第19話 その人が欲しいものは、わたくしではない
セレグラン男爵が屋敷を訪れた翌日、俺の生活は驚くほど普通に始まった。
昨日まで他家の思惑や王太子妃という将来について考えていたからといって、朝食が遅くなるわけでもなければ、今日覚えるべき王国史の年号が消えてくれるわけでもない。いつもの時間に起こされ、ミレーヌに髪を整えてもらい、両親と朝食を取り、その後は予定通り歴史の授業へ向かった。
この世界へ来てから、人生を左右しそうな出来事が続いているせいで忘れそうになるが、俺はまだ五歳である。
しかも、原作におけるヴェルシアナは教養面でもかなり優秀だった。破滅を避ける以前に、公爵令嬢として求められる水準へ追いつかなければならないという現実は、俺がどれほど難しいことを考えていようと容赦なく残り続ける。
「アルヴェネア王国が、現在の南方国境を確定させた条約は何でしょう」
教師から問われ、俺は頭の中で先ほどまで見ていた地図を思い返した。
「リューデン条約、ですわ」
「締結年は?」
「王暦三百十二年」
「正解です」
答えられたことに少し安堵しながら、俺は手元の帳面へ視線を落とした。
前世の俺なら、試験でもないのに五歳からここまで年号を覚えさせられる生活など御免だと思っただろう。ただ、実際に学んでみると、歴史そのものは思っていたほど退屈ではない。
ゲームでは「何年に戦争があり、どの家が王家を支えた」という程度の背景設定だった出来事にも、実際にはいくつもの領地や家が関わっていて、その時代を生きた人間の事情がある。
今日扱っていたリューデン条約も同じだった。
王国全体から見れば南方国境を安定させた重要な条約だが、国境付近の一部領地では交易路が変わったことで収入を失い、その後十年以上にわたって立て直しに苦労したらしい。
授業が終わる頃、教師が教材をまとめながら何気なく口を開いた。
「最近のお嬢様は、以前よりご質問が増えましたね」
「多すぎます?」
「いいえ。むしろ、答えそのものより『なぜそうなったのか』を気にされることが増えたように思います」
少し意外だった。
「以前のわたくしは、違いましたの?」
「正しい答えを覚えることは、とてもお得意でございました。年号や人物名も、一度お教えすればかなり正確に覚えておられましたよ」
「それなら悪いことではありませんわね」
「もちろんでございます。ただ、歴史は答えを覚えるだけの学問でもございません。同じ出来事であっても、王家から見た記録と地方領主から見た記録では意味が異なることがございますし、国全体にとって成功だった政策が、ある地域の人間にとっては苦しい結果を生む場合もあります」
そこで教師は、先ほど使っていた地図を俺の前へもう一度広げた。
「たとえば本日の条約も、王都では長らく『南方安定の礎』と評価されてまいりました。しかし、この地域では交易路が変わったことで商人が減り、領民が困窮しています。起きた出来事そのものは同じでも、どこに立って見るかによって、その出来事が持つ意味は変わるのです」
「では、正しい歴史がいくつもあるということ?」
「起きた事実は一つです。ただし、その事実をどう受け止めたかまで一つとは限らない、ということです」
その言葉を聞いた瞬間、昨日から頭の中に引っかかっていたものが少し形になった気がした。
セレグラン男爵にとって、俺とアレクシスが婚約する未来は自家の立場を良くする機会なのかもしれない。
ナディアにとっては、それが俺の幸福に見えている。
父にとっては、政治的な価値を理解しながらも、娘の意思を無視して決めるべきではない問題として映っている。
そして俺自身にとっては、まだ選びたくない未来だ。
同じ婚約という出来事でも、立っている場所によって意味が違う。
「先生」
「はい」
「もし同じ出来事について、皆が自分に都合の良い意味をつけていたら、どうすれば本当のことが分かりますの?」
教師は少し驚いたように目を瞬かせ、それから考えるように顎へ指を当てた。
「随分と難しいご質問をなさいますね」
「最近、そういうことが気になるのです」
「でしたら、まずは事実と解釈を分けて考えることでしょう。誰が何をしたのか、何を言ったのか、いつ何が起きたのか。そこまでは確認できる事実です。しかし、なぜその行動を取ったのか、本人が何を思っていたのかという部分になると、他人が完全に理解することは難しくなります」
「本人が嘘をつくこともありますわよね」
「もちろんございます」
「では、最後まで分からないことも?」
「あります」
あまりにも普通に言われたので、思わず教師を見る。
「それでよろしいのですか?」
「人間について何もかも理解できると考える方が、かえって危険かもしれません。分からない部分が残っていると知ったまま、それでも判断しなければならないことが世の中にはございますから」
また一つ、簡単な答えでは終わらない話が増えた。
けれど、以前のようにそれを不安だとは思わなかった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。ただし、次回までに本日の条約についても復習なさってください」
「そこは忘れてくださらないのですね」
「歴史教師でございますので」
どうやら教師という肩書きは、何かと便利らしい。
◇
昼食前、廊下を歩いていると、父の執務室からナディアが出てくるところに出会った。
俺の姿に気づくと、彼女は足を止め、いつもと変わらない美しい所作で礼をする。
「お嬢様」
「ごきげんよう、ナディア」
「これからお昼でございますか?」
「ええ。ナディアは、お父様とお話をしていましたの?」
聞いたあとで、少しだけ気をつける。
父が彼女へ何を確認したのかを探るつもりはない。
しかしナディアは特に警戒した様子も見せず、むしろ自分から答えた。
「昨日、兄がご挨拶へ伺いましたので、その件についていくつか確認を受けておりました」
「そうでしたの」
「はい」
表情を見る限り、父と激しく揉めたようには見えない。
ただ、普段より僅かに疲れているようにも感じた。
「お兄様とは、よくお会いになるの?」
「頻繁ではございません。手紙のやり取りはいたしますが、直接会うのは数か月に一度ほどでしょうか」
「仲が良いのですね」
「家族でございますから」
自然な答えだった。
「お兄様のお家は、今大変なの?」
今度はナディアの目がほんの僅かに動いた。
「どなたからお聞きになりました?」
