第16話 知っていることと、分かったことは違う
リュネアが帰った翌朝、俺の机の上には三冊の本が積まれていた。
一冊目は『アルヴェネア王国基礎魔法論』。
二冊目は『幼年期における魔力操作の手引き』。
そして三冊目は、『王国における魔法教育と身分制度』。
最後の一冊だけ、明らかに五歳児向けではない。
「……ミレーヌ」
「はい」
「これは誰が?」
「ヴィクトル先生でございます」
「全部?」
「はい。昨日、お嬢様が魔法についてもっと知りたいと仰っていたので、朝一番に届けられました」
知りたいとは言った。
たしかに言ったのだが、まさか翌朝から専門書らしきものまで送りつけてくるとは思わなかった。
一番上に置かれていた手紙を開いてみると、几帳面な文字で短い説明が添えられている。
最初の二冊は好きなところを読んでも構わない。ただし、理解できない部分を勝手に解釈せず、次の授業で質問すること。
三冊目については、まだ読まなくてもよいが、昨日「どうして貴族の方が魔法教育を受けやすいのか」と尋ねたため参考として置いておく。
最後には、わざわざこう書かれていた。
『読書も魔力訓練と同様、やりすぎは禁物です』
「……信用されていませんわね」
「昨日の授業で、止められるまで何度も質問をなさったからではございませんか?」
「ミレーヌは最近、先生方の味方をすることが増えましたわ」
「お嬢様のお味方でございます」
「その言い方、どこかで聞いたことがありますわね」
口にしてから、ほんの少しだけ空気が変わった。
ミレーヌも気づいたらしく、表情から笑みが薄れる。
ナディア。
彼女が何度も使った言葉だ。
――わたくしは、お嬢様のお味方でございます。
今となっては、その言葉を聞いた時に抱く感情も以前とは少し違う。
最初は、ほとんど警告として受け取っていた。
自分を無条件で肯定し、周囲の人間を遠ざけ、元のヴェルシアナを我儘な少女へ育てた人物なのではないか、と。
今も疑いが消えたわけではない。
ナディアが報告の仕方を偏らせていたことも、兄であるセレグラン男爵と記録に残らない形で会っていたことも事実だ。
ただ、彼女が何を目的にそれをしていたのかについては、まだ何一つ分かっていない。
悪い人だから。
その一言で片づけるのは、最近の俺が最も避けたい考え方だった。
「お嬢様?」
ミレーヌに呼ばれ、意識を戻す。
「ごめんなさい。また考えていました」
「ナディア様のことでございますか?」
以前なら、ミレーヌは名前を出すことすら少し躊躇っていた。
「ええ。でも、今は本を読みましょう」
「三冊とも?」
「一冊目だけですわ」
「安心いたしました」
「そこまで心配しなくてもよろしいでしょう?」
「お嬢様は一度読み始めると、昼食まで気づかないことがございますので」
「そんなことをしました?」
「一昨日、魔法史の本で」
覚えがある。
「……今日は気をつけますわ」
そう答えながら、一冊目を開いた。
◇
魔法というものを知れば知るほど、ゲームで理解していたものがどれほど単純化されていたのかが分かってくる。
ゲームでは、キャラクターごとに魔力量や属性、得意魔法が分かりやすく設定されていた。
火属性なら攻撃。
水なら回復や補助。
風なら速度や遠距離。
もちろん例外はあったものの、プレイヤーが一目で役割を理解できるよう整理されていた。
ところが現実の魔法は、そんな綺麗には分かれていない。
同じ火系統でも、炎を直接生み出す人間もいれば、既にある熱を操作する方が得意な人間もいる。
水を動かすのは得意でも、氷へ変化させることが苦手な人間もいるらしい。
さらに、生まれ持った魔力量が多くても魔力を細かく扱えなければ高度な術は使えず、逆に魔力量が少なくても制御が優れていれば、日常生活で役立つ術を長時間維持できる。
ゲームのステータス画面なら一つの数字で示されていたものが、この世界では一人の人間の体質や訓練、経験によって複雑に変わっていく。
読み進めていると、ある記述で手が止まった。
