第11話 知らなかった自分を、少しずつ
王立セレナディア学園という名前を聞いた翌朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。
理由は分かっている。
十年後のことを考えていたからだ。
これまで俺にとって王立セレナディア学園とは、ほとんど破滅の始まりと同じ意味を持つ場所だった。原作ヒロインが現れ、攻略対象たちが集まり、ヴェルシアナが王太子への執着を拗らせながら周囲との関係を壊し、最後には自分の逃げ場まで失っていく場所。
ゲームを遊んでいた頃には、華やかな学園生活を象徴する舞台でしかなかったのに、いざ自分がその悪役令嬢になってみれば、できることなら門の前で引き返したい場所へ変わってしまった。
ところが昨日、ミレーヌがそこへ進学できるかもしれないと聞いた瞬間、その印象が少しだけ揺らいだ。
十年後にもミレーヌがいるかもしれない。
リュネアとも今の関係が続いているかもしれないし、王太子アレクシスとだって、原作とはまるで違う関係になっている可能性がある。
そう考えると、学園は破滅の始まりを待つ場所ではなく、それまでに自分が何を積み重ねたのかを確かめる場所にもなり得る。
もちろん、その頃に原作がどれほど形を残しているのかは分からない。
俺が幼少期から行動を変えている以上、十年後まで何もかも予定通りに進む方がむしろ不自然だろう。
だからこそ、原作知識へ頼り切ることの危険さも、以前より強く感じるようになっていた。
知っている未来に備えることは必要だ。
しかし同時に、知らない未来へ対応する力も身につけなければならない。
そのためには、今の自分が知らないことを一つずつ減らしていくしかないのだろう。
そんなことを考えていると、扉の向こうから控えめなノックが響いた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「ええ。どうぞ」
入ってきたミレーヌは、昨日までより僅かに明るい表情をしているように見えた。
俺がそう感じているだけかもしれない。
けれど、王立セレナディア学園という具体的な未来が初めて見えたことで、彼女の中にも小さな目標が生まれたのだろうと思う。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、ミレーヌ。昨夜はよく眠れまして?」
「はい」
「学園のことを考えすぎて、眠れなくなったりはしなかった?」
少しからかうつもりで尋ねると、ミレーヌは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「少しだけ考えておりました」
「何を?」
「もし本当に通えることになったら、どのようなお勉強をするのだろう、と」
やはり楽しみにしているらしい。
「まだ何年も先ですわよ」
「分かっております」
「その頃には、お勉強そのものが嫌になっているかもしれませんわ」
「その時は、その時に考えます」
あまりに自然に返された言葉に、思わず彼女の顔を見る。
「ずいぶん変わりましたわね」
「え?」
「少し前でしたら、『侍女になるために必要なら勉強します』と答えていたでしょう?」
ミレーヌは一瞬驚いたあと、自分でも気づいたように小さく笑った。
「……そうかもしれません」
「今は?」
「今は、もっと知りたいと思っています」
その答えを聞いて、少し嬉しくなる。
俺が何かを与えたわけではない。
ほんの少し、自分のことを考えてもいいのだと伝えただけだ。
それだけで、この子は自分の中から次の興味を見つけ始めている。
「でしたら、わたくしも負けないように勉強しなければなりませんわね」
「お嬢様は、十分お勉強なさっております」
「昨日も歴史の授業中に考え事をして注意されましたけれど」
「それは、お勉強をなさっていたとは言いにくいかと存じます」
「厳しいですわね」
ミレーヌが笑う。
その笑顔を鏡越しに見ながら、俺も自然に笑った。
◇
朝食の席では、珍しく母の方から王立セレナディア学園の話が出た。
「ミレーヌの進学について、お父様から聞いたわ」
「もうご存じでしたの?」
「もちろんよ。わたくしだって、この家のことを何も知らされていないわけではないのよ」
少し拗ねたような言い方をする。
「反対ですの?」
「いいえ。本人が望んで、それだけの力があるのでしたら、とても良いことだと思うわ」
