第17話 家のためという言葉は、少し便利すぎる
皆様、いつもブックマーク&高評価ありがとうございます!
皆様からの反応がとても嬉しかったので、9/21に第1章~第4章まで一気に大量投稿いたします!
そして9/22以降は、これまで通り平日12時投稿を予定しております。
また、祝日は1日3話投稿で進めていく予定です!
第1章以降は、それぞれの章にしっかりとした山場や見せ場も用意しておりますので、ぜひ今後の展開も楽しみにしていただけましたら幸いです!
引き続き、本作をよろしくお願いいたします!
その知らせが届いたのは、朝の算術を終えた直後だった。
次の授業まで少し時間が空いていたため、俺はミレーヌと一緒に昨日途中まで読んでいた魔法教育の本を眺めていた。ところが、扉を叩いて入ってきた侍従が父からの伝言を告げたことで、その日の予定は少しだけ変わることになった。
「旦那様より、昼食後にお時間をいただきたいとのことでございます」
「お父様が?」
「はい。急ぎではないため、午前中のご予定はそのままで構わないとのことです」
最近、父の書斎へ呼ばれる回数が増えている。
五歳児としてはどう考えても異常な頻度だと思うのだが、その原因の半分くらいは俺自身にあるので文句も言いにくい。
「何のお話か聞いていますの?」
「申し訳ございません。そこまでは伺っておりません」
「分かりましたわ」
侍従が礼をして退出すると、ミレーヌが本から顔を上げた。
「セレグラン男爵様のことでございましょうか」
「どうでしょう。お父様は今も調べているはずですけれど」
前回聞いた時点で分かっていたのは、ナディアが兄であるセレグラン男爵と正式な来客記録を残さない形で会っていたこと、そして男爵家の財政状況があまり良くないということだけだった。
それだけで何かを決めつけることはできない。
ただ、父がわざわざ俺を呼ぶのなら、新しい情報が見つかった可能性はある。
「気になりますか?」
ミレーヌが尋ねる。
「気にはなります。でも、午前中から考え続けても答えは出ませんもの」
「以前のお嬢様でしたら、すぐ旦那様のお部屋へ行かれていたかもしれません」
「それは今でも少しやりたいですわよ」
正直に答えると、ミレーヌが笑った。
「でも待ちます。昨日、自分で書いたばかりですから」
「何をでございますか?」
「分からないものを、分かったことにしない、と」
声に出してみると、昨日より少しだけ恥ずかしい。
五歳児が何を書いているのだろうと思わなくもないが、今の俺にとっては必要な言葉だった。
「では、今は魔法のお勉強でございますね」
「ええ」
開いた本へ視線を戻す。
とはいえ、十分もしないうちに同じ行を二度読んでいる自分に気づいたので、どうやら待つことと気にしないことは別らしかった。
◇
昼食後、父の書斎へ向かうと、今日はグレンだけでなく母もいた。
母まで同席している。
それだけで、いつもより少し重要な話なのだと分かる。
「お呼びでしょうか、お父様」
「ああ。座りなさい」
勧められた椅子へ腰掛ける。
机の上には何枚かの書類が広げられていたが、父はすぐにそれをこちらへ見せることはしなかった。
「先に言っておくが、何か大きな事件が起きたわけではない」
「その言い方をされますと、逆に気になりますわ」
母が小さく笑う。
「わたくしも同じことを言ったのよ」
「余計な不安を与えないためだ」
「お父様は説明の仕方が少し不器用ですわね」
「話を進めるぞ」
押し切られた。
父は一枚の書類を取り上げる。
「セレグラン男爵について、ここ数年の王都での動きを調べさせた」
「何か分かったのですか?」
「いくつか」
グレンが別の資料をこちらへ向ける。
「セレグラン男爵家は、三年前より王都での交際範囲を少しずつ広げております。特に王家や上位貴族と関係の深い家へ接触する機会が増えておりますな」
「財政が苦しいのに?」
「だからこそ、とも考えられます」
