第28話 あなたは、何も背負わなくていい
ナディアが自分の領地について話してくれたのは、それから二日後の午後だった。
きっかけは、俺の方から作った。
昼食を終えたあと、以前のように彼女が俺の予定を確認しに来たところで、「少し時間がありますか」と声をかけたのだ。
ナディアは驚いた様子をほとんど見せなかったが、返事をするまでにほんの僅かな間があった。
「もちろんでございます。何かございましたか?」
「この間のお話の続きを聞きたいのです。ナディアが子供の頃の、セレグラン領のこと」
俺がそう言うと、彼女の表情が静かにほどけた。
「覚えていてくださったのですね」
「わたくしから聞かせてほしいと言ったのですから、忘れません」
庭に面した小さな談話室へ移る。
窓の外では、夏の名残を含んだ風が木々を揺らしていた。陽射しにはまだ明るさが残っているものの、少し前までの刺すような強さはなく、磨かれた床へ落ちる光にもどこか柔らかさが混じっている。
侍女がお茶を置いて退出すると、部屋には俺とナディアだけが残った。
「どこからお話しいたしましょうか」
「ナディアが覚えているところからでいいです」
「それでは、あまり面白いお話にはならないかもしれません」
「面白くなくても聞きたいです」
俺が答えると、ナディアは一度だけ目を伏せた。
それから、記憶の奥に指を差し入れるように、ゆっくりと昔を辿り始めた。
「セレグラン領は、アルセリード領ほど広くありません。土地も豊かとは言えず、特に北側は雨の量によって収穫が大きく変わります。わたくしが幼い頃にも、何度か冬を越すための食料を心配した年がございました」
「男爵家でも?」
「ええ。もちろん領民の方々ほど困窮していたわけではございませんが、家の収入そのものが領地と繋がっていますから」
ナディアはカップへ手を添えたまま、少し遠くを見るような目をした。
「秋になると、父や家令が毎日のように帳簿を広げておりました。兄もある程度の年齢になると同席していましたが、わたくしは子供だからと別室へ下がらされていました」
「見たかったのですか?」
「……当時は」
彼女は少し笑った。
「見たいというより、自分だけ知らされないことが嫌だったのだと思います」
その言葉に、俺の意識が引っかかった。
ナディア自身も、知らされない側だった。
「聞かなかったのです?」
「聞きましたよ。何度も」
「何と?」
「『お前が心配することではない』と」
思わず黙ってしまった。
ナディアは俺の反応に気づいたのか、わずかに苦笑した。
「少し似ていますね」
「……ナディアから言うのですか、それ」
「ですから、今になれば皮肉だと思います」
その返しが思っていたより素直で、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
ナディアは何でも自分の正しさへ結びつける人ではない。少なくとも今は、自分の中に矛盾があることくらい分かっているらしい。
「でも、嫌だったのなら、どうしてわたくしには『知らなくていい』と言うのです?」
尋ねると、彼女はすぐには答えなかった。
庭から差し込んだ光が、テーブルの上に置かれた銀の匙を細く照らしている。
「……知らなければよかったと思ったこともあったからです」
「何を?」
「父が困っていた理由を、です」
声が少し低くなった。
「ある年、領内の一部で収穫が落ちました。父は税を軽くしようとしましたが、そうすれば屋敷の支出を削らなければならない。修繕を延期すれば、今度は別の場所が困る。王都で必要な付き合いを減らせば、家の立場が弱くなる。子供だったわたくしには、その全てがひどく不公平に思えました」
俺は黙って聞いた。
「食べ物が足りない人がいるなら、分ければいい。困っているなら助ければいい。最初はそう思っていました」
少し前の俺と同じだ。
父へ税を減らしたらどうかと聞いた時、自分もまさにそう考えていた。
