閑話 母は、いちばん似合うものを選べない
娘に似合うものを見つけることは、セレフィアにとって、昔からささやかな幸福の一つだった。
まだヴェルシアナが自分の足で歩くこともできなかった頃には、白い産着の縁へ銀糸を入れるか、それとも紅紫の瞳に合わせて淡い葡萄色を添えるかという、それだけのことで仕立て役を随分と長く付き合わせた覚えがある。
少し大きくなれば、選べるものはもっと増えた。
春には薄青。夏には白。秋には深い葡萄色がよく似合い、冬の外套は純白より薄灰の方が、銀髪の光を柔らかく見せた。
強い色を纏わせれば、五歳とは思えないほど凛として見える。反対に淡い色を選べば、陽の光を細く梳き込んだような銀髪の中で、紅紫の瞳だけが一滴の葡萄酒を落としたように鮮やかに残る。
美しい子だった。
母親の欲目を差し引いたところで、その事実だけはどうにもならないとセレフィアは思っている。
だから今まで、自分は娘に似合うものを選ぶのが上手なのだと、どこかで信じていた。
服も、髪飾りも、教師も、付き合う人々も。
そして、いつか娘が歩く未来さえも。
良いものを知っている大人が、幼い子供の代わりに選んでやる。それは愛情の一つなのだと、長いあいだ疑ったことがなかった。
けれど、その日の午後。
春用の衣装を選ぶために並べられた布を前にして、セレフィアの指は一枚の生地の上で止まっていた。
白に近い淡青だった。
陽の角度によって青みが薄く現れては消え、早朝の湖面にまだ空の色が定まりきらないような、不思議な色合いをしている。
「こちらでしたら、お嬢様の御髪にも大変よく映えるかと存じます」
仕立て役が、布の上へ刺繍見本を重ねた。
銀糸で縫われた小さな花だった。
控えめな意匠なのに品があり、裾から胸元へ少し散らせば、幼さを残しながらも公爵令嬢らしい一着になるだろう。
セレフィアも、それが一番美しいと思った。
「王宮へお召しになられても、十分に――」
仕立て役の言葉を聞いた瞬間、布を撫でていた指先が僅かに止まる。
王宮。
それ自体は、何も特別な言葉ではない。
アルセリード公爵家の一人娘なら、これから先いくらでも足を運ぶ場所になるだろう。
それでも今日は、その二文字から別の姿が浮かんだ。
銀髪を長く伸ばした娘が、美しい衣装を纏って大広間に立っている。
その隣には、成長した王太子アレクシス。
家格は釣り合う。容姿を並べても見栄えがする。教育も十分に受けさせられるし、ヴェルシアナには魔法の才まである。
一つひとつ条件を並べていけば、まるで最初からそこへ収まるために仕立てられた衣装のように、王太子妃という未来は娘の輪郭へ綺麗に重なってしまう。
――似合う。
その一言ですべてを包めてしまうほどに。
昼間、ヴェルシアナから王太子妃という立場について尋ねられた時、セレフィアは自分の知る限りを話した。
大きな力を持つ立場であること。その力で手を伸ばせるものが増える一方、自由まで増えるとは限らないこと。そして母親としては、娘自身がいつか自分で頷ける未来であってほしいと思っていること。
あの言葉に嘘はなかった。
なのに今、自分は娘が王太子妃となった姿を、あまりにも簡単に想像できてしまう。
それが少し怖かった。
美しい絵は、額縁まで含めて完成しているように見える。
そこに描かれた人間が、自らその場所へ歩いていったのか、それとも誰かに立たされたのかなど、絵を見る側には分からないのに。
「奥様?」
呼ばれて、セレフィアは意識を戻した。
「ああ、ごめんなさい。少し考え事をしていたの」
「銀糸ではございませんでしたか?」
「いいえ。とても綺麗よ。私なら、たぶんこれを選ぶわ」
そう答えてから、もう一度銀の花を見る。
自分なら。
その言葉が、今日は妙に引っかかった。
「……こちらと、白糸のものも用意してくださる?」
「白でございますか?」
「ええ。ヴェルシアナに選ばせてみようと思うの」
仕立て役がほんの僅かに目を丸くした。
もちろん、失礼なほどではない。
けれどセレフィアには、その小さな驚きの理由が分かった。
