閑話 その瞳は、答えを待っている
エステル・ラーディアは、ヴェルシアナ・アルセリードの瞳が昔から苦手だった。
色そのものが嫌いだったわけではない。むしろ、あれほど美しい色をほかで見た記憶はない。
赤と呼ぶには紫が深く、紫と呼ぶには内側へわずかな紅が灯っている。陽の下では磨かれた宝石のように澄んでいるのに、室内の影へ入れば色だけが静かに沈み、そのぶん視線の強さが際立って見えた。
銀色の髪も同じだった。
光を受ければ、細い白金の糸を幾重にも束ねたように輝く。まだ幼い少女の肩へ流れているだけなのに、ひとたび人の集まる場所へ姿を見せれば、周囲の色が少し薄くなったように感じるほど目を引いた。
昔から、美しい子だった。
そしてエステルにとっては、その美しさと怖さが、長いあいだ同じ場所にあった。
ヴェルシアナが眉を寄せると、周囲の大人が先に顔色を窺う。彼女が不満そうにすれば、何が気に入らなかったのか、誰がそうさせたのかという話が始まる。
幼かったエステルには、その仕組みを言葉にすることなどできなかった。
ただ、ヴェルシアナの顔を見る前に、自分の言葉が正しいか考える癖だけは残った。
そしてその癖は、先日の茶会でも消えてはいなかった。
久しぶりに間近であの紅紫の瞳を見た時、エステルは確かに思ったのだ。
以前とは違う、と。
その認識を今さら取り消すつもりはなかった。
昔のままだとも思っていない。
けれど、違って見えることと、もう何も警戒しなくてよいと思えることは、同じではなかった。
頭では理解していても、身体の方が古い記憶を覚えている。
ヴェルシアナがこちらを見ると、肩がほんの少し硬くなる。言葉を選ぶ時、まず自分が何を言いたいかより、相手がどう受け取るかを考えてしまう。
長く使われなかった部屋にも、家具をどかせば床に跡が残るように。
人の中にも、なくなったものの形だけが残ることがあるのかもしれない。
だから、エステルにとって意外だったのは、ヴェルシアナが変わっていたことそのものではなかった。
その変化を、自分に信じさせようとしなかったことだった。
『謝ったからといって、許していただけるとは思っておりません』
あの言葉が、何度も思い出される。
泣きそうな顔で言われたわけではない。
許してほしいと縋られたわけでもない。
まして、今の自分は以前とは違うのだから分かってほしい、と迫られたわけでもなかった。
ただ、自分が謝ることと、エステルがそれを受け入れることは別なのだと、ヴェルシアナは最初から分けていた。
その距離が、エステルには奇妙だった。
以前なら、彼女の機嫌が場の空気を決めていた。
今は、彼女自身がこちらへ答えを返させようとしない。
その違いをどう受け止めればいいのか、まだエステルにはよく分からなかった。
◇
「エステル様?」
呼ばれて顔を上げると、向かいに座っていた少女が不思議そうにこちらを見ていた。
フィオルネ家の茶会で何度か顔を合わせている令嬢だった。
「ごめんなさい。少し考え事をしていました」
「珍しいですわね。先ほどから、同じ頁をずっとご覧になっていますもの」
言われて手元へ目を落とす。
確かに、本はしばらく同じ頁で止まっていた。
窓辺から差し込む午後の光が紙面を白く照らしているのに、そこに並ぶ文字は一つとして頭に入っていない。
「何か気になることでも?」
「……少しだけ」
それ以上は言わなかった。
相手も無理には聞かず、別の本へ手を伸ばした。
その気遣いがありがたかった。
誰かに話して整理できるほど、自分の中でもまだ形が整っていなかったからだ。
許したいのかと聞かれれば、分からない。
嫌いなのかと聞かれても、それも以前ほど簡単には答えられない。
怖いかと問われれば、少し怖い。
けれど今のヴェルシアナと話すことまで嫌なのかと尋ねられたら、それにはたぶん違うと答える。
まるで同じ糸で編まれていたはずの感情が、途中から何本にも分かれてしまったようだった。
昔の記憶だけを引けば、警戒が残る。
今の姿だけを見れば、もう少し話してみてもいい気がする。
どちらか一つを正しいことにできれば楽なのに、どちらも嘘ではなかった。