『魔力量は血統による影響を受けるとされるが、教育環境による差も大きい。特に幼少期から適切な訓練を受けられる上流階級では、潜在能力を早期に発見しやすい』
つまり、貴族に魔法の使い手が多い理由は、単純に血筋だけではない。
教えてくれる人間がいる。
測定する道具がある。
練習中に何か起きても対応できる設備がある。
そういう環境の差も大きいのだ。
「ミレーヌ」
「はい」
少し離れた机で自分の勉強をしていた彼女が顔を上げる。
「あなたが魔法を習い始めたのはいつ?」
「こちらのお屋敷へ来てからでございます」
「それまでは?」
「家では、ほとんど」
「魔力があること自体は知っていたの?」
「はい。幼い頃に教会で簡単な検査を受けましたので。ただ、専門の先生をお願いできるほど家に余裕はございませんでした」
やはり。
「では、もっと早く習っていたら、今より上手だった可能性もありますのね」
「どうでしょう。わたくしは魔力そのものが多くありませんので」
「でも、制御はわたくしより上手でしょう?」
「灯りだけでございます」
「今は、ですわ」
ミレーヌが少し考える。
「お嬢様は、わたくしにも魔法のお勉強をさせたいのでございますか?」
「わたくしが決めることではないでしょう?」
答えると、彼女がほんの少し笑った。
「最近、その答えが増えましたね」
「だって本当でしょう。ミレーヌがもっと習いたいのであればお父様に相談できますし、そこまで興味がないのでしたら今の勉強を優先すればいいですわ」
「わたくしは……」
彼女はすぐに答えず、自分の手を見つめた。
「灯りの魔法が使えるのは好きです。でも、お嬢様のように色々な魔法を使えるようになりたいかと言われますと、まだ分かりません」
「でしたら、今はそれでいいでしょう」
「お嬢様は、もっと使えるようになりたいのですか?」
「なりたいです」
そこは迷わず答えられた。
「どうして?」
「面白いからですわ」
自分で言って、少し笑う。
破滅回避のため。
自分を守るため。
将来必要になるかもしれないから。
そんな理由はいくらでも考えられる。
けれど、今のところ一番大きいのは単純な好奇心だった。
知らなかった感覚を覚え、昨日できなかったことが少しずつできるようになる。
それが面白い。
「魔法がお好きなのですね」
「たぶん、そうみたいですわ」
初めて自分から「好き」と言えるものが一つ増えた気がした。
◇
午後の授業では、その気持ちを少し後悔することになった。
「もう一度でございます」
「……はい」
机の上には一枚の羽根が置かれている。
昨日、勢いよく紙を吹き飛ばした原因となった風の練習だ。
本日の目標は単純だった。
羽根を十センチだけ動かす。
ただし、机の上に置かれた他の紙や布は動かさない。
言葉にすると簡単なのに、実際にはこれが恐ろしく難しい。
弱くすれば羽根が震えるだけ。
少し強くすると予定より遠くまで転がる。
動かす方向を意識しすぎれば、風が一点へ集中して羽根が跳ねる。
気づけば、同じことを十回以上繰り返していた。
「先生」
「はい」
「魔法というものは、もっとこう……格好の良いものだと思っておりました」
「今なさっていることも立派な魔法でございます」
「羽根を十センチ動かすだけですわよ?」
「その十センチを正確に扱えない方へ、刃物を飛ばす術を教えたいと思われますか?」
「思いませんわね」
「では、続けましょう」
逃げられない。
「もう一度でございます」
ヴィクトルは本当に容赦がない。
俺は息を整え、羽根の周囲へ意識を広げる。
昨日よりは魔力の感覚そのものに慣れてきた。
問題は量と方向だ。
押すのではなく、流す。
羽根の片側だけへ緩やかな空気の動きを作る。
そう意識すると、羽根がゆっくり滑った。
一センチ。
三センチ。
五センチ。
そのまま進み、八センチほどのところで止まる。
「惜しいですわね」
「はい。しかし、今のものが本日最も良好でした」
「では、もう一度」
「五分休憩いたします」
「今ならできそうなのに」
「だから休むのでございます」
