第20話 評判は、本人より先に歩いている
リュネア・フィオルネから届いた手紙には、以前一緒に作り始めた押し花のしおりが完成したことと、それからもう一つ、小さな茶会への誘いが書かれていた。
淡い色の便箋に並ぶ文字は、年齢相応に少し大きく、それでも一文字ずつ丁寧に形を整えようとした跡が見える。途中までは最近咲いた花のことや、押し花が思っていたより綺麗に仕上がったことが書かれていたのだが、最後の数行だけは、書いた本人の気持ちがそのまま筆先へ乗ったように僅かに筆圧が強かった。
『今度、母がお世話になっている方々のお嬢様たちと、小さなお茶会をすることになりました。もしよかったら、ヴェルシアナ様もいらっしゃいませんか。わたしは、来てくださったら嬉しいです』
俺は最後の一文まで読み終えたあと、なぜかもう一度最初から読み返し、それでも足りず、結局その招待の部分だけを三度眺めた。
「……お茶会か」
危うく前世そのままの調子で呟きそうになり、途中から声を小さくする。
机の向こうで本を整理していたミレーヌが、動かしていた手を止めてこちらを振り向いた。
「どうかなさいましたか?」
「いえ。リュネアから、お茶会のお誘いをいただいただけですわ」
「お茶会ですか」
「ええ」
返事をしながら、俺はもう一度便箋へ視線を落とした。
リュネアから誘われたこと自体は、素直に嬉しい。
押し花のしおりを完成させようと約束していたし、最近では彼女と過ごす時間そのものを楽しみにしている自分がいる。前世で会社員をしていた頃、まさか生まれ変わった先で五歳児の友人関係にこれほど真剣になる日が来るとは想像もしなかったが、実際に誰かと花を選び、刺繍で失敗して笑われ、次に会う約束をする生活を送ってみれば、それは思いのほか悪くなかった。
問題は、手紙に書かれた「お茶会」という言葉の方だ。
ゲームの知識が警報を鳴らしているわけではない。『リュミエールの天秤』で描かれていたのは主に学園入学後であり、幼いヴェルシアナがどこの家の誰と茶を飲み、何を話したのかなど、設定資料の隅にすらほとんど残っていなかった。
むしろ俺が警戒しているのは、こちらへ来てから知った過去の方だった。
五歳のヴェルシアナには、すでに五年分の人間関係が存在している。
俺にとっては目を覚ました日が始まりでも、周囲の人間にとっては違う。彼らは俺が知らないヴェルシアナを知っていて、中にはその少女に嫌な思いをさせられた人間だっている。
リュネアから聞いた、以前の茶会の話もその一つだった。
当時のヴェルシアナが感情的になり、あとからナディアが別の少女にも問題があったかのように話したことで、その少女が集まりへ顔を出さなくなった。
俺自身には、その場面の記憶が一切ない。
何を言ったのかも、どんな顔をしていたのかも、何に腹を立てたのかすら知らない。
けれど、それは相手にとって何の救いにもならない。
傷つけられた側からすれば、「今の俺には記憶がありません」と言われたところで、起きた出来事が消えるわけではないのだ。
「お嬢様?」
考え込んでいたらしい。
ミレーヌに呼ばれ、俺はようやく顔を上げた。
「……行った方がいいでしょうか」
口から出た言葉に、自分でも少し意外な気持ちになる。
ミレーヌはすぐには答えず、こちらの表情を確かめるように見た。
「行きたくないのですか?」
「そういうわけではありませんわ。リュネアには会いたいですし、完成した押し花も見てみたいです。ただ、今回はほかにもお嬢様方がいらっしゃるようですから」
そこまで言えば、ミレーヌにもこちらの懸念が伝わったらしい。
「ああ……」
「その顔、分かっていますわね」
「少しだけ」
俺は手紙を机へ戻し、椅子の背へ浅く身体を預けた。
「以前のわたくしを知っている方が、いらっしゃるかもしれません」
「そうですね」
