閑話 お嬢様は、知らない
アルセリード公爵家ほど大きな屋敷になると、同じ屋根の下で働いていても、一日のうちに一度も顔を合わせない使用人がいる。
庭園を主に担当する者、厨房へ入る者、客室を整える者、主家の生活区域に近い場所で働く者、厩舎や倉庫を任されている者。仕事の場所も時間も違えば、当然、目にするものも異なる。
だから同じヴェルシアナ・アルセリードについて話していても、使用人たちの印象が完全に一致することはなかった。
その日の午後もそうだった。
昼の仕事が一段落した使用人たちが順番に休憩を取る小さな部屋には、焼きたてではないもののまだ柔らかなパンと薄めた果実水が置かれていた。公爵家の食堂とは比べるべくもない質素な部屋だったが、仕事の合間に腰を下ろせる場所としては十分で、窓を少し開ければ庭から初夏の風も入ってくる。
「……だから、本当に何も言われなかったのよ」
若い侍女が、果実水の入った杯を両手で持ちながら言った。
まだこの屋敷へ勤め始めて一年にも満たない少女で、主家の居室より少し離れた場所を担当することが多い。今日はたまたま廊下の花器を整える仕事を任され、その途中でヴェルシアナと鉢合わせたらしい。
「何もって?」
向かいに座っていた年上の侍女が尋ねる。
「怒られなかった、ということ?」
「怒られるようなことはしていません。ただ……お嬢様が廊下の途中で立ち止まられたんです」
「それだけ?」
「それだけです」
話を聞いていた厨房付きの女中が怪訝そうな顔をした。
「それの何がそんなに怖かったの?」
「だって」
若い侍女は少し声を落とし、思い出すように自分の眉間へ指を当てた。
「お嬢様が、こう……少しだけ眉を寄せて、じっとこちらをご覧になったんです」
「ああ」
年上の侍女が妙に納得した声を出した。
「それは怖いわね」
「でしょう?」
「いや、何でそこで意見が一致するの」
厨房の女中が呆れた。
若い侍女は周囲を気にするように一度扉を見てから、声をさらに小さくした。
「怖いというか……その、すごいんです。お顔が」
「お顔?」
「綺麗すぎて」
今度は厨房の女中まで少し納得した。
アルセリード公爵家の令嬢が美しいという話は、この屋敷で働いている者なら誰でも知っている。
淡い銀色の髪。
光の当たり方によって赤にも紫にも見える、深い色の瞳。
まだ五歳という年齢を考えれば、顔立ちには当然幼さが残っている。しかし、幼いからこそ目立つような整い方をしているのも確かだった。
笑っていれば可愛らしい。
けれど、黙っている時は少し違う。
公爵令嬢として幼い頃から礼法を叩き込まれているせいで、立っているだけでも姿勢が良く、何か考え込むように赤紫の瞳を細めると、年齢以上の気位があるように見えてしまう。
まして、不満そうに眉を寄せた時などは、本人が何も言っていなくても、見られた側が勝手に自分の失敗を探したくなる。
「それで、何だったの?」
年上の侍女が尋ねた。
「カーテンの留め紐です」
「……何?」
「片方だけ少し下がっていたみたいで、お嬢様はそれを見ていただけでした」
一瞬、部屋が静かになった。
それから厨房の女中が吹き出した。
「あなたを見ていたんじゃないじゃない」
「途中まで分からなかったんです!」
「でも何も言われなかったのでしょう?」
「最後に『少し曲がっていますわね』とだけ言われました。それで直したら、『ありがとう』って」
若い侍女はそこまで話してから、まだ自分でも納得していないような顔をした。
「だから余計に、最初に怖がった自分が馬鹿みたいで」
「馬鹿ではないでしょう」
別の女性が口を挟んだ。
年齢は三十を少し過ぎたくらいで、長く主家側の仕事を担当している侍女だった。
「昔のお嬢様を知っていれば、身構えることくらいありますよ」
その言葉で、部屋の空気がほんの少し変わった。
笑い話だったものに、以前からこの屋敷で働く者だけが知っている重さが混ざった。
「最近は変わられたって聞きますけどね」
厨房の女中が言う。
「私なんて、近くでお仕えすることはほとんどないから、実際のところはよく分からないけど」
「変わられましたよ」
若い侍女がすぐに答えた。
