↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
破滅したくない元男の悪役令嬢ですが、なぜか男女問わず好かれていきます ~攻略対象は男友達のつもりなのに、同性の令嬢との距離まで近すぎるようです~  作者: 0JOY
エピソード0 悪役令嬢は、まだ五歳

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/132

第24話 知りたいと思うだけでは、足りないこともある

旧街道について調べ始めてから、俺の机の上には地図が増えた。


 最初は一枚だけだったアルセリード領の地図に、百年以上前の街道図、河川の変遷を簡単に記した資料、それからグレンが「読むならこちらの方が分かりやすいでしょう」と選んでくれた地域ごとの記録が加わり、気づけば机の半分近くが紙で埋まっている。


 前世でこんな光景を見たら、仕事を家に持ち帰った人間の机にしか見えなかっただろう。


 けれど今は、不思議と嫌ではなかった。


「こちらの橋は、もう残っていないのですよね」


 向かい側に座ったミレーヌが、古い地図の一点を指で示す。


「本にはそう書いてありました。今はもう少し南に別の橋があるそうです」


「それでしたら、昔の道をそのまま辿ることはできないのですね」


「多分、一部だけでしょうね」


 俺は新旧二枚の地図を見比べながら、川沿いの線を指先で追った。


 昔の街道は、現在使われている道よりも北を通り、川へ寄り添うように伸びている。そこからいくつかの村を経て宿場町へ入り、さらに北東の交易地へ続いていたらしい。


 一方、今の主要街道は大きく南へ迂回し、川を避けるように通っている。


 地図だけを見れば、昔の方が近い。


 それでも使われなくなったということは、距離だけでは決まらない事情があったのだろう。


「ここへ行くなら、今の道から途中で外れることになりますね」


 ミレーヌが言う。


「そうなりそうです。でも、お父様はまだ『機会があれば』としか仰っていませんから、勝手に予定を立てるのは早いですわ」


「残念ですか?」


「少しは」


 正直に答える。


 調べれば調べるほど、実際に見てみたい気持ちは強くなっていた。


 昔は人の往来で賑わっていた場所が、今はどんな村になっているのか。古い道はどこまで残っていて、川は本当に地図から分かるほど形を変えたのか。


 何より、父が毎日見ている「領地」というものを、自分の目で少しでも確かめてみたい。


 ただ、それと同じくらい、最近は別のことも気になっている。


 俺が行くことで、向こうの人間がどう動くのか。


 公爵令嬢が来る。


 その一言だけで、村の責任者が慌てて道を整え、家々へ掃除を命じ、普段なら畑にいる人間まで挨拶へ集める可能性がある。


 もしそうなれば、俺が見るのは「普段の村」ではなく、「公爵令嬢に見せるための村」になる。


 それ自体が悪いわけではない。


 立場がある以上、完全に普段通りを見ることなどできないと父も言っていた。


 だからこそ、行くなら何を見るのかを先に考えた方がいい気がしていた。


「お嬢様」


「はい?」


「先ほどから、その村へ行った時のことを考えていらっしゃいます?」


「分かります?」


「地図の同じ場所をずっと見ているので」


 なるほど、顔ではなく視線でばれたらしい。


「考えていました。行きたいとは思っていますけれど、ただ見に行くだけでは、少し勿体ない気がして」


「何を見たいのですか?」


 その問いに、俺はすぐには答えられなかった。


 古い街道。


 昔の宿場町。


 川。


 村。


 見たいものを挙げようと思えばいくらでもある。


 けれど、「なぜ見たいのか」と聞かれると、まだ少し曖昧だった。


「……それを、今考えています」


 ミレーヌは急かさず、再び自分の資料へ視線を戻した。


 こういう時、彼女は以前よりずっと待つのが上手くなった気がする。


 いや、もともと使用人として待つことには慣れていたのかもしれない。


 違うのは、今では俺が考え終わるまで待っているだけで、答えそのものを遠慮して飲み込むことが少なくなったことだろう。


「ミレーヌなら、何を見たいです?」


 逆に尋ねると、彼女は少し意外そうに顔を上げた。


「わたしですか?」


「ええ。もし一緒に行けるなら」


 その瞬間、ミレーヌの目が僅かに大きくなった。


 しまった。


 まだ連れていけると決まったわけではない。


「もちろん、わたくしが行けるかどうかも決まっていませんし、ミレーヌが同行できるかも分かりません。ただ、行けるとしたら何を見たいのか気になっただけですわ」


 慌てて補足すると、ミレーヌは一度頷き、それから地図へ視線を落とした。


「……倉庫を見てみたいです」


「倉庫?」


 予想していなかった。


「はい。昨日、お館様から備蓄のお話を伺いましたので。紙にはどれくらい残っているか書いてありましたけれど、実際にそれがどれくらいの量なのか、わたしには想像できませんでした」