そんな時、ふとリュネアの顔が浮かんだ。
ヴェルシアナと友人として付き合っている少女。
彼女なら、今の自分とは少し違う場所から、同じ人を見ている。
そのことが気になった。
◇
数日後、エステルは借りていた刺繍図案を返すため、フィオルネ家を訪れていた。
用事そのものはすぐに終わったが、帰る前にリュネアから庭へ誘われる。
夏の盛りを過ぎた庭には、咲き切った薔薇の間から遅れて開いた花がいくつか残っていた。風が枝を揺らすたび、乾き始めた花弁が一枚ずつ芝へ落ちていく。
盛りを過ぎたからといって、庭から花が消えるわけではない。
形を変えながら、季節だけが先へ進んでいる。
「この前は、来てくださってありがとうございました」
隣を歩いていたリュネアが言った。
「招いていただいたのですから」
「それでも、です」
柔らかな返事だった。
エステルは少し迷ってから尋ねる。
「リュネア様は……ヴェルシアナ様と、本当に仲がよろしいのですね」
「はい」
そこには迷いがなかった。
羨ましい、と一瞬だけ思った。
すぐに、その感情が何に対するものなのか分からなくなる。
ヴェルシアナと仲が良いことが羨ましいのか。
それとも、誰かについて迷わず「友達です」と言えることが羨ましいのか。
「怖くありませんの?」
口にしてから、少し失礼だったかもしれないと思った。
だがリュネアは怒らず、歩く速度も変えなかった。
「最初は、少し怖かったです」
「今は?」
「今は、お友達です」
あまりにも簡単な言い方だったので、エステルは思わず横顔を見る。
「以前のことは、気にならないのですか?」
「気にならないわけではありません」
返ってきた言葉は、思っていたよりずっと素直だった。
リュネアは足元に落ちていた花弁を踏まないよう、少しだけ歩幅を変える。
「でも、ヴェルシアナ様も、前のことがなくなったとは仰いませんから」
「……ええ」
「だったら、わたしも無理に忘れたことにしなくていいのかなって」
リュネアはそう言ってから、少し考えるように首を傾けた。
「ただ、今お話ししていて楽しいことまで、昔のことがあるから嘘にしないといけないとも思わないんです」
柔らかな言葉だった。
けれど、柔らかいから曖昧なのではない。
細い茎の花ほど風に逆らわず、それでも折れずに立っているように、リュネアの言葉には彼女なりの芯があった。
「エステル様は、お友達にならなくてもいいと思います」
あまりにも自然に言われ、エステルは目を瞬いた。
「……随分あっさり仰るのね」
「だって、それはエステル様が決めることでしょう?」
「あなたは、ヴェルシアナ様のお友達なのに?」
「お友達だから、エステル様にもお友達になってほしいと思わないといけませんか?」
真顔で聞き返され、エステルは返答に詰まった。
少しして、笑いが漏れる。
「いいえ。たしかに、そんな決まりはありませんわね」
リュネアも笑った。
「ヴェルシアナ様も、たぶんそう仰ると思います」
「似たようなことは、もう言われました」
「でしたら、やっぱり大丈夫です」
「何が大丈夫なのか、少し分からなくなってきましたわ」
二人で笑った。
その笑いが収まったあとも、胸の中にあった硬さは少しだけほどけたままだった。
友達にならなくていい。
今すぐ許さなくてもいい。
だからといって、嫌い続けなければならないわけでもない。
誰も答えを一つに決めてこないことが、こんなにも楽なのだと、エステルは初めて知った気がした。
同時に、それは少し怖くもあった。
正しい答えを誰かが決めてくれないなら、自分で選ばなければならないからだ。
◇
帰り際。
玄関へ続く回廊を歩いていたエステルは、庭側の扉の近くに銀色の髪を見つけて足を止めた。
ヴェルシアナがいた。
今日は来ていると聞いていなかったため、ほんの少し心臓が跳ねる。
彼女はフィオルネ伯爵夫人と話していた。
淡い色のドレスの上へ銀髪が流れ、その横顔には、子供らしい丸みと公爵令嬢らしい整い方が不思議なほど同居している。
綺麗だ、とエステルは思った。
昔から知っていたはずのことなのに、今日はそれを少し離れたところから、ただの事実として見られた。
