第12話 王太子は、馬の上では少し子供らしい
王宮から届いた招待状に返事を出してから三日後、俺は再び王城へ向かう馬車の中にいた。
前回とは違い、今日は両親が揃って同行しているわけではない。
母は午後から外せない予定があり、父も領地から届いた報告への対応があるらしく、最終的には母と何度も確認した上で、護衛と侍女を伴うことを条件に俺だけが王宮へ向かうことになった。
もちろん、五歳児を一人で放り出すような話ではない。
俺の向かいにはミレーヌが座っているし、馬車の外にはアルセリード家の護衛が数名ついている。王宮へ到着してしまえば、今度は向こうの侍従や護衛がいるのだから、前世の感覚で言えば過剰なほど安全なのだろう。
それでも、自分だけで王宮へ向かっているという事実には少し妙な緊張があった。
「お嬢様」
向かいから呼ばれ、窓の外へ向けていた視線を戻す。
「何ですの?」
「先ほどから、少し落ち着かないご様子ですが」
「そう見えます?」
「はい。いつもより窓をご覧になる回数が多いです」
よく見ている。
「王宮へ行くのは、まだ二度目ですもの」
「前回は旦那様と奥様がご一緒でしたからでしょうか」
「それもありますわね」
正確には、それだけではない。
前回は婚約の話をするための顔合わせだった。
だから俺も、できるだけ余計なことをせず、相手がどんな人間かだけを確かめるつもりでいた。
ところが今日は違う。
アレクシス自身が、以前口にした約束を覚えていて招待してきた。
つまりこれは、大人たちが用意した顔合わせではなく、少なくとも形の上では六歳の王太子が五歳の公爵令嬢を「また会おう」と誘ったことになる。
それをどう捉えればいいのか、まだよく分からない。
友達になりたいのか。
単に自慢の乗馬を見せたいのか。
婚約候補として相手を知ろうとしているのか。
おそらく、その全部が少しずつ混ざっているのだろう。
六歳の子供に本人自身が明確な答えを持っているとは限らない。
そう考えると、こちらも余計な意味を決めつけない方がよさそうだった。
「ミレーヌは、お馬に乗ったことがありますの?」
気分を変えるつもりで尋ねてみる。
「いいえ。近くで見たことはございますが、乗ったことはございません」
「わたくしも、たぶんありませんわ」
「たぶん?」
「覚えていないだけで、以前乗せてもらったことがあるかもしれないでしょう?」
「それは……旦那様か奥様へお尋ねになった方がよろしいかと」
「そうですわね」
最近はこういうことが増えた。
俺が知らないヴェルシアナの過去。
三歳の時には牛を見るたびに馬車を止めたがったらしいし、父が領地から銀鳥を連れてこさせたことまであった。
ゲームでは名前すら出てこなかった出来事が、実際にはこの少女の五年間の中にいくらでも存在している。
原作という言葉を便利に使いすぎると、その五年間すべてを「本編前」の一言で片づけてしまいそうになる。
けれど、現実に生きている人間にとって、物語が始まる前の時間など存在しない。
俺が知らないだけで、ヴェルシアナは生まれた日から今日まで確かに生きていた。
それを最近になって少しずつ実感するようになっていた。
やがて馬車の速度が落ち、窓の向こうに王城を囲む白い城壁が見えてくる。
前回も見たはずなのに、やはり大きい。
ゲーム画面の背景では一枚の絵でしかなかった城が、現実には高い壁を持ち、その向こうにも幾つもの建物や塔が連なっている。
門をくぐるたびに護衛同士が言葉を交わし、紋章と書類が確認される。
ここへ来るだけで、王家というものがどれほど多くの人間に守られているのか分かる。
そしてその中心にいるアレクシスは、六歳にしてそのすべての期待を背負い始めている。
前回の会話を思い出しながら、俺は膝の上で手を重ねた。
今日くらいは、王太子ではなく普通の子供として楽しめればいいのだけれど。
そんなことを考えた自分に気づき、少しだけ可笑しくなった。
数日前まで、できれば関わりたくない攻略対象だと思っていた相手を心配するようになるとは、我ながら随分と変わったものだ。
◇
王宮へ到着すると、前回も顔を合わせたアルトリウス・ヴェルネンが出迎えてくれた。
「ようこそお越しくださいました、ヴェルシアナ様」
