第18話 あなたのため、という言葉だけでは足りない
セレグラン男爵から届いた手紙を父へ見せたのは、翌日の朝食を終えてすぐのことだった。
昨夜のうちに書斎へ駆け込まなかったのは正解だったと思う。
一晩眠ったことで腹立たしさそのものは随分薄れ、代わりに「なぜこの人はこんな手紙を送ってきたのだろう」という疑問の方が大きくなっていた。
怒っている時には、文章のすべてが不愉快に見える。
けれど今読み返せば、内容の大半は普通の挨拶だった。
問題なのは最後の一文と、これまで父たちが調べた情報を合わせた時に見えてくるものだ。
「こちらですわ」
父の書斎で、俺は持ってきた封書を机の上へ置いた。
父は何も言わずに読み始める。
今日はグレンもいるが、母の姿はない。朝から伯爵夫人たちとの集まりがあるらしく、昼までは外出しているそうだ。
父の表情はほとんど変わらなかった。
ただ、最後の一文まで読み終えたあと、その部分をもう一度だけ確認していた。
「お前はこれを読んで、どう思った」
最初に聞かれたのはそれだった。
「昨日は腹が立ちました」
「今は?」
「まだ好きではありません。でも、怒っているだけではありませんわ」
「何が気になる」
「どうしてセレグラン男爵様が、わたくしと殿下の未来をそこまで気にしているのかです」
父が小さく頷く。
「他には?」
「ナディアと同じような言い方をすることも気になります」
「同じ?」
「わたくしが殿下のお隣に立つことを、すでに良い未来だと決めているところです」
父は手紙へ視線を戻した。
「昨日お話しした通り、男爵家にとって利益になる可能性があるからそう願っているのかもしれません。でも、それだけならナディアが同じように考えているとは限りませんわ」
「よく考えたな」
「褒めてくださいます?」
「今のところは」
「今のところ?」
「このあと自分で台無しにしなければな」
相変わらず厳しい。
グレンが横で小さく笑った。
「お嬢様は昨夜、すぐ旦那様のもとへ来られなかったのですな」
「少し怒っていましたから」
「それは良い判断でございました」
「皆、わたくしが怒ると何をすると思っているのです?」
思わず聞くと、父とグレンが同時に黙った。
その沈黙だけで十分だった。
「……昔のわたくしの実績が悪すぎますわね」
「三歳から五歳までの子供に、実績という言い方をする必要はない」
父はそう言いながら手紙を畳んだ。
「ただし、感情のまま要求を口にすることが多かったのは事実だ」
「その度に、周りが動いた」
「ああ」
俺は小さく息を吐く。
そこはもう何度も確認してきた。
そして今も、公爵家の力が自分の後ろにあることは変わっていない。
俺が変わったからといって、使える権力まで小さくなるわけではないのだ。
「お父様は、この手紙をどうなさいますの?」
「保管する」
「返事は?」
「通常の礼状を出す。内容について特別な言及はしない」
「注意しないの?」
「今はな」
少し意外だった。
「どうして?」
「この一通だけを理由に抗議すれば、こちらが何を警戒しているか伝えることになる。それに、文面だけなら礼を失したものではない」
「嫌ではありますけれど」
「嫌であることと、相手を責められることは別だ」
また一つ、似たような話が増えた。
感情と判断を分ける。
言葉にすると簡単なのに、実際に自分が不快なことをされた時ほど難しい。
「では、何もしないの?」
「何もしないとは言っていない」
父が机の上で指を組む。
「セレグラン男爵から正式に面会の申し出が届いている」
「面会?」
「ああ。私にだ」
少し驚く。
「何のために?」
「表向きは、妹が世話になっていることへの挨拶と、領地事業について相談したいことがあるらしい」
「領地事業?」
「水路整備に関して、アルセリード家と取引のある商会を紹介してほしいそうだ」
話だけ聞けば、普通の貴族同士の相談に思える。
「お会いになるの?」
「ああ」
「いつ?」
「三日後だ」
俺は少し考えた。
聞きたい。
どんな話をするのか。
セレグラン男爵が何を求めているのか。
できるなら、その場にいたい。
けれど、それを口にする前に父から先回りされた。
「お前は同席させない」
「まだ何も言っていませんわ」
