第22話 数字の向こうにも、人はいる
アルセリード公爵家の書斎には、子供が喜びそうなものがほとんどない。
菓子もなければ玩具もなく、壁を埋める書棚には法律や領地経営、外交史といった、表紙を見るだけで眠気を誘いそうな本が並んでいる。父の机の上も似たようなもので、綺麗に整えられた書類の束、封蝋の押された手紙、地図、帳簿、それから長年使い込まれてきた筆記具が、必要なものだけを選び抜いたように配置されていた。
前世の俺なら、休日に自分から近づこうとは思わなかった空間だ。
にもかかわらず、その日の俺は朝から父の書斎にいた。
しかも、連れてこられたわけではない。
「……それで、どうしてミレーヌまで一緒にいる」
机の向こうから父が尋ねる。
俺の隣にはミレーヌが座っていて、普段よりほんの少し背筋を伸ばし、膝の上に両手を揃えていた。
「わたくしがお願いしました」
「それは見れば分かる。理由を聞いている」
「ミレーヌは計算や領地のことに興味がありますし、わたくし一人で聞くより、二人で聞いた方があとで話し合えると思いまして」
父は一度だけ俺を見たあと、今度はミレーヌへ視線を移した。
公爵家当主に真正面から見られたミレーヌの肩が、わずかに強張る。
「ミレーヌ」
「はい」
「ヴェルシアナに誘われたから来たのか、それとも、お前自身も聞きたいのか」
確認の仕方が父らしいと思った。
俺が連れてきたから、というだけでは決めない。
本人の意思を、本人に聞く。
ミレーヌは一度こちらを見かけ、それから思い直したように父へ視線を戻した。
「……わたしも、聞いてみたいです」
「何を?」
さらに聞かれ、ミレーヌは少しだけ考える。
「領地のお金が、どう動いているのかを知りたいです。以前、お嬢様と地図を見た時、町や村がたくさんあることを知りました。でも、地図では名前しか分かりませんでしたから、その場所でどうやって税を集めて、何に使っているのか……気になりました」
言い終えた時には、最初の緊張が少しだけ薄れていた。
父は表情を大きく変えなかったが、拒む様子も見せない。
「分かった。なら聞いていけ」
「ありがとうございます」
ミレーヌが頭を下げる。
俺はその横顔を見ながら、少しだけ嬉しくなった。
以前の彼女なら、「侍女見習いの自分が公爵の書斎で領地経営を聞いてもよいのか」を先に考え、自分の興味を後ろへ置いたかもしれない。
今でも遠慮がなくなったわけではない。
それでも、知りたいことを知りたいと言える。
その変化は、外から見れば小さいのかもしれないが、俺には妙に大きく見えた。
「それで、ヴェルシアナ」
「はい、お父様」
「お前は何が知りたい」
今度はこちらの番だ。
俺は書斎の中を一度見回してから答えた。
「お父様が、毎日何を見ているのか知りたいです」
父の眉がわずかに動く。
「広すぎる」
「ですよね」
「もう少し絞れ」
当然のように返され、俺は少し考え直した。
「では、領地から届く報告を見て、お父様が何を決めているのか知りたいです。以前、地図を見た時に、アルセリード領には町や村がたくさんあると教えていただきましたけれど、わたくしは結局、その土地で暮らしている方々のことをほとんど知りませんから」
花祭りの話を聞いた時にも、似たようなことを思った。
ゲームでは、公爵領なんて「ヴェルシアナの実家が所有する広大な領地」という設定の一文で済んでいた。
けれど現実の地図には川があり、街道があり、村や町の名前が細かく書かれている。
当然、その一つ一つに人が住んでいる。
画面に映らなかっただけで、彼らの生活はずっと続いていたのだ。
「なら、ちょうどいい」
父は机の端に置かれていた薄い書類の束を一つ取り、こちらへ向けた。
「北東部の三村から届いた、今年の春作についての報告だ」
「春作?」
「春に種を播き、初夏から夏にかけて収穫する作物だ。この地域では麦と豆が多い」
俺は紙へ視線を落とした。
村ごとの作付面積、前年の収穫量、今年の予測値、倉庫の残量、税として納める予定量。
前世でも見覚えのある、数字が整然と並ぶ書類だった。
ただし、これは売上表でも予算管理表でもない。
そこに載っている数字一つ一つが、誰かの食事や冬越しに繋がっている。
「ここの数字、去年よりかなり少ないですわね」
一つの村を指すと、父が頷いた。
「春先の雨が少なかった。そこは小さな川へ水を頼っているから、影響を受けやすい」
父は別の紙を重ねた。
今度は農地と水路の状態について書かれている。