これまで娘の衣装を決めることは、自分の楽しみだった。
生地を選び、刺繍を選び、飾りを考え、出来上がってからヴェルシアナへ見せる。
娘はいつも喜んだし、嫌だと言われた記憶もほとんどない。
だから問題などないと思っていた。
今でも、それを全部間違いだったとは思わない。
ただ、嫌がらなかったことと、自分で選びたいものがなかったことは、同じなのだろうか。
「お願いします」
「かしこまりました」
仕立て役が白糸の見本を取りに下がる。
セレフィアはもう一度、淡青の布を見つめた。
娘へ差し出したい未来も、きっとこれと似ている。
自分にはとても美しく見える。
だからこそ、その美しさだけで「これがあなたに一番似合う」と決めてしまうのは、少し怖かった。
◇
ヴェルシアナは、庭の東屋にいた。
午後の日差しはすでに傾き、木々の葉を抜けた光が芝生の上へ細かな金色の斑を作っている。
娘はミレーヌと同じ卓を囲み、本を開いていた。
セレフィアはすぐには声をかけず、少し離れたところから二人を見る。
銀髪へ木漏れ日が触れるたび、細い糸へ光を一筋ずつ編み込んでいくようだった。伏せた睫毛は長く、その下で紅紫の瞳が紙面を追っている。
何かを考えている時のヴェルシアナは、幼い顔立ちに似合わないほど静かな威圧感を纏う。
初めて見る者なら、話しかけるのを躊躇するかもしれない。
ところが。
「……ここです。この説明、少し分かりにくくありません?」
ヴェルシアナが紙面の一点を指差す。
ミレーヌが身を寄せ、同じ場所を目で追った。
「わたしも、少し……」
「やっぱり。わたくしだけ理解できていないのかと思いました」
そこで娘の顔が、ほっとしたように緩む。
「でも、こちらの頁と合わせると、たぶん……」
「あ」
二人がほとんど同時に何かへ気づいたらしい。
ヴェルシアナが笑った。
すると、つい先ほどまで近寄りがたくさえ見えた顔から威圧感がするりと抜け落ち、年相応の少女が現れる。
この落差を、本人はたぶん知らない。
セレフィアは時々、それが少し可笑しくて、同時にとても愛おしい。
「楽しそうね」
声をかけると、二人が同時に顔を上げた。
「お母様」
ヴェルシアナが立とうとする。
「そのままでいいわ」
手で制しながら東屋へ入り、セレフィアは卓上の本へ目を向けた。
「お勉強?」
「少しだけです。読んでいて分からないところがありましたので、ミレーヌにも見てもらっていました」
「分かったの?」
「たぶん……」
娘はそこで考え、すぐに言い直した。
「いいえ。さっきよりは、分かったと思います」
その答えに、セレフィアは微笑んだ。
「慎重なのね」
「分かっていないのに分かったと言うと、あとで困りますから」
最近の娘は、分からないという言葉を以前ほど嫌がらない。
むしろ知らないものを見つけると、その先にもう一枚扉があることを喜ぶようになった。
扉の向こうに何があるか分からないのに、自分で取っ手へ手を伸ばす。
そういう娘を見ていると、母親の手が必要なくなっていくようで、時折ほんの少し寂しくもなる。
けれど、扉を開けられるようになった娘の前へ、寂しいからという理由だけで立ちはだかる母親にはなりたくなかった。
「そうだわ、ヴェルシアナ」
「はい?」
「春のドレスを一着仕立てようと思っているの」
侍女から受け取った小さな布見本を、娘の前へ置く。
ヴェルシアナは指先で生地を撫で、それから木漏れ日の下へ少し持ち上げた。
淡い青が銀髪の傍らで揺れ、紅紫の瞳へ僅かに空の色を映す。
「綺麗な色ですね」
「気に入った?」
「はい。好きです」
その一言だけで、セレフィアの心が少し弾んだ。
自分が似合うと思ったものを、娘自身も好きだと言った。
これまでなら当然のように受け取っていたはずなのに、今日はその一致が、偶然見つけた小さな宝石のように嬉しかった。
「それなら、刺繍も決めてちょうだい」
「わたくしが?」
「ええ」
銀と白、二種類の見本を並べる。
ヴェルシアナは驚いたように母を見る。
「お母様がお決めになるのではないのですか?」
責める響きはない。