グレンが答える。
「貴族家にとって、人脈は時として領地以上の価値を持ちます。婚姻、官職、商取引、融資、いずれも関係性から始まることが多くございますので」
「では、普通のことなの?」
「それ自体は」
やはり、そこで終わらない。
「ただし」
父が続けた。
「男爵は、アルセリード家との縁を必要以上に強調しているらしい」
「縁?」
「ナディアが、お前の教育係補佐として近くにいることだ」
少しだけ背筋が伸びる。
「どんなふうに?」
「宴席や社交の場で、自分の妹がアルセリード家の令嬢から厚い信頼を得ている、と話している」
「わたくしが?」
「ああ」
「そんなことを、わたくしは言ったことがありませんけれど」
「当然だろうな」
ナディアを信頼していない、とは言わない。
ただ、少なくとも今の俺は、彼女へ自分の人生を預けるほど無条件の信頼を置いてはいない。
「それだけなら、妹を自慢しているとも考えられるのではありませんか?」
母が口を挟んだ。
「わたくしも最初はそう思ったわ」
「お母様も?」
「ええ。兄が妹の仕事を誇らしく思っているだけなら、それほどおかしなことではないでしょう?」
「では、違ったの?」
「完全に違うとは言えないわ。ただ、少し気になる話もあったの」
母が父を見る。
父が頷いた。
「男爵は半年ほど前、ある子爵家の当主へ、お前と王太子殿下との将来について話している」
心臓が一度だけ強く鳴った。
「婚約のこと?」
「ああ。まだ王家と我が家の間でも何も決まっていない時期だ」
「何と話したのです?」
「正確な言葉は分からない。伝聞だからな。ただ、『アルセリード家のご令嬢が将来王家へ入られれば、王国にとって安泰だろう』という趣旨の話をしていたらしい」
それだけなら。
ただの世間話にも聞こえる。
「それは、そんなにおかしいこと?」
「一度ならな」
父の返事は短かったが、声は重かった。
「同じような話を、複数の家でしている」
「わたくしが王太子妃になるような話を?」
「断定は避けているが、そう受け取れる言い方をしているようだ」
少しずつ嫌な形が見えてきた。
「どうしてセレグラン男爵が、わたくしの将来を外で話すのです?」
「それを知るために調べている」
「ナディアが話した可能性は?」
聞くと、父はすぐには答えなかった。
「可能性はある。ただし、まだ確認できていない」
そこはやはり決めつけない。
「男爵様にとって、わたくしが王太子妃になると何か良いことがあるの?」
グレンが少しだけ考え、五歳の俺にも理解できるよう言葉を選んだ。
「直接的な利益が必ず生まれるわけではございません。しかし、妹君が将来の王太子妃に近しい存在であると周囲から認識されれば、それだけでセレグラン家を見る目は変わります」
「つまり、ナディアがわたくしの側にいるだけで?」
「はい。仮に将来、お嬢様が王太子妃、さらに王妃になられた場合、幼少期からお側に仕えていた者は非常に重要な人物になります。その者の実家であるセレグラン家も、少なからず注目を受けるでしょう」
前世の感覚で考える。
会社の社長と個人的に親しい社員の家族。
いや、それより遥かに大きい。
将来の王妃へ影響を持つ人間。
それだけで周囲から価値があると見られる。
「ナディア本人は、そのことを分かっているの?」
「分からない」
父ははっきり言った。
「兄が勝手に利用している可能性もある。ナディアが積極的に協力している可能性もある。あるいは、その中間かもしれない」
母が少し悲しそうな顔をしている。
「ナディアは、長くヴェルシアナを見てくれているわ」
「はい」
「わたくしは、あの人があなたを嫌っているとは思ったことがないの」
母の言葉には迷いがなかった。
「むしろ、本当に可愛がってくれていたと思うわ。あなたが熱を出せば夜まで残ってくれたし、幼い頃に泣き止まない時には何時間も抱いてくれたこともある」
以前ナディア自身から聞いた話と一致する。