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
礼をすると、アルトリウスは満足そうに僅かに頷いた。
「殿下は朝からお待ちでございます」
「朝から?」
「はい。本日の乗馬訓練は午後からであると何度もお伝えしたのですが、午前中より三度ほど時刻を確認されておりました」
思わず口元が緩む。
「そのこと、殿下へお伝えしてもよろしいのですか?」
「わたくしが申し上げたことは、どうか内密にお願いいたします」
まったく内密にする気のない顔だった。
王宮にも、こうして子供を子供として扱う大人はいるらしい。
少し安心する。
「本日は東側の騎馬訓練場をご用意しております。まず控えの間へご案内いたしますので、そちらでお着替えを」
「お着替え?」
「殿下より、ヴェルシアナ様ももしご希望であれば仔馬へ乗れるようにとのお申し付けがございました」
聞いていない。
招待状には「乗っているところを見せたい」としか書かれていなかったはずだ。
「わたくしも乗るのですか?」
「もちろん、無理にとは申されておりません。ただ、見るだけではつまらないかもしれない、と」
なるほど。
そこまで考えてくれたらしい。
「お嬢様」
後ろにいたミレーヌが、少し心配そうにこちらを見る。
「乗馬のご経験は……」
「ありませんわ」
「でしたら、あまりご無理は」
「分かっています」
自分から「知らないものは試してみないと分からない」と言った手前、興味はある。
ただし、初めて馬を見るような五歳児が勢いだけで乗るのも危ない。
「まず見てから決めますわ」
「それがよろしいかと存じます」
アルトリウスも頷いた。
「そのように殿下へお伝えしておきましょう」
案内された控えの間では、乗馬用らしい衣装まで用意されていた。
裾の広がった普段のドレスとは違い、動きやすいよう布量が抑えられている。とはいえ前世の乗馬服ほど単純ではなく、少女らしい装飾も残されていた。
着替えを手伝ってもらいながら、鏡を見る。
銀髪の幼女が、妙に様になった格好で立っている。
この姿にも、最近は少しずつ慣れてきた。
最初に鏡でヴェルシアナを見た時には、「自分ではない誰か」がそこにいるような違和感しかなかった。
今でも前世の俺が消えたとは思わないし、自分が元男だったという感覚も普通に残っている。
それでも、この顔を見て毎回驚くことはなくなった。
髪をまとめられれば自然に首を傾けて邪魔にならないようにするし、長い裾を扱う時には足を引っ掛けないよう無意識に歩幅まで調整する。
人間は案外、環境へ馴染むものらしい。
「お似合いでございます」
ミレーヌが言う。
「ありがとう」
「本当に、お馬へ乗られるのですか?」
「だから、見てからですわ」
「お嬢様は時々、決めたあとに思い切りが良すぎますので」
「心配性ですわね」
「お嬢様が行動的すぎるのでございます」
父にも似たようなことを言われた気がする。
俺の中では慎重に動いているつもりなのだが、周囲から見るとそうでもないらしい。
◇
東側の騎馬訓練場へ向かうと、乾いた土の匂いが風に混じっていた。
王城の敷地内とは思えないほど広い。
中央には柵で囲まれた訓練用の馬場があり、その外側には幾つもの厩舎と休憩用の建物が並んでいる。遠くでは大人の騎士が馬を走らせており、地面を蹴る蹄の音が一定の間隔で響いていた。
馬をこれほど近くで見るのは、転生してから初めてだ。
前世でも動物園や観光地で見たことくらいはあるが、目の前で見るとやはり大きい。
「ヴェルシアナ!」
名前を呼ばれて顔を向ける。
馬場の反対側から、アレクシスがこちらへ歩いてきていた。
今日は前回のような正装ではない。
濃い色の乗馬服に細身のブーツを履き、腰には当然剣など下げていないものの、大人の騎士をそのまま小さくしたような格好をしている。
ただし、俺を見つけた時の顔だけは、王太子として人前へ出る時より明らかに年相応だった。
「来たんだな」
「お招きいただきましたから」
「断るかもしれないと思っていた」
「どうしてですの?」
聞くと、アレクシスは少しだけ言いにくそうにした。
「この前、婚約のことをすぐ決めたくないって言っていただろう。だから、僕と会うのもあまり好きじゃないのかと思っていた」
そう受け取っていたのか。