「しかも、向こうは覚えていても、わたくしは覚えていません。……そう考えると、少し便利すぎる気がしますわ」
「便利、ですか?」
「何も覚えていない側だけ、勝手に最初から始められるような気がして」
言葉にしてみると、自分でもあまり好きではない響きだった。
ミレーヌは軽々しく否定せず、少し考えるように黙っている。
窓の外では、庭木の葉が風に押され、重なった緑の間から細かな光がこぼれていた。
最近の魔法の訓練では、魔力を大きく出すことより、必要なところで止めることの方が難しいと何度も教わっている。自分の中にあるものを好きなだけ放てばいいのではなく、どこまでなら安全なのかを考え、必要のない力は使わずに残す。
人間関係も、それと少し似ているのかもしれない。
変わろうと決めることは、自分一人でもできる。
言葉遣いを直し、相手を見下さないよう気をつけ、間違えた時には謝る。それらは今日からでも始められる。
けれど、それまで相手の中へ積み重なった記憶まで、こちらの都合で巻き戻すことはできない。
「お嬢様は、行ってみたいのですか?」
少し時間を置いて、ミレーヌが改めて尋ねた。
俺はすぐに答えず、手紙の最後に書かれた「来てくださったら嬉しいです」という一文をもう一度見た。
「……行ってみたいです」
今度の返事には、それほど迷わなかった。
「でしたら、行ってもよろしいのではないでしょうか」
「簡単に言いますわね」
「お嬢様が以前、わたしに仰ったことがあります」
「何を?」
「まだ決めていないなら、それでもいい、と」
俺は一瞬黙り、それから妙に納得のいかない気持ちでミレーヌを見た。
自分で言った言葉なのに、他人から返されると予想以上に効く。
「それと少し似ている気がします。何が起きるか分からないからという理由だけで、行かないと決めてしまわなくてもよいのではないかと」
「……ミレーヌ」
「はい」
「最近、わたくしより上手に、わたくしの言葉を使っていません?」
「気のせいです」
「絶対に違いますわ」
ミレーヌが控えめに笑い、その表情を見ているうちに、俺も少しだけ力が抜けた。
全部を片づけてから人に会うことなど、きっとできない。
俺はまだ五歳で、自分の過去についても知らないことが多く、ナディアについてだって結局すべてを理解したわけではない。それでも、分からないものを抱えたまま、今の自分として誰かと会うことはできる。
「では、行くと返事を書きます」
「はい」
「ただ、一つだけ問題がありますわ」
俺は便箋を取り出しながら、今度は別の意味で眉を寄せた。
「刺繍の話をされる可能性が高いですよね」
「あると思います」
「リュネア、絶対に続きを持ってきますわよね」
「楽しみにされていましたから」
「……押し花だけで終わるよう、自然に誘導できないかしら」
「お嬢様」
「何です?」
「逃げてはいけません」
「刺繍からくらい逃げてもよろしいでしょう?」
「それは、お嬢様がお決めください」
いつの間にか便利な返しまで覚えている。
この七歳児、成長する方向を少し間違えていないか。
そんなことを考えながら、俺はリュネアへの返事を書き始めた。
◇
茶会の日は、数日後に決まった。
場所はフィオルネ伯爵家で、主催するのはリュネアの母である伯爵夫人だった。
ただし大人たちは子供同士の交流へ必要以上に口を挟まないよう、同じ庭の少し離れた場所で過ごすことになっているらしい。
「だからこそ、気をつけなくてはなりませんね」
当日の朝、そう言ったのはエルダ夫人だった。
支度の最終確認をしながら、彼女はいつもと変わらない落ち着いた声音で俺を見る。
「大人が会話へ入らないからといって、礼儀を忘れてよいわけではございません。ただし、同年代のご令嬢と話すのに、宮廷での謁見と同じような距離を取る必要もないのです」