伯爵夫人との話を終えたヴェルシアナが、こちらへ気づく。
紅紫の瞳が向いた瞬間、身体がわずかに強張った。
やはり、消えてはいない。
頭でどれだけ整理しても、昔から染みついた反応は、戸を閉めたあとにも部屋へ残る香りのように簡単にはなくならない。
エステルは、そのことを恥ずかしいとは思わなかった。
少なくとも今日は。
ヴェルシアナはすぐには近づいてこなかった。
伯爵夫人へきちんと一礼し、会話を終えてから、こちらへ歩いてくる。
「ごきげんよう、エステル様」
「……ごきげんよう、ヴェルシアナ様」
挨拶を返す。
これで終わってもよかった。
ヴェルシアナも、無理に会話を引き延ばそうとはしない。
「今日は、リュネア様に?」
「ええ。お借りしていた刺繍図案を返しに参りました」
「そうでしたの」
「ヴェルシアナ様は?」
「伯爵夫人に少しお話がありまして」
そこで言葉が途切れた。
昔なら、この沈黙が嫌だった。
何か言わなければならないと思った。
相手の機嫌を損ねない答えを探し、空白そのものを失敗のように感じていた。
今も、その癖が完全に消えたわけではない。
けれど、今日はすぐに言葉を足さなかった。
ヴェルシアナも黙っている。
その沈黙の中で、エステルは初めて、相手の顔をゆっくり見た。
姿勢は綺麗だった。
銀髪も、衣装も、立ち方も、どこから見ても公爵令嬢らしい。
ただ、紅紫の瞳の奥に、ほんの僅かな硬さがある。
エステルが何を言うか分からない。
だから、待っている。
そのことに気づいた時、胸のどこかで小さく何かが揺れた。
この人も、待つ時には緊張するのだ。
ずっと、自分だけが相手の機嫌を恐れているのだと思っていた。
相手の方にも、自分の返事を怖がる瞬間があるかもしれないなど、昔は考えたことすらなかった。
「……先日のことですけれど」
気づけば、自分から口を開いていた。
ヴェルシアナの瞳がわずかに動く。
「はい」
ただ、それだけ。
急かさない。
続きを先回りもしない。
「わたくし、まだ昔のことを、何も気にしていないとは言えません」
口にすると、思っていたより声は震えなかった。
けれど心臓の音は、耳のすぐ近くまで上がってきたように感じる。
相手はアルセリード公爵家の一人娘だ。
もっと曖昧に言うこともできた。
大丈夫です、と笑ってしまう方がずっと簡単だった。
ヴェルシアナは何も言わない。
だからエステルは、自分の言葉を続けるしかなかった。
「以前とは違うと、今も思っています」
その言葉は、先日の茶会でも口にした。
けれど今は、もう少し先まで言いたかった。
「でも、違うと分かったからといって、急に何も怖くなくなるわけではありません」
「……はい」
ヴェルシアナが静かに頷いた。
否定しない。
悲しそうな顔で、こちらへ罪悪感を持たせようともしない。
「それでも」
エステルは一度息を吸った。
「今のヴェルシアナ様まで、昔と同じだと思っているわけでもありません」
今度は、紅紫の瞳がほんの少し大きくなった。
その反応が意外だった。
もっと落ち着いて受け止めると思っていたのだ。
けれど、どうやらヴェルシアナも、何を言われるか分からないまま待っていたらしい。
「ですから……」
この先に何を置けばいいのか分からなくなる。
許します、では違う。
友達になりたい、もまだ違う。
それでも、このままずっと互いを避けるしかないとも思わなかった。
「またお会いした時に、お話しするくらいなら」
唇が僅かに乾く。
「……構いません」
言ったあとで、随分偉そうな言い方だったかもしれないと思った。
相手は公爵令嬢なのに、自分が許可するような言葉になってしまった。
謝ろうか迷った時。
ヴェルシアナの顔が柔らかくなった。
「ありがとうございます」
華やかな笑顔ではない。
ほんの少し口元が緩み、紅紫の瞳に張っていた緊張だけがほどける。
その表情を見た瞬間、エステルは不意に思った。
ああ。
この人は、こういう時に嬉しそうな顔をするのだ。
それも、知らなかった。
「でも、エステル様が無理をなさる必要はございませんから」
ヴェルシアナが続ける。