「婚約をすぐ決めたくないことと、殿下とお話ししたくないことは別ですわ」
答えると、アレクシスの顔が少し明るくなった。
「じゃあ、来るのは嫌じゃなかった?」
「はい。お馬も見てみたかったですし」
「そうか」
嬉しそうだ。
分かりやすい。
王太子という肩書きを外すと、やはり普通の六歳児なのだと改めて思う。
「それにしても」
俺は彼の服装を見る。
「ずいぶん本格的ですのね」
「いつもこれで練習してる」
「毎日?」
「毎日じゃない。剣術の日もあるし、勉強の日もあるから」
「忙しいですわね」
「王太子だから」
以前と同じ答えだった。
けれど今日は、そのあとに少しだけ続きがあった。
「でも、馬は好きだから嫌じゃない」
それを聞いて、思わず笑った。
「何だ?」
「いいえ。前に聞いた時より、一つ分かりましたわね」
「何が?」
「歴史は王太子だから好きなのか分からないと仰っていましたけれど、お馬は王太子でなくてもお好きみたいですわ」
アレクシスは一瞬きょとんとしたあと、自分でも納得したように頷いた。
「たしかに」
「よかったですわね」
「何が?」
「一つ見つかって」
彼は少し考え、それから笑った。
「ヴェルシアナは変なことを気にするな」
「殿下も、その変な話を覚えていらしたでしょう?」
「それは……」
言い返せなくなったらしい。
少しだけ悔しそうな顔をする。
その表情が可笑しくて、こちらも笑った。
◇
アレクシスが乗っている仔馬は、灰色がかった白い毛並みの小柄な馬だった。
名前はルークスというらしい。
「触ってもいいぞ」
そう言われ、馬の横まで近づく。
思っていたより大きい。
仔馬というから、もっと小さなものを想像していた。
「どこを触ればよろしいの?」
「いきなり後ろへ行かなければ大丈夫だ。ここを触るといい」
アレクシスが首筋のあたりを撫でて見せる。
真似をして手を伸ばすと、ルークスが僅かに顔を動かした。
思わず手が止まる。
「怖いのか?」
「怖くありませんわ」
「今、手を引いただろ」
「驚いただけです」
「それを怖いって言うんじゃないのか?」
この前、父へ自分の意見を言うのが怖いかと尋ねた時の仕返しだろうか。
「でしたら、殿下も前回はお父様が怖かったということでよろしいの?」
「それは違う!」
「では、わたくしも違いますわ」
「ずるい」
「先に言ったのは殿下です」
近くに控えていた騎士が、咳払いをするふりをして顔を逸らした。
笑っている。
アレクシスもそれに気づいたらしく、少し頬を膨らませた。
「見てろ。僕は普通に乗れるからな」
そう言うと、用意された台を使いながら馬へ乗る。
一人で飛び乗れるわけではない。
そこがまた年齢相応だった。
騎士が足の位置を確認し、手綱を渡す。
馬が歩き始めると、アレクシスの顔つきが少し変わった。
真剣だ。
背筋を伸ばし、前を見る。
最初は騎士が横で手綱を補助していたが、途中からは少し距離を取り、アレクシス自身に任せる。
ゆっくりした歩みから、少しだけ速度が上がる。
風を受けた淡い髪が揺れ、普段よりずっと楽しそうな表情が見えた。
なるほど。
自慢したくなる気持ちも分かる。
一周して戻ってきたアレクシスは、馬から降りるより先にこちらを見た。
「どうだった?」
明らかに感想を待っている。
「お上手でしたわ」
「本当に?」
「本当です。最初は少し固かったですけれど」
「固くない」
「途中からの方が楽しそうでしたもの」
アレクシスは少し黙った。
褒めるなら全部褒めろと言いたそうな顔だ。
「でも、見ていて少し乗ってみたくなりました」
そう付け加えると、表情が一気に戻った。
「じゃあ乗るか?」
「簡単ですの?」
「最初は騎士がついてくれる。歩くだけなら大丈夫だと思う」
俺は馬を見る。
大きい。
改めて見てもやはり大きい。
けれど、興味の方が少し勝っていた。
「乗ってみますわ」
そう答えると、ミレーヌが後ろで小さく息を吸ったのが聞こえた。
「ミレーヌ」
「何も申し上げておりません」
「顔に出ていますわ」
「十分お気をつけくださいませ」
「分かっています」
王宮側が用意してくれたのは、ルークスよりさらに小柄で、茶色の毛並みをした仔馬だった。
名前はフィアという。
騎士から近づき方や触れ方を教えてもらい、まずは手の匂いを嗅がせる。
鼻息が手に当たった。