純粋に意外だっただけなのだろう。
それなのにセレフィアの胸には、小さな針を置かれたような感覚が残った。
「今日は、あなたに決めてもらおうと思って」
「でも、お母様の方が、わたくしに似合うものをご存じでしょう?」
「そうね」
セレフィアは否定しなかった。
少なくとも服についてなら、五歳の娘より自分の方が経験はある。
「私なら銀を選ぶわ。髪にも合うし、この生地にもよく映えると思う」
「でしたら――」
「でも、あなたが銀を好きとは限らないでしょう?」
ヴェルシアナの言葉が止まった。
紅紫の瞳が、二つの刺繍をゆっくり見比べる。
「似合う方を教えることはできるわ。でも、好きな方まで私が決める必要はないもの」
「……なるほど」
随分真面目に受け止められてしまった。
たかが刺繍なのに、とセレフィアは少し笑いそうになる。
けれど、その「たかが」を自分は今まで随分たくさん選んできた。
娘はしばらく迷ったあと、白い花へ指を置いた。
「こちらがいいです」
「白?」
「はい。銀も綺麗ですけれど、白の方が少し柔らかく見える気がします」
セレフィアは娘と見本を交互に見た。
自分なら銀を選ぶ。
それは変わらない。
ただ白も、こうして娘が選んだあとに眺めると、不思議と違った美しさが見えてきた。
銀ほど全体へ溶け込まず、淡青の布の上に小さな花の輪郭が残る。
整いすぎない。
だからこそ五歳の少女には、こちらの方が軽やかかもしれない。
「では、白にしましょう」
「よろしいのですか?」
「あなたが選んだのでしょう?」
「そうですけれど……お母様は銀の方がよいと思っていらっしゃるのですよね?」
意外なところを気にする。
「ええ。私は銀が好きよ」
セレフィアは笑った。
「でも、あなたのドレスだもの」
ヴェルシアナは白い刺繍をもう一度見つめ、それから小さく微笑んだ。
「楽しみです」
その言葉が、なぜか今までより嬉しく聞こえた。
母親が完成させたものを受け取る楽しみではなく、自分もその一着へほんの少し手を加えた人間の声音だったからかもしれない。
たった白い花一つ。
人生を左右するような選択ではない。
それでも、自分で選んだものには、「似合う」という他人の評価だけでは測れない何かが宿るのだろう。
「お母様?」
「何?」
「さっきから、ずっとこちらをご覧になっていますけれど」
「あら。見てはいけない?」
「いけなくはありませんが……少し落ち着きません」
「では、もう少しだけ見せて」
「どうしてですの?」
「可愛いからよ」
ヴェルシアナの眉が寄った。
「急に何のお話です?」
真面目に返されて、セレフィアは笑う。
こういう時の娘は、外から見れば少し不機嫌そうにさえ見える。
けれど母親には分かる。
これは単に、何を言われているのか理解できずに困っている顔だ。
美しいという言葉は、ヴェルシアナの外側を説明するには便利だった。
ただ、近くで見ていれば、それだけでは全然足りない。
そのことを最近になって、セレフィアは以前より面白く感じるようになっていた。
◇
王家からの便りが届いたのは、その二日後だった。
セレフィアは、たまたまレオルディスの執務室にいた。
夫が受け取った封書には、王家の印がある。
「何かありましたの?」
「急ぎではない」
レオルディスは書状へ目を通しながら答えた。
「アレクシス殿下とヴェルシアナの次の交流についてだ」
「まあ」
セレフィアは自然に顔を上げた。
「王家から?」
「ああ」
「いつ頃を?」
「日程はこちらの都合も聞くそうだ。急がせる意図はないらしい」
そこまでは、特に不思議ではなかった。
両家はすでに二人を会わせている。
今後も交流の機会を作ること自体は、最初から考えられていたことだ。
だからセレフィアも、そう、と頷くだけで終わるつもりだった。
ところがレオルディスは、書状に添えられていた短い文へ目を移し、僅かに眉を上げた。
「殿下本人の希望でもあるそうだ」
「……アレクシス殿下の?」
思わず聞き返してしまった。
「そう書かれている」
「殿下が、ご自分から?」
「らしいな」