「お父様から、水路について相談があったと伺いました」
財政状況まで聞いているとは言わない。
「左様でございましたか」
ナディアは小さく息を吐き、廊下の窓の外へ一瞬だけ視線を向けた。
「ここ数年、セレグラン領はあまり良い状態ではございません。兄も、領地を立て直すために随分苦労していると思います」
「ナディアは、お兄様を助けたい?」
「もちろんでございます」
そこには迷いがなかった。
「家族ですもの」
ミレーヌも似たことを言っていた。
家族が困っていれば助けたい。
それ自体には何の不自然さもない。
「では、ナディアにできることがあるなら?」
「できる範囲であれば、力になりたいと思っております」
「そうですわよね」
「何か気になることでもございましたか?」
「いいえ。少し前にミレーヌとも、家族のために何をするのかというお話をしたことがありましたので」
嘘ではない。
ナディアはそれ以上踏み込まず、俺を見ながら柔らかく微笑んだ。
「お嬢様は最近、周囲の方のお気持ちを以前より深くお考えになるようになりましたね」
「以前は違いました?」
「以前は、ご自分のお気持ちをとても真っ直ぐに表される方でした」
ずいぶん優しい言い方だ。
おそらく「我慢せず、思ったことをすぐ口にしていた」という意味なのだろう。
「ナディアは、昔のわたくしの方が好きでした?」
何気なく聞いたつもりだった。
しかし彼女は、すぐには答えなかった。
窓から入る昼前の光が、横顔を淡く照らしている。
「今のお嬢様も、大切でございます」
「昔の方が好きだったかと聞きましたのに」
少し意地悪だったかもしれない。
それでもナディアは不快そうな顔をせず、静かに俺を見る。
「以前のお嬢様は、とても素直でいらっしゃいました」
「今は素直ではない?」
「今は、一度ご自分で考えてからお話しになることが増えましたね」
「それは悪いこと?」
「いいえ」
否定は早かった。
けれど、その声にはどこか寂しさが混じっていたように聞こえた。
「ただ、以前はわたくしがお伝えしたことを、もっとそのまま受け取ってくださっておりました」
その言葉に、胸の奥で小さな引っかかりが生まれる。
扱いやすかったから昔のヴェルシアナを好んでいたのだろうか、と一瞬考えた。
しかし、すぐにその結論を止める。
今朝の歴史教師との会話を思い出す。
事実と解釈は分ける。
ナディアがそう言ったことは事実だ。
それを「言うことを聞く子供の方が都合が良かった」と解釈するには、まだ情報が足りない。
「今は、わたくしがナディアを疑っているように感じますの?」
尋ねると、彼女は一度だけ視線を伏せた。
「以前より、わたくしの言葉を疑っておられるとは感じております」
否定できない。
「ごめんなさい」
思わず謝ると、今度はナディアが驚いた。
「なぜ謝られるのです?」
「疑われるのは、あまり気分の良いことではないでしょう?」
しばらく俺を見つめたあと、彼女は穏やかに首を横へ振った。
「お嬢様が何をお考えになるかは、お嬢様の自由でございます。ただ、わたくしは以前と変わらず、お嬢様のお幸せを願っております」
また、その言葉だった。
けれど今は、以前のように「信用してはいけない言葉」とだけ思うことはできない。
「ありがとうございます」
俺はそれだけを返した。
問題は、ナディアが俺の幸せを願っているかどうかではない。
彼女の考える幸せと、俺自身が選びたい幸せが違った時にどうなるのか。
そこなのだ。
◇
昼食後、父の書斎へ呼ばれた。
先ほどナディアが出てきたばかりの部屋へ戻る形になる。
今日は父だけだった。
「ナディアと話した」
「先ほど廊下で会いました」
「何か聞いたか」
「お兄様とは数か月に一度くらい会うことと、セレグラン領が大変なので、自分にできることなら助けたいと思っていることくらいです」
父の眉が僅かに寄る。
「探りを入れるなと言っただろう」
「普通のお話ですわ」
「最近のお前の『普通』は信用しにくい」
「酷いです」
とはいえ、多少心当たりがあるため強く反論はできない。
「それで、ナディアは何と?」
父は少し考えてから、机の上に置かれた書類へ目を落とした。
「先に結論から言えば、昨日のセレグラン男爵との面会について、不自然な嘘はなかった」
「本当?」
「ああ。水路整備について兄から相談を受けていたことも認めたし、私へ商会の紹介を頼みたいという話を以前から聞いていたことも一致している」
「では、そこは秘密のお話ではなかったのですね」
「少なくとも、その件についてはな」
父は続ける。
「王太子殿下との婚約についても確認した。ナディアは、お前と殿下の婚約が正式に決まっていないこと自体は理解している」
「でも、セレグラン男爵様はかなり話が進んでいると思っていたのでしょう?」
「ああ」
「どうしてですの?」
「ナディアが兄へ、『良いご縁になると思う』『いずれ正式に話が進むだろう』という趣旨のことを何度か伝えていたそうだ」
昨日までに聞いてきた彼女の言葉と一致する。
「それで、お兄様はほとんど決まったものだと思うようになった?」
「可能性は高い」
「ナディアが、わざと誤解させたの?」
「本人は否定している」
「何と?」
「自分自身も、本当にそうなると考えていた、と」
それを聞いて、意外というより、妙に納得してしまった。
ナディアは俺にも同じことを言っている。
公爵家の娘で、高い魔力があり、容姿にも教養にも恵まれているのだから、その先にある王太子妃という立場は自然なのだ、と。
「お父様は、嘘だと思います?」
「今のところ、そう断定する理由はない」
もし嘘なら話は単純だった。
兄と結託し、俺を王太子妃にすることで男爵家の地位を上げようとしている。
そういう目的であれば、相手を敵として警戒すればいい。
しかし、ナディアが本当にそれを俺の幸福だと信じているのなら、問題の形そのものが変わってくる。
「お父様は、ナディアに王太子妃についてどう考えているか聞きましたの?」
「ああ」
「わたくしに話したのと同じでした?」
「概ね同じだ。お前ほど恵まれた人間が王家へ入ることは自然であり、王太子殿下との関係が良好なのであれば、あえてその未来を避ける理由が分からないと話していた」
「お父様は何と?」
「お前自身がまだ分からないと言っている以上、周囲が先に最善を決めるべきではないと伝えた」
「ナディアは?」
父が少しだけ表情を曇らせた。
「納得していない」