「ああ」


 確かに。


 俺も「何袋」「何樽」と書かれていても、それが村全体の食糧としてどれくらいなのか、具体的な感覚はない。


「それから、帳簿も見てみたいです」


 ミレーヌは続けた。


「村で記録しているものと、公爵家へ届く報告が、どのように繋がっているのか知りたいです。最初に誰が数字を書いて、それがどこを通ってお館様のところまで届くのか……」


 話しているうちに、少しずつ声に熱が入っていく。


 俺は思わず彼女の顔を見た。


 計算や領地経営が好きだとは知っていた。


 でも、こんなふうに自分から次々と「知りたい」が出てくるところを見るのは、まだ新鮮だった。


「……ミレーヌ」


「はい?」


「楽しそうですね」


 言われた本人は、自覚がなかったのか一瞬黙った。


「そうでしょうか」


「ええ。少なくとも、刺繍の話をしている時のわたくしよりは」


「それは比べる相手が少し不公平です」


「否定できませんわね」


 俺が笑うと、ミレーヌも少しだけ笑った。


 その表情は、屋敷へ来たばかりの頃より柔らかい。


 七歳の今でも十分可愛らしい顔立ちをしているが、あと数年もすればもっと整ってくるのだろう。


 そんなことをふと思い、俺は自然に視線を戻した。


 前世の感覚が完全になくなったわけではない。


 女の子が笑えば可愛いと思うし、似合う服や髪型を見れば似合っていると思う。


 今はまだ年齢が年齢なので、その感覚も「小さい子って可愛いな」に近いけれど、これから先、みんながどんなふうに成長していくのかは少し楽しみだった。


 もっとも、そんなことを本人へ言えば、今は単純に褒め言葉として受け取られるだけだろう。


「お嬢様?」


「何でもありません。続きを考えましょう」


 俺は地図へ視線を落とした。


 自分が見たいもの。


 ミレーヌが見たいもの。


 それが違うのは、むしろ面白い。


 同じ村へ行っても、俺が古い街道を見ている隣で、ミレーヌは倉庫や帳簿を見ているかもしれない。


 だったら、一人で行くより得られるものは多そうだ。


 もちろん、まだ全部仮定の話なのだけれど。


 ◇


 その日の午後、父の書斎を訪ねると、グレンも同席していた。


 机の端には新しい報告書が何枚か置かれており、どうやら例の不作の村について追加の情報が届いたらしい。


「ちょうどいいところへ来たな」


 父が言う。


「何かありました?」


「先日見せた三村の報告を覚えているか」


「はい」


 もちろん覚えている。


 その中の一つは収穫予測が大きく落ちているのに、税の予定量がほとんど変わっていなかった村だ。


「追加の調査が戻ってきた」


 父は一枚の紙をこちらへ向けた。


「読んでみろ」


 また問題形式か。


 そう思ったが、今回は黙って受け取る。


 報告には、村の備蓄状況、家畜の頭数、前年の穀物価格、周辺の村との交易量などが記されていた。


 数字そのものを読むだけなら、以前より少し慣れた。


 ただ、途中で一つ妙な箇所がある。


「備蓄、最初の報告より少ないですね」


「そうだ」


「かなり違いません?」


「違う」


 最初の資料では「前年収穫の約四割を保管」とされていた。


 今回の確認では、実際に共同倉庫へ残っていた量はその六割程度しかない。


 単純計算なら、最初の報告と実態にはかなり差がある。


「誰かが隠したのですか?」


 俺が尋ねると、父は首を横へ振った。


「まだそう決めるな」


 すぐに止められた。


「……はい」


「報告の基準が違っていた可能性がある」


 グレンが横から説明する。


「最初の書類は、村全体の推定備蓄量として、各家が個別に保有している分まで含めて計算しておりました。一方、今回直接確認した数字は共同倉庫の在庫のみです」


「ああ……」


 つまり、単純比較できない。


 俺はもう一度資料を見た。


 数字が違うから不正だ、ではない。


 何を数えた数字なのかを確認しなければならない。


「でも、それなら最初の報告が間違いというわけでもない?」


「そうとも言い切れません」


 グレンは別の箇所を示した。


