第26話 見えたものより、見えなかったものの方が多い
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9/22以降は平日12時投稿、祝日は1日3話投稿を予定しております。
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屋敷へ戻ったのは、空が夕方の色へ傾き始めた頃だった。
長い移動のあとで馬車を降りると、見慣れた石畳の硬さや、きちんと整えられた植え込みの形まで、朝とは少し違って見える。村で見た土の道や、使い込まれた共同倉庫、古い井戸のまわりに生えた草のことを覚えているせいか、屋敷の庭にあるものが急に「自然にそこにあるもの」ではなく、誰かが手を入れ続けた結果として目に入ってきた。
玄関では母が待っていた。
「お帰りなさい。疲れたでしょう?」
「少しだけ。でも、思っていたより元気です」
「その言い方をする時は、たいてい疲れているのよ」
そう言われてしまうと反論しにくい。
母は俺の服の裾へ視線を落とし、土が少し付いているのを確認すると、なぜか満足そうに笑った。
「ちゃんと歩いたのね」
「見に行ったのですから、馬車の中にいるだけでは意味がありませんもの」
「ええ。そうね」
それ以上詳しく聞こうとはしなかった。
父から話を聞くつもりなのかもしれないし、俺が落ち着いてから自分で話すのを待っているのかもしれない。
その距離の取り方が、最近の母らしかった。
以前なら、俺が何を見て、困らなかったか、誰かに失礼なことを言われなかったかまで一息に確認された可能性もある。
今はまず、帰ってきたことだけを喜んでくれる。
「お嬢様」
隣でミレーヌが小さく息を吐いた。
彼女もさすがに疲れたらしい。
「今日はもう帳面を開かなくていいですよ」
「まだ何も言っていません」
「顔に書いてあります」
「お嬢様も、帰ったら地図を見直されるつもりだったのでは?」
図星だった。
俺が黙ると、ミレーヌの口元が少しだけ緩んだ。
「……では、お互い夕食までは休みましょう」
「賛成です」
そう答えたものの、結局自室へ戻って着替えを済ませた頃には、今日のことを頭の中で整理し始めていた。
◇
村へ行く前、俺は何を知りたかったのだろう。
古い街道がどこまで残っているのか。
昔の宿場町だった場所が、今どうなっているのか。
地図や報告書では分からない「実際の領地」を、自分の目で見てみたい。
そこまでは覚えている。
そして実際に、いくつかは見た。
昔の街道は、今ではただの農道として村の中に残っていた。
宿場町だった名残は、建物そのものではなく井戸の位置や土地の区切り方に残っていた。
共同倉庫には、報告書の数字だけでは想像できなかった量の穀物が積まれていた。
村の帳簿がどう作られ、どこで推定が混ざるのかも少し知った。
それでも、帰ってきた今になって思う。
あれだけ見てきたはずなのに、それで村が分かったかと言われれば、とても頷けない。むしろ現地へ行ったことで、自分が知らなかったものの輪郭だけが、行く前よりはっきり見えるようになった気がした。
俺が話した老人は、柵を直す途中だった。
けれど、その柵が何を囲っているものなのかは知らない。
怪我をした少年が運んでいた果物も、どこへ持っていく途中だったのか分からない。
共同倉庫の穀物が、冬までどんな順番で使われるのかも詳しくは聞けなかった。
村人同士が普段どんな関係なのか、困った時には誰へ相談し、祭りの日にはどんなふうに過ごすのか。今年の収穫を、実際にそこで暮らしている人たちがどれくらい不安に思っているのかも、俺は知らないままだ。
そこまで考えて、机の上に置いていた紙へ視線を落とした。
出発前に書いた「見たいもの」の一覧だ。
旧街道。
村。
倉庫。
水路。
畑。
改めて見ると、並んでいるのは場所や物ばかりだった。
人の暮らしを知りたいと言いながら、俺が準備していたのは、形のあるものを確認するための項目がほとんどだったらしい。
もちろん、それが悪いわけではない。
ただ今は、その紙へ書き足したいものが随分増えていた。
「……一日では足りませんね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
すると、ちょうど扉を叩く音がした。
「どうぞ」
入ってきたのはミレーヌだった。
休むと言っていたはずなのに、手にはしっかり帳面を持っている。
「ミレーヌ」
「はい」
「約束を破りましたね」
「お嬢様も紙を広げています」
完全にお互い様だった。
「……そこに座ってください」
「はい」
