閑話 王冠を置けない父は、未来に名をつけない
アルディオン・アルヴェネアは、息子を無口な子供だと思ったことはなかった。
尋ねられれば答えるし、自分の考えを求められれば、六歳なりに時間をかけて言葉を選ぶ。分からないことを知ったふりで誤魔化すより、まず考えようとする性質は、教師たちからも悪くない評価を受けていた。
ただ、自分から話を長くすることは少ない。
学問について尋ねれば、その日に覚えたことを答える。剣術ならば、できたことと、まだできないことを話す。乗馬についてだけはいくらか言葉が増えるものの、それでも必要なことを伝え終えれば、そこで口を閉じる。
王太子として見れば、よくできた子供なのだろう。
父親としては、ときどきもう少しくらい、何の役にも立たない話をしてくれてもいいと思う。
もっとも、その原因の一端が王宮という場所にあることも、アルディオンは理解していた。
王太子の「好き」は、ただの好きでは済まない。
菓子を一つ褒めれば、次の宴にも同じものが並ぶ。花の色を気に入れば、それを聞いた誰かが覚え、気づけば「殿下のお好み」として扱われている。逆に嫌いだと言えば、本人が望んだ以上に周囲が遠ざけようとする。
子供の何気ない言葉へ、大人が勝手に重さを足していく。
それが宮廷だった。
だから、その日の夕食後。
私室で向かい合って茶を飲んでいた息子が、一つの話題についていつもより長く話していることに気づいても、アルディオンはすぐには指摘しなかった。
「今日は、ルークスの機嫌がよかったのです」
窓の外では、夕刻の青が静かに夜へ沈みつつあった。
ここは謁見のための広間ではない。王族が私的に使う部屋である。それでも天井は高く、壁際には幾段もの書棚が並び、大きな窓の向こうには王宮の庭園が広がっている。
昼の光を失った窓硝子には、庭よりも室内の灯火の方が濃く映っていた。
「機嫌の悪い日もあるのか?」
「悪いというほどではありません。ただ、鞍を載せる時に落ち着かないことがあります。今日は最初から静かでした」
「お前が慣れたから、向こうも落ち着いているのかもしれんな」
アレクシスは少し考えてから頷いた。
「それもあると思います」
馬の話なら、普段からこれくらいはする。
アルディオンがそう思った直後、アレクシスは卓上の茶へ視線を落としたまま続けた。
「ヴェルシアナ嬢の馬は、フィアという名前でした」
「そうか」
「毛の色がとても明るくて、おとなしい馬です」
「公爵令嬢も乗ったのだな」
「はい」
答えが、わずかに早かった。
アルディオンはそれを聞き流すように茶器へ手を伸ばす。
「一度、姿勢を崩しかけた時がありました。でも、すぐに自分で直していました」
「よく見ていたのだな」
何気なく返すと、アレクシスは一瞬だけ口を閉じた。
「近くにいましたから」
「なるほど」
それ以上は追及しない。
近くにいたのは事実なのだろう。
しかし、同じ場所にいたからといって、相手が一度だけ手綱を握り直したことまで、誰もが覚えて帰るわけではない。
その程度のことは、アルディオンにも分かる。
だからこそ、口にはしなかった。
気づいたことをすべて指摘するのは、観察ではなく干渉になる。
「少し速くなった時には、手に力が入っていました」
アレクシスがさらに続ける。
「怖がっていたのか?」
「たぶん。でも、すぐ止めてもらうことはしませんでした」
「無理をしているようには見えなかった?」
「いいえ。怖いからやめるというより、怖いけれど、もう少しやってみようとしているように見えました」
アルディオンは、茶器を置いた。
息子の話し方が、以前とは少し違っている。
最初にヴェルシアナと会った頃、アレクシスは彼女を慎重に見ていた。
会う前に耳へ入っていた話と、実際に目の前で言葉を交わした少女とが、うまく重ならなかったのだろう。
ヴェルシアナ自身が、過去に何もなかったような顔をせず、以前とは違うようになりたいと口にしたことも聞いている。
あの時の息子は、目の前の少女を知ろうとする一方で、聞かされていた話も忘れないようにしていた。
それが間違っているとは思わない。
むしろ、簡単にどちらかへ決めつけなかったことを、アルディオンは好ましく思っていた。
ただ、今夜アレクシスが話しているのは、もう「噂と違っていた」という話ではない。
手綱へ力が入ったこと。
怖くても続けようとしたこと。
姿勢を崩したあと、自分で立て直したこと。
知らなくても何一つ困らない、小さなことばかりだった。
どうやら息子は、聞いていた公爵令嬢と目の前の公爵令嬢を比べる段階から、少しずつ先へ進んでいるらしい。