母もそこには異論がないらしい。
「お母様も、学園へ通っていましたの?」
「ええ。十三歳から十八歳まで通っていたわ」
やはり六年制らしい。
この世界の学園制度については、ゲームの設定資料でもかなり簡略化されていた。ヒロインが十五歳の頃に物語の中心へ入ってくるため、俺もいつの間にか十五歳から通うものだと思い込んでいたが、実際にはもっと早い年齢から在籍するらしい。
「お父様も?」
「ああ」
「お二人は、学園でお知り合いになったの?」
母が嬉しそうに父を見る。
「正確には、それ以前から家同士の付き合いで面識はあったわ。でも、きちんとお話をするようになったのは学園へ入ってからね」
「そうなのですか」
「あなたのお父様、昔から全然喋らなかったのよ」
「今もあまり変わっていないような気がしますわ」
「そうでしょう?」
「二人で何の話をしている」
父が僅かに眉を寄せた。
母と目を合わせ、思わず笑う。
「お父様は、学園ではどのような生徒でしたの?」
「普通だ」
「お母様」
「成績は良かったわ。ただ、剣術と政治史ばかり勉強して、舞踏会では壁際に立っていることが多かったの」
「必要のないことまで話すな」
「娘が知りたがっているのですもの」
こうして二人の話を聞いていると、学園という場所が少しずつゲームから離れていく。
俺にとってはシナリオが始まる舞台だったが、父と母にとっては青春時代を過ごした場所であり、人と出会い、勉強をして、失敗も経験した普通の学校なのだ。
「ヴェルシアナも、十三歳になれば入学する予定よ」
母が言った。
「十三歳?」
「ええ。あなたの場合は、ほぼ間違いなく高等科まで進むでしょうから、十八歳までね」
俺は頭の中で年齢を整理した。
現在五歳。
入学まで八年。
ゲーム本編が本格的に始まるのは十五歳頃。
つまり、学園へ入学してから二年ほど過ごした後に、ヒロインが物語の中心へ関わり始める可能性が高い。
これは思っていた以上に重要だった。
ゲームではヒロイン視点から物語が始まるため、それ以前のヴェルシアナが学園でどのような生活を送り、誰と関わり、どんな評判を築いていたのかはほとんど分からない。
原作開始まで十年あるという認識自体は間違っていないが、学園生活が始まるまでなら八年しかない。
十年という数字より、少しだけ近く感じた。
「どうした?」
父に声を掛けられ、考え込んでいたことに気づく。
「学園へ行くのは、もっと先だと思っていましたの」
「まだ八年ある」
「八年しかない、とも言えますわ」
父が僅かに目を細めた。
「何をそんなに急いでいる」
「急いではいません。ただ、知らないことが多すぎると思いまして」
「五歳でそれを気にする必要はない。必要なことは順番に教える」
いつもの父らしい答えだった。
そこで母が少し笑いながら助け船を出した。
「それなら今日は、お屋敷の外について少し教えてあげましょうか」
「外のこと?」
「王都や領地のことよ。最近のあなたは、家の中のことばかり気にしているでしょう?」
確かにその通りだった。
ナディアのこと。
使用人や教師のこと。
家族のこと。
ここ数日は、公爵邸という小さな世界の中ばかりを見ていた。
「ぜひお願いしたいですわ」
「では、午後に少し時間を取りましょう」
思わぬ予定が増えたが、これはありがたい。
原作から逃げる方法を考える以前に、俺はまだ、この世界そのものをほとんど知らないのだから。
◇
午前中の授業を終えたあと、母の私室へ呼ばれると、そこには大きな地図が広げられていた。
アルヴェネア王国全土を描いたものらしい。
中央付近には王都セレナディアがあり、そこから幾つもの街道が放射状に伸びている。北には山岳地帯が広がり、西側には巨大な湖があり、南へ視線を移せば海に面した地域まで細かく記されていた。
ゲームにも世界地図はあった。
ただし、それは攻略対象の出身地やイベント発生地域を示すための簡略なものだったので、こうして一つの国として詳細な地形を見るのは初めてだ。
「アルセリード家の領地は、ここからこの辺りまでよ」
母が指先で地図の一角をなぞる。
思っていた以上に広い。
「こんなに?」
「公爵家ですもの」
「お父様は、ここを全部管理しているの?」
「もちろん一人ですべてを見ているわけではないわ。各地には代官や領地官がいて、その報告を受けた上で重要な判断を公爵家が行うの」
前世で例えるなら、複数の事業所や支社を抱える巨大企業の本社に近いのかもしれない。