「でも、税として納める予定の量は、あまり減っていません」
隣からミレーヌが口を挟んだ。
俺も同じ箇所を見た。
確かに、収穫予測は明らかに減っているのに、納税予定量は前年とそれほど変わっていない。
「このまま取るのですか?」
俺が尋ねると、父はすぐに答えなかった。
「お前ならどうする」
来た。
最近、父は本当にすぐ問題を返してくる。
俺はもう一度数字を見直した。
収穫が減る。
税はほぼ同じ。
単純に考えれば、村人の手元に残る量は少なくなる。
「減らした方がいいと思います」
「なぜだ」
「このまま取ったら、村の方々が困るからです」
「どの程度困る」
いきなり具体的になった。
「……そこまでは分かりません」
「村には何人住んでいる」
「分かりません」
「前年までの備蓄は」
「……それも分かりません」
「農業以外の収入はあるのか。来年も不作だった場合、今の備蓄でどこまで耐えられる」
質問が積み重なるにつれ、自分の答えが急速に薄くなっていく。
俺は書類を見たまま、少しだけ唇を結んだ。
「お父様」
「何だ」
「わたくしが五歳であることは、覚えていらっしゃいますよね?」
「覚えている」
「質問の難しさだけ、年齢を置き去りにしていません?」
父は一切悪びれなかった。
「五歳なら答えを間違えても構わない。だが、五歳だから考えなくていいとは言っていない」
反論の余地が綺麗になくなった。
思わず隣へ視線を送ると、ミレーヌは俺と目が合う直前、急に報告書へ強い関心を示した。
「……ミレーヌ」
「この村の備蓄量が、とても気になります」
「今、わたくしから逃げましたよね」
「領地のお勉強中ですので」
七歳児にまで正論の使い方を覚えさせたのは誰だ。
父は俺たちのやり取りを特に拾うことなく、もう一枚資料を置いた。
「最初に言った『困るなら減らす』という考え自体は間違いではない。ただ、領地経営では、誰か一人を助ける判断が別の場所へ負担を移すこともある」
俺は改めて資料へ目を戻した。
「どういうことですか?」
「この三村から集めた税の一部は街道の修繕へ回る。橋の補修、治療院への補助、冬の備蓄にも必要だ。一つの村から取る量を減らせば、その分だけ何かの支出を削るか、別の場所から補わなければならない」
なるほど。
仕組みだけなら、前世の予算配分と似ている。
違うのは、ここで削られるものが部署の経費ではなく、誰かの生活を直接支えるものだということだった。
「では、減らさないのですか?」
「それもまだ決めていない」
父は最初に俺が指した村名を軽く指で示した。
「現地からの報告では、収穫量は落ちるが、前年までの備蓄には余裕があるらしい。ただし、その報告が正確とは限らないから、追加で確認させている」
「報告が間違っていることもあるのですか?」
ミレーヌが尋ねた。
「ある。数字を良く見せようとする者もいれば、現地の責任者自身が把握しきれていない場合もある。数字は事実を表すための道具だが、その数字を集め、選び、並べるのは人間だ」
その言葉に、俺は少しだけ引っかかった。
「……数字にも、見せ方があるのですね」
「当然だ」
「同じ数字でも、何と並べるか、何を載せないかで印象が変わる?」
「変わる」
俺は、ほんの一瞬だけナディアのことを思い出した。
彼女は、露骨な嘘ばかりを口にしていたわけではない。
俺が教師を嫌がった。
誰かへ怒った。
庭師に強く注意されて泣いた。
その出来事自体は、多くの場合、本当にあった。
けれど、どこを取り出し、どこを説明せず、誰の責任として伝えるかによって、父や母が受け取る意味は大きく変わった。
領地の報告書も少し似ている。
収穫量が前年より二割落ちた。
それだけでは、その村全体が困窮しているのか、一部の農家だけが深刻なのか、備蓄が十分なのか、交易で補えるのかまでは分からない。
数字という形をしているだけで、つい完全な事実のように見えてしまう。
「何か気づいたか」
父に尋ねられ、俺は考えていたことをそのまま口にした。
「人の話を聞く時と、少し似ていると思いました。誰かがこう言った、こうした、という話も、その一つだけでは全部分かりませんでしょう? 数字ならもっと正しいと思っていましたけれど、数字もそれだけでは足りないのですね」
父はしばらく俺を見たあと、僅かに顎を引いた。
「そこまで分かったなら、今日ここへ来た意味はあったな」
珍しく、分かりやすく肯定された。
胸の奥が少し軽くなる。