やはり、そこなのだ。
「怒ったのですか?」
「いや。反論した。五歳の子供には、将来の価値を正しく判断できないこともある、と」
俺は少し考え、それから頷いた。
「それは、一部は正しいですわよね」
父が僅かに驚いたようにこちらを見る。
「わたくしは五歳ですもの。今の考えだけで一生のことを決めるのも危ないでしょう?」
「そうだ」
「でも、だからといってナディアが代わりに全部決めるのも違います」
「私もそう伝えた」
そこが難しい。
子供の意思を尊重することと、何でも子供に決めさせることは同じではない。
父は、俺が判断できない部分を大人として支えながらも、本人の意思そのものを消さないようにしようとしている。
ナディアは、まだ判断できない子供だからこそ、大人が最善だと思う未来へ導くべきだと考えている。
どちらも、俺を大切にしているという点だけなら同じなのかもしれない。
それでも、その先に待つものは大きく違う。
「それから一つ、重要なことを確認した」
父の声が少し低くなった。
「何を?」
「セレグラン男爵が、お前と王太子殿下の婚約を自家の利益へ繋げようとしていることを、ナディアが認識しているかどうかだ」
核心に近い。
「何と答えましたの?」
「知っていた」
胸の奥が僅かに重くなる。
けれど、そこで結論へ飛びつかないよう意識する。
「どこまで?」
「兄が、自分の立場やセレグラン家の今後にとって、お前が王家へ入ることを好都合だと考えていることは理解していたそうだ」
「それについて、ナディアは何と?」
「家族として気持ちは理解できる、と。また、セレグラン家が少しでも立て直せるなら自分も嬉しいと話した」
俺は椅子の背へ少しだけ身体を預けた。
ナディアは家族を助けたい。
俺が王太子妃になれば、セレグラン家にも利益が生まれる可能性がある。
そしてナディア自身は、俺が王太子妃になることこそ幸福だと本気で信じている。
彼女の中では、それらが衝突していない。
俺が幸せになり、兄の家も助かる。
だから両方を望むことに、矛盾を感じていないのだろう。
「お父様」
「何だ」
「ナディアは、わたくしを利用していると思います?」
父はすぐには答えず、しばらく机の上の書類を見た。
「その言葉だけでは判断しにくい」
「どうして?」
「誰かの行動によって自分にも利益が生まれると知っているだけで、必ずしもその人間を道具として見ていることにはならないからだ」
確かにそうだ。
俺が何かをした結果、家族や友人にも良いことがある。そのことを喜んだからといって、すぐに俺を利用しているとは言えない。
「では、どこから利用になるの?」
「相手の意思より、自分の利益や望みを優先し始めた時だろうな」
父の答えは、思っていたより単純だった。
「ナディアは?」
「そこは、まだ分からん」
「今日ここまで聞いても?」
「ああ」
父は少しも急がない。
「今のところ、ナディアは兄のためにお前を王太子妃へしようとしているというより、お前が王太子妃になること自体を最善だと信じ、その結果として兄の家にも利益があるなら良いと考えているように見える」
順番が違う。
兄のために俺を王太子妃にするのではなく、俺は王太子妃になるべきで、その未来が兄の家まで救うならさらに良い。
ナディアの中では、そうなのかもしれない。
「それなら、問題ではないの?」
「お前自身が同じ未来を望んでいる間は、表面上は大きな衝突が起きにくいだろう」
「では、望んでいなかったら?」
父はまっすぐ俺を見る。
「その時に、その人間が何を最優先するのかが分かる」
その一言で、今までぼんやりしていた問題が急に輪郭を持った。
今は皆の望みが同じ方向を向いている。
ナディアは俺が王太子妃になることを望み、セレグラン男爵もそれを望んでいる。
王家にとっても公爵家との縁は悪い話ではなく、アルセリード家にとっても政治的には大きな不利益がない。
その状態では、ナディアが「ヴェルシアナ本人」を大切にしているのか、それとも「王太子妃になるヴェルシアナ」を大切にしているのか、はっきり見分けることができない。
もし将来、俺が本気で別の道を選んだ時。
その時に初めて、彼女が何を守ろうとしているのかが分かる。
「わたくしが王太子妃にはなりたくないと言ったら、その時のナディアを見るということですのね」
「ああ」
「……少し怖いですわ」
「何がだ」
「その時に、ナディアがわたくしではなく、『王太子妃になるヴェルシアナ』の方を選んだらと思うと」
父はしばらく俺を見つめていた。
やがて、静かな声で言う。
「そうなったとしても、私がいる」
「お父様が?」
「お前は五歳だ。なぜ一人で全部を背負う前提で話している」
思わず黙った。
「わたくしが始めた話だから」
「違う」
父ははっきり否定した。
「これは元々、大人が作った問題だ。王家との婚約話も、ナディアの教育方針も、セレグラン家との関係も、お前が生まれる前から存在している事情の上に積み重なっている。お前が自分で考えようとすることは良いが、それらすべてを五歳のお前が解決しなければならない理由はない」
「でも、わたくしの人生です」
「ああ。だからお前が何を望むのかは聞く」
父は一度言葉を切り、それから続けた。
「そして、その意思を守るために必要な判断をするのは、親である私やセレフィアの仕事でもある。お前一人が、未来を知っているつもりになって全部を背負う必要はない」
一瞬、胸の奥が詰まった。
最後の言葉だけ、妙に深く刺さった。
父はもちろん、俺が本当に未来を知っているなどと思ってはいない。
それでも、転生してからの俺の姿は、そう見えていたのかもしれない。
俺はずっと、破滅を避けなければならないと思ってきた。
処刑される可能性を知っているのは自分だけで、だから自分が全部を変えなければならないのだと、どこかで思い込んでいた。
けれど今の俺には、父がいる。
母がいる。
ミレーヌも、エルダ夫人も、ヴィクトルもいる。
俺が以前とは違う行動を始めたことで、周囲の人たちも少しずつ考え方や接し方を変えている。
未来を変えるというのは、自分一人で盤面の駒を動かすことではないのかもしれない。
周囲の人間と話し、その人たちも自分の意思で違う選択を始める。
それもまた、原作とは違う未来を作る方法なのだろう。
「ありがとうございます、お父様」
「礼を言うようなことではない」
「それでも言いたいので」
父は少しだけ目を逸らした。
「なら受け取っておく」
