第13話 悪役令嬢は、魔法まで才能があるらしい
王宮で初めて馬に乗った翌朝、俺は自分の身体に起きている小さな異変によって目を覚ました。
異変、と言っても命に関わるようなものではない。
脚が痛い。
正確には、太腿の内側から腰のあたりにかけて、動くたびに何とも言えない重さがある。
寝台の上で身体を起こした瞬間、普段なら何も意識せずにできる動作が微妙に億劫で、そこでようやく昨日の乗馬を思い出した。
「……筋肉痛ですわね、これ」
前世で久しぶりに運動した翌日と、ほとんど同じ感覚だった。
ただし、今の身体は五歳である。
子供というのはもっと回復が早いものだと思っていたのだが、どうやら使っていない筋肉へ突然負担をかければ、年齢に関係なく痛むものは痛むらしい。
しかも昨日の俺は、騎士から「力を抜いてください」と何度も言われていた。
つまり、相当余計な力が入っていたのだろう。
そんなことを考えていると、扉の向こうからノックが響いた。
「お嬢様、お目覚めでございますか?」
「ええ。どうぞ」
ミレーヌが入ってくる。
いつものように朝の挨拶を交わしたあと、俺が寝台から降りようとしたところで、彼女の視線が不自然な動きをする俺の脚へ向いた。
「お嬢様?」
「何でもありませんわ」
「今、少しお顔をしかめられませんでしたか?」
「気のせいです」
「昨日、お馬へ乗られたからではございませんか?」
鋭い。
「……少しだけですわ」
「痛いのでございますね」
「筋肉痛みたいなものですから、大したことではありません」
前世の言葉をそのまま使ってしまったが、意味は通じたらしい。
ミレーヌは心配そうに俺の様子を確認する。
「本日の予定を減らしていただきますか?」
「そこまでではありませんわ」
「ですが」
「歩けないほどではありませんもの。それに、座って受ける授業なら問題ないでしょう?」
そう答えると、ミレーヌは少し不満そうな顔をしながらも、それ以上は止めなかった。
最近、この子は俺を心配してくれる一方で、以前ほど何でも主人の言葉へ従うだけではなくなった。
それは良いことだと思っている。
ただ、朝から七歳の少女に健康管理されている状況には、未だに少しだけ慣れない。
「本日は午前に礼法、午後から魔力基礎のお時間がございます」
髪を整えながら、ミレーヌが予定を読み上げる。
「魔力基礎?」
聞き慣れない言葉に、思わず鏡越しに彼女を見る。
「はい。本日から始まると伺っております」
「今日から?」
「以前から予定されていたそうですが、お嬢様が高熱を出されましたので延期になっていたとのことです」
それを聞いた瞬間、眠気が完全に消えた。
魔法。
この世界へ来てから十日以上が経っているというのに、俺はまだそれをまともに見たことがない。
もちろん、この世界に魔法が存在すること自体は知っている。
『リュミエールの天秤』は魔法の存在するファンタジー世界を舞台にしており、攻略対象の中にも魔法を得意とする人物がいた。学園でも魔法実技の授業があり、ルートによっては魔力を利用した事件が重要な位置を占める。
そしてヴェルシアナ自身も、ゲーム設定上はかなり高い魔力を持っていた。
家柄。
容姿。
学力。
魔力。
改めて思うが、本当に持っている札だけなら異常なほど強い。
それなのに本人が人間関係を壊し続け、最終的に誰からも信用されなくなるのだから、前世の俺が「俺ならもう少し上手くやれる」と思ったのも無理はない。
もっとも、今となってはその言葉を思い出すたび、少しだけ居心地が悪くなる。
外から見ている時には簡単そうに思えた人生にも、実際に中へ入れば知らない事情がいくらでもあった。
「お嬢様?」
「何でもありませんわ」
ミレーヌに返事をしながら、俺は鏡の中の自分を見る。
銀色の髪。
深い赤紫の瞳。
この小さな身体の中に、本当に魔法を使う力がある。
そう思うと、久しぶりに純粋な好奇心が湧いてきた。
「魔法のお勉強は、ミレーヌもしますの?」
「わたくしは別の先生から基礎だけ習っております。魔力そのものは、それほど強くありませんので」
「使えるの?」
「小さな灯りを作る程度でしたら」
「見せていただけます?」
思わず尋ねると、ミレーヌが少し困った顔をした。
「今でございますか?」
「駄目?」
「駄目ではございませんが……」