すると年長の侍女が、少しだけ眉を上げる。
「あなたは昔をあまり知らないでしょう?」
「それは……そうですけど」
「なら、比べようがないじゃない」
言い方は厳しくなかった。
ただ、簡単に同意もできないという声音だった。
若い侍女は口を閉じる。
その場にいた何人かも、自然と黙った。
アルセリード公爵家で働く者の間では、ここしばらく同じような会話が何度も交わされていた。
お嬢様が変わった。
そう言う者は増えている。
高熱を出して寝込んだあとから、使用人の名前を以前よりよく覚えるようになった。
何かしてもらえば礼を言う。
失敗があっても、まず事情を聞こうとする。
教師に間違いを指摘されても、その教師を遠ざけるのではなく、自分が間違えたのなら直せばいいと言ったらしい。
割れた茶器より先に、怪我をしたミレーヌの手を心配したという話も、主家に近い場所で働く者たちの間では広く知られていた。
庭師のハロルドに対する態度が以前とは違うことも、庭に出入りする者なら気づいている。
少し前には、屋敷へ荷物を運んできた者の息子が手を怪我した際にも、ヴェルシアナは自分への挨拶より先に治療をするよう言った。
一つ一つを取り出せば、大げさに騒ぐほどのことではない。
怪我をしている人間がいれば治療を優先する。
間違えたら直す。
物を運んでもらえば礼を言う。
本来なら、それだけのことだ。
けれど、この屋敷では以前のヴェルシアナを知っている者がいる。
だからこそ、その「それだけ」が目立った。
「でも」
年長の侍女がパンを小さくちぎりながら言った。
「私は、まだ少し怖いと思う時がありますよ」
若い侍女が彼女を見る。
「今のお嬢様がですか?」
「今のお嬢様が、というより……以前のことを覚えているからでしょうね」
彼女は少し考えるように視線を落とした。
「髪飾りを壊した子が北棟へ移ったでしょう」
その話を知っている者たちが小さく頷く。
誕生日の髪飾りを、当時まだ仕事に慣れていなかった若い侍女が壊した。
怒ったヴェルシアナが「二度とわたくしの前へ来ないで」と言い、その後、ナディアを介して彼女は北棟へ配置換えになった。
辞めさせられたわけではない。
遠い土地へ送られたわけでもない。
けれど、当時の使用人たちにとっては十分に印象へ残る出来事だった。
「お嬢様が全部決められたわけではないって、今なら分かりますけどね」
年長の侍女は続けた。
「でも当時は、お嬢様に嫌われれば仕事が変わるのだと思った人も多かったから」
「庭師のハロルドさんも?」
誰かが尋ねる。
「ハロルドさんは辞めていないわ。時間をずらした時期があっただけ。でも、子供だった私たちからしたら、あれも十分怖かった」
「それなら、今だって完全に安心しろと言われても無理ですよね」
別の使用人が言った。
「そういうこと」
そこで会話が途切れた。
誰もヴェルシアナを悪く言いたいわけではなかった。
けれど、以前の出来事まで「五歳の子供だったから」で全部消してしまうことにも抵抗がある。
そして、それを口にすること自体が今のお嬢様に対する裏切りなのかどうかも、まだ皆よく分かっていなかった。
「私は」
小さな声がした。
部屋の端で静かに食事をしていたミレーヌだった。
彼女はヴェルシアナの近くにいることが多いため、使用人たちの中でも最近のお嬢様をよく知っている。
そのこともあって、先ほどから何人かは、時折彼女の反応を窺っていた。
ミレーヌ自身もそれには気づいていた。
「以前のお嬢様について、わたしは否定できません」
年長の侍女がミレーヌを見る。
反論されると思っていたのかもしれない。
「ミレーヌは、お嬢様と一緒にいることが多いでしょう?」
「はい」
「なら、嫌な気持ちにならない?」
「少しはなります」
正直に答えたことで、逆に何人かが驚いた。
ミレーヌは膝の上で手を重ねながら、言葉を選んだ。
「わたしも昔のお嬢様を知っています。全部ではありませんけれど、怖いと思ったこともありました」
それは事実だった。
この屋敷へ来たばかりの頃、ミレーヌはヴェルシアナを怖がっていた。
怒らせないように。
間違えないように。
必要以上に近づかないように。