「……温かいですわね」
「馬だからな」
アレクシスが当然のように言う。
「知っています」
「じゃあ、どうして言ったんだ?」
「感じたことを言っただけですわ」
いちいち突っ込んでくる。
騎士の補助を受けながら台へ上がり、鞍へ腰を下ろす。
地上から見るより高い。
「お嬢様、大丈夫でございますか?」
ミレーヌが真剣な顔で見上げている。
「今のところは」
騎士が手綱を持ったまま、フィアをゆっくり歩かせる。
身体が上下する。
思ったより揺れる。
落ちないよう無意識に力が入った。
「力を入れすぎると疲れるぞ」
横を歩きながらアレクシスが言う。
「簡単に仰いますけれど、殿下は慣れているでしょう」
「最初は僕も怖かった」
素直に言ったので、少し驚いた。
「怖かったのですか?」
「ああ。三歳の時に初めて乗せてもらったけど、すぐ降りたいって言った」
「それは初耳ですわね」
「誰にも言うなよ」
「どうしましょう」
「ヴェルシアナ」
「冗談です」
自然に笑う。
少し歩いているうちに、最初ほど身体へ力を入れなくても大丈夫だと分かってきた。
馬の動きに合わせるようにすると、揺れも少しだけ心地よくなる。
視線が高い。
いつもとは違う高さから見る王宮の訓練場は、同じ場所なのに別の景色のようだった。
「楽しいか?」
アレクシスに尋ねられる。
素直に考えてみる。
「……楽しいですわ」
「だろ?」
なぜか本人が得意げになった。
「殿下が作ったものではありませんでしょう?」
「でも僕が教えた」
「ほとんど騎士の方が教えてくださっていますわ」
「僕も力を抜けって言った」
「それは認めます」
満足そうに頷く。
その様子を見ながら、ふと思った。
この子は、褒められたいのだ。
王太子としてではなく。
自分ができることを見てほしい。
おそらく王宮では、できて当然のことが多いのだろう。
礼儀を守れて当然。
歴史を学んで当然。
姿勢が良くて当然。
次代の王として相応しく振る舞って当然。
だからこそ、「馬に乗れる」という自分の好きなことを、同じくらいの年齢の誰かへ見せたかったのかもしれない。
そう思うと、以前より少しだけ彼の招待の意味が分かった気がした。
◇
乗馬を終えた後は、馬場の横にある小さな休憩所で茶を飲むことになった。
俺たちの卓から少し離れた場所には侍従や侍女、護衛が控えている。
完全な二人きりではない。
それでも前回よりは随分気楽だった。
「ヴェルシアナは、何か得意なものはあるのか?」
焼き菓子へ手を伸ばしながら、アレクシスが尋ねた。
「得意なもの?」
「ああ。僕は馬に乗れるところを見せたから、今度はヴェルシアナの番だ」
「どうしてそうなりますの?」
「僕だけ見せるのは不公平だろう」
そんな公平性があるのだろうか。
考えてみる。
前世なら、仕事で人の様子を見たり、状況を整理したりすることにはそれなりに自信があった。
しかし五歳の公爵令嬢として「得意なもの」と聞かれると困る。
礼法はまだ練習中。
刺繍はリュネアより遥かに下手。
楽器も習い始めた程度。
歴史は前世知識が役立つものでもない。
「今のところ、あまり思いつきませんわね」
「何もないのか?」
「失礼ですわね」
「だって、本当に何もないのか?」
「探している途中です」
以前なら、こう答えることに少し抵抗があったかもしれない。
公爵令嬢なら何か得意でなければいけないような気がしていたからだ。
けれど最近は、分からないものを無理に決める必要はないと思えるようになった。
「では、見つけたら教えろ」
「なぜ?」
「僕が今日見せたから」
どうやらそこに戻るらしい。
「分かりました。何か見つかったらお教えしますわ」
「約束だぞ」
「はい」
アレクシスは満足そうに茶を飲んだ。
そこでふと、テーブルの端に小さな皿が置かれていることに気づく。
豆を使った菓子らしい。
アレクシスの前だけ、それがない。
思わず笑ってしまった。
「何だ?」
「いいえ。徹底されていますのね」
「何が?」
「豆ですわ」
アレクシスが嫌そうな顔をする。
「あれは食べ物じゃない」
「かなり強いご意見ですこと」
「嫌いなものは嫌いなんだから仕方ない」
そう言ってから、彼自身が少しだけ止まった。
前回の会話を思い出したのだろう。