「……それ、かなり難しくありません?」
「だからこそ学ぶのです」
返ってくる答えに、一切の隙がない。
「相手を尊重することと、必要以上に壁を作ることは違います。ご自身がアルセリード公爵家の令嬢であることを忘れる必要もございませんが、その立場を相手へ押しつける必要もございません」
「はい」
「そして、もしご自身の知らない過去について話題が出たとしても、慌てて否定なさらないように」
そこで俺は少しだけ顔を上げた。
エルダ夫人は、こちらの反応まで含めて見ているような静かな目をしている。
「……お父様から聞きました?」
「一部は」
父さんめ。
内心でだけ文句を言う。
もっとも、必要な共有だということは俺にも分かっていた。
ナディア一人の判断が教育や人事へ強く影響していたことが分かってから、我が家では俺についての情報や判断を、できるだけ一人へ集中させないようにしている。父、母、エルダ夫人、それぞれが異なる立場から俺を見て、必要なら互いに話をする。
その方がいい。
自分で望んだことでもある。
ただ、自分が茶会を少し怖がっていることまで共有されていると思うと、理屈とは別のところで少し恥ずかしかった。
「お嬢様」
「はい」
「知らないことは、知らないと仰って構いません」
「……はい」
「ですが、覚えていないからご自身には関係がない、とはお考えにならないことです」
その言葉は、予想していたよりまっすぐ胸へ入ってきた。
俺は短く息を吸い、それから頷く。
「分かっています」
「でしたら結構です」
エルダ夫人は、それ以上余計な慰めを付け加えなかった。
相変わらず厳しい。
でも、ありがたいとも思う。
俺が自分で考えたいと言ったからこそ、考えるのが面倒な部分まで容赦なくこちらへ返してくれる人は、たぶん必要なのだ。
支度を終えて鏡の前へ立つ。
今日のドレスは淡い青で、銀色の髪も派手になりすぎないよう丁寧にまとめられている。髪飾りには、以前リュネアが作ってくれた淡い青と銀の薔薇を選んだ。
俺としては、友達からもらったものだから着けていこう、くらいのつもりだった。
しかし鏡の中に立っている少女を見ると、改めて自分が置かれている世界の違いを思い知らされる。
淡い銀髪に、濃い赤紫色の目。
五歳児には明らかに高価な仕立てのドレスを着て、姿勢だけはこれまでの教育のおかげでかなり整っている。
前世の感覚で言う「友達の家へ遊びに行く五歳児」からは、だいぶ遠い。
「……やっぱり顔が強いな」
「何か仰いました?」
少し離れたところにいたミレーヌが振り返る。
「何でもありませんわ」
危ない。
以前より自分の顔を鏡で見ることに慣れたとはいえ、この容姿が周囲へ与える印象については、最近ようやく少し分かるようになってきた。
少なくとも、普通に眉を寄せただけで相手が緊張することはあるらしい。
それなら意識して穏やかな顔をしておけばいいのではないかと思い、試しに口元を柔らかくしてみる。
鏡の中には、いかにも「今から笑顔を作っています」と言いたげな少女が現れた。
駄目だ。
むしろ怖い。
変に演技するくらいなら、普通にしていた方がまだましだろう。
少なくとも俺は、そう信じることにした。
◇
フィオルネ伯爵家へ着くと、リュネアは屋敷の玄関近くまで迎えに来てくれていた。
蜂蜜色の髪を揺らしながらこちらを見つけた瞬間、その顔が分かりやすく明るくなる。
「ヴェルシアナ様!」
「リュネア。お招きありがとうございます」
礼をすると、リュネアは少し照れたように笑った。
「来てくださって嬉しいです」
その一言を聞いただけで、来ると決めてよかったと思えた。
単純だな、と自分でも思う。
でも、別に悪くない。
嬉しいことを嬉しいと感じるくらいなら、いちいち破滅回避と結びつけなくてもいいはずだ。
「髪飾り、付けてくださったのですね」