「けれど、分ければ別の場所が足りなくなります。助ければ、それを当然だと思う者も出てきます。父は何度も判断を変え、何度も誰かに不満を言われていました。正しいことをしているように見えた日にも、別の誰かから責められていた」
「嫌になったのですか?」
「怖くなったのだと思います」
ナディアは、自分でも形の曖昧な記憶を確かめるように言葉を選んでいた。
「大人になれば、こういうものを全部背負わなければならないのかと。誰かを助けても恨まれ、何もしなければもっと恨まれる。どちらを選んでも、必ず誰かが傷つく。その時のわたくしには、大人になること自体が損な役目のように見えました」
窓の外で葉が擦れ合い、乾いた音を立てた。
俺は、自分があの村で見たものを思い出していた。
怪我をした少年。
先に謝った母親。
税を減らせば別の地域へ負担が移るという父の話。
ナディアが子供の頃に見ていたものも、形は違っていても、同じように簡単な答えを拒むものだったのだろう。
「それでも、ナディアは知ったのですね」
「はい」
「知ってよかったとは思わない?」
その問いに、彼女は少しだけ視線を落とした。
「今なら、必要だったと思います。けれど当時の自分へ戻れるなら、もう少し何も知らないままでいさせてあげたいと思うかもしれません」
俺はしばらく黙った。
ようやく、少し見えた気がした。
ナディアが俺へ「知らなくていい」と言うのは、単に子供扱いしているからではない。
自分が知って傷ついたものを、俺にはなるべく遅くまで見せたくない。
その発想自体は理解できる。
理解できるからこそ、やはり同意はできなかった。
「でも、それはナディアがそう思うだけです」
「はい」
今回は、彼女も否定しなかった。
「わたくしが知ったあとに、同じように思うとは限りません」
「……はい」
「それに、知らないまま大人になったら、もっと困るかもしれません」
ナディアの目が俺へ戻ってくる。
「お父様は、わたくしに今すぐ全部背負わせようとしているわけではありません。間違えてもいいと言ってくださいますし、分からないなら分からないと言っていいとも仰います」
「レオルディス様らしいお考えです」
「ナディアは違います?」
問い返すと、彼女は少し考えた。
「わたくしは……できるなら、お嬢様には間違える必要のない道を歩いていただきたいと思っています」
それは、いかにもナディアらしい答えだった。
「そんな道、あります?」
俺が尋ねると、彼女は珍しく困ったような顔をした。
「難しいことを仰いますね」
「……それをわたくしに仰います?」
思わずそう返すと、ナディアの口元に小さな笑いが浮かんだ。
それは人に見せるために整えた笑みではなく、ふと気が緩んだ時にだけ覗く、柔らかな表情だった。
「お嬢様とお話ししておりますと、時折、お年を忘れてしまいますので」
こっちは中身が大人だから仕方ない。
そう言えるはずもないので、お茶を飲んで誤魔化した。
「間違えない道があるなら、わたくしも知りたいです。でも、多分ありませんよね」
「……そうですね」
「だったら、間違えた時に戻れる方がいいです」
父から教わったことを、そのまま繰り返しているようにも思える。
それでも今は、借り物の言葉ではない気がした。
領地へ行き、人の反応を見て、自分の知らなさを知ったあとだからこそ、その意味が少し分かる。
「ナディアも、間違えました?」
そう聞くと、彼女の表情から笑みが薄れた。
「わたくしが?」
「以前のわたくしに対して」
しばらく、部屋の中に言葉がなくなった。
失礼な問いなのは分かっている。
でも、今なら聞けると思った。
「分かりません」
返ってきたのは、意外な答えだった。
少し前なら、「お嬢様のために最善を尽くしました」と言ったかもしれない。
今のナディアは、そう言わなかった。
「正しかったと思っていたことは、たくさんございます」
彼女の指先が、カップの縁を静かになぞる。