彼女は少し周囲を確認してから、化粧台の上に置かれていた小さな燭台へ手を向けた。
指先へ意識を集中させるように息を整える。
次の瞬間。
何もなかった空間に、淡い光が生まれた。
炎とは違う。
乳白色の小さな光が、彼女の指先から離れた場所へふわりと浮かび、そのまま数秒ほど留まっている。
「おお……」
思わず前世の口調が出た。
ミレーヌがこちらを見る。
「お嬢様?」
「……とても綺麗ですわね」
誤魔化す。
「初歩の初歩でございます」
「それでもすごいですわ」
俺からすれば十分魔法だ。
電気も機械も使わず、何もない空間に光が浮いている。
ゲームではボタン一つで派手な演出が出ていたが、現実に目の前で起きると印象がまるで違う。
「触れますの?」
「触ることはできません。熱もほとんどありませんので」
「どうやって出しているの?」
「体内の魔力を集めて、灯りの形になるように整える、と教わりました」
「それでできるの?」
「最初は何度も失敗いたしました」
やはり感覚だけではないらしい。
「消す時は?」
「魔力を送るのをやめます」
ミレーヌが指を下ろすと、光はゆっくり薄れ、何もなかったように消えた。
面白い。
純粋にそう思った。
破滅回避とは関係なく、これは学んでみたい。
「午後が楽しみになってきましたわ」
「お嬢様は、魔法がお好きなのですか?」
「まだ分かりません。ですが、今のところは興味があります」
以前なら「好きか嫌いか分からない」という答えを少し情けなく感じていた。
最近は、それでいいと思えるようになった。
知らないなら、試せばいい。
アレクシスへ言ったことが、そのまま自分にも返ってくる。
◇
礼法の授業は、筋肉痛の身体に思っていた以上の負担を与えた。
「背筋を伸ばしてくださいませ」
「伸ばしていますわ」
「普段より僅かに腰が引けております」
エルダ夫人は見逃してくれない。
「昨日、乗馬をしたのです」
「伺っております」
「少しくらい大目に見てくださっても」
「お怪我をされているのであれば、本日の稽古は中止いたします」
「怪我ではありませんわ」
「でしたら、普段通りなさいませ」
逃げ道がない。
俺は小さく息を吐きながら姿勢を直した。
こういうところが、ナディアなら違ったのだろうと思う。
きっと「昨日はお疲れなのですから、今日はお休みになっても」と言ったはずだ。
以前の俺なら、それを優しさとしか思わなかったかもしれない。
今は、エルダ夫人のような人が側にいてくれることのありがたさが少し分かる。
「お嬢様」
「はい」
「今、何か別のことをお考えになっていましたね」
「……どうして分かるのです?」
「姿勢が崩れましたので」
恐ろしい。
「申し訳ありません」
「謝罪ではなく、お直しくださいませ」
「はい」
この人には、今後も長くいてもらった方が良さそうだった。
◇
午後。
魔力基礎の授業は、公爵邸の西側にある小さな訓練室で行われることになった。
部屋そのものは思っていたより簡素だった。
床には淡い灰色の石材が敷かれ、壁際には棚と机が並んでいる。中央には何も置かれておらず、何らかの事故が起きても家具へ被害が出にくいようにしているのだろう。
窓も普通のガラスではなく、僅かに青みがかった厚い素材でできている。
「魔力を扱う場所ですので、ある程度の防護術式が施されております」
そう説明してくれたのは、本日から俺の魔力指導を担当する教師だった。
名前はヴィクトル・ラウゼン。
年齢は四十歳ほどで、焦げ茶色の髪を後ろへ撫でつけ、細い眼鏡をかけた男性だ。
貴族ではあるが爵位を継ぐ立場ではなく、王立魔法研究院にも所属しているらしい。
「初めまして、ヴェルシアナお嬢様。本日より魔力基礎を担当いたします、ヴィクトル・ラウゼンと申します」
「ヴェルシアナ・アルセリードです。よろしくお願いいたします」
丁寧に礼をすると、ヴィクトルは少しだけ目を細めた。
「以前、一度お会いしておりますが」
「……そうなのですか?」
「三歳の頃に魔力適性の簡易検査を行っております。もっとも、お嬢様がお覚えでないのも無理はございません」
また知らない過去が一つ増えた。
「その時の結果は?」
「非常に良好でした」
やはり。
ゲーム設定と一致する。
「どのくらい?」
聞くと、ヴィクトルが僅かに笑った。