その感覚を顔へ出しすぎないようにしていたつもりだったが、隣のミレーヌがちらりと俺を見て、何も言わず小さく微笑んだ。
何か言われるより、その方が少し恥ずかしかった。
◇
父はその後も、いくつかの報告書を見せてくれた。
豪雨で一部が崩れた街道。
木材が傷み、補修が必要になった橋。
例年より薬草が多く採れた地域。
冬の備蓄を多めに残せた町。
一枚一枚の内容は、驚くほど地味だった。
ゲームならイベント画面にすらならない。
舞踏会もなければ、運命的な出会いもなく、秘密の魔法も、攻略対象との劇的な会話もない。
書かれているのは、水路の詰まり、倉庫の屋根、牛の病気、橋の補修費といった、暮らしを続けるための話ばかりだった。
けれど父は、そのどれも流し読みしなかった。
「全部、お父様が決めるのですか?」
「全部ではない」
「そうなのですか?」
「私一人で全部決めていたら、領地はむしろ回らなくなる。各地には責任者がいるし、その上で地域をまとめる者もいる。私まで上がってくるのは、大きな金が必要な案件、複数の地域へ影響する問題、法や税に関わるもの、それから現地だけでは判断しにくいものだ」
「では、お父様は領地のことを全部知っているわけではない?」
「ああ。知らない」
あまりにも普通に認められ、少し意外だった。
公爵家当主なら、自分の領地のことを何でも把握しているようなイメージがあった。
「それで大丈夫なのですか?」
「大丈夫ではない時もある」
さらっと怖いことを言う。
「だから報告の仕組みを作り、任せる相手を選び、必要なところだけ自分でも確認する。私一人ですべてを知ろうとすれば、時間も判断力も足りなくなり、本当に見るべきものを見落とす」
「任せることも、お仕事なのですね」
「上に立つ者ほど、その比重は大きくなる」
父はそう言ったあと、すぐ次の資料へ移らず、わずかに間を置いた。
「昔の私は、その点を少し間違えた」
俺は顔を上げた。
ミレーヌも自然と父を見る。
「……わたくしのことですか?」
「ああ」
父の声音は変わらない。
「お前の教育を誰かへ任せたこと自体は間違いではなかった。ただ、任せたあとに何を確認すべきかを、私は十分考えていなかった」
ナディアのことだけではないだろう。
教師が変わったこと。
使用人の配置が動いたこと。
俺が嫌がったという報告が、そのまま周囲を変える理由へなっていったこと。
「報告は受けていた。お前が怖がった、嫌がった、泣いた、怒った。その一つ一つだけを見れば、何か対処すべきことが起きているように見えた。私はお前を守ろうとして、その前後を自分で確かめる手間を十分に取らなかった」
「でも、お父様はお忙しかったのでしょう?」
つい言うと、父は静かに首を振った。
「忙しさは事情にはなる。だが、それで結果が消えるわけではない」
その言い方は、誰かに責任を押しつけるものでも、自分を劇的に責めるものでもなかった。
ただ、自分がどこで判断を誤ったのかを、そのまま置いて見ている。
「だから今は、全部ご自分で見るのですか?」
ミレーヌが尋ねる。
「いや。それをやれば、今度は別の失敗をする」
「違うのですか?」
「人間一人が見られるものには限界がある。大事なのは、任せないことではない。何を任せ、任せたあと何を自分で確かめるかだ」
その言葉が、妙に胸へ残った。
人を信じることと、すべてを預けることは違う。
反対に、警戒することと、何も任せないことも違う。
ナディアの件を知ってから、俺は誰か一人へ判断を預けること自体に少し怖さを感じていた。
でも、考えてみれば何もかも自分一人で決めることなどできない。
魔法ならヴィクトル先生の方が詳しい。
礼儀ならエルダ夫人。
領地経営なら父やグレン。
刺繍なら――非常に悔しいが、リュネアへ聞いた方が早い。
詳しい人に任せることと、自分で考えることは両立できる。
むしろ、全部を一人で抱え込まないためにも、そこを分けて考える必要があるのだろう。
◇
「では、最初の村は結局どうするのです?」
俺が話を戻すと、父は最初の資料をもう一度こちらへ寄せた。
「追加の報告を待つ。ただ、仮に備蓄が申告どおり十分で、来年まで持ちこたえられると判断できた場合でも、今年の税は一部軽くするつもりだ」
「全部ではないのですか?」
「全額を免除する必要があるとは、今のところ考えていない」
俺は少し眉を寄せた。
父はその反応を見ていたらしい。
「冷たく聞こえるか」
「……少しだけ」
「なら、その感覚は持っていていい」
意外な答えだった。
