第15話 友達は、同じでなくてもいい
リュネアが再びアルセリード邸を訪れたのは、魔法の授業で机の上の紙をまとめて吹き飛ばしてから四日後のことだった。
前回と同じくフィオルネ伯爵夫人と一緒にやって来た彼女は、玄関で俺の姿を見つけるなり嬉しそうに表情を明るくしたものの、すぐに伯爵令嬢らしい礼儀を思い出したらしく、きちんと背筋を伸ばしてスカートの裾を摘んだ。
「ごきげんよう、ヴェルシアナ様」
「ごきげんよう、リュネア様。今日は来てくださって嬉しいですわ」
「わたくしも、またお会いしたかったです」
以前なら、この程度の言葉にも裏があるのではないかと考えていたかもしれない。
公爵令嬢だから会いに来たのではないか、母親同士の付き合いだから仕方なく来ているのではないかと、相手の立場を理由に余計な意味を探していた気がする。
けれど、今のリュネアの表情を見れば、少なくとも今日ここへ来たことを嫌がってはいないと分かる。
それなら、まずはそのまま受け取ればいい。
「今日は何をいたしましょう?」
俺が尋ねると、リュネアは手に持っていた小さな箱を胸の前へ掲げた。
「刺繍の続きをお持ちしました。それから、もしお庭へ出てもよろしければ、押し花にするお花も探してみたいです」
「押し花?」
「はい。家では、季節のお花を乾かして栞にするのです。ヴェルシアナ様もなさったことはございますか?」
「ありませんわ」
「では、ご一緒に作りませんか?」
知らない遊びだ。
それだけで興味が湧いた。
「ぜひお願いします」
リュネアが嬉しそうに笑う。
その少し後ろには、今日もミレーヌが控えていた。
「ミレーヌも一緒にいかが?」
「わたくしも、でございますか?」
「前回も三人でしたでしょう?」
「ですが、本日はリュネア様がお客様ですので、わたくしはお側に控えております」
友達になったからといって、仕事まで全部忘れるつもりはないらしい。
それはそれでミレーヌらしい。
「でしたら、お仕事をしながら時々参加してくださいな」
「そのような曖昧な形でよろしいのでしょうか」
「わたくしは構いません」
リュネアも頷く。
「わたくしもです」
二対一になった。
ミレーヌは少し困った顔をしたあと、小さく頭を下げた。
「では、できる範囲でご一緒させていただきます」
以前なら、主人である俺が一言命じればそれで終わっていたのだろう。
今はこうして本人が迷い、断ることも考えた上で参加を決める。
その違いは小さい。
でも、たぶん大事だった。
◇
刺繍の続きを始めて十分もしないうちに、俺は自分がこの分野に関して少なくとも現時点では才能に恵まれていないことを再確認した。
「ヴェルシアナ様、そこは糸を引きすぎです」
「また?」
「はい。もう少しだけ緩くした方がお花が丸く見えます」
「前回は緩すぎると言われた気がしますわ」
「その時は緩すぎました」
「難しいですわね……」
リュネアが作った見本を見る。
同じ針と糸を使っているとは思えない。
小さな布の上に、淡い青色の花が綺麗に咲いている。
一方、俺が作っているものは、花と言われれば花に見えなくもないという程度だった。
横を見ると、ミレーヌは手を動かしながらも、明らかに俺より整った形を作っている。
「……ミレーヌ」
「はい?」
「前より上手くなっていません?」
「最近、夜に少し練習しておりますので」
「どうして?」
「リュネア様から教えていただいた方法が面白かったので」
普通に楽しんでいるらしい。
少し悔しい。
「お嬢様も、前回より上手になっております」
「慰めています?」
「本当でございます」
「では、どこが?」
聞くと、ミレーヌが少し考えた。
「針へ糸を通される時間が短くなりました」
「刺繍そのものではありませんわね」
リュネアが堪えきれず笑った。
俺もつられて笑う。
できないことを笑われるのが、思ったより嫌ではなかった。
むしろ少し楽しい。
数日前、ヴィクトルから「才能を本人の価値と結びつけすぎない方がいい」と聞いた時には、理屈として理解したつもりだった。
けれど、こうして実際に自分より上手い二人と同じ机を囲んでみると、その意味がもっと簡単な形で分かる。
俺が刺繍で負けていても、この二人は俺を嫌いにならない。