「顔に書いてある」
最近、本当に誰にでも言われる。
「少しだけ見てみたいとは思いました」
「駄目だ」
「どうして?」
「大人同士の交渉だ。それに、お前がいるだけで相手の話し方が変わる」
それは納得できた。
「ナディアは?」
「同席させない」
「兄なのに?」
「兄だからこそだ」
父は淡々と答えた。
「男爵が私へ何を話すかを、まずは本人の言葉で聞きたい」
父は本当に、先に答えを作らない。
最近になって、その慎重さが少し分かるようになってきた。
「では、わたくしは待ちます」
「ああ」
「ちゃんと教えてくださいます?」
「お前に関係する部分はな」
「全部ではないのですね」
「五歳の娘に他家の財政と政治事情をすべて報告する親がどこにいる」
「ここにいてもよろしいのでは?」
「駄目だ」
即答だった。
グレンがとうとう声を立てて笑った。
◇
書斎を出たあと、午前の授業までは少し時間があった。
俺が部屋へ戻ると、ナディアがミレーヌと一緒に衣装棚の整理をしていた。
「お戻りでございますか、お嬢様」
「ええ」
昨日までなら、セレグラン男爵の手紙について尋ねたくなったかもしれない。
兄から何を聞いているのか。
あの文章をどう思うのか。
王太子の隣へ立つ未来を、本当にそこまで望んでいるのか。
しかし父から探りを入れるなと言われている。
何より、俺自身も問い詰めるような聞き方はしたくなかった。
「ナディア」
「はい」
「来週、リュネア様がまたいらっしゃるかもしれないのです」
代わりに別の話をする。
「まあ。それは楽しみでございますね」
「この前摘んだ花が乾く頃なので、栞を完成させようと思っています」
「以前いただいた髪飾りも、とても大切になさっておりますものね」
ナディアは俺の化粧台を見る。
そこにはリュネアが最初の訪問でくれた、淡い青と銀糸の布花が置かれている。
「ええ。気に入っていますわ」
「良いご友人ができたようで、わたくしも嬉しく思います」
少しだけ意外だった。
以前のナディアは、フィオルネ家のような「格下」の家と必要以上に親しくする必要はないと言っていた。
「以前は、リュネア様とはあまり深く付き合わなくてもよいと仰っていましたでしょう?」
探りではなく、すでに直接言われたことの確認だ。
ナディアは一瞬だけ目を伏せた。
「申し上げました」
「今もそう思っていますの?」
ミレーヌの手がわずかに止まったのが見えた。
ナディアはすぐには答えなかった。
「お嬢様が楽しんでおられることまで否定するつもりはございません」
「では?」
「ただ、お付き合いというものには、その方によって相応しい距離がございます」
やはり考え方そのものは変わっていない。
「身分によって?」
「身分も、その一つでございます」
「どうして?」
ナディアは困ったように微笑んだ。
「お嬢様は以前より、本当にたくさんお尋ねになるようになりましたね」
「嫌ですの?」
「いいえ。ただ、少し驚いているだけでございます」
彼女は整理していた衣装を一度棚へ戻し、こちらへ向き直った。
「高い身分には、高い身分ゆえのお付き合いがございます。誰と親しくするのか、誰を家へ招くのか、どの家を特別に扱うのか。それらは個人の好みだけではなく、周囲からどのように見られるかにも影響いたします」
「リュネア様と仲良くすると、困るの?」
「今すぐ何か問題が起きるとは申しません。ただ、将来お嬢様が王家へ近い立場になられるのでしたら、付き合う方々を選ぶ必要はございます」
またそこだ。
将来王家へ近い立場になる。
それが前提になっている。
「ナディア」
「はい」
「どうして、わたくしが王家へ入ることをそんなに当然のように考えているの?」
今度は、はっきり聞いた。
兄についてではない。
彼女自身の考えを知りたかった。
ナディアは少しだけ目を見開いた。
これまで俺が「まだ決めたくない」と言ったことはある。
けれど、彼女がなぜそう考えているのかを正面から尋ねたことはなかったかもしれない。
「当然だと思っているわけではございません」
「でも、何度も仰っていますわ」
「それは……」
ナディアが言葉を選ぶ。
「お嬢様に、最も相応しい未来だと思っているからでございます」
