほしいとは思わない。


 むしろ、それぞれが自分の好きなものを見つけていく姿を見ている方が楽しい。


 昨夜、ナディアが言ったことが再び頭をよぎる。


 大切だったから、泣かせたくなかった。


 その気持ちそのものは、少し分かる気がする。


 俺だって、ミレーヌやリュネアが傷つくより、笑っている方がいい。


 できるなら嫌な思いなどしてほしくない。


 でも、もしリュネアが刺繍で何度も失敗したからといって、俺が「もう刺繍なんてしなくていい」と道具を取り上げたら、きっと彼女は悲しむだろう。


 ミレーヌが難しい帳簿を読んで悩んでいるからといって、「考えなくていい」と本を閉じたら、今の彼女の楽しそうな顔は消える。


 守りたいと思うことと、何も経験させないことは、やはり同じではない。


 その違いは、理屈だけなら簡単に見える。


 けれど、相手が本当に大切になればなるほど、見分けるのは難しくなるのかもしれない。


 俺は机の上の敷物へ指先で触れた。


 違う色の布は、無理に同じ色へ染められていない。


 形も少しずつ違うまま、一つのものとして縫い合わされている。


 たまたまなのだろう。


 リュネアがそこまで考えて作ったとも思わない。


 それでも今の俺には、その不揃いさが妙に綺麗に見えた。


 大切な人と同じである必要はない。


 自分が望む形へ整える必要もない。


 ただ、違うまま隣にいられるなら、それでいいこともある。


 俺はまだ、それをナディアにどう伝えればいいのか分からない。


 彼女自身が、なぜあれほど俺の未来を一つの形へ寄せようとするのかも知らない。


 けれど昨夜までより、少しだけ知りたい理由が変わった気がした。


 破滅を避けるために、怪しい人物の意図を突き止めたいからではない。


 俺を大切だと言った人が、どうしてあのやり方を選んだのか。


 今は、それを知りたかった。


 答えを急げば、また見えるものだけで人を決めてしまう。


 だからもう少しだけ、彼女の話を聞いてみようと思う。


 机の上では、青や白や薄桃色の布が、夕方の柔らかな光を受けていた。


 どれか一つだけなら、きっと今ほど綺麗には見えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。