俺も、二人が上手いからといって嫌いにはならない。
当たり前だ。
あまりにも当たり前で、前世なら考えもしなかっただろう。
けれど、元のヴェルシアナはその当たり前を、少しずつ失っていったのかもしれない。
「ヴェルシアナ様?」
リュネアに呼ばれ、意識を戻す。
「どうしました?」
「また考え事をなさっていました?」
「分かりますの?」
「少しだけ。急に手が止まりましたから」
ミレーヌと同じことを言う。
どうやら俺は思っている以上に分かりやすいらしい。
「最近、考え事が多くて」
「難しいことですか?」
「少しだけ。でも今は、刺繍の方が難しいかもしれませんわ」
そう答えると、リュネアが楽しそうに笑った。
「でしたら、こちらを先に考えましょう」
「お願いします」
そのくらいの軽さが、今は心地よかった。
◇
昼食のあと、三人で庭へ出た。
押し花にするなら、完全に開き切った花よりも、少し小さく形の整ったものの方が向いているらしい。
もちろん、好き勝手に公爵家の庭の花を摘むわけにはいかない。
事前に庭師へ確認してもらい、摘んでも問題のない区画だけを案内してもらうことになった。
そこで俺は、少しだけ緊張した。
案内役として現れたのが、数日前に話したあの庭師だったからだ。
名前はハロルドというらしい。
四十代半ばほどで、日に焼けた顔に深い皺があり、俺を見ると前回と同じように姿勢を正した。
「本日は、こちらの区画でございましたら、お嬢様方がお摘みになっても問題ございません」
「ありがとうございます、ハロルド」
名前を呼ぶと、彼の表情が僅かに動いた。
以前のヴェルシアナが彼の名前を知っていたかどうかは分からない。
少なくとも今の俺は、今日初めて知った。
「こちらの白い花は?」
リュネアが尋ねる。
「セリカ草でございます。花弁が薄いため、押し花には向いております。ただ、乾燥すると色が少し黄色く変わりますので、白いまま残したい場合は隣のリューネ草の方がよろしいかと」
「お詳しいのですね」
リュネアが素直に感心する。
ハロルドは少しだけ表情を和らげた。
「長く庭を預かっておりますので」
「どのくらいですの?」
俺が尋ねると、一瞬だけ緊張が戻った。
「十七年ほどでございます」
「そんなに長く?」
「はい。旦那様がまだお若い頃からお仕えしております」
俺が生まれるよりずっと前だ。
この庭を知っている時間だけなら、父に近いものがある。
「では、お父様がお若い頃のこともご存じなの?」
何気なく聞くと、ハロルドが少しだけ困った顔をした。
「わたくしの口から申し上げてよいものか……」
「何か面白いことがあるのですね」
「お嬢様」
ミレーヌが小声で止める。
「分かっていますわ。無理に聞きません」
前ならどうだっただろう。
知りたいと思えば、そのまま話させていたのかもしれない。
「もし、お父様に叱られない程度のお話があれば、いつか教えてくださいな」
そう言うと、ハロルドはほんの少しだけ目を丸くしたあと、今までより自然な声で答えた。
「その程度でしたら、いくつかございます」
「本当?」
「はい。旦那様は昔、庭の池へ二度ほど落ちておられます」
思わず吹き出しそうになった。
「お父様が?」
「一度目は幼少の頃、二度目は十二歳ほどの時でございます」
「二度も?」
「二度目は弟君を助けようとなさった結果でございましたので、単純な失敗とは言えませんが」
それでも面白い。
「お父様、ご自分からは絶対に教えてくださらなさそうですわね」
「それゆえ、わたくしから申し上げてよいものか迷ったのでございます」
「今度聞いてみます」
「わたくしが話したとは、できれば……」
「内緒にしますわ」
王宮のアルトリウスと似たようなやり取りになった。
その時、リュネアが小さく笑う。
ミレーヌも口元を緩めている。
そして。
ハロルドも、ほんの少しだけ笑った。
それを見た時、俺は余計なことを言わないようにした。
以前の件について謝りたい気持ちは今もある。
けれど、今この人が少しだけ普通に笑ってくれたことの方を大切にしたい。
過去を解決するために今を止めるのではなく、まずは普通の会話ができる関係へ戻っていく。
それも一つのやり方なのだろう。
◇
花を選びながら歩いていると、リュネアが突然足を止めた。