「先生は成功しそうな時ほど止めますわね」
「成功したい気持ちで無理をする方が最も止まりにくいからです」
昨日と同じ理屈だった。
仕方なく椅子へ座る。
用意されていた水を飲みながら、ヴィクトルを見る。
「先生は、魔法を習った時に無理をしたことはございますか?」
「ございます」
意外とあっさり認めた。
「どんな?」
「十二歳の時、一人で夜中まで術式の練習を続け、翌朝まで意識を失いました」
「先生も大概ではありませんの?」
「その通りです。だからこそ申し上げております」
失敗を隠さない。
それはこの人の良いところなのだろう。
「叱られました?」
「父と教師から盛大に」
「そのあと、もうしなくなった?」
「完全には」
「……先生」
「若かったのです」
四十代の男が遠い目をする。
少し面白い。
「では、わたくしにも同じ可能性がありますわね」
「ございますので、周囲の人間の言葉を聞いていただきたいのです」
「ミレーヌにも止めてもらうようお願いしました」
「良いことでございます」
「でも、先生ご自身は止められても聞かなかったのでしょう?」
ヴィクトルが黙った。
少しだけ勝った気がする。
「……だからこそ、お嬢様には同じ失敗をしていただきたくないのでございます」
「便利な言い方ですわね」
「教師とはそういうものです」
この人、意外と図太い。
◇
休憩を終え、再び羽根へ向き合った。
今度は先ほど上手くいった感覚を思い出しながら、力を足すのではなく、余計な部分を削ることを意識する。
羽根が静かに動いた。
隣の紙は揺れない。
五センチ。
七センチ。
九センチ。
そして、ほとんど狙った位置で止まる。
「……どうです?」
ヴィクトルが机に刻まれた目盛りを確認する。
「十・二センチでございます」
「二ミリ多い」
「初回としては十分でしょう」
褒められた。
それだけで、苦労した分だけ嬉しい。
「では、もう一度――」
「本日は終了いたします」
「まだ一度成功しただけですわ」
「だから終了するのです。成功した感覚を残して終わることも、練習では大切でございます」
「先生は何でも理由をつけて終わらせますわね」
「お嬢様は何にでも理由をつけて続けようとなさいますね」
言い返せない。
俺が渋々手を下ろすと、ヴィクトルは羽根を片づけながら口元を僅かに緩めた。
「楽しんでおられるようで何よりです」
「分かりますの?」
「失敗するたびに悔しそうなお顔をなさる方は、大抵その練習を嫌っておられません」
「そういうものですか」
「嫌いなことへ本当に興味がなければ、失敗してもさほど悔しくありませんから」
なるほど。
刺繍で失敗しても悔しくはあるが、魔法ほど「もう一度やりたい」とは思わない。
そういう違いなのかもしれない。
「わたくし、魔法が好きみたいです」
朝にも口にした言葉を、今度は少しはっきり言う。
「左様でございますか」
「もっと喜んでくださらないの?」
「わたくしが喜ぶかどうかより、お嬢様ご自身がそう思われたことの方が重要でしょう」
また正しいことを言われた。
「先生は、時々お父様に似ていますわ」
「それは光栄と受け取っておきます」
「褒めたかどうかは分かりませんけれど」
「なおさら公爵閣下に似ておられるようですね」
今度は俺が黙ることになった。
◇
授業を終えて部屋を出たところで、廊下の向こうに小さな人だかりができていることに気づいた。
使用人が三人ほど集まっている。
その中心にいたのは、まだ十歳にもなっていないような侍女見習いだった。
顔が赤い。
足元も少しふらついている。
「どうしましたの?」
近づくと、使用人たちが一斉にこちらへ礼を取ろうとした。
「そのままで構いません。それより、その子は?」
「少し熱があるようでございまして……」
年嵩の侍女が答える。
「朝から具合が悪かったの?」
「本人は朝には大丈夫だったと申しております。ただ、昼過ぎから急に顔色が悪くなりまして」
少女は「申し訳ございません」と言おうとしたが、声に力がない。