その返事を聞いた瞬間、セレフィアの胸の中で、母親とは実に困ったものだと思うような感情が、春を待ちきれなかった花の蕾のようにふっと綻んだ。
「まあ」
「二度目だな」
「何がです?」
「今、同じことを言った」
「いいではありませんか」
セレフィアは気にせず、もう一度書状を見る。
アレクシスは礼儀正しい少年だ。
公の場で同年代の令嬢を邪険にするような子ではないことも知っている。
王太子である以上、幼い頃から貴族の子女と顔を合わせる機会も少なくないだろう。着飾った愛らしい少女も、将来美しくなると周囲に褒められる令嬢も、決して珍しくはないはずだ。
それでも少なくともセレフィアの耳に届く範囲では、アレクシスが特定の令嬢へ、自分から次の機会を望んだという話を聞いた覚えはない。
「……そうなのね」
「何だ、その顔は」
「どんな顔です?」
「面白いものを見つけた時のお前の顔だ」
「失礼ですわね」
否定しながらも、完全には否定できなかった。
「だって、少し意外ではありません?」
「何がだ」
「殿下がご自分から、ですわよ?」
「気が合ったのかもしれない」
「ええ。もちろん、それだけかもしれません」
そう答えながら、口元が緩みそうになる。
レオルディスはそれを見逃さなかったらしい。
「娘の未来を、先に決めないのではなかったか」
「決めておりません」
「顔が少し先へ行っている」
「私はただ、微笑ましいと思っただけです」
「なら、そこで止めておけ」
「分かっていますわ」
今度は少し真面目に答えた。
確かに、その通りだ。
アレクシスがまた会いたいと言った。
それだけである。
そこへ恋だの特別だのと名前をつければ、娘に似合う未来を先回りして選ぼうとすることと、形は違ってもよく似ている。
ただ。
母親として、ほんの少し心を弾ませることまで禁じられてはいないと思う。
「ヴェルシアナにも聞いてみましょう」
「ああ。本人が望まないなら断ればいい」
「きっと嫌とは言わない気がしますけれど」
「それも、お前の予想だ」
「……今日は随分厳しいですわね」
「お前が楽しそうだからだ」
セレフィアは夫を睨んだ。
その口元が、ほんの僅かに動いている。
どうやら、こちらだけが面白がっているわけでもないらしい。
◇
ヴェルシアナへ伝えたのは、その日の夕方だった。
娘は自室の窓辺で本を読んでいた。
外は夕暮れへ入り、銀髪の片側だけが橙色の光を受けている。紅紫の瞳は紙面へ落ちていたが、セレフィアが入っていくとすぐに顔を上げた。
「お母様?」
「お邪魔だった?」
「いいえ。ちょうど区切りのよいところです」
「それならよかった」
娘の向かいへ腰を下ろす。
「王宮からお便りが届いたの」
ヴェルシアナの表情が少し引き締まった。
「王宮から?」
「ええ。アレクシス殿下とのことよ」
ほんの一瞬、娘の背筋が伸びたように見えた。
「何かございました?」
「いいえ。心配するようなものではないわ」
セレフィアは微笑んだ。
「また、あなたとお会いする機会を作れないかというお話」
「ああ」
ヴェルシアナの肩から、ごく僅かに力が抜ける。
「それでしたら、わたくしは構いません」
「そう?」
「はい。殿下は、ご自分のお考えをきちんとお話しくださいますから。わたくしも、お話ししていて楽です」
セレフィアは一瞬だけ目を瞬いた。
楽。
娘がそう言う相手は、まだそれほど多くない。
だからといって、そこへ余計な意味を足してはいけない。
そう分かっているのに、胸の内側でまた母親らしい好奇心が頭をもたげる。
「そうなの」
「はい」
ヴェルシアナはごく自然に頷いた。
そこでセレフィアは、少しだけ間を置いてから続ける。
「それとね。今回は、殿下御本人からも、またあなたと会いたいというお話があったそうよ」
紅紫の瞳が、僅かに大きくなった。
普段は整いすぎているほど整っている顔から、一瞬だけ年齢相応の驚きが覗く。
「殿下が?」
「ええ」
その一瞬だけで、セレフィアは来た甲斐があったような気持ちになった。
娘は驚いている。
そして、たぶん嬉しい。
頬を染めて視線を逸らすようなことはない。