「これ、綺麗です」
彼女が指差したのは、背の低い植え込みの間に咲いている紫色の小さな花だった。
「ハロルド、これは摘んでも?」
「そちらは問題ございません。ただ、茎が細いため根元から引かず、こちらの鋏をお使いください」
用意された小さな鋏を受け取る。
リュネアが一輪。
ミレーヌも一輪。
俺も同じ花を選んだ。
「三人とも同じですわね」
リュネアが言う。
「偶然です」
「では、この花で三人同じ栞を作りませんか?」
良い案だ。
「そうしましょう」
ミレーヌも嬉しそうに頷く。
ところが、もう少し先へ進んだところで、今度は好みが分かれた。
リュネアが選んだのは淡い桃色の花。
ミレーヌは白。
俺は青みの強い小花が気になった。
「皆、違いますね」
リュネアが自分の花と俺たちのものを見比べる。
「同じものを選ばなくてもいいでしょう?」
俺が言うと、彼女は少しだけ考えた。
「はい。でも、お友達なら同じものが好きな方がいいのかと思っていました」
その言葉に、俺は少し足を止めた。
「どうして?」
「同じものが好きなら、お話もしやすいですし、一緒に楽しめますから」
「それは確かにそうですわね」
リュネアの考えも分かる。
前世でも趣味が同じ相手とは話しやすかった。
ゲームが好きならゲームの話ができるし、酒が好きなら飲みに行ける。
でも。
「全部同じである必要はないのでは?」
「そうなのですか?」
「たぶん」
俺は自分が選んだ青い花を見る。
「リュネア様は刺繍がお上手ですけれど、わたくしはまだあまり上手ではありません。ミレーヌは計算が好きですが、リュネア様は?」
「計算は……あまり好きではありません」
少し嫌そうな顔をする。
「わたくしは好きです」
ミレーヌが言う。
「ほら、違いますわ」
「でも、お友達です」
「そういうことです」
リュネアが考える。
「では、違うものが好きでもいいのですね」
「違うからこそ教えてもらえるものもあるのではないですか? わたくしはリュネア様から刺繍を教えていただいていますし、ミレーヌからは魔法の灯りのコツを教えていただきました」
「魔法?」
リュネアの目が一気に輝いた。
「ヴェルシアナ様、もう魔法のお勉強を始められたのですか?」
「ええ。まだ灯りを作るくらいですけれど」
「見たいです!」
急に距離が近くなる。
「今ここで?」
「駄目ですか?」
以前の俺なら、見せたくなったかもしれない。
少しだけ成功するようになった魔法を褒めてもらえるかもしれないし、リュネアがこれだけ期待してくれているなら、やってみたくなる。
しかしヴィクトルの言葉を思い出した。
許可された時間以外に、勝手に練習しない。
しかもここは訓練室ではなく庭だ。
「ごめんなさい。今はできませんわ」
リュネアの顔が少しだけ残念そうになる。
「そうなのですか?」
「先生から、まだ勝手に使わないよう言われておりますの」
「ヴェルシアナ様でも、駄目だと言われることがあるのですね」
それを聞き、思わず笑った。
「たくさんありますわよ」
「でも、公爵令嬢なのに?」
悪意はない。
単純な疑問らしい。
「公爵令嬢でも、先生に教わっている時は生徒でしょう?」
「そうですね」
「それに、わたくしは一度紙を全部吹き飛ばしておりますので、先生が慎重になるのも仕方ありませんわ」
「紙を?」
「風の魔法を少し強くしすぎました」
「すごいです!」
「そこは褒めるところではありませんわ」
リュネアは楽しそうだ。
「では、今度見せてください」
「先生から許可をいただけたら」
「約束です」
「ええ」
また一つ約束が増えた。
アレクシスには、自分の得意なものが見つかったら見せると言った。
リュネアには、魔法を安全に使えるようになったら見せる。
以前なら「約束が増える=人間関係が増える=破滅フラグが増える」と考えていたかもしれない。
今は少し違う。
約束とは、未来にもう一度会う理由でもある。
そう考えると、悪いものには思えなかった。
◇
庭の奥へ進んだところで、少し騒がしい声が聞こえた。
使用人たちの声だった。
「何でしょう?」
リュネアが首を傾げる。
俺も耳を澄ませる。
どうやら、庭の外縁にある通用路の方から聞こえてくる。