「では、お母様はナディアを信じていますの?」
母はしばらく俺を見つめた。
「信じたいとは思っているわ」
それは、信じているとは少し違う答えだった。
「でも、あなたが最近教えてくれたことも無視したくないの。ナディアの言葉や報告が、結果としてあなたへ良くない影響を与えていた可能性はあると思っている」
「お母様も、そう思うようになったのですね」
「ええ」
少しだけ胸が痛む。
俺がこの家へ来てから、両親にも自分たちの子育てを振り返らせている。
それが正しいのかは分からない。
けれど、何も知らないふりをすることもできない。
「お父様は、男爵様がわたくしを利用しようとしていると思っていますの?」
「可能性は考えている」
「どんなふうに?」
「お前と王太子殿下の婚約が成立すれば、自分の家に利益があると考えている可能性だ」
とうとう言葉になった。
俺は机の上の書類を見る。
「でも、それは貴族では珍しくないのでしょう?」
「珍しくはない」
「では、悪いことなの?」
「そこが難しい」
父は少し背もたれへ身体を預けた。
「家の利益を考えること自体は、貴族家の当主として当然だ。私もアルセリード家の利益を考えて行動する」
「お父様も?」
「もちろんだ。領地に住む者、家臣、使用人、その家族まで含めれば、私の判断で生活が変わる者は多い。自分の好き嫌いだけで家を動かすことはできない」
それは理解できる。
「では、セレグラン男爵様も同じでは?」
「同じ部分もある」
父は否定しない。
「だから、家の利益を求めたという理由だけで責めるつもりはない。ただし、他人の意思を勝手に自分の家の資産として扱うなら話は別だ」
その言葉が、胸の奥へ落ちる。
「わたくしの意思?」
「ああ」
「わたくしが王太子妃になりたいかどうかを知らないまま、その未来を利用するなら?」
「私は好まない」
父らしい表現だった。
怒っているのだと思う。
けれど、感情だけで判断しないように抑えている。
「ナディアは、以前からわたくしと王太子殿下が相応しいとよく話していました」
「聞いている」
「もし、それが男爵様のためだったら?」
「まだそう決めるな」
すぐ止められた。
「……はい」
「ナディア自身が何を考えていたかは、本人へ確認しなければ分からない」
父は俺へ真っ直ぐ視線を向ける。
「お前も最近、人を役割だけで判断したくないと言っていただろう」
「言いました」
「なら、ナディアも同じだ。セレグラン男爵の妹だからという理由だけで、兄と同じ考えだと決めるな」
自分の言葉を父に返されると、少し悔しい。
けれど正しい。
「分かりましたわ」
「ただし、警戒するなという意味ではない」
「そこは分けるのですね」
「当然だ」
父は本当に慎重だ。
でも、その慎重さに最近は安心するようになっていた。
◇
書斎を出たあと、俺はまっすぐ自室へ戻らず、中庭へ向かった。
考えを整理したかった。
午後の陽はまだ高く、石造りの回廊には庭の木々から落ちる影が細長く伸びている。
ミレーヌも何も言わずについてきた。
しばらく歩いたところで、俺はようやく口を開く。
「ミレーヌ」
「はい」
「家のためなら、自分が嫌なことでもするべきだと思います?」
突然の質問に、彼女は困った顔をした。
「難しいです」
「そうでしょうね」
「でも、家族が困っていたら助けたいとは思います」
ミレーヌには、困窮した実家と兄がいる。
軽々しく聞くべきではなかったかもしれない。
「ごめんなさい。変なことを聞きましたわ」
「いいえ」
彼女は少し考えながら続けた。
「わたくしも、以前はエルヴァート家のために働かなければと思っておりました」
「今は?」
「今も、できることがあれば助けたいです。でも」
言葉を選んでいる。
「最近は、それだけで自分の全部を決めなくてもよいのかもしれないと思うようになりました」
「お兄様に何か言われましたの?」
「いいえ。兄はむしろ、無理をしなくてよいと申しております」