けれど、先ほどまでの静かな表情がふわりとほどけて、口元に小さな笑みが生まれた。
「……それは、嬉しいです」
セレフィアは何も言わず、続きを待った。
自分でも少々大人気ないと思いながら、次にどんな言葉が出るのかを楽しみにしてしまう。
ヴェルシアナは少し考えた。
「でしたら、次に何をお話しするか、考えておいた方がいいでしょうか」
セレフィアは危うく肩を落としかけた。
「……そちらなのね」
「はい?」
「いいえ。何でもないわ」
危ない。
自分で戒めたばかりではないか。
ところがヴェルシアナは、母親の微妙な反応など気に留めず、早くも次の再会について考え始めていた。
「殿下は馬がお好きですから、フィアのこともお話しできますし、木剣のお稽古も続けていらっしゃるそうですから、そのことも伺ってみたいです」
「よく覚えているのね」
「以前、お好きだと仰っていましたから」
当たり前のように返される。
「それから、今度は殿下がお話ししたいことを伺ってみるのもよいかもしれません。前はわたくしから尋ねることが多かったので」
セレフィアは、思わず娘を見つめた。
本当に、この子はこういうところなのだ。
自分が王太子本人から再会を望まれたという事実よりも、次に会った相手が心地よく話せるかどうかを考えている。
それを優しさと呼ぶには、本人の中ではあまりにも自然なのだろう。
ヴェルシアナは、相手が王太子だから特別にそうしているのではない。
おそらく、相手そのものを見ようとしている。
それがどれほど珍しいことなのか、本人だけがあまり分かっていない。
「ヴェルシアナ」
「はい?」
「あなた、殿下のことはお嫌いではないのね」
「もちろんです」
返事はあまりに早く、あまりに自然だった。
「真面目な方ですし、よく努力なさっています。それに――」
そこでヴェルシアナの言葉が止まった。
「それに?」
セレフィアが促す。
娘は一度だけ視線を逸らした。
「……思っていたより、お話ししていて楽しい方です」
なるほど。
セレフィアは今度こそ、口元が緩むのを完全には止められなかった。
「お母様?」
「何でもないわ」
「またですか?」
「今日はそういう日なのよ」
「どのような日ですの?」
「母親が少し機嫌のよい日」
「それは良いことだと思いますけれど……」
納得していない顔をしながら、ヴェルシアナは再び本へ視線を落とした。
セレフィアは、そんな娘の横顔を眺める。
王宮には、きっと美しい令嬢はいくらでもいる。
幼い頃から着飾り、王太子の目に留まろうとする家だってあるだろう。
だから、アレクシスがヴェルシアナの銀髪と紅紫の瞳だけを理由に、もう一度会いたいと言ったとは思わない。
けれど。
母親の贔屓目を差し引いても、この娘が際立って美しいこともまた事実だった。
黙って本を読んでいるだけなら、窓辺へ置かれた精巧な人形のように整って見える。
考え込めば、紅紫の瞳の強さが際立ち、公爵令嬢らしい近寄りがたささえ漂う。
そのくせ、少し話せば表情は思いのほかよく動くし、相手が苦手な食べ物や好きなものを覚え、何が得意かより何を好きなのかを尋ねる。
さらに厄介なのは、本人にそれをしている自覚がほとんどないことだろう。
この顔で。
この距離の詰め方で。
本人だけが何も分かっていないのは、少々ずるいのではないか。
そこまで考え、セレフィアは心の中で自分へ制止をかけた。
また先へ行きかけている。
アレクシスが何を思っているのかは、アレクシスにしか分からない。
ヴェルシアナが何を感じているのかも、母親が勝手に決めてよいことではない。
昼間、自分は娘へドレスの刺繍を選ばせたばかりなのだ。
恋の名前まで母親が選んでしまっては、あまりに格好がつかない。
ただ。
少しくらい楽しみにすることは、許してもらおう。
「お母様」
「何?」
「また、わたくしの顔をご覧になっています」
「あら」
「何かついております?」
「いいえ」
セレフィアは笑った。
「綺麗だと思っただけよ」
ヴェルシアナは困ったように眉を寄せた。
「急に仰られても、反応に困ります」
