第25話 視察
出発の朝、アルセリード公爵家の正門を抜けた頃には、空の色がようやく夜から朝へ移りきったところだった。
東の空には薄い金色が滲み、まだ冷たさを残した空気の中を馬車の車輪が規則正しく進んでいく。屋敷の周囲では見慣れていた石畳も、しばらく走れば土を固めた街道へ変わり、その揺れが座席越しにはっきり伝わるようになった。
俺は窓際に座り、流れていく景色を飽きずに眺めていた。
向かいにはミレーヌがいる。
昨日まであれほど細かく準備していた帳面は、今は膝の上にきちんと閉じて置かれていた。服装も普段の屋敷内とは違い、動きやすさを優先したものになっている。色合いは落ち着いているが、母さんが選んだだけあって質素すぎるわけでもなく、本人の淡い髪色によく似合っていた。
俺の方も似たようなものだ。
普段より裾の短い外出用のドレスに、歩きやすい靴。銀色の髪も飾りを増やさずまとめてある。
自分では、できるだけ目立たない格好にしたつもりだった。
もっとも、公爵家の紋章が入った馬車から降りてくる時点で、その努力がどれほど役に立つのかは怪しい。
「お嬢様」
「何です?」
「ずっと外をご覧になっていますね」
「せっかく来たのに、馬車の中だけ見て終わったら勿体ないでしょう?」
窓の向こうでは、朝露を残した畑が広がっている。
収穫にはまだ少し早い作物が風に揺れ、その向こうには小さな家々が点在していた。
地図では、一本の線と点だった場所だ。
けれど実際には、道の横に荷車があり、その荷台へ野菜を積んでいる人がいる。少し離れた畑では、しゃがみ込んで何かを確かめている老人がいて、別の場所では子供が犬らしき動物を追いかけていた。
当たり前だ。
村なのだから、人が暮らしている。
それなのに、地図や報告書ばかり見ていたせいか、その当たり前が新鮮だった。
「昨日の報告書に出てきた村も、こういう場所なのでしょうね」
ミレーヌが外を見ながら言う。
「多分。でも、同じではないのでしょうね」
「どういうことですか?」
「村ごとに道の形も、畑も、家の数も違うでしょう? 数字の上では同じくらいの規模でも、実際に見たら全然違う気がします」
話している間にも、景色は変わっていく。
畑の割合が減り、代わりに林が増えた。
街道の幅も少し狭くなり、遠くには緩やかな丘が見える。
俺はその変化を見逃さないように窓へ顔を近づけかけ、すぐに姿勢を戻した。
公爵令嬢らしくない。
いや、誰も見ていない馬車の中なら別にいいのかもしれない。
そんなことを考えていると、前方から父の馬車が速度を落としたらしく、こちらも緩やかに揺れを収め始めた。
「そろそろですかね」
「はい」
ミレーヌの背筋が、ほんの少し伸びた。
俺も無意識に姿勢を整える。
目的地が近いと分かった瞬間、さっきまで景色を眺めていた時とは別の緊張が腹の奥に生まれた。
見に来る。
その言葉だけなら簡単だった。
けれど今日は、俺が見るだけではない。
向こうも俺を見る。
◇
最初に降りたのは、村そのものではなく、少し離れたところにある代官の管理所だった。
北東部のいくつかの村をまとめているらしく、木造ではあるものの周囲の家々より少し大きい。庭先には数頭の馬と荷車が置かれ、すでに何人かの役人らしき人間が待っていた。
父が先に馬車を降りる。
続いてグレン。
俺たちは、その少し後だった。
踏み台へ足を置き、地面へ降りた瞬間、屋敷の庭とは違う匂いがした。
乾いた土。
草。
少し遠くから漂ってくる家畜の匂い。
それから朝の空気に混ざった、何かを燃やしたような煙。
不快ではない。
ただ、屋敷の中にはない匂いだった。
顔を上げる。
そこで初めて、待っていた人たちの視線がほとんど一斉にこちらへ向いていることに気づいた。
まず父。
次に俺。
そしてミレーヌ。
そんな順番で視線が動く。
予想はしていた。
していたはずなのに、実際に何人もの大人から一度に見られると、少し落ち着かない。
しかも、相手は露骨に見ているわけではない。
公爵家の人間をじろじろ眺めるのは失礼だと分かっているのだろう。目が合う前にはほとんどの人が視線を落とす。
そのせいで、余計に分かる。
見られていたのだと。
「ヴェルシアナ」