父がいつも大量の書類に囲まれている理由も、少しだけ分かった気がする。
「わたくしも、いずれ関わりますの?」
「もちろんよ。将来どなたと結婚するかによって立場は変わるでしょうけれど、アルセリード家の人間として領地について知っておく必要はあるわ」
また結婚の話が出たが、以前ほど身構えることはなかった。
結婚という制度そのものが危険なのではない。
誰と、なぜ結婚するのかを、自分で考えられなくなることが問題なのだ。
「領地には、どんな方々が住んでいますの?」
「たくさんよ。農村もあれば、鉱山を中心に栄えた町もあるし、織物で有名な地域もあるわ。王都へ食料を送っている土地も多いの」
「行ったことは?」
「あなたも何度かあるわよ」
「わたくしが?」
「覚えていないのね」
母が少し寂しそうに笑った。
「三歳の頃に一度、去年の春にも少しだけ滞在したわ」
また、俺の知らないヴェルシアナの過去だ。
「その時のわたくしは、どうでした?」
「三歳の時は、とても楽しそうだったわ。馬車から牛を見つけるたびに、近くで見たいから止めてほしいと騒いでいたもの」
「牛を?」
「ええ。あの頃のあなたは、動物を見ると何にでも近づきたがったのよ」
原作のヴェルシアナからは想像できない姿だった。
少し面白くなって、さらに聞く。
「去年は?」
何気ない質問のつもりだった。
けれど、母の笑顔がほんの少しだけ曇った。
「去年は、あまり楽しそうではなかったわね」
「何かあったの?」
「あなたが、領地の子供たちとうまく馴染めなかったの」
「子供たち?」
「領都へ滞在していた時、現地の役人や商人の子供たちが、春の花祭りの準備を手伝っていたのよ。あなたも興味を持って、自分から近づいていったわ」
そこまで聞いた時点で、少し意外だった。
「わたくしから?」
「ええ。最初は、一緒に飾りを作りたいと仰っていたの」
ますます、俺が知っているヴェルシアナ像と噛み合わない。
「それで?」
「しばらくは普通にお話ししていたのだけれど、途中で誰かがあなたをアルセリード公爵家のご令嬢だと知った途端、皆が急に畏まってしまったの」
なるほど。
「わたくしは怒った?」
「最初は怒らなかったわ。むしろ、どうして急に話してくれなくなったのか分からないようだった」
母はその時の娘を思い出しているのか、少し遠い目をした。
「きっと、寂しかったのでしょうね。皆があなたへ敬語を使い始め、近くへ座らなくなって、さっきまで渡してくれていた飾りまで侍女を通して渡すようになってしまったから」
胸の奥に、思いがけない感情が生まれる。
「それで、どうなりましたの?」
「最後には『もうここにはいたくない』と言って宿へ戻ってしまったわ。帰りの馬車でもずっと不機嫌だったけれど、誰かを罰してほしいとは言わなかった」
「本当に?」
「ええ。あの時は、あなた自身も何が嫌だったのか上手く説明できなかったのだと思うわ」
去年。
つまり四歳の頃。
その時点のヴェルシアナは、自分が不快になったからといって、すぐ誰かを排除しようとするほどにはなっていなかった。
その事実は思っていた以上に大きい。
「ナディアも一緒でしたの?」
「ええ。あの頃には、もうあなたのお世話をすることが多かったもの」
「そのあと、ナディアは何か言っていました?」
母はしばらく記憶を辿るように考えた。
「わたくしが直接聞いていたわけではないけれど、屋敷へ戻ってから、あなたが『あの子たちはわたくしと遊びたくなかったのね』と泣いた時、ナディアが長く慰めていたのは覚えているわ」
「何と?」
「そこまでは覚えていないの。ごめんなさいね」
「いいえ。十分ですわ」
そこから先を、自分の想像だけで埋めるわけにはいかない。
けれど、確認してみる価値はある。
元のヴェルシアナは最初から身分の低い人間を嫌っていたわけではなく、むしろ自分から一緒に遊びたがっていた。
ところが、公爵令嬢だと知られたことで相手の態度が変わり、普通の関係を失った。
もし、その寂しさを抱えた少女へ、「あなたと対等に付き合えない者など相応しくない」と誰かが教え続けたのだとしたら。
彼女が身分へこだわるようになった順番は、俺が想像していたものとは逆だった可能性がある。
自分が特別だから、人を見下したのではない。
自分が特別扱いされるたびに普通の関係を失い、その寂しさへ耐えるために、「自分は特別なのだから仕方がない」と考えるようになっていったのかもしれない。