リュネアの視線が、俺の髪に留まる。
「ええ。せっかくいただいたものですから」
「とても似合っています!」
「ありがとうございます」
その嬉しそうな反応を見ると、選んだこちらまで気分が良くなる。
リュネアに案内され、庭へ出る。
今日の茶会は屋敷の中ではなく、花壇を望む庭の一角に設けられていた。白い布を掛けた丸いテーブルには、小さな焼き菓子や果物、子供向けに薄められた茶が並び、その向こうには大人たちの席も見える。
完全に子供だけへ任せているわけではない。
ただし、こちらの会話を一言一句聞き取れるほど近くもなかった。
すでに三人の少女が来ている。
俺たちと同じくらいか、少し年上だろう。
リュネアが一人ずつ紹介してくれるのを聞きながら、俺は名前と顔を頭の中で結びつけていった。
一人は完全な初対面。
もう一人は、どこかで名前を聞いたような気がする程度。
そして最後の少女を紹介する時だけ、リュネアの声にほんの僅かな緊張が混ざった。
「こちらは、エステル・ラーディア様です」
肩の辺りで揃えられた淡い茶色の髪と、少し硬い表情。
俺と目が合うと、少女の身体がほんの少し強張ったように見えた。
エステル。
名前そのものには覚えがない。
けれど、リュネアから以前聞いた話と、今の反応を重ねれば、一つの可能性が浮かんでくる。
以前の茶会で、ヴェルシアナが感情的になったあと、ナディアの言葉によって責任を負うような形になり、それ以降集まりへ来なくなった少女。
この子かもしれない。
ただし、まだ「かもしれない」だ。
リュネアは名前まで教えていなかったし、俺が勝手に決めつければ、それこそ今まで何度も戒めてきたことを繰り返すことになる。
「ヴェルシアナ・アルセリードです。本日はよろしくお願いいたします」
なるべくいつも通りに挨拶する。
エステルは一拍ほど遅れてから、丁寧に頭を下げた。
「エステル・ラーディアです。……よろしくお願いいたします」
声は硬い。
こちらの顔を一度見たあと、すぐに視線を落とした。
少なくとも、好意的に気楽な相手として見られてはいないらしい。
だからといって、ここでいきなり「以前は申し訳ありませんでした」と謝るのも違う気がした。
俺は何をしたのか正確には知らないし、相手が何を嫌だったと感じているのかも知らない。謝罪の言葉だけを先に差し出せば、俺自身は少し楽になるかもしれないが、それがエステルのためになるとは限らない。
今は、普通に接するしかない。
俺はそう考え、案内された席へ座った。
すると、思いもよらないところで妙な沈黙が生まれた。
誰も菓子へ手を伸ばさない。
俺もまだ取っていないため、結果として全員が席についているのに、テーブルの中央へ置かれた小さな焼き菓子だけが、誰にも触れられず綺麗に並んだままだった。
何だこれ。
俺は数秒間、本気で考えた。
何か礼儀作法を忘れたか。
主催者の合図を待つのか。
それとも子供の茶会にも、俺が知らない開始の儀式があるのか。
周囲をさりげなく見回すと、二人ほどの少女が、俺の手元を窺うように見ている。
そこでようやく気づいた。
この中では、俺の家格が最も高い。
つまり皆、俺が先に手を伸ばすのを待っているのではないだろうか。
前世の感覚なら、友達の家で菓子を食べるだけなのに、何でこんなところにまで序列がついてくるんだと思う。
けれど、ここではそれも礼儀の一部なのだろう。
「皆さま、どうぞ。わたくしもいただきますので」
なるべく自然な調子で言い、一つ焼き菓子を取る。
すると、それを合図にしたように他の少女たちも少しずつ手を伸ばし始めた。
リュネアだけは俺ほど気にしていなかったらしく、こちらを見ながら小さく笑っている。
「何です?」
「いいえ」
「今、絶対に何か思いましたわね」
「ヴェルシアナ様、少し困っていらしたなと思って」
ばれていた。