「謝らなくていいですから、休んでくださいな」
先日の少年と似たような場面だ。
そう思った直後。
「こちらへ」
別の声がした。
振り返ると、ナディアが歩いてきていた。
彼女は俺へ一礼したあと、少女の額へそっと手を当てる。
「随分熱がありますね。どうしてここまで我慢したのです?」
「本日の仕事が、まだ……」
「仕事より先に身体を治しなさい」
声はいつものように穏やかだった。
しかし、そこに迷いはない。
「ですが、教育係補佐の方から、今日は来客用のお部屋を――」
「わたくしから伝えておきます。あなたは治療室へ行きなさい」
「申し訳ございません」
「謝罪は必要ありません。歩けますか?」
少女が頷く。
けれど、一歩踏み出したところで身体が揺れた。
ナディアがすぐに肩を支える。
「無理をしているではありませんか」
そして近くにいた使用人へ、医務担当を呼ぶよう指示を出した。
その様子を、俺は黙って見ていた。
ナディアは少女へ怒っていない。
仕事を途中で放り出したと責めもしない。
むしろ、なぜもっと早く言わなかったのかと心配している。
演技には見えなかった。
「お嬢様?」
俺の視線に気づき、ナディアがこちらを見る。
「何かございましたか?」
「いいえ」
「魔法のお稽古を終えられたところでしょうか」
「ええ。今日は羽根を十センチ動かせるようになりましたわ」
「まあ」
ナディアの表情が自然に明るくなる。
「さすがお嬢様でございますね。もうそのようなことまでお出来になるのですか」
数日前なら、その言葉を聞いた瞬間に「また才能を持ち上げている」と考えたかもしれない。
けれど今は、少し違った。
「何度も失敗しましたけれど」
「それでも最後にはお出来になったのでしょう?」
「はい」
「でしたら、頑張られたのですね」
その言葉に、少しだけ驚く。
才能があるから。
お嬢様だから。
そう続くと思っていた。
しかし、今日は違った。
「……ありがとうございます」
「どうかなさいましたか?」
「いいえ。何でもありませんわ」
ナディアは微笑むと、再び具合の悪い少女へ視線を戻す。
「お嬢様、申し訳ございません。こちらの者を治療室へ送ってから、夕食前に伺わせていただきます」
「急がなくて大丈夫ですわ。この子についていてあげてくださいな」
一瞬だけ、ナディアが目を細めた。
「ありがとうございます」
彼女はそう言って、少女の歩調に合わせながら廊下の向こうへ去っていった。
その背中を見送りながら、俺は自分の中に生まれた違和感について考える。
悪い意味の違和感ではない。
むしろ逆だった。
ナディアは、優しい。
少なくとも今の少女へ向けていた態度はそう見えた。
それが、俺を困らせる。
最初から分かりやすく悪意を持った人間なら簡単だった。
俺を堕落させ、公爵家を利用し、自分の利益を得ようとしているだけなら、証拠を集めて父へ報告すれば済む。
けれど、あの少女へ向けていた心配まで偽物だとは思えない。
「お嬢様」
ミレーヌが隣から小さく声を掛けた。
「ナディア様のことでございますか?」
「最近、本当にわたくしの考えていることが分かりますのね」
「お顔を見れば、少し」
「そんなに顔に出ている?」
「以前よりは」
困った。
「ミレーヌは、今のナディアを見てどう思いました?」
尋ねると、彼女は少し迷った。
以前なら、俺が何を求めているのか探してから答えたかもしれない。
今は、自分で考えているのが分かる。
「優しい方だと思いました」
そして、少し間を置く。
「昔から、ああいうところはございました」
「昔から?」
「はい。具合の悪い使用人へ無理をさせるような方ではありませんでしたし、お嬢様のお世話をする者が失敗して落ち込んでいた時にも、後から声を掛けてくださることがございました」
初めて聞く話だ。
「では、ミレーヌはナディアが嫌いではなかったの?」
「……怖い時はございました」
「どんな時?」
「お嬢様がお怒りになられた後です。誰が原因だったのか、どうしてそうなったのかを、とても細かくお尋ねになられましたから」
