第10話 優しさの中に、答えはない
ナディアから昔の自分について話を聞こうと決めたものの、翌日になってすぐに何かが分かるほど物事は単純ではなかった。
彼女はいつも通り朝の支度が終わった頃に部屋へ顔を出し、体調や授業の予定を確認したあと、昨夜の約束を覚えていたらしく、穏やかな笑みを浮かべながら「お時間がございます時に、いくらでもお話しいたします」と言った。
その態度だけを見れば、後ろ暗いものがある人間には到底見えない。
俺が過去を知りたがっていることを嫌がる様子もなければ、話題を避ける様子もない。むしろ、自分だけが知っている幼いヴェルシアナの思い出を語れることを、少し嬉しそうにすらしている。
だからこそ、ますます分からなくなる。
ナディアは本当に何かを企んでいるのか。それとも俺が、彼女の価値観の偏りを悪意と結びつけすぎているだけなのか。
父が過去の報告書を確認した結果、明確な嘘は見つからなかった。
その一方で、ヴェルシアナの非は柔らかく、相手側の問題は強く書かれる傾向があったことも事実であり、さらにセレグラン男爵が正式な来客記録を残さず屋敷内へ入っていたという、これまでとは違う種類の違和感もある。
どちらか一つだけなら、説明はできる。
ナディアがただ過保護な教育係なのであれば、報告の偏りは理解できるし、兄との秘密めいた面会も家族の事情だった可能性はある。
逆に彼女に何か目的があるのなら、これまでの行動の多くが一つの線で繋がって見える。
問題は、今の俺にはそのどちらなのかを判断できる材料が足りないことだった。
「お嬢様、手が止まっております」
声に顔を上げると、向かいに座った歴史教師がこちらを見ていた。
「申し訳ありません」
「体調がお悪いのであれば、本日はここまでにいたしますが」
「いいえ。少し考え事をしていただけですわ」
「授業中の考え事は、授業が終わってからなさってください」
「……はい」
もっともだ。
以前のヴェルシアナであれば、ここで機嫌を損ねていたのだろうか。
そう考えた瞬間、自分でも少し可笑しくなった。
最近は何か注意されるたびに、「昔の自分ならどうしていたのだろう」と考える癖がついている。
反省すること自体は悪くないが、何でも過去と比較していては今を生きられない。
教師が開いた本へ視線を戻し、俺は改めて説明へ意識を集中させた。
◇
午後になると、予定通りナディアと二人で話す時間が設けられた。
場所は俺の自室ではなく、日当たりの良い小さな居間だった。
窓辺には淡い色の花が生けられ、卓上には焼き菓子と果実茶が用意されている。聞き取り調査という雰囲気には到底見えず、傍から見れば、長く仕えてきた教育係が主人の娘へ昔話を聞かせるだけの穏やかな時間だろう。
俺自身も、できるだけそのつもりで話すことにした。
最初から相手を尋問するような態度を取れば、聞けるものまで聞けなくなる。
「昔のわたくしは、どんな子供でしたの?」
最初の問いを投げると、ナディアは懐かしいものを見るように目を細めた。
「それはもう、愛らしいお子様でございました。旦那様も奥様も、お嬢様がお生まれになった日は大変お喜びになっておられましたわ」
「ナディアは、その頃からこの家に?」
「はい。ただ、今のようにお嬢様の教育へ深く関わるようになったのは、もう少し後でございます」
「いつ頃ですの?」
「お嬢様が二歳になられた頃でしょうか。その頃から、奥様のお手伝いをする形でお側へ付く機会が増えました」
二歳。
思っていたより早い。
「どんな子でした?」
「好奇心がお強く、気になるものがあればすぐに手を伸ばされるお子様でした。お庭へ出れば花を摘みたがり、厨房へ行けば見たことのない果物へ興味を示し、旦那様の書斎へ入り込んでは机の上の紙を触ろうとなさっていました」
少し意外だった。
ゲームの中で見たヴェルシアナは、幼い頃から気位が高く、周囲を見下していたかのように語られていた。
けれどナディアが話している二歳の少女は、どこにでもいそうな好奇心の強い子供にしか聞こえない。
「その頃から、よく怒っていましたの?」
「いいえ」
答えは予想以上に早かった。
「もちろん、小さなお子様でしたので、思い通りにならなければ泣かれることはございました。ただ、それは他のお子様と大きく変わらなかったと思います」