「……分かりました?」
「少しだけ」
そのやり取りを、エステルがちらりと見ていた。
目が合う前に視線は逸らされたものの、最初に挨拶した時より表情の硬さがほんの僅かに薄れたような気もする。
ただ、そう見たいだけかもしれない。
今はそれ以上の意味をつけないことにした。
◇
最初のうちは、どうしても会話がぎこちなかった。
そんな空気をどうにかしようと、リュネアが最近読んだ本や庭の花、好きな菓子について次々に話題を振ってくれる。
ありがたい。
ただし、その中には当然のように刺繍も含まれていた。
「ヴェルシアナ様も、最近刺繍をなさっているのでしょう?」
初対面の少女からそう尋ねられ、俺はほんの一瞬だけ迷った。
公爵令嬢らしく格好をつけるなら、「ええ、嗜んでおります」と優雅に頷けば済む。
しかし、すぐ隣には俺が何度も糸を絡ませるところを目撃しているリュネアがいる。
ここで見栄を張れば、数秒後には確実に破綻する。
「……しております」
「お上手なのですか?」
そこまで聞くのか。
俺は一度だけ紅茶の表面へ目を落としたあと、観念した。
「リュネアの方が、ずっとお上手です」
リュネアが目を丸くし、ほかの少女たちまで少し意外そうな顔をする。
「そうなのですか?」
「ええ。わたくしは何度も糸を絡ませますし、少し油断すると形も崩れます」
「ヴェルシアナ様」
リュネアが堪えきれなくなったように笑った。
「何です?」
「ご自分から、そこまで仰らなくても」
「事実でしょう?」
「そうですけど」
「そこは少しくらい否定してくださいませ」
「でも、本当に何度も絡ませていますから」
それを聞いていた少女の一人が小さく吹き出し、続いてもう一人の口元も緩んだ。
張っていた空気が、少しだけ柔らかくなる。
エステルだけはまだ笑っていなかったが、こちらを見る時間は先ほどより長くなっていた。
「魔法も始められたと伺いました」
別の少女から話題が変わる。
噂が回るのは早い。
「ええ。まだ本当に初歩ですけれど」
「でも、とても魔力がお強いのでしょう?」
「多いとは言われました。ただ、制御はまだ上手ではありません」
「それでもすごいです」
「ありがとうございます」
褒められれば嬉しい。
そこは素直に受け取る。
ただ、それだけで話を終えるのも少し違う気がして、俺は続けた。
「初歩的な光なら、ミレーヌの方が安定させるのは上手です」
「ミレーヌ?」
「わたくしの家にいる子です。わたくしより二つ上で、魔法も少し先に使っていましたから、制御の感覚を教えてもらいました」
何となく、また空気が止まった。
今度は理由が分からず、俺は僅かに首を傾げる。
「……どうかなさいました?」
「いえ」
質問していた少女が慌てて首を横へ振った。
「ヴェルシアナ様が、その……ご自分に仕える方から魔法を教わることもあるのだと思って」
「上手な人に聞いた方が早いでしょう?」
俺としては、それ以上でも以下でもない。
実際、ヴィクトル先生にも似たようなことを話した。
それなのに少女たちは、どこか意外なものを見たように顔を見合わせる。
その沈黙の中で、これまで自分からほとんど会話へ入ってこなかったエステルが、小さな声を出した。
「……以前とは、違うのですね」
その一言で、テーブルの上にあった柔らかな空気が一瞬だけ張った。
リュネアがエステルを見る。
ほかの二人も黙る。
俺自身も、すぐには答えなかった。
エステルは言ってから後悔したらしく、顔色が少し変わり、膝の上で重ねていた指へ力を込めた。
以前のヴェルシアナなら、この言葉にどう反応したのだろう。
そこまで考えたところで、自分の中に生まれた嫌な緊張を一度落ち着かせる。
今必要なのは、知らない過去の自分を想像して再現することではない。
今の自分がどう答えるかだ。
「そう見えます?」
できるだけ穏やかに尋ねる。