照れているのかもしれない。
そう思ったが、本人へ言えば否定するに決まっているので、口にはしなかった。
◇
その日の午後、リュネアから手紙が届いた。
押し花がそろそろ乾きそうなので、数日後にまた遊びに来てもよいかという内容だった。
たったそれだけの手紙なのに、頭の中に積み重なっていた難しい話が少しだけ軽くなる。
「リュネア様からでございますか?」
ミレーヌが尋ねる。
「ええ。栞の続きを作りたいそうですわ」
「楽しみですね」
「今度こそ、刺繍でも少しくらい成長したところを見せたいです」
「栞にも刺繍をなさるのですか?」
「できますの?」
「布を使ったものでしたら」
「では、練習しましょう」
「お嬢様」
「何ですの?」
「魔法のお稽古もございます」
「知っていますわ」
「歴史の復習もございます」
「それも知っています」
「昨日、音楽の先生からも次回までに練習をするよう言われておりました」
そこで言葉に詰まる。
「……少しくらい休んでもよろしいのでは?」
「すべてお嬢様がご自分から始められたことでございます」
ミレーヌが笑う。
「趣味が増えるというのも、大変ですわね」
「とても楽しそうで何よりでございます」
その言葉に、俺は少しだけ手を止めた。
楽しい。
確かに、最近の俺はそう感じることが増えている。
魔法を学ぶのが面白い。
リュネアと過ごす時間も楽しい。
ミレーヌとくだらない話をするのも好きだ。
アレクシスと馬に乗った日だって、思い返せば素直に楽しかった。
この世界へ来た直後には、そんなことを考える余裕などなかった。
処刑されたくない。
破滅したくない。
最初はそれだけだった。
けれど最近は、死なないためだけではなく、この世界で普通に生きたいと思う時間が少しずつ増えている。
危険を避けるためだけの十年間ではなく、何かを好きになり、誰かと親しくなり、失敗しながら覚えていく十年間にできるかもしれない。
その変化は、自分でも悪くないと思った。
◇
夕方の魔法授業では、ヴィクトルが新しい練習道具を用意していた。
机の上に細い木製の輪が三つ並べられ、その手前には小さく折った紙片が置かれている。
「今日は何をいたしますの?」
「風を使って、この紙片を輪へ通していただきます」
「三つ全部?」
「まずは一つです」
「まだ何も言っていませんのに」
「お嬢様が三つすべてを見ていらしたので」
最近、この人も俺の考えていることを読むようになってきた。
一つ目の輪は紙から近い。
二つ目は少し離れ、三つ目は高さまで違っている。
「紙を飛ばすだけなら簡単そうですわね」
「飛ばすだけなら、です。強く吹けば輪の横を通り過ぎますし、弱すぎれば届きません。今日は一つ目の輪を安定して通すところまで行います」
最初の一回は、紙が輪の右側を通過した。
二回目は手前で落ちる。
三回目でようやく輪をくぐったが、今度は勢いが強すぎて机の端まで飛んでいった。
「入りましたわ」
「通すだけではなく、その先まで制御してください」
「厳しいですわね」
「訓練ですので」
何度も試しているうちに、少しずつ風の当て方が分かってくる。
力を増やすのではなく、紙片の下へ薄い空気の流れを滑り込ませるような感覚で押す。
その方が軌道が安定する。
五回、六回と繰り返す頃には、ほとんど同じ位置を通るようになった。
「お嬢様は、一度感覚を掴んでからの再現が早いですね」
「才能ですの?」
少し意地悪に尋ねる。
以前の話を覚えているからだ。
ヴィクトルは少しも困らなかった。
「その部分には、才能があるのでしょう」
あまりにも普通に認められたため、逆に驚いた。
「言うのですね」
「事実を否定する必要はございません」
「先生は、才能を褒めすぎるのはよくないと仰っていましたでしょう?」
「才能を存在しないことにするのも違います。お嬢様は同年代と比較して魔力量が多く、感覚を掴む速度も速い。これは現時点で確認できる長所です」
「はい」
「ただし、そのことと努力が不要であることは別ですし、他人より優れている部分があることと、人間として他人より価値が高いことも別です」
「そこまで分かっていれば、喜んでもいい?」
「もちろんでございます」
少し嬉しくなる。
「では、喜びますわ」
「どうぞ」
「先生も少しくらい一緒に喜んでくださいな」
ヴィクトルはほんの少し笑った。
「よくできました、お嬢様」
それで満足した自分が、少し単純で可笑しかった。
でも、褒められて嬉しいという感情まで否定する必要はない。
それを自分の価値のすべてにしなければいいだけなのだ。
◇
授業を終え、ミレーヌと一緒に訓練室から自室へ戻る途中だった。
中庭へ続く回廊を通りかかったところで、少し先から人の話し声が聞こえた。
女性の声。
ナディアだ。
そして、もう一人は男性だった。
俺は無意識に足を止める。
「お嬢様?」
ミレーヌが小さく呼ぶ。
柱の向こうに見えた横顔で、相手が誰なのか分かった。
セレグラン男爵。
昨日、正式に父と面会したばかりの男が、今日もアルセリード邸にいる。
以前と似た状況だった。
胸の中に警戒が生まれたものの、俺はすぐにその場を離れようとした。
盗み聞きをするつもりはない。
たとえ怪しいと思っていても、相手が家族同士で話しているところへ隠れて耳を澄ませるような真似はしたくなかった。
しかし、向きを変えようとした瞬間、風向きのせいか男爵の声が一部だけ耳へ届いた。
「……せっかく殿下とも順調なのだろう」
足が止まった。
聞くつもりはなかった。
それでも、自分に関係する言葉を聞き流すことは難しい。
ナディアの返事は声が小さく、内容までは分からなかった。
続いて男爵の声が聞こえる。
「お前がここまで育てたのだから、そのまま――」
「兄様」
今度はナディアの声がはっきり聞こえた。
怒鳴ったわけではない。
けれど、これまで俺が聞いたことのないほど明確に相手の言葉を遮る声だった。
その後、二人の声は低くなり、内容は聞き取れなくなった。
俺はそこでようやく足を動かした。
「行きましょう、ミレーヌ」
「よろしいのでございますか?」
「これ以上は聞くべきではありませんわ」
その場を離れながらも、耳に残った二つの断片が頭から消えなかった。
殿下とも順調。
お前がここまで育てた。
それだけでは、男爵が何を言おうとしていたのかは分からないし、ナディアが何を理由に兄を遮ったのかも分からない。