ミレーヌは素直に向かいの椅子へ座り、帳面を開いた。
「何を書いていたのです?」
「今日、分からなかったことです」
「やっぱり」
俺は自分の紙を彼女の方へ向けた。
「わたくしもです」
ミレーヌがそれを見て、少し意外そうに目を動かした。
「増えていますね」
「行く前より、ずっと」
彼女の帳面も見せてもらう。
そこには、出発前の質問とは違う項目が増えていた。
『各家の備蓄は、誰がどのように確かめるのか』
『共同倉庫に入れる分と各家に残す分は、誰が決めるのか』
『傷んだ穀物はどうするのか』
『書けない人の分は誰が記録するのか』
『報告に書かれないことは何か』
最後の一行で、俺は手を止めた。
「これ、どういう意味です?」
「今日、倉庫を見て思いました」
ミレーヌは少し考えながら言葉を続ける。
「報告書には、袋がいくつあるかは書けます。でも、倉庫の匂いや、古い袋と新しい袋を分ける手間は書かれていませんでした。だったら、ほかにも書かれていないことがたくさんあるのではないかと思って」
俺はしばらくその文字を見た。
「報告に書かれないこと、ですか」
「はい。全部書いていたら、きっと報告書がものすごく長くなりますから」
「それはそうでしょうね」
父の机へ毎日何百枚もの生活記録が届く姿を想像すると、それだけで仕事が破綻しそうだ。
だからこそ、情報は選ばれる。
必要なものだけをまとめる。
そして何かを選ぶということは、同時に、そこへ載らないものも生まれるということなのだろう。
「ナディアの報告と似ていますね」
口にしてから、少しだけ驚いた。
ミレーヌもすぐには答えなかった。
「……そうかもしれません」
彼女の声は慎重だった。
「でも、ナディア様のお話と村の報告書は、同じではないと思います」
「ええ。わたくしもそう思います」
そこは分けないといけない。
何でも一つの教訓へまとめればいいわけではない。
それでも、誰かが何かを伝える時には、見たもののすべてを、そのまま別の人間へ渡すことはできない。
だから、何が書かれているかだけでなく、そこから何が抜け落ちているのかまで考える必要がある。
そういう意味では、少し繋がっている。
「今日、村へ行ってよかったですか?」
ミレーヌが不意に尋ねた。
俺は自分の紙へ目を落としながら、少しだけ考える。
「よかったです」
答えそのものには、ほとんど迷わなかった。
「でも、行く前に想像していた『よかった』とは少し違います」
「どう違うのです?」
「もっと、分かった気になると思っていました」
正直に言う。
「地図だけでは分からないから現地へ行けば、何か答えが見つかると思っていたのかもしれません。でも実際には、見たことで分からないことが増えました」
ミレーヌは俺の言葉を聞きながら、ゆっくり頷いた。
「わたしもです」
「少し悔しくありません?」
「いいえ」
返事は迷いなく返ってきた。
「どうしてです?」
「また知りたいと思えるからです」
その答えに、俺は少しだけ目を瞬いた。
ミレーヌは帳面へ視線を落としながら続ける。
「全部分かってしまったら、次に見るものがなくなるでしょう?」
俺よりずっと前向きな答えだった。
「……なるほど」
「お嬢様は違いますか?」
「いえ。多分、似ています」
分からないことが増えた。
それでも、その増えた疑問を不安より面白いと思えている。
それなら今日の訪問は、十分意味があったのかもしれない。
◇
夕食の席では、父がいつもより少し遅れて現れた。
村から戻ったあとも、代官やグレンから受け取った資料を確認していたらしい。
席につくなり、母が尋ねる。
「今日はどうだった?」
父ではなく、俺に向けられた質問だった。
「面白かったです。それと、思っていたより疲れました」
「あら、今日は最初から認めるのね」
「馬車を降りたあとまで隠す意味もありませんもの」
母が楽しそうに笑う。
「それで、何が一番印象に残ったの?」
俺は少し考えた。
旧街道。
倉庫。
老人の話。
怪我をした少年。
どれも残っている。
けれど一つだけ選ぶなら、やはりこれだった。
「村の方々が、わたくしを見ていたことです」
母の表情が少し変わった。
父もこちらを見る。
「道や倉庫を見に行ったつもりだったのですけれど、向こうからすれば、わたくしの方が珍しいものだったのですよね」
言葉にしてみると、少し可笑しい。
「怪我をした子がいた時も、お母様らしき方は、その子より先にわたくしへ謝りました。道を塞いだから、と」
母の眉が僅かに寄る。
「……そう」
「責めたいわけではありません」
俺はすぐに続けた。