「お嬢様が泣かずに済んだ時、安心いたしました。嫌なことから離れて笑ってくださった時には、これでよかったと思いました。幼いお嬢様がわたくしの手を握り、『ナディアがいてくれてよかった』と仰ってくださったこともございます」
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
俺にはその記憶がない。
当然だ。
その言葉を言ったのは、俺ではない。
以前のヴェルシアナだ。
「……そんなことを言っていたのですね」
「はい」
ナディアの顔に、記憶の中にしかいない子供を慈しむような、深い柔らかさが宿った。
「雷の音がお嫌いだった頃、夜中に泣いて起きられたことがございました。侍女が呼びに来て、わたくしがお部屋へ伺うと、お嬢様は布団の中から手だけを伸ばして……」
そこで彼女は微かに笑った。
「『ナディアがいれば平気』と」
聞いている俺には、その場面を思い出すことができない。
けれど、不思議なくらい映像が浮かんだ。
銀色の髪を寝乱れさせた小さな子供が、雷鳴のたびに布団の中で身を縮め、それでも信頼する誰かが来たと分かれば、暗がりから細い腕だけを伸ばす。
その手を取った人が、自分を必要としてくれた子供を守りたいと思う。
それ自体は、何もおかしくない。
「嬉しかったですか?」
「ええ」
答える声には迷いがなかった。
「とても」
その一言が、妙に重く残った。
俺はこれまで、ナディアの言葉を警戒してきた。
優しい言葉ほど疑ってかかろうと、そう決めたことさえある。
実際、それは必要だったと思う。
けれど、優しい言葉のすべてが偽物だったわけではない。
むしろ本物だったからこそ、ややこしい。
ナディアは、幼いヴェルシアナから必要とされることが嬉しかった。
頼られることが、きっと幸福だった。
そして、守れば守るほどヴェルシアナは彼女を頼った。
誰か一人が悪意を持って作った関係ではないのだろう。互いに与えたものが少しずつ積み重なり、いつの間にか、どちらかが形を変えようとすれば痛みを伴うほど深く絡み合っていたのかもしれない。
「ナディア」
「はい」
「わたくしが、自分でできることが増えるのは寂しいですか?」
その問いは、考えるより先に口から出た。
ナディアの表情が止まる。
聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
けれど取り消す気にはならなかった。
長い沈黙のあと、ナディアは窓の方へ目を向けた。
「……少しだけ」
驚いた。
否定されると思っていた。
「少しだけ、寂しいです」
彼女はもう一度繰り返した。
「以前のお嬢様は、何かあればすぐにわたくしを呼んでくださいました。どうすればよいか分からない時も、嫌なことがあった時も、嬉しいことがあった時も。最近は、お一人で考えられたり、ミレーヌへ相談されたり、レオルディス様のお部屋へ足を運ばれたりすることが増えました」
責めるような口調ではなかった。
むしろ、自分でも口にするべきか迷っていた感情を、ようやく認めたように聞こえた。
「それが悪いことだとは思っておりません」
「でも寂しい?」
「はい」
ナディアは微笑んだ。
「大人げないでしょう?」
「別に」
俺は首を振った。
「わたくしだって、ミレーヌやリュネアが急にわたくしと話さなくなったら寂しいと思います」
「それとは少し違います」
「全部同じではないでしょうけれど」
感情があること自体は、責めるようなことではない。
問題は、その感情を理由に相手の自由を狭めることなのだと思う。
俺はそこまで口にはしなかった。
今それを言えば、ナディアがようやく言葉にした寂しさへ、正論を突きつけるだけになってしまう気がしたからだ。
「でも、ナディア」
「はい」
「わたくしが自分で考えられるようになっても、ナディアに話したくないわけではありません」
彼女の瞳が僅かに見開かれた。
「この間も言いましたけれど、昔のお話は聞きたいです。それに、分からないことがあれば聞くかもしれません。ただ……」