他の使用人たちと同じように、そう考えていた時期がある。
「だから、昔のお嬢様を怖かったと言う人に、『そんなことはありませんでした』とは言えません」
「でも、今は違うと思う?」
若い侍女が尋ねる。
ミレーヌはすぐには答えなかった。
いくつもの顔が浮かんだ。
高熱から目を覚ましたばかりの日、自分の名前を聞き直したヴェルシアナ。
初めて「ありがとう、ミレーヌ」と呼ばれた時の戸惑い。
茶器を割って指を切った時、壊れた物より先に手を見せろと言われたこと。
何が勉強したいのかと尋ねられたこと。
自分の将来を、公爵令嬢の侍女になるという一つの道だけで決めなくていいと言われたこと。
あの時は、意味をすべて理解できたわけではなかった。
それでも今では、ふとした時に何度も思い出す。
自分の人生を自分で考えていいと言われたことを。
ミレーヌにとってそれは、ヴェルシアナ本人が思っているより、ずっと大きな言葉だった。
それらを思い出したうえで、ミレーヌは頷いた。
「違うと思います」
「やっぱり」
「でも」
ミレーヌが続けると、若い侍女が口を閉じた。
「だからといって、昔のことがなくなったわけではないと思います」
部屋が静かになる。
以前のミレーヌなら、これほど多くの大人の前で自分から意見を言おうとはしなかった。
けれど今は、少しずつ話せる。
なぜなのかを考えれば、その理由もやはりヴェルシアナへ行き着いた。
「お嬢様ご自身も、そう思っていらっしゃるように見えます」
「お嬢様が?」
「はい。昔のことを聞かれても、違うと言って終わらせようとはなさいません。分からないことは調べようとなさいますし、自分が悪かったかもしれないと思えば、そこも考えていらっしゃいます」
「ミレーヌは、お嬢様のことが好きなのね」
厨房の女中が少し笑いながら言った。
揶揄するような響きではなかった。
それでもミレーヌは、すぐには返事をしなかった。
好きなのだと思う。
以前なら、その言葉を使うこと自体に少し迷ったかもしれない。主である公爵令嬢を好きだと言えば、それは仕える者として当然持つべき忠誠のようにも聞こえる。
けれど今、自分がヴェルシアナへ抱いている感情は、それだけではなかった。
名前を呼ばれると嬉しい。
何かを説明した時、真面目な顔で聞いてもらえると嬉しい。
自分の意見を尋ねてもらえることも、以前ほど遠慮せず話せるようになったことも、嬉しかった。
そして最近は、ヴェルシアナが楽しそうに笑っているのを見ると、それだけで自分まで少し安心する。
逆に彼女が一人で難しい顔をしていれば、何を考えているのだろうと気になってしまう。
そういうものを全部まとめるのなら、やはり好きという言葉が一番近いのだろう。
「……好きです」
今度は、先ほどよりはっきり答えた。
若い侍女が微笑む。
「やっぱり」
「そんなに分かりますか?」
「分かるわよ」
別の使用人まで笑った。
「お嬢様のお話をする時だけ、ミレーヌ少し嬉しそうだもの」
「そんなこと……」
否定しようとして、ミレーヌはやめた。
自分では分からない。
けれど、そう見えるのなら本当にそうなのかもしれない。
少し恥ずかしくて視線を落とす。
それでも、その感情を隠したいとは思わなかった。
「でも、だからお嬢様が何をされても正しいとは思いません」
そこだけは、きちんと言っておきたかった。
年長の侍女が意外そうに彼女を見る。
「もしお嬢様が間違ったことをなさったら?」
「その時は、間違っていると思います」
「本人に言える?」
難しい質問だった。
今のミレーヌはまだ七歳で、ヴェルシアナは五歳とはいえ、仕えている公爵家の一人娘だ。
身分も立場も違う。
いくら今の彼女を知っていても、怖さが完全になくなったわけではない。
「……怖いと思います」
ミレーヌは正直に答えた。
「でも、できれば言いたいです」
なぜなら、ヴェルシアナ本人から言われたからだ。
何か間違っていたら教えてほしい。
怒ることはあるかもしれない。
それでも、後から考えたい。
その言葉をミレーヌは覚えている。
そして今では、ヴェルシアナがそう言ってくれたこと自体が、少し誇らしかった。
自分を、ただ命令に従うだけの侍女見習いとして扱っていないように感じるからだ。