ハロルドの表情が少し変わった。
「わたくしが確認してまいります。お嬢様方はこちらでお待ちください」
すぐに一人の庭師が走っていく。
俺たちはその場に残った。
少しすると、向こうから荷車を引いていた使用人と、十歳前後に見える少年がこちらへ歩いてくる。
少年の服装は、貴族のものではない。
簡素な布の上着に、泥のついた靴。
おそらく屋敷へ何かを届けに来た商人か職人の子供だろう。
右手を押さえている。
指のあたりから血が出ていた。
「怪我をしていますわ」
リュネアが小さく声を上げる。
ハロルドが俺たちへ戻ってきた。
「運搬中に木箱の金具で手を切ったようでございます。大きな傷ではございませんので、使用人用の治療室へ連れてまいります」
「大丈夫なの?」
「はい。少し深く見えますが、治癒術を使える者もおりますので」
それなら安心だ。
少年はこちらを見ると、すぐに顔色を変えた。
俺の髪や服で身分が分かったのだろう。
慌てて頭を下げようとする。
「アルセリード様……!」
「そのままで大丈夫ですわ」
俺が言うと、少年は中途半端な姿勢で固まった。
「手を怪我しているのでしょう? 先に治療してもらってください」
「ですが……」
「挨拶は治ってからでもできますわ」
そのやり取りを見ていたハロルドが、少年へ「行きなさい」と静かに促す。
少年はまだ戸惑ったまま、何度か頭を下げながら使用人に連れられていった。
それだけの出来事だった。
けれど、リュネアが不思議そうに俺を見ている。
「どうしました?」
「ヴェルシアナ様は、あの方をご存じなのですか?」
「いいえ。初めて見ましたわ」
「では、どうしてあんなふうにお話ししたのですか?」
質問の意味が分からず、一瞬考える。
「怪我をしていたからですけれど」
「でも、平民の方ですよね?」
そこでようやく、彼女が何を不思議に思っているのか理解した。
俺にとっては、怪我人を先に治療させるのが普通だ。
でも、この世界では。
「平民でしたら、怪我をしていても先に挨拶しなければいけませんの?」
リュネアは困ったように首を傾げた。
「分かりません。でも、お父様は身分が上の方へ失礼がないようにと仰います」
「それは、わたくしも教わっていますわ」
礼儀は必要だ。
ただし。
「怪我をしている人にまで、今すぐ完璧に礼をしなければならないとは思いませんわ」
リュネアはまだ考えている。
「怒らないのですか?」
「何を?」
「ご挨拶がきちんとできなかったことを」
「怪我をしていたのでしょう?」
答えると、彼女はゆっくり頷いた。
「では、怒りません」
俺はそう言ってから、少しだけ過去の自分を思い出した。
元のヴェルシアナなら、どうしていただろう。
分からない。
四歳の頃には領地の子供たちと遊びたがっていた。
一方で、髪飾りを壊した侍女には激しく怒った。
きっと、その頃からもう一枚岩ではなかったのだ。
優しい時もあれば、我儘な時もあった。
普通の子供と同じように。
ただ、怒った時だけ周囲の大人が世界を動かしてしまった。
その積み重ねが、彼女の中のどちらを育てたのかは想像できる。
「リュネア様」
「はい」
「わたくしが間違っていると思ったら、教えてくださいな」
突然言うと、彼女が驚いた。
「わたくしが?」
「ええ」
「でも、ヴェルシアナ様は公爵令嬢で……」
「今は友達なのでしょう?」
言葉にすると、リュネアが目を瞬かせる。
「友達なら、何でも同じにする必要はないと先ほど話したでしょう。でしたら、考え方まで全部同じである必要もありませんわ」
「でも、怒られませんか?」
その一言には、少しだけ胸が痛んだ。
今の俺の話ではない。
以前のヴェルシアナを知っているからこその心配なのだろう。
「絶対に怒らないとは言えません」
正直に答える。
「わたくしだって、嫌なことを言われれば腹が立つことはあると思います。でも、怒ったからといって、その人が間違っているとは限らないでしょう?」
リュネアは少し考えてから、恐る恐る尋ねた。
「もし、わたくしがヴェルシアナ様と違うことを言って、ヴェルシアナ様が怒ってしまったら?」
「少し時間を置いてから、もう一度考えますわ」
「それでも、わたくしが間違っていると思ったら?」