どう伝えるか考える。
「答えを先に決めないでほしいです」
ナディアは何も言わなかった。
「わたくしが聞いた時、ナディアが知っていることを教えてください。でも、わたくしがそのあと何を選ぶかまで、同じでなくていいと思ってほしい」
言い終えると、自分でも随分注文が多いと思った。
けれどナディアは笑わなかった。
代わりに、ほんの少しだけ目を伏せる。
「……努力いたします」
「約束ではないのですね」
「できると断言して、できなければ、それこそお嬢様に叱られてしまいますから」
以前のナディアなら、きっと「もちろんでございます」と即答した。
今の「努力いたします」の方が、俺には少しだけ信用できた。
「では、それで」
俺が頷くと、ナディアも静かに頭を下げた。
その日の会話は、そこで終わった。
◇
ナディアが退出したあと、俺はしばらく談話室に残っていた。
窓の外は少しずつ色を変え始め、明るかった庭に長い影が伸びている。
今日聞いた話を、すぐにノートへ書き留める気にはならなかった。
代わりに、頭の中で一つずつ確かめる。
セレグラン領は豊かではなかった。
ナディアも幼い頃、家の事情から遠ざけられていた。
知りたいのに、「心配しなくていい」と言われていた。
やがて知ったことで、苦しさも覚えた。
そして幼いヴェルシアナは、そんなナディアを頼った。
雷の日には手を伸ばし、「ナディアがいれば平気」と言った。
もしかすると、ナディアが俺を守りすぎるようになった理由は、一つではないのかもしれない。
自分が苦しんだから、俺には苦しんでほしくなかった。
幼いヴェルシアナが彼女を頼ったから、頼られることが嬉しかった。
その二つだけですら、綺麗には分けられない。
さらに兄であるセレグラン男爵の思惑もある。
王家との縁談を望む気持ちもある。
ナディア自身が信じている幸福の形もある。
そして、俺への愛情も本物らしい。
どれか一つを選べば説明できる人物ではない。
それを面倒だと思う一方で、少し安心している自分もいた。
人間というものが、本当に一つの理由だけで動く生き物なら、前世の俺はもっと人付き合いが上手かったはずだ。
机の上には、リュネアからもらった敷物が置かれている。
色の違う布が、一枚の形に縫い合わされていた。
ナディアもきっと同じなのだろう。
優しさだけでもなければ、打算だけでもない。過去も、家も、恐れも、愛情も、自分でもまだ言葉にできていない願いも、それぞれ違う色のまま重なって一人の人間になっている。
俺はまだ、その中のいくつかを見ただけだ。
◇
数日後、父の書斎へ行くと、見慣れない封筒が机の端に置かれていた。
父は俺が入ってきたことを確認すると、書類から目を上げる。
「ちょうどよかった」
「何です?」
「お前に関係するものだ」
嫌な予感がした。
最近、この言葉から始まる話は大抵簡単ではない。
「王宮から?」
「違う」
父は封筒を指先で押し、俺の方へ滑らせた。
封蝋には、見覚えのない紋章が刻まれている。
ただ、その下に記された家名を読んだところで、伸ばしかけた手が止まった。
セレグラン。
「……ナディアのお兄様から?」
「そうだ」
「わたくし宛て?」
「形式上は私宛てだ。だが内容の大半は、お前について書かれている」
父の声には喜びも怒りもなかった。
だから余計に読みづらい。
「読んでも?」
「そのために見せている」
封筒から手紙を取り出す。
文章は丁寧だった。
先日の領地訪問についての挨拶。
ナディアが長くアルセリード家へ仕えていることへの感謝。
俺の成長を喜ばしく思っているという言葉。
そこまでは、何もおかしくない。
問題は、その先だった。
『ヴェルシアナ様が、幼くして領民の暮らしへお心を向けておられると伺い、誠に頼もしく感じております。いずれ王国を支えるお立場へ進まれた折には、その慈愛と聡明さが多くの民を照らすことと存じます。』
俺の指が止まる。