「相応しい?」
「はい」
「何がですの?」
ナディアの表情が少し柔らかくなる。
まるで、そこだけは迷う必要がないとでも言うように。
「お嬢様はアルセリード公爵家のただ一人のご令嬢で、高い魔力をお持ちになり、容姿にも教養にも恵まれておられます。将来、王太子殿下のお隣へ立たれたとしても、誰も不釣り合いとは思わないでしょう」
「でも、それはわたくしが王太子妃になりたい理由ではありませんわ」
「今は、まだ幼くていらっしゃいますから」
穏やかな言葉だった。
責める響きも、押しつけるような強さもない。
だからこそ、少し引っかかる。
「大きくなれば、そう思うようになる?」
「きっと、ご自分がお持ちのものがどれほど素晴らしいか理解されるようになります」
「それと、王太子妃になることは同じですの?」
ナディアが初めて少し困った顔をした。
「すべてをお持ちのお嬢様が、それに相応しい場所へ立たれることは、自然なことではございませんか?」
その答えで、少しだけ分かった。
少なくともナディアの中では。
王太子妃になることは、俺が「欲しいものを得る」話ではない。
持っているものに相応しい場所へ行く話なのだ。
優秀だから。
公爵令嬢だから。
美しいから。
魔力が強いから。
なら、その頂点に近い場所へ立つのが自然。
そういう順番で考えている。
「ナディアは、王太子妃になれば幸せだと思いますの?」
尋ねると、彼女は今度こそ迷わなかった。
「はい」
即答だった。
「なぜ?」
「この国で、女性が得られるものとして最も大きな地位の一つでございます。誰にも軽んじられず、望むものを守る力を持ち、大切な方々を支えることもできます」
その説明は、少し意外だった。
華やかだから。
名誉だから。
そんな答えを予想していた。
けれどナディアが口にしたのは、力と選択肢の話だった。
「誰にも軽んじられないことが、大切なの?」
ナディアの表情が、ごく僅かに止まった。
本当に小さな変化だった。
「大切でございます」
「どうして?」
「この国では、立場によって諦めなければならないことがございますから」
その声だけ、いつもより少し低かった。
俺は続きを待つ。
しかしナディアはすぐに普段の微笑みへ戻った。
「お嬢様には、そのような思いをなさっていただきたくないのです」
「だから王太子殿下の隣へ?」
「わたくしは、お嬢様が最も良い場所へ行かれることを願っております」
嘘をついているようには見えなかった。
少なくとも俺には。
「でも」
俺は少し考えながら言葉を選ぶ。
「ナディアにとって良い場所と、わたくしにとって良い場所が違ったら?」
彼女の微笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「お嬢様は、まだ多くのことをご存じありません」
「ええ。五歳ですから」
「ですから、今すぐお決めになる必要はございません。ただ、いつか分かっていただけると思っております」
否定されたわけではない。
けれど、答えてももらえなかった。
俺が別の幸せを選ぶ可能性を、ナディアはまだ本気では考えていないように感じた。
「分かりましたわ」
今はそこまでにする。
これ以上続ければ、質問ではなく議論になる。
それに、今日聞けたことだけでも十分だった。
ナディアは王太子妃という立場そのものに、俺が思っていた以上の価値を感じている。
そしてそれは、単なる名誉欲だけではない。
「誰にも軽んじられない」。
「諦めなくていい」。
その言葉には、彼女自身の何かが混じっているように思えた。
けれど、その先はまだ分からない。
だから今は、分からないままにしておく。
◇
午後は久しぶりに母と二人で茶を飲む時間があった。
外出から戻ってきた母は少し疲れているようだったが、俺が部屋へ行くとすぐに席を用意してくれた。
「今日は随分静かね」
「いつも騒がしいですの?」
「そういう意味ではないわ。何か考えている顔をしているの」
「皆さん、最近わたくしの顔を読むのがお上手ですわね」
「母親ですもの」
また便利な答えだ。
「お母様」
「なあに?」
「王太子妃になれば、幸せですの?」
母の手が止まった。
「突然ね」
「少し気になったのです」