「……でも、嫌いだから無くせとは言ってないぞ」
「何も言っていませんわよ」
「ヴェルシアナが変な顔をした」
「笑っただけです」
「同じだ」
少しむくれる。
俺はその様子を見ながら、以前のヴェルシアナについて聞いた話を思い出していた。
嫌なものを嫌だと言うこと自体は悪くない。
父もそう言っていた。
問題は、その先だ。
自分が嫌だから、世界の側からなくす。
誰かが自分を不快にしたから、その人を遠ざける。
そこで一線を越える。
「殿下」
「何だ?」
「豆がお嫌いでも、他の方が食べるのは構いませんの?」
「別に。僕が食べなければいい」
「なるほど」
「何なんだ?」
「いえ。良い考え方ですわね」
「普通だと思うけど」
その「普通」が、元のヴェルシアナには難しくなっていった。
ほんの少しだけ考え込んでいると、アレクシスが今度は俺の顔を覗き込む。
「また難しいことを考えてるのか?」
「また?」
「この前も急に黙って考えてただろ」
子供は意外と人を見ている。
「少しだけですわ」
「何を?」
「嫌いなものがあっても、それを全部なくす必要はないのだと思いまして」
アレクシスは不思議そうな顔をした。
「当たり前じゃないか」
「その当たり前を忘れる人もいるのです」
「誰?」
「……昔のわたくし、でしょうか」
口にすると、彼の表情が少し変わった。
「前に言っていた話か」
「覚えていらしたの?」
「自分が前より違うようになりたいって言ってただろ」
ちゃんと覚えている。
「ヴェルシアナは、昔の自分が嫌いなのか?」
思っていなかった質問だった。
すぐには答えられない。
「分かりません」
「またそれか」
「分からないものは分からないのですもの」
少し考えてから続ける。
「嫌いだと思うところはあります。人を怖がらせたことも、我儘を言って困らせたことも。でも、最近は昔のわたくしにも理由があったのかもしれないと思うようになりました」
「理由があったら悪くないのか?」
「いいえ。それとこれとは別ですわ」
アレクシスは焼き菓子を持ったまま、しばらく考えていた。
「難しいな」
「難しいです」
「じゃあ、考えるのをやめればいいんじゃないか?」
「それはそれで困りますわ」
「どうして?」
「同じことをしたくないからです」
今度は彼が少し黙る。
「僕も、王様になったら間違えるのかな」
突然話が大きくなった。
「どうしてそう思いましたの?」
「父上が、王は決めなければならないって言うから。たくさん決めたら、間違えることもあるだろ」
子供らしい言葉なのに、内容は重い。
「あるのではないですか?」
俺は普通に答えた。
アレクシスがこちらを見る。
「王様でも?」
「人ですもの」
以前ナディアへ言ったのと同じことだった。
「わたくしのお父様だって、自分が以前したことについて、もっと別のやり方があったかもしれないと仰っていました。王様だけ絶対に間違えない方が不思議ですわ」
「でも、王が間違えたらたくさんの人が困る」
「ですから、間違えないようにたくさん考えるのでしょう?」
「それでも間違えたら?」
六歳の子供の顔ではなかった。
少なくとも本人は、とても真剣に聞いている。
だから俺も、適当に励ますのはやめた。
「直せるものなら直すしかないのではありませんか」
「直せなかったら?」
「……それは、分かりません」
正直に言う。
「でも、間違えるのが怖いから何も決めない王様も、それはそれで困ると思いますわ」
アレクシスが少しだけ目を丸くした。
「たしかに」
「だから、間違えない王様になるより、間違えた時にちゃんと気づける王様を目指した方が現実的ではありませんの?」
言ってから、六歳児へ何を話しているのだろうと思った。
けれどアレクシスは笑わなかった。
むしろ真面目な顔で考えている。
「どうしたら気づける?」
「自分と違うことを言ってくれる人を、周りからいなくしないことでしょうか」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
それは今まさに、俺が元のヴェルシアナを調べながら学び始めたことだった。
自分を肯定する人だけを周囲へ残せば、間違っていても誰も止めてくれなくなる。
公爵令嬢ですらそうなのだから、王になればもっと危険なのだろう。
「嫌なことを言う人も?」