父に呼ばれ、俺はそちらへ向かった。
「こちらが、この一帯を任せている代官のローデンだ」
紹介されたのは、五十前後に見える男だった。
日に焼けた肌と、少し灰色の混じった髪。服装は整っているが、王都の貴族のような華やかさはない。
「お初にお目にかかります、ヴェルシアナお嬢様」
深く頭を下げられる。
「ヴェルシアナ・アルセリードです。本日は、お仕事の途中にお邪魔する形になってしまい申し訳ありません」
そう言うと、ローデンは一瞬だけ顔を上げた。
「とんでもございません。お越しいただけるだけでも、この地の者にとっては――」
そこで、ほんの僅かに言葉が詰まった。
何を続けようとしたのかは分からない。
光栄です、とでも言うつもりだったのかもしれない。
けれど、俺が「邪魔する形になった」と言ったせいで、決まり文句をそのまま返しにくくなったのだろう。
「今日は父のお仕事が優先ですので、わたくしたちのために予定を変えないでくださいませ」
「……承知いたしました」
返事は丁寧だった。
ただ、完全には安心していないように見える。
当然か。
公爵令嬢本人から「気を遣わなくていい」と言われたところで、本当に気を遣わなくていいのか判断できるはずがない。
俺だって前世で、会社の社長が突然現場へ来て「普段通りでいいよ」と言ったら、絶対に普段通りにはできない。
むしろ余計に気を遣う。
そのことを思い出し、少しだけ納得した。
言えば解決する問題ではないらしい。
◇
父と代官たちの打ち合わせが始まると、俺とミレーヌはグレンの案内で管理所の中を見せてもらうことになった。
最初に通されたのは、記録を保管している部屋だった。
想像していたより狭い。
壁際には棚が並び、紐でまとめられた紙束や帳簿が積まれている。
王都の書庫のような美しさはない。
それどころか、紙の端が少し曲がっていたり、表紙に薄い汚れがついているものもあった。
でも、それが逆に使われている感じを強くしていた。
「こちらで、各村から届く記録をまとめております」
説明してくれたのは若い役人だった。
緊張しているのか、声が少し硬い。
「村から直接ここへ来るのですか?」
隣でミレーヌが尋ねる。
役人は一瞬、質問した相手を見た。
ミレーヌの服装から使用人側だと分かったのだろう。
その後、ほんの少しだけ俺を見る。
答えていいか確認しているようだった。
「ミレーヌも領地の仕組みを勉強しているのです。わたくしと同じように答えてくださいませ」
俺が言うと、役人はすぐに頭を下げた。
「失礼いたしました。村によって違いますが、月ごとの簡単な記録は責任者が持ってくることが多く、収穫や税については季節ごとに詳しい報告が出ます」
ミレーヌが帳面を開く。
「最初に数字を書くのは、村の責任者ですか?」
「多くの場合は、その補佐をする書記です。ただ、小さな村では責任者本人が書くこともございます」
「各家の備蓄量も?」
「それは――」
役人は少し困った。
「正確にすべてを数えるわけではございません。世帯ごとに聞き取りを行ったり、前年の収穫量から推定したりする場合もあります」
昨日父から聞いた話と繋がる。
俺は棚の帳簿を見た。
「では、同じ『備蓄量』と書いてあっても、実際に数えた数字と、推定した数字が混ざることもある?」
「……はい」
役人の返事が少し慎重になる。
「本来は分けて記載すべきですが、以前の形式では曖昧なところもありまして」
少しだけ言いにくそうだった。
俺は思わず、「誰が悪いのですか」と聞きそうになり、止めた。
今すぐ犯人探しをしに来たわけではない。
「今は直している途中なのですか?」
「はい。グレン様からも、基準を統一するよう指示をいただいております」
グレンが静かに頷いた。
俺はそれ以上追及しなかった。
記録の不正ではなく、仕組みそのものの曖昧さ。
こういうものは、誰か一人を叱れば終わる話ではないのだろう。
ミレーヌはその後もいくつか質問した。
数字を集める頻度。
誰が確認するのか。
間違いが見つかった時はどう直すのか。
昨日用意していた質問をそのまま一気に読み上げるのではなく、相手の答えに合わせて次を選んでいる。
俺は横で聞きながら、少し感心していた。