「お母様」
「なあに?」
「そのお祭りは、毎年行われますの?」
「ええ。春の花祭りね。今年はもう終わってしまったけれど、来年なら行けると思うわ」
「また行ってみたいです」
母が少し驚いた。
「本当に?」
「はい」
「去年は、もう二度と行かないとまで言っていたのよ?」
「だからこそ、今度は違うかもしれませんわ」
母はしばらく俺を見たあと、柔らかく笑った。
「分かったわ。お父様と相談しておきましょう」
「ありがとうございます」
俺は再び地図へ視線を戻した。
この世界には、俺の知らない場所がいくらでもある。
そして、その一つひとつに、俺の知らないヴェルシアナの過去が残っているのかもしれなかった。
◇
母の部屋を出たあと、俺はミレーヌと一緒に庭を歩くことにした。
今日は風が弱く、雲の切れ間から差す柔らかな陽が庭全体を明るく照らしている。以前棘を落とされた薔薇の区画にも新しい蕾がいくつもつき、少しずつ色づき始めていた。
「ミレーヌ」
「はい」
「去年、わたくしが領地へ行った時のことを覚えていますの?」
ミレーヌは少し考えてから首を横へ振った。
「わたくしはお留守番でございました。当時はまだ、お嬢様のお供として遠出をすることを許されておりませんでしたので」
「そうでしたのね」
「何かございましたか?」
母から聞いた話を簡単に説明すると、ミレーヌは口を挟まず静かに聞いていた。
「少し変でしょう?」
「何がでございますか?」
「わたくしは、昔から身分の低い方を見下していたのだと思っていました。でも少なくともその時は、自分から一緒に遊びたかったみたいですの」
ミレーヌも少し驚いたようだった。
「でしたら、最初から他の方を嫌っていたわけではなかったのでしょうか」
「分かりません。でも、少し気になりますわ」
花壇の脇をゆっくり歩きながら考える。
もし元のヴェルシアナが生まれつき「自分より下の者とは付き合わない」と考えていたのなら、現地の子供たちと遊びたがる必要はない。
むしろ最初は、普通に誰かと関わりたかったのではないだろうか。
しかし公爵令嬢という肩書きのせいで相手が距離を取り、その度に傷つき、その傷を「相手が自分に相応しくないからだ」と説明され続けた。
その積み重ねの先で、いつしか自分の方から身分を理由に人を遠ざけるようになったのだとしたら。
そう考えた瞬間、元のヴェルシアナに対して初めて、単なる同情とも違う感情が生まれた。
可哀想だと思った。
もちろん、それによって彼女がしたことまで許されるわけではない。
ただ、どこかの時点では、普通に友達が欲しかっただけの子供だったのかもしれないと思うと、十五歳になった彼女の孤立が少し違って見えてくる。
「お嬢様」
隣を歩くミレーヌが声を掛けた。
「どうしましたの?」
「今日は、また難しいお顔をしています」
「そんなに分かりやすい?」
「少しだけでございます」
俺は苦笑する。
「昔のわたくしについて考えていましたの。知れば知るほど、どんな子だったのか分からなくなりますわ」
「そういうものなのでしょうか」
「たぶん」
人間というものは、ゲームの設定資料のように、数行の性格欄だけで説明できるものではないのだろう。
「でも」
ミレーヌが少し迷ったあと、言葉を続けた。
「分からないことは、悪いことではないと思います」
「どうして?」
「お嬢様が以前、わたくしにそう仰ったからです。将来、侍女になりたいか分からないと申し上げた時、今すぐ決めなくてもよろしいと」
言われて思い出す。
確かにそう言った。
「ですから、昔のお嬢様がどのような方だったのかも、今すぐ全部を決めなくてもよいのではないでしょうか」
七歳の少女に、自分の言葉をそのまま返された。
しかも、なかなか正しい。
「ミレーヌ」
「はい」
「最近、少し賢くなりすぎていません?」
「お嬢様のおかげで、お勉強が増えましたので」
少し得意げに返され、思わず笑う。
「それは一本取られましたわね」
ミレーヌも笑った。
そのまま歩いていると、少し先の花壇で一人の庭師が作業をしているのが見えた。
四十代ほどの男だった。
土へ手を入れ、伸びた枝を整えていたその人が俺たちの存在に気づいた瞬間、動きが僅かに止まった。
身体が強張った、とまでは言い切れない。
ただ、直前まで自然に動いていた手が止まり、俺の姿を確かめるように一度目を上げてから、すぐ立ち上がった。