エステルは予想していなかったように目を上げた。
「……はい」
「どのあたりが?」
問い返すと、今度はリュネアまで少し不安そうに俺を見る。
おそらく皆、俺が怒っているのかどうかを確認している。
自分でも、こういう時には顔へ余計な力が入っているのだろうと思う。
だから表情を無理に作ることは諦め、言葉の方を慎重に選んだ。
「わたくしは、以前のことを全部覚えているわけではありません」
エステルの目が僅かに動いた。
「ですが、それを理由に、何もなかったことにしたいとは思っていませんわ。もし以前のわたくしがあなたに嫌な思いをさせたのなら、『今は違います』と言うだけで終わらせるつもりもありません」
口にしながら、胸の奥へ鈍い重さが落ちていく。
ここで謝るべきなのかもしれない。
けれど、何について謝るのかを俺は正確には知らない。
リュネアから聞いた断片だけで「あなたはこう傷ついたのでしょう」と決めつければ、それは相手の気持ちを理解したふりをすることになる。
だから、今言えるところまでで止めた。
「ただ、今のわたくしがこれから何をするのかは、見ていただけたらと思っています」
エステルの指先が、膝の上で僅かに動いた。
「……それだけですか?」
思っていなかった問いに、俺は少しだけ目を瞬く。
「それだけ、とは?」
「もっと……以前のことを聞かれるのかと思いました。どうして来なくなったのか、とか」
「聞いてほしいですか?」
その質問を返すと、エステルはすぐには答えなかった。
やがて、俯きかけた顔を僅かに上げる。
「……分かりません」
その答えを聞いた瞬間、俺は自分でも分かるほど肩の力が抜けた。
「では、今は聞きません」
エステルがこちらを見る。
「分からない時に、無理に答えを決める必要はないでしょう?」
言葉にしてから、自分がこれまで何度も似たようなことを考えてきたことに気づく。
人との関係でも、ナディアのことでも、婚約のことでも、俺は最近ずっと同じ場所を回りながら少しずつ前へ進んでいるのかもしれない。
分からないものを、急いで名前のあるものへ変えない。
それは逃げるためではなく、間違った答えを他人へ押しつけないためだ。
エステルはしばらく黙ってこちらを見ていた。
警戒が消えたわけではない。
それでも、最初に顔を合わせた時のように、俺と目が合った瞬間すぐ視線を逸らすことはなかった。
「……はい」
返ってきたのは、それだけだった。
仲直りしたわけではないし、もちろん友達になったわけでもない。
エステルが俺を信じたとも思わない。
けれど、だからこそ、その小さな返事を必要以上に大きなものへしない方がいい気がした。
信頼というものが本当に積み重なるのなら、一度の会話ですべてが解決する方が、きっと不自然なのだから。
◇
茶会の後半になる頃には、最初ほど会話の一つ一つへ気を張らずに済むようになっていた。
そこでリュネアが、楽しみにしていたものをようやく持ってくる。
「できました!」
差し出されたのは、以前三人で選んだ花を使った押し花のしおりだった。
中心には皆で選んだ紫色の花が置かれ、その周囲にはリュネアの好きな桃色、ミレーヌの好きな白、俺が選んだ青い花が、それぞれを邪魔しないよう小さく添えられている。
同じ形へ揃えたわけでもないのに、不思議と一つのものとしてまとまっていた。
「すごい」
感想がそのまま口から出た。
しまったと思い、少し遅れて咳払いする。
「……とても綺麗ですわ」
リュネアが嬉しそうに笑う。
「今、普通に『すごい』って仰いました」
「聞かなかったことにしてくださいませ」
「嫌です」
「リュネア」
「ふふ」
そのやり取りにつられるように、ほかの少女たちも机の上のしおりを覗き込む。
「皆さま、好きな色が違うのですね」
「ええ」
リュネアは宝物を説明するような顔で頷いた。