「多分、あの方にとっては、それが正しいと思えたのでしょうし。むしろ、そう思わせるだけの立場なのだと初めて分かった気がします」
父が静かに口を開いた。
「分かったつもりになっていないか」
以前なら、少し意地悪な問いに聞こえたかもしれない。
けれど今日は、何を確認されているのかが少し分かる。
「なっているかもしれません」
俺は素直に答えた。
父の目が僅かに細くなる。
「ただ、今日一日で全部分かったとは思っていません。むしろ、分からないことの方が増えました」
「例えば?」
「村の方々が、普段わたくしたち公爵家をどう思っているのか。今日のような時だけ頭を下げるのか、それとも普段から公爵家を意識して暮らしているのか。税が減ることを本当に安心しているのか、それとは別に不満や不安があるのか。……聞いていないことばかりです」
父は少し黙った。
「なら、まずは十分だ」
「十分なのですか?」
「一日で全部知ったと思わなかったならな」
褒められているのかどうかは微妙だが、少なくとも方向は外していないらしい。
母がそこで少し笑った。
「でも、あなたが怪我をした子を先に見てもらったのはよかったと思うわ」
「普通では?」
「ヴェルシアナにとっては、そうなのね」
その言い方に引っかかった。
「お母様?」
「悪い意味ではないのよ」
母は食器を置き、少し考えるように俺を見る。
「あなたは『怪我をしていたから先に手当てをする』と思ったのでしょう。でも、相手の方は『公爵令嬢の前で道を塞いだ』と思った。二人とも同じ場面を見ているのに、最初に気にしたものが違ったのね」
言われてみれば、その通りだ。
俺には少年の膝が見えた。
あの母親には、俺が見えた。
同じ場所にいたのに、それぞれが最初に見ていたものは違っていた。
「だから、良いことをしたと喜んで終わるのではなく、どうして相手が先にあなたへ謝ったのかを考えるのは大切だと思うわ」
母の言葉は柔らかい。
でも、その意味は重かった。
俺が「そんなの気にしなくていい」と言えば、それで相手の緊張が消えるわけではない。
公爵家の力は、俺が使うと決めた時だけ存在するものではないのだ。
そこにいるだけでも、人の行動を変えることがある。
「お父様」
「何だ」
「お父様も、村へ行くと同じようになります?」
「私の方がひどい」
迷いのない返事だった。
「やっぱり?」
「当主だからな」
父は淡々と続ける。
「私が何気なく『この道は狭いな』と言えば、翌月には拡張工事の話が出ることもある。単なる感想のつもりでも、相手には命令の前触れに聞こえる」
それは怖い。
「では、何も言わない方がいいのですか?」
「そういうわけでもない。黙っていれば、何を考えているか分からないと余計に警戒されることもある」
「……大変ですね」
「今さら気づいたか」
少しだけ父の苦労が分かった気がした。
ただ、その「分かった」も、今日覚えたばかりの一面でしかないのだろう。
◇
食事が進んだ頃、グレンが一度だけ食堂へ入ってきた。
父へ何か確認するためだったらしい。
短いやり取りを終えたあと、俺を見て少しだけ足を止めた。
「お嬢様」
「はい?」
「本日の村での件ですが、一点だけご報告してもよろしいでしょうか」
「わたくしに?」
「はい」
父も止めなかったので、俺は頷いた。
「どうぞ」
「道で怪我をされた少年の母親から、代官を通じて礼がありました」
俺は少し驚いた。
「わざわざ?」
「そのようです」
「でも、わたくしは何もしていませんよ。手当てをしてくださったのは護衛の方ですし」
「その点も伝えております」
グレンは落ち着いた声で答える。
「ただ、先に道を空けるよう言われると思っていたそうです」
その一言で、少しだけ空気が変わった気がした。
「……どうして?」
「以前、別の貴族の一行が近くを通った際、道を塞がぬよう厳しく言われたことがあったそうです。今回のことと直接関係がある人物ではございませんし、特別珍しい対応でもありません」
俺は黙った。
つまり、あの母親が俺へ先に謝ったのには、ちゃんと過去があった。
俺自身が何もしていなくても、「貴族とはそういうものだ」という経験が相手の中に残っていた。
「お嬢様が悪い、という話ではございません」
グレンが補足する。
「分かっています」
そこは分かる。
でも、少し気持ちが重くなった。
今日の俺は、相手が公爵令嬢という肩書きを勝手に怖がっているように見ていた部分があったかもしれない。
けれど実際には、その反応の後ろにも経験がある。
相手の過去。
俺の立場。
公爵家の評判。
貴族全体に対して積み重なった印象。
それらが一瞬のうちに重なって、あの母親の「申し訳ございません」になったのだろう。