「お嬢様が本当に変わろうとなさっているのなら、昔のお嬢様のことだけを見て、今していることまで無かったことにするのも違うと思います」
声は大きくなかった。
それでも部屋の中ではよく聞こえた。
「昔のことを忘れる必要はないと思います。でも、今のお嬢様がしていることも、同じように見ていたいです」
年長の侍女はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうね」
完全に納得したわけではないのかもしれない。
それでも否定もしなかった。
「ミレーヌに言われると、少し説得力があるわ」
「どうしてです?」
「あなた、最初の頃は本当にお嬢様を怖がっていたもの」
ミレーヌの頬が少し熱くなる。
「分かっていました?」
「分かるわよ。毎回、お嬢様の部屋へ入る前に顔が固まっていたもの」
「そんなにですか……」
「今とは全然違う」
周囲から小さな笑いが起きた。
ミレーヌも少しだけ笑う。
笑われることが嫌ではなかった。
むしろ、昔の自分を知っている人から「今は違う」と言われたことが、思っていた以上に嬉しかった。
それはつまり、自分とヴェルシアナの間に積み重なった時間が、外から見ても分かるほどになっているということだから。
◇
「でもさ」
今度は、窓際にいた若い従僕が会話へ入った。
先ほどまで黙っていたが、どうやらずっと聞いていたらしい。
「お嬢様が変わったっていう話、本当に屋敷の中だけなのかな」
「どういう意味?」
「外の人は知らないだろ」
その言葉には、全員がすぐ理解を示した。
屋敷の中で働いている者には、最近のヴェルシアナを見る機会がある。
だが、外の人間が知っているのは以前の評判だ。
気位が高い。
癇癪持ち。
高位貴族の娘として、自分より下の者を気にしない。
そういう話は、一度広まれば簡単には消えない。
「この前、荷物を持ってきた人の息子が怪我した時も、あの人たちは驚いていましたよね」
若い侍女が思い出したように言う。
「お嬢様が『挨拶は後でいいから治療を』って仰った時」
「私も近くにいました」
別の使用人が頷いた。
「あの男の子のお父さん、お嬢様の顔を見てから二回くらい頭を下げていたわよ」
「怒られたのかと思ったんじゃない?」
「違うでしょう。驚いたんでしょう」
誰かが笑った。
ミレーヌもその場面を思い出す。
ヴェルシアナ本人は、おそらく本当に深い意味などなかった。
怪我をしている人がいる。
なら、先に治した方がいい。
ただそれだけなのだろう。
けれど、アルセリード公爵家の一人娘から直接そう言われる側にとっては、「それだけ」では済まない。
ヴェルシアナはまだ、そのことを十分には分かっていないように見える。
「お嬢様って、時々ご自分が公爵令嬢なのを忘れていません?」
若い侍女がぽつりと言った。
部屋の中に、妙な沈黙が落ちた。
「それ、本人の前で言える?」
「絶対に言えません」
即答だった。
また笑いが起きる。
「でも、分かる気はします」
厨房の女中が言った。
「私たちなら普通のことでも、お嬢様が言うと話が大きくなるでしょう?」
「昔はそれで配置まで動いたことがあったんですものね」
「だから今は、ご本人が何も考えずに『大丈夫ですわ』って言っていても、周りは大丈夫じゃなかったりする」
年長の侍女が少し考えるように頷いた。
「それは、変わってもすぐにはなくならないでしょうね」
本人が変わったからといって、立場まで変わるわけではない。
アルセリード公爵家の一人娘であることも、その言葉一つに多くの大人が耳を傾けることも、何一つ変わらない。
むしろ以前より静かに話すようになった分、別の意味で目立つことさえある。
「この前なんて」
若い侍女がまた声を潜めた。
「お嬢様が廊下でナディア様とお話ししていた時、声を荒らげているわけでもないのに、通りかかった私は回れ右しそうになりました」
「何を話していたの?」
「知りません。聞こえないように離れましたから。でも、お嬢様がすごく真面目なお顔をなさっていて」
「それだけでしょう?」
「その『それだけ』が怖いんですってば」