「ヴェルシアナお嬢様」
深く頭を下げる。
その反応を見て、何となく分かった。
おそらく、この人が薔薇の件の庭師なのだ。
昨日、父とグレンから聞いた言葉を思い出す。
この人は、俺が庭へ出る時間を避けるため、一時期自分の勤務時間まで変えていたという。
俺は少しだけ足を止めた。
謝りたいという気持ちはある。
けれど昨日父に言われた通り、俺が謝りたいことと、相手が俺から謝罪されたいことは同じではない。
ここで突然過去の話を持ち出せば、この人は立場上、「お気になさらないでください」と答えるしかなくなるかもしれない。
だから今は、謝罪を口にしないことにした。
「お仕事中に失礼いたしました」
「い、いえ。そのような、お嬢様が謝られることではございません」
やはり少し緊張している。
俺は咲き始める前の薔薇へ視線を向けた。
「今年も綺麗に咲きそうですわね」
庭師は予想外の話題だったのか、少しだけ顔を上げる。
「はい。今年は天候にも恵まれておりますので、あと二週間ほどで見頃になるかと存じます」
「そうなのですね」
蕾の周囲には、当然ながら棘の残った枝もある。
以前のヴェルシアナは、それを自分のために全部落とさせた。
それを思いながら、なるべく普通の声で伝える。
「これからは、わたくしのために棘を取っていただかなくても大丈夫ですわ。危ない時には、危ないとそのまま教えてくださいませ」
庭師の表情が止まった。
「ですが……」
「以前は、止められたことを嫌がったそうですね」
ここまでなら、相手へ謝罪を要求する形にはならない。
「今度は気をつけます。それでも、わたくしが何か危ないことをしようとしていたら、きちんと止めてくださいな」
男はしばらくこちらを見ていた。
驚きだけではなく、戸惑いと警戒も残っている。
すぐに安心したような笑顔を見せるわけではなかった。
それでいい。
数日前まで怖がっていた相手が少し言葉を変えただけで、急に信頼できるようになる方が不自然だ。
「……承知いたしました」
少し遅れて返ってきた声は、まだ固かった。
「ありがとうございます」
それだけ告げ、俺は再び歩き始めた。
しばらく進んでから、ミレーヌが静かに尋ねる。
「謝られなくて、よろしかったのですか?」
「昨日、お父様とお話をしましたでしょう?」
「はい」
「わたくしが謝りたい時に謝ったからといって、それで昔のことが終わるわけではありませんもの。それに、あの方が何を思っているのかを確かめないまま謝罪を押しつければ、結局また自分の都合になってしまいますわ」
ミレーヌは少し考えてから頷いた。
「では、どうなさるのですか?」
「それはまだ分かりません。ただ、少なくとも、あの方がわたくしを怒らせないために仕事の仕方を変える必要がないようにはしたいです。危ない時に止めるのは、あの方のお仕事として間違っていなかったのでしょう?」
「はい」
「でしたら、まずそこからですわ」
信頼は、謝罪の一言で元に戻るものではない。
壊す時には一瞬でも、戻すには時間がかかる。
それなら今日から、以前とは違う反応を一つずつ積み重ねていくしかないのだと思う。
その結果、いつか相手の方から普通に話してくれるようになれば、その時に改めて過去について言葉を交わせばいい。
急いで自分だけ楽になる必要はない。
◇
夕方、自室へ戻ると、机の上に見覚えのない封書が置かれていた。
「これは?」
「先ほど王宮より届けられました」
ミレーヌが答える。
「王宮から?」
封蝋には王家の紋章が刻まれている。
王宮から五歳児宛てに正式な手紙が届くという状況にはまだ慣れないが、送り主については何となく予想がついた。
封を開き、ゆっくり文字を追う。
この世界の文章を読む速度はまだ前世ほど速くないので、内容を正確に掴むまで何度か読み返す必要があった。
書かれていたのは、先日の顔合わせへの礼と、王太子アレクシスからの招待だった。
以前話した通り、自分が仔馬へ乗るところを見に来ないか、と。
思わず口元が緩む。
「本当に誘ってきましたわ」
「何のお話でございますか?」
「王太子殿下です。この前、仔馬へ乗れるところを見せてくださると仰っていましたでしょう? どうやら覚えていらしたみたいです」
「まあ。それでは、また王宮へ?」
ミレーヌの声にも少しだけ興味が混じる。
「そうなるでしょうね」
「お受けになりますか?」
尋ねられ、俺は手紙をもう一度見た。