少し安心する。
「では、家のために何かをすること自体が嫌なのではない?」
「はい。自分でそうしたいと思えるのでしたら」
自分でそうしたいと思えるなら。
その言葉が大きい。
「もし、お兄様から『家のためにこの方と結婚しなさい』と言われたら?」
ミレーヌが明らかに困った。
「お嬢様、急に難しすぎます」
「ごめんなさい」
「でも……嫌だと思います」
小さな声だった。
「どうして?」
「自分の人生のことだからです」
単純な答えだった。
そして、だからこそ強い。
「そうですわよね」
俺は少し笑った。
「家族を大切にすることと、家族に人生を決めてもらうことは同じではないのでしょうね」
「はい」
それは俺にも当てはまる。
公爵家の娘である以上、家の事情を無視することはできない。
将来の結婚が、個人だけの問題で済まないことも理解している。
それでも。
俺自身の意思がゼロでいい理由にはならない。
「お嬢様」
「何ですの?」
「セレグラン男爵様は、ナディア様へ何かをお願いしているのでしょうか」
「分かりません」
今度は迷わず答えられた。
「でも、少なくとも男爵様がわたくしと王太子殿下の将来を外で話していることは本当みたいですわ」
ミレーヌの表情が少し硬くなる。
「それは……」
「まだ婚約すら決まっていないのに、変でしょう?」
「はい」
「ただ、それだけでナディアまで同じ考えだとは決めないようにします」
「難しいですね」
「最近、そればかりですわ」
二人で小さく笑う。
笑ったあと、ふと昨日ナディアが言った言葉を思い出した。
――ヴェルシアナお嬢様だから、でございます。
本当にそう思っているように見えた。
もしあれが本心なら。
彼女は俺を利用したい兄と、どこまで同じなのだろう。
それとも。
そもそも俺が「利用する側」と「守る側」に分けようとしていること自体が間違っているのかもしれない。
人は誰かを大切にしながら、同時に自分の利益も考えることがある。
家族を愛しながら、その家族へ自分の望みを押しつけることだってある。
善意と都合は、同じ人間の中に両方存在できる。
それを最近ようやく理解し始めた気がする。
◇
その日の夕方には、魔法の授業があった。
考え事を引きずったまま訓練室へ入った俺を見て、ヴィクトルは挨拶を終えるなり眉を寄せた。
「本日は集中力が低いように見受けられます」
「まだ何もしていませんわよ?」
「入室してから感応石を二度ご覧になったにもかかわらず、手を伸ばされませんでしたので」
「先生方はどうして皆、そんなにわたくしを観察しているのです?」
「教師ですので」
便利な答えだ。
「何か気になることがあるのであれば、本日は軽い復習だけにいたしますか?」
「いいえ。できます」
「できます、ではなく、集中できますかと聞いております」
少し考える。
「……たぶん」
「では、まず一度だけ試しましょう」
今日は、前回の羽根を一定の位置まで動かし、そこで止める練習だった。
俺は机の上の羽根へ意識を向ける。
魔力を広げる。
空気へ混ぜる。
ゆっくり押す。
羽根が動く。
五センチ。
八センチ。
そのまま十センチの印を越えて、十五センチ近くまで進んだ。
「失敗ですわね」
「はい」
ヴィクトルは淡々と答えた。
「やはり本日は別のことを考えておられます」
「魔法には、そんなに出るものなの?」
「慣れればある程度切り分けられます。しかし、今のお嬢様はまだ意識と魔力操作が強く結びついておりますので」
俺は椅子へ座った。
「考え事をしている時には魔法を使わない方がいい?」
「状況によります」
「怒っている時も?」
「特に幼い頃は避けた方が安全でしょう」
なるほど。
そこで少し嫌な想像をした。
「先生」
「はい」
「怒りながら魔法を使うと、強くなることがありますの?」
「ございます」
やはり。