「ただし、感覚だけで終わるな。税を取りすぎて村が疲弊すれば、来年の収穫まで落ちる可能性がある。逆に必要以上に免除すれば、ほかの地域との負担の差が大きくなり、領全体の支出にも影響する。必要なのは、今年だけ苦しくない形ではなく、数年後もその村で人が暮らし続けられる形を考えることだ」
俺は資料の上に並ぶ数字を見た。
「助ける、というのも簡単ではないのですね」
「簡単ではない」
父はすぐに答えた。
「善意を持つこと自体は難しくない。だが、人の生活へ力を使うなら、善意だけでは足りない」
その言葉を聞いた瞬間、ナディアや母、そして父自身のことが頭に浮かんだ。
誰も、最初から俺を悪くしようとしたわけではない。
ナディアは少なくとも自分の中では俺を守ろうとしていた。
母は俺が傷つかないよう、先回りして問題を消そうとしていた。
父も、俺の望みができるだけ叶うよう公爵家の力を使っていた。
そこに愛情や善意がなかったわけではない。
むしろ、あったからこそ難しかった。
「善意があることと、正しいことは同じではないのですね」
「同じではない」
「では、善意がなくても正しいことはできます?」
父は少しだけ考えた。
「できる」
「それで十分ですか?」
「場合による」
また簡単には答えが出ない。
「例えば、橋が壊れれば直す。そこに住民への愛情がなくても、必要だから直す者はいる。それでも橋は役に立つ。ただ、人を数字としてしか見なくなれば、そのうち数字に出ないものを切り捨てるようになる」
「数字に出ないもの?」
「村を離れたくない理由、家族の事情、その土地への愛着、祭りや習慣。そういうものだ」
父は窓の外へ一度視線を向けた。
「領主から見れば、二つの小さな村を一つへまとめた方が効率がいい場合もある。だが、そこに住む者にとっては、生まれ育った場所や代々続けてきた暮らしを失うことになるかもしれない。数字の上で合理的だからといって、人間にとっても同じとは限らん」
その話を聞きながら、俺はまた原作のヴェルシアナを思い出していた。
ゲームをしていた頃の俺は、彼女を「何もかも持っていたのに、自分で全部壊した女」だと思っていた。
家柄。
美貌。
魔力。
教育。
王太子との縁。
与えられていたものを並べれば、確かに恵まれて見える。
だから俺は、雨の夜に画面の向こうの彼女を見て、「俺ならもう少し上手くやれる」などと簡単に言えた。
今思えば、あれも数字だけを見て村を判断するのと似ていたのかもしれない。
何を持っていたのかは知っていた。
でも、その環境の中で何を教えられ、何を怖がり、何を失うことに怯えていたのかまでは知らなかった。
もちろん、それで原作の彼女がしたことが正しくなるわけではない。
誰かを傷つけた事実まで、事情によって消えることはない。
それでも、分かっていなかった側の俺が、分かった顔をしていたということだけは、今なら認められる。
◇
書斎を出た頃には、昼をかなり過ぎていた。
廊下を歩きながら、ミレーヌは手元の小さな紙へ何かを書き込んでいる。
「何を書いていますの?」
「今日教えていただいたことです」
「そんなに?」
横から少し覗くと、紙にはかなり細かく文字が並んでいた。
税。
備蓄。
街道。
橋。
報告。
確認。
七歳児の覚え書きにしては、かなり本格的だ。
「楽しかったです?」
俺が尋ねると、ミレーヌはすぐに頷いた。
「はい。知らなかったことばかりでした」
「数字ばかりでしたけれど」
「数字があるから面白いのです」
「そこは、まだわたくしには完全には分かりませんわ」
「お嬢様は魔法の方が分かりやすく楽しそうです」
「それは否定しません」
光を浮かせたり、紙を風で動かしたりする方が、税率を眺めるより子供らしい楽しさはある。
けれど、今日の話が退屈だったかと聞かれれば、むしろ逆だった。
「でも、また聞きたいです」
「わたしもです」
ミレーヌの返事は早かった。
しばらく並んで歩いたあと、彼女がふと手元の紙を下ろす。
「お嬢様」
「何です?」
「最初の村のことですが、お嬢様は最初、税を減らした方がいいと仰いましたよね」
「ええ」
「今もそう思いますか?」
なかなか良い質問をしてくる。
俺は歩く速度を少し緩めながら考えた。
「……今も、減らした方がいいとは思います」
「では、答えは変わっていないのですね」
「でも、最初とは少し違いますわ。最初は収穫が減ったのだから、税も減らせばいいと思っただけでした。でも今なら、本当にどれくらい困っているのか、備蓄はあるのか、減らした場合ほかの場所へどう影響するのかまで知ってから決めたいです」