「各家の備蓄量をかなり大まかに推定しており、根拠が十分ではないのです。数字を良く見せる意図があったかどうかはともかく、精度は高くありません」


 なるほど。


 意図的な嘘ではない。


 でも正確でもない。


 こういう中間が一番面倒だ。


「では、税はどうするのですか?」


 父へ聞く。


「減らす」


 今度は答えが早かった。


「調査の結果、今年の収穫予測と現在の備蓄を合わせると、前年と同じ税を取るのは負担が大きいと判断した」


「どれくらい?」


「穀物分を三割減らす予定だ」


 俺は少し驚いた。


 前に父は、全額免除はしないと言っていた。


 その考えは変わっていないが、思っていたより大きく減らす。


「それで、ほかの支出は大丈夫なのですか?」


「全部大丈夫というわけではない」


 父は机の別の書類を指した。


「急ぎではない街道整備を一つ来年へ回す。それと、今年収入が良かった別の地域から一部を補う」


「そちらの地域は嫌がりません?」


「嫌がる者はいるだろう」


 父は淡々と答えた。


「だから説明が必要になる」


 助ける側の判断だけでは終わらない。


 負担が移る相手にも理由がある。


 頭では理解できるが、やはり難しい。


「お父様」


「何だ」


「こういう判断をした時、村の方々には誰が説明するのですか?」


「現地の責任者と、その上の代官だ。必要なら公爵家から正式な通達も出す」


「税を減らす村だけではなく、補う側にも?」


「当然だ」


 父は俺の問いに答えてから、少しだけこちらを見る。


「なぜ聞く」


「先日、数字の向こうにも人がいると教えていただいたので。減らされた側には嬉しい話でも、補う側からすれば、自分たちが損をしたように感じるかもしれないと思いました」


「そうなることはある」


「では、どちらにも納得してもらわないといけない?」


「全員に納得してもらえるとは思わない方がいい」


 その答えは意外だった。


「無理なのですか?」


「利害が違えば、全員が同じように満足する判断などほとんどない。必要なのは、反対する者がいるから判断を変えることではなく、なぜそう決めたのか説明できることだ」


 父はそこで一度言葉を切った。


「そして、間違っていたと分かったら直すことだ」


 それを聞いて、俺は少しだけ黙った。


 最近の父は、正解を教えるより、間違えた後にどうするかをよく話す。


 以前の自分なら、「正しい判断をすればいい」と単純に考えていた気がする。


 でも現実は、判断した時点で全部の情報が揃っているとは限らない。


 間違える可能性は消せない。


 だからこそ、後から直せる余地を残す。


 それも一つの考え方なのだろう。


「それで、今日は何を聞きに来た」


 本題を思い出したらしい父に促され、俺は持ってきた地図を机へ広げた。


「旧街道の村へ行く話です」


「まだ忘れていなかったか」


「むしろ調べたら、前より行きたくなりました」


 父が少しだけ息を吐く。


 面倒がっているわけではなさそうだが、すぐに許可を出す気もなさそうだ。


「ただ、今日はお願いだけではありません」


「では?」


「もし行けるなら、何を見るべきか考えてきました」


 父の視線が少し変わった。


 俺は地図の旧宿場町があった場所を指す。


「わたくしは昔の街道がどこまで残っているのか見たいです。それと、今の村がどういう場所なのかも知りたい。でも、わたくしが行けば普段通りにはならないのでしょうから、できれば現地の方に無理な歓迎の準備をさせたくありません」


「それは前にも聞いた」


「はい。なので、今回はもう一つあります」


 俺は隣に立っていたミレーヌを見る。


 彼女は少し緊張した顔をしている。


「ミレーヌも、できれば一緒に連れていきたいです」


 父がミレーヌへ視線を移した。


「理由は」


「わたくしとは見たいものが違うからです」


 その答えを、父は黙って待った。


「わたくしは道や昔の町の形に興味があります。でもミレーヌは、村の倉庫や帳簿、報告がどうやって公爵家まで届くのかを見たいと言いました。一人より、違うところを見る人がいた方が、あとで話せることも増えると思います」