以前も聞いた。
ただ、それだけではないらしい。
「普段は?」
「親切な方だと思っておりました」
ますます分からない。
でも。
たぶん、それでいい。
「そうですか」
俺はそれだけ答えた。
「お嬢様は、ナディア様が悪い方であってほしいのでございますか?」
思いがけない質問だった。
「どうしてそう思うの?」
「悪い方だと分かれば、簡単になるのではないかと思いまして」
七歳の少女から出てきた言葉とは思えず、少し驚く。
けれど、たしかにその通りだった。
悪い人。
だから信用しない。
だから遠ざける。
それなら分かりやすい。
「……そうかもしれませんわね」
正直に認める。
「でも、それは少しずるいですわ」
「ずるい?」
「わたくしが分かりやすくしたいからという理由で、ナディアを悪い人だと決めることになるでしょう?」
ミレーヌが静かに頷く。
「良いところがあるから、悪いことをしていないとも限りません。でも、悪いと思うところがあるから、その人の全部が悪いとも限らないのでしょうね」
「難しいですね」
「本当に」
最近、難しいことばかり増えている気がする。
ゲームなら、好感度が数字で見えた。
敵なら敵。
味方なら味方。
攻略対象なら攻略対象。
けれど人間は、そんなふうには分けられないらしい。
◇
その日の夕食後、父から書斎へ来るよう呼ばれた。
部屋へ入ると、父のほかにグレンもいた。
その組み合わせを見た時点で、何の話か予想がついた。
「セレグラン男爵の件ですの?」
「そうだ」
父が俺へ椅子を勧める。
「調査が終わったの?」
「まだ途中だ。ただ、いくつか分かったことがある」
俺は黙って続きを待つ。
「男爵が屋敷へ来ていたこと自体は事実だ。北側の使用人用通路から入り、ナディアと短時間会っていた」
「誰かが見ていたの?」
「門番と倉庫担当の使用人が覚えていた」
やはり見間違いではなかった。
「どうして正式な記録がなかったのです?」
「ナディアが私的な面会として通したからだ」
「それは許されているの?」
「屋敷に勤める者の親族が短時間訪れる程度であれば、必ずしも正式な来客記録へ残す必要はない。ただし、相手が貴族家の当主となれば話は変わる」
つまり。
規則を完全に破ったわけではない。
しかし普通ではない。
「何のために会っていたの?」
「そこまでは分かっていない」
父は即答した。
「ナディア本人には聞かないの?」
「いずれ聞く。ただし、先に確認できる事実を集める」
俺が以前やろうとしていたことと同じだ。
決めつけない。
ただし、気になる点は確認する。
「セレグラン男爵家については?」
グレンが一枚の書類を開いた。
「近年、財政状況があまり良くございません」
「借金?」
「正確には、領地収入が落ちております。数年前の不作と水路修繕が重なり、王都での活動費を抑えている状態でございます」
「では、お金を借りに来た可能性も?」
「可能性としてはございます。しかし、アルセリード家からセレグラン家への不自然な送金は確認されておりません」
まだ何も分からない。
「ナディア自身からは?」
「給与の範囲内で実家へ送金を行っております」
それは普通だろう。
「どのくらい?」
「継続的ではございますが、彼女の給与を考えれば異常な額ではございません」
少し考える。
「では、今分かったのは、兄と内緒に近い形で会っていたことだけ?」
「大まかにはそうなる」
父が答える。
「ただし、お前が見つけなければ、私たちはその面会を把握していなかった」
「やはり怪しいですの?」
「怪しいという言葉は便利すぎる」
父が静かに言う。
「事実として、正式な訪問手続きを取らずに会っていた。それ以上でも、それ以下でもない」
その答えが、今の俺にはよく分かった。
「理由が分かるまでは決めない?」
「ああ」
「わたくしも同じにします」
「それでいい」
そこでグレンが少しだけ表情を和らげた。
「お嬢様は、以前より随分とお待ちになれるようになりましたな」
「以前のわたくしは、待てませんでした?」
