第14話 才能があるからこそ、怖いこともある
初めて魔法の灯りを成功させた翌日、俺は朝食の席で母から思いがけない話を聞かされた。
「来週、リュネアちゃんがまた遊びに来ることになったわ」
「本当ですの?」
「ええ。フィオルネ伯爵夫人からお手紙をいただいたの。前回がとても楽しかったらしくて、リュネアちゃんの方からまた来たいと言ったそうよ」
それは素直に嬉しい。
前回は刺繍を教えてもらい、気がつけばミレーヌを含めて友達という関係までできた。こちらから何かを強く求めたわけでもないのに、向こうからもう一度会いたいと思ってもらえたことには、不思議なくらい温かいものを感じる。
「今度は何をなさるの?」
「まだ決めておりませんわ。刺繍の続きをしてもよいですし、お庭もご一緒してみたいです」
「それなら、お菓子も少し用意させましょうね」
母が楽しそうに予定を考え始める。
以前のヴェルシアナなら、こういう時にはどんな反応をしていたのだろう。
相手が自分に会いたがっていることを当然だと思ったのか、それとも純粋に喜んだのか。
最近は過去を知るたびに、何でも悪い方へ決めつけるのも違うと思えるようになってきた。
幼い頃のヴェルシアナには、普通に誰かと遊びたがる面もあった。
それならリュネアのような相手と出会っていれば、本当は友達を作ることだってできたのかもしれない。
「ところで」
母がふと思い出したように俺を見る。
「昨日、初めて魔法を使ったのでしょう?」
「灯りだけですけれど」
「ヴィクトル先生から聞いたわ。とても魔力の流れが良かったそうね」
「でも、上手く調整できませんでしたわ」
「最初はそんなものよ」
そう言ってから、母は隣に座る父へ目を向けた。
「あなたも最初は酷かったでしょう?」
「何の話だ」
「魔力調整よ」
「覚えていない」
「覚えているわ。小さな火を出す練習で、机の端を焦がしたじゃない」
「……五歳の頃の話をよく覚えているな」
「面白かったもの」
父が明らかに嫌そうな顔をした。
少し意外だ。
「お父様も失敗したの?」
「当然だ」
「昨日は最初から何でもできる必要はないと仰っていましたけれど、ご自分も経験済みだったのですね」
「だから言った」
「それなら最初から教えてくださればよかったのに」
「聞かれなかった」
この人らしい。
母が笑いながら俺の方へ身を寄せる。
「あなたのお父様はね、昔から失敗したことをあまり話したがらないの」
「必要がないだけだ」
「そういうところも昔から変わらないのよ」
両親のこういうやり取りを聞くたびに、二人にも当然子供だった時期があり、俺の知らない人生があるのだと実感する。
ゲームでは名前と立場しか与えられていなかった人間にも、実際には失敗した記憶や、からかわれたくない思い出まである。
そう思うと、この世界が少しずつ厚みを増していくようだった。
「今日は魔法のお稽古がありますの?」
母が尋ねる。
「午後にございます」
「でしたら、無理をしてはいけないわよ」
「ヴィクトル先生にも言われました」
「あなたは楽しいと思うと夢中になるところがあるから」
「昔のわたくしも?」
「昔からよ」
母は即答した。
「三歳の頃、積み木で塔を作っていた時なんて、夕食だから終わりましょうと言っても全然聞かなかったもの」
「それは……少し分かる気がしますわ」
今の俺にも、できるまで続けたくなるところはある。
性格が似ていると言うべきなのか、この身体に馴染んでいるだけなのか、それとも単なる偶然なのかは分からない。
ただ、元のヴェルシアナと自分の間に共通点が見つかると、以前ほど不気味には感じなくなってきた。
何もかも違うわけでもない。
何もかも同じでもない。
そのくらいの曖昧さが、今はちょうどいいのかもしれなかった。
◇
午後の魔力基礎は、昨日と同じ西側の訓練室で行われた。
ヴィクトルは俺が入ってくると、挨拶を済ませたあとすぐに昨日使った感応石を卓上へ置いた。
「まずは復習から始めましょう」
「灯りの魔法ではないの?」
「その前に、魔力の量を一定に保てるか確認いたします」
「昨日より地味ですわね」
「基礎とは、大抵地味なものでございます」
まったく夢がない。
けれど、昨日少しだけ魔法を使ってみたことで、その意味は理解できる。
感応石を両手で持ち、身体の内側へ意識を向ける。