準備してきたものを使う。
でも、準備通りに進めることにこだわらない。
自分で言っていた通りにやっている。
そのことが、少し嬉しかった。
◇
管理所を出たあと、ようやく村へ向かった。
徒歩では少し距離があるため途中までは小型の馬車を使い、村の入口近くで降りる。
俺が最初に感じたのは、静かだということだった。
もっと人が集まっていると思っていた。
公爵令嬢が来る。
その話が伝わっていれば、村人が並んで待っているくらいのことは覚悟していた。
けれど実際には、道の脇に数人の大人がいるだけで、大半の人は畑や家の仕事を続けている。
「歓迎の人を集めないよう、お館様から事前に伝えております」
グレンが説明した。
「ただし、まったく普段通りというわけではございません」
言われなくても分かった。
道が妙に綺麗だ。
泥の多そうな場所には新しい板が敷かれ、家の前に置かれていたはずの道具も片づけられている。
さらに、道端にいた子供が俺たちを見るなり、近くの女性に腕を引かれて後ろへ下がった。
怒られたわけではない。
ただ、近づきすぎないようにされたのだろう。
父の言った通りだ。
人を集めるなと命じても、俺が来ることで変わるものはある。
「お嬢様?」
ミレーヌに呼ばれ、俺は歩き始めた。
「何でもありません。少し見ていただけです」
村の中へ入る。
家々は石と木を組み合わせた造りで、屋根には年季が入っている。庭先には乾燥させている草束や農具が置かれ、少し離れたところから鶏の鳴き声が聞こえた。
屋敷の庭のように整えられた美しさではない。
生活の形が、そのまま外へ出ている。
そこが面白かった。
古い街道は、村の中央を少し外れた場所に残っていた。
今では主要な道ではないため幅も狭く、一部は草に覆われている。
「ここが、昔の街道ですか?」
「正確には、その一部だそうです」
グレンが答える。
「川寄りの区間はかなり失われていますが、この辺りは昔の道筋がそのまま農道として使われています」
俺は足元を見る。
地図では一本の線だった。
実際には、少し凹凸のある土の道だ。
端には草が生え、ところどころに小石がある。
特別なものには見えない。
百年以上前、ここを商人や旅人が通っていたと言われなければ、ただの村道だと思っただろう。
「昔、宿場町だった場所は?」
「もう少し先です」
歩いていくと、少しだけ道幅が広くなった。
そこには今も数軒の家が並んでいる。
グレンによれば、昔の宿屋の建物そのものは残っていないものの、土地の区切り方や井戸の位置に当時の名残があるらしい。
「この井戸は昔から?」
俺が尋ねると、近くにいた年配の男が答えた。
「今の枠は何度も作り直しておりますが、場所はずっと同じだと聞いております」
男は帽子を脱ぎ、胸元で握っている。
緊張しているのが分かる。
「昔の宿場町のことも、ご存じなのですか?」
「祖父から少しだけ。わたしが子供の頃には、もう今とあまり変わりませんでしたが」
俺は少し迷った。
「もしお仕事の邪魔でなければ、聞いてもよろしいですか?」
「もちろんでございます」
返事は早い。
早すぎて、本当に邪魔ではないのか分からない。
「今、急いでいることはありません?」
そう聞くと、男は少し驚いたような顔をした。
「……昼までに柵を直す予定ではありますが、まだ時間はございます」
「では、少しだけ」
無理に「行ってください」と言うのも違う。
本人が大丈夫だと言うなら、今はその言葉を受け取るしかない。
男は、昔この辺りに旅人向けの店が並んでいたと祖父から聞いたこと、川の流れが変わる前はもっと北側に人が多かったこと、今でも畑を掘ると古い石組みが出ることがあると教えてくれた。
本には書かれていなかった話だ。
もちろん、それが全部正確だとは限らない。
祖父から聞いた話なら、さらにその前の世代から伝わった可能性もある。
でも、それで価値がないわけではない。
「ありがとうございます」
礼を言うと、男はまた深く頭を下げた。
「いえ、このような話でよろしければ」
その言い方が少し気になった。
俺にとっては面白い。
でも彼にとっては、「公爵令嬢へ話すには大したことではない」と思っているらしい。