「たぶん」
「嫌なのに?」
「嫌でしょうね」
「じゃあ難しいじゃないか」
「だから難しいのですわ」
二人で顔を見合わせる。
そのうち、どちらからともなく笑った。
「ヴェルシアナは、僕に難しいことばかり言うな」
「殿下が聞くからでしょう?」
「でも、父上たちはそんなふうに言わない」
「どんなふうに?」
「王は正しい判断をしなければならないとか、民のために決めなければならないとか」
「それも正しいのでは?」
「たぶん。でも、失敗したらどうするかはあまり聞いたことがない」
なるほど。
王太子教育というものも、思っている以上に大変らしい。
失敗しないことを教えられても、失敗した後のことまでは教えられない。
そんな環境で育てば、この子もまた「王太子は間違えてはいけない」という考えに追い込まれる可能性がある。
「では、今度先生に聞いてみたらいかがです?」
「何て?」
「王様が間違えたら、どうするのですか、と」
アレクシスが少し嫌そうな顔をした。
「怒られないか?」
「質問しただけで怒られるの?」
「先生による」
「それなら、怒らなさそうな先生へ聞けばいいでしょう」
「ヴェルシアナは簡単に言うな」
「わたくしもエルダ夫人には、怒っている時でも間違っていたら注意してくださいとお願いしましたわ」
「自分から?」
「はい」
「どうしてそんなことしたんだ?」
「怖いからです」
アレクシスが眉を寄せる。
「怒られるのが?」
「いいえ。誰もわたくしへ何も言わなくなることが、です」
その答えには、彼も何も返さなかった。
子供同士の会話にしては少し難しくなりすぎた気がする。
だから俺は、目の前の皿から菓子を一つ取り、話を戻すことにした。
「ところで、殿下」
「何だ?」
「こちらは豆ではありませんの?」
俺が指した菓子を見て、アレクシスが固まった。
「違う」
「そうなの?」
「……たぶん」
「先ほどから召し上がっていましたわよね」
「これは甘いから違う」
随分と雑な理屈だ。
「甘くした豆かもしれませんわよ」
「アルトリウス!」
少し離れた場所に控えていた侍従を本気で呼んだ。
さすがに笑ってしまった。
◇
帰る時間が近づく頃には、最初に感じていた緊張はほとんどなくなっていた。
アレクシスも、次に何を話すかをいちいち考える様子がなくなり、帰り際には厩舎まで一緒についてきた。
「次はヴェルシアナの得意なものを見せてもらうからな」
「まだ見つかっていないのですけれど」
「見つければいい」
「ずいぶん簡単に仰いますわね」
「ヴェルシアナが僕にいつも言ってるだろ。知らないなら試せって」
自分の言葉が返ってきた。
最近、こればかりである。
「では、何か探しておきますわ」
「約束だぞ」
「はい」
そこでアレクシスが少しだけ言いにくそうに視線を逸らした。
「それと」
「何ですの?」
「今日、楽しかったか?」
俺は少し考えた。
馬に初めて乗った。
少し怖かった。
でも面白かった。
アレクシスとくだらないことで言い合った。
途中からは王太子と話している感覚すら薄くなっていた。
「楽しかったですわ」
そう答える。
アレクシスは明らかに安心した顔をした。
「僕も」
その一言は、前回の顔合わせで「婚約が嬉しいか分からない」と答えていた時とはまるで違っていた。
今日会ったことが楽しかった。
それなら、その感情には肩書きも政治も関係ない。
「では、また」
アレクシスが言う。
以前なら、その言葉に少し警戒したかもしれない。
原作の王太子へ近づく。
婚約候補との関係が深まる。
破滅フラグが立つ。
そんなふうに未来だけを見ていたからだ。
けれど、今の俺は少し違う。
「はい。またお会いしましょう」
自然に答えた。
アレクシスが笑う。
その笑顔は、王宮の正式な場で見せる整ったものではなく、今日馬に乗っていた時と同じ、年相応の笑い方だった。
◇
帰りの馬車の中で、ミレーヌがずっと何か言いたそうにしていた。
「何ですの?」
こちらから尋ねると、彼女は少し迷ってから口を開いた。
「王太子殿下とは、とても仲がよろしいのですね」
「そう見えました?」
「はい。前回お会いになった時よりも、ずっと自然にお話しされていたように見えました」
「二度目ですもの。少しくらい慣れますわ」
「それだけでしょうか」