俺はカップへ手を伸ばしながら、なるべく表情を変えないようにした。
やはり。
最初からああだったわけではない。
「では、いつ頃から変わったの?」
尋ねると、ナディアの指先がほんの少し止まった。
「変わった、と申しますと?」
「皆さんが、以前のわたくしはよく怒っていたと仰いますもの。最初からそうではなかったのでしたら、いつ頃からだったのかと思いまして」
ナディアはしばらく考えた。
「お嬢様は、とても聡明なお子様でございましたから」
出てきた答えは、質問へ直接答えるものではなかった。
「他のお子様より物覚えが早く、言葉を話されるのも早かった。そのため周囲の大人たちも、お嬢様へ大きな期待を寄せていたのでございます」
「期待?」
「はい。アルセリード公爵家のご令嬢であるだけでも特別なお立場ですのに、お嬢様は幼い頃から魔力の反応も強く、容姿にも大変恵まれておられました。旦那様も奥様も、それはもう誇らしく思っていらしたことでしょう」
言っていることは分かる。
ただ、その説明の中で、また一つ引っかかる。
俺が「いつから怒りやすくなったのか」と聞いたのに、ナディアは「どれほど優秀だったのか」を語っている。
「でも、それと怒ることは別でしょう?」
少しだけ踏み込んでみる。
「もちろんでございます。ただ、優れたお子様というものは、周囲も扱いに気を遣うものでございますから」
「どういう意味ですの?」
「間違った叱り方をすれば、自信を損ねてしまうこともございます。それに、凡庸なお子様と同じ基準でお嬢様を扱うことが、必ずしも正しいとは限りません」
さらりと出てきた。
おそらく彼女にとっては、ずっと当たり前だった考えなのだろう。
「ナディアは、昔からそう思っていたの?」
「はい」
「わたくしが間違った時も?」
問いかけると、彼女は少しだけ首を傾げた。
「間違いには、いろいろございますから」
「たとえば?」
「礼法の細かな失敗や、学問の答えを誤ることと、お嬢様の価値そのものは別でございます。ですから、そのようなことで自信を失われる必要はないと申し上げておりました」
そこだけ聞けば悪くない。
むしろ子供への接し方として、正しい部分すらある。
失敗したからといって、人間そのものが駄目になるわけではない。
俺だってそう思う。
問題は、その次だった。
「では、誰かに怒った時は?」
ナディアの目がこちらを見る。
「お嬢様が怒られるには、何か理由があると考えておりました」
「わたくしの方が悪いことは?」
「もちろん、まったくないとは申しません」
否定しなかった。
少し意外だった。
「では、そういう時はどうしていましたの?」
「お嬢様が落ち着かれるまでお側にいて、なぜお怒りになったのかをお聞きしておりました」
「そのあと?」
「必要があれば、相手にも事情を確認いたしました」
随分まともに聞こえる。
しかし、今まで聞いてきた話とは少し印象が違う。
「薔薇の庭師の時も?」
ナディアの表情が僅かに変わった。
「そのお話を、どなたから?」
「ミレーヌやグレンから聞きましたわ」
父の書斎で何を確認したかまでは言わない。
ナディアは少しだけ沈黙し、それから頷いた。
「左様でございましたか。あの時は、お嬢様が大変驚かれましたので」
「わたくしは、庭師に危ないから止められただけだったのでしょう?」
「はい。ただ、お嬢様は強い口調で止められたことに驚き、泣いてしまわれました」
初めて聞く情報だった。
「泣いたの?」
「ええ。まだお小さかったですから」
なるほど。
ミレーヌから聞いた話では、俺が怒り、ナディアが庭師へ謝罪させたという部分だけだった。
実際には、その前に子供が大声で止められて驚き、泣いたという流れがあったらしい。
「それで、庭師に謝らせたの?」
「お嬢様を驚かせたことについて、一言お詫びするようお願いしただけでございます」
また、完全におかしいとは言い切れない。
けれど俺は、もう一歩先を尋ねる。
「わたくしには、庭師が正しかったとは言わなかったの?」
ナディアが初めて、はっきりと言葉を止めた。
「……棘が危険だったことは、ご説明したかと」
「では、止めてくれたことは?」
沈黙が少し長くなる。
「お嬢様が落ち着いてから、お話しするつもりでございました」
「実際には?」
「……詳しくは、覚えておりません」
そこで、今までとは違う感覚があった。