「魔力は感情によって一時的に出力が増す場合があります。恐怖、怒り、焦りといった強い感情は特に影響しやすい。ただし、強くなるというより制御が外れやすくなる、と考えた方が正確でしょう」
ゲームのヴェルシアナを思い出す。
感情的。
高い魔力。
嫉妬。
怒り。
もし現実の彼女がそのまま十五歳まで成長していたなら、その組み合わせはかなり危険なのではないか。
「魔力が多い人ほど?」
「影響が大きくなる可能性はございます」
「……それは、きちんと覚えておいた方がよさそうですわね」
「何か思い当たることでも?」
「いいえ。将来のためです」
原作の記憶だとは言えない。
ヴィクトルは深く追及しなかった。
「それなら、本日の練習を変えましょう」
「何をするの?」
「魔法を使わない練習です」
「魔法の授業なのに?」
「使わないことも制御の一部でございます」
言われてみればそうだ。
「今から三分間、感応石を持っていただきます。ただし、魔力を流してはいけません」
「それだけ?」
「はい。その間、何を考えても構いません。感情が動いても、魔力を外へ出さないよう意識してください」
簡単そうに聞こえる。
ところが、実際に石を持つと少し違った。
魔力を扱う練習を始めて数日。
感応石を握れば、無意識に魔力を流そうとする癖がつき始めている。
しかも今日は頭の中にセレグラン男爵のことが残っている。
男爵家の利益。
ナディア。
王太子との婚約。
将来の王妃。
考え始めると、胸の奥にある魔力が少しだけざわつくように感じた。
石の中心が微かに光る。
「今、流れました」
「分かっていますわ」
「止めてください」
意識を戻す。
光が消える。
「これは難しいですわね」
「魔力を出すより、出さない方が難しい方もおります」
「わたくしはそちら?」
「今のところは」
ヴィクトルは机の向こうで静かに俺を見ている。
「大きな力を持つ者ほど、使えることばかりを学びたがります。しかし、使わないと決めた時に使わずにいられることも同じくらい重要でございます」
まただ。
この世界に来てから何度も、似た答えへ辿り着く。
怒ることではなく、怒った後に何をするか。
力があることではなく、それをどう扱うか。
知っていることではなく、その意味をどう考えるか。
「先生」
「はい」
「貴族の権力にも、同じことが言えますの?」
ヴィクトルが少しだけ目を細めた。
「わたくしは魔法教師でございます」
「答えてくださいませんの?」
「個人的な意見でよろしければ」
「はい」
「同じだと思っております」
やはり。
「使えるから使う、では危険?」
「力というものは、大抵そうでしょう。使う理由と、使った後に何が起きるかを考えずに振るえば、本人が善意でも害になることはございます」
善意でも。
その言葉が妙に残った。
「では、逆に」
「はい」
「家のために使えるものは全部使う、という考え方は?」
ヴィクトルは少し考えた。
「それだけでは判断できません」
「どうして?」
「家を守ることが必要な場面はあります。しかし、自分以外の人間まで『使えるもの』として数え始めれば、その人の意思を無視することにもなり得ます」
父と似た答えだった。
「先生もそう思うのですね」
「何かございましたか?」
「少しだけ、考えることがありまして」
「ならば、今日はその考え事まで含めて練習にいたしましょう」
感応石が再び差し出される。
「まだ続けるの?」
「先ほどより今の方が集中しております」
たしかに。
「教師はずるいですわね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
最近、この人の扱い方が少し分かってきた気がする。
◇
夕食前、自室へ戻ると、机の上に一通の手紙が置かれていた。
王宮からではない。
封蝋に見覚えのない紋章が刻まれている。
「これは?」
「ナディア様がお持ちになりました」
ミレーヌが答える。
「ナディアが?」
「はい。お嬢様宛てに届いたものだそうです」
「誰から?」