「誰かに何か言われた?」
「ナディアとお話ししました」
隠す必要もない。
母はすぐに事情を察したらしい。
「ナディアは、あなたに王太子妃になってほしいのね」
「昔からそうみたいですわ」
「そうね」
「お母様は?」
母は少し考えた。
「あなたが望むなら、応援するわ」
「望まなかったら?」
「それだけで簡単に断れる問題ではないかもしれないけれど、少なくともあなたの気持ちを聞かずに決めたくはないわ」
前にも聞いた答えだ。
「王太子妃は、そんなに良い立場ですの?」
「良いことも、悪いこともあるでしょうね」
「たとえば?」
「とても大きな影響力を持てるわ。王妃になれば、慈善事業や教育、宮廷の運営にも関われるでしょうし、王家の名の下でしかできないこともたくさんあると思う」
「良いことですわね」
「ええ。でも、その分だけ自由ではなくなるわ」
母は紅茶へ視線を落とす。
「着るもの、話す相手、出かける場所、子供のことまで、個人だけでは決められないことが増えるでしょうね。王家の方々には王家の方々にしか分からないご苦労があると思うわ」
アレクシスの顔が浮かぶ。
六歳にして、父へ自分の意見を伝えることすら少し怖がっていた。
王太子だから。
その言葉で、いくつものことを当然として受け入れている少年。
「では、誰にも軽んじられなくなる代わりに、何でも自由にできるわけではない?」
「むしろ逆かもしれないわね」
母が苦笑する。
「高い立場ほど自由だと、子供の頃のわたくしも思っていたの。でも実際には、上へ行くほど自分一人の都合では決められないことが増えるものよ」
ナディアの考えと、少し違う。
「ナディアは、王太子妃になれば望むものを守る力を持てると仰っていました」
「それも間違いではないと思うわ」
母は否定しなかった。
「力があるから守れるものもあるでしょう。でも、力を持てば同時に守らなければならないものも増えるの」
「どちらも本当?」
「そうね」
人の考えは、なぜこうも綺麗に一つへ決まらないのだろう。
ナディアが嘘をついているわけではない。
母もたぶん正しい。
同じ立場を見て、違う部分を重要だと思っているだけだ。
「お母様は、今の生活が幸せですの?」
聞いてみる。
母は驚いたあと、柔らかく笑った。
「ええ」
「公爵夫人だから?」
「それだけではないわ」
答えるまでに迷いはなかった。
「あなたのお父様と結婚して、この家であなたが生まれて、気の合う友人もいて、好きなこともできる。もちろん大変なことはあるけれど、今のわたくしは幸せよ」
「もし、お父様が公爵ではなかったとしても?」
「どうでしょうね」
母は少し楽しそうに首を傾げた。
「今と全く同じとは言えないでしょう。でも、あの人と結婚したいと思った理由が爵位だけだったわけではないから、たぶん別の形で幸せになろうとしたと思う」
「お母様が選んだの?」
「ええ。家同士の話もあったけれど、最後は自分で頷いたわ」
それを聞いて少し安心する。
「では、わたくしもそうしたいです」
「自分で頷きたい?」
「はい」
母が手を伸ばし、俺の髪をそっと撫でた。
「そうできるよう、お父様とわたくしも考えるわ」
「ありがとうございます」
「ただし」
少し声色が変わる。
「何でも好きにしていいという意味ではないわよ」
「分かっています」
「本当に?」
「お父様にも同じことを言われます」
「なら良かった」
やはり夫婦である。
◇
三日後。
セレグラン男爵がアルセリード邸を訪れた。
当然、俺は面会には出なかった。
父から明確に禁止されていたし、五歳の娘が隣室で聞き耳を立てるような真似もしたくない。
だからその時間、俺はヴィクトルとの魔法の授業を受けていた。
「今日は灯りを二つ同時に維持していただきます」
「二つ?」
「はい。一つを作ること自体には慣れてきましたので」
机の上には、左右に小さな金属輪が置かれている。
その上へ一つずつ光を浮かべるらしい。
片方だけなら、もうそれほど難しくない。
右手側に紫色の光を作る。
安定させる。
そこから左側にも魔力を分ける。
すると右の光が急に大きくなり、左には何も出ない。
「……難しいですわ」
「一つのものへ集中する方が得意なのでしょう」