「わたくしは、こういう話を聞きたくて来ました」
そう伝えると、男の目がほんの少しだけ動いた。
「昔ここに何があったのか、今ここで暮らしている方がどう覚えているのか、本だけでは分かりませんから」
男はすぐに返事をしなかった。
少ししてから、
「……そうでございましたか」
とだけ言った。
それ以上は何もなかった。
ただ、最初より少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
◇
昼前には、村の共同倉庫も見せてもらえた。
ミレーヌが一番楽しみにしていた場所だ。
建物そのものは想像していたより大きかった。
木造の壁に、湿気を避けるため少し高く作られた床。中へ入ると麦や豆の袋が積まれており、外から見た以上に奥行きがある。
乾いた穀物と木材が混じった匂いがした。
ミレーヌは入口で一度足を止めた。
「……これが、報告書に書かれていた量なのですね」
小さな声だった。
俺も同じことを思った。
紙では数字だった。
実際には、人の背丈より高く積まれた袋の山になる。
「全部で何人分くらいなのですか?」
俺が倉庫の管理をしている男へ尋ねると、彼は少し考えた。
「村全体で使うと考えれば、これだけで一年を賄える量ではございません。各家にもそれぞれ保管がありますので、こちらは不足した家へ回す分と、税としてまとめる前の分、それから緊急時の備えが主になります」
なるほど。
共同倉庫だけ見ても、村全体の食糧事情は分からない。
「数える時は、袋の数だけですか?」
ミレーヌが聞いた。
「重さも見ます。袋ごとに多少違いますから」
「全部?」
「全部ではありません。一定数を測り、状態が悪いものがあれば分けます」
ミレーヌはすぐに帳面へ書き込んだ。
俺はその横で、積まれた袋の一つを見ていた。
端の方に、少し色の違う袋がある。
「あちらは?」
「去年の残りです」
「分けているのですか?」
「混ぜると古いものから使えなくなることがありますので」
こういうことも、報告書には書いていなかった。
数字の向こうに人がいる。
父はそう言った。
でも実際に来てみると、数字の向こうには人だけではなく、匂いや重さや手間まであった。
袋一つを数えるにも、人が動く。
古いものと新しいものを分ける。
湿気を避ける。
傷んだものを見つける。
それら全部を省略した結果が、紙の上では一つの数字になる。
俺は少しだけ、自分が昨日まで数字を「情報」としてしか見ていなかったことに気づいた。
◇
昼食は、管理所へ戻って簡単に取る予定だった。
ところが村を出る直前、道端で小さな騒ぎが起きた。
子供の泣き声が聞こえたのだ。
見ると、十歳にもならないくらいの少年が道の脇に座り込み、膝を押さえている。
近くには倒れた籠。
中に入っていたらしい小さな果物が、土の上へいくつか転がっていた。
母親らしき女性が慌てて駆け寄り、少年を立たせようとしている。
俺たちに気づいた瞬間、女性の顔色が変わった。
「申し訳ございません!」
最初に出た言葉が、それだった。
怪我をした子供へではなく、俺たちへ。
一瞬、意味が分からなかった。
「何がです?」
「道を塞いでしまい……すぐに退きますので」
女性は少年の腕を引こうとする。
少年は膝が痛いのか、上手く立てない。
「待ってください」
思わず声が強くなった。
女性の動きが止まる。
同時に周囲まで静かになった。
やばい。
強く言いすぎた。
そう思ったが、今は気にしている場合ではない。
「その子、怪我をしているのでしょう? 先に見てあげてください」
女性は俺を見た。
「ですが、お嬢様が――」
「わたくしは立っていますし、急いでもいません」
少年の膝を見る。
服が少し破れ、その下から血が滲んでいる。
大怪我には見えないが、そのまま引っ張って歩かせる理由もない。
「治療できる方はいません?」
俺が尋ねると、グレンがすぐに護衛の一人へ指示を出した。
最低限の手当ができる者が同行しているらしい。
女性は何度も礼を言いながら少年の横へしゃがんだ。
俺は少し離れる。
そこでようやく、周囲から向けられている視線に気づいた。
何人かの村人がこちらを見ている。
さっきより、はっきりと。
見られている。