「その時は、どうしてそう思うのかお話しします。リュネア様も、ご自分の考えを教えてください」
「喧嘩になりませんか?」
「なるかもしれませんわね」
俺が普通に答えると、リュネアが驚いた顔をした。
「なってもいいのですか?」
「できればなりたくありませんけれど、友達なら一度も意見が違わない方が不思議ではありません?」
前世を思い出す。
榊とも意見が合わないことは何度もあった。
酒の席でくだらないことで言い合ったことだってある。
それでも、次の日には普通に話していた。
人間関係は、意見が一致しているから続くのではない。
違った時に、それでも相手そのものまで嫌いにならずにいられるかどうかの方が大事なのかもしれない。
少なくとも俺は、そういう友達の方が楽だった。
「お嬢様」
少し離れたところで聞いていたミレーヌが、静かに口を開いた。
「では、わたくしがお嬢様へ意見を申し上げることも、同じでございますか?」
「もちろんですわ」
「本当に?」
「どうして二人とも疑うのです?」
思わず苦笑する。
理由は分かっている。
それだけ、以前のヴェルシアナには言いにくかったのだろう。
「ただし」
少し考えて付け加える。
「わたくしも人間ですから、いつでも気持ちよく聞けるとは約束できません。怒ることもあるかもしれませんし、その場では納得できないこともあるでしょう。でも、意見を言ったこと自体を理由に遠ざけるようなことだけは、したくありませんわ」
完璧に受け入れられると約束する方が嘘になる。
前世の俺だって、自分の間違いを指摘されて瞬間的に腹が立った経験くらいある。
大切なのは、腹が立った後だ。
その感情を根拠に、相手を消さないこと。
聞きたくない言葉を言った人間まで、いらない人間にしないこと。
それができれば、少なくとも元のヴェルシアナと同じ場所には戻らないはずだ。
リュネアはしばらく俺を見ていた。
やがて、小さく笑う。
「では、わたくしも頑張ります」
「何を?」
「ヴェルシアナ様が間違っていると思った時に、ちゃんと言えるように」
「そこはあまり張り切らなくてもよろしいですわよ」
思わず返すと、ミレーヌが笑った。
「お嬢様がおっしゃったのでございます」
「最近、皆さんわたくしの言葉を使うのがお上手ですわね」
三人で笑う。
少し離れた場所で、ハロルドもこちらを見ていた。
表情まではよく分からなかった。
けれど、以前のように俺たちの近くから離れようとはしていなかった。
◇
夕方。
摘んだ花を薄い紙に挟み、重しを載せるところまで終えると、リュネアの帰る時間になった。
「乾くまで何日くらいですの?」
「十日ほどです。お花によっては、もう少しかかります」
「では、その頃にまた?」
口にしてから、少しだけ早かったかと思った。
けれどリュネアはすぐ嬉しそうに頷いた。
「はい。お母様に聞いてみます」
「無理でしたら、急がなくても大丈夫ですわ」
「でも、三人で作った栞を完成させたいです」
「そうですわね」
玄関まで見送りに行く。
伯爵夫人と母が何かを話している間、俺とリュネアは少し離れた場所で待っていた。
「ヴェルシアナ様」
「何ですの?」
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「それと……」
リュネアが少し言いにくそうにする。
「もし今度、わたくしが何か違うと思ったら、本当に言ってもよろしいのですよね?」
どうやら思っていた以上に気にしていたらしい。
「ええ」
「怒られても?」
「怒ったら、少し待ってくださいな。落ち着いたらお話ししますから」
リュネアは笑った。
「分かりました」
それで十分だった。
馬車が出発するのを見送り、自分の部屋へ戻る途中で、ミレーヌが隣から声を掛けてきた。
「お嬢様は、変わったお友達の作り方をなさいますね」
「どういう意味?」
「普通は、お友達になった方へ『わたくしが間違っていたら教えてください』とは、あまり申し上げないと思います」
「そうなの?」
「少なくとも、わたくしは聞いたことがございません」
言われてみれば、確かに少し面倒な子供かもしれない。
「でも、必要だと思いますわ」
「お嬢様には?」
「わたくしだけではなく、たぶん誰にでも」