「数字だけで優劣を考える年齢ではございません。それに、幼少期の魔力量は成長によって変化いたします」
「それでも、大体は分かるのでしょう?」
「好奇心がお強いのですね」
「最近、知らないことを減らしたいと思っておりますので」
「良いことでございます。ただし、魔法については、知識より先に一つ覚えていただきたいことがございます」
彼の声が少しだけ真面目になる。
「魔力が多いことと、魔法が上手いことは同じではございません」
なるほど。
「力が強くても、扱えなければ意味がない?」
「その通りです。たとえば水を大量に運べる器があったとしても、注ぎ方を知らなければ周囲を濡らすだけでしょう」
「分かりやすいですわね」
「ですので、本日は何か派手な魔法を使っていただく予定はございません」
少し残念だ。
顔に出たのだろう。
ヴィクトルが笑う。
「お嬢様ほどのお年であれば、皆様似たようなお顔をなさいます」
「皆、すぐ魔法を使いたがるの?」
「炎を出したい、風を起こしたい、物を浮かせたいと仰る方が多いですね」
「わたくしも少し思いましたわ」
「正直で結構です」
第一印象は悪くない。
ナディアから何か聞かされている様子もなく、こちらを公爵令嬢だからと特別扱いしている感じも薄い。
「まずは魔力を感じるところから始めましょう」
ヴィクトルが卓上へ透明な石を置いた。
掌に収まるくらいの大きさで、表面は滑らかに磨かれている。
「これは?」
「感応石と呼ばれるものです。魔力を流すと反応して光ります。高度な測定器ではございませんが、幼い方が魔力を意識するためには便利な道具です」
「触ればいいの?」
「まずは両手で持ってください。その上で、身体の中にある温かさを探すように意識してみてください」
曖昧だ。
「温かさ?」
「初めは皆様そう仰います。しかし魔力というものは、言葉だけで完全に説明することが難しいのです。呼吸や身体の動かし方と同じで、感覚を掴んでいただく必要があります」
俺は感応石を両手で包んだ。
冷たい。
普通の石にしか感じない。
目を閉じる。
身体の中にある温かさ。
そう言われても、血が流れている感覚くらいしか分からない。
「分かりませんわ」
「最初はそれで構いません。焦らず、呼吸を整えてください」
息を吸う。
吐く。
前世でヨガでもやっておけば役に立ったかもしれない。
そんなくだらないことを考えながら、意識を身体の内側へ向ける。
心臓の鼓動。
呼吸。
指先。
腹のあたり。
特に何も感じない。
もう一度呼吸を整える。
その時だった。
胸の奥、あるいは腹の奥なのか、自分でも場所を正確に言えないところに、僅かな熱のようなものを感じた。
体温とは違う。
もっと小さく、意識を向けると逃げるような感覚。
「何か……ありますわね」
呟く。
「追いかけようとなさらず、そのまま感じてください」
ヴィクトルの声が聞こえる。
言われた通り、無理に掴もうとしない。
すると、先ほどより輪郭が分かる。
身体の中心に、水でも光でもない何かがある。
それを感応石へ流す。
どうやって、と考えた瞬間には難しくなる。
手の中へ移すように意識する。
すると。
石の中心に、小さな光が生まれた。
「……おお」
また前世の声が出た。
今度は誰も突っ込まなかった。
なぜなら、ヴィクトルも少し驚いた顔をしていたからだ。
透明だった石の中へ淡い紫色の光が広がり、次第にその輝きが強くなっていく。
「そのままでございます。無理に増やさず――」
言い終える前に、石全体が明るく輝いた。
眩しい。
思わず目を細める。
「お嬢様、止めてください」
「どうやって?」
「先ほどと逆です。石へ流すのをやめるだけで構いません」
意識を身体へ戻す。
すると光はゆっくりと弱まり、最後には完全に消えた。
「……これで?」
「はい」
ヴィクトルが感応石を受け取り、何度か角度を変えながら確認する。
「壊しました?」
「いいえ。そこまで脆いものではございません」
「では、どうしてそんな顔をしているの?」
尋ねると、彼は少しだけ考えたあとで答えた。
「予想していたより、随分と魔力の流れが素直でしたので」
「良いこと?」
「基本的には」
基本的には、というところが気になる。
「悪いこともありますの?」
「力を流しやすい方は、逆に一度に出しすぎることもございます。今のお嬢様は、こちらが止めるまで感応石へ魔力を送り続けておりました」