「それは性格の話?」
「今回は魔法の話でございます」
「今回は、ということは普段は?」
「ご自覚があるのでしたら、わたくしから申し上げる必要はございません」
少し腹が立つ。
けれど、このくらいのやり取りも最近は楽しい。
二度目。
右を弱めすぎて消す。
三度目。
左が出た瞬間、右が消える。
四度目で、ようやく二つの小さな光が同時に浮かんだ。
「できました」
「そのまま維持してください」
嬉しくなっても強くしない。
片方へ意識を向けすぎない。
両方を見る。
十秒ほど保ったところで、ヴィクトルが終了を告げた。
「本日はそこまでにしましょう」
「まだできますわ」
「その言葉を聞くたび、終わらせる必要性を確信いたします」
「最近、わたくしの扱いに慣れてきましたわね」
「教師ですので」
この返答にも慣れてきた。
授業が終わる頃には、セレグラン男爵のことを考えずに済んでいた。
それが少し嬉しかった。
以前の俺なら、気になることがあると一日中そればかり考えていただろう。
自分の人生には、それ以外の時間もある。
魔法を学ぶ時間も。
友人と遊ぶ時間も。
食事をして、眠って、くだらない話をする時間もある。
一つの不安があるからといって、人生全部をそこへ使う必要はない。
◇
父から書斎へ呼ばれたのは、その日の夕食前だった。
男爵はすでに帰ったらしい。
「どうでしたの?」
椅子へ座るなり尋ねると、父が少し眉を上げた。
「挨拶くらいしろ」
「申し訳ありません。お呼びいただきありがとうございます」
「順番が逆だ」
「気になっていましたの」
「分かっている」
グレンは今日もいる。
父は少し考えてから話し始めた。
「表向きの用件は、水路整備に関する商会の紹介だった」
「本当に?」
「ああ。内容自体も妥当だった。セレグラン領では昨年から一部地域で灌漑に問題があり、修繕が必要なのは事実だ」
「では、お金が欲しかったわけではない?」
「直接の援助は求めなかった。商会の紹介と、可能なら施工費の支払い条件について口添えしてほしいという程度だ」
それくらいなら、普通の相談に聞こえる。
「お父様はどうするの?」
「条件が合えば紹介する。領民の生活に関わる問題まで、男爵個人への疑念だけで拒む理由はない」
父らしい答えだった。
「他には?」
聞く。
父の目が少しだけ鋭くなる。
「お前の話が出た」
やはり。
「男爵様から?」
「ああ」
「何と?」
「王太子殿下との顔合わせが順調だったと聞いている、と」
「それだけ?」
「最初はな」
嫌な予感がする。
「その後、アルセリード家と王家の縁が深まることは王国にとって喜ばしいことだと言った」
「お手紙と同じですわね」
「ああ」
「お父様は何と?」
「まだ何も決まっていないと答えた」
「男爵様は?」
父は少しだけ間を置いた。
「驚いていた」
「驚いた?」
「本人は、かなり話が進んでいると認識していたようだ」
胸の奥に小さな緊張が生まれる。
「どうして?」
「ナディアからそう聞いている、とは言わなかった」
そこを明確にする。
「ただし、妹がお前の将来について非常に前向きに話していることは認めた」
「どんなふうに?」
「お前は幼い頃から王家に相応しい資質を持ち、王太子妃となれば幸せになれるだろう、と」
午前中に、本人から聞いたものとほとんど同じだ。
「それは本当ですわ」
「何がだ」
「ナディアは今日、わたくしにも似たことを言いました」
父の視線が止まる。
「探りを入れたのか?」
「兄のことは聞いていません」
すぐに説明する。
「どうして王太子妃になることをそこまで良いと思うのか、ナディア自身の考えを尋ねただけです」
父は少し考えたあと、ため息をついた。
「お前は境界を攻めるな」
「約束は守っていますわ」
「ぎりぎりな」
「それで、男爵様は他に何か?」
父は何か言いたそうだったが、話を戻してくれた。
「私が婚約は未定だと伝えた後、男爵は少し言い方を変えた」
「どういうふうに?」
「もちろん最終的には王家とアルセリード家、そして当人たちが決めることだ、と」
後から付け足した。
そう聞こえる。
「お父様は、男爵様がわたくしの婚約を利用しようとしていると思いました?」
「可能性は、以前より高く見ている」