「……また、この書き方ですね」
「そうだな」
父の返事を聞きながら、さらに先へ目を落とす。
『妹ナディアもまた、幼き頃よりヴェルシアナ様のおそばに侍り、その御成長を見守ることを何よりの喜びとしてまいりました。今後も微力ながら、尊き御方が相応しき道を歩まれる一助となれましたなら、セレグラン家にとりましてこれ以上の誉れはございません。』
読み終えたあと、すぐには紙から目を上げなかった。
美しく整えられた文章だった。
こちらへ命じているわけではないし、王太子妃という言葉さえ一度も使っていない。それでも、以前の手紙と重ねれば、どの未来を「相応しき道」と呼んでいるのかは容易に想像できた。
「以前の手紙と、かなり似ていますね」
「似ている」
前にも、男爵は俺がいずれ王太子の隣へ立つことを期待するような言葉を寄越していた。
あの時点で、俺と王家との縁が深まれば、俺のそばに長くいるナディアを通じてセレグラン家にも利益が及ぶ可能性があることは父と話している。
だから今回の手紙を読んで、初めて何かに気づいたわけではなかった。
むしろ、ぼんやりしていた輪郭へ、もう一本はっきりした線が加わったような感覚に近い。
「……やはり男爵は、わたくしが王太子妃になることで、セレグラン家の立場も上がると考えているのでしょうね」
「その可能性は高い」
父は否定しなかった。
「前の手紙だけなら、家同士の縁を喜んでいるとも読めました。でも、今回はナディアのことまで、わざわざ一緒に書いている」
俺はもう一度、手紙の一節へ視線を落とした。
『尊き御方が相応しき道を歩まれる一助となれましたなら』
丁寧な言葉ほど、その内側にある願いを柔らかな布で包んでしまうことがある。
表面だけを撫でれば滑らかでも、何を包んでいるのかまで消えるわけではない。
「ナディアがわたくしのそばに居続けることまで含めて、男爵にとっては価値がある」
「そう見るのが自然だろう」
「でも、それだけなら以前から分かっていたことです」
俺は手紙を机へ戻した。
「気になるのは、男爵がどこまで『期待しているだけ』なのかです」
父の目が僅かに細くなる。
「続けろ」
「わたくしが王太子妃になれば家にとって有利だと思うこと自体は、貴族ならそれほど不思議ではありません。でも、そのためにナディアを使って、わたくしの考えを望む方向へ動かそうとしているのなら話は別です」
「そうだ」
「逆に、ナディアは自分の考えでわたくしの将来を望んでいて、男爵はそこへ家としての期待を重ねているだけかもしれない」
「それもあり得る」
「だから、兄妹を一つにはできない」
今度は、父に言われる前に自分で口にした。
男爵には男爵の都合がある。
ナディアにはナディアの願いがある。
二人の望みが同じ方向を向いているように見えても、そこへ至る理由まで同じとは限らない。片方の思惑を見つけたからといって、そのままもう片方の心まで説明したことにはならないのだ。
それを確かめずに「セレグラン家はこう考えている」と一括りにしてしまえば、俺はまた、見えているものだけで人を決めることになる。
「お父様は、どうなさるのです?」
「男爵へ返書を出す。お前の将来を、家同士の既定事項のように扱うつもりはないと伝える」
「それだけ?」
「今はな」
父は手紙へ視線を落とした。
「期待しているだけの人間を罰することはできん。だが、期待を理由に他人の選択へ手を入れ始めたなら、その時は別だ」
その線引きは、思っていたより静かだった。
相手が何を望むかまで奪わない。
けれど、その望みがこちらの人生を動かし始めたところで止める。
以前の俺なら、もっと早く敵か味方かを決めたがったかもしれない。
今は、分からないものを分からないまま置いておくことにも、少しずつ慣れてきた。
「ナディアには?」
「まだ話していない」
「どうして?」
「まずお前に見せたかった」
今度は俺が少し驚いた。
「わたくしに?」