「危ない?」
「現時点では、そこまでではございません。ただし、今後もっと大きな術を使うようになった時には、出力の調整を覚える必要がございます」
なるほど。
ゲームでは「魔力が高い」という一言で済んでいたが、現実では強ければ良いという話ではないらしい。
「三歳の時も、同じでしたの?」
「当時は魔力量を測定しただけですので、操作については見ておりません。ただ、適性そのものはかなり高いと判断されております」
「どの属性が得意なのです?」
ゲームには属性の概念があった。
火、水、風、土、光など、複数の系統があり、キャラクターによって得意不得意が違う。
ヴィクトルはすぐには答えなかった。
「それを確認するには、もう少し基礎を学んでいただいてからの方がよろしいでしょう」
「今は分からない?」
「大まかな反応はあります。しかし幼少期は変化しやすく、今の段階で『お嬢様はこれが得意です』と決めつけますと、本人が無意識にその系統ばかり意識することがございます」
少し意外だった。
「決めない方がいいのですね」
「可能性を狭める必要はございませんから」
その言葉に、少しだけ好感を持った。
この人は最初から答えを与えない。
俺が最近ずっと大切にしようとしていることと、よく似ている。
「先生」
「はい」
「わたくしが魔法を上手く使えなくても、怒りません?」
何気なく聞く。
ヴィクトルは少し不思議そうな顔をした。
「なぜ怒る必要がございますか?」
「才能があると言われたのに、できなかったら」
「才能があることと、最初から何でもできることは別でございます」
即答だった。
「失敗するために練習するのです。最初から成功するのであれば、わたくしは必要ございません」
良い教師だ。
そう思った。
そして同時に、少しだけ怖くなる。
元のヴェルシアナにも、この人のように普通に失敗を許し、同時にきちんと直してくれる教師がいたのかもしれない。
けれど、そういう人ほど彼女の側から消えていったのだとしたら。
今度は、俺が残さなければならない。
「でしたら、たくさん失敗するかもしれませんわ」
「どうぞ。ただし、同じ失敗を何度も繰り返す場合は注意いたします」
「それは仕方ありませんわね」
「ご理解いただけて何よりです」
ヴィクトルの口元が僅かに緩んだ。
◇
最初の授業で行ったのは、本当に地味なことばかりだった。
感応石へ一定量の魔力を流し、光を強くしすぎないように保つ。
次に、流す量を少しずつ増減させる。
最後には五秒だけ光らせて止める。
ゲームで見た炎や氷の魔法とは比べものにならないほど地味だ。
けれど、やってみると案外難しい。
俺は魔力を流すこと自体はすぐにできたものの、細かく調整するのが苦手だった。
弱くしようとすると急に消え、強くしようとすると一気に明るくなる。
「お嬢様は、力を出すことより抑える方に慣れていただいた方が良さそうですね」
「性格の話みたいですわね」
「魔法には性格が出るとも申します」
「本当ですの?」
「半分は冗談でございます」
「先生」
「失礼いたしました」
意外とこういう人らしい。
授業の最後には、指先ほどの小さな光を作る練習もした。
ミレーヌが朝見せてくれたものと同じ魔法だ。
簡単だと言っていたくせに、これが難しい。
魔力を集める。
形を意識する。
外へ出す。
頭の中で理解していても、実際にはうまくいかない。
一度目は何も起きず、二度目は指先で紫色の光が瞬いただけで消えた。
三度目には少し大きくなったものの、球の形を保てず、霧のように散ってしまった。
「もう一度お願いしますわ」
「少し休憩なさってください」
「まだできます」
「魔力を使う練習は、身体が疲れていないように感じても休む必要がございます。特に幼い頃は、自分の限界を正確に把握できません」
まだやりたい。
そう思った。
しかし同時に、以前のヴェルシアナならここで「まだできる」と押し通したのかもしれないとも思う。
「……分かりましたわ」
俺が素直に手を下ろすと、ヴィクトルが少しだけ目を細めた。
「何ですの?」
「いえ」
「今、何かございましたでしょう?」
「以前のお嬢様でしたら、もう一度と言われた場合、止めることが少々難しかったものですから」
やはり、この人も以前のヴェルシアナを知っている。