「それから、僕のことも見ていました」
アレクシスが言った。
「どういう意味だ?」
「ルークスに乗っているところをです」
「一緒に乗っていたのなら、見ることもあるだろう」
「それは、そうなのですが」
息子は言葉を探すように少し視線を落とした。
「手綱の扱いが自然だと言われました。練習しているのですね、とも」
その声音に、ごく薄い明るさが宿る。
アルディオンはそれを聞いても、すぐには何も言わなかった。
「嬉しかったか?」
やがて尋ねると、アレクシスは考え込んだ。
問いを向けられた時、正しい答えを返そうとする癖がある。
それが見えたので、アルディオンは先に付け加えた。
「分からないなら、分からないでも構わん」
アレクシスが顔を上げる。
「父上が聞いたのに、ですか?」
「私が尋ねたことに、その場で必ず答えが見つかるとは限らない」
「ですが、先生は質問には考えて答えるようにと」
「今は授業ではない」
それだけ言うと、アレクシスはしばらく父親を見つめたあと、ほんの少し肩の力を抜いた。
「……嬉しかったと思います」
「そうか」
「たぶん、ですが」
「それなら十分だ」
アレクシスは頷いた。
けれど、今日はそこでも話を終えなかった。
「上手だと言われたからではないと思います」
アルディオンは黙って続きを待つ。
「練習していることに気づいてくれたから、だと思います」
その言葉には、先ほどより少しだけ迷いが少なかった。
「上手だとは、よく言われるのか?」
「先生方には」
「そうだろうな」
「でも、練習したのですね、と言われることは、あまりありません」
それは大人なら聞き流してしまうほど小さな違いだった。
王太子が何かをできるようになれば、周囲は成果を褒める。
立派です。
さすがでございます。
将来が楽しみです。
そのどれにも悪意はない。
けれど、王太子という肩書きは、ときに結果だけを先に見せる。
そこへ至るまで何度失敗したのか、何度やり直したのかという部分は、本人と教師以外には見えにくい。
五歳の公爵令嬢がどこまで考えて言ったのかは、もちろん分からない。
ただ息子には、その言葉が残った。
今は、その事実だけでいい。
「ヴェルシアナ嬢は、人のことをよく見ているのかもしれないな」
何気なく言うと、アレクシスは少し考えてから頷いた。
「そうかもしれません」
そして、何かを思い出したらしい。
「木剣のことも覚えていました」
「最初に会った時に話したことか」
「はい」
それならアルディオンも覚えている。
アレクシスが木剣の稽古を好んでいることは、二人が最初に言葉を交わした時に話題へ上がっていた。
「今も続けているのかと聞かれました」
「続けていると答えた?」
「はい」
「それで?」
アレクシスは一瞬だけ黙った。
「今も好きなのですか、と」
「上手になったかではなく?」
「はい」
息子はその違いを覚えている。
「好きだと答えました。昨日できなかったことが、今日は少しできるようになるのが楽しいので」
「そこまで公爵令嬢に話したのか?」
「全部ではありません」
「では、今の説明は私向けか」
アレクシスは口を閉じた。
少し困ったように茶器へ視線を落とす。
「父上が尋ねるからです」
「私の質問より、ずいぶん先まで答えたように思うが」
息子の眉が僅かに寄った。
真面目に反論を考え始めたらしい。
アルディオンはそこでやめた。
面白がって突けば、次からはきっと慎重になる。
ただでさえ言葉を選ぶ子供なのだ。
自分から話したくなった夜くらい、そのまま話させてやればいい。
「そういえば」
アレクシスが、自分から話題を変えた。
「ヴェルシアナ嬢は、豆は嫌いではないそうです」
アルディオンは一度だけ瞬きをした。
「その話は前にも聞いた気がするな」
「僕が話しましたか?」
「ああ」
「覚えていません」
「豆の話は覚えているのにか」
アレクシスは少し真剣な顔になった。
「嫌いなものですから」
「そこまで重要か」
「重要です」
迷いのない答えだった。
アルディオンは笑いを堪えきれず、ほんの僅かに口元を緩めた。
「何かおかしいでしょうか」
「いや。王太子にも譲れない問題があるのだと思っただけだ」
「豆は譲りたくありません」
「意味が違う」
説明する気も失せて、アルディオンは茶を飲んだ。
向かいのアレクシスは、まだ少し納得していない顔をしている。
公の場では滅多に見せない、年齢相応の表情だった。
こういう顔を見るたびに、アルディオンは王太子と息子の間にある距離について考える。