先ほどカーテンの話をした時と同じ主張だった。
「綺麗なお顔って、怒ると怖いのね」
厨房の女中が言う。
けれど、若い侍女は少しだけ考えてから首を横へ振った。
「怖い……だけじゃないんです」
「じゃあ何?」
「上手く言えませんけど」
彼女は視線を宙へ向け、言葉を探した。
「何というか、見ちゃうんです。怖いなら目を逸らせばいいのに、見てしまうというか。銀色の髪で、赤紫の目で、あんなふうに静かに怒っていらっしゃると……すごく、お嬢様らしいというか」
「お嬢様なんだから当然でしょう」
「そういう意味じゃなくて」
周囲に笑われ、若い侍女は困ったように眉を下げた。
ミレーヌには、彼女が言いたいことがよく分かった。
ヴェルシアナは笑っている時も綺麗だ。
嬉しい時には年齢相応に目元が柔らかくなり、その時だけは公爵令嬢という遠い存在より、普通の五歳の少女へ近くなる。
けれど真剣な顔をしている時や、不満そうに眉を寄せている時には、逆に彼女の持つものが強く出る。
銀色の髪。
深い赤紫色の瞳。
幼いながら整った顔立ち。
背筋を伸ばした姿勢。
そして、アルセリード公爵家という名前。
それらが全部一緒になると、昔の絵物語に描かれた、誰にも簡単には頭を下げない姫君のように見えることがある。
以前なら、ミレーヌもその顔を見るたびに身体を固くしていた。
けれど今は、その表情にも幾つか種類があることを知っている。
本当に腹を立てている時。
何かに納得できず考えている時。
上手くいかなくて自分自身へ悔しがっている時。
少し恥ずかしいことを誤魔化そうとしている時。
同じように眉を寄せていても、近くで見ていれば少しずつ違う。
「ミレーヌは怖くないの?」
若い侍女が尋ねる。
「お嬢様が怒っている時」
「時々は怖いです」
ミレーヌは答えてから、少し考えた。
「でも、そのお顔だけで本当に怒っていらっしゃるとは限りません」
「分かるの?」
「以前よりは」
「例えば?」
「少し考えていらっしゃるだけの時は、眉は寄りますけれど、口元はそこまで固くなりません。本当に何かに怒っていらっしゃる時の方が、むしろあまり動かなくなるような……」
そこまで説明してから、周囲が妙に静かになっていることに気づいた。
「……何です?」
若い侍女が目を丸くしている。
「ミレーヌ、ものすごく見てるのね」
「え?」
「私、お嬢様の口元なんてそこまで見たことないわ」
言われて、ミレーヌは答えられなくなった。
そんなつもりはなかった。
ただ、毎日近くにいるうちに覚えただけだと思っていた。
けれど、本当にそれだけだろうか。
ヴェルシアナが何を考えているのか知りたくて、無意識に表情を見ていることが増えたのかもしれない。
「……近くにおりますので」
結局、それだけ答える。
「はいはい」
「何です、その言い方」
「何でもない」
また笑われる。
ミレーヌの頬が熱くなった。
それでも、自分だけが少し多くヴェルシアナの表情を知っているのだと思うと、胸の奥に小さな嬉しさが生まれた。
その感情を自覚してしまったことの方が恥ずかしくて、ミレーヌは果実水へ口をつけた。
「この前、刺繍が上手くできなくて、とても不満そうなお顔をしていました」
話を変えるように言う。
「刺繍?」
「はい」
「誰に怒っていたの?」
「刺繍に、です」
今度は全員が笑った。
ミレーヌもつられて笑う。
「糸が絡まってしまって。リュネア様の方がお上手なので、教えていただいていました」
「……想像できないわ」
年長の侍女が少し驚いた顔をする。
「お嬢様が、同じくらいの年の方に教わるなんて」
「今は普通ですよ」
ミレーヌが答える。
「分からないことがあれば、よく聞いていらっしゃいます」
言いながら、また少し誇らしいと思った。
ヴェルシアナが刺繍を上手にできることではない。
できない時に、できる人へ教えてほしいと言えることが。
以前なら怖かった人の、そういうところを今の自分は好きなのだと、ミレーヌはもう否定しなかった。
◇
休憩の終わりを告げる時刻が近づき、使用人たちは少しずつ立ち上がり始めた。
使った杯を戻し、残ったパンを片づけ、それぞれ自分の仕事へ戻る準備をする。
「結局」