「わたくし、先生にも我儘を言っていたの?」
「三歳の頃に一度お会いしただけでございますので、我儘と呼ぶほどでは。ただ、測定器をもっと光らせたいと仰って、終わりにするまで少し時間がかかりました」
「……そうでしたのね」
「幼いお子様としては、ごく普通のことでございます」
すぐに付け加えられた。
それが少し嬉しかった。
最近、昔の自分の話を聞くたびに「悪かった証拠」を探すような気持ちになっていたのかもしれない。
けれど、三歳の子供が光る石でもっと遊びたがったくらいなら、本当に普通だ。
「先生」
「はい」
「昔のわたくしは、魔法を楽しんでいました?」
ヴィクトルは記憶を探すように少し考えた。
「楽しんでおられたと思います。石が光るたび、とても嬉しそうに笑っておられましたので」
知らない記憶なのに、その場面が少しだけ想像できた。
銀髪の三歳児が、光る石を両手で持って喜んでいる。
ゲームの悪役令嬢とはまるで結びつかない姿だ。
「そうですか」
俺も少し笑った。
「では、今度も好きになれるかもしれませんわね」
「それは、お嬢様がお決めになることでございます」
「はい」
その答えも気に入った。
◇
授業が終わり、部屋を出る頃には、朝から痛かった脚より頭の方が疲れていた。
「お嬢様、お疲れではございませんか?」
廊下で待っていたミレーヌがすぐに尋ねる。
「少し。でも、面白かったですわ」
「魔法が?」
「ええ。思っていたより難しいです」
「お嬢様でも?」
「わたくしを何だと思っていますの?」
ミレーヌは少し困ったように笑った。
「皆様がお嬢様は魔力に恵まれていると仰っておりますので、すぐお出来になるのかと思っておりました」
「先生にも、魔力が多いことと魔法が上手いことは違うと言われましたわ」
「そうなのですね」
「それに、光を作るのはミレーヌの方が上手でした」
そう言うと、彼女が明らかに驚いた。
「わたくしの方が?」
「今のところは」
「本当に?」
「ええ。今日は何度やっても途中で消えてしまいましたもの」
ミレーヌは何とも言えない顔をした。
嬉しそうでもあり、喜んでいいのか迷っているようでもある。
「何ですの、その顔は」
「お嬢様より上手だと言われたことがありませんでしたので」
その一言に、少しだけ胸が引っかかった。
「昔のわたくしは、そういうことを嫌がりました?」
「……少しだけ」
遠慮した答えだ。
たぶん「少し」ではない。
「では今度、わたくしに教えてくださいな」
「わたくしが、お嬢様へ?」
「ミレーヌの方が今は上手なのでしょう?」
「ですが、ヴィクトル先生が」
「先生から習うのと、ミレーヌにコツを聞くのは別ですわ。できる人に聞いた方が早いこともあるでしょう?」
ミレーヌはしばらく俺を見つめた。
そして、少しだけ嬉しそうに笑った。
「では、わたくしでよろしければ」
「お願いします」
自分より上手い人に教わる。
たったそれだけのことだ。
前世なら何も考えなかった。
けれど、この世界のヴェルシアナにとっては、その「たったそれだけ」が意外に重要なのだと思う。
公爵令嬢だから。
才能があるから。
誰より優れているべきだから。
そんなものを一つずつ外していけば、できないことを恥ずかしがる必要もなくなる。
むしろ、今は少し楽しい。
できなかったものが、できるようになる。
その感覚を、俺は前世でも嫌いではなかった。
◇
夕食の席で魔力基礎の話をすると、母は予想通り喜んだ。
「ヴィクトル先生からも、最初の授業は順調だったと聞いたわ」
「もう報告が?」
「あなたの教育担当ですもの」
早い。
この家では、娘が何をしたのか両親へ伝わる速度が本当に速い。
「魔力の流れがとても良いそうね」
「でも、細かく調整するのは苦手だそうですわ」
「最初から全部できる必要はない」
父が言った。
その言葉が少し意外で、思わず顔を見る。
「お父様も魔法を?」
「ああ」
「お得意なの?」
「人並み以上には」
「お父様の場合、それはかなり強いという意味ではありません?」
母が笑う。
「その通りよ。あなたのお父様は、昔から自分のことを控えめに言いすぎなの」
「必要以上に誇る理由がない」
「でも娘が知りたがっているのですもの」
この二人のやり取りにも慣れてきた。
「お母様は?」
「わたくしは補助系統の魔法が得意よ。今度見せてあげるわ」