嘘だとは断定できない。
何年も前の細かな会話を覚えていないことは普通だ。
ただ、もし説明していなかったのだとしたら、やはり問題の形は見えてくる。
泣いた子供を慰める。
それ自体は悪くない。
相手にも事情を確認する。
それも正しい。
けれど最後に、「庭師はあなたを守るために止めた」と教えなければ、子供には別の部分だけが残る。
怖かった。
泣いた。
相手が謝った。
自分を泣かせた側が悪かった。
その積み重ねが何年も続けば、自分の感情そのものを正しさと勘違いするようになっても不思議ではない。
「髪飾りを壊した侍女の時は?」
俺はさらに尋ねた。
「その件まで、お聞きになったのでございますね」
「ええ。わたくしが『二度と顔を見せないで』と言って、その方が北棟へ移ったと」
ナディアの表情は崩れなかった。
「お嬢様が大切になさっていた髪飾りでございましたから」
「誰からいただいたものだったの?」
「奥様からでございます。お嬢様のお誕生日に贈られた品でした」
それなら、怒る気持ちは分からなくもない。
五歳にも満たない子供が、母親からもらった大切な髪飾りを壊されれば、感情的になるのは珍しくないだろう。
「わざと壊されたの?」
「いいえ」
「では、わたくしにはそう説明した?」
また、僅かな間があった。
「本人も大変反省しておりましたので」
「ナディア」
なるべく責める声にならないように名前を呼ぶ。
「わたくしが怒った時、その人が悪くなかった可能性を、ちゃんと教えてくれていましたの?」
ナディアの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。
「お嬢様は、どうしてそのようなことをお尋ねになるのでございますか?」
「知りたいからですわ」
「過去を?」
「はい」
「今のお嬢様は、もう十分にお変わりになられました。昔の細かなことまで気になさらなくても――」
「でも、わたくしがどうして変わったのかを知りたいのです」
そこで初めて。
ナディアは完全に黙った。
俺も急かさなかった。
窓の外から風が入り、薄いカーテンがゆっくり揺れる。
卓上の茶から上っていた湯気は、もうほとんど見えなくなっていた。
「……変わられた理由、でございますか」
「ええ。今のわたくしになる前のわたくしが、どうやって皆さんから怖がられるようになったのかを知りたいのです」
「お嬢様は、悪いお子様ではございませんでした」
ナディアの答えは、思っていたより強かった。
「今も、そう思っております」
「では、どうして皆さんは怖がったの?」
「周囲が、お嬢様というお方を理解できなかったからではございませんか」
その答えを聞いた瞬間、胸の中で何かが静かに噛み合った。
この人は今も同じなのだ。
ヴェルシアナが悪かった可能性を、最後まで中心へ置かない。
「理解できなかった?」
「お嬢様は、お気持ちをはっきりと表される方でございました。嫌なものを嫌だと言い、望まれることも隠さない。ですが、そのような強さを持たない方からすれば、怖く見えることもあるのでしょう」
「相手を傷つけても?」
「お嬢様には、そのおつもりはなかったはずでございます」
「でも、傷ついたかどうかは相手が決めることでしょう?」
ナディアが俺を見る。
ほんの少しだけ、目の奥に硬いものが浮かんだ。
「お嬢様は、随分と他人のお気持ちを気になさるようになりましたね」
「悪いことですの?」
「いいえ。ただ、お嬢様ほどのお立場の方が、すべての者の感情へ配慮していては、ご自身がお疲れになってしまいます」
その言葉も、完全に間違いではない。
すべての人間へ気を遣い続けることなどできない。
誰にも嫌われない人生なんて、たぶん無理だ。
けれど、今話しているのはそこではない。
「全員に好かれたいわけではありませんわ」
「では?」
「自分が悪かった時くらい、自分が悪かったと分かりたいだけです」
ナディアは何も言わなかった。
俺も、それ以上追及しなかった。
この会話だけで、彼女が何者なのかを決めるつもりはない。
けれど一つだけ、以前よりはっきりしたことがある。
ナディアは、ヴェルシアナを嫌っていなかった。
少なくとも、俺にはそう見えた。
むしろ逆なのかもしれない。
彼女はヴェルシアナを、本当に特別な存在だと思っている。