まただ。
俺はこの村を見に来た。
道を見て、倉庫を見て、人の話を聞いて、この土地について少し知りたいと思っていた。
けれど向こうからすれば、今日一番珍しいものは古い街道でも帳簿でもない。
公爵令嬢の俺だ。
どう話すのか。
誰に目を向けるのか。
怪我をした子供を見て何を言うのか。
俺が村を見ていたのと同じように、村の人間も俺を見ていた。
そのことを、ようやく実感した。
◇
帰りの馬車では、朝より会話が少なかった。
疲れたのもある。
でも、それだけではない。
俺もミレーヌも、持ち帰ったものを頭の中で整理していたのだと思う。
しばらく窓の外を眺めたあと、ミレーヌが口を開いた。
「思っていたより、分からないことが増えました」
「わたくしもです」
朝、彼女の帳面に書かれていた一文を思い出す。
分からなかったことを、帰ってから調べる。
まさにその通りになった。
「倉庫を見たら、もっと数字が分かると思っていました」
ミレーヌは膝の上の帳面へ触れながら言う。
「でも実際には、共同倉庫だけでは村全体の量は分からないし、袋の数だけでも足りなくて、重さや状態まで見ていると知りました」
「見たら簡単になると思ったのに、逆でしたね」
「はい」
「でも、その方が面白くありません?」
俺が尋ねると、ミレーヌは少しだけ考えてから頷いた。
「面白いです」
同意してくれた。
俺は窓の外へ視線を戻す。
遠ざかっていく村は、もう木々の向こうへ隠れ始めている。
今日一日で、あの場所を理解したとは思わない。
旧街道を少し歩いた。
老人から昔の話を聞いた。
共同倉庫を見た。
怪我をした子供を見た。
それだけだ。
暮らしている人の名前だって、ほとんど知らない。
でも、昨日まで地図の上にしかなかった場所が、もうただの点には見えない。
井戸がある。
古い道がある。
穀物の匂いがする倉庫がある。
祖父から昔話を聞いた老人がいて、柵を直す予定だったのに俺へ話をしてくれた。
道で転んだ少年と、その子より先に公爵令嬢へ謝った母親がいる。
そして、俺が何かを言うたびに、その言葉を気にする人たちがいた。
「ミレーヌ」
「はい」
「今日、わたくしたちもずっと見られていましたね」
ミレーヌは少し驚いたあと、静かに頷いた。
「そうですね」
「わたくしは村を見るつもりで来たのに」
それだけ言うと、ミレーヌは少し考えるように窓の外へ目を向けた。
「お嬢様が何を見るのかを、皆さんも見ていたのかもしれません」
その言い方に、俺はしばらく黙った。
なるほど。
ただ顔を見られていたわけではない。
俺が何へ興味を持つのか。
誰へ話しかけるのか。
何を大事だと思うのか。
それを見られていた。
考えてみれば当然だ。
将来、自分たちの土地へ影響を持つかもしれない公爵令嬢なのだから。
俺が五歳だからといって、周囲から見た立場まで五歳児の軽さになるわけではない。
少しだけ背中が重くなる。
ただ、不思議と嫌ではなかった。
怖さはある。
自分の言動が、知らないところまで広がることもあるだろう。
間違った印象を与えることもある。
それでも、何も見ず、何も言わず、誰にも影響しないようにして生きることはできない。
だったら、できるだけ考えてから口を開き、そのあと何が起きたのかを見るしかない。
今日の村で学んだことの中で、一番大きかったのは、古い街道のことでも、倉庫の仕組みでもなかったのかもしれない。
俺は世界を見る側であると同時に、世界から見られる側でもある。
その二つは、どうやら切り離せないらしい。
馬車は一定の揺れを刻みながら、王都へ続く道を進んでいく。
朝にはただ遠く感じたアルセリード家の屋敷が、今は少しだけ違う場所に思えた。
あの大きな家の名前ひとつで、村の人間が道を整え、子供を脇へ下がらせ、怪我をした時でさえ先に謝ろうとする。
その力を、俺はまだ本当の意味では知らない。
けれど、知らないままでいたくはなかった。
次にどこかへ行く時、今日より少しだけ多くのものを見られるように。
そして、自分が何を見られているのかにも、今日より少しだけ気づけるように。
そう思いながら、俺は遠ざかっていく村の方角を、見えなくなるまで窓越しに追っていた。