少し考えながら歩く。
「ずっと同じ意見の人とだけ一緒にいるのは、楽でしょう。でも、それだけだと、自分が間違っている時に分からなくなるかもしれません」
「エルダ夫人のお話と同じですね」
「ええ。皆が自分の気に入ることしか言わなくなった時ほど気をつけろ、と教わりましたから」
「では、わたくしも気をつけます」
「何に?」
「お嬢様がお喜びになることだけを言わないように」
その答えに、少し驚いた。
ミレーヌは今まで、俺が喜ぶことを言おうとしていたのだろうか。
それ自体は悪くない。
人を喜ばせたいという気持ちは普通にある。
問題は、それしか言えなくなった時だ。
「嬉しいことも言ってくださいな」
「もちろんでございます」
「何でも反対されたら、それはそれで悲しいですもの」
「難しいですね」
「そうでしょう?」
二人で笑う。
人との距離というものには、きっと正解がない。
近すぎれば依存することもある。
遠すぎれば何も分からない。
何でも同じなら安心できるかもしれないけれど、違うからこそ知れることもある。
この数日で、俺は友達というものを以前より少し意識するようになった。
破滅を避けるだけなら、敵を作らなければいい。
誰にも深く関わらず、礼儀だけを守り、目立たず過ごす方法だってある。
けれど、それではたぶん、原作のヴェルシアナとは別の形で孤独になる。
俺が欲しいのは、全員に好かれることではない。
何をしても肯定してくれる人を集めることでもない。
自分とは違うものを持っていて、それでも一緒に過ごしたいと思える相手が何人かいてくれれば、それで十分なのかもしれない。
リュネアは刺繍が好きで、俺はまだその楽しさを完全には理解できていない。
ミレーヌは計算に興味を持ち始めていて、俺は彼女ほど帳簿を面白いとは思っていない。
アレクシスは馬に乗ることが好きで、俺はようやく一度乗ったばかりだ。
それぞれ違う。
だから、相手が自分の知らないものを持っている。
そして、自分にはないものを持っている相手を見た時に、それを奪われたと感じるのか、それとも教えてほしいと思えるのか。
その違いは、きっと十年後に大きな意味を持つ。
原作のヴェルシアナは、ヒロインが注目されるたびに自分の何かを奪われたように怒っていた。
王太子の視線。
周囲からの評価。
魔法の才能。
友人たちの関心。
誰かが得たものを、自分が失ったものとして受け取ってしまった。
もしその考え方が幼い頃から少しずつ作られていったのなら、今の俺は逆のものを積み重ねておきたい。
誰かが自分より上手なら、教えてもらえばいい。
自分とは違うものが好きなら、それについて聞いてみればいい。
意見が違えば、どこが違うのか話せばいい。
もちろん、毎回そんな綺麗にできるとは思わない。
腹が立つ日もあるだろうし、嫉妬だってするかもしれない。中身が元男だからといって、感情まで聖人になったわけではないのだから。
それでも、感情が生まれることと、その感情にどう従うかは別だ。
怒ってもいい。
悔しくてもいい。
羨ましいと思ってもいい。
ただ、その気持ちを理由に相手を傷つけるところまで進まなければいい。
そう考えると、以前より少しだけ気が楽になった。
俺は完璧な令嬢になる必要はないのかもしれない。
転生した直後は、悪役令嬢にならないために、何一つ失敗しない人間にならなければならないような気持ちがあった。
けれど実際には、間違えないことより、間違えたあとで戻れることの方が大切なのだろう。
そのために、自分とは違うことを言ってくれる人を周囲に残す。
それは破滅を避けるための保険というより、これから普通に生きていくために必要なものなのだと思う。
自室へ戻ると、窓辺には今日摘んだ花を挟んだ紙が置かれていた。
三人で同じものを選んだ紫色の花と、それぞれが別々に選んだ桃色、白色、青色の花が、同じ重しの下で静かに乾くのを待っている。
全部同じではない。
けれど、それで一つの栞を作ることはできる。
その光景が、今日の話そのもののように思えて、俺はしばらく窓辺を眺めていた。
十日後、どんな色が残るのかはまだ分からない。
それでも、完成した時にはきっと今より少しだけ、友達というものが分かるような気がしていた。