ただ、これまで集めてきた情報と重ねれば、単なる兄妹の世間話として気にせず流すには、少し大きすぎる引っかかりが残った。
◇
夕食の席で、俺はそのことを父へ伝えた。
「今日、セレグラン男爵様がまた屋敷へいらしていたようです」
父の手が止まった。
「何?」
「中庭の近くで、ナディアとお話をしていました」
「正式な訪問予定は入っていない」
声が僅かに低くなる。
母も表情を変えた。
「また裏の通路から?」
「そこまでは分かりません。偶然見かけただけです」
「何か聞いたのか」
「少しだけ聞こえてしまいました」
俺は聞こえた言葉を、そのまま伝えた。
男爵が「殿下とも順調なのだろう」と言ったこと。
「お前がここまで育てたのだから、そのまま」と続けかけたこと。
そこでナディアが、普段より強い声で兄を止めたこと。
余計な解釈は加えなかった。
父はしばらく考えたあと、近くに控えていた使用人へグレンを呼ぶよう指示を出した。
「わたくし、盗み聞きはしていませんわ」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ。ただし、今後同じ場面に出会っても一人で近づくな」
「近づきません」
「追いかけるな」
「しません」
「問い詰めるな」
「お父様の中で、わたくしはどれだけ危険な五歳児なのです?」
父がこちらを見る。
「自覚がないのが一番困る」
母が口元を押さえて笑っている。
納得はいかない。
とはいえ、これまで自分から色々と調べようとしてきた実績を考えると、完全には否定できなかった。
その日の夕食では、それ以上セレグラン男爵について話さなかった。
父たちが確認する。
俺は待つ。
少し前なら、それだけのことが難しかった。
今は、待つことそのものも一つの選択なのだと思えるようになっていた。
◇
翌朝、朝食を終えたあとで父から呼ばれた。
書斎へ向かうと、父はすでにグレンと話を終えたところらしく、机の上には昨夜の調査内容と思われる紙が置かれていた。
「昨日の件について確認した」
「男爵様は、やはり正式な訪問ではなかったのですか?」
「ああ。前回とは別の使用人用通路から入っている」
「どうして通れたの?」
「ナディアの名を出したらしい」
胸の奥が少し冷える。
「ナディアが呼んだの?」
「まだ確認していない。男爵が勝手に来た可能性もある」
「はい」
先へ進みかけた考えを止める。
ナディアの名を使った。
そこまでは事実。
ナディアが呼んだかどうかは不明。
「ただし」
父は書類から視線を上げた。
「今回は見過ごせない」
これまで慎重だった父が、初めて明確にそう言った。
「今日、ナディア本人へ確認する」
心臓が少し速くなる。
「わたくしも一緒に?」
父はすぐには答えず、しばらく考えた。
「途中から同席させる」
「本当に?」
「ああ。ただし、お前が尋ねてよいのは、お前自身についてのことだけだ。セレグラン男爵家の財政や兄妹間の話は私が聞く」
「分かりました」
「感情的になった場合は、その場を外してもらう」
「努力しますわ」
「努力ではなく守れ」
「……はい」
厳しい。
でも、今回ばかりはその方がいい。
俺は自分が冷静でいられる保証などできない。
ナディアはこの五年間、元のヴェルシアナに最も近かった人間の一人なのだから。
◇
書斎を出たあと、自室へ戻る。
机の上には魔法の本が積まれ、窓辺ではリュネアと栞にするための押し花が乾いていた。
少し前までなら、俺の世界は処刑ルートと攻略対象のことばかりだった。
今は、その間にこうした日常が増えている。
だからこそ、これからナディアと話すことが余計に現実味を持って感じられた。
「お嬢様」
ミレーヌが心配そうにこちらを見る。
「怖いですか?」
少し考えてから、俺は正直に頷いた。
「少しだけ」
「ナディア様が嘘をついていたら?」
「それも怖いですわ」
「では、本当のことを仰っていたら?」
その質問には、すぐには答えられなかった。
もしナディアが本当に俺を大切にしているのなら。
これまで俺へしてきたことのすべてを、心から「ヴェルシアナのため」だと思っていたのなら。
そちらの方が、単純な悪意よりずっと難しい。
「それも怖いです」
「どうして?」
「嫌いになれば済む相手ではなくなるからでしょうね」
言いながら、自分でも少し分かった。
ナディアが単純な悪人であれば、距離を取って終われる。
しかし、彼女が本当に元のヴェルシアナを愛していたのなら、その五年間まで否定することはできない。
「お嬢様は、ナディア様を嫌いになりたいのでございますか?」
「分かりません」
最近、この答えが増えた。
「ただ、昔のわたくしがナディアを好きだった可能性は、とても高いでしょう?」
「はい」
「ナディアも、昔のわたくしを大切にしていたように見えます」
「はい」
「でしたら、それを全部嘘だったことにはしたくありません」
俺には、その五年間の記憶がない。
泣いた夜に手を握ってもらったことも、熱を出した時に付き添ってもらった時間も、何も覚えていない。
だからこそ、その時間を勝手に偽物だと決める権利もない気がした。
「でも、大切にしてくださっていたからといって、何をされてもいいわけではありませんわ」
ミレーヌは静かに頷く。
「たぶん今日は、それを聞きたいのだと思います」
「何を?」
俺は少しだけ窓の方を見る。
乾いた花は、薄い紙の間で静かに形を残している。
「わたくしがナディアの思い描いた未来とは違う道を選んでも、それでもナディアはわたくしの味方でいてくださるのか」
口にすると、思っていた以上に重い問いだった。
答えが欲しい。
けれど同時に、欲しくない気もする。
もし答えが「いいえ」に近いものだったら。
俺は、元のヴェルシアナが信じていた相手について、一つ大きなものを失うことになるのかもしれない。
◇
午後。
父の書斎へ呼ばれた時、ナディアはすでに中にいた。
父と母、グレン、そしてナディア。
普段の書斎とは明らかに空気が違う。
「お呼びでしょうか」
「入れ」
父に促され、母の隣へ座る。
ナディアと目が合った。
彼女はいつものように微笑もうとした。
けれど今日は、その笑みが僅かに硬い。
「お嬢様までいらっしゃるのですね」
「お前がヴェルシアナについて話してきたことは、本人にも関係する」
父の声は静かだった。
机の上には一枚の書類が置かれている。
「昨日、セレグラン男爵が再び屋敷へ入った」
「はい」
ナディアは否定しなかった。
「お前が呼んだのか」
「いいえ」