「欲しい答えがある時には、すぐに知りたがられる方ではございました」
「今も知りたいですわ」
「それでも、知らないことを知らないまま置いておけるようになられました」
褒められているのだろうか。
「それは良いこと?」
「少なくとも、事実が揃う前に人を裁くよりは」
そう言われると、その通りだ。
「お父様」
「何だ」
「今日、ナディアが具合の悪い侍女見習いを治療室へ連れていきました」
父は俺を見る。
「そうか」
「とても心配しているように見えました」
「それも覚えておけ」
「調査に関係ありますの?」
「人を知りたいのだろう?」
返された言葉に、少し黙る。
「なら、自分に都合の悪い事実だけではなく、都合の良い事実も同じように見ろ」
それは予想していなかった。
ナディアを疑っている俺にとって、彼女が親切であるという情報は少し都合が悪い。
悪人だと決めたいわけではないと思っていた。
けれど心のどこかでは、分かりやすい答えを求めていたのかもしれない。
「分かりましたわ」
父が小さく頷く。
「それから」
「まだ何か?」
「この件について、お前からナディアへ探りを入れるな」
「分かっています」
「本当に?」
「お父様、最近わたくしを信用していませんわね」
「五歳の娘が貴族家の内情へ首を突っ込みたがっているのだから当然だ」
「それは……」
反論できない。
グレンが横で少し笑った。
父もほんの僅かに口元を緩めていた。
◇
部屋へ戻る途中、廊下の角を曲がったところでナディアと出会った。
彼女は俺を見ると、いつものように美しい礼をする。
「お嬢様。旦那様のお部屋へ?」
「ええ。少しお話をしていました」
「左様でございますか」
何について、と聞かれると思った。
しかしナディアはそれ以上踏み込まなかった。
「先ほどの侍女見習いは、大丈夫でしたの?」
こちらから尋ねる。
「はい。医務担当によれば、疲労から熱が出たようでございます。二、三日休めば問題ないだろうとのことでした」
「よかったです」
「お嬢様が心配してくださったと伝えましたら、あの子も喜んでおりました」
「わざわざ伝えなくても」
「嬉しいものですから」
「何が?」
「上に立つ方が、自分のことを気に掛けてくださっていると知ることは」
ナディアが微笑む。
その言葉は、一見すると何もおかしくない。
むしろ正しいように聞こえる。
「ナディア」
「はい」
「あなたは、使用人の方々のことをよく見ていますのね」
少しだけ驚いた顔をした。
「長くこちらへ勤めておりますので」
「先ほどの子が無理をしていることも、すぐ分かっていました」
「顔色を見れば分かりますわ。幼い子は、自分から休みたいと言い出しにくいこともございますから」
優しい。
やはりそう思う。
「昔のわたくしにも、同じようにしてくださったの?」
「もちろんでございます」
今度は迷いなく答えた。
「お嬢様が熱を出された夜には、何度もお側についておりましたし、転ばれて泣かれた時には、お休みになるまで手を握っていたこともございます」
知らない過去。
ナディアの顔には、その時の記憶を懐かしんでいるような柔らかさがある。
「どうして、そこまで?」
思わず聞いてしまった。
探りを入れるなと父から言われたばかりだ。
しかしこれは、兄の話でも調査の話でもない。
ナディアは少し目を瞬かせた。
「お嬢様だからでございます」
「公爵家の娘だから?」
「いいえ」
その返答は予想外だった。
「ヴェルシアナお嬢様だから、でございます」
声は穏やかだった。
そこには迷いも、媚びも感じられない。
俺は何も言えなくなった。
「変なことを聞いてしまいましたわね」
「いいえ。ですが、突然どうなさいました?」
「最近、昔の自分について色々と知りたくなっただけです」
「そうでございましたか」
ナディアはそれ以上聞かなかった。
「では、おやすみなさいませ、お嬢様」
「おやすみなさい、ナディア」
彼女が去っていく。
今度は、その背中を疑いだけで見ることができなかった。
◇