「でも、一緒に一つ作れました」
その言葉が、静かに胸へ残った。
好きな色が違ってもいい。
得意なことが違ってもいい。
同じ出来事を見ても、受け止め方が違うことだってある。
誰かと近くなるために、すべてを同じにする必要はないのだと、最近少しずつ分かり始めている。
俺は押し花から視線を上げ、何となくエステルの方を見た。
ちょうど向こうもこちらを見ていたらしく、赤紫色と淡い色の瞳が重なる。
以前の俺なら、そこで「もう怖がらないでほしい」とか、「笑ってくれたらいいのに」とか、何か分かりやすい結果を求めたかもしれない。
けれど今日は、特に何もしなかった。
ただ目が合っている間だけ、そのままにしておく。
エステルも、すぐには視線を逸らさなかった。
ほんの数秒でしかない。
それでも今は、それ以上を欲しがらなくていいと思えた。
◇
帰りの馬車に揺られながら、俺は窓の外へ流れていく景色を眺め、今日の出来事を一つずつ思い返していた。
大きな失敗はしなかったと思う。
少なくとも茶器をひっくり返したり、誰かを泣かせたりはしていない。
刺繍が下手だという事実を自分から広めたことを失敗に含めるなら、話は少し変わるが。
問題はエステルとの会話だった。
あの対応が本当に正しかったのか、今の俺にはまだ分からない。
最初から謝った方がよかったのかもしれないし、もっと過去について本人から聞くべきだった可能性もある。反対に、今日の段階では一切触れず、何度か顔を合わせてから話す方がよかったという考え方だってあるだろう。
どれが正解だったのかは、今すぐには決められない。
ただ以前と違うのは、その分からなさを埋めるために、自分にとって都合のいい答えを勝手に作らなくてもよいと思えるようになったことだった。
エステルが今何を考えているのかは、エステル本人にしか分からない。
俺は今日聞けたところまでを覚えて、次に会う機会があれば、その時また考えればいい。
「お嬢様」
向かいに座るミレーヌから声をかけられ、俺は窓の外から視線を戻した。
「はい?」
「楽しかったですか?」
その質問には、少しだけ考えてから答えた。
「……楽しかったです」
迷ったのは言葉を選んだからであって、気持ちそのものに迷いはない。
「少し疲れましたけれど」
「それはそうだと思います」
「何です、その言い方」
「朝からずっと、少し緊張されていましたので」
「分かりました?」
「はい」
「そんなに顔へ出ていました?」
「お顔というより、普段より少し静かでした」
それはそれで、周囲からすれば怖かったのではないだろうか。
俺は軽く額へ手を当てる。
「難しいですわね」
「何がですか?」
「普通にすることが」
ミレーヌが小さく笑った。
「お嬢様は、公爵令嬢ですから」
「その言葉、最近いろいろな意味で便利に使っていません?」
「事実ですので」
またそれだ。
俺は苦笑しながら、再び窓の外を見る。
馬車が進むにつれ、フィオルネ伯爵家の屋敷は木々の向こうへ少しずつ隠れていった。
今日会った少女たちは、俺をどう見ただろう。
思っていたより普通だったと感じたかもしれない。
刺繍が下手な公爵令嬢だった、という感想だけが強く残った可能性もある。
あるいは、やっぱり怖いと思われているのかもしれない。
エステルについて言えば、少なくとも今日一度話しただけで俺を信じるようになったとは思わないし、そうである必要もない。
評判というものは、本人より先に歩いていく。
一度誰かの口から外へ出た話は、本人が変わったからといって振り返って待っていてはくれない。俺が知らない場所まで先に進み、まだ一度も会ったことのない人の中にまで、「ヴェルシアナ・アルセリードとはこういう人間だ」という像を作っていく。
しかも厄介なのは、その評判が全部嘘というわけではないことだ。