ミレーヌはしばらく俺の言葉を考え、それからゆっくり頷いた。
「答えが同じでも、そこへ行くまでの道が変わったのですね」
その言い方が妙に気に入った。
「それ、いい表現ですわね」
「そうですか?」
「ええ。同じ答えでも、自分で考えて選んだものと、最初から決めつけたものでは違いますもの」
考えるというのは、必ずしも結論を変えることではないのかもしれない。
同じ「はい」でも、誰かにそう言えと言われて頷くのと、自分で考えた末に頷くのでは違う。
同じ「助ける」でも、ただ可哀想だから手を差し伸べるのと、その人たちがその後も暮らせるよう考えたうえで助け方を選ぶのでは違う。
そして、そこまで考えたところで、婚約のことが一瞬だけ頭をよぎった。
王家と公爵家にとって都合がいいから頷くのではなく、自分で知って、自分で考えて、それでもアレクシスの隣を選ぶなら、たとえ結果だけ見れば同じでも意味はまったく違う。
……いや、待て。
なぜ今そこでアレクシスが出てくる。
馬に一緒に乗るのが楽しかったことと、婚約は別だ。
「お嬢様、そこから先だけ急に考え込まれましたね」
ミレーヌが横から言った。
俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
「領地とは関係のないことを考えただけですわ」
「では、聞かないでおきます」
追及されなかったことに安堵しつつ、なぜ安堵したのかは考えないことにした。
◇
その日の夜、俺はいつものノートを開いた。
最近は、ここへ教訓めいたことを書く機会が増えている。
前世の俺が見たら、「自己啓発でも始めたのか」と笑うかもしれない。
けれど、書いておくと考えが整理されるのだから仕方がない。
俺は今日のことを一行にまとめようとして、
『数字だけでは分からない。』
と書きかけた。
しかし、そこで手が止まる。
数字が悪いわけではない。
むしろ数字は必要だ。
収穫量も、備蓄量も、税も、橋の修繕費も、知らなければまともな判断はできない。
問題なのは、数字を見ることではなく、それだけで全部を知ったつもりになることだ。
少し迷ったあと、別の言葉を書いた。
『数字の向こうにも、人がいる。』
今度は、しっくりきた。
その一文を眺めているうちに、自然と原作のヴェルシアナのことが頭へ浮かぶ。
ゲームの中では、彼女にも数字のような情報が付いていた。
魔力量。
家格。
攻略対象との関係。
ルートによって変わる敵対度。
イベントごとの危険度。
攻略情報を見れば、どの選択肢で彼女の嫉妬が強まり、どのイベントを踏めば対立が決定的になるのかまで、まるで表のように整理されていた。
俺はそれを見て、「この女はこういう人間だ」と判断していた。
でも今なら、少なくともそれだけでは足りなかったと分かる。
原作のヴェルシアナが誰かを傷つけたことも、立場を利用したことも、ヒロインを追い詰めたことも消えない。
だからこそ、それとは別に「なぜそういう選択へ進んだのか」を考える必要がある。
理解することと、正当化することは違う。
むしろ、その人が何を選び、どこで間違えたのかを、簡単な一言へ押し込めないことの方が、理解に近いのかもしれない。
俺は椅子の背へ少し身体を預けた。
十年後に待っている原作の物語は、まだ遠い。
それでも、その未来を変えるために必要なのは、きっと大きな事件ばかりではないのだろう。
今日見た一枚の報告書も、そこに記された名前のない人々の暮らしも、父が数字の裏側を確かめようとしていたことも、ミレーヌが自分から領地について知りたいと言ったことも、全部この世界を形作っている。
そうやって知っているものが増えるほど、ゲームの中では単純に見えていた世界が、少しずつ複雑になっていく。
攻略表のように「ここではこの選択肢が正解」と教えてくれるものはない。
けれど最近は、その面倒さを以前ほど嫌だとは思わなくなっていた。
分からないなら調べればいい。
知らないなら聞けばいい。
自分より詳しい人間がいるなら教えてもらい、その上で最後に選ぶ時だけは、自分の頭を使う。
そうやって考えることを積み重ねていけば、十年後の俺は、今よりもう少しまともな判断ができるかもしれない。
少なくとも、画面の向こうにいる誰かの人生を眺めただけで、
――俺なら、もう少し上手くやれる。
などと簡単に口にしていた頃よりは。
その言葉の重さを、俺はようやく少しずつ知り始めていた。