だからこそ、傷つけたくない。
否定したくない。
失敗したという感覚すら、できるだけ持たせたくない。
もしそれが本心なのだとしたら、彼女がしてきたことは単純な悪意より、ずっと厄介だった。
愛情と甘やかしは、外から見ればよく似ている。
守ることと、成長する機会を奪うことも、最初の瞬間にはほとんど同じ顔をしている。
「ナディア」
「はい」
「わたくしが、今よりもっと嫌な子供になっても、それでもわたくしは悪くないと言いますの?」
彼女はしばらく俺を見つめたあと、静かに微笑んだ。
「わたくしは、お嬢様のお味方でございます」
答えになっていない。
しかし、おそらく彼女にとっては、それが答えなのだろう。
「そう」
俺はそれ以上何も言わず、冷めかけた果実茶へ口をつけた。
◇
ナディアとの話を終えたあと、俺はしばらく一人になりたいとミレーヌへ伝えた。
彼女は少し心配そうにこちらを見たものの、何も尋ねず、「何かございましたらすぐお呼びください」とだけ言って部屋を出ていった。
ありがたい。
友達になったからといって、何でも聞こうとしないところも、彼女らしいと思う。
机へ座り、いつもの練習帳を開く。
以前書いた記録の続きへ、今日聞いたことをゆっくり書き加えていく。
ナディアは二歳頃から側にいた。
幼いヴェルシアナは、最初から怒りっぽかったわけではない。
好奇心が強かった。
魔力や物覚えを褒められていた。
周囲から特別扱いされていた。
薔薇の件では、大声で止められて泣いていた。
髪飾りは、母からもらった大切なものだった。
ここまで書いて、一度筆を止める。
今日知ったことは、元のヴェルシアナにとって都合のいい情報でもある。
彼女が怒った理由には、それなりの背景があった。
庭師に驚かされて泣いた。
母からもらった大切な髪飾りを壊された。
何もないところから突然人を虐げていたわけではない。
ただし、それによってその後の行動まで正当化されるわけではない。
泣いたから相手を排除していいわけではないし、大切な物を壊されたから「二度と顔を見せるな」と言っていいわけでもない。
理由と免罪は違う。
その区別を、ナディアはほとんどヴェルシアナへ教えなかったのかもしれない。
紙の端へ、短い言葉ではなく、自分への確認として一文を書く。
『嫌だった理由があっても、その後に何をしてもいい理由にはならない。』
書き終えて、しばらくその文字を眺めた。
元のヴェルシアナは、いつから「自分が傷ついたのだから、相手が悪い」と考えるようになったのだろう。
もしかすると、最初からそう考えていたわけではなかったのかもしれない。
泣けば母が抱きしめてくれる。
父が原因を取り除いてくれる。
ナディアが「お嬢様は悪くありません」と言ってくれる。
周囲が自分を守ろうとしてくれるたびに、本人だけが「自分にも直すべきところがあった」と知る機会を失っていった。
それが一度や二度なら、大したことではなかったはずだ。
しかし二歳から三歳、三歳から四歳、そして五歳へと、同じような経験が何十回も積み重なっていけば、子供にとってそれは世界の仕組みになる。
自分が不快なら、誰かが悪い。
自分が泣けば、周囲が動く。
嫌だと言えば、目の前からなくなる。
そして自分は特別だから、それでいい。
そうして出来上がった少女が、十五歳になって初めて「あなたの望みは通らない」と突きつけられたらどうなるのか。
王太子が自分ではない少女を見る。
周囲の友人が離れる。
自分の言葉が以前のようには通らなくなる。
その時、それまで十年以上かけて教えられてきた世界の仕組みそのものが壊れる。
原作のヴェルシアナがヒロインへ抱いた感情は、単なる嫉妬だけではなかったのかもしれない。
彼女にとっては、自分に与えられるはずだったものが奪われたのではなく、ずっと正しいと信じてきた世界そのものを否定されたような感覚だった可能性がある。
もちろん、それでも他人を傷つけていい理由にはならない。
ただ、少しだけ理解はできる。
理解することと、許すこともまた別だ。
最近は、似ているようで違うものばかり増えていく。
守ることと甘やかすこと。
理由があることと正しいこと。
理解することと許すこと。
自分で決めることと、一人ですべてを抱えること。
どうやら人生は、乙女ゲームの選択肢ほど分かりやすくできていないらしい。