即答だった。
「兄が突然参りました」
「なぜ正式な門を使わせなかった」
「すぐに帰ると申しておりましたので」
「前回も同じことをしたな」
「……はい」
「貴族家の当主を、使用人の親族訪問と同じ扱いで入れてよいと思ったのか」
ナディアが視線を落とす。
「そこは、わたくしの判断が軽率でございました」
「理由は」
「兄が、公に訪問するとアルセリード家へ迷惑をかけるかもしれないと申しましたので」
「なぜ迷惑になる」
「自家の財政状況について、周囲へ知られたくなかったのだと思います」
父はすぐに次の質問へ移らなかった。
相手の言葉を一度受け止め、考えている。
「何を話した」
「昨日の旦那様との面会についてでございます」
「他には」
僅かな間があった。
「お嬢様と、王太子殿下について」
部屋の空気が少しだけ変わる。
「何と話した」
「兄は、殿下とのご関係が順調なのであれば、このまま婚約へ進むようお嬢様をお支えするべきだと申しました」
昨日聞こえた言葉と一致している。
「お前は何と答えた」
「今はまだ何も決まっていないと伝えました」
俺は思わずナディアを見る。
彼女自身は王太子妃になることが俺にとって最善だと考えている。
それなのに、兄へは「決まっていない」と伝えた。
「なぜ?」
父も同じところが気になったらしい。
ナディアは俺の方へ一瞬視線を向けた。
「旦那様から昨日、改めてお話をいただきましたので」
「私に言われたからか」
「それだけではございません」
彼女の指が膝の上で僅かに組み直された。
「お嬢様が今はまだお決めになりたくないと仰っていることは、理解しております」
少しだけ胸が軽くなる。
しかし、それだけでは終わらない。
「でも」
俺は父の様子を確認してから口を開いた。
「ナディアは、将来なら王太子妃になるのが一番だと思っていますのよね?」
父は止めなかった。
ナディアも、俺から視線を逸らさない。
「はい」
答えは変わらない。
「では、お兄様と同じではありませんの?」
「違います」
今まで聞いた中で、一番早い返答だった。
思わず目を見開く。
「何が違うの?」
ナディアの表情が揺れる。
「兄は……」
言葉が止まる。
父も母も、続きを急かさない。
やがてナディアは、ゆっくりと話し始めた。
「兄は、お嬢様が王太子妃となられることで、セレグラン家の立場が良くなることを期待しております」
「ナディアも、それは嬉しいのでしょう?」
「はい」
そこは否定しない。
「では、何が違いますの?」
「それが、わたくしにとって一番ではないからでございます」
普段より少しだけ強い感情が声に混じっていた。
「一番は?」
俺が尋ねる。
ナディアはまっすぐ俺を見る。
「お嬢様がお幸せになることです」
迷いがなかった。
あまりにも真っ直ぐに言われたため、胸の奥が詰まる。
「でも、ナディアはその幸せを王太子妃になることだと思っている」
「はい」
「では、わたくしが違うと言ったら?」
部屋が静かになる。
この問いは、父も聞きたかったことなのだろう。
ナディアはすぐに答えなかった。
今まで彼女は、どれだけ言葉を選んでも最後には必ず自分の答えを持っていた。
けれど今回は、明らかに違う。
「もし」
俺は急かさないように、ゆっくり続ける。
「もっと大きくなったわたくしが、自分で色々見て考えて、それでも王太子妃にはなりたくないと言ったら、ナディアはどうしますの?」
彼女の唇が僅かに動いた。
「その時には……」
そこで止まる。
長い沈黙のあと、俺は静かに尋ねた。
「分からない?」
ナディアが視線を落とした。
「……はい」
初めてだった。
彼女が、自分の考えについて「分からない」と認めたのは。
「わたくしは、お嬢様には何一つ諦めていただきたくないのです」
しばらくして、ナディアがゆっくりと話し始めた。
「何を?」
「何もかもです」
「王太子妃にならないことが、諦めることなの?」
「この国で、お嬢様ほどの方が手にできるものを、自ら手放す必要があるとは思えません。高い立場におられれば、お嬢様を軽んじる者はいなくなりますし、誰かの都合で望むものを諦めさせられることも少なくなるでしょう。ご自分の大切な方々を守る力だって持つことができます」
以前と同じ考え方だ。
けれど今日は、その言葉の奥に今まで見えなかった必死さがあった。
「でも、王太子妃になれば何でも自由になるわけではないと、お母様から聞きましたわ」
ナディアの目が少しだけ揺れる。
「それでも、持たない者より選べるものは多いのです」
その返答は、今までより早かった。
「ナディア」
「はい」
「それは、あなたがそうだったから?」
聞いた瞬間、彼女の表情が止まった。
母が俺を見る。
父も何も言わない。
ナディアはすぐには返事をしなかった。
「この国では、立場によって諦めなければならないことがあると、以前仰いましたでしょう?」
「……はい」
「ナディアも、何かを諦めたの?」
長い沈黙。
やがて、彼女はごく小さく首を横へ振った。
「今は、お嬢様へお話しするようなことではございません」
拒絶というより、閉じたような言い方だった。
父が静かに口を開く。
「お前自身の過去に関わることか」
ナディアの肩が僅かに強張った。
「レオルディス様」
「無理に話せとは言わない」
父の声には責める響きがない。
「ただし、自分が経験したことをヴェルシアナの未来へ重ねているのなら、その自覚は持て。お前が何を諦めたのかは知らんが、この子がお前と同じものを失うと決まったわけではない」
ナディアの顔が、一瞬だけ苦しそうに歪んだ。
ほんの一瞬だった。
すぐにいつもの表情へ戻ろうとした。
けれど俺は見ていた。
この人にも、俺の知らない人生がある。
いつも穏やかに笑い、正しい答えを知っているように見えたナディアの奥にも、何かを失った人間がいる。
「ナディア」
俺はゆっくり呼ぶ。
「はい」
「わたくしは、あなたがわたくしの幸せを願ってくださっていることまで疑いたくありません」
彼女の目が揺れる。
「でも、わたくしが幸せかどうかを、わたくしより先に決めないでほしいです」
すぐには返事がなかった。
「今すぐ全部変えてくださいとは言いません。わたくしだって、何が幸せなのかまだ分かりませんもの。ただ、わたくしが分からないと言っている間くらいは、その答えを誰かの言葉で埋めないでほしいです」
ナディアは長い間俺を見ていた。
納得できないのだろう。