「お前の将来について書かれている。お前だけ知らないまま、周囲の大人だけで処理するのは違うと思った」
胸の奥に、静かな温かさが広がった。
あまりにも、さっきまでナディアと話していたことと重なっていた。
知らなくていい。
心配しなくていい。
大人が処理する。
父がそう決めても、誰も責めなかっただろう。
俺は五歳なのだから。
それでも父は、俺へ見せた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うほどのことではない」
「わたくしには、あります」
父は何も返さなかった。
ただ、ほんの僅かに視線が柔らかくなった気がした。
◇
書斎を出たあとも、手紙の文面が頭に残っていた。
尊き御方。
相応しき道。
王国を支える立場。
どれも俺を褒めるために選ばれた言葉なのに、読んでいるうちに自分の輪郭だけが薄くなっていくような、不思議な息苦しさがあった。
そこに書かれているのは、ヴェルシアナ・アルセリードという一人の子供ではない。
公爵家の娘であり、王太子妃になるかもしれない少女であり、いずれセレグラン家へ利益をもたらすかもしれない存在として形を整えられた「ヴェルシアナ」だった。
男爵に悪意があるとは限らない。
むしろ本人なりに俺の将来を喜び、それが自分の家にとっても良い未来へ繋がればと期待しているだけなのかもしれない。
ただ、期待には境目がある。
胸の中で願うところまでなら、その人の自由だ。
けれど、その願いのために他人の進む道へ手を伸ばした瞬間、話は変わる。
そして今の俺には、男爵がその境目のどちら側に立っているのか、まだ分からない。
ナディアについても同じだった。
彼女は俺に何も背負ってほしくないように見える。
できるなら間違えない道を歩かせたいと言う。
その一方で、王太子妃という、おそらくこの国で最も重い立場の一つを「相応しい」と考えている。
一見すると矛盾している。
けれど、今日聞いた彼女の過去を思い返すと、その二つの間にはまだ俺が見つけていない橋が架かっているように思えた。
ナディアにとって、高い立場へ行くことは「重いものを背負う」こととは別の意味を持っているのかもしれない。
誰にも奪われないこと。
誰かの判断に従わなくていいこと。
守られる側ではなく、簡単には傷つけられない側へ行くこと。
そこまで考えて、俺は自分で思考を止めた。
まだ本人から聞いていない。
推測を重ねすぎれば、せっかく慎重になったつもりでも、結局は自分の中でナディアの答えを作ることになる。
廊下の窓から差し込む午後の光の中で、俺はしばらく足を止めた。
その時、胸の奥に別の感情があることにも気づいた。
少しだけ、怖かった。
ナディアの望みを最後まで聞いたあと、それでも俺がその未来を選びたくないと思ったら。
もし、俺を本当に大切にしてくれた人の願いを、自分の口で拒まなければならなくなったら。
俺はその時、ちゃんと言えるのだろうか。
誰かのために人生を選ばない。
それは、まだ相手の顔が見えていない時には簡単な言葉だった。
けれど、その「誰か」が自分を愛してくれた人であればあるほど、同じ言葉は柔らかさを失い、その人との間に置かなければならない一本の線になる。
窓の外では、庭師が咲き終えかけた花を一つずつ摘み取っていた。
まだわずかに色を残した花も、次の蕾へ養分を渡すために切られていく。残しておくことだけが大切にする方法ではなく、ときには手を離すことが、次に咲くものを守ることにもなる。
そこまで考えてから、自分でも少し都合のいい見方かもしれないと思った。
人と花は違う。
まして庭に咲くものが、ナディアとの関係に答えを教えてくれるわけでもない。
それでも、陽を受けた鋏が枝先で一度だけ光るのを、俺はしばらく眺めていた。
まだ答えを出すには早い。
ただ、いつかは聞かなければならない。
ナディアが俺に、いったい何になってほしいのか。
そして、その未来を望んでいるのは、本当に俺なのかを。