最初に話していた若い侍女が、エプロンの皺を伸ばしながら言った。
「お嬢様は変わったんでしょうか」
誰に向けた問いなのかは分からなかった。
年長の侍女が少し考え、肩をすくめる。
「知らないわよ」
「ええ」
「そんな簡単に分かるものでもないでしょう」
冷たい言い方ではなかった。
むしろ、その答えが一番正直なのかもしれない。
「でも」
彼女は扉へ向かいながら続けた。
「少なくとも、以前とは違うところがあるのは本当でしょうね」
「じゃあ、信じます?」
「そこまで一度に決めなくてもいいでしょう」
若い侍女がきょとんとする。
「今日見たことは今日見たこととして覚えておけばいいのよ。明日も同じなら、明日の分も覚えておけばいい」
その言葉を聞いて、ミレーヌは少しだけ目を見開いた。
どこかで似たような考え方を聞いた気がした。
過去を無かったことにはしない。
けれど、今していることまで無かったことにはしない。
たぶん、それでいいのだろう。
「では、私はカーテンのことを覚えておきます」
若い侍女が真面目な顔で言った。
「何を?」
「お嬢様に怖い顔で見られて、実際には留め紐が曲がっていただけだったことです」
「それはもう忘れてもいいんじゃない?」
また笑いが起きた。
そうして使用人たちは、それぞれの仕事へ戻っていった。
◇
ミレーヌも休憩室を出て、ヴェルシアナのいる方角へ向かった。
廊下を歩きながら、先ほどの会話を思い返す。
あの場で言ったことに嘘はない。
昔のお嬢様を怖かったと思ったこともある。
今のお嬢様が好きなのも本当だ。
そして、好きだから何もかも正しいと言うつもりもなかった。
むしろヴェルシアナ本人が、そういう扱いを望んでいない。
自分が間違った時まで肯定してほしいわけではなく、違うと思ったら言ってほしいと話している。
その言葉を思い出すたび、ミレーヌは少し嬉しくなる。
自分の意見を聞く価値があるものとして扱ってもらっているからだ。
主従という関係がなくなったわけではない。
ヴェルシアナは公爵令嬢で、自分はその家で侍女見習いとして暮らしている。
その差が消えるわけではないし、消す必要もないのだろう。
それでも、立場が違うからといって、考えることまで相手へ預けなくていい。
そう思えるようになったのは、少なくとも以前のミレーヌではなかった。
角を曲がったところで、そのヴェルシアナ本人が向こうから歩いてきた。
銀色の髪を揺らしながら、何か考え事をしているようだった。
隣には侍女が一人いる。
ミレーヌに気づくと、赤紫色の瞳がこちらへ向いた。
「ミレーヌ」
「はい、お嬢様」
名前を呼ばれた。
それだけで、先ほどまで休憩室で自分が言ったことを思い出し、ほんの少し胸が温かくなる。
「少し探していましたの」
言われ、ミレーヌは歩みを早めた。
「申し訳ございません。休憩をいただいておりました」
「謝らなくてよろしいですわ。休憩中なら、むしろ探してはいけませんでしたわね」
「もう終わるところでしたので、大丈夫です」
「そう?」
ヴェルシアナは少しだけ考え、それから手にしていた紙を見せた。
「今度リュネアが来る前に、押し花に使える花をもう少し見たいと思っているのですけれど、あなたの好きだった白い花は、どちらにありました?」
「庭の東側です。ご案内いたします」
「ありがとう」
それだけだった。
けれどミレーヌには、それで十分だった。
ヴェルシアナは、自分が白い花を好きだと覚えていた。
きっと本人にとっては、それほど大したことではない。
それでも、自分の好きなものを覚えてもらえていたことが嬉しい。
先ほどまで休憩室で、自分について使用人たちが様々なことを話していたなどとは知らない顔をしている。
当然だった。
本人がいない場所で交わされた会話なのだから、知るはずがない。
「ミレーヌ?」
「はい」
「どうかしました?」
少し見つめすぎていたらしい。
「何でもありません」
「そうですの?」
ヴェルシアナは不思議そうに首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
そのまま二人で庭へ向かう。
歩きながら、ミレーヌはほんの少しだけ笑った。