それでも最後には、ほんの少しだけ頭を下げた。
「……承知いたしました」
完全に理解したとは思わない。
おそらく今のナディアは、俺の頼みを「正しい」と思ったから受け入れたのではなく、俺自身がそう望んだから一度引いただけだ。
それでもいい。
人の考え方が一度の会話ですべて変わる方が不自然だ。
◇
俺との話が一段落すると、父は再びセレグラン男爵の件へ戻った。
「今後、男爵が非公式な形で屋敷へ入ることは認めない」
「はい」
「兄にもそう伝えろ」
「承知いたしました」
「男爵家の相談については、必要なら正式な手続きを通せ。お前が個人として家族を助けることまで禁じるつもりはないが、アルセリード家とヴェルシアナの名を勝手に使うことは許可しない」
ナディアの表情が少し強張った。
「兄が、そのようなことをしているのでしょうか」
「社交の場で、自分の妹がヴェルシアナから厚い信頼を得ていることを何度も強調している」
ナディアが明らかに驚いた。
「……兄が?」
「知らなかったのか」
「はい」
その反応が演技なのかどうか、俺には分からない。
ただ少なくとも、さきほどまでとは違う種類の動揺があるように見えた。
「確認するか?」
父が尋ねる。
「いえ」
ナディアは少し唇を引き結び、それから首を横へ振った。
「兄本人へ聞きます」
「構わん。ただし、アルセリード家の内部事情やヴェルシアナに関する情報を、これ以上軽々しく外へ出すな」
「承知いたしました」
声が少し低い。
もし今の反応が本物なら、ナディアと兄は完全に同じ考えではない。
少なくとも、男爵が妹と俺との関係を社交の道具として使っていることまで、ナディアは望んでいなかった可能性がある。
だからといって、これまでの疑問が消えるわけではない。
むしろ兄妹それぞれが同じ未来を望みながら、理由と優先順位だけが違うのだとすれば、状況は以前より複雑になる。
それでも、「二人が最初から同じ目的で俺を利用していた」という見方だけは、少し修正した方がよさそうだった。
◇
話が終わると、ナディアは父母へ礼をし、先に書斎を出た。
俺も母と一緒に立ち上がったところで、父から呼び止められる。
「ヴェルシアナ」
「何ですの?」
「どう思った」
俺はすぐに答えず、さきほどのナディアの表情を思い返した。
「ナディアとお兄様は、同じ未来を望んでいても、同じ理由ではないのかもしれません」
「ああ」
「ナディアは王太子妃になることが本当にわたくしの幸せだと思っている。でも、お兄様はそこへセレグラン家の利益を強く重ねているように見えます」
「私にもそう見える」
「ただ、ナディアがその二つを完全に分けているかどうかは、まだ分かりません」
父が少しだけ目を細めた。
「よく見ていたな」
「最近、先生方から考えろと言われすぎていますので」
少しだけ笑う。
「お父様は、ナディアを辞めさせますの?」
以前にも聞いた問いだ。
父は今日もすぐには頷かなかった。
「今すぐそのつもりはない」
「教育には問題があったのに?」
「ああ。だから役割を変える」
「どうするの?」
「ナディア一人の判断で、教師や使用人の配置に影響を与えられないようにする。今後、お前の教育方針はエルダ、各教師、セレフィア、私で共有し、誰か一人の判断だけで変更できない形にする」
「ナディアを外すのではなく、一人に任せない?」
「そうだ」
その方がいい気がした。
ナディアを突然追い出せば、何が間違っていたのか本人が分からないまま終わるかもしれない。
それに俺自身も、まだこの人のすべてを知ったわけではない。
「それから、お前も」
「わたくし?」
「ナディアの言うことを何でも疑う必要はない」
少し意外だった。
「疑わなくていいの?」
「違う。考えろと言っている」
いつもの父らしい答えだ。
「相手がナディアだからという理由で、正しいことまで拒むな。反対に、お前にとって心地よい言葉だからという理由で受け入れるな。誰が言ったかと、何を言ったかを分けて考えろ」
今朝の歴史教師とほとんど同じことを言っている。
「難しいですわね」
「人を相手にするのだから、簡単な方がおかしい」
最近、周囲の大人たちは五歳児へ求めるものが少し高すぎる気がする。
もっとも、自分から難しい話へ首を突っ込んでいるので、そこも文句は言えない。
◇
自室へ戻ると、ミレーヌが待っていた。
俺の顔を見るなり何かを聞くのではなく、まず温かい茶を用意してくれる。
「何も聞かないの?」
「お嬢様がお話しになりたい時に伺います」
その答えが少し嬉しかった。
椅子へ座り、茶を一口飲む。
「ナディアとお話ししました」
「はい」
「やっぱり、わたくしが王太子妃になることを本当に良い未来だと思っていました」
「そうでございましたか」
「でも、お兄様のためだけではなさそうです。むしろナディアの中では、わたくしが幸せになることと、セレグラン家が良くなることが同じ方向にあるみたいです」
ミレーヌは静かに聞いていた。
「では、ナディア様は悪い方ではないのでしょうか」
以前なら、その質問に困ったかもしれない。
今は少し違う。
「良いか悪いかの二つだけに分けなくてもいい気がしてきました」
「どういうことでございますか?」
「ナディアは、たぶん本当にわたくしを大切にしています。でも、その大切にし方が、わたくしの意思まで覆ってしまうことがあるのでしょうね」
誰かを大切にしている。
だからその人が間違わないわけではない。
反対に、間違った考えを持っているから、その人が向けてくれた愛情まですべて偽物になるわけでもない。
「難しいですね」
「本当に」
俺は苦笑する。
「ただ、一つだけ安心しました」
「何でございますか?」
「ナディアは、わたくしそのものをどうでもいいとは思っていないみたいです」
そこだけは、今日少し信じてもいいような気がした。
それが正しいかどうかは、まだ分からない。
けれど、疑うことと、何も信じないことは違う。
「それは、良かったのでございましょうか」
ミレーヌが尋ねる。
俺は少し考えた。
「良かったと思いたいです」
元のヴェルシアナが五年間を共に過ごした相手が、最初から彼女を破滅させるためだけに側にいたわけではない。
そうであるなら、少なくともあの少女が誰かを信じた時間まで、全部が嘘だったことにはならない。
◇
夜。
机に向かいながら、今日分かったことを練習帳へ整理していく。
セレグラン男爵は、俺が王家へ入ることによって自家の立場が良くなる未来を期待している。