昨日より早く魔力の存在を見つけられた。
胸の奥から腹のあたりまで、温かい流れのようなものがある。
それを手の中へ集め、石へ少しずつ流す。
淡い紫色の光が生まれた。
「その明るさを維持してください」
「はい」
強くしすぎない。
弱くもしない。
昨日はその加減がほとんど分からなかったが、今日は少しだけ違う。
ミレーヌから教えてもらった「細く長く息を吐くように」という感覚を思い出すと、魔力の流れが安定した。
光が一定の明るさを保つ。
ヴィクトルが眼鏡の奥で僅かに目を細めた。
「昨日よりかなり安定しておりますね」
「ミレーヌに教えていただきましたの」
「ミレーヌ嬢に?」
「一度に全部出すのではなく、細く息を吐くようにすると分かりやすいと」
ヴィクトルは少し考えてから頷いた。
「良い表現でございます。魔力の感覚は人によって異なりますので、自分に合う比喩を見つけられるのは大切なことです」
「先生より分かりやすかったですわ」
「それは教師として少々悔しいところでございますね」
真顔で返されたので、思わず笑った。
「では今日は、もう少し進んでも?」
「もちろんです。ただし、調子が良い時ほど無理をしないことを覚えてください」
「昨日も言われましたわ」
「昨日申し上げたから、今日も確認しております」
この人も意外と容赦がない。
感応石を置いたあと、ヴィクトルは棚から三枚の薄い金属板を取り出した。
それぞれ表面に異なる紋様が刻まれている。
「これは何ですの?」
「属性反応を確認するための簡易術具です。本来であればもう少し後に使用する予定でしたが、お嬢様は魔力を感じること自体には問題がなさそうですので、今日は反応だけ見ておきましょう」
属性。
昨日聞いたばかりだ。
「火や水というもの?」
「はい。ただし、属性という呼び方は便宜的なものです。実際には魔力が現象へ変換される際の傾向に近く、明確に一つだけへ分類できない方も多くいらっしゃいます」
「では、火が得意なら水は使えないというわけではない?」
「その通りです。得意不得意はございますが、基礎的な術であれば複数系統を扱える方も珍しくありません」
ゲームより随分複雑だ。
ゲームではキャラクターごとに分かりやすく属性が設定されていたが、現実ではそれほど単純ではないらしい。
「三枚しかございませんけれど?」
「今日は基本的な三系統だけ確認いたします。熱、流動、動勢。一般的には火、水、風と呼ばれることが多いですね」
「土は?」
「物質へ直接干渉する系統は、幼少期の簡易検査では正確に判断しにくいため後日です」
なるほど。
「では、何をすればよろしいの?」
「昨日と同じように、少量の魔力を一枚ずつ流してください。それぞれ適性が強いほど反応が大きくなりますが、競争ではございませんので無理に強く光らせようとなさらないように」
「先に言われましたわ」
「お嬢様は昨日、感応石を必要以上に光らせましたので」
「反省しております」
「でしたら結構です」
一枚目。
火を示す術具。
表面には細い線で炎のような紋様が刻まれている。
手を置いて魔力を流すと、金属板の中央から赤みを帯びた光が広がった。
「反応あり。比較的良好ですね」
「比較的?」
「まだ最初でございます」
次は水。
こちらも青白い光が板全体へ広がった。
火より少し穏やかだが、弱いわけではないらしい。
「こちらも反応は良好です」
「両方使えるのですね」
「珍しくはございません」
最後は風。
魔力を流した瞬間、板の表面を走る紋様が一気に白く輝いた。
同時に、俺の頬へ小さな風が触れる。
「……今、風が出ました?」
「術具側の反応でございます」
ヴィクトルが少し身を乗り出した。
先ほどまでと違い、明らかに注意深く板を確認している。
「強いの?」
「反応だけで申せば、三つの中では最も顕著です」
「では、わたくしは風属性?」
尋ねると、ヴィクトルはすぐ首を横へ振った。
「昨日申し上げましたでしょう。今の段階で決めつける必要はございません」
「でも、一番反応したのでしょう?」
「それは事実です。しかし、五歳のお嬢様へ『あなたは風が得意です』と告げれば、今後風系統ばかり意識してしまう可能性があります。才能を見つけることと、可能性を狭めることは別でございます」
昨日も似た話を聞いた。
この人は本当に一貫している。
「では、今は三つとも使える可能性があると思っていればいい?」