 父はすぐに答えなかった。


 代わりにグレンが少しだけミレーヌを見た。


「ミレーヌ本人も、そのために行きたいのですか?」


 今度はグレンから聞かれる。


 ミレーヌは小さく息を吸った。


「はい。もし許されるのでしたら、見てみたいです」


「公爵令嬢の同行者としてではなく?」


 意地の悪い問いではない。


 本人の意思を確かめているだけだ。


「……それも嬉しいです」


 ミレーヌは少しだけ頬を緩めたあと、続けた。


「でも、それとは別に、知りたいと思っています。お館様へ届く数字が、最初はどこで、誰によって書かれるのかを見てみたいです」


 父はそれを聞き、しばらく考えた。


「分かった」


 俺は思わず身を乗り出しかけた。


「行っていいのですか?」


「最後まで聞け」


 危ない。


 俺は姿勢を戻した。


「近いうちに、ちょうど北東部の巡回を予定している。今回の税調整について、現地の代官とも話す必要がある」


「つまり?」


「日程が合えば、お前たちを途中まで同行させることはできる」


 胸の奥がぱっと明るくなる。


 けれど父はすぐに続けた。


「ただし、遊びではない。お前が行きたいと言ったから村全体の予定を変えることもしない。現地では私の仕事を優先するし、お前が見たいものを全部見られるとは限らない」


「それで構いません」


「ミレーヌもだ」


「はい」


 ミレーヌの返事は、俺より少しだけ硬かった。


 それでも嬉しそうなのは分かる。


「それから」


 父は俺へ視線を戻した。


「見たものだけで結論を出すな」


「はい」


「現地の者が言ったことも、そのまま全部正しいとは思うな」


「はい」


「だが、最初から疑って聞くな」


 相手の言葉を鵜呑みにせず、それでいて最初から疑いの目で見るなと言われれば、口で言うほど簡単ではない。


「……難しくありません?」


「簡単なら、わざわざ学ぶ必要もない」


 返す言葉が見つからず、俺は素直に頷いた。


 ◇


 書斎を出たあと、ミレーヌはしばらく無言だった。


 廊下を曲がり、父の書斎から十分離れたところで、ようやく俺は横を見る。


「嬉しいです?」


「はい」


 返事は小さいが、表情を見るだけで分かる。


「かなり?」


 少しだけ意地悪く重ねると、ミレーヌは一度こちらを見てから、諦めたように微笑んだ。


「かなりです」


「よかった」


「お嬢様は?」


「わたくしもです」


 わざわざ隠す必要もない。


 実際、かなり楽しみだ。


 ただ、以前の花祭りへ行きたいと思った時とは、少しだけ違う。


 あの時は、自分が知らなかった場所を見たいという気持ちがほとんどだった。


 今回は、自分が見ることで何が見えなくなるのかまで少し考えている。


 その上で行きたいと思っている。


 同じ「見てみたい」でも、前より少しだけ重くなった気がした。


「ミレーヌ」


「はい?」


「倉庫を見られなかったら、どうします?」


 聞くと、彼女は少し考えた。


「別のものを見ます」


「例えば?」


「村の方が何を記録しているか聞けるだけでもいいですし、道具を置いている場所でも、畑でも。行ってからでないと分からないこともあると思います」


 俺は少し感心した。


「柔軟ですね」


「お嬢様が、何でも予定通りにはならないとよく仰っているので」


「……わたくし、そんなに言っています?」


「言葉そのものは違いますけれど」


 そういう意味か。