「その方には、何と返せばいいですか?」
俺が尋ねると、グレンは少し考えた。
「すでに代官から、『お嬢様は礼を求めておられない』と伝えております。これ以上こちらから動けば、かえって相手へ負担をかける可能性もございます」
「ああ……」
良かれと思って何かを返すことが、別の負担になる。
「なら、今は何もしません」
「それでよろしいかと」
グレンは一礼し、食堂を出ていった。
俺は少しだけ食事の手を止めた。
村で起きた時には、ただ転んだ子供を先に治療してもらっただけだった。
それなのに屋敷へ帰ってから、その一場面の後ろに、自分が知らなかった事情が一つ増えた。
きっと、ほかの出来事にも同じようなものがある。
見えていないだけで。
◇
夕食後、父に呼び止められた。
「少し時間はあるか」
「はい」
そのまま二人で小さな談話室へ移る。
母は来なかった。
珍しく父と二人だ。
窓の外はすでに暗く、室内にはランプの光が落ちている。
「今日の村で、お前がしたことについて話しておく」
父がそう切り出したので、俺は少し身構えた。
「何か悪かったですか?」
「悪かったとは言っていない」
「では?」
「むしろ、対応そのものは問題ない」
そこで終わらないのが父だ。
俺は黙って続きを待つ。
「だが、一度正しい対応をしたからといって、自分が正しい人間だと思うな」
かなり直球だった。
「思っていませんよ」
「ならいい」
「……それだけですか?」
「いや」
やっぱり続く。
「今日のような出来事は、評判になる」
その言葉を聞いて、以前、茶会からの帰り道に考えたことが頭をよぎった。
評判というものは、本人より先に歩いていく。
自分が変わったつもりでも、すでに外へ出ていった話まで振り返って待ってくれるわけではないし、逆に今日のような新しい出来事も、俺の手を離れたところで誰かの言葉になっていく。
「『公爵令嬢が怪我をした子供を気遣った』という形で広がるかもしれないし、『公爵令嬢の前で騒ぎを起こしたが許された』という形になるかもしれない。誰が誰へ伝えるかで、話は変わる」
「止められません?」
「無理だ」
父は即答した。
「少なくとも全部はな」
分かってはいた。
でも、実際に言われると少し落ち着かない。
「では、気にしない方がいいのですか?」
「それも違う」
「また難しいですね」
「だから、お前が何をしたかだけは忘れるな」
父の声が少しだけ低くなる。
「人は勝手に話を作る。だが、そのたびに相手の評判へ合わせて自分まで変われば、自分が何をしたかったのか分からなくなる」
俺はその言葉を考える。
「今日のお前は、怪我をした子供を先に手当てさせた。それ以上でも、それ以下でもない」
「はい」
「それを『領民に優しい公爵令嬢にならなければ』と考えて、次から何でも助けようとするな」
思ってもいなかった方向から釘を刺された。
「どうしてです?」
「助けられない時が来るからだ」
父は静かに答えた。
「金にも、人にも、時間にも限りがある。お前が目にした困り事を全部自分で解決しようとすれば、いずれ必ず選ばなければならなくなる」
俺は息を詰めた。
今日一人の子供を助けることと、領地全体を治めることは違う。
父がここ数日ずっと話していたことに繋がっている。
「その時、『以前は助けたのに』と言われることもある」
「……嫌ですね」
「嫌でも起きる」
父は容赦がない。
でも多分、だから今話している。
「では、どうすればいいのです?」
「今はまだ答えなくていい。ただ、覚えておけ」
父は俺をまっすぐ見た。
「善意で始めたことほど、続けられなくなった時に人を傷つけることがある」
その言葉は、今日聞いたどんな話よりも少し重かった。
ナディアを思い出したからかもしれない。
母を思い出したからかもしれない。
俺を守ろうとして、何でも先回りしてくれた人たち。
そこに善意があったからこそ、途中で形を変えることが難しくなったものもある。
「……ナディアのことにも、少し似ていますか」
俺が尋ねると、父はすぐには答えなかった。
「似ている部分はある」
否定しなかった。
「だが、何でもナディアへ結びつけるな。あれはあれ、この話はこの話だ」
「はい」
「ただ、人を助けることも、守ることも、力を使うことだという点は同じだ」
その言葉が胸へ残る。
守ることも、力を使うこと。
今まで俺は、力を使うと言えば命令したり、誰かを罰したり、魔法を放ったりすることを想像していた。
でも、誰かを助けることもそうなのだ。
相手の代わりに問題を解決する。
相手が傷つかないように先回りする。
その人のためだと思って、道を選ぶ。