「それくらいがよろしいでしょう」
「先生は慎重ですわね」
「魔法の教育は、子供へ自分が何者なのかを教えることでもございます。間違った言葉を早い段階で与えれば、その言葉に本人が引っ張られることがございますので」
その言葉に少し引っかかった。
子供へ、自分が何者なのかを教える。
それは魔法だけの話ではない。
公爵令嬢。
特別な子。
誰より優れている。
王太子に相応しい。
以前のヴェルシアナも、そういう言葉を何年も与えられてきた。
「先生」
「はい」
「才能があると褒めるのも、よくないことなの?」
ヴィクトルは少し意外そうに俺を見る。
「いいえ。努力や結果を認めることは必要です。ただ、才能という言葉を本人の価値そのものと結びつけることには慎重であるべきだと考えております」
「どういう意味ですの?」
「たとえば、魔法が上手くできた時に『上手にできましたね』と伝えることと、『あなたは才能があるから素晴らしい人です』と伝えることは違う、ということです」
俺は黙って聞いた。
「後者ばかりを繰り返せば、失敗した時に『自分は価値のない人間になった』と感じる子もおります。あるいは、自分より上手な者を認められなくなることもある」
妙に納得できた。
「自分が一番ではなくなったら、怖くなる?」
「そういう方もいらっしゃいます」
元のヴェルシアナにも、あったのだろうか。
幼い頃から美しい、賢い、魔力が強い、公爵令嬢として特別だと褒められ続けてきた。
それを本人が「自分の価値」として受け取るようになれば、誰かに負けることは単なる敗北ではなく、自分そのものを否定されることになる。
十五歳。
王立セレナディア学園。
原作ヒロイン。
ヴェルシアナが持っていなかった種類の魔法適性を持つ少女。
ゲームの中でも、ヒロインが魔法実技で注目されるイベントはいくつかあった。
元のヴェルシアナは、そのたびに露骨な不機嫌を見せていた。
当時の俺は、単純に「嫉妬深い悪役令嬢」としか思っていなかった。
でも、もし。
自分は誰より優れていなければならないと育てられていたのなら。
あれは嫉妬だけではなく、恐怖だったのかもしれない。
「お嬢様?」
ヴィクトルの声で現実へ戻る。
「申し訳ありません。少し考えていました」
「何か気になることがございましたか?」
「才能があると言われることは、嬉しいだけではないのですね」
「扱い方によるでしょう」
彼は淡々と答える。
「才能そのものに善悪はございません。魔力が多いことも、美しいことも、記憶力が優れていることも、それ自体はただの性質です。その性質をどう受け取り、どう使うかが本人に残されます」
「使い方」
「はい」
昨日から、何度もそこへ戻ってくる。
持っているものと、使えることは違う。
さらに今日は、そのものを「自分の価値」と混同しないことまで加わった。
「では、わたくしが魔法で誰かに負けても、先生はがっかりしません?」
あえて尋ねてみる。
ヴィクトルは少しだけ眉を上げた。
「競技で負けたのであれば、何が足りなかったのか一緒に考えます」
「才能がないとは思わない?」
「一度負けた程度で才能の有無を決める教師がいるのであれば、その教師の方を疑った方がよろしいでしょう」
思わず笑った。
「先生は、かなりはっきり言いますのね」
「曖昧にしても仕方のないことですので」
この人も、エルダ夫人と同じように残しておきたい人だ。
そう思った。
◇
属性反応の確認を終えると、今度は昨日失敗した灯りの魔法へ移った。
俺は指先へ意識を集中させ、ミレーヌから教わった通り、魔力を細く長く外へ流す。
紫色の小さな光が現れた。
昨日より安定している。
「そのまま維持してください」
「はい」
十秒。
二十秒。
光は消えない。
少し嬉しくなった。
「大きくしても?」
「少しだけなら」
意識して流す魔力量を増やす。
光がゆっくり膨らんだ。
拳ほどの大きさになる。
「そこまでです」
「まだ大丈夫そうですけれど」
「大丈夫そうなところで止める練習も必要でございます」
昨日と同じことを言われた。
素直に魔力を止める。
光が消える。
「お嬢様は、昨日より随分と制御できるようになっております」
「ミレーヌのおかげですわね」
「もちろん、それもございます。ただ、一度教わった感覚を翌日まで再現できること自体は、お嬢様の理解力によるものでしょう」