 自分の考え方が、少しずつ周囲へ伝わっている。


 嬉しいような、少し怖いような、不思議な感覚だった。


 以前のヴェルシアナも、きっとそうだったのだろう。


 彼女が怒れば、周囲が動いた。


 彼女が嫌がれば、それを避けるように環境が変わった。


 本人が直接命令しなくても、周囲は彼女の言葉や反応から「こうするべきだ」と学んでいった。


 なら、今の俺も同じだ。


 俺が何を言い、何を喜び、何を嫌がるかは、自分が思っている以上に周りへ影響する。


 違うのは、その影響を全部なくすことはできないと少しずつ分かってきたことだろう。


 公爵令嬢である限り、俺の言葉が軽くなることはない。


 だから何も言わないのではなく、言ったあと何が起きるかまで見る。


 多分、それしかない。


 ◇


 北東部へ向かう日程が決まったのは、その三日後だった。


 出発は朝。


 父の仕事に同行する形なので、大げさな行列にはしないものの、護衛や必要な使用人は当然つく。


 俺とミレーヌは途中の村まで一緒に行き、父が代官と話している間、グレンの指示のもとで周囲を見ることになった。


 予定を聞いた母は、俺より先に服装の心配を始めた。


「ドレスでは動きにくいわね」


「いつもの外出着では駄目ですか?」


「道を見るのでしょう? 裾が長すぎるものは避けた方がいいわ」


 母は侍女と相談しながら、すでに何着か候補を考えている。


 俺はその横で、少しだけ不思議な気持ちになった。


 前世では、地方へ出張する時に服装で悩んだことなんてほとんどない。


 せいぜいスーツか、動きやすい格好かという程度だった。


 今は公爵令嬢として礼を失わず、それでいて道を歩ける服を選ばなければならない。


「ミレーヌも一緒なのよね?」


 母が尋ねる。


「はい」


「では、あなたも動きやすいものにしましょう」


 ミレーヌが一瞬、驚いた顔をした。


「わたしもですか?」


「当然でしょう。ヴェルシアナだけ歩きやすくて、あなたが動けないのでは困るもの」


「ありがとうございます」


 頭を下げるミレーヌを見ながら、母は自然に彼女の服装まで侍女へ指示していく。


 その光景を見て、少しだけ胸が温かくなった。


 こういうところは、母の好きなところだ。


 守ろうとしすぎる部分はある。


 俺のために先回りして問題を消してしまうこともあった。


 でも、人を気遣うことそのものは昔から本物だったのだろう。


 だから俺も、全部を否定したくない。


「何かしら?」


 見ていたのがばれた。


「いえ。お母様は、こういう時とても楽しそうだと思いまして」


「娘の外出の支度ですもの」


「仕事に同行するだけですよ?」


「それでも娘の外出でしょう?」


 母の中では同じらしい。


 俺は少し笑った。


「では、お任せします。ただし動きやすさ優先でお願いします」


「分かっているわ」


 その返事に若干の不安を覚えたが、母の美的感覚は俺より遥かに信用できるので黙っておくことにした。


 ◇


 出発前日の夜。


 俺は机の上に旧街道の地図を広げ、最後の確認をしていた。


 見たい場所をいくつか書き出したものの、全部回れるとは思っていない。


 旧道の痕跡。


 現在の街道。


 村の共同倉庫。


 昔の宿場町の名残がある場所。


 可能なら畑や水路。


 そして、実際にそこで暮らしている人が何を話すのか。


 書いてみると欲張りだ。


 父に見せたら、「一日で全部見るつもりか」と言われそうである。