「そういうところも可愛いわ」
「お母様」
今度は少しだけ呆れが混じった声だった。
セレフィアは、それ以上からかわなかった。
今はまだ、それでいい。
◇
数日後、春のドレスの仕立てが始まった。
淡い青の布へ、白い小さな花が一つずつ縫い込まれていく。
セレフィアが最初に選んでいた銀ではない。
けれど、仕立て途中の生地を見た時、白でよかったと思った。
銀ならば、もっと綺麗にまとまったかもしれない。
髪の色とも滑らかに繋がり、誰が見てもよく似合う一着になっただろう。
白い花は、少しだけ違う。
淡青の上にきちんと輪郭を残し、小さな花びら一枚一枚が、そこにあることを隠そうとしない。
その様子が、今の娘に少し似ている気がした。
「奥様」
仕立て役が声をかける。
「こちらの配置でよろしいでしょうか?」
「ええ。綺麗ね」
「お嬢様にも、きっとよくお似合いになります」
以前なら、その一言だけで満足していただろう。
今日のセレフィアは、白い花を眺めながら少し笑った。
「そうね。きっと似合うわ」
そこで言葉を止め、指先でまだ縫いつけられていない一輪をそっと持ち上げる。
「でも、この花をあの子が自分で選んだことの方を、私は忘れないようにしたいの」
仕立て役は意味が分からなかったらしく、小さく首を傾げた。
セレフィアはそれ以上説明せず、淡青の布へ視線を戻した。
娘に似合うものを考えることを、これからもやめるつもりはない。
母親として、きっと何度でも口を出す。
こちらの方が素敵よ。
こちらの方が安全よ。
こちらの方が、あなたには似合うと思う。
経験があるからこそ言えることもあるだろうし、危険だと思えば止めることもある。
何でも子供へ任せることが、愛情なのではない。
ただ、その言葉のあとに、娘自身の声が入る余白を残しておきたい。
たとえ答えが、自分の選んだ色と違っていたとしても。
王太子妃という未来についても、きっと同じなのだろう。
似合う。
確かに、とてもよく似合う。
王家から届いた一通の便りを思えば、ほんの少しだけ、その未来を想像したくなる理由まで増えてしまった。
けれど、似合うから選ぶのではない。
周囲から見て美しいから、二人をその位置へ並べるのでもない。
いつか本当にヴェルシアナが王太子の隣へ立つ日が来るなら、その時は娘自身が「そこへ行きたい」と言っていてほしい。
そして、もし別の道を選ぶなら。
自分の目には王太子妃という未来の方が綺麗に見えたとしても、まず娘の話を聞ける母親でありたい。
もっとも。
アレクシス本人からまた会いたいと言われた時の、あの一瞬の表情まで忘れるつもりはなかった。
少し驚き。
少し嬉しそうに笑い。
その直後には、次は何を話そうかと考え始めた。
その順番が、妙にヴェルシアナらしい。
セレフィアは思い出して、ひとり微笑んだ。
まだ何も決まっていない。
娘の気持ちにも、王太子の気持ちにも、明確な名前などついていない。
だからこそ、面白いのかもしれなかった。
仕立て前の布は、まだどんな形にもなれる。
切られる場所も、縫い合わされる場所も決まっておらず、完成した衣装を知る者はどこにもいない。
未来もきっと、それくらいでいい。
大人には完成図が見えたような気になることがある。
けれど本当に美しいのは、最初から寸分違わず予定通りに仕立てられたものだけではない。
選び直した糸が思いがけず映えることもある。
予定になかった花が、その一着を特別なものにすることもある。
セレフィアは淡い青の布へ縫い込まれていく白い花を眺めた。
娘にいちばん似合う未来を、自分が選んでやることはできない。
けれど、娘が自分で選んだ色を、その隣で一緒に美しいと思うことならできる。
そしていつか、その色の中に誰かもう一人が並ぶのなら。
その時こそ母親として、少しくらい楽しそうな顔をしてもいいだろう。
今はまだ、白い花が一輪ずつ増えていくのを眺めながら、完成前のものにしか宿らない美しさを楽しんでいればいい。
娘の春も、その先にある未来も、まだ仕立ての途中なのだから。