褒められた。
普通に嬉しい。
しかし、昨日までとは少し受け取り方が変わった気がする。
「ありがとうございます」
それだけ言う。
自分は才能がある。
だから特別。
だから失敗してはいけない。
そこまで繋げる必要はない。
今日できたことを、今日できたと認めればいい。
「では最後に、少しだけ別の練習をいたしましょう」
ヴィクトルが小さな羽根を一枚取り出した。
「風?」
「はい。先ほど反応が強かったため、ごく初歩的な動勢操作を試してみます。ただし、これで得意属性を決めるわけではございません」
「分かっていますわ」
机の上へ羽根を置く。
「魔法で浮かせるの?」
「いきなり浮かせようとすると力を使いすぎる方が多いため、まずは少し動かすだけで結構です。指先から風を吹かせるのではなく、羽根の周囲にある空気へ魔力を混ぜるように意識してください」
また抽象的だ。
「難しいですわね」
「だから練習するのです」
羽根を見る。
そこにある空気。
当然、目には見えない。
魔力を指先へ集め、押すように流そうとする。
羽根が僅かに震えた。
しかし動かない。
「今のは強すぎます」
「動いていませんけれど」
「力の向きが一点へ集中しております。もっと広く」
難しい。
もう一度。
今度は羽根だけを見るのではなく、その周囲までぼんやり意識する。
指先からではなく、手の周囲全体から魔力が広がるように想像した。
すると。
羽根がふわりと転がった。
「動きましたわ」
「はい。今の感覚を覚えてください」
嬉しい。
もう一度やりたくなる。
羽根の周囲へ魔力を広げる。
今度は少し強く。
羽根が机の上を滑り、そのまま端から落ちそうになる。
慌てて反対側へ力を向ける。
その瞬間だった。
机の上に置かれていた紙が一斉に舞い上がった。
「えっ」
羽根だけではない。
数枚の紙。
軽い布。
ヴィクトルが置いていた細い筆まで転がり、床へ落ちた。
さらに窓際のカーテンが大きく膨らむ。
「お嬢様、止めてください」
声に反応し、すぐ魔力を止める。
風が消えた。
紙がゆっくり床へ落ちていく。
静かになった訓練室を見回す。
「……申し訳ありません」
「お怪我はございませんか?」
「ありません」
ヴィクトルも周囲を確認する。
大きな破損はない。
少し安心した。
「やりすぎましたわね」
「はい」
否定されない。
「最初の羽根が動いたので、もう少しできると思ってしまいました」
「その感覚を覚えておいてください」
「失敗した時の?」
「成功した直後の方です」
少し意外だった。
「成功すると、人は次もできると思います。特に、お嬢様のように一度上手くいった感覚を再現しやすい方ほど、次はもう少し大きく、さらにその次はもっと強くと進みたくなるものです」
まさに今の俺だった。
「それが危ない?」
「魔法に限らず、力というものは大抵そうでございます」
床へ落ちた紙を見ながら、妙に納得する。
最初の成功が嬉しかった。
次はもっと。
もう少し。
それを続けていくうちに、必要以上の力を出した。
大した事故ではない。
けれど、この先もっと強い魔法を使えるようになれば、同じ感覚で済むとは限らない。
「先生」
「はい」
「わたくしは、本当に魔力が多いの?」
ヴィクトルは少し黙った。
昨日までは、具体的な評価を避けていた。
「年齢を考えれば、かなり多い部類でございます」
今度ははっきり答えた。
「どのくらい?」
「同年代の平均と比較すれば、現段階でも数倍程度の容量がある可能性がございます。ただし、幼少期の魔力量は測定誤差も大きく、成長によって変化いたしますので、数字そのものへ意味を持たせすぎないでください」
数倍。
想像していた以上だった。
「危険ですの?」
「魔力が多いから危険なのではありません」
ヴィクトルは床へ落ちた羽根を拾い、俺の前へ戻す。
「自分がどの程度の力を持っているのか知らず、使い方を学ばないことが危険なのでございます」
その言葉は、すぐに理解できた。
これは俺が避けて通れない。
元のヴェルシアナが高い魔力を持っていたことはゲームでも知っていた。
そこへ実際の測定でも同じ事実が確認された。
なら、破滅を避けるために魔法そのものから逃げるという選択は、たぶん正しくない。
使わないから安全なのではなく、必要な時に扱えない方が危険だ。