ナディアは兄がそう考えていること自体は知っていた。
ただし、兄が自分と俺との関係を社交の場でどの程度利用しているかまでは知らなかったように見えた。
そしてナディア自身は、俺が王太子妃になることを本当に幸福だと考えている。
そこまで書いたところで、手を止めた。
今日もっとも印象に残ったのは、そこではない。
『この国では、立場によって諦めなければならないことがございますから』
以前ナディアが言った言葉。
そして今日。
『お嬢様には、何一つ諦めていただきたくないのです』
この二つは、おそらく繋がっている。
ナディア自身が、身分や立場を理由に何かを諦めたことがあるのかもしれない。
まだ本人は話そうとしなかったし、俺も無理に聞くべきではないと思う。
それでも以前の仮説とは少し形が変わってきた。
最初の俺は、ナディアが公爵令嬢であるヴェルシアナを甘やかし、自分に都合よく操ろうとしていたのではないかと考えていた。
しかし今は、もしかすると彼女はヴェルシアナを弱くしたかったのではなく、誰にも傷つけられず、何も奪われないほど強い人間へ育てたかったのではないかと思い始めている。
間違えても謝る必要はない。
嫌な相手は遠ざければいい。
身分の低い者へ合わせる必要はない。
王太子の隣こそが、お前に相応しい。
一つひとつだけを見れば、ただ甘やかしているように聞こえる。
しかし「この子だけは何も諦める側にしてはいけない」という考えが根にあるのだとすれば、それらは一本の線で繋がる。
ヴェルシアナを、誰にも否定されない場所へ押し上げる。
誰かに傷つけられる前に、その相手を遠ざける。
本人が失敗して自信を傷つける前に、周囲の問題として処理する。
そうやって守り続けた結果、元のヴェルシアナは誰にも注意されなくなり、誰からも本音を言われなくなり、最後には自分から人を遠ざける少女へ育ったのかもしれない。
もしそうなら、かなり皮肉な話だ。
傷つけられないように守った結果、その人自身が誰とも本当の意味で近づけなくなる。
愛情によって孤独が作られることなど、本当にあるのだろうかと思う。
けれど、前世を振り返れば、似たようなことはあった。
子供のため。
家族のため。
部下のため。
本人が困らないようにと誰かが先回りしすぎた結果、その人が自分で失敗し、考え、選び直す機会まで奪ってしまう。
善意だから害にならないとは限らない。
それはもう、何度も学んだ。
俺は練習帳の最後に、ゆっくり一文を書いた。
『守ることと、その人の代わりに人生を選ぶことは違う。』
以前の俺なら、ナディアの正体を暴けば一つの問題が終わると思っていた。
けれど今は、知れば知るほど単純な敵ではなくなっていく。
だからこそ、これからの方が難しいのだと思う。
もしナディアが本当に俺を大切にしているなら、いつか彼女自身にも選ばなければならない時が来る。
自分が思い描いた「最も幸福なヴェルシアナ」と、実際に自分で考えながら別の道を選ぶかもしれないヴェルシアナ。
その二人が同じ方向を向いている間は、問題は表に出ない。
しかし違う道へ進み始めた時、ナディアがどちらを見てくれるのかによって、彼女が本当に守りたかったものが分かるのだろう。
今日のナディアには、その答えがなかった。
けれど、自分でも分からないと認めたことは小さくない気がする。
これまでは、彼女の中にはいつも正解があった。
ヴェルシアナは悪くない。
ヴェルシアナには王太子が相応しい。
ヴェルシアナは誰にも頭を下げる必要がない。
その正解の中へ初めて、「もし本人が違うと言ったら」という問いが入り込んだ。
それだけでも、何かが少し動いたのかもしれない。
帳面を閉じ、窓辺を見る。
リュネアと作るための押し花は、薄紙の間で静かに乾いている。
生きていた時と同じ形のまま残るわけではない。
色が変わる花もあれば、乾く過程で少し縮む花もある。
それでも、変わったからといって別の花になるわけではない。
そこで、昼間ナディアが言った言葉を思い出した。
以前のお嬢様は、もっと素直だった。
もしかすると彼女は、今の俺を見ながら、自分が五年間かけて育ててきたヴェルシアナが少しずつ遠ざかっていくように感じているのかもしれない。
俺にとっては、生き延びるために考え方を変えているだけだ。
けれどナディアから見れば、高熱を出した前後で、幼い少女が突然これまでとは違う言葉を使い、自分の教えへ疑問を持ち、使用人の意見を聞き、王太子との婚約まで自分で考えたいと言い始めたことになる。
その変化を、彼女はどう見ているのだろう。
嬉しいのか。
寂しいのか。
それとも、どこかで怖いと思っているのか。
考えればいくらでも想像できる。
だからこそ、そこで止めた。
まだ分からない。
分からないものを、分かったことにしない。
自分で書いた言葉を改めて思い出す。
ナディアが何を失い、何を恐れ、何を望んでいるのかは、これから本人の言葉と行動を見ながら少しずつ知ればいい。
同じように、俺自身がこの世界で何を選びたいのかも、今すぐ一つの答えへ決める必要はない。
ただ、今日までに一つだけ確かになったことがある。
セレグラン男爵が求めているものは、俺自身ではないのかもしれない。
俺が将来持つかもしれない地位や、王家へ繋がる影響力や、その近くへ妹がいることで得られる価値を見ている可能性が高い。
そのこと自体は、貴族社会では珍しくないのだろう。
それでも、俺にとっては忘れてはいけない違いだった。
そしてナディアについては、まだ同じ結論を出すことができない。
彼女は「王太子妃になるヴェルシアナ」という未来へ強く執着している。
けれど、その未来の先に見ているものが兄と同じなのかどうかは、今日の会話によってむしろ分からなくなった。
同じ場所を目指しているからといって、同じものを欲しがっているとは限らない。
その違いを見落とさないようにしながら、もう少しだけ彼女を見ていたいと思う。
俺は灯りを消し、寝台へ入った。
ゲーム本編が始まるまでには、まだ何年もある。
その長さを以前は破滅までの猶予だと思っていたが、今は少し違う。
人を知るためにも、自分が何を望むのかを知るためにも、それだけの時間が残されているのだと思えば、答えを急がずに済む。
それなら今は、誰かを敵か味方かの一言で決めるより、明日また一つ知らなかったことを知るくらいでいい。
少なくとも、今の俺にはその歩き方の方が合っているように思えた。