数日前の俺なら、王太子からの招待状を前にすれば、まず原作のことを考えていただろう。
王太子は主要攻略対象であり、元のヴェルシアナが最も強く執着した相手で、その関係が彼女を破滅へ近づけた最大の要因の一つでもある。だから必要以上に近づかず、できるだけ関わらない方が安全なのだと考えていた。
その判断自体が間違っていたとは思わない。
知らない世界へ放り込まれ、処刑されるかもしれないと知った直後なら、危険な人物や出来事から距離を取ろうとするのは当然だ。
けれど、実際にアレクシスと会って話してみたことで、少なくとも今の彼については知っていることが増えた。
真面目で、少し意地っ張りで、木剣の稽古を楽しみにしていて、豆を嫌い、父親へ自分の意見を伝えることには少し緊張している。
そういう細かな部分を知ったあとでは、彼を「原作の攻略対象」という一つの役割だけで見ることが、以前より難しくなっている。
そして、それは悪い変化ではないと思った。
「お受けしますわ」
手紙を閉じながら答える。
「一度見てみたいと思っていましたもの。それに、殿下ご自身が約束を覚えてくださっていたのですから、断る理由もありませんわ」
「では、奥様へお伝えしてまいります」
「お願いします」
ミレーヌが部屋を出たあとも、俺はしばらく封書を手にしたまま考えていた。
昔のヴェルシアナについて調べれば調べるほど、人間は最初から完成された性格を持って生きているわけではないのだと感じるようになった。
元のヴェルシアナは、最初から身分の低い人間を嫌っていたわけではなかった可能性がある。
領地では、普通に子供たちと遊びたがっていた。
けれど公爵令嬢だと知られたことで距離を置かれ、その寂しさをどう受け止めればいいのか分からなかった。
そこへ誰かの言葉や、両親の愛情や、公爵家という環境が何年も積み重なり、やがて原作で見たヴェルシアナへ変わっていった。
それならアレクシスだって同じだ。
ゲームで俺が知っているのは十五歳になった王太子であって、今の彼はまだ、その人間になる途中にいる。
ミレーヌも、リュネアも、そして今ここにいる俺自身も、それぞれこれから出会う人や選ぶ言葉によって少しずつ形を変えていくのだろう。
だからこそ、原作でこうなるからという理由だけで、今の誰かを最初から決めつけることはしたくなかった。
原作知識は間違いなく武器になる。
将来起きる可能性のある事件を知り、危険な人物や選択肢へ備えられるという点では、これ以上ないほど大きな優位性だ。
しかし、その知識を絶対的な答えとして扱えば、今目の前にいる人間を見ずに、十五歳になった時の役割だけで判断することになる。
それでは、ナディアが「公爵令嬢なのだからこうあるべき」「王太子なのだからこの方が相応しい」と役割から人を決めていたことと、どこか似てしまう。
俺はそれを避けたい。
自分の目で見て、自分の耳で聞き、その上で判断する。
そして判断を間違えたなら、そこで意地を張らずに直す。
最近は何度も同じ結論へ戻ってきている気がするが、それはきっと、この世界で生きる上で自分が最も忘れてはいけないことだからなのだろう。
机の上には、元のヴェルシアナについて書き留めた練習帳と、今のアレクシスから届いた手紙が並んでいる。
一方には、自分が知らなかった過去がある。
もう一方には、原作には存在しなかったこれからの約束がある。
その二つを眺めていると、不思議な気分になった。
俺はこの世界へ来た当初、十年後に待っている破滅を避けるため、未来だけを見ていた。
けれど今は、過去を知ることにも、今日誰かと話すことにも、その未来を変える意味があると少しずつ分かり始めている。
王太子との次の約束が何を変えるのかは分からない。
もしかすると何も変わらないかもしれないし、俺が知らないところで小さな違いが生まれるのかもしれない。
それでも、今の俺はその不確かさを以前ほど恐れてはいなかった。
婚約も、友情も、十年後の人間関係も、そしてヴェルシアナ・アルセリード自身がどんな人物になるのかも、まだ完成していない。
完成していないということは、不安定だということでもある。
同時に、それはこれから選べる余地が残されているということでもあった。
王家の紋章が刻まれた封書を丁寧に畳みながら、俺は次にアレクシスと会う日を、以前のような警戒だけではなく、ほんの少しの楽しみと一緒に待ってみようと思った。