「セレグラン男爵家でございます」
手が止まった。
「わたくし宛て?」
「はい」
父と話したその日に。
偶然だろうか。
それだけで疑うのは早い。
「ナディアは何か言っていました?」
「いいえ。『兄よりお嬢様へご挨拶のお手紙が届いております』とだけ」
俺は封書を手に取った。
開けるか迷う必要はない。
自分宛てに正式に届いた手紙なら、読むこと自体に問題はないだろう。
封を切り、中の紙を広げる。
文章は長くなかった。
先日、王宮にて王太子と良い時間を過ごしたと聞き、喜ばしく思っていること。
幼い頃からナディアが俺の成長を見守る機会をいただいていることへの感謝。
そして最後に。
『ヴェルシアナ様がいずれ王国を照らす尊き御方のお隣へ立たれる日を、妹ともども心より楽しみにしております』
そこを二度読んだ。
名前は書かれていない。
けれど、意味は分かる。
王国を照らす尊き御方。
王太子アレクシス。
その隣。
王太子妃。
「お嬢様?」
ミレーヌが心配そうにこちらを見る。
「少しだけ、嫌な感じがしますわ」
「何が書かれていたのでございますか?」
「わたくしが将来、王太子殿下の隣に立つことを楽しみにしているそうです」
ミレーヌの眉が僅かに動く。
「婚約は、まだ決まっておりませんよね」
「ええ」
だからこそだ。
俺は手紙を机の上へ置いた。
文章そのものは丁寧だ。
失礼なことも書かれていない。
祝いの言葉と感謝。
それだけを見れば、善意の手紙にも見える。
けれど、今の俺にはどうしても引っかかる。
この人は。
俺が王太子の隣へ立ちたいかどうかを、一度でも考えたのだろうか。
もしかすると考えているのかもしれない。
俺が幼いから、まだ自分の将来を決められないと思っているだけかもしれない。
貴族社会では当然の表現なのかもしれない。
それでも。
誰かが「家のため」と考え。
別の誰かが「王国のため」と考え。
さらに別の誰かが「あなたのため」と考える。
その全員が善意だったとしても。
最後に、自分自身へ尋ねる人が一人もいなければ。
人生は簡単に、本人の手から離れていく。
「お嬢様」
「はい」
「旦那様へお見せになりますか?」
俺は少し考えた。
「ええ。明日にでも」
「今ではなくてよろしいのですか?」
「急ぐ内容ではありませんもの」
以前なら、手紙を持ってそのまま父の書斎へ向かっていたかもしれない。
今は一度置いておける。
ただし忘れない。
それでいい。
「それに」
「はい?」
「わたくし、少し腹が立っていますの」
ミレーヌが目を瞬かせた。
「でしたら、なおさら旦那様へ」
「だから今は行きませんわ」
俺は手紙を畳み直した。
「少し落ち着いてからの方がいいでしょう。今日、魔法の先生にも教わったばかりですから」
「何を?」
「感情が動いている時ほど、使える力をすぐ使わないことです」
公爵令嬢である俺が父へ訴えれば、セレグラン男爵家へ何らかの圧力をかけることだってできるのかもしれない。
たった一通の手紙に腹を立て、その力を使う。
それでは、元のヴェルシアナと何も変わらない。
怒ってはいけないのではない。
今の俺は、確かに不快だ。
自分の知らないところで、自分の未来を既定路線のように語られることが嫌だ。
その感情まで無かったことにする必要はない。
ただ、その怒りを「相手が悪い証拠」に変えない。
まず父へ見せる。
必要なら、セレグラン男爵がどういう意図で送ったのか確認する。
それでもおかしいと思えば、その時に考える。
「ミレーヌ」
「はい」
「少しだけ、分かったことがありますわ」
「何でございますか?」
「家のためという言葉は、便利すぎます」
ミレーヌが黙って聞いている。
「きっと、本当に家のためになることもあるのでしょう。でも、その言葉を使えば、本人が嫌だと思っていることまで正しいように見せられることがあります」
公爵家のため。
男爵家のため。
王国のため。
それらが全部嘘だとは思わない。