妙な言い方をする。
「何が言いたいの?」
「いいえ。ただ、殿下も楽しそうでいらしたので」
俺は窓の外を見る。
王宮の外壁が少しずつ遠ざかっていく。
「楽しかったとは仰っていましたわ」
「お嬢様も?」
「ええ」
「それは何よりでございます」
ミレーヌは素直に笑った。
その反応を見ながら、俺は今日のことを改めて思い返していた。
王太子と仲良くなる。
原作知識だけを基準にすれば、たぶん避けるべきことだ。
元のヴェルシアナは、アレクシスへの執着を深めた結果、ヒロインへ嫉妬し、数々の破滅フラグを積み重ねていった。
だから転生直後の俺は、「王太子へ近づかない」という方針を当然のように立てた。
それは今でも理解できる。
ただし今は、その方針を少しだけ修正した方がいいのではないかとも思っている。
危険なのは、アレクシスと関わることそのものではない。
王太子だからという理由で彼に執着し、自分の未来や価値まで彼との関係へ預けてしまうことだ。
それさえしなければ、普通に人として関わることまで避ける必要はないのかもしれない。
むしろ、最初から「将来危険になる相手だから」と距離を取り続ければ、それはそれで別の歪みを生む可能性がある。
何より、今日のアレクシスは、俺が知っている原作の王太子ではなかった。
自分の乗馬を褒められたがり、豆の入った菓子を疑われて本気で侍従を呼び、将来自分が判断を間違えたらどうすればいいのかと真剣に悩む六歳の少年だった。
十年後、彼がどんな人間になるのかは分からない。
けれど、その十年間に俺との関係も含まれるようになるのなら、それはもう原作と同じ条件ではない。
そこで初めて、少し怖くなった。
未来を変えたいと思っていた。
今もそう思っている。
しかし実際にアレクシスの言葉や考え方へ自分が影響を与えている可能性を感じると、それまでとは違う責任が生まれる。
俺が何気なく言ったことを、この子が覚えている。
今日も、「間違えた時に気づける王になればいい」と話した。
もし彼がその言葉を何年も覚えていたら。
それは良い影響になるかもしれないし、どこかで思ってもいなかった形へ繋がるかもしれない。
原作を壊すという言葉は簡単だ。
けれど実際には、人の人生へ触れるということなのだろう。
俺の一言で誰かの全部が変わるとは思わない。
人間はそんなに単純ではない。
それでも、いくつもの小さな言葉や出来事が積み重なって人を作ることを、元のヴェルシアナについて調べながら嫌というほど知り始めている。
ならば俺自身も、誰かにとってその「小さな一つ」になる可能性がある。
それを恐れて何も話さなくなるのも違う。
だからできることは、結局いつもと同じだった。
相手を役割だけで見ない。
自分の考えを正解として押しつけない。
分からない時には分からないと言う。
そして、自分が間違っていたと気づいたなら直す。
完璧な未来を作ることなど、たぶんできない。
破滅フラグを一つ残らず管理し、誰も傷つかず、すべての人間が理想通りに育つ未来など、ゲームの攻略サイトにだって載ってはいない。
それなら俺は、せめて目の前の相手を見ながら選んでいくしかないのだろう。
「お嬢様」
ミレーヌが呼ぶ。
「何ですの?」
「また難しいお顔をしています」
「最近よく言われますわね」
「今日は楽しかったのでしょう?」
「ええ」
「でしたら、今はそれでよろしいのではありませんか?」
少し驚いて彼女を見る。
ミレーヌはごく自然な顔をしていた。
以前なら主人の考えへ意見すること自体を恐れていた子が、最近は時々こうして俺を止める。
その変化を見て、少し笑った。
「そうですわね」
今日は楽しかった。
それは事実だ。
未来について考えるのは、もう少し後でもいい。
馬車の窓から差し込む夕方の光の中で、俺は今日初めて馬へ乗った時の景色と、得意げに笑っていたアレクシスの顔を思い返した。
そして同時に、自分がこの世界へ来た初日に決めた「攻略対象へ必要以上に近づかない」という規則へ、心の中で小さな但し書きを加える。
避けるべきなのは人ではなく、自分で考えることをやめてしまう関係だ。
その違いを忘れない限り、少しくらい誰かと仲良くなっても構わないのかもしれない。
少なくとも今の俺は、そう思えるようになっていた。