「分かりましたわ」
「何がでございますか?」
「きちんと習います」
ヴィクトルが少しだけ笑った。
「そのために、わたくしがおります」
「それから、勝手に強い魔法を試したりもしません」
「ぜひお願いいたします」
「信用がありませんの?」
「先ほど紙をすべて飛ばしたばかりのお嬢様へ、どのように答えるのが正解でしょうか」
「……精進いたしますわ」
今度は、ヴィクトルがはっきり笑った。
◇
授業のあと、俺はミレーヌと一緒に床へ落ちた紙を拾うのを手伝おうとした。
ヴィクトルには「使用人に任せて構いません」と言われたが、自分が散らかしたものをそのままにするのも落ち着かない。
「お嬢様がなさらなくても」
ミレーヌが言う。
「わたくしが飛ばしたのですもの」
「でも、先ほどのことは魔法の練習中の失敗でしょう?」
「だからこそ、自分で直せるところは直した方がいいでしょう」
紙を拾う。
五歳児の手では一度に多く持てないので、思ったより時間がかかる。
ミレーヌも隣で集めている。
「怖くありませんでした?」
俺が尋ねると、彼女は少し考えた。
「少し驚きました」
「やはり」
「ですが、ヴィクトル先生がおられましたので」
「もし先生がいなかったら?」
「もっと怖かったと思います」
正直な答えだった。
胸に留めておく。
俺にとっては、紙が飛んだだけ。
でも近くにいる人間からすれば、突然強い風が起きたのだ。
魔法を使う本人と、近くにいる人間では感覚が違う。
「ミレーヌ」
「はい」
「もし今後、わたくしが危ない魔法を使おうとしていたら、止めてくださいな」
彼女は少し驚いた。
「わたくしが?」
「ええ。先生がいない時もあるでしょう?」
「ですが、魔法についてはお嬢様の方がお強くなられるかもしれません」
「強い方が正しいわけではありませんもの」
そう言うと、ミレーヌはしばらく俺を見つめた。
「分かりました」
「本当に止めてくださる?」
「はい。ただし、お嬢様が怒られても責任は持てません」
「そこまで言います?」
「止めてよいと仰ったのはお嬢様です」
また自分の言葉が返ってきた。
この子は本当に最近強くなってきた。
「では、怒らないよう努力しますわ」
「努力、でございますか?」
「絶対とは言えませんもの。人ですから」
そう答えると、ミレーヌが少し笑った。
◇
その日の夕方、俺は父の書斎へ呼ばれた。
何か問題を起こしたからだろうかと一瞬考えたが、部屋へ入ると父は怒っているようには見えなかった。
「魔法の授業で風を起こしたそうだな」
「もうご存じなのですね」
「報告を受けた」
「お怪我をした方はいません」
「それも聞いている」
なら何の話だろう。
「ヴィクトルから、お前の魔力量について改めて報告があった」
「かなり多いそうですわね」
「ああ」
父は机の上の書類を閉じた。
「三歳の測定時点でも高かったが、現在も成長に伴って順調に増えているらしい」
「良いこと?」
「使い方を誤らなければな」
ヴィクトルと同じ答えだ。
「お父様も、わたくしの魔力が強いことをご存じだったの?」
「当然だ」
「では、どうして今まであまり言わなかったの?」
父は少しだけ黙った。
「以前は、言う必要がないと思っていた」
「以前は?」
「ああ」
僅かに考えるような間があった。
「お前は幼い頃、褒められれば非常に喜んだ。自分が他の子より優れていると聞けば、なおさらだ」
想像できる。
「だから、あまり伝えなくなったの?」
「途中からはな。最初は私も、お前の魔力が強いことを誇らしく思い、よく褒めていた」
父が珍しく、自分から過去のことを話している。
「でも?」
「三歳の検査の後、お前は屋敷の同年代の子供へ、自分の方が魔力が強いと何度も話していた」
「……嫌な子ですわね」
「三歳だ」
父はすぐに否定した。
「大人が喜んでいることを、自分も価値のあることだと思っただけだろう」
その言い方に少し驚く。
父も、元のヴェルシアナを以前より丁寧に見直しているのかもしれない。
「その時、ナディアは?」
聞きたくなったが、少し迷った。
何でもナディアへ繋げるのはやめようと思っている。
すると父の方から答えた。
「ナディアは、お前の才能をもっと喜んでやるべきだと言っていた」
「お父様は、どう思ったの?」
「当時は、その通りだと思った」
やはり。
「でも今は?」