以前のヴェルシアナが実際に怒り、誰かを傷つけ、それによって人が離れたこともある。
なら、その評判を追いかけて一つずつ消そうとするより、これから起きたことを、別の事実として積み重ねていくしかないのだろう。
今日の茶会だけで、誰かの印象が劇的に変わったとは思わない。
それでも俺は、リュネアが完成させた押し花を見て嬉しかったし、知らない少女たちと話す時間も想像していたほど苦痛ではなかった。エステルとも、次に会った時には今日よりほんの少し自然に言葉を交わせるかもしれないと考えられる。
そう思えるなら、少なくとも行ったことを後悔する理由はなかった。
「ミレーヌ」
「はい」
「次にリュネアが来た時、できれば刺繍以外の遊びへ自然に誘導していただけません?」
「無理だと思います」
「即答ですのね」
「お嬢様、前回の続きをすると約束していらっしゃいましたから」
「……過去は無かったことにはできませんものね」
「はい」
自分で何度も考えてきた言葉が、こんなところでまで刺さってくるとは思わなかった。
そのせいで少しだけ顔をしかめると、ミレーヌが笑った。
「今、笑いましたわね」
「笑っていません」
「絶対に笑いました」
「気のせいです」
「最近、わたくしへの扱いが少し雑になっていません?」
冗談半分で言うと、ミレーヌはほんの少し考えたあと、何でもないことのように答えた。
「近くなったのではないでしょうか」
今度は俺の方が黙った。
ミレーヌはそれ以上説明するつもりがないのか、すでに窓の外へ視線を向けている。
近くなった。
たったそれだけの言葉なのに、妙に心へ残った。
以前なら、俺が公爵令嬢でミレーヌが侍女見習いである以上、距離が近づくという表現そのものをどう捉えればいいか迷ったかもしれない。
けれど今は、その言葉を悪くないと思う。
むしろ、かなり嬉しい。
それを素直に口へ出せばミレーヌに何か言われそうで、何となく負けた気がするから黙っておくけれど。
馬車は一定の揺れを刻みながら、アルセリード公爵家へ続く道を進んでいく。
十年後に訪れる破滅を避ける。
この世界で目を覚ました時、俺にとって人生の目的はほとんどそれだけだった。
攻略対象へ深入りせず、ヒロインを虐めず、敵を作らず、処刑されるような未来から可能な限り離れていく。そうやって危険を回避し続ければ、少なくとも原作と同じ結末にはならないはずだと考えていた。
けれど最近、少しずつ、それだけでは説明できない時間が増えている。
危険だから避けるのではなく、会いたいから誰かに会う。
未来を変えるための計算ではなく、ただ楽しかったから、もう一度同じ時間を過ごしたいと思う。
ミレーヌが好きな白い花を覚え、リュネアからもらった髪飾りを選び、まだ自分を警戒している少女と次はもう少し話せるかもしれないと考える。
そういう気持ちまで、すべて「破滅回避のため」という一言へ押し込めてしまうのは、もう少し違う気がしていた。
評判より先へ出ることはできない。
すでに歩き始めた過去のヴェルシアナは、俺の知らない場所までとっくに進んでいる。
けれど、その後ろから自分の足で歩くことならできる。
急いで追いついて、過去の姿を消す必要もない。
いつか誰かの中にある「ヴェルシアナ・アルセリード」という人物を思い浮かべた時、昔の評判だけではなく、そのあと自分が積み重ねてきた出来事まで一緒に思い出してもらえるようになれば、それで十分なのかもしれない。
窓の向こうでは、午後の光がゆっくり傾き始めていた。
今日の茶会で未来が変わったかどうかなんて、俺には分からない。
ただ、リュネアから手紙を受け取った時には少し怖かった場所から帰る今、胸の中には疲れよりも、また会ってもいいと思える気持ちの方がわずかに勝っている。
それだけでも、今日一日を過ごした意味としては悪くなかった。