初めて、父の評価が少し動いた。
「でも、まだ決めない?」
「ああ」
「どうして?」
「家の利益を期待していることと、不正なことをしていることは同じではない」
父は机を指先で軽く叩いた。
「セレグラン男爵が、お前が王家へ入る未来を自家にとって好都合だと思っている可能性は高い。それ自体は、貴族として理解できる」
「でも?」
「そのためにナディアへ何かをさせているなら、話は変わる」
そこはまだ分からない。
「ナディア本人には、いつ聞くの?」
「近いうちに」
「わたくしも一緒に?」
「それは考える」
即座に拒否されなかった。
少し驚く。
「よろしいの?」
「ナディアが何を考えてお前へ話してきたのかは、お前自身に関わることだ。ただし、大人同士の話もある」
「では、その部分だけ?」
「必要ならな」
少しずつ、俺を完全な子供扱いしないようにしてくれているのかもしれない。
もちろん五歳児であることは変わらない。
でも、自分の人生について聞く権利くらいはある。
「お父様」
「何だ」
「ナディアが、悪い人ではなかったらどうします?」
我ながら変な質問だった。
父もすぐには答えなかった。
「悪い人、という言葉をどう使っている」
「分かりません」
「なら答えられん」
少し考え直す。
「ナディアが、本当にわたくしの幸せを願っていて、そのために王太子妃になるのが一番だと思っていただけだったら?」
今度は父も意味を理解したようだった。
「それでも、間違っていた部分があれば正す」
「辞めさせる?」
「それだけで決めることではない」
意外だった。
「お父様は、もっと厳しいかと思いました」
「私は人を罰することが目的ではない」
静かな声だった。
「お前の教育環境に問題があったなら、まずそれを正す。ナディアが意図的に我が家や王家を利用しようとしていたなら別だが、考え方が間違っていたというだけで即座に追い出すつもりはない」
「考え方は直せるから?」
「本人が直す意思を持てばな」
俺はその答えを聞いて、少し安心した。
なぜ安心したのかは、自分でもよく分からない。
ナディアを疑っている。
彼女の言葉が、元のヴェルシアナを悪い方向へ導いた可能性は高いと思っている。
それでも、彼女が処罰される未来を積極的に望んでいるわけではないらしい。
「お前はどうしたい」
今度は父から聞かれた。
「わたくし?」
「ああ。ナディアに何を望む」
すぐには答えられなかった。
辞めてほしい。
離れてほしい。
謝ってほしい。
どれも少し違う。
「……わたくしが間違っている時に、間違っていると言ってほしいです」
考えながら答える。
「それから、わたくしの代わりに幸せを決めないでほしい」
父は黙って聞いている。
「でも、昔のわたくしを大切にしてくださっていたことまで、無かったことにはしたくありません」
自分で言って、少し驚いた。
いつの間にか、そんなふうに思うようになっていた。
「難しいお願いだな」
「そうですの?」
「人は、自分が正しいと思っていることほど変えにくい」
父はそう言った。
「だが、それを本人へ伝える価値はある」
「はい」
ナディアと本当の意味で話す日は、思っていたより近いのかもしれなかった。
◇
その夜、寝る前にミレーヌへ今日のことを少しだけ話した。
男爵との面会内容すべてではなく、父が婚約はまだ何も決まっていないと改めて伝えたことと、ナディア自身が俺に王太子妃という未来を良いものだと考えていることだけだ。
「ナディア様は、本当にそう思っていらっしゃるのですね」
ミレーヌが言った。
「たぶん」
「お嬢様は、嫌でございますか?」
聞かれて考える。
「王太子妃になることが?」
「はい」
「それも、まだ分かりませんわ」
アレクシスのことは嫌いではない。
むしろ今のところ、一緒にいるのは楽しい。
でも、六歳の少年と二度会っただけで結婚したいかと聞かれても困る。
まして王太子妃という立場まで含めれば、分からないことの方が圧倒的に多い。
「ただ」
俺は続けた。
「自分で分からないと言っているのに、周りから『あなたはきっとこれが幸せです』と言われ続けるのは、少し怖いですわね」
「どうして?」