だからこそ、今度は間違えた時に気づけるようにしておかなければならない。
◇
夕食の席で、俺は父と母へ一つだけ質問をした。
「お母様」
「なあに?」
「わたくしがもっと小さかった頃、よく泣いていましたの?」
母は意外そうに目を瞬かせたあと、すぐに懐かしそうに笑った。
「もちろんよ。あなた、とてもよく泣いたわ」
「ナディアは、あまり泣かない子だったように話していましたけれど」
「まあ、ナディアったら。あの人は昔からあなたを褒めすぎなのよ」
母は楽しそうに笑う。
俺は思わず父を見る。
レオルディスも僅かに口元を緩めていた。
「どんな時に泣いていましたの?」
「たくさんあったわよ。転んでも泣いたし、雷が鳴っても泣いたし、お父様が三日ほど領地へ出られた時なんて、帰ってくるまで毎晩ご機嫌が悪かったもの」
「……お父様がいなくて?」
「ああ」
父が答える。
「帰った日は、玄関まで走ってきた」
想像できない。
原作の高慢な悪役令嬢が、父親の帰宅を待ちきれず玄関へ走っていく姿など、ゲームのどこにもなかった。
「抱っこしていただくまで離れなかったのよ」
「お母様」
「本当のことでしょう?」
「……そうだな」
父まで否定しない。
何だか俺の方が恥ずかしくなってくる。
自分の記憶ではないのに妙な気分だ。
「では、昔のわたくしは、お父様とお母様のことが好きだったのですね」
何気なく口にした瞬間、二人の表情が少しだけ変わった。
「今は違うのか?」
父が尋ねる。
「そういう意味ではありませんわ」
慌てて否定する。
自分でも、最近はこの二人にかなり情が移っている。
最初はゲームの登場人物だった。
次は、転生先の知らない両親だった。
今は少しずつ、俺自身の父と母として見始めている。
「ただ、原……」
危ない。
原作と言いかけた。
「以前のわたくしのお話を聞いていると、何だか知らない子のお話を聞いているような気がして」
言い直す。
母が少し心配そうな顔になった。
「熱を出した時のことが、やはりまだ曖昧なの?」
「少しだけ。でも、嫌な感じではありませんわ。知らなかった自分を教えていただいているようで、面白いです」
「それなら、いくらでもお話しするわ」
「お母様は、昔のわたくしが我儘を言った時、どうしていましたの?」
今度は少し本題へ近づける。
セレフィアは困ったように笑った。
「最初はなだめていたわ。でも、あなたが泣いてしまうと、どうしても可哀想になってしまって」
「欲しいものを買ってくださった?」
「……時々は」
「嫌なものをなくしてくださった?」
「……それも、時々は」
父が母を見る。
「時々ではなかっただろう」
「あなたに言われたくありませんわ。あなたこそ、娘に頼まれたら何でも手配していたでしょう?」
「必要があると判断したものだけだ」
「銀鳥を見たいと言われて、領地からわざわざ連れてこさせたのは誰でしたかしら」
「……あれは教育上有益だと思った」
苦しい。
父の言い訳がかなり苦しい。
思わず笑うと、二人がこちらを見る。
「何がおかしい」
「いいえ。お父様も、お母様も、わたくしをとても甘やかしていたのだと思いまして」
言うと、二人とも黙った。
怒るかと思ったが、母はしばらくして苦笑した。
「否定はできませんわね」
「お父様も?」
「……必要以上に望みを叶えたことはある」
認めるらしい。
「どうして?」
母は少し驚いた顔をした。
「可愛かったからよ」
あまりにも単純な答えだった。
けれど、たぶんそれが本当なのだろう。
「あなたが嬉しそうに笑うと、こちらまで嬉しかったの。泣いていれば悲しかったし、嫌がるものがあるなら遠ざけてあげたかった。それがあなたのためだと思っていたわ」
母の声に、嘘は感じなかった。
父も何も否定しない。
胸の中で、また一つ形が繋がっていく。
ナディアだけではない。
やはり、この家全体だった。
誰もヴェルシアナを壊したいと思っていたわけではない。
むしろ逆だ。
大切だった。
愛されていた。
傷ついてほしくなかった。
だから、痛みを取り除いた。
失敗を柔らかく包んだ。
嫌なものを遠ざけた。
しかし子供が成長するために必要な不快感まで全部取り除けば、その子はいつか、不快なことが存在する世界そのものへ耐えられなくなる。
「お母様」
「なあに?」
「これからは、わたくしが泣いても、全部わたくしの望み通りにしなくて構いませんわ」