エステルは一瞬、言われた意味を考えた。
「……あの」
「はい?」
「今、わたくしから『お話ししても構わない』と申し上げたところなのですが」
ヴェルシアナの表情が止まる。
それから紅紫の瞳が、珍しく少し泳いだ。
「……そうでしたわね」
エステルは瞬きをした。
「はい」
「申し訳ございません。つい」
「つい?」
「無理をさせてはいけないと思いまして」
言いながら本人も、少しおかしいことに気づいたらしい。
考え込んでいる時の凛とした顔とは違い、どうしたものかと困ったように眉が寄っている。
その姿が、あまりにも予想外だった。
「ふふ」
笑いが漏れた。
自分でも驚いた。
ヴェルシアナはもっと驚いた顔をしている。
「どうかなさいました?」
「いいえ」
エステルは口元を押さえた。
「少しだけ、想像と違ったものですから」
「……わたくしが?」
「ええ」
以前にも似た言葉を口にした。
けれど、意味はもう違う。
あの時は、聞いていたヴェルシアナと、実際に目の前にいるヴェルシアナが違うという意味だった。
今は違う。
ここしばらく見てきた「以前とは違う、公爵令嬢らしく落ち着いたヴェルシアナ」よりも、目の前の少女は少し不器用で、少し心配性で、思ったよりずっと年相応だった。
それが可笑しかった。
「では、わたくしはこれで失礼いたします」
エステルは一礼する。
「はい」
ヴェルシアナも礼を返した。
「また――」
そこで、彼女は一度言葉を止めた。
先ほどの失敗を思い出したのだろう。
エステルは、急かさず待った。
「……また、お会いした時に」
少し慎重に言い直す。
その姿に、また笑いそうになった。
「ええ。その時に」
今度は、自然に答えられた。
◇
馬車がフィオルネ家を離れていく。
窓の向こうで庭の緑が流れ、やがて屋敷の屋根も木々の向こうへ隠れていった。
エステルは背もたれへ身体を預け、先ほど見た紅紫の瞳を思い出す。
色は何も変わっていない。
銀髪も。
強く整った顔立ちも。
黙っていれば、相手へ少し緊張を与える雰囲気も。
同じだった。
変わったのは、それらが自分へ向けられた時に何を感じるか、その全部ではない。
今だって、少し身構える。
昔の記憶がなくなったわけでもない。
ただ以前、その瞳を向けられた時には、正しい答えを探さなければならないと思っていた。
今日は違った。
あの瞳は、答えそのものを選ぼうとはしなかった。
許してほしい、とも。
もう怖がらないでほしい、とも。
友達になってほしい、とも言わず。
エステル自身が口を開くまで、ただ待っていた。
その待ち方が、奇妙なくらい心に残っている。
答えを急かされなかったから、自分でも初めて知ったのだ。
自分はまだ怖い。
けれど、もう話したくないわけではない。
昔を忘れるつもりはない。
それでも、今の彼女まで昔の形へ押し込めてしまいたいわけでもない。
相反しているように見えるものが、胸の中には同時に存在していた。
けれど、どちらかを捨てなければならない理由など、本当はなかったのかもしれない。
窓の外には、薄い雲が幾重にも重なっていた。
その隙間から差す夕方の光は、一本の真っ直ぐな線にはならず、場所によって濃くなったり薄くなったりしながら地上へ落ちている。
雲があるからといって、光が嘘になるわけではない。
光が差したからといって、雲が消えたことにもならない。
たぶん、人を見ることも、それくらい複雑でいい。
エステルは窓枠へ指を添えた。
次にヴェルシアナと会った時には、もう少し話してみようと思う。
許すためではない。
友達になると決めたわけでもない。
まして、昔の自分へ「もう怖がらなくていい」と言い聞かせるためでもなかった。
ただ、今そこにいる人を、もう少し知ってみたい。
今日見つけた、不器用に言葉を言い直す少女のように。
それがどんな答えへ繋がるのかは、まだ分からない。
けれど今のエステルは、その分からなさを以前ほど怖いとは思わなかった。
答えを待ってくれる人の前なら、自分も急いで答えを作らなくていい。
そう思えたことだけを、馬車が家へ着くまで、胸の中で静かに確かめていた。