「そのうち、本当に自分がそう思っていたような気になるかもしれないからです」
ナディアの言葉。
父母の期待。
周囲の称賛。
王太子の婚約候補。
元のヴェルシアナは、それを何年も浴び続けた。
最初は「王太子の隣へ立つべきだ」と教えられただけだったのかもしれない。
それがいつしか、「そこは自分の場所だ」に変わった。
そして誰かがその場所へ近づいた時、奪われたと感じるようになった。
「ミレーヌ」
「はい」
「もしわたくしが何年後かに、『昔から王太子妃になるのが夢でしたの』なんて言い出したら、今日の話を思い出させてくださいな」
ミレーヌが目を瞬かせた。
「よろしいのでございますか?」
「ええ。今のわたくしは、まだ分からないと言っていたと教えてください」
「でも、その時には本当にお気持ちが変わっているかもしれません」
それもそうだ。
少し考える。
「でしたら、思い出させるだけで構いません。その上で、それでもわたくしがそうしたいと言うなら、たぶん自分で選んだのでしょう」
ミレーヌはゆっくり頷いた。
「分かりました」
「お願いします」
これで未来の自分への証人が一人増えた。
少し可笑しくなる。
俺は未来を知っているはずだった。
原作のヴェルシアナがどうなるかも、アレクシスがどんな攻略対象なのかも知っているつもりだった。
けれど今は、自分自身の未来についてさえ簡単に決めたくないと思っている。
十年後、本当にアレクシスを好きになっている可能性だってある。
反対に、良い友人のままかもしれない。
婚約そのものが消えている可能性もある。
大切なのは、どの結末になるかではない。
そこへ至るまでの選択を、自分がしたと思えるかどうかだ。
誰かに勧められたからでも、家のためだと言われたからでも、自分にはそれが相応しいと繰り返されたからでもなく、その時の自分が見て、考えて、選んだ結果なら。
少なくとも、選ばなかった人生を全部他人のせいにせずに済む気がする。
「お嬢様」
「何ですの?」
「もし将来、王太子殿下をお好きになったら、わたくしに教えてくださいませ」
「なぜ急にそこへ行くの?」
ミレーヌが少し笑う。
「今日のお嬢様が、まだ分からないと仰っていたことを覚えておくためです」
「それなら、恋の報告まで必要ありませんでしょう?」
「必要かもしれません」
「誰に?」
「わたくしに」
最近、この子は時々妙に強い。
「考えておきますわ」
「はい」
笑いながら灯りを落とす。
そのあと寝台へ横になってから、俺は昼間のナディアとの会話をもう一度思い出した。
『この国では、立場によって諦めなければならないことがございますから』
あの言葉だけが、他のものより少し深く残っていた。
あれは一般論だったのだろうか。
それとも、ナディア自身が何かを諦めたことがあるのだろうか。
知りたいとは思う。
けれど、今すぐ答えを引き出す必要はない。
誰にでも、話したくない過去はある。
俺だって前世について、この世界の誰にも全部を話していない。
だから、相手が何かを隠しているというだけで、それを罪のように扱うことはしたくなかった。
ただし、俺の人生へ関わることなら話は別だ。
俺が王太子妃になることを望む理由が、ナディア自身の過去や価値観と結びついているのなら、それを知らなければならない時はいずれ来る。
その時に聞きたいのは、「何を企んでいたのか」だけではない。
なぜ、それが俺の幸せだと思ったのか。
たぶん、そちらの方が重要なのだろう。
人を傷つけるものは、いつも悪意とは限らない。
大切だから守りたいと思う気持ちが、相手の意思を聞かずに進めば、いつか檻になることもある。
そして檻というものは、鉄で作られているとは限らない。
優しい言葉や、期待や、善意で作られたものほど、中にいる本人が檻だと気づくまで時間がかかるのかもしれなかった。
俺はまだ、ナディアが何を作ろうとしていたのか知らない。
彼女自身すら、それを「檻」だとは思っていない可能性もある。
だからこそ、急いで敵の名前をつけるのではなく、もう少しだけ彼女自身の言葉を聞いてみたいと思った。
それでも最後に選ぶのは、自分だ。
その一線だけは、誰がどれほど俺を大切に思ってくれていたとしても、譲ってはいけない気がした。