「喜ぶことと、それがお前の価値のすべてだと教えることは違ったのだろうと思っている」
ヴィクトルと同じような結論へ、父自身も辿り着いている。
「お父様」
「何だ」
「わたくしが魔法を上手く使えなくても、がっかりします?」
「しない」
即答だった。
「魔力が強くなくなっても?」
「それでお前が私の娘ではなくなるのか?」
「なりませんわね」
「なら同じだ」
簡単な答えだった。
でも、その簡単さが少し嬉しい。
「では、上手くできた時は褒めてくださいな」
俺が言うと、父が僅かに眉を上げた。
「必要なのか?」
「必要ですわ。できてもできなくても同じだからと、何も言っていただけないのも寂しいでしょう?」
父は少し考えた。
「そういうものか」
「たぶん」
「分かった」
この人は本当に、こういうところが不器用だ。
「今日の灯りの魔法は、昨日より上手くできました」
「そうか」
「……それだけ?」
父が俺を見る。
数秒。
それから、どこか試験の答えでも選ぶような顔で言った。
「よくやった」
思わず笑ってしまった。
「何だ」
「いいえ。ありがとうございます、お父様」
ぎこちない。
けれど、嬉しい。
そのくらいで十分だった。
◇
夜になると、ミレーヌが寝台の横で明日の予定を確認してくれていた。
「明日は午前中に算術、午後には音楽のお稽古がございます」
「魔法はありませんのね」
「次回は二日後と伺っております」
「少し残念ですわ」
「今日、無理をしないと仰っていたばかりではございませんか」
「二日後まで待つのと、今日もう一度やるのは別です」
「そういうものでしょうか」
「そういうものですわ」
ミレーヌは少し疑わしそうな顔をしたが、何も言わなかった。
寝台へ入ったあと、俺は昼間の風を思い出す。
最初は小さな羽根一枚を動かしたかっただけだった。
それが少し強くしようと思った瞬間、机の上の紙までまとめて吹き飛ばした。
もしあれが紙ではなく、人だったら。
今はまだ、そこまでの力はないだろう。
けれど将来は分からない。
ゲームのヴェルシアナは高い魔力を持っていた。
イベントによっては、かなり大規模な魔法を使う場面もあったはずだ。
ただ、当時の俺はそれを「悪役令嬢の強さ」としか見ていなかった。
今は少し違う。
強さは、本人だけのものではない。
力を使えば、その影響を受ける人間がいる。
だからこそ、使う側には自分が何をしているのか知る責任がある。
それは魔法だけではなく、公爵家の権力にも同じことが言えるのだろう。
五歳の俺が「嫌だ」と言えば、人の配置が変わることがある。
魔力を少し強く流せば、周囲の物が吹き飛ぶ。
どちらも、自分が持っている力の大きさを知らなければ、本人に悪気がなくても他人を傷つける可能性がある。
元のヴェルシアナは、たくさんの力を持っていた。
けれど、その力を持っている自分がどれほど周囲へ影響を与えるのかを、きちんと教えられる機会が少なかったのかもしれない。
なら、俺はそこを学ばなければならない。
強くならないためではなく、強くなっても扱えるようになるために。
そして今日、もう一つだけ覚えておきたいことがあった。
才能があることは、嬉しい。
褒められれば、やはり嬉しい。
それを無理に否定する必要はない。
ただ、その才能がなくなった時に自分まで空っぽになるような受け取り方だけはしない方がいい。
魔法が上手くても、下手でも。
誰かより強くても、弱くても。
それだけで自分という人間の全部が決まるわけではない。
前世では、そんなことを特別意識して生きた覚えはなかった。
でも、この世界では少し違う。
生まれた家。
魔力。
容姿。
婚約相手。
あまりにも多くのものが、人間の価値と結びつけられやすい。
だからこそ、自分で分けて考えなければならないのだろう。
俺はヴェルシアナ・アルセリードという名前を持ち、公爵家の娘として生きている。
高い魔力にも恵まれているらしい。
それらは確かに俺の一部だ。
けれど、それだけが俺ではない。
そのことを忘れないためにも、次の魔法の授業では今日より少し上手に羽根を動かせるようになりたいと思った。
自分の価値を証明するためではなく、単純にできなかったことができるようになるのが楽しそうだから。
そういう理由で努力できるうちは、きっと才能というものとも上手く付き合っていける気がした。