同じ一人の少年なのに、周囲の目が変わるだけで、見えるものまで変わってしまう。
王である自分も、油断すれば同じことをするのだろう。
外はすっかり暗くなっていた。
窓硝子に映る室内の灯りが濃くなり、その向こうでは、回廊を行く衛兵の影が時折静かに横切っている。
そろそろ息子を寝室へ戻さなければならない時間だった。
その直前、アレクシスがふいに口を開いた。
「父上」
「何だ」
「前のことは、忘れてはいけないのでしょうか」
話題が変わったように聞こえた。
だが、息子の顔を見れば、まったく別の話ではないらしい。
「何についてだ?」
「ヴェルシアナ嬢です」
アルディオンは茶器を置いた。
「最初に会った時、ヴェルシアナ嬢は、以前とは違うようになりたいと言っていました」
「ああ」
「あの時は、今のヴェルシアナ嬢を見ればいいと思いました」
アレクシスは膝の上で指を組み直す。
「でも、前にあったことまで、なくなるわけではありません」
「そうだな」
「だから、全部忘れてしまうのも違う気がします。でも、前の話だけで決めるのも……違うと思います」
最後は少し自信がなさそうだった。
アルディオンはすぐには答えなかった。
六歳の子供には、少々厄介な問いだ。
だが、それを考え始めたこと自体は悪くない。
一度したことを、変わったという一言だけで消すことはできない。
反対に、一度したことだけを見て、その後のすべてまで同じだと決めることもできない。
国王という立場にあれば、似た問題はいくらでも現れる。
失敗した者をいつまで疑うのか。
功績を積めば過去は消えるのか。
人が変わったと、何をもって判断するのか。
簡単な答えなどない。
だからこそ、六歳の息子へ綺麗に整えすぎた答えを渡す気にもなれなかった。
「忘れなくてもいい」
アルディオンは言った。
「ただ、前のことだけで、今の相手を全部決める必要もないだろう」
「両方を見るのですか?」
「できる範囲でな」
「……難しいですね」
「ああ」
アレクシスは意外そうな顔をした。
「父上でも難しいのですか?」
「人を見ることが簡単なら、王という仕事も今より楽だっただろうな」
息子は少し目を丸くしたあと、僅かに笑った。
「父上でも、分からないことがあるのですね」
「山ほどある」
「何でも知っているのかと思っていました」
「誰からそんな話を聞いた」
「誰からも聞いていません」
「なら、お前の勘違いだ」
「そうなのですか」
「ああ。ずいぶん都合のいい父親を想像していたな」
アレクシスの口元に、今度ははっきり笑みが浮かんだ。
その笑顔が消えるのを待ってから、アルディオンは続ける。
「今すぐ全部決めなくていい。次に会うことがあれば、その時に見えたものをまた考えればいい」
「次に?」
アレクシスが顔を上げる。
「会いたくないなら、その必要はないが」
ほんの少しだけ意地悪く言った。
息子は一度黙り、それから先ほどまでより短い迷いで答えた。
「……会いたいです」
アルディオンは表情を変えなかった。
「そうか」
「はい」
「理由は?」
問いを向けると、アレクシスはまた考え込んだ。
馬の話ができるから。
木剣のことを覚えていてくれたから。
努力に気づいてもらえたことが嬉しかったから。
いくつか答えはありそうだった。
けれど、やがて息子が選んだのは、そのどれでもない。
「まだ、知らないことが多いので」
アルディオンは静かに息を吐いた。
いかにもアレクシスらしい。
そして、その答えが少しだけ嬉しかった。
相手を分かったと思ったから近づくのではない。
分からないから、もう少し知りたい。
六歳の子供にとっては、それくらいの理由で十分だろう。
「なら、また会えるかどうかは聞かせよう」
アレクシスの青い瞳が僅かに明るくなった。
「よろしいのですか?」
「こちらから希望を伝えるだけならな。アルセリード家にも予定があるし、ヴェルシアナ嬢がどう思っているかもある」
「はい」
「こちらが会いたいと言ったからといって、向こうも同じとは限らない」
「分かっています」
返事は素直だった。
最初に顔を合わせた時、アレクシスは婚約を喜んでいるか分からないと口にした。
ヴェルシアナもまた、ほとんど知らない相手とのことをすぐ決めることはできないと答えたという。
あれから互いに少しずつ話をした。
それでも、知らないことの方が圧倒的に多い。
けれど今、息子はその「知らない」を嫌がっていない。
もう一度会う理由にしている。
アルディオンには、それで十分だった。
◇
アレクシスが寝室へ戻ったあと、卓上には二人分の茶器だけが残った。