「本当?」
「ええ。あなたがもう少し基礎を覚えてからね」
また楽しみが増えた。
「わたくしは、どんな魔法が得意になるのでしょう」
何気なく口にすると、母が少し考える。
「昔の検査では、複数の系統へ反応が出ていたはずよ」
「複数?」
「珍しくはあるが、今の段階では意味を決める必要はない」
父がヴィクトルと同じようなことを言う。
「先生にもそう言われましたわ」
「なら、その通りにしろ」
「お父様は気になりませんの?」
「なる」
「では教えてくださっても」
「お前自身が学びながら知った方がいい」
少しだけ驚いた。
以前なら、父は必要な情報をすぐ与えてくれる人だと思っていた。
けれど最近は、俺が自分で考えることを意識しているのを知っているからか、答えを先に渡さないことも増えている。
「分かりましたわ」
「不満そうだな」
「少しだけです」
「我慢しろ」
「厳しいですわね」
母が楽しそうに笑う。
その時、食堂の入口付近で控えていたナディアが、会話へ加わった。
「お嬢様でしたら、きっと素晴らしい魔法をお使いになられますわ」
いつもの柔らかな声だった。
「昔から、誰よりも強い魔力をお持ちでしたもの」
以前なら、ただ褒められているだけだと思っただろう。
今も、悪意があるとは感じない。
「ありがとうございます」
俺は普通に礼を返す。
その上で、少し考えてから続けた。
「でも、今日は上手くできないこともたくさんございましたの。灯りの魔法など、ミレーヌの方がお上手でしたわ」
ナディアの視線が、僅かにミレーヌへ向いた。
「左様でございましたか」
「ええ。今度コツを教えていただくことにしました」
その場の空気は変わらなかった。
父も母も普通に食事を続けている。
けれどナディアだけが、ほんの僅かに間を置いた。
「ヴィクトル先生がおられるのですから、お嬢様がわざわざ侍女見習いから教わられる必要はないのではございませんか?」
やはり。
ただ、今日はそれを追及する気にはならなかった。
「先生からも習いますわ。でも、ミレーヌは今のところわたくしより上手なのですもの。上手な方から聞くのは悪いことではないでしょう?」
「もちろん、お嬢様がお望みなのでしたら」
ナディアはいつものように微笑んだ。
それ以上は何も言わない。
俺もそこで話を終えた。
最近少しずつ分かってきたことがある。
ナディアのすべての言葉へ、その場で答えを出す必要はない。
何か引っかかれば覚えておけばいいし、判断できなければ他の人にも聞けばいい。
以前の俺は彼女を警戒するあまり、一言一言の裏側を探しすぎていたのかもしれない。
それでは逆に、ナディアという人間だけへ意識を縛られることになる。
俺には他にも知るべきことがある。
この家の外にも世界があり、魔法があり、友人がいて、これから出会う人間もいる。
ナディアが重要な存在だからといって、俺の人生の中心まで彼女にする必要はない。
◇
夕食を終えたあと、ミレーヌが約束通り灯りの魔法を教えてくれることになった。
もちろん勝手に練習するわけではない。
ヴィクトルから「一回につき数分程度なら、感覚を忘れないために復習してもよい」と許可をもらっている。
場所は自室。
俺は椅子へ座り、ミレーヌは隣へ立っていた。
「では、やってみますわ」
「はい」
指先へ意識を向ける。
魔力を集める。
昼間よりは感覚を掴みやすい。
そこから光の形を思い浮かべる。
小さく。
丸く。
強くしすぎない。
指先に紫色の光が生まれた。
しかし、数秒もしないうちに形が崩れて消える。
「またですわ」
「お嬢様は、光を作ろうとした時に一度に魔力を送っているように見えます」
「どういうこと?」
「わたくしは、少しずつ息を吐くような感じで出しています」
「息?」
「はい。全部を一度に出すのではなくて、細く長く」
分かりやすい。
もう一度試す。
今度は押し出すのではなく、細い糸を引くようなイメージを持つ。
指先に光が現れる。
先ほどより小さい。
けれど、消えない。
「できています!」
ミレーヌが嬉しそうに声を上げる。
「本当ですわね」
俺も思わず笑った。
小さな紫色の光が、指先の少し上でふわりと浮かんでいる。
ゲームで見れば、演出にもならないような初歩魔法だ。
それでも、自分の力で初めて成功したと思うと妙に嬉しい。