自室へ戻ると、ミレーヌが明日の衣装を確認していた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「旦那様とのお話は終わりましたか?」
「ええ」
セレグラン男爵について聞いたことは、ミレーヌには詳しく話さない。
父が調べている以上、必要以上に広げることではない。
寝支度を終えたあと、俺は机へ向かい、今日読んでいた魔法の本を閉じた。
その表紙へ手を置きながら考える。
今日、俺はいくつかのことを知った。
ミレーヌが幼い頃に十分な魔法教育を受けられなかったこと。
自分が魔法を本当に好きらしいということ。
ナディアが体調を崩した侍女見習いへ自然に手を差し伸べていたこと。
セレグラン男爵家の財政が良くないこと。
兄妹が正式な記録を残さない形で会っていたこと。
そしてナディアが、俺を大切にしていると言ったこと。
これだけ情報が増えたのに、答えは以前より遠くなったような気がする。
昔の俺なら、それを非効率だと思ったかもしれない。
情報は集めれば集めるほど、結論へ近づくものだと思っていたからだ。
けれど人間については、少し違うらしい。
一つ知れば、その人が分かるのではない。
一つ知るたび、別の面が見えてくる。
優しい人が間違ったことをしないとは限らないし、間違ったことをした人に優しい部分がないとも限らない。
ナディアが俺を大切にしていることと、彼女の教え方が元のヴェルシアナを歪ませた可能性は、同時に存在するのかもしれない。
そう考えた時、ふと嫌なほど簡単なことに気づいた。
俺はこれまで、ナディアが「本当は何を企んでいるのか」を知ろうとしていた。
けれど、そもそも何かを企んでいると決まったわけではない。
もしかすると彼女自身は、自分が正しいと思うことをしているだけなのかもしれない。
その結果として誰かが傷つくことはある。
善意と正しさが同じではないことは、すでに何度も学んだ。
だから、今日のナディアが優しかったからといって疑問が消えるわけではない。
反対に、セレグラン男爵との面会が不自然だからといって、その優しさまで嘘だったことにもならない。
知っていることと、その意味が分かったことは別なのだ。
魔法と少し似ている。
俺には多くの魔力がある。
それを知った。
けれど、どのくらい使えば羽根が十センチ動くのかは、何度も失敗しなければ分からなかった。
情報を持っていることと、扱えることは違う。
人を見る時も、きっと同じなのだろう。
俺は練習帳を開き、今日の最後に一行だけ書いた。
『分からないものを、分かったことにしない。』
書き終えた文字をしばらく眺める。
たぶん、これから何度も破りたくなる言葉だ。
早く答えを知りたい時。
怖い相手を敵だと決めたい時。
好きな相手を良い人だと信じたい時。
人間はきっと、自分が安心できる答えへ急ぎたくなる。
俺だって例外ではない。
だからこそ、今のうちに書いておく。
ナディアについても。
元のヴェルシアナについても。
アレクシスについても。
そして、この世界そのものについても。
俺が持っているのは、ゲームを一度遊んだ人間の知識と、ここへ来てから拾い集めた小さな事実だけだ。
まだ十五歳のヴェルシアナになったわけでもなければ、王立セレナディア学園へ入学したわけでもない。
今の俺は五歳で、知らないことの方が圧倒的に多い。
それなら、知らないことを怖がりすぎなくてもいいのかもしれない。
分からないまま見て、聞いて、考えて、それでも分からなければ、もう少し待つ。
魔法の羽根を十センチ動かすだけでも何度も失敗するのだから、人一人を理解するのに時間がかかるのは当然だ。
そう考えると、少しだけ肩の力が抜けた。
俺は練習帳を閉じ、灯りを消して寝台へ向かった。
明後日にはまた魔法の授業がある。
十センチ動かせるようになった羽根を、次はどこまで正確に扱えるのか。
今夜の俺には、誰かの正体を暴くことよりも、その小さな続きを楽しみにして眠るくらいがちょうどよかった。