息子が座っていた椅子は少し後ろへ引かれたままで、つい先ほどまでそこにいた人間の気配を、妙に素直に残している。
アルディオンは窓辺へ立った。
王宮の夜は静かだった。
けれど、それは眠りの静けさではない。
灯りの落ちた回廊にも衛兵がいる。執務棟ではまだ書類を読む者がいて、地方から届いた報告は夜のうちにも人から人へ渡されていく。
王が私室へ戻ったからといって、王国まで休んでくれるわけではなかった。
そして王自身もまた、扉を閉めたからといって、完全に父親だけになることはできない。
アレクシスが誰と会うのか。
誰を好ましく思うのか。
誰の言葉を覚えて帰るのか。
本来なら子供同士の小さな出来事でしかないものに、王太子という身分は後からいくつもの意味をまとわせていく。
まして相手がアルセリード公爵家の一人娘ならば、その意味はさらに大きい。
王家と公爵家。
将来の婚姻。
貴族たちの均衡。
政治として考え始めれば、数えられるものはいくらでもあった。
この縁が王家にとって悪くないことくらい、アルディオンには誰かに説明されるまでもなく分かっている。
だからこそ、今夜までその話を持ち込む必要はないと思った。
息子が話したのは、王太子妃としてのヴェルシアナではない。
馬の上で少し手に力を入れて、それでも降りずにいた少女のことだった。
自分が練習していることへ気づいてくれた少女であり、木剣を今も好きなのかと尋ねた少女だった。
それらを、アレクシスは普段より少し多く言葉にして持ち帰ってきた。
その小ささを、アルディオンは悪くないと思った。
「陛下」
少し離れた場所から、控えていた側近が声をかける。
「何だ」
「殿下は、本日は随分楽しそうでいらっしゃいましたね」
「そう見えたか」
「はい。アルセリード公爵令嬢のお話をなさっている時は、特に」
アルディオンは窓の外を見たまま答えなかった。
側近は有能な男だった。
有能だからこそ、王太子と公爵令嬢という二つの名を聞けば、その先にあるものまで考える。
職務としては正しい。
「両家のお話も、少し進めておきましょうか」
やはり、そうなる。
「いや」
短く答えると、側近は僅かに間を置いた。
「よろしいのでございますか」
「アレクシスが言ったのは、また会いたいということだけだ」
「ですが、お二人が良好な関係を築かれているのでしたら――」
「それは喜ばしい」
アルディオンはそこで初めて振り返った。
「だが、喜ばしいことを、すぐ別の話へ変える必要もないだろう」
側近は少し考え、一礼した。
「では、次にお会いする機会のみ整えますか」
「アルセリード家へ都合を尋ねてくれ。こちらが日を決めて押しつける必要はない」
「承知いたしました」
「婚約の話は添えなくていい」
「そちらも、承知いたしました」
側近が下がったあと、アルディオンは再び窓へ目を向けた。
硝子には自分の姿が薄く映っている。
もちろん、王冠など被ってはいない。
私室でまで頭に載せていたら、重くて仕方がない。
それでも王という立場は、装身具のように外して机へ置けるものではなかった。
息子と茶を飲んでいる時でさえ、自分の中には王として物を見る目が残る。
アレクシスが公爵令嬢へ関心を持った。
その一言から将来を考えることもできる。
両家にとって何が得になるのかを計算することもできる。
王としてなら、それを無視する方が不自然だった。
けれど、計算できることと、今すぐ計算することは同じではない。
今夜アレクシスが持ち帰ったものは、まだそんなに大きくない。
知らないことが多いから、もう一度会いたい。
ただ、それだけだ。
恋と呼ぶには早すぎる。
婚約への意思と呼ぶなら、なおさら違う。
友人という言葉さえ、今ここで父親が決めてやる必要はないのかもしれない。
まだ名のない関心は、名のないままでも存在できる。
何に育つのか分からないからこそ、今の形を急いで決める必要はなかった。
窓の外では、細い月が雲の切れ間に浮かんでいる。
満ちるにはまだ遠く、夜を照らすには頼りないほどの光だった。
けれど、欠けているから未完成なのではない。
ただ、今はその形をしている。
息子の中に芽生えたものも、おそらく同じなのだろう。
王冠を置くことのできない父親にも、まだ何者でもない未来を、そのまま眺めていられる夜くらいはある。
アルディオンは冷めかけた茶へ手を伸ばした。
次にアレクシスがあの銀髪の少女と会えば、今度は何を覚えて帰ってくるのだろう。
それを少し楽しみにしている自分の感情についても、今夜はまだ、名前をつけないことにした。