母が目を瞬かせた。
「急にどうしたの?」
「わたくしが泣いていることと、わたくしが正しいことは別だと思いますので」
父がこちらを見る。
母も、しばらく何も言わなかった。
「でも」
セレフィアが少し寂しそうに笑う。
「泣いていたら、抱きしめるくらいはしてもいいでしょう?」
その言葉に、胸の奥が柔らかくなる。
「それは、お願いしますわ」
「良かった」
母は安心したように笑った。
その姿を見ながら、俺はようやく少し理解した気がした。
優しさそのものが悪かったわけではない。
父や母が娘を愛したことも、ナディアが彼女の味方であろうとしたことも、少なくとも始まりの部分では間違いではなかったのだろう。
ただ、優しさの中に答えまで入れてしまったことが問題だった。
泣いたからあなたは正しい。
傷ついたから相手が悪い。
特別だから間違えない。
好きなものだけを選べばいい。
そういう答えまで一緒に与えられた結果、ヴェルシアナは自分で考える必要を失っていった。
ならば、今の俺が欲しいものは少し違う。
泣いた時に抱きしめてくれる人は欲しい。
失敗した時に見捨てない人も欲しい。
けれど同時に、間違っている時には間違っていると言ってくれる人も必要だ。
そのどちらか一方だけでは、たぶん駄目なのだ。
以前のヴェルシアナは、優しくされすぎたのかもしれない。
けれど、それは決して幸せと同じ意味ではなかった。
◇
その日の夜、眠る前にミレーヌがカーテンを閉じながら、不意にこちらを振り返った。
「お嬢様」
「何ですの?」
「本日、旦那様からお話がございました」
「お勉強について?」
「いいえ。別のお話でございます」
いつもより少し真剣な声だった。
「わたくしが、王立セレナディア学園へ進む可能性についてです」
予想していなかった名前に、俺は思わず彼女を見る。
「学園?」
「はい。今すぐではございません。まだ何年も先のお話ですが、勉強を続け、一定の成績を収めることができれば、将来的に受験を考えてもよいと仰っていただきました」
胸の中で何かが動いた。
王立セレナディア学園。
十年後。
俺がヒロインや攻略対象たちと出会う、ゲーム本編の舞台。
そこへ、ミレーヌも進む可能性が生まれた。
「どうしたいの?」
俺はすぐに答えを勧めず、彼女へ尋ねた。
ミレーヌは少しだけ迷ったあと、以前よりずっとはっきりした声で答える。
「行けるのでしたら、行ってみたいです」
「そう」
思わず笑う。
「でしたら、頑張らないといけませんわね」
「はい」
「わたくしも、たぶん同じ学園へ行きますもの」
「お嬢様も?」
「公爵令嬢なら、ほとんど決まっているのでしょう?」
「おそらくは」
「では、先に行って待っていてくださいな」
ミレーヌは少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「はい」
その返事を聞きながら、俺は十年後の景色を初めて少し違う形で想像した。
これまで王立セレナディア学園と聞けば、破滅の始まりしか思い浮かばなかった。
ヒロインが入学し、攻略対象が集まり、ヴェルシアナが嫉妬に狂い、原作が動き出す場所。
できることなら近づきたくないと思っていた。
けれど、その場所にミレーヌがいる未来を想像すると、ほんの少しだけ印象が変わる。
リュネアもいるかもしれない。
アレクシスとも、今とは違う関係になっているかもしれない。
十年後の世界は、もうゲームの中で見たものと同じではなくなり始めている。
それは不安でもある。
同時に、初めて少しだけ楽しみでもあった。
未来を変えるということは、破滅の出来事を一つずつ消していくことだと思っていた。
けれど本当は、そこへ存在しなかったものを増やしていくことでもあるのかもしれない。
友達。
信じられる大人。
自分で選んだ勉強。
まだ名前のついていない、新しい関係。
そういうものを十年かけて積み重ねていけば、たとえ原作の出来事がどこかで再び姿を現したとしても、その時の俺はもう、ゲームの中で孤立していたヴェルシアナと同じではないだろう。
そう思える未来なら、少しくらい楽しみにしてもいい。
眠りにつく直前、俺は初めて、十年後という言葉を「破滅までの残り時間」ではなく、「これから生きる時間」として考えていた。