ヴェルシアナは知らない。
この屋敷の中には、まだ彼女を怖いと思っている者がいる。
昔の出来事を忘れられない者もいる。
最近の変化を半信半疑で見ている者もいれば、以前より話しやすくなったと感じている者もいる。
廊下ですれ違っただけで緊張する者もいるし、不機嫌そうな顔を見て、怖いより先に綺麗だと思う者までいる。
そして、ヴェルシアナ自身がいないところで誰かが昔の彼女について話した時、ミレーヌが自分からその人のことを話すようになったことも知らない。
誰かに「お嬢様のことが好きなのね」と言われて、もう否定しなかったことも。
彼女が笑うと自分まで少し嬉しくなることも。
赤紫色の瞳がほんの少し動くだけで、今では何を考えているのか気になってしまうことも。
そんなことまで知られてしまったら、ヴェルシアナはどんな顔をするのだろう。
きっと少し困る。
もしかすると、照れるかもしれない。
その顔まで想像しかけて、ミレーヌは自分でも少し恥ずかしくなった。
別に、知らなくてもよいのかもしれない。
ヴェルシアナが誰かに好かれるために変わろうとしているのではないことを、ミレーヌは知っている。
きっと本人は今も、間違えないようにしたいとか、昔と同じことを繰り返したくないとか、そんなことを考えているのだろう。
けれど、人の見方は本人が命じて変えられるものではない。
昔の評判が一日で消えないのと同じように、今の行動もまた、一日で信頼へ変わるわけではない。
ただ、毎日見ている者の中には、その小さな違いを少しずつ覚えていく人がいる。
そしてミレーヌ自身は、その中でも少し多くを覚えていたいと思い始めていた。
今日のことを今日のこととして。
明日のことを明日のこととして。
ヴェルシアナが何を選び、どんなふうに笑い、何に悔しがり、どんな間違いをして、それをどう直していくのか。
できることなら、近くで見ていたい。
まだ、その気持ちにそれ以上の名前をつける必要はないと思う。
ただ、自分の将来を自分で選んでいいと言ってくれた人の未来を、もっと知りたいと思っている。
それだけは、もう否定できなかった。
「ミレーヌ、こちらではありませんでした?」
少し前を歩いていたヴェルシアナが、庭へ続く二つの廊下の前で立ち止まっていた。
どうやら道を間違えそうになったらしい。
「反対です、お嬢様」
「……こちらでしたのね」
ヴェルシアナが気まずそうに方向を変える。
ミレーヌは笑わないようにした。
けれど、少しだけ口元が緩んだ。
「今、笑いました?」
「いいえ」
「笑いましたわよね?」
「ほんの少しです」
赤紫色の瞳が細くなる。
何も知らない人が見れば、きっとひどく気位の高い公爵令嬢に見える顔だった。
以前のミレーヌなら、同じ表情を向けられただけで身体を固くしていたかもしれない。
今は違う。
ただ道を間違えたところを見られて、少し恥ずかしくて、少し悔しいだけなのだと分かっている。
そして、そんな顔を自分へ向けられることさえ、ほんの少し嬉しいと思ってしまう。
他の人が怖いと言っていた表情の意味を、自分は少しだけ知っている。
そんな小さな特別感を喜ぶことが、良いことなのかどうかはミレーヌにもまだ分からなかった。
ただ、嫌ではなかった。
「ミレーヌ」
「はい」
「今のことは忘れてくださいませ」
「それは難しいです」
「どうして?」
「お嬢様ご自身が、過去は無かったことにできないと仰っていましたから」
言った瞬間、ヴェルシアナが言葉に詰まった。
しばらくして、ひどく納得のいかない顔になる。
「……そういう時に使う言葉ではありませんわ」
その表情があまりにも予想どおりで、ミレーヌはとうとう笑ってしまった。
ヴェルシアナも最初こそ不満そうだったが、やがて諦めたように息を吐き、二人は並んで庭へ向かった。
その背中を、少し離れた場所ですれ違った使用人が振り返っていたことにも、ヴェルシアナは気づいていなかった。
最近のお嬢様は、よく笑うようになった。
そう思われたことも知らない。
そして、その隣を歩いていたミレーヌが、誰より嬉しそうに笑っていたことも。
たぶん、お嬢様はまだ知らないままだった。