 俺は項目の横へ小さく線を引き、優先順位をつけていった。


 一番上は、旧街道。


 そもそも今回行きたいと思った理由だから、これは外せない。


 二番目は村そのもの。


 ただし「村そのもの」と書いても広すぎる。


 結局、現地へ着いてから決めるしかない部分もあるだろう。


 隣ではミレーヌが自分用の小さな帳面を確認している。


「何を書きました?」


「聞きたいことです」


「見せてもらっても?」


「はい」


 渡された帳面を見る。


 一番上には、


『村の帳簿は誰が書くのか』


 その下に、


『数字を集める時、各家へ誰が聞きに行くのか』


『共同倉庫の在庫はどのくらいの頻度で数えるのか』


『公爵家へ報告する前に誰が確認するのか』


 と並んでいる。


 思っていた以上に具体的だ。


「……ミレーヌ」


「はい」


「わたくしより、ちゃんと準備していますね」


「お嬢様は道を見るのでしょう?」


「ええ」


「道には質問できませんから」


 なるほど。


 言われてみればその通りだ。


 俺は少し笑いながら帳面を返した。


「でも、村の方へ一度に全部聞くのは駄目ですわよ」


「分かっています」


「仕事中かもしれませんし」


「はい」


「あと――」


 そこまで言いかけて、止まる。


 俺が全部先回りして注意する必要があるのか。


 ミレーヌは七歳で、まだ子供だ。


 でも、俺だって五歳である。


 それに彼女は、最近かなり自分で考えられるようになっている。


「何ですか?」


 続きを待たれ、俺は少し考え直した。


「いえ。何か困ったら、その時一緒に考えましょう」


 ミレーヌは一瞬だけ目を瞬かせ、それから柔らかく頷いた。


「はい」


 その返事を聞き、俺は地図へ視線を戻す。


 明日、初めて公爵領の村を自分の目で見る。


 原作では背景ですらなかった場所。


 名前もなかったかもしれない人たち。


 そこへ、自分が公爵令嬢として行く。


 楽しみだけではない。


 少し緊張もある。


 自分が何を見て、何を見落とすのか。


 相手が俺を見て、どんなふうに態度を変えるのか。


 きっと、地図や本を眺めているだけでは分からなかったことがいくつも出てくる。


 それでも行きたいと思った。


 知りたいと思うだけでは足りないなら、実際に見てみればいい。


 ただし、見たからといって全部を知ったつもりにはならない。


 最近学んだことを並べれば、随分面倒な条件がつく。


 けれど、以前の俺なら「知らないなら見ればいい」で終わっていたところを、今はその先まで少し考えられるようになったのだとすれば、それも悪くない。


 窓の外には、細い月が浮かんでいた。


 明日の朝は早い。


 俺は地図を畳み、机の端へ置く。


 寝る前にもう一度だけミレーヌの帳面を見ると、彼女は最後の行に何かを書き足していた。


「今度は何を?」


 尋ねると、ミレーヌは少しだけ迷ってから見せてくれた。


『分からなかったことを、帰ってから調べる』


 俺はその一文を見て、少しだけ笑った。


「それ、いいですね」


「全部は分からないと思いますから」


「ええ。多分、それでいいです」


 明日一日で、何か大きな答えが見つかるわけではないだろう。


 むしろ、分からないことの方が増えるかもしれない。


 それでも今は、その方が楽しみだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。