「ミレーヌのおかげですわ」
「わたくしは少しお伝えしただけでございます」
「それでも、先生の説明より分かりやすかったです」
「ヴィクトル先生に聞かれたら怒られてしまいます」
「内緒にしておきましょう」
光を保ったまま二人で笑う。
やがて魔力を止めると、小さな光は空気へ溶けるように消えた。
「もう一度なさいますか?」
ミレーヌが聞く。
やりたい。
けれど、昼間ヴィクトルから言われたことを思い出す。
幼い頃は、自分で限界を正確に判断しにくい。
「今日はここまでにしますわ」
俺が答えると、ミレーヌが少し驚いた顔をした。
「よろしいのですか?」
「先生に、無理をしないよう言われましたもの」
「お嬢様、以前でしたらもっとやりたいと仰っていたかもしれません」
「あなたまで昔のわたくしと比べるようになりましたの?」
「申し訳ございません」
「怒ってはいませんわ」
少し笑う。
「でも、わたくし自身もそう思います」
もっとやりたい。
できるまで続けたい。
その気持ちは今もある。
だからこそ、止める練習も必要なのだろう。
魔法でも、感情でも。
力があることと、力を使うべき時を知っていることは違う。
今日の授業でヴィクトルが言った「魔力が多いことと魔法が上手いことは同じではない」という言葉は、思っていた以上に色々なことへ当てはまりそうだった。
◇
眠る準備を終え、寝台へ入ってからも、俺はしばらく自分の手を眺めていた。
この小さな掌から、さっき確かに光が生まれた。
それだけでも、この世界が前世とはまるで違う場所であることを改めて実感する。
魔法を使える。
しかも、おそらく俺にはかなり高い適性がある。
ゲームのヴェルシアナが持っていた「恵まれたもの」の一つだ。
以前の俺なら、それを純粋な強みとして考えていただろう。
魔力が高ければ有利。
強い魔法が使えれば、自分の身も守れる。
破滅を避けるための手札が一枚増える。
もちろん、それも間違いではない。
けれど今日、実際に魔力を扱ってみて分かった。
大きな力があること自体は、何かを保証してくれるわけではない。
上手に扱えなければ、光一つすら安定しない。
自分がどれほど恵まれていたとしても、その使い方まで最初から与えられているわけではないのだ。
それは、たぶん元のヴェルシアナにも同じことが言える。
彼女は多くのものを持っていた。
高い身分も、美しい容姿も、強い魔力も、両親からの愛情も、何不自由なく学べる環境もあった。
けれど、それらをどう使えばいいのかまでは誰も代わりに決められない。
むしろ周囲が何でも整えてくれたことで、自分の力をどう扱うべきか考える機会を失った部分すらあったのかもしれない。
力が強いほど、扱い方を間違えた時の影響も大きくなる。
五歳の公爵令嬢が怒れば、使用人が仕事の時間を変える。
将来、十五歳の公爵令嬢がもっと大きな力を持った状態で同じことをすれば、その影響は比べものにならないだろう。
だから俺は、強くなることそのものを目的にはしたくなかった。
魔法を学ぶ。
できることを増やす。
それは楽しそうだし、いざという時に自分や誰かを守る力にもなる。
ただし、その力を持っているから自分が正しいのだと勘違いしないこと。
それだけは忘れないようにしたい。
机の上では、昼間使った練習帳が閉じたまま置かれている。
俺は寝台から起き上がることはせず、明日そこへ一つだけ書いておこうと思った。
持っているものと、それを上手く使えることは別。
身分でも。
魔法でも。
きっと人との関係でも同じだ。
そんなことを考えながら目を閉じると、今日は昼間から頭を使いすぎたせいか、眠気はすぐにやってきた。
最後に思い浮かんだのは、紫色の小さな光だった。
原作のヴェルシアナがどれほど強い魔法を使えたのか、俺はまだ詳しく覚えていない。
けれど、少なくとも今の俺は、最初に成功した小さな灯り一つで十分嬉しかった。
その気持ちを覚えていられるうちは、きっと大丈夫なのだと思う。
才能があるから楽しいのではなく、知らなかったことが少しずつできるようになるから楽しい。
そういう当たり前の感覚を、これから先も失わずにいられればいい。
そしていつか本当に強い魔法を使えるようになった時にも、今日ミレーヌから教わった小さな灯りを思い出せる自分でいたいと思った。