むしろ本当に必要なことも多いはずだ。
「だから、その言葉を聞いた時ほど、誰にとっての『ため』なのか考えた方がいいのかもしれませんわね」
ミレーヌがゆっくり頷いた。
「お嬢様にとっても、でしょうか」
「ええ。わたくしのためと言われた時も、同じです」
そこまで口にして。
ナディアの声が頭へ浮かんだ。
お嬢様のため。
お嬢様に相応しい。
お嬢様なら。
何度も聞いてきた言葉だ。
そこに悪意があるかどうかは、まだ分からない。
けれど。
もし善意だったとしても。
その善意が、俺自身の意思を聞く前に未来を決めてしまうのなら。
俺はそれを、そのまま受け入れるつもりはなかった。
◇
夜。
寝る前に、俺はもう一度セレグラン男爵からの手紙を読み返した。
昼間より腹は立っていない。
だからこそ、少し冷静に文章を見られる。
丁寧な挨拶。
妹が世話になっていることへの感謝。
王家との縁を喜ぶ言葉。
どれも、それだけなら問題ない。
それでも最後の一文は引っかかった。
俺が王太子の隣へ立つ日を楽しみにしている。
ナディアと同じだ。
以前、彼女も俺へ似たような言葉を何度も使った。
王太子に相応しい。
王宮へ立つ姿を楽しみにしている。
あの頃は、ただ高い身分を好んでいるのだと思っていた。
今は少し違う可能性も考え始めている。
セレグラン男爵家のため。
ナディア自身のため。
俺のため。
その三つが、彼女の中で最初から同じ方向を向いているのかもしれない。
もし彼女が本気で「王太子妃になることがヴェルシアナにとって一番幸せだ」と思っていたら。
兄の利益と、彼女の善意は矛盾しない。
むしろ同じ未来へ向かってしまう。
その可能性に気づいた時、単純にナディアを疑っていた頃より少しだけ怖くなった。
悪意なら、拒絶できる。
利用されていると分かれば、距離を取ればいい。
けれど、相手が心から自分の幸せを願っていて、その「幸せ」の形だけが自分と違っていた場合、どこから間違いだと言えばいいのだろう。
まだ答えはない。
そもそも、ナディアが本当にそう考えているという証拠もない。
だから今は、これ以上先へ進まない。
俺は机の上の練習帳を開き、今日の出来事を書き留めた。
セレグラン男爵は、俺と王太子の将来について外で話している。
男爵家にとって、俺が王家へ入ることは利益になり得る。
ナディアがその考えを共有しているかは不明。
男爵から届いた手紙には、俺が王太子の隣へ立つ未来を期待する言葉があった。
そこまで書いたところで、少し迷い、最後に一行だけ付け足した。
『相手がわたくしの幸せを願っていることと、その人が考える幸せを選ばなければならないことは、同じではない。』
書き終えたあと、しばらくその一文を眺めた。
たぶん、今の俺にとってかなり大事なことだ。
父や母が俺を愛してくれていることは分かっている。
ナディアも、少なくとも今まで見てきた限りでは、俺を大切にしているように見える。
だからこそ、自分の意思を伝える必要があるのだろう。
愛されているから従うのではなく、愛されている相手だからこそ、違う時には違うと言う。
それができなければ、どれほど優しくされても、自分の人生を生きているとは言えない気がした。
灯りを消し、寝台へ向かう。
セレグラン男爵の本当の目的は、まだ分からない。
ナディアが兄と何を話しているのかも分からない。
けれど今日、一つだけ以前よりはっきりしたことがある。
破滅を避けるために必要なのは、悪意だけを見つけることではない。
善意の形をしたものの中にも、自分で選ばなければならない場面はある。
それは少し面倒で、分かりにくくて、ゲームの選択肢よりずっと難しい。
それでも、誰かが俺の人生へ「これが正解です」と答えを書き込もうとした時には、その答えがどれほど綺麗な文字で書かれていても、一度くらいは自分で読み直してみようと思った。
それがきっと、今の俺にできる一番小さな抵抗なのだろう。