全部、力がある側にしかできないこともある。
「お父様」
「何だ」
「わたくし、ちゃんとできるでしょうか」
気づけば、そんなことを聞いていた。
父が少しだけ目を細める。
「何をだ」
「公爵令嬢として」
自分でも曖昧な質問だと思う。
でも、今はそれしか言えなかった。
父はすぐに「できる」とは言わなかった。
そのことに、少しだけ安心した。
「分からん」
予想よりさらに正直だった。
「お父様」
「五歳のお前を見て、将来どんな人間になるかまで断言できるほど私は優秀ではない」
少しだけ笑いそうになる。
でも父は真面目だった。
「ただ、お前が間違えた時に考え直せるなら、少なくとも間違えたまま進み続ける可能性は減る」
「それだけ?」
「それが難しい」
俺は少し黙ってから、頷いた。
「……はい」
完璧な公爵令嬢になる。
誰からも好かれる。
全部正しく判断する。
そんなことは、多分無理なのだろう。
なら、間違えた時に立ち止まれる方が大事なのかもしれない。
◇
その夜、寝る前にノートを開いた。
今日は書くことが多い。
けれど、全部を文章にすると長くなりすぎる気がして、しばらく白い頁を眺めた。
最初に浮かんだのは、
『見たものより、見えなかったものの方が多かった。』
という言葉だった。
少し考え、それを書いた。
さらにその下へ、
『助けることも、力を使うこと。』
と続ける。
今日の俺は、怪我をした子供を助けた。
でも、あれは小さなことだった。
誰かを助けたことで別の誰かが困るような状況ではなかったし、判断する時間もほとんど必要なかった。
だから簡単に動けた。
これから先、もっと難しい場面が出てくるのだろう。
全員を助けられない時や、どちらかを選ばなければならない時、俺が良いと思ったことを誰かが嫌がる時だってあるはずだ。
そのたびに「善人らしい選択」をすればいいわけではない。
そんな簡単な話ではないらしい。
俺はペンを止め、窓の外へ目を向けた。
今日見た村は、ここからは見えない。
遠く離れた場所で、もういつもの夜を迎えているはずだ。
怪我をした少年も、老人も、倉庫を管理していた男も、それぞれの家へ戻っているのだろう。
俺がいなくなったあと、彼らは俺の話をしたのだろうか。
それとも、夕食や明日の仕事の話へすぐ戻ったのだろうか。
分からない。
でも、その分からなさが以前ほど怖くない。
むしろ、分からないからこそ、勝手に物語を作らないようにしたいと思える。
人を一度見ただけで、その人の全部を知ったつもりにならない。
土地を一日歩いただけで、そこで暮らす人の人生まで理解したつもりにならない。
そして、良いことを一度したから、自分は良い人間なのだとも思わない。
書いてみると随分慎重な生き方に見える。
前世の俺なら、面倒くさい奴だと笑ったかもしれない。
けれど、今の俺にはこれくらいでちょうどいい。
何しろ、ここはゲームの中だった世界だ。
俺はかつて、画面に映った情報だけで一人の女の人生を知った気になり、
――俺なら、もう少し上手くやれる。
なんて言ってしまった。
今でも、それを撤回するつもりはない。
原作と同じ破滅を迎える気もない。
ただ、その「上手くやる」という言葉の意味は、転生した日の俺が思っていたよりずっと複雑だったらしい。
誰にも嫌われないことでもなければ、全部の問題を解決することでもないし、間違わないことですら、きっとない。
自分が何を知らないのかを忘れず、誰かのためという言葉だけで相手の人生を決めず、間違えた時には考え直す。
今の俺にできるのは、そのくらいだ。
机の上には、今日持ち帰ったメモが置かれている。
明日になれば、また新しい疑問が増えるかもしれない。
それでいい。
五歳の俺が、十年後の未来を全部決める必要なんてないのだから。
そう思ってノートを閉じた時、扉の外で小さく足音がした。
こんな時間に誰だろう。
少しして、控えめに扉が叩かれる。
「お嬢様。まだ起きていらっしゃいますか?」
聞こえてきた声に、俺は少しだけ眉を上げた。
ミレーヌではない。
最近では、自室へ来る機会が明らかに減っていた声だった。
「……ナディア?」
扉の向こうから、静かな返事が返ってくる。
「はい。少しだけ、お話ししたいことがございます」
俺は閉じたばかりのノートへ視線を落とした。
今日一日考えていた「力を持つこと」と「誰かを守ること」という言葉が、妙に鮮明に頭へ戻ってくる。
偶然なのだろう。
それでも、今このタイミングでナディアが訪ねてきたことに、小さな引っかかりを覚えた。
「……どうぞ」
そう答えると、ゆっくりと扉が開いた